*メールマガジン「小白川通信 19」 2014年9月6日
古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。
ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。
一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治(せいじ)の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。
その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。
この頃の記事そのものに、すでに多くの疑問を抱かせる内容が含まれています。勤労動員だった女子挺身隊と慰安婦との混同、軍人でもないのに軍法会議にかけられたという不合理、経歴のあやしさなどなど。講演を聞いてすぐに書いた第一報の段階ではともかく、1年後に「ひと」欄を書くまでには、裏付け取材をする時間は十分にあったはずです。が、朝日新聞の虚報がお墨付きを与えた形になり、吉田清治はその後、講演行脚と著書の販売に精を出しました。そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです。
この頃には歴史的な掘り起こしもまだ十分に進んでおらず、自力で裏付け取材をするのが難しい面もあったのかもしれません。けれども、韓国紙には「吉田証言を裏付ける人は見つからない」という記事が出ていました。現代史の研究者、秦郁彦・日大教授も済州島に検証に赴き、吉田証言に疑問を呈していました。証言を疑い、その裏付けを試みるきっかけは与えられていたのです。きちんと取材すれば、「吉田清治はでたらめな話を並べたてるペテン師だ」と見抜くのは、それほど難しい仕事ではなかったはずです。
なのに、なぜそれが行われなかったのか。清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。
悲しいことに、社内事情に疎い私は、外報部次長として彼の下で働きながらこうしたことに全く気付きませんでした。当時、社内には「従軍慰安婦問題は大阪社会部と外報部の朝鮮半島担当の問題」と、距離を置くような雰囲気がありました。そうしたことも、この時に十分な検証ができなかった理由の一つかもしれません。彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いたこともあったでしょう。
東京本社編集局次長の後、彼は総合研究本部長、事業本部長と地歩を固め、ついには西部本社代表(取締役)にまで上り詰めました。慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません。こうした経緯を知りつつ、今回、慰安婦報道の検証に踏み切った木村伊量社長の決断は、その意味では評価されてしかるべきです。
清田氏は2010年に朝日新聞を去り、九州朝日放送の監査役を経て、現在は大阪の帝塚山(てづかやま)学院大学で人間科学部の教授をしています。専門は「ジャーナリズム論」と「文章表現」です。振り返って、一連の慰安婦報道をどう総括しているのか。朝日新聞の苦境をどう受けとめているのか。肉声を聞こうと電話しましたが、不在でした。
「戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。彼は、吉田清治の言葉をそのまま引用して「ひと」欄の記事の結びとしました。ペテン師の言葉とはいえ、重い言葉です。そして、それは「報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す」という言葉となって返ってくるのです。今からでも遅くはない。過ちは過ちとして率直に認め、自らの責任を果たすべきではないか。
(長岡 昇)
《追記》1982年9月2日の吉田清治の講演に関する大阪社会面の記事の筆者について、朝日新聞は2014年9月29日の朝刊で「別の記者が『初報は私が書いた記事かもしれない』と名乗り出ました」と報じました。さらに、同年12月23日朝刊の第三者委報告書では「当初この記事の執筆者と目された清田治史は韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明」「調査を尽くしたが、執筆者は判明せず」と伝えました。2014年末の時点では、1982年の初報の筆者は不明です。