新聞業界に「ヨコタテ記者」という自嘲ネタがある。
役所が発表する報道資料は、ほとんどのものが横書きである。その資料に書いてあることをそのまま要約して、縦書きの新聞記事にすることを「ヨコタテ」と言う。横に書いてあるものを縦にするだけ。それで仕事をした気になっている記者を「ヨコタテ記者」と呼んで、さげすんでいるのである。
記者は日々、締め切りに追われて仕事をしている。役所が長い日数をかけてまとめた資料を短時間で読みこなし、その日の締め切りまでに記事にまとめるのは容易なことではない。その意味では、「ヨコタテ」はある程度は避けられないことである。
だが、メディアは役所の下請けではない。新聞記者なら、締め切りをにらみながら独自の視点、異なる角度から資料を読み解き、それも含めて記事に仕立て上げなければならない。それが購読料を払って新聞を読んでくれている読者に対する責任というものではないか。
こんなことを思ったのは、山形県を中心とする「6県合同プロジェクトチーム」が6月21日に「羽越・奥羽新幹線の費用対効果に関する調査報告書」を公表し、それを報じる各紙の記事を読んだからだ。
報告書は、羽越・奥羽の両新幹線をフル規格で建設する場合、それにかかる費用とそれによってもたらされる便益を試算したものだ。報告書の眼目は「フル規格新幹線を単線で整備すれば、費用対効果は1を上回る。整備は妥当」という点にある。
この発表を受けて、翌22日付で山形新聞は1面で「フル規格の妥当性確認」という見出しを付けて報じた。発表内容をダラダラと綴っただけの記事である。河北新報も大差ない。共に「ヨコタテ記者」の面目躍如と言うべきか。
朝日新聞はもっとひどい。発表から10日もたってから山形県版に記事を載せたのだが、その内容が山形新聞や河北新報とさほど変わらなかったからだ。この報告書の内容をチェックし、異なる角度から検討する時間が十分にあったのにそれをせず、要約しただけの記事を載せている。「言葉を失う」とはこういう時に使うのだろう。
6県合同の調査報告書のどこがどう、ひどいのか。
報告書は、これまでのように複線でフル規格の新幹線を整備した場合には費用対効果が0.5程度になり、とても採算が取れないことを認める。そのうえで、単線で盛り土構造にすれば建設費が安くなり、費用対効果が1を上回る、つまり採算が合うという結論を導き出している。従って、「フル規格の羽越・奥羽新幹線の整備には妥当性がある」というわけだ。
役人たちが何を狙っているか、明白である。新聞の見出しに「整備は妥当」という言葉を選ばせ、読者に「フル規格の新幹線整備を目指すのはまっとうなこと」と印象づけたいのだ。
山形新聞も河北新報も朝日新聞も、そろって「妥当」という見出しを付けてくれた。役人の思惑通り。「ヨコタテ記者」のそろい踏み、である。
元新聞記者の一人として、私は恥ずかしい。正直に言えば、駆け出し記者のころ私も似たような記事を書いたことがあるが、それでも恥ずかしい。
これらの記事を書いた記者たちが「素朴な疑問を抱き、そこから考える」という、新聞記者として当然なすべきことをしていないからだ。
素朴な疑問とは何か。それは、高速鉄道を「単線」で建設、整備することなど考えられるのか、という点だ。
国内の新幹線ではもちろん、そのような例はない。海外を見渡しても、時速200キロ以上で走る高速鉄道を単線でつくり、運行している国などどこにあるのか。
運行システムをどんなに優れたものにしても、保線作業をどれほど熱心にやっても、鉄道にはトラブルが付きものである。倒木や土砂崩れで不通になったりもする。そういう時に素早く復旧させるためにも、高速鉄道なら複線にするのが常識であり、当然のことなのだ。
つまり、単線でのフル規格新幹線の整備などというのは考えられないことであり、机上の空論に過ぎない。それをベースに「費用対効果は1を上回る。整備の妥当性が示された」などという報告書が出されたなら、記者は一言、「世界で高速鉄道を単線で運行している国はあるのか」と質問すればいいのだ。
記者会見の席でそうした質問をすることもなく、あるいは記事にするまで何日もあったのに専門家にそうしたことを尋ねることもなく、役人の思惑通り「妥当」という見出しを付けて報じるのは、新聞記者の役割を放棄しているようなものだ。
