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January 2016 の投稿一覧です。
*メールマガジン「小白川通信 39」 2016年1月29日
 
 週刊文春が甘利明・経済再生担当相の金銭授受疑惑を報じて1週間。あいまいだった甘利氏の記憶は、弁護士らの助けを借りて急にクリアになったようです。大臣室と選挙区の事務所でそれぞれ50万円受け取ったことを認め、28日に閣僚を辞任しました。「金銭授受疑惑」は「疑惑」の2文字が取れ、金銭授受問題になりました。第1ラウンドは週刊文春の圧勝、と言うべきでしょう。

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28日に記者会見し、閣僚を辞任する意向を表明した甘利明・経済再生担当相

 甘利氏は記者会見で、自身が受け取った100万円も秘書がもらった500万円もともに政治献金だった、と主張しました。政治資金収支報告書の記載にミスがあったり、500万円のうち300万円を秘書が使い込んだりしたものの、どちらも「政治資金の報告に不手際があった」というわけです。それなら、閣僚は辞任しなければなりませんが、衆議院議員まで辞める必要はない、という理屈になります。これが甘利氏側の防衛ラインのようです。

 それで世間は納得するか。週刊文春の報道によれば、くだんの建設会社が甘利氏側に供与した金とサービスは少なくとも1200万円とされています。民間企業はボランティア団体ではありません。利益が見込めないところに資金をつぎ込んだり、グラブやパブで接待したりしません。では、その金と接待にはどんな思惑が込められていたのか。第2ラウンド「金の意味」をめぐる攻防が始まりました。

 この建設会社は、千葉県内の道路工事をめぐって都市再生機構(UR)とトラブルになり、URに補償を要求していたといいます。交渉は難航し、建設会社の総務担当者が甘利氏の秘書に助力を頼んだ、というところまでは双方に争いがありません。問題は、そこから先です。秘書が国土交通省の局長に問い合わせ、国交省の支配下にあるURの担当者に話をつないでもらった、というところで収まれば、「甘利氏側の防衛ライン」の内側に収まります。

 しかし、もし秘書が安倍政権の重要閣僚である甘利氏の看板をチラつかせ、「国交省とURに圧力をかけた」ということになれば防衛ラインをはみ出し、「あっせん利得処罰法」に抵触します。この法律は2000年に成立、翌2001年に施行された新しい法律で、訴追されて有罪となれば、3年以下の懲役という厳罰が待っています。甘利氏がその経緯を承知していれば、もちろん甘利氏も訴追される可能性があります。犯罪だからです。

 29日の毎日新聞社会面に注目すべき記事が掲載されていました。その記事によれば、上記のトラブルは2013年に入って甘利氏の秘書が関わるようになってから急に交渉が進み、まず1600万円の補償がなされ、さらに追加で2億2000万円の補償をすることになった、というのです。地元の建設関係者は「300坪の土地が50万円でも買い手が付かない場所で、2億円以上の補償金を払うなんてどうかしている」と話した、とも報じています。各紙に目を通した範囲では、もっとも核心をついた記事でした。この後に、甘利氏と秘書に金が供与されているからです。

 国土交通省と都市再生機構(UR)、建設会社の間でどのような交渉が行われ、甘利氏と秘書がそれにどう関わったのか。また、右翼団体の構成員から建設会社の総務担当に転じ、週刊文春に一部始終を暴露した人物は、どのような理由で告発するに至ったのか。その事実関係と背後関係を一つひとつ解きほぐしていけば、事件の構図はおのずから明らかになっていくでしょう。その過程で「甘利氏側が圧力をかけた」ことが判明すれば、「政治資金収支報告書の記載ミスでした」などという言い訳は通用しなくなります。

