*メールマガジン「小白川通信 5」 2013年8月30日
幸せとは何だろうか。高山良二さんがカンボジアの子どもたちと一緒にほほ笑んでいる写真を見ると、そんなことをしみじみと考えてしまう。
地雷処理をしている村の子どもたちと高山良二さん=カンボジア・バタンバン州で、ソックミエンさん撮影
カンボジアは、この半世紀で最も悲惨な歴史を刻んだ国の一つである。戦乱に次ぐ戦乱。1970年代には、ポル・ポト政権の下で大虐殺があった。平和を取り戻した後も、地雷や不発弾が多数残り、苦しみ続けている。高山さんは20年前、自衛隊員として国連の平和維持活動に加わり、この国を初めて訪れた。「強烈な体験でした。45歳で人生のスイッチが入った」と言う。
定年後、今度はNPO(非営利組織)の代表として再訪し、地雷処理に取り組んでいる。6月中旬、山形大学の市民講座の講師としてお招きし、体験をお聴きした。「地元の若者を訓練して、自分たちで地雷を処理できるようにする。私が消えても続く。それが目標です」と語った。故郷愛媛県の人たちの支援を受けて、地域おこしにも力を注ぐ。井戸を掘り、学校を建て、地元産のキャッサバで焼酎も造った。
与えるだけではない。カンボジアの農村から、今の日本の姿が見えてくることもある。貧しい暮らしながら、村ではいがみ合いや言い争いがほとんどない。5人分の料理しかないところに7人がやって来ても、ちっとも慌てない。「奪い合えば足りませんが、分け合えば余りますよ」と言い、実際、最後にはいつも少し余るのだった。
そうした姿を見て、高山さんは思う。「お金の風船がどんどん膨らんで、日本は世界で2番目の金持ちになりました。けれども、私たちの心の風船はしぼんでしまったのではないか。他人を思いやり、助け合う心を忘れてしまったのではないか。しぼんだ風船を、またみんなで膨らませたい」
もう一度、写真を見る。高山さんも、子どもたちも、なんと満ち足りた笑顔だろう。
(長岡 昇)
*7月12日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(3)
見出しは紙面とは異なります。
*高山さんが代表を務めているNPOは「国際地雷処理・地域復興支援の会(1MCCD)」といいます。
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*メールマガジン「小白川通信 4」 2013年8月16日
もしアメリカと戦争をしたら、どうなるのか。
近衛文麿内閣の時につくられた総力戦研究所が日米の軍事力や工業力をもとにシミュレーションをし、その結果を閣僚や軍首脳に報告したのは昭和16年の夏、開戦4ヵ月前のことである。
若手の高級官僚や将校、敏腕記者ら36人の研究生が出した結論は「日本必敗」だった。「奇襲に成功すれば緒戦は勝利が見込めるものの、いずれ長期戦になる。総合的な国力の差は明らかで、物量に劣る日本に勝機はない。戦争末期にはソ連の参戦も予想され、敗北は避けられない」
報告を聞いた東条英機陸相は「実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない。意外なことが勝利につながっていく」といなしたが、その顔は青ざめていたという(猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』)。
歴史に照らせば、彼らの予測は驚くほど正確だった。だが、戦争への流れを押しとどめることはできなかった。そして、後の世代は、この俊英たちですら見通せなかったものがあったことを知る。その一つが軍事力や工業力にも増して「総合的な知力の差」が大きかったことである。
小白川キャンパスで現代史の講義を聴く学生たち=山形大学提供
山形大学での現代史の講義で「第2次大戦と暗号」を扱った。日本が「鬼畜米英」とさげすみ、敵性語を排斥していた時に、相手は日本語と日本文化の研究に全力を注いだ。そして、数学者や物理学者と力を合わせて日本側の暗号を解読してしまったのである。企図が筒抜けの中で戦われた戦争。しかも、日本の暗号が解読されていた事実が公表されたのは、戦争が終わって実に30年もたってからだった。
