*メールマガジン「小白川通信 29」 2015年7月31日
また「戦争を語る季節」が巡ってきました。戦後70年の節目とあって、この夏は早くから新聞各紙で「戦争企画」の連載が始まりました。それぞれ、歴史の闇に埋もれてしまいかねないものを掘り起こそうとする意欲を感じ、学ぶところも多いのですが、大学で現代史の講義を担当している立場からは、やはり不満が残ります。あの戦争について、いまだに大きなテーマの一つが取り上げられないままになっている、と感じるからです。
それは、アジア太平洋戦争に動員され、命を落とした日本軍将兵の半数近くが戦闘による死ではなく、食べるものがないために餓死、あるいは栄養失調に陥って病死した、という事実です。私もこの問題については無知でした。ガダルカナル島やインパール作戦、さらにはフィリピンでの戦闘で多くの餓死者が出たことは知っていましたが、それが局所的なことではなく、中国大陸を含め、多くの戦場で起きていたとは知りませんでした。自分で調べ、その実態を詳しく知るにつれて、あまりのひどさに愕然としています。
この問題を正面から扱っているのは、藤原彰(あきら)一橋大学名誉教授の著書『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)です。藤原氏は陸軍士官学校を卒業し、中国大陸を転戦した将校です。戦後、大学に入って歴史学者になり、自らの戦場体験を踏まえてこの本を著しました。冒頭、彼はこう記しています。
「戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことがこの戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。死者に代わって告発したい」
ガダルカナルやニューギニアのポートモレスビー、インド北東部のインパールで起きた補給途絶による餓死を詳述した後、藤原氏はフィリピンでの大量餓死を扱っています。フィリピンは、先の戦争で日本軍の将兵が最も多く犠牲になった戦域です(次に多いのは中国本土)。1964年の厚生省援護局の資料によれば、陸海軍の軍人・軍属の死者は約212万1000人(1937年の日中戦争以降の死者。戦後のシベリア抑留による死者も含む)。このうち、49万8600人もの人命がフィリピンで失われているのです(フィリピン政府の発表によれば、戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人も100万人を上回ります)。
フィリピン、その中でも酸鼻を極めたレイテ島での戦いで、兵士たちはどのような状況に追い込まれたのか。それを小説にして世に問うたのが大岡昇平でした。『野火』(新潮文庫)の主人公、田村一等兵は作者自身の姿であり、米軍の捕虜になった著者がレイテ島の捕虜収容所で出会った兵士たちの分身でもあったでしょう。作品の中で、飢えにさいなまれる田村一等兵に死相を呈した将校が上腕部をたたきながら語りかけるシーンがあります。
「何だ、お前まだいたのか。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」
将校は顔にぼろのように山蛭(やまびる)をぶら下げながら「帰りたい」とつぶやき、息絶えます。田村一等兵はまず、その山蛭の血をすすり、誰も見ていないことを確かめてから右手に剣を握り、腕の肉をそぎ落とそうとします。その時、不思議なことに、左の手が右の手首を握り、剣を振るうのを許さなかった――。死の瀬戸際で、人は何を思い、どう振る舞うのか。田村一等兵はかろうじて自分を制しますが、踏みとどまれなかった者もたくさんいたのです。
戦場で将兵の治療にあたった軍医たちの記録『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(陸上自衛隊衛生学校編)には、食糧が尽き、医薬品もないまま、マラリアや下痢で死んでいった兵士たちの状況が延々と綴られています。そしてついには、日本陸軍の医療記録に「戦争栄養失調症」なる病名が登場するに至ったのです。衛生史の筆者は「軍内のいわゆる政治的配慮により、かかる特殊な病名がでっちあげられたと説く学者もあり、現に栄養物の補給にこと欠かなかった米軍には、本症の如き記載はない」と記しています(p151)。
