*メールマガジン「風切通信 43」 2017年12月7日
   
 池澤夏樹という作家はただ者ではない。私が初めてそう感じたのは、河出書房新社から出版した『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』の中に、ベトナムの作家バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』を選んで入れた、と知った時でした。

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 トルストイの『戦争と平和』をはじめ、戦争をテーマにした小説は数限りなくありますが、私はバオ・ニンの『戦争の悲しみ』は戦争文学の傑作の一つと受けとめています。彼は、ベトナム戦争に北ベトナム軍の兵士として加わった人間です。部隊は全滅状態になり、その中の数少ない生き残りの一人でした。戦場の実相とはどのようなものなのか。バオ・ニンはそれを淡々とした筆致で描いています。一緒にいた仲間が次々に死んでいく。それを繰り返すうちに、兵士の人としての心は乾き、少しずつ死んでいくのだ、と書いています。

 ベトナムは社会主義国家です。社会主義圏の作家は「祖国と革命の大義のために命をささげた英雄たちの姿」を描くよう求められるのが常です。が、バオ・ニンはそれを拒み、自らの体験をそのまま記しました。作品には北ベトナム軍の兵士が女性を暴行する場面も出てきます。このため、ベトナムの軍機関紙からは「人民軍の名誉ある歴史に泥を塗る作品」と指弾されました。十数年前にハノイを訪れ、彼の話を聞いたことがあります。寡黙な人でした。彼にとって、戦争においては「勝者もまた悲しみを運命づけられた存在」であり、作家にできることは「すべての死者と生者のために忠実に記録すること」だったのです。

 「池澤夏樹はただ者ではない」と再び思ったのは、この秋、英国の作家カズオ・イシグロの作品『遠い山なみの光』の解説で、作家と作中の登場人物について池澤が次のように書いているのを読んだ時です。

「作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。(中略)カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない」

 作家は作品の中で会話をどのように組み立てるのか。それについてこのような解説をしたためる力量にうなりました。司馬遼太郎の小説に違和感を覚える理由はそこにあったのか、と得心もいきました。司馬作品は文学というより歴史物語なのだ、と。池澤夏樹は同じ解説で次のようなことも書いています。

「われわれの日常的な会話の大半はそれほど生成的ではない。双方の思いの違いが明らかになるばかりで、いかなるC(という考え)にも到達できないのが普通の会話というものだ。それがまた哲学と文学の違いでもある。両者がボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向かうのが文学である」

 文学とは何か。哲学とは何か。それについて、これほど簡潔に表現した文章を初めて目にしました。これが誰かの文章からの引用なのか、池澤夏樹の独創なのか不勉強で知りませんが、胸にストンと落ちるものがありました。すでに読んだことのある小説のほかに、彼はどんな作品を発表しているのか。もっと読んでみたくなりました。ある作家から次の作家へ。こういう形で進む読書もあるのだ、と知った秋でした。


≪参考文献&サイト≫
◎『戦争の悲しみ』(バオ・ニン、井川一久訳、めるくまーる)
*河出書房新社『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』第1期第6巻には全面改訳を収録
◎ウィキペディア「バオ・ニン」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%B3
◎『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ、小野寺健訳、早川epi文庫)
◎『浮世の作家』(カズオ・イシグロ、飛田茂雄訳、早川epi文庫)
◎『光の指で触れよ』『すばらしい新世界』『スティル・ライフ』(いずれも池澤夏樹、中公文庫)

≪写真説明&Source≫
◎ベトナムの作家、バオ・ニン
http://hanoi36.sblo.jp/article/174876700.html