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September 2012 の投稿一覧です。
*メールマガジン「おおや通信 91」 2012年9月14日


 この夏、伊豆半島で開かれたセミナーで、天皇陛下の心臓バイパス手術を執刀した天野篤(あつし)・順天堂大教授の話を聞く機会があった。

 心臓の冠動脈のバイパス手術は、麻酔で心臓の動きを止め、人工心肺を使って行うことが多い。心臓が動いている状態では太さ数ミリの血管を縫い合わせるのは至難の技だからだ。天野さんはその「至難の技」に挑み続けてきた。病院で寝泊まりし、自宅にはほとんど帰らなかった。家族には「父親はいないもの、夫はいないものと思ってくれ」と言っていたという。

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伊豆半島のセミナー会場の近くで出合った野生の鹿

 順風満帆の人生を歩んできた人ではない。進学校に入ったものの成績は中くらい。3浪して日大医学部に合格した。病院の勤務医として現場で腕を磨き、心臓血管外科の頂点に上りつめた人だ。「偏差値エリートを集めても勝負には勝てない。知識と経験をいかにして統合するかが大事だ。この世の中では、偏差値50前後の人間が大切」と言う。

 教育の世界では、いまだに偏差値が幅を利かせている。個々の生徒や学校全体の学習の到達度を測る尺度として、偏差値は重要である。だが、あくまでも「重要な尺度の一つ」でしかない。

 「そんなきれい事はたくさんだ。世間は結局、有名校への進学数でしか評価してくれないではないか」と反論されそうだ。確かにそういう現実がある。だから、偏差値を片手に教育長が校長を締めあげ、校長が教師を責め立てるような自治体も出てくるのだろう。

 だが、天野教授は「例外中の例外」なのだろうか。そうではあるまい。長く生きていれば、人間には偏差値に劣らないくらい重要な尺度がいくつもあることを肌で知るようになる。時代の流れが変わる時、価値の尺度もまた大きく変わる。あの大震災から1年半。流れは間違いなく、変わりつつある。

 *9月14日付の朝日新聞山形県版のコラム「学びの庭から」(6)
見出しと改行は紙面とは異なります。






*メールマガジン「おおや通信 90」 2012年9月3日


 5月18日の「おおや通信82」でお伝えした通り、今年は大谷小学校の子どもたちに「いのち」をテーマにして、一連の校長講話をしています。毎月一度、わずか15分間の話ですが、1年生から6年生まで全員が分かるように話すのは容易なことではありません。もちろん、子どもだましの話でお茶を濁すわけにはいきません。

 というわけで、校長として話をする前には、必ず山形県立図書館に行って本をあさり、ネットでも十分に調べることにしています。講話は4月の「いのちと地球」から5月の「いのちと太陽」、6月「いのちと水」、7月「いのちと土」と続いていますが、いつも頭から離れないのは「生命はどのようにして生まれたのか」「進化を決定づけるものは何か」という根源的な疑問です。

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カナダのバージェスで発見された奇妙な動物マルレラ Marrella の復元図

 これらの問題については、ハーバード大学の古生物学者、スティーヴン・ジェイ・グールド教授が1989年に出版した『ワンダフル・ライフ』(邦訳は1993年、早川書房)という本が有名です。この本は、恐竜が生きていた時代よりずっと古い時代の地層から発見された膨大な数の化石群を扱ったものです。カナディアン・ロッキーのバージェスという場所から発見されたカンブリア紀(5億4200万年前?4億8830万年前)の化石群で「バージェス頁岩(けつがん)動物群」と呼ばれています。

 グールド教授は、カンブリア紀に生物の爆発的な進化が起き、現代につながる動物の先祖のすべてがすでにこの時代には登場していたこと、しかもそのうちのかなりの動物がその後、絶滅したことを指摘しました。生物の大量絶滅は地球上で何度も起きていることも力説しています。そして最後に、ナメクジのような「ピカイア」という脊索(せきさく)動物を紹介し、これが人間を含むすべての脊椎動物の先祖である可能性を示唆して世界的なセンセーションを巻き起こしました。

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古生物の化石群があることで澄江は世界自然遺産に登録されました

 古生物に関する私の知識は19年前に読んだこの本で止まっていたのですが、今回、小学校で話すにあたって、その後の研究の進展状況を調べてみました。その結果、中国雲南省の澄江(チェンジャン)でもカンブリア紀の動物の化石が大量に見つかり、それまでの説を覆すような発見が相次いでいることを知りました(宇佐見義之著、技術評論社『カンブリア爆発の謎』を参照)。

