*1994年4月4日 朝日新聞夕刊(社会面)
太平洋戦争の末期、ビルマ(ミャンマー)駐留の日本軍がインド北東部の占領をめざして攻め込んだインパール作戦から、今年で50年。激しい戦闘と悲惨な退却行で命を落とした将兵は、2万人とも3万人ともいわれるが、その数すらはっきりしない。区切りの年とあって、この3月には170人近い遺族や戦友会関係者が、追悼のため相次いで現地を訪れ、インドの辺境で手を合わせた。
野原に仮の祭壇を設け、異郷に眠る肉親に向かって手を合わせる遺族=1994年3月17日、インパール盆地北方で(撮影・長岡昇)
追悼に訪れたのは、政府派遣の慰霊巡拝団8人と全ビルマ戦友団体連絡協議会(西田将会長)の8グループ161人。遺族のひとり、大江ち江さん(69)=滋賀県高島郡新旭町=の兄達男さんは、インパール盆地の北カングラトンビで戦死した。「小隊長さんが兄の右腕だけをだびに付し、昭和22年3月に自宅に届けてくれはったんです。たまたま同じ日に、マニラで戦病死した次兄の遺骨も届きました。母は気丈な人でしたけど、その夜は白木の箱を両わきに抱きかかえて、声を上げて泣いとりました」
埼玉県北葛飾郡庄和町の名倉健次さん(61)の父平次さんは、ミャンマー国境に近いテグノパールで戦死した。砲兵部隊の兵士だった。一家は働き手を失い、当時12歳だった名倉さんが農業を継いだ。「日本は何不自由なく暮らせる、豊かな国になりました。皆様はその礎になられたのです」。インパール南のロッパチンに建設中の平和記念碑の前で、合同慰霊祭が営まれ、名倉さんは遺族を代表して、かすれ声で鎮魂の言葉を読み上げた。
インドとはいっても、インパール周辺はモンゴル系の少数民族が多数を占め、分離独立を求める武装闘争が続く。中央政府は外国人の立ち入りを厳しく制限しており、地元にとっては、日本と英国の旧軍関係者がほとんど唯一の外国からの訪問者になっている。しかし、現地を訪れる遺族も老いが進む。地元マニプール州の政府当局者は「日本の若い人たちはここに来てくれるでしょうか」と語っていた。(インパール〈インド〉=長岡昇)
<インパール作戦> 1944年3月から7月にかけて、日本のビルマ方面軍第15軍が実施したインド進攻作戦。敗色濃い太平洋戦争の戦局打開を狙って、約8万5600人の兵力(航空部隊を除く)を投入。インド北東部インパールの占領をめざしたが、英軍の反撃で敗退した。