羽越・奥羽のフル規格新幹線整備を応援している大阪産業大学の波床(はとこ)正敏教授ですら、報告書を評価しつつ、「高速鉄道を単線で整備することを考えなければならないようなケチ臭い国は日本以外にはありません」と、その内容に疑問を呈している。
この6県合同の報告書をとりまとめる中心になったのは、山形県庁の「みらい企画創造部」である。その部長、小林剛也(ごうや)氏は記者会見の前の週、県内の経済人が主催するモーニングセミナーに講師として招かれ、フル規格の羽越・奥羽新幹線構想について「来週、新聞に驚くような記事が出ますよ。お楽しみに」と得意げに語ったという。
確かに、驚くほどお粗末な報告書だった。それを3紙とも、なんの疑問を呈することもなく、「整備は妥当」という見出しを付けて報じたのだから、驚きは倍加する。
小林氏は昨年夏、財務省の文書課長補佐から山形県庁に出向してきた。来年の春には、同じく出向組の大瀧洋・総務部長が総務省に戻るのに合わせて、総務部長に転じると見られている。
こんなお粗末な調査報告書をまとめる人物が県庁の企画部門のトップで、それが来年からは人事と財政をつかさどる総務部長になって号令をかける。悲しい話だ。
◇ ◇
吉村美栄子知事がフル規格の奥羽・羽越新幹線構想を唱え始めたのは東日本大震災の翌年、2012年からである。
大震災で東北の太平洋側の産業インフラがズタズタになるのを目の当たりにした。その復興を支援したくても、日本海側のインフラは脆弱(ぜいじゃく)で十分な支援ができない。そうした経験から「東北の日本海側にも太平洋側に劣らぬインフラを整備する必要がある。フル規格の新幹線が必要だ」との思いを深めたものと思われる。
北陸新幹線が金沢まで、北海道新幹線も青森から函館まで通じる見通しが立ったことで、当時、「次はどこに新幹線をつくるか」が政治課題として浮上しつつあった。それも知事の背中を押したようだ。
無投票で再選された2013年からは、県の重要施策の一つとして推進し始めた。当初は「奥羽・羽越フル規格新幹線の実現を」と呼びかけていた。福島から山形を通り、秋田に至る奥羽新幹線が先で、富山から新潟、山形、秋田を通って青森に至る羽越新幹線は2番目だった。それは、早くから「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備を」と主張していた山形新聞の主張とも重なる。
それが今回の報告書では「羽越・奥羽新幹線」と、順番が入れ替わった。なぜか。
吉村知事はこの構想を推進する理由について、東京で開かれたフォーラムで次のように語っている。「日本海側も太平洋側と同じく大事な国土。隅々まで新幹線ネットワークをつなぐことで、日本全体の力が発揮できる。全国の皆様にも関心を持っていただき、大きな運動のうねりをつくっていきたい」。
「リダンダンシー」という英語もよく使うようになった。太平洋側の交通インフラが災害で被害を受けた場合には日本海側でそれを補う――代替機能を担う、という意味合いだ。「災害時のリダンダンシー機能を確保し、県土の強靭化を図っていきたい」といった風に使っている。
この論理を進めていけば、山形から秋田に至る奥羽新幹線よりも日本海側の各都市を結ぶ羽越新幹線の方を優先しなければならない、ということになる。それが「奥羽・羽越」から「羽越・奥羽」になった理由だろう。
報告書が「6県合同のプロジェクトチーム」によってまとめられた、というのは、羽越新幹線のルートにある富山、新潟、山形、秋田、青森の5県、それに奥羽新幹線にかかわる福島を加えてのことだ。とはいえ、北陸新幹線が開通した富山や上越新幹線がある新潟、東北新幹線のある青森はもとより、ほとんど関心がない。「山形県が熱心だから」とお付き合いをしているに過ぎない。
田中角栄首相が日本列島改造論を唱えていた時代、あるいは高度経済成長を謳歌していた時代ならともかく、経済が右肩下がりになり、医療や社会福祉の負担がますます重くなるこれからの時代。人の往来もあまりない富山―新潟―山形―秋田―青森に1キロ当たり100億円とも試算されるフル規格の新幹線を建設する余裕がこの国にあるのか。
ごく常識的に考えただけでも「そんな余裕はない」という結論になる。