軍医たちは、戦死者と戦病死者の割合をどうみていたのか。『陸軍衛生史』は「敗戦によって統計資料は焼却または破棄されており、推定するよしもない」と記すのみです。藤原氏は著書でこのことを「もっとも重大な問題を欠落させている」と批判していますが、「そう書くしかなかった」と言うべきでしょう。緒戦の勝利の後、日本軍は多くの戦線で敗走し、指揮官が自分の部隊の状況すら把握できないといった事態がいたるところで現出したからです。従って、「戦病死の方が多い」と断定するのは難しいのですが、少なくとも「半数近くは戦闘による死亡ではない」とは言えるのではないか。だからこそ、戦後、復員した兵士の中に「戦友の家族を訪ねてその最期を伝えたいと思っても、できない」と懊悩する人が幾人もいたのです。嘆き悲しむ遺族に「やせ衰え、排泄物にまみれて死んでいった」などと、どうして伝えられようか、と。
長い歴史の中で、戦争はいろいろな国で幾度も繰り返されてきました。ですが、その軍隊の兵士の半分近くが「食べ物がなくて斃(たお)れた」というような戦争がほかにあったでしょうか。そのような戦争を命じた指導者たちがいたでしょうか。日清、日露の戦争に勝ち、日中戦争で蒋介石軍を蹴散らしているうちに、「皇軍は無敵」と酔いしれ、大きな世界が見えなくなる。冷静に分析し、合理的に行動することもできなくなる――その挙げ句、70年前の破局を迎えたのです。
「それは日本軍の特質」と言って済ますことはできないでしょう。形を変えて、戦後の日本社会に引き継がれ、今なお脈々と生き続けているのではないか。膨大な借金を抱えながら、その支払いを次の世代に押し付けて恥じない。広島、長崎に続き、福島の原発事故であれだけの惨禍をこうむりながら、なお平然と原発の再稼動をめざす――その破廉恥な姿は、前線の苦しみをよそに東京の大本営で無責任な戦争指導を続けた軍人たちの姿と重なって見えてくるのです。
ガダルカナルの戦場で飢え、フィリピン、ビルマと転戦しながら詩を書き続けた吉田嘉七(かしち)は『ガダルカナル戦詩集』(創樹社)の最後に、次のような詩を掲げました。
遠い遠い雲の涯に
たばにして捨てられた青春よ
今尚大洋を彷徨する魂よ
俺達の永遠に癒えない傷あと
私たちの国は、今また「人としての心」をたばにして捨てるような道へ踏み込もうとしているのではないか。
(長岡 昇)
《参考文献》
◎『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰、青木書店)
◎『野火』(大岡昇平、新潮文庫) *大岡昇平の小説を原作にした映画『野火』(塚本晋也監督)が公開されています。詳しくは色塗りの部分をクリックしてください。
◎『大東亜戦争 陸軍衛生史 1』(1971年、陸上自衛隊衛生学校編)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)
≪写真説明とSource≫
◎写真は映画『野火』のワンシーン
Source : http://eiga.com/movie/80686/gallery/5/
*メールマガジン「小白川通信 28」 2015年7月10日
村の朝は早い。村人が総出で農道の改修や田んぼの水路の泥かきをすることを「普請(ふしん)」といい、たいていは日曜日の朝5時すぎから作業が始まります。5時半集合、ということになっているのですが、なにせみんな早起きで、集合時間の前に作業が始まってしまうのです。
山形県朝日町の山あいの村にある実家では母親が一人で暮らしていたため、去年まで普請の仕事は免除されていました。私は隣の地区にある団地に住んで通いで介護をしていたのですが、今年の1月に母親が90歳で亡くなったため、週末は私が空き家になった実家で暮らすようになりました。遺品や荷物を片付けてリフォームを済ませ、秋には実家に引っ越すつもりです。