 法律の専門家の中には「あっせん利得処罰法違反になるのは『その権限に基づいて影響力を行使した場合』に限られる。国交省やURは甘利明・経済再生担当相の職務権限外だから、『権限に基づく影響力』を行使できるわけがない。問題にはならない」と主張する人もいるようです。法律家らしい、もっともらしい論理ですが、政治と利権の実態を無視した形式論でしょう。安倍政権で経済政策の中枢を担ってきた重要閣僚の影響力が国交省やURに及ばない、と考える方がどうかしています。

 それにしても、甘利氏が閣僚辞任を表明した28日の記者会見は見応えがありました。矛盾を鋭く追及する記者あり、甘利氏に露骨にすり寄るような質問をする記者あり。気高い志を持った記者と心根の卑しい記者を、高性能のリトマス試験紙をかざしたように炙り出してくれました。もちろん、日本は自由な国です。権力べったりの新聞やテレビがあっても構いません。それも「言論の自由」のうちです。ですが、報道機関で働く者として、それで虚しくはないのか。自分で自分が惨めにならないのか。

 記事を読み、映像を見つめ、ネットで情報を追っている人の多くは「メディアで働く人たちのプロとしての気概を見たい」と思っているのではないか。固唾をのんで「第2ラウンド」「第3ラウンド」の展開を見守っているのではないか。
(長岡 昇)

≪写真のSource≫ 東京新聞の公式サイトから
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201601/CK2016012902000139.html




*メールマガジン「小白川通信 38」 2016年1月22日

 同じニュース媒体でも、新聞とネットには大きな違いがあります。その一つがニュースの価値判断です。ネットのニュースサイトは一般に見出しを同じ大きさの文字で並べるだけです。価値判断は掲載の順番で示す程度、と言っていいでしょう。

 これに対して、新聞ははるかに明確にそれぞれのニュースの価値を判断して読者に提示します。その日、もっとも重要だと判断したニュースは1面で大きな見出しとともに扱い、重要度が低いと考えるニュースは順次、奥の面に掲載していく、というのが大原則です。

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 ニュースの価値判断に関して、新聞編集者の間にはもう一つ、重要な原則があります。それは「第一報を小さな扱いにしたのに続報で大きな扱いをするのは編集者の敗北だ」というものです。これが残酷なまでに示されたのは、1986年に旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きた時でした。歴史的とも言える大事故でしたが、ソ連は当初、完全に沈黙し、第一報はスウェーデン政府による「異常な放射能を検知した。重大な事故があったと思われる」という、きわめて曖昧な情報でした。新聞各紙の第一報の扱いは、1面トップから社会面の4段見出しまでバラバラでした。どの扱いが適切だったかは言うまでもありません。

 今回、週刊文春(1月28日号)が報じた「甘利明・経済再生担当相の口利き現金授受疑惑」についても、各新聞社の価値判断能力が問われました。21日付の朝日新聞は3面トップ、毎日新聞は社会面4段と、それぞれ腰の引けた扱いでした。週刊誌の報道を基にして1面トップの紙面を作るわけにはいかない、という古臭い沽券(こけん)にしがみついた結果でしょう。読売新聞は第2社会面で2段、政治面の補足記事が3段の扱い。この新聞は「権力を監視する」というメディアの重要な役割にあまり関心がないようですから、順当な扱いなのかもしれません(いずれも山形県で配布された各紙の扱い)。

 「一番まともだ」と感じたのは、地元の山形新聞でした。共同通信の配信と思われる記事「『甘利氏に1200万円提供』週刊文春報道」を1面トップで扱い、4面で週刊文春の報道内容も詳しく伝えました。翌22日も1面トップで「甘利氏『記憶あいまい』」と、ポイントを的確に押さえた続報を載せました。朝日は「甘利氏 与党から進退論」というピンボケの続報が1面トップ、毎日も1面3段。どちらも「新聞編集者としての敗北」を紙面に刻む結果になりました。