それでも、「50年後、100年後を考えれば、日本海側の産業インフラ整備も重要だ」という主張は成り立つ。が、それは「政治的な課題」というより、「長期の国家ビジョン」あるいは「政治哲学」の範疇に入れるべき議論だろう。山形県の知事がしゃかりきになって取り組み、税金を投じて県民運動を繰り広げるような課題ではあるまい。
振り返れば、このフル規格新幹線の整備を唱え始めたころから、吉村知事の迷走は始まっていたのではないか。「おかしい」と思っても、県庁内でそれを口にする者は誰もいない。
地元の山形新聞は見境もなく、一緒になって旗を振ってきた。山形1区選出の遠藤利明・衆院議員まで、何を思ってかこの空騒ぎに加わった。
吉村知事は「私が山形県を引っ張っている」といった高揚感を感じていたのかもしれない。その挙げ句に「コロナ禍での選挙で40万票を得て4選」である。
3月に県議会で若松正俊・副知事の再任人事案が否決された後、吉村知事は「民意を大切にしてほしいですね」と、鼻息荒く語った。「副知事も含めて信任を得たと思っています」とも述べた。
それは、首長と議会は対等であり地方自治の両輪である、,という大原則すら忘れ果てた、おごりたかぶる政治家の言動だった。
若松正俊・副知事が「公務員」という立場を忘れて、知事に反旗をひるがえした市長たちに「対立候補を応援しないで」「せめて中立を保って」などと働きかけたのも、そうしたおごりの延長線上で起きたことだろう。本人は、「罪を犯している」という意識すらなかったのではないか。
古来、権力の崩壊のタネは権勢のピークに芽吹くという。吉村県政もまたこの至言(しげん)通り、崩壊の道をたどり始めた、ということか。
・・・・・・・・・・・・
若松氏のメール、県は不存在と回答
1月の山形県知事選挙をめぐって、若松正俊・副知事はどのような動きをしていたのか。それを調べるため、筆者は6月17日、県に昨年7月以降の若松氏の公用車の運行記録とメール送受信記録の情報公開を求めた。
これに対し、公用車の運行記録は開示されたが、メールの送受信記録については「作成・保有していない」として「公文書不存在通知書」を受け取った(ともに7月1日付)
「不存在とはどういう意味か」と問いただしたところ、秘書課の課長補佐は「若松は副知事在任中の4年間、公務用にパソコンを貸与されていたが、まったく使っていない。従ってメールの送受信もない」と説明した。信じがたい説明である。
念のため、吉村美栄子知事の1期目の副知事、高橋節(たかし)氏と2期目の副知事、細谷知行(ともゆき)氏に尋ねたところ、2人とも「公務用のパソコンを使い、メールの送受信をしていた。知事からメールで指示を受けたこともある」と認めた。「不存在」は虚偽の疑いがある。
このため、筆者は追加で「吉村知事のメール送受信記録」「大瀧洋・総務部長のメール送受信記録」「若松氏の秘書のパソコン及びタブレット端末にある若松氏関連のメール送受信記録」(それぞれ昨年7月から今年5月まで)の情報公開を請求し、回答を待っている。
知事や公務員が業務でやり取りしたメールは「公文書」であり、その電子データも「公文書」として情報公開の対象になることは判例で確定している。条例で「不開示にできる」と定められているケースを除き、原則として公開しなければならない。
公文書が存在するのに「不存在」と回答するのは、当然のことながら県情報公開条例違反であり、違法である。さらに調べたうえで、対抗措置を検討したい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 92」 2021年7月29日
*初出:月刊『素晴らしい山形』2021年8月号
≪写真説明&Source≫
羽越・奥羽新幹線構想を含め山形県政について語る吉村美栄子知事(ビジネス誌『事業構想』オンライン2019年6月号)
https://www.projectdesign.jp/201906/area-yamagata/006426.php
役所が発表する報道資料は、ほとんどのものが横書きである。その資料に書いてあることをそのまま要約して、縦書きの新聞記事にすることを「ヨコタテ」と言う。横に書いてあるものを縦にするだけ。それで仕事をした気になっている記者を「ヨコタテ記者」と呼んで、さげすんでいるのである。
