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出だしの音だけで曲名を当てる「音楽のイントロクイズ」は難しい。知っている歌でも、出だしだけでは思い出せないことがよくある。それに比べれば、「裁判のイントロクイズ」はすごく簡単、と教わった。

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民事訴訟の判決の場合、裁判官が発する最初の音だけで、裁判の勝ち負けが分かるという。裁判官が「ゲ」と言えば、原告の負け。「原告の請求を棄却する」と、短い主文が読み上げられておしまいだ。判決の言い渡しが「ヒ」で始まれば、原告の勝ち。「被告は何々をせよ」と、原告の請求を認める言葉が続くからだ。

新聞記者として裁判の取材をしたことは何度もあるが、自分が裁判の当事者になったのは2年前の7月、64歳にして初めてのことだった。東海大山形高校を運営する学校法人、東海山形学園の財務会計書類を情報公開請求したのに対して、山形県が詳細な部分を伏せて開示したのは不当、として訴えたのだ。その私の裁判の判決は「ゲ」で始まり、負けた。山形地方裁判所の裁判官は「原告の請求を棄却する」との判決を下したのである。

この2年、「ああだ、こうだ」と理屈をこね回す県側の弁護士の主張をさんざん聞かされた挙げ句、この判決。「被告(山形県)は会計書類の不開示処分を取り消し、全面開示せよ」との判決を勝ち取ることはできなかった。怒りは湧いてこなかった。落胆もしなかった。正直に言えば、拍子抜けして、心の中で「はあ?」とひとりごちた。4月23日のことである。

こんな風に書いても訳が分からない方も多いはずなので、裁判の端緒と経緯をあらためて詳しく紹介したい。

学校法人の東海山形学園がダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資を行ったことを私が知ったのは、2016年11月のことだ。よく行く山形市内の蕎麦屋さんに地元の月刊誌『素晴らしい山形』が置いてあり、それに書いてあった(表1)。

『素晴らしい山形』はその少し前から、ダイバーシティメディアの社長であり、東海山形学園の理事長でもある吉村和文氏と、吉村美栄子・山形県知事をめぐる様々な問題を取り上げていた。吉村知事と和文氏は「義理のいとこ」である(知事の亡夫が和文氏のいとこ)。和文氏はこの会社と学校法人のほかにも、映画館会社やIT企業など10を超える会社を経営している。月刊誌は、それらの企業グループと山形県や山形市が癒着している、と告発していた。

事実であれば、ゆゆしき問題である。しばらく、様子を見ていた。だが、メディアはまったく報じる気配がない。議会でも何の質問も出ない。元新聞記者として、また、税金の使途を監視する市民オンブズマン山形県会議の会員として、そして何よりも、一人の人間として義憤に駆られた。

月刊誌の編集者兼発行人の相澤嘉久治(かくじ)氏は、かつて山形の政財界を牛耳り、「山形の天皇」と呼ばれた服部敬雄(よしお)・山形新聞社長に立ち向かい、「メディアの独占と横暴は許されない」と訴え続けた人だ。会ったことはなかったものの、東京で新聞記者をしていた頃からその追及ぶりは知っており、「わが故郷にも気骨のある人がいるなぁ」と感じていた。

その人が老骨に鞭打って新しい闘いを始めたのに、誰も加勢しないのはひど過ぎる。というわけで、2017年の春から、私は市民オンブズマン山形県会議の仲間の協力を得ながら、この問題を本格的に調べ始めた。山形地方法務局に行って和文氏が率いる会社の法人登記や土地登記の写しを取り、山形県庁に出向いて関係文書の情報公開を請求し始めた。調査の基礎資料として欠かせないからだ。

現役の新聞記者なら、県内の人脈を駆使し、コネも使って情報を集めることができるが、早期退職して故郷に戻った私にはそういうものはない。登記と開示情報が頼りである。山形県の情報公開制度はしっかりしている。県庁1階の行政情報センターに行けば、学事文書課の担当者が同席して、どういう公文書をどういう風に絞って請求すれば目的のものを入手できるか、手伝ってくれる。大いに助かった。

ところが、この3000万円融資問題に関しては、学校法人東海山形学園から山形県に提出された財務会計書類(資金収支計算書や消費収支計算書、貸借対照表)の公開を請求したところ、書類の細かい項目の部分が白くマスキングされて開示された(表2)。細部を伏せた理由は、情報公開条例の第6条に規定されている「開示することにより、法人の競争上の地位、財産権その他正当な利益を害するおそれがある情報」に該当するから、というものだった。