 20日の記者会見での甘利氏の発言「まだ週刊誌の現物を読んでいない」には、思わず笑ってしまいました。木曜日発売の週刊誌の場合、水曜日(20日)にはゲラ刷りが永田町周辺や新聞各社に出回ります。甘利氏もゲラ刷りのコピーを一字一句、食い入るように読んだはずです。が、そんなことは言いたくない。で、「(ゲラではなく)週刊誌の現物は読んでいない」と、嘘とは言えない表現で急場をしのいだものと思われます。

 記者会見の前に、すでに弁護士との打ち合わせも十分にしているはずです。今回の現金授受はストレートに贈収賄事件になる可能性があるからです。贈収賄事件で弁護団がまず考える防壁は(1)現金の授受そのものを否定する(2)金を受け取ったとしても、受け取った側(甘利氏側)に職務権限がないと主張する、の二つでしょう。金を渡した側は週刊文春に実名で登場しており、手許に動かぬ証拠がたくさんあるようです。「(1)では勝ち目はない」と踏んで、逃げ込んだのが「記憶があいまい」という言葉なのでしょう。田中角栄元首相が逮捕されたロッキード疑獄で政商の小佐野賢治氏が多用した「記憶にございません」を思い出します。

 記憶にあるかどうか。これを本人以外の人間が立証するのは不可能です。第一の防壁「金銭の授受」についてはこの言葉で時間をかせぎ、第二の防壁「職務権限」のところで勝負する――それが弁護団の方針と思われます。金をもらった建設会社のために、補償をめぐってもめている都市再生機構(UR)に口を利いてあげたのは確かだが、それは経済再生担当大臣の職務権限には含まれない。権限外だが、親切心で手を差し伸べてあげたのだ、と立証すればいいわけです。

 その点はどうなのか。それを検察や警察に取材し、実務に詳しい専門家にも当たってギリギリと詰め、読者にきちんと提供するのがメディアの仕事ですが、この数日の報道を見ていると、第二の防壁の取材でも新聞各社は週刊文春の後塵を拝することになりそうです。

 最近の週刊文春の政治腐敗追及には、目をみはるものがあります。去年の12月上旬に表面化した「就学支援金の詐取事件」は、三重県の高校が舞台なのに東京地検特捜部が家宅捜索に乗り出した、というものでした。事件に関心がある人なら「政治家が絡んでいる」とピンと来るはずです。大物政治家が絡むようだと、地元の三重県警や三重地検では手に負えません。だから東京地検が乗り出した、と考えるのが自然だからです。「どういう続報が出てくるか」と注目していましたが、当方の関心に応える記事を掲載した新聞を見つけることはできませんでした。

 これに対し、週刊文春は2015年12月24日号に「特捜部が狙う"詐欺"学校と下村前文科大臣との『点と線』」と題する記事を載せ、事件の背景を伝えました。就学支援金をだまし取ったのは株式会社が運営する「ウィッツ青山学園高校」という学校ですが、この高校の創設者は森本一(はじめ)という人物で、彼は下村博文・前文部科学相の全国後援会の会長だ、と報じたのです。何のことはない。塾経営者の森本氏が同じく塾経営の経歴を持つ下村氏を応援し、三重県に教育特区を作る手助けをしてもらって株式会社運営の高校を創立し、それが税金の詐取という事態を招いた、という構図が浮かんでくるのです。

 これまた、限りなく「贈収賄」に近い構図で、強烈な腐臭が漂ってくる事件です。にもかかわらず、主要な新聞はこの事件の背後にどういう風景が広がっているのか書こうとしない。あまり先走ったことを書くと、東京地検から「捜査妨害だ」と怒られるからでしょう。検察という盾の後ろからチビチビと矢を放つような続報しか書かない。だから、事件の構図もその重大さも新聞報道からは伝わってこないのです。

 私は元新聞記者です。正直に言えば、古巣の新聞と仲の良くない週刊文春の報道を褒めるようなことはしたくありません。ですが、最近の報道については「実に果敢な、勇気ある報道だ」と認めざるを得ません。

