◇2004年10月23日付 朝日新聞別刷りbe「ことばの旅人」
人は時に、奇妙な願望を抱く。
私の場合、それは「灼熱の砂漠に身を置いて、どれだけ耐えられるか試してみたい」というものだった。
北インドの農村で、熱風に身をさらしながら働く村人たちを見た。湾岸のクウェートでは、摂氏52度の熱波を体験した。その度に深いため息をつき、気候の穏やかな国に生まれ育った幸せをかみしめた。
同時に、これほど過酷な土地にとどまり生きてきた人々に、畏敬の念に似たものを覚えた。何という強靭さ。自分にも、そのかけらのようなものがあるのだろうか。試してみたい、と思った。
ヨルダンのワディ・ラムの砂漠を行く遊牧民の兄弟(撮影:千葉 康由)
脳裏に浮かんだのは、学生のころに見た映画「アラビアのロレンス」に出てくる、あの砂漠だった。
第1次大戦中、オスマン・トルコの支配下にあったアラビア半島で、アラブ人の反乱が起きる。トルコと戦っていた英国は、T・E・ロレンスを連絡将校としてアラブ軍に送り込み、反乱を支援した。
映画はこの史実を基に、ロレンスを「砂漠の英雄」として描いたものだ。デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で1962年に封切られた。
遊牧の民ベドウィンのラクダ部隊に加わり、ロレンスは砂漠に繰り出す。海に面したトルコの要衝アカバを背後から衝(つ)くためだ。
砂漠を800キロ余りも踏破し、アカバまであとわずかという時、彼は部下のガシムがいなくなっていることに気付く。ラクダから落ち、砂漠に置き去りにされてしまったのだ。
助けに行こうとするロレンスを、ベドウィンたちは「引き返せば死ぬ」「ガシムは寿命が尽きたのだ」と押しとどめ、こう言う。「これは定めなのだ」
(It is written.)
ラクダを鞭打ちながら、ロレンスは言い返す。「この世に定めなどない」
(Nothing is written.)
ロレンスはガシムを救い、ベドウィンの信頼を勝ち取る。アカバを占領し、さらにダマスカスへ。映画は、西欧の理性がイスラムの宿命論を乗り越え、反乱に勝利をもたらす物語として展開する。
だが、それは実像に虚像を塗り重ねた物語だ。虚像を剥ぎ取った後に見えてくるものは、歴史の激流に翻弄(ほんろう)され、魂を引き裂かれそうになりながら苦悩した一人の人間の孤独な姿ではないか。
論説委員・長岡昇
「砂漠の英雄? とんでもない。彼は典型的な二重スパイだ」
エジプトの日刊紙アルワフドのタラビリ編集長は、ロレンスが果たした役割を端的な言葉で表現した。
「英国は第1次大戦を中東進出の好機とみなした。ロレンスは情報将校として、ある時は母国のために、別の時にはアラブのために動いた。ユダヤ人によるイスラエル建国の手助けまでした」
当時の英国の「三枚舌外交」は、つとに有名だ。フランス、ロシア両国と密約を交わし、トルコ敗北後の領土分割を決めた。一方で、アラブ人には独立を、ユダヤ人には国家建設をそれぞれ保証した。
両立し得ない約束を交わしたのは、戦争に勝つことが至上命題だったからだ。英国の振る舞いは、中東に紛争の火種をばらまく結果になった。イラクの国境線が引かれたのはこの時だ。パレスチナ人が父祖の地を失った遠因もここにある。
だが、こうした外交を進めたのは当時の政治家や高官だ。戦場にいたロレンスにその責めを負わせるのは酷だろう。
彼自身、密約を知って苦しみ、戦後もアラブとの約束を果たすために奔走した。富も名誉もすべて拒み、名前まで変えて世捨て人のような後半生を送ったのは、それでも、自責の念をぬぐい去ることができなかったからかも知れない。
ロレンスが多くの足跡を残したヨルダンでも、厳しい声を聞いた。
歴史家のスレイマン・ムーサ氏は「ロレンス伝説は欧米メディアが作り上げたものだが、本人にも自分の役割を過大に売り込む癖があった。アカバ攻略は自分の発案、というのもその一つだ」と言う。
ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムを駆け抜け、トルコ軍を撃破するアカバのシーンは、映画のハイライト部分だ。ロレンスの著書にも「私の奇襲作戦」とある。
しかし、ムーサ氏は多数の証言を根拠にこれを否定する。「ロレンスがアラビア半島に来たのは、反乱が始まって半年もたってからだ。トルコを攻める戦略はすでに決まっていた。アカバ攻略を立案したのは、アウダ・アブ・ターイだ」
映画では、彼は金目当てにロレンスの部隊に合流した、がさつな族長として描かれている。ムーサ氏の言う通りなら、アウダの一族にとっては受け入れがたい扱いだろう。
アカバで、アウダの孫アキフ氏(51)に会った。建設会社を経営する孫は、やはり「祖父の描き方は不満だ」と言う。
ところが、ロレンスに対しては、先の2人とは正反対の考えを口にした。「彼はベドウィンの真の友だ。われわれのために戦い、血を流した」
チャーチル首相はロレンスを「現代に生きた最も偉大な人物」とたたえた。一方、作家のリチャード・オールディントンは「大うそつきの変質者」と切って捨てた。英国での評価は二つに割れ、その死から70年近くたっても定まらない。それはアラブから見ても同じなのだった。