納得できなかった。私立学校を運営する学校法人には多額の私学助成費が政府と県から支出されている。その代わり、学校法人には毎年、財務会計書類を監督官庁(この場合は山形県)に提出することが義務付けられている。いわば、学校法人の運営状況を判断するための基礎資料とも言えるものだ。

こうした財務会計書類は、上場企業なら誰でも見ることができる。老人ホームを運営する社会福祉法人の場合も、一般に公開することが義務付けられている。公開されたことによって企業や社会福祉法人の利益が害された、などという話は聞いたこともない。なぜ、学校法人だと「利益が害される」となるのか。

最初は「この学校法人の理事長は知事の縁者だ。その法人が年間の私学助成費の1割にも当たる資金をグループ企業に融資するという、おかしなことをした。だから、県の職員はかばおうとしているのではないか」と疑った。

だが、裁判の準備をするため調べていくうちに「それほど単純な話ではない」と分かってきた。学校法人の財務会計書類をどのように扱うべきか。実は、文部科学省そのものが矛盾した対応をしているのだ。

不正入試などの不祥事が相次いだため、私立学校法は2004年に大幅に改正され、学校法人の理事機能を強化し、財務情報の公開を進めることになった。これを受けて、文部科学省は2009年に「広く一般の人や関係者の理解を得るため、財務情報の公開は極めて重要である。学校法人に財務書類の公開を法的に義務付けることが必要である」と、かなり踏み込んだ考え方を打ち出した。

ところが、それから10年も経つのに、学校法人の財務情報の公開はいまだ法的に義務付けられていない。それどころか、私立学校関係者の働きかけもあってか、大学に比べると規模の小さい高校を運営する学校法人について、文科省は「財務情報の公開義務付け」から除外しようとする動きを見せている。

今年の1月、大学設置・学校法人審議会の学校法人制度改善検討小委員会は「高校以下の学校を設置する学校法人については、中小規模の法人が多く、地域的に限られた運営を行っている。私学助成などを通じて各都道府県が独自に監督を行っており、財務状況等について広く全国を対象に公表することを義務付けることには慎重であるべきである」との提言をまとめた。文科省の意向を受けた提言と見ていいだろう。

表向きは「学校法人の財務情報の公開推進」を唱えながら、裏に回れば、私立高校を運営する法人について「財務情報の公開」を渋る文科省。山形県は右ならえ、の対応をしているのだ。

山形地裁の裁判官は「財務会計書類の詳細が明らかになれば、学校経営上の秘密やノウハウが他の高校の知るところとなり、当該学校法人の利益を害する可能性がある」という県側の荒唐無稽な言い分を鵜(う)呑みにして、全面開示の請求を棄却した。裁判所は、高校を運営する学校法人の情報公開に背を向ける文科省や山形県の対応を追認したのである(表3参照)。

現実はどうか。このような文科省や山形県、裁判所の考えより、はるか先まで進んでしまっている。文科省がまとめた「学校法人の財務情報等の公開状況に関する調査」(2018年10月時点)によれば、全国の大学・短大はすべて財務会計書類をすでに一般公開している。そのうち、貸借対照表の細かい内容まで(小科目まで含めて)公開している大学は56%に達している。

それでも、学校法人の情報公開に後ろ向きの人は「高校は違う。経営上のノウハウを他校にまねされやすいのだ」と言い募るのかもしれない。そういう人には「愛知県の私学助成を見よ」と言いたい。

愛知県の場合は19年前から、高校などを運営する学校法人に財務情報を一般に公開するよう指導している。それにとどまらず、実際に公開している法人には100万円の補助金を追加して支給している。

これに応じて公開している学校法人は、同県江南市の滝学園(中高一貫校を運営)など全体の3割近くある(表4は滝学園の資金収支計算書の一部)。愛知県以外でも、埼玉県の立教新座高校や静岡県の菊川南陵高校も公開している。こうした高校の関係者に山形県の言い分や山形地裁の判決内容を伝えると、ただ苦笑するだけだった。

情報公開は、ただ単に物事をガラス張りにして分かりやすくする、というだけではない。事実を公開することによって、組織の運営に緊張感がもたらされる。不祥事を未然に防ぐことにもつながる。物事をより良い方向に変えていく力になるのだ。

それは時代の流れであり、誰にも押しとどめることはできない。山形地裁の裁判官は法律や条例の細かい解釈にこだわり、大切なことを見落としている。情けない判決だ。これでは、控訴してさらに争うしかない。

*メールマガジン「風切通信 58」 2019年5月31日
              

*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の6月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。