というわけで、引っ越しの前なのですが、村の人から「普請があるよ」とお誘いがかかり、このあいだの日曜日に私も参加しました。「主な作業は田んぼの畦(あぜ)の草刈りと農道の側溝の泥かき」と教えてもらったので、草刈り鎌のほかに、先のとがったスコップ(剣スコ)と四角いスコップ(角スコ)を持ってでかけました。側溝の泥かきには剣(けん)スコより角(かく)スコの方がいいからです。
現場に着いてすぐ、ずっと村で暮らしている人との差を見せつけられました。草刈り鎌などを持ってきているのは私ともう一人くらい。あとは各自、エンジン駆動の草刈り機を肩からぶら下げています。側溝からすくい上げた泥を運ぶために、軽トラックで来た人も何人かいました。こちらは徒歩で、手に草刈り鎌。「新米の村人」には機動力も機械力もありません。草刈りはお任せして、私は側溝の泥かきに専念しました。
1時間ほど泥かきをして作業が終わりかけた頃、泥の中から奇妙な石を見つけました。こびりついた泥を落としてみると、細長い打製石器でした。長さ8センチ、幅3センチほど。木にくくりつけて槍として使った石器のように見えます。それほど驚きもしませんでした。と言うのも、生まれ故郷の朝日町には旧石器時代や縄文時代の遺跡がいくつもあり、打製石器や古い土器がたくさん見つかっているからです。
田んぼのわきで見つかった打製石器
一部の考古学者の間では、朝日町は旧石器が日本で初めて発見され、記録されたところとして知られています。こんなことを書くと、「何を言ってるんだ。旧石器が日本で初めて発見されたのは群馬県の岩宿(いわじゅく)だ。行商をしながら考古学の研究をしていた相沢忠洋という人が見つけて、明治大学の研究者が1949年(昭和24年)の秋に記者会見して発表している。どの教科書にも書いてある」とお叱りを受けそうです。
岩宿遺跡で発見された槍先形尖頭石器
確かに、どの教科書にもそう書いてあります。しかし、相沢忠洋氏が旧石器を発見し、明治大学の研究者がその成果を発表する前に、実は山形県朝日町の大隅(おおすみ)というところで旧石器が多数見つかっており、地元で小学校の教員をしていた菅井進氏が1949年発行の考古学の同人誌『縄紋』第三輯に「粗石器に関して」という論文を寄稿していたのです。岩宿遺跡についての発表の半年前のことでした。
けれども、東北の寒村での発見。小学校の教員が書いた論文は、考古学者の目に触れることはありませんでした。たとえ、目にとまったとしても、当時の考古学会では「日本には旧石器時代はない」というのが常識でしたから、黙殺されたことでしょう。岩宿遺跡の旧石器が「日本初」として記憶されるに至ったのは、相沢忠洋氏の尽力に加えて、その成果が明治大学の著名な考古学者によって発表され、その後も継続して発掘調査が行なわれたからです。大隅の旧石器は世に認められることなく、歴史の谷間に埋もれてしまったのです。
考古学の研究史に残ることはありませんでしたが、群馬県の岩宿よりも先に山形県の大隅で旧石器が発見され、記録されていたという事実は消えません。そして、大昔、新潟県境に近い山形のこんな山奥で多くの人間が暮らしていたのは確かなのです。朝日町には大隅遺跡以外にも旧石器時代の遺跡があり、縄文時代のものとみられる遺跡もたくさんあるのです。
さらに興味深いのは、この町には発掘調査が行なわれなかった遺跡もかなりある、と考えられることです。私の実家がある太郎地区の遺跡もその一つです。小学生の頃(今から半世紀前)、村のおじさんから「こだなものが出できた」と、打製石器をいくつかもらいました。この場所は県や町に届けられることなく、農地としてそのまま開墾されたと聞きました。戦後の食糧難の時代、農民は何よりも食糧の増産を求められていたました。役所に「遺跡が見つかりました」と届け出て発掘調査などされたのでは、仕事にならなかったからです。