 イギリスの政治家で歴史家のジョン・アクトンは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」という言葉を残しました。それは時代をも空間をも越える金言と言っていいでしょう。だからこそ、権力を監視し、追及する報道の役割は重要なのです。その仕事は、たとえ報い少ないものであっても一生を賭けるに値する、と思うのです。もっと鋭く、そしてもっと深く、権力を笠に着て税金を食い物にするような輩の所業を暴き出してほしい。


≪写真説明とSource≫
週刊文春の報道を受けて記者会見する甘利明・経済再生担当相(東京新聞の公式サイト)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016012102000136.html




*メールマガジン「小白川通信 37」 2016年1月17日

 東京から山形に戻って農村で暮らすようになってから、私のライフスタイルは大きく変わりました。大きな変化の一つが移動手段です。私の住んでいる朝日町には鉄道がありませんので、もっぱら車で移動しています。そのため、自然と運転しながらラジオを聞く機会が増えました。聞いてみると、ラジオはかなり面白い。

 NHKラジオ第1で昨日(1月16日)の朝、ラジオアドベンチャーという番組の再放送を流していました。進行役は壇蜜、ゲストは写真家の佐藤健寿(けんじ)さん。テーマは「きかいいさん」というので、「機械遺産」のことかと思ったら、さにあらず。「奇界遺産」のことでした。初めて耳にしました。紹介された「シュバルの理想宮」の内容を聞いて、また驚きました。世の中には、こんな不思議な人生、こんな奇妙な創造物もあるのだと。

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フランス南部オートリーブにある「シュバルの理想宮」

 シュバルは1836年、フランス南部の小さな村で、貧しい農民の子として生まれました。日本で言えば、江戸時代後期の天保年間です。仕事は村の郵便配達夫。車はもちろん、自転車もありませんでしたので、テクテク歩いて配っていたのだそうです。そんなある日、奇しくも43歳の誕生日に、小さな石につまずきます。ソロバンの玉を重ねたような奇妙な石。それがすべての始まりでした。

 何かが彼の心の琴線に触れたのでしょう。その日から、シュバルは路傍の石を拾い、石材を調達して自分の宮殿を造り始めたのです。石工として働いた経験も、建築や美術の心得もなかったそうです。デザインは、配達するハガキに印刷された建造物などを参考にしたと伝えられています。村人の目には「見たこともない、薄気味の悪いもの」と映ったのでしょう。変人扱いされて、あまり人が近寄って来なくなったとか。

 けれども、彼は気にすることなく、「理想宮」と名付けて、自分の宮殿を造り続けました。カンボジアのアンコール・ワットのようでもあり、ヨーロッパのゴシック様式の教会のようでもあり。西洋と東洋の文化が溶け合った、実にユニークな建造物です。完成したのは着手してから33年後、76歳の時でした。変人扱いされたまま、1924年に88歳で亡くなりました。

 シュバルの理想宮は振り向かれることもなく、時が流れていきました。そして、ずいぶん経ってから、シュールレアリスムを提唱した詩人アンドレ・ブルトンの目にとまり、彼がこの建造物を称賛する詩を発表したことから評価がガラリと変わりました。いろいろな人が足を運ぶようになり、1969年にはついにフランス政府から重要な歴史的建造物に指定されるに至りました。今では世界中から観光客がやって来るようになり、ここでコンサートや個展も開かれています。村にとっては「最大の資産」です。

 シュバルが残した言葉がまたいい。
「私は、人間の意志が何を成しうるかを示したかった」

 彼が残した、もっとも大切なことは「信じて生きる」ということなのかもしれません。


≪参考サイト≫
◎「シュバルの理想郷」の公式サイト(英語)
 
◎日本語版ウィキペディア「シュヴァルの理想宮」

≪写真のSource≫
http://lai-lai.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1d0e.html

≪参考文献・写真集≫
◎『奇界遺産』(佐藤健寿、エクスナレッジ)
◎『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(岡谷公二、河出文庫)