記者は日々、締め切りに追われて仕事をしている。役所が長い日数をかけてまとめた資料を短時間で読みこなし、その日の締め切りまでに記事にまとめるのは容易なことではない。その意味では、「ヨコタテ」はある程度は避けられないことである。
だが、メディアは役所の下請けではない。新聞記者なら、締め切りをにらみながら独自の視点、異なる角度から資料を読み解き、それも含めて記事に仕立て上げなければならない。それが購読料を払って新聞を読んでくれている読者に対する責任というものではないか。
こんなことを思ったのは、山形県を中心とする「6県合同プロジェクトチーム」が6月21日に「羽越・奥羽新幹線の費用対効果に関する調査報告書」を公表し、それを報じる各紙の記事を読んだからだ。
報告書は、羽越・奥羽の両新幹線をフル規格で建設する場合、それにかかる費用とそれによってもたらされる便益を試算したものだ。報告書の眼目は「フル規格新幹線を単線で整備すれば、費用対効果は1を上回る。整備は妥当」という点にある。
この発表を受けて、翌22日付で山形新聞は1面で「フル規格の妥当性確認」という見出しを付けて報じた。発表内容をダラダラと綴っただけの記事である。河北新報も大差ない。共に「ヨコタテ記者」の面目躍如と言うべきか。
朝日新聞はもっとひどい。発表から10日もたってから山形県版に記事を載せたのだが、その内容が山形新聞や河北新報とさほど変わらなかったからだ。この報告書の内容をチェックし、異なる角度から検討する時間が十分にあったのにそれをせず、要約しただけの記事を載せている。「言葉を失う」とはこういう時に使うのだろう。
6県合同の調査報告書のどこがどう、ひどいのか。
報告書は、これまでのように複線でフル規格の新幹線を整備した場合には費用対効果が0.5程度になり、とても採算が取れないことを認める。そのうえで、単線で盛り土構造にすれば建設費が安くなり、費用対効果が1を上回る、つまり採算が合うという結論を導き出している。従って、「フル規格の羽越・奥羽新幹線の整備には妥当性がある」というわけだ。
役人たちが何を狙っているか、明白である。新聞の見出しに「整備は妥当」という言葉を選ばせ、読者に「フル規格の新幹線整備を目指すのはまっとうなこと」と印象づけたいのだ。
山形新聞も河北新報も朝日新聞も、そろって「妥当」という見出しを付けてくれた。役人の思惑通り。「ヨコタテ記者」のそろい踏み、である。
元新聞記者の一人として、私は恥ずかしい。正直に言えば、駆け出し記者のころ私も似たような記事を書いたことがあるが、それでも恥ずかしい。
これらの記事を書いた記者たちが「素朴な疑問を抱き、そこから考える」という、新聞記者として当然なすべきことをしていないからだ。
素朴な疑問とは何か。それは、高速鉄道を「単線」で建設、整備することなど考えられるのか、という点だ。
国内の新幹線ではもちろん、そのような例はない。海外を見渡しても、時速200キロ以上で走る高速鉄道を単線でつくり、運行している国などどこにあるのか。
運行システムをどんなに優れたものにしても、保線作業をどれほど熱心にやっても、鉄道にはトラブルが付きものである。倒木や土砂崩れで不通になったりもする。そういう時に素早く復旧させるためにも、高速鉄道なら複線にするのが常識であり、当然のことなのだ。
つまり、単線でのフル規格新幹線の整備などというのは考えられないことであり、机上の空論に過ぎない。それをベースに「費用対効果は1を上回る。整備の妥当性が示された」などという報告書が出されたなら、記者は一言、「世界で高速鉄道を単線で運行している国はあるのか」と質問すればいいのだ。
記者会見の席でそうした質問をすることもなく、あるいは記事にするまで何日もあったのに専門家にそうしたことを尋ねることもなく、役人の思惑通り「妥当」という見出しを付けて報じるのは、新聞記者の役割を放棄しているようなものだ。
羽越・奥羽のフル規格新幹線整備を応援している大阪産業大学の波床(はとこ)正敏教授ですら、報告書を評価しつつ、「高速鉄道を単線で整備することを考えなければならないようなケチ臭い国は日本以外にはありません」と、その内容に疑問を呈している。
この6県合同の報告書をとりまとめる中心になったのは、山形県庁の「みらい企画創造部」である。その部長、小林剛也(ごうや)氏は記者会見の前の週、県内の経済人が主催するモーニングセミナーに講師として招かれ、フル規格の羽越・奥羽新幹線構想について「来週、新聞に驚くような記事が出ますよ。お楽しみに」と得意げに語ったという。