 また、「古生物学界の教皇」と呼ばれたグールド教授に対抗するように、大英自然史博物館の古生物学者、リチャード・フォーティ氏が1997年に『ライフ』(邦題は『生命40億年全史』、2003年に草思社刊)を出版し、生命の起源に関する壮大な物語を展開していることも知りました。

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英国の古生物学者リチャード・フォーティ氏 Richard Fortey

 この本は、地球上に最初に誕生した生命は長さ数千分の1ミリの細菌であろうと考えられること、しかも、当時の地球の大気には酸素はなく、水素と二酸化炭素を利用して生きるメタン生成細菌と考えられる、と述べています。つまり、地球上で今生きている生物の中でこの「生命の元祖」にもっとも近いのは、光も届かず酸素もない深海の熱水鉱床の噴き出し口で生きている細菌だろうということです。

 地球で生まれた小さな細菌が長い時を経て大いなる進化を遂げ、やがて人間を含む多様な生物を生み出すに至るまでの気が遠くなるような長い物語に触れ、地球と生命に関する英米の分厚い知の蓄積に圧倒される思いでした。グールド教授のベストセラー『ワンダフル・ライフ』もすごい本ですが、このフォーティ氏の『生命40億年全史』は一人の研究者の物語としても読み応えがあります。時間に余裕のある方には、ぜひ一読をお薦めします(時間が足りない方には、宇佐美義之氏のコンパクトな『カンブリア爆発の謎』がお薦めです)。

 最近、NHKがドキュメンタリー番組で「生命は隕石に乗って火星から飛来した」という新説を紹介していましたが、その場合でも「では、火星のどういう環境の下で生命は誕生したのか」という疑問が残ります。そして、やはり「酸素もない環境で誕生した細菌こそ生命の起源」という物語が語られるのかもしれません。

 これらの本の内容は、小学校での15分間の講話ではとても語れませんが、せめてその香りだけでも伝えたいと考えています。9月の校長講話のテーマは「土とミミズ」の予定です。ミミズの研究に40年の歳月を費やしたというチャールズ・ダーウィンのことに触れつつ、ミミズの不思議を語るつもりです。





*メールマガジン「おおや通信 89」2012年8月30日


 教育現場への風当たりが強い。大津市で起きた中学生の自殺事件についての市教育長と中学校長の不誠実な対応によって、現場への非難はピークに達した感がある。

 一人の人間が13歳という若さで自ら命を絶った、という事実は重い。学校で何があったのか。それが自殺とどのようにかかわっていたのか。どんなにつらくても、関係者は事実を正面から受けとめ、見つめなければならない。それは教育者というより、一人の人間としてなさねばならぬことである。報道を通して伝えられる市教育長と中学校長の言動からは、その覚悟が感じられない。命が失われたことへの「畏(おそ)れ」がうかがえない。

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 警察が強制捜査に乗り出したことについて「教育の問題に警察が介入するのはいかがなものか」と異論を差し挟む人がいる。おかしな論理である。「いじめ」がエスカレートすれば、ある段階からそれは暴行、傷害、恐喝といった犯罪に転じる。学校が対処できるうちは警察は控えていればいいが、その範囲を超えれば刑事事件として捜査するのは当然のことだ。

 「生徒が動揺する」と言う人もいる。その通りだろう。しかし、事実を隠蔽し、あいまいにすれば動揺は収まるのか。大人たちが苦悩する姿を見せる。そして、何が起きたのか可能な限り明らかにする。激しい心の揺れを静めるためには、そうするしかないのではないか。

 大きな事件が一つの小さな過ちによって起きることは、まずない。過ちに過ちが重なり、さらに重大な判断ミスが折り重なった時に、噴き出すものだ。大津市の事件もそうしたケースと考えるべきであり、今は折り重なった過ちを一つひとつはがして検証作業を進めていくしかあるまい。

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 新聞記者として30年余り働いた後、早期退職して故郷の山形県で民間人校長になって4年目を迎えた。教育の一線に身を置いて違和感を覚えるのは、大津市のような事件が起きると、それがすぐに「今時の学校は」と一般化され、押し寄せてくることだ。