≪写真説明とSource≫
山形地裁の判決後、記者会見する原告(筆者)と弁護団(産経デジタルから)
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/photos/190424/evt19042414220009-p1.html




旧優生保護法に基づいて行われた強制不妊について、仙台地裁は「法律そのものが違憲だった」とする一方で、「除斥期間が過ぎているので損害賠償は請求できない」という判決を下した。その内容を報じる新聞記事を読みながら、私の心はワナワナと震えた。

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戦後、国家が「あなたのような障害や遺伝性疾患のある人が子どもを産んでも不幸になるだけ」と、女性に不妊手術を強制した。「それはおかしい」と声を上げたのに、政府も国会も怠けて1996年まで法律を変えなかった。

その間、不妊手術を強いられた人たちはただ耐えるしかなかった。手術の記録は「保存期間が過ぎたから」と廃棄されていった。かろうじて残っていた記録を頼りに、「人間としての尊厳を踏みにじった責任を取って欲しい」と裁判に訴えたのに、この判決。このような判決文を書いた裁判官たちの責任は重大である。

旧優生保護法が「すべて国民は個人として尊重される」とうたった憲法13条に違反している、と判断したところまではいい。だが、それに続けて「除斥期間の20年が過ぎているので、国に損害賠償を請求することはできない」とは何事か。とんでもない判決だ。

除斥期間は時効に似た法理だ。ただ、時効が「他人の不動産も20年間、平穏に占有していれば所有権を得る」「工事の代金は3年間たてば請求できなくなる」などと、権利ごとに民法に規定されていて、期間も異なるのに対して、除斥期間は民法には詳しい規定がなく、期間も一律だ。「20年たてばどんな権利も行使できない。それは自明の理」というもので、時効より強烈といえる。

仙台地裁の裁判官はその除斥期間を適用して、損害賠償を求める被害者たちの請求を退けた。一応、理屈は通っている。だが、正義にはかなっていない。国民の多くもこの判決には納得しないだろう。強制不妊を迫られた人たちは何十年も「法律に基づく手術だから」と放っておかれたのだ。

そういう人たちの訴えを「法律によれば、そうなる」と切って捨てるのは、血の通った人間のすべきことではない。法律は、正義を実現し、苦しむ人たちに救いの手を差し伸べるための手段として使うべきものだ。為政者に都合のいいように解釈、運用されたのではたまらない。

日本の民法は、明治時代にフランスの民法をベースにドイツの法理論などを加味して、あわてて作られたものだ。19世紀に作られた法律を21世紀の今、杓子定規に適用してどうするのか。強制不妊をめぐるこれまでの経緯を踏まえ、訴えを起こせなかった事情に配慮して法律を解釈し、適用すればいいのだ。

被害者たちはずっと、権利を行使しようとしても行使できない状態に置かれていた。訴えても政府も国会も動かなかった。そのような「特段の事情」があったのだから、そういう場合には「20年以上たったから請求できない」と言うことはできない、という新しい解釈を編み出し、それを判例にすればいいではないか。

裁判官たちにそうした決断ができないのは、法曹という狭い世界に生きてきたからだろう。若い頃から、法律の細かい条文、くどくどした解釈ばかり目にしてきたから、広い世界で何が起きているのか、時代に求められているものは何なのか、そういうことに思いが至らない。彼らは利発だけれど、賢明ではない。

この判決に関する新聞各紙の報道はもの足りなかった。29日の朝日新聞の社説は、賠償を命じなかったのは「承服できない」と批判したが、除斥期間を適用したことに触れていない。毎日新聞の社説は「除斥期間を過ぎても『特段の理由』で訴えが認められた判決も過去にはある」と指摘したが、踏み込みが足りない。「人生踏みにじる罪深さ」という東京新聞の社説が一番、心に響いた。

こういう判決が出た時には、もっとズバッと書けばいいではないか。「ひどい判決だ」と。憲法によって裁判官に特別な身分保障が与えられているのは何のためか。きちんとした処遇と報酬が約束されているのは何のためなのか。こんな判決を書くためではないだろう。


 *メールマガジン「風切通信 57」 2019年5月29日


≪参考記事&文献≫
◎5月29日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞
◎東京新聞(電子版)の社説「人生踏みにじる罪深さ」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019052902000162.html
◎『民法概論?』(星野英一、良書普及会)
◎『新訂 民法總則』(我妻栄、岩波書店)

≪写真説明&Source≫
◎仙台地裁の判決に抗議する原告弁護団
https://mainichi.jp/articles/20190528/k00/00m/040/130000c