確かに、驚くほどお粗末な報告書だった。それを3紙とも、なんの疑問を呈することもなく、「整備は妥当」という見出しを付けて報じたのだから、驚きは倍加する。
小林氏は昨年夏、財務省の文書課長補佐から山形県庁に出向してきた。来年の春には、同じく出向組の大瀧洋・総務部長が総務省に戻るのに合わせて、総務部長に転じると見られている。
こんなお粗末な調査報告書をまとめる人物が県庁の企画部門のトップで、それが来年からは人事と財政をつかさどる総務部長になって号令をかける。悲しい話だ。
◇ ◇
吉村美栄子知事がフル規格の奥羽・羽越新幹線構想を唱え始めたのは東日本大震災の翌年、2012年からである。
大震災で東北の太平洋側の産業インフラがズタズタになるのを目の当たりにした。その復興を支援したくても、日本海側のインフラは脆弱(ぜいじゃく)で十分な支援ができない。そうした経験から「東北の日本海側にも太平洋側に劣らぬインフラを整備する必要がある。フル規格の新幹線が必要だ」との思いを深めたものと思われる。
北陸新幹線が金沢まで、北海道新幹線も青森から函館まで通じる見通しが立ったことで、当時、「次はどこに新幹線をつくるか」が政治課題として浮上しつつあった。それも知事の背中を押したようだ。
無投票で再選された2013年からは、県の重要施策の一つとして推進し始めた。当初は「奥羽・羽越フル規格新幹線の実現を」と呼びかけていた。福島から山形を通り、秋田に至る奥羽新幹線が先で、富山から新潟、山形、秋田を通って青森に至る羽越新幹線は2番目だった。それは、早くから「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備を」と主張していた山形新聞の主張とも重なる。
それが今回の報告書では「羽越・奥羽新幹線」と、順番が入れ替わった。なぜか。
吉村知事はこの構想を推進する理由について、東京で開かれたフォーラムで次のように語っている。「日本海側も太平洋側と同じく大事な国土。隅々まで新幹線ネットワークをつなぐことで、日本全体の力が発揮できる。全国の皆様にも関心を持っていただき、大きな運動のうねりをつくっていきたい」。
「リダンダンシー」という英語もよく使うようになった。太平洋側の交通インフラが災害で被害を受けた場合には日本海側でそれを補う――代替機能を担う、という意味合いだ。「災害時のリダンダンシー機能を確保し、県土の強靭化を図っていきたい」といった風に使っている。
この論理を進めていけば、山形から秋田に至る奥羽新幹線よりも日本海側の各都市を結ぶ羽越新幹線の方を優先しなければならない、ということになる。それが「奥羽・羽越」から「羽越・奥羽」になった理由だろう。
報告書が「6県合同のプロジェクトチーム」によってまとめられた、というのは、羽越新幹線のルートにある富山、新潟、山形、秋田、青森の5県、それに奥羽新幹線にかかわる福島を加えてのことだ。とはいえ、北陸新幹線が開通した富山や上越新幹線がある新潟、東北新幹線のある青森はもとより、ほとんど関心がない。「山形県が熱心だから」とお付き合いをしているに過ぎない。
田中角栄首相が日本列島改造論を唱えていた時代、あるいは高度経済成長を謳歌していた時代ならともかく、経済が右肩下がりになり、医療や社会福祉の負担がますます重くなるこれからの時代。人の往来もあまりない富山―新潟―山形―秋田―青森に1キロ当たり100億円とも試算されるフル規格の新幹線を建設する余裕がこの国にあるのか。
ごく常識的に考えただけでも「そんな余裕はない」という結論になる。
それでも、「50年後、100年後を考えれば、日本海側の産業インフラ整備も重要だ」という主張は成り立つ。が、それは「政治的な課題」というより、「長期の国家ビジョン」あるいは「政治哲学」の範疇に入れるべき議論だろう。山形県の知事がしゃかりきになって取り組み、税金を投じて県民運動を繰り広げるような課題ではあるまい。
振り返れば、このフル規格新幹線の整備を唱え始めたころから、吉村知事の迷走は始まっていたのではないか。「おかしい」と思っても、県庁内でそれを口にする者は誰もいない。