 学校はそんなにひどいのか。 実際に校長として働いてみて、「そんなことはない」と強く思う。むしろ、日本の教育にはまだ底力がある。教師の多くは誠実に自らに課せられた職務を果たしている。気骨のある教師も少なくない。

 小学校の校長になって間もなく、近くのキャンプ場で2泊3日の宿泊体験学習があった。5、6年生がテントを張り、5回の食事を自分たちだけで作るハードな合宿である。マッチと古新聞、それに炊事5回分の薪(まき)と食器が班ごとに子どもたちに配られた。食材はその都度、渡される。1日目の夕食のメニューはカレーライスだった。何となく浮き浮きしていた私は、6年担任の教師にこうくぎを刺された。

 「火の焚(た)き方も調理の仕方も一切、教えないでください」
それでカレーライスはできるのか。心配して尋ねると、担任は涼しい顔で言い放った。
「いいんです。失敗して、泣いて覚えればいいんです」

 私が勤める小学校は農村にある。今や農村の子どもたちですら、火の焚き方を知らない。かまどにドテッと薪を置き、古新聞を丸めて火をつけている。これでは勢いよく燃え上がるわけがない。それでも、容赦なく夕食の時間になる。子どもたちは、ポロポロのご飯に生煮えの「カレースープ」をかけて食べていた。泣きべそをかいている子もいた。先生たちは別のかまどで、ちゃんとしたカレーライスを作って食べた。

 よほど悔しかったのだろう。先生たちはどうやって火を焚いているのか。翌朝から、必死になってまねをし始めた。そうやって、3日目にはどの班でも、ちゃんとご飯を炊けるようになった。優しく教えるだけでは子どもは育たない。時には突き離して、追い付くのを待つ。民間人校長の私が口を出すまでもなく、実にまともな教育が行われていた。

 去年の5年生の稲作の学習にもうなった。地元の人の田んぼをお借りして田植えから稲刈りまで体験した後、刈り取った稲藁(いなわら)で縄をなう学習をした。さらに、その縄でお正月用の注連(しめ)飾りを作った。身近にあるものを使いきる、優れた実践である。
 山形県の高畠町には、学校給食で使う野菜の半分以上を生徒たちが自ら作っている学校がある。二井宿(にいじゅく)小学校という。野菜の有機栽培をするだけでなく、この小学校ではモチ米を育て、生徒たちが地元の独り暮らしのお年寄りに励ましの手紙を添えて配って歩く。すごい学校である。

 不祥事は不祥事として厳しく追及されなければならない。任に堪えない校長や教師がいるなら、退いてもらう必要がある。だが、そうしたことにかこつけて、教育の現場全体をたたくような風潮は改められるべきだ。これでは意欲のある教師まで萎縮してしまう。

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 不祥事があるたびに、文部科学省が偉そうな通知を出してくるのも耐え難い。教育の一線に細々と口出ししてきた習性から抜け出せないのだろう。いざという時、文部科学省をはじめとする中央の官僚たちがいかに頼りにならないか。私たちは東日本大震災を通して、骨身に染みて思い知らされた。

 巨費を投じて開発した放射性物質の拡散予測システムは、ほとんど役に立たなかった。震災前、原発推進の国策に沿って、文科省は「原発事故の心配はない」という副読本を全国の小中学生に配布し、事故後にすごすごと撤回した。にもかかわらず、今度は「放射線はスイセンからも出ている」という副読本を全国に配布し、除染に苦しむ人たちから猛反発を受けた。度し難い人たちである。

 東京が細々と指示を出し、地方がそれに従う。そんな時代はもう終わりにしなければならない。東京は大きな、揺るぎない方針を指し示す。地方は自分たちの実情に合わせて工夫を凝らす。それを東京にフィードバックし、必要に応じて助言を受ける。互いに支え合う関係へと変えていかなければならない。

 私たちは「難しい過渡期」を生きている。冷戦は終わったが、新しい国際秩序はまだ見えない。インターネットの普及が政治と経済の在り様をがらりと変え、グローバル化を加速する。豊かにはなったものの、少子高齢化が進み、かつてのような活力はない。

 未来は厳しい。だが、まだ力はある。問題は、まだある力を最大限に発揮するための変革を、自分たちの力で成し遂げられるかどうかだ。新しい道へと踏み出す覚悟はあるのか。私たち一人ひとりが問われているのである。

  *京都に本社がある宗教の専門紙「中外日報」(8月28日付)に掲載された小論です。
   中外日報から依頼されて寄稿しました。