*メールマガジン「小白川通信 36」 2016年1月11日

 世の中の「常識」の中には、当てにならない常識もあります。文部省唱歌の『雪』で「犬は喜び庭かけ回り 猫は炬燵(こたつ)で丸くなる」と歌われていることもあってか、「猫は寒がり、犬は雪が大好き」のように思われています。かく言う私も、漫然と「そんなもんだろう」と思っていました。ところが、現実はまるで異なるようです。

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子猫のマロ(生後5カ月)

 山形の山村にある実家では、母親がずっと一人暮らしをしていました。私は7年前に山形に戻り、団地から通って母親の世話をしてきたのですが、去年、90歳で他界したため、空き家になった実家に引っ越して暮らし始めました。実家には以前から、お腹をすかした野良猫が食べ物を求めて出入りしていたのですが、引っ越しを機に、日当たりのいい小部屋を「猫部屋」に改装して「出入り自由」にしてみました。食べ物も与えています。

 たっぷりと栄養を摂れるようになったからか、メス猫とその娘が去年、それぞれ2匹と3匹の子を出産しました。5匹の子猫にとっては、この冬が初めての冬。雪の朝、どうするか観察していたら、興味津々、雪の降り積もった庭をかけ回っています。同じ時期に生まれた子猫でも、庭に出ることなく、室内でうずくまっている猫もいます。臆病で神経質な性格の猫です。要は、好奇心が強く行動的な猫は、初めて目にするものが大好きで、転げ回らないではいられない、ということのようです。

 疑い深く、「信じられない」とお思いの方のために、庭をかけ回る子猫の動画をユーチューブにアップしました。シベリアの雪原を行く虎のような(大げさですが)身のこなしも見せています。カラー文字のところをクリックしてご確認ください。

雪の朝。猫も喜び庭かけ回る

 庭を走り回っている三毛猫とシャムネコ風の猫は、どちらも去年8月の生まれ、生後5カ月。画面をチラリと横切る黒白まだらの猫は5月生まれで生後8カ月。いずれも生粋の野良猫です。世間には「夏猫は飼うな」という言い伝えがあるとか。寒さに弱いからのようですが、わが家に出入りしている子猫たちは、そんな言い伝えも吹き飛ばす元気さです。時折、どこかに出張って行っては子ネズミを捕まえて持ち帰り、ムシャムシャと食べています。この3匹を含め5匹の子猫のうち4匹がメス猫なので、「これ以上増えたらどうしよう。避妊手術を施すしかないか」というのが目下の悩みです。

 同じ野良猫でも、親猫は雪の庭をかけ回ったりはしません。厳しい冬を乗り切るために為すべきことを黙々と為す、という風情です。人間も猫も、無邪気に転げ回っていられるのは子どもの時だけ、ということでしょうか。

 ネットで調べてみると、「寒がりでなかなか外に出ようとしない犬」も珍しくないようです。「うちの犬は雪が降っても外に出ようとしません。大丈夫でしょうか」と悩み事相談のような投稿もありました。「人生いろいろ」と言いますが、猫もいろいろ、犬もいろいろ。どんな生き物にもそれぞれに個性があり、一概には言えないということでしょう。作詞、作曲とも不詳の童謡『雪』はとても味わい深い歌ですが、猫と犬にとっては「異議ありの歌」と言えそうです。
(長岡 昇)

≪注≫
三毛猫は「八重(やえ)」、シャムネコ風の猫は「マロ」、黒白まだらの猫は「オペラ」という名前で呼んでいます。命名の理由は省略。

≪参考サイト≫
「snow cat play」で検索したら、雪と戯れる猫の動画がたくさんありました。カラー文字のところをクリックしてみてください。
Elaine burrows in snow (イレインの雪掘り)
Cute Cats playing in the snow (雪と戯れるかわいい猫ちゃん)
Funny Cats Playing in the Snow First Time Compilation 2015 (雪と戯れる愉快な猫たち<2015年初編纂>)

≪写真≫
撮影・長岡遼子、2016年1月4日