「暗号とか情報とかに関して、今の日本の力はどうなっているんでしょうか」。授業を受けた学生の一人から質問を受けた。「もちろん、昔よりずっと良くなっている」と答えたいところだが、正直に言えば、そう答える自信はまったくない。
(長岡 昇)
*8月16日付の朝日新聞山形県版に掲載されたコラム「学びの庭から 小白川発」(4)に加筆
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「第2次大戦と暗号」の授業では、日本語で「暗号」と翻訳される英語にはcypher(文字のレベルで行われる置き換え)とcode (単語や語句のレベルで行われる置き換え)の二つがあること、暗号の解読ではその言語特有の使用頻度が一つの鍵になる、といった基本的なことから説き始めた。
例えば英語の場合、もっとも多く登場する文字はe(12.7%)であり、次がt(9.1%)。使用頻度がもっとも少ないのはqとzで0.1%であることが知られている。ドイツ語や日本語にもそれぞれ特有の使用頻度がある。英米は分担、協力しながらドイツと日本の暗号解読に取り組んだ。
暗号の解読にはこうした語学や文化の研究に加えて、数学や数理解析、物理や工学の英知を総動員しなければならない。英米は電気式(リレー式)の計算機を創り出して解読に使い、戦争が始まった後には真空管を使った電子計算機を発明して活用した。戦時中の暗号解読競争が計算機の性能を飛躍的に向上させ、戦後のコンピューター技術の基礎を築いたと言っていい(大駒誠一著『コンピュータ開発史』共立出版)。
英米の知力のすごさを感じるのはむしろ、戦後である。コラムでも触れた通り、彼らは日独の暗号を解読していたことを1970年代まで隠し通した。1977年に米国の天才的な暗号解読者、ウィリアム・フリードマンの伝記が出版されるに及んで、英米当局は渋々、解読作戦の概要を公表した。それによって、日本外務省の暗号はアジア太平洋戦争が始まる前から完全に解読されていたこと、日本海軍の最高機密暗号も戦争が始まって間もなく、ほぼ解読されていたことが判明した(R・W・クラーク著『暗号の天才』新潮選書)。
戦後30年余り、日本の旧軍人たちは「我々の暗号は解読されていたのではないか」「いや、そんなはずはない」といった論争を延々と続けた。そうした記録を読むと、虚しさを通り越して激しい脱力感を覚える。その後も、個別の技術や文化の面ではともかく、総合的な知力という面での差は埋まることはなかった、と考えるしかない。
学生たちの反応で興味深かったことの一つは「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたが、あえて目をつぶり、米国世論の怒りをかき立てる道を選んだ」という、いわゆるルーズベルト陰謀説を信じている学生が少なくなかったことである。中には「高校の歴史の授業で先生がそう言っていた」と言う者までいた。インターネット上では、いまだにこうした陰謀論が幅を利かせている。
事実を一つひとつ掘り起こしていけば、そうした陰謀説には何の根拠もないことは明らかだ。日本の外務省の暗号をすべて解読したとしても、そこには「真珠湾攻撃」といった具体的な軍事作戦のことは全く出て来ない。当時の米側の記録によれば、彼らが想定していたのは主に「フィリピンの米軍基地への奇襲」である。真珠湾攻撃の可能性に触れた断片的な情報が事前にあったことは事実のようだが、それは数多くの雑多な情報の一つであり、信憑性を高める関連情報は何もなかった。「日本海軍に真珠湾を攻撃するような力はない」と米側が油断していたのは間違いない。
暗号の講義は1回では終わらず、2回に分けて行った。「知の蓄積」という問題を考える格好の素材と考えたからである。講義の準備をしながら、暗号解読の重要な鍵の一つである「言語の使用頻度」という着想が、中東社会のイスラム研究を通して得られたことを知って、私も驚いた。イスラム教の聖典『コーラン』や預言者ムハンマドの言行録を詳細に検討するために古いアラビア語の研究が積み重ねられ、アラビア文字の使用頻度に目が向けられたのだという(サイモン・シン著『暗号解読』新潮社、p34)。
知の世界は広く、そして限りなく深い。