有名になった後、ロレンスは知人に「忘れたい。そして忘れられたい」と語った。自分ですら自分が分からない。他人に分かるはずがないではないか−−そう叫びたかったのではないか。
アカバを去り、その東にあるワディ・ラムの砂漠に向かった。広い枯れ谷の両側に、ほぼ垂直の岩山が連なる。ロレンス伝説が広がるにつれて、世界遺産のペトラ遺跡と並ぶヨルダンの観光名所になった。
酷暑期に入ったせいで、砂漠は閑散としていた。2頭のラクダを仕立て、通訳を伴って砂漠に乗り出した。1泊2日。ラクダ使いがずっと付き添い、さらに2人のガイドがトラックで先回りして食事と泊まりの支度をしてくれる。
飲み水にも事欠いたロレンスの砂漠行とは比べようもない。それでも、照りつける太陽は変わらない。少しだけだが、「灼熱の砂漠」を体験できた。
この日は砂漠の奥からの熱風ではなく、かすかに海風が吹いていた。それが驚くほど、つらさを和らげてくれた。
夜、ラクダ使いのイブラヒム君(19)が「テントを使わないで、砂の上に寝具を敷いてそのまま寝たら」と勧める。素直に従い、満天の星を眺めながら寝入った。
かすかな風。きらめく星。小さな恵みが砂漠では大きな慰めになることを知った。ロレンスは砂漠に、どんな慰めを見いだしていたのだろうか。
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アラビアのロレンスの関係先を「訪ねる」
ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムまでは、首都アンマンからデザート・ハイウエー経由で車で4時間ほど。アカバからは約1時間。アンマンの旅行会社に頼めば、砂漠の旅をアレンジし
てくれる。交渉次第で、1時間の旅から1週間の旅まで可能だ。
ワディ・ラムの砂漠は砂がそれほど厚くないため、四輪駆動車でも走り回ることができる。ラクダより料金は高い。ラクダを使った今回の旅は1泊2日で1人分が310米ドル(約34
000円)だった。
暑さのピークは8月。その前後もかなり暑い。ラクダに乗ると、慣れていないこともあって体がこわばる。跳びはねるように揺れるので、尻に負担がかかる。記者は50キロほど乗った
が、最後に肛門部から出血した。
夜は冷えるので長袖を用意した方がいい。場所によっては毒蛇やサソリ、毒グモがいるので、野営する場合には注意が必要だ。ガイドによると、観光客に被害が出たことはないものの、
数年前に遊牧民が毒グモに刺されて死亡したという。
近くにローマ時代の遺跡とされるペトラ遺跡がある。
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「読む」
ロレンスの自伝的著作「知恵の七柱」は平凡社の東洋文庫から翻訳出版されている。その簡約本「砂漠の反乱」(角川文庫)は品切れ。
ロレンスをめぐる論争などを知るには牟田口義郎著「アラビアのロレンスを求めて」(中公新書)が有益。スレイマン・ムーサ著「アラブから見たアラビアのロレンス」(中公文庫)は
欧米とは違う視点からロレンスの実像に迫る。
ロレンスを日本に初めて紹介した故中野好夫の著書に「アラビアのロレンス」(岩波新書)があるが、品切れ。
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ことばの出典
トマス・エドワード(T・E)・ロレンス(1888ー1935年)は、英国貴族と駆け落ちした女性家庭教師との間に生まれた。オックスフォード大学在学中に中東を徒歩旅行し、卒論「十字軍の城砦(じょう・さい)」を執筆。卒業後はトルコとシリアの国境地帯で古代遺跡の発掘調査にあたった。
第1次大戦の勃発に伴い陸軍に入り、1916年末から2年間、アラブの反乱に加わった。米国の従軍記者ローウェル・トマスが彼を「英雄」として報じ、米英両国で記録映画を交えた講演会をしたことから一躍、有名になった。
アラブの反乱について、ロレンスは著書「知恵の七柱(なな・はしら)」で詳しく書いており、本文で紹介した「ガシム救出」のエピソードにも触れている。ただし、著書には「この世に定めなどない」という表現はない。この表現は映画「アラビアのロレンス」にあり、日本語の字幕では「運命だ」と訳している。
日本学術会議の大川玲子・特別研究員(コーラン学)によると、アラビア語の動詞「カタバ」には「書く」という意味に加え、「運命をあらかじめ定める」という意味もある。詳しくは次のページの「学ぶ」の項を参照。
写真はジェレミー・ウィルソン著「アラビアのロレンス」(新書館)から。
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「学ぶ」
大川玲子氏の新著「聖典『クルアーン』の思想」(講談社)によると、イスラム教では、全知全能の神が最初につくったものは「筆」と解釈されている。神は、その筆で天地創造から世の終末まですべての事を「天の書」に記し、次に天地創造にとりかかった、と解釈する。
神が預言者ムハンマドに下した啓示は「天の書」の内容であり、すべてはあらかじめ定められている、という宿命論につながる。”It is written.”という映画のセリフは、以上のようなイスラムの宿命論を踏まえたものと考えられる。