黙って開墾し続け、石器や土器を片隅に追いやった村人の気持ちも分かります。朝日町のほかの地区でもこうした例があったと聞いています。私の故郷だけの話ではないでしょう。全国各地でこうしたことがあったと考えるのが自然です。近年はともかく、戦前、戦後の時期に考古学者が発掘することができたのは、見つかった遺跡のごく一部と考えるべきでしょう。
そして、思うのです。今、わが故郷の朝日町は過疎に苦しんでいますが、旧石器時代や縄文時代にはとても暮らしやすいところだったのだろう、と。遺跡はいずれも、日当たりのいい河岸段丘にあります。秋、山ではクリやドングリがたくさん採れ、最上川や支流の朝日川にはサケが群れをなして遡上してきたはずです。厳しい冬を生き抜くための糧が得やすい場所だったのです。もちろん、旧石器時代を懐かしんでも何の足しにもなりません。けれども、そこには、厳しい過疎の時代を生き抜き、新しい時代を切り拓いていくためのヒントが何か潜んでいるような気がするのです。
(長岡 昇)
《参考サイト》
戸沢充則・明治大学学長の講演「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」抄録(朝日町エコミュージアム協会)
大隅遺跡発見の経緯(同)
明治大学HPの考古学関係(岩宿遺跡)
相沢忠洋記念館
群馬県みどり市岩宿博物館
《参考文献》
◎『朝日町史 上巻』(朝日町史編纂委員会、朝日町史編集委員会編、2007年発行)
◎『人間の記録 80 相沢忠洋 「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』(相沢忠洋、日本図書センター)
◎『日本の旧石器文化』1?4巻(雄山閣出版)
◎『日本考古学を見直す』(日本考古学協会編、学生社)
第3回最上川縦断カヌー探訪は、2015年7月25日(土)と26日(日)に予定通り開催されます。
1日目は山形県朝日町から中山町まで28キロ、2日目は村山市から大石田町までの20キロを下る予定です。山形県の内陸部は22日夕、激しい雷雨に襲われ、23日も小雨模様です。予報では当日、大雨になる心配はありませんが、「清流を下る」というわけにはいかないかもしれません。
参加を申し込まれた方は30人です。山形県内から13人、県外から17人。日程別では1日目のみの参加が3人、2日間のフル参加が19人、2日目のみ参加が8人。従って、1日目に川下りをするのは22人(17艇)、2日目に下るのは27人(22艇)になる予定です。両日とも、2人乗りの艇が5艇あります。
25日は午前10時から、山形県朝日町の雪谷カヌー公園で簡素な開会式を行い、10時半にスタート、26日は村山市・碁点橋のたもと(右岸)から午前10時スタートの予定です。ご参考までに、2012年の第1回カヌー探訪の参加者は24人(山形県内21人、県外3人)、2013年は山形豪雨のために中止、2014年の第2回カヌー探訪の参加者は35人(県内19人、県外16人)でした。
1日目は山形県朝日町から中山町まで28キロ、2日目は村山市から大石田町までの20キロを下る予定です。山形県の内陸部は22日夕、激しい雷雨に襲われ、23日も小雨模様です。予報では当日、大雨になる心配はありませんが、「清流を下る」というわけにはいかないかもしれません。
参加を申し込まれた方は30人です。山形県内から13人、県外から17人。日程別では1日目のみの参加が3人、2日間のフル参加が19人、2日目のみ参加が8人。従って、1日目に川下りをするのは22人(17艇)、2日目に下るのは27人(22艇)になる予定です。両日とも、2人乗りの艇が5艇あります。
25日は午前10時から、山形県朝日町の雪谷カヌー公園で簡素な開会式を行い、10時半にスタート、26日は村山市・碁点橋のたもと(右岸)から午前10時スタートの予定です。ご参考までに、2012年の第1回カヌー探訪の参加者は24人(山形県内21人、県外3人)、2013年は山形豪雨のために中止、2014年の第2回カヌー探訪の参加者は35人(県内19人、県外16人)でした。