地元の山形新聞は見境もなく、一緒になって旗を振ってきた。山形1区選出の遠藤利明・衆院議員まで、何を思ってかこの空騒ぎに加わった。
吉村知事は「私が山形県を引っ張っている」といった高揚感を感じていたのかもしれない。その挙げ句に「コロナ禍での選挙で40万票を得て4選」である。
3月に県議会で若松正俊・副知事の再任人事案が否決された後、吉村知事は「民意を大切にしてほしいですね」と、鼻息荒く語った。「副知事も含めて信任を得たと思っています」とも述べた。
それは、首長と議会は対等であり地方自治の両輪である、,という大原則すら忘れ果てた、おごりたかぶる政治家の言動だった。
若松正俊・副知事が「公務員」という立場を忘れて、知事に反旗をひるがえした市長たちに「対立候補を応援しないで」「せめて中立を保って」などと働きかけたのも、そうしたおごりの延長線上で起きたことだろう。本人は、「罪を犯している」という意識すらなかったのではないか。
古来、権力の崩壊のタネは権勢のピークに芽吹くという。吉村県政もまたこの至言(しげん)通り、崩壊の道をたどり始めた、ということか。
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若松氏のメール、県は不存在と回答
1月の山形県知事選挙をめぐって、若松正俊・副知事はどのような動きをしていたのか。それを調べるため、筆者は6月17日、県に昨年7月以降の若松氏の公用車の運行記録とメール送受信記録の情報公開を求めた。
これに対し、公用車の運行記録は開示されたが、メールの送受信記録については「作成・保有していない」として「公文書不存在通知書」を受け取った(ともに7月1日付)
「不存在とはどういう意味か」と問いただしたところ、秘書課の課長補佐は「若松は副知事在任中の4年間、公務用にパソコンを貸与されていたが、まったく使っていない。従ってメールの送受信もない」と説明した。信じがたい説明である。
念のため、吉村美栄子知事の1期目の副知事、高橋節(たかし)氏と2期目の副知事、細谷知行(ともゆき)氏に尋ねたところ、2人とも「公務用のパソコンを使い、メールの送受信をしていた。知事からメールで指示を受けたこともある」と認めた。「不存在」は虚偽の疑いがある。
このため、筆者は追加で「吉村知事のメール送受信記録」「大瀧洋・総務部長のメール送受信記録」「若松氏の秘書のパソコン及びタブレット端末にある若松氏関連のメール送受信記録」(それぞれ昨年7月から今年5月まで)の情報公開を請求し、回答を待っている。
知事や公務員が業務でやり取りしたメールは「公文書」であり、その電子データも「公文書」として情報公開の対象になることは判例で確定している。条例で「不開示にできる」と定められているケースを除き、原則として公開しなければならない。
公文書が存在するのに「不存在」と回答するのは、当然のことながら県情報公開条例違反であり、違法である。さらに調べたうえで、対抗措置を検討したい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 92」 2021年7月29日
*初出:月刊『素晴らしい山形』2021年8月号
≪写真説明&Source≫
羽越・奥羽新幹線構想を含め山形県政について語る吉村美栄子知事(ビジネス誌『事業構想』オンライン2019年6月号)
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7月31日(土)に第9回最上川縦断カヌー探訪を予定通りに開催します。参加予定者は49人で、過去最多になる見込みです。当日の天候予報は晴れのち曇り、最高気温は32度。
大津波に襲われた福島第一原発で何が起きていたのか。それを追い続ける共同通信原発事故取材班の連載が佳境を迎えている。
「全電源喪失の記憶」の通しタイトルで2014年から続く連載は、7月6日から第5部「1号機爆発」が始まった。地震による激しい揺れ、そして襲ってきた大津波。原発の運転に欠かせない電源がすべて失われた時、原発の中央制御室にいた当直長と運転員たちは何を考え、どう動いたのか。それを当事者たちの証言で綴っている。
第5部の1回目の見出しは「DGトリップ!」」である。原発は、電力の供給が止まった場合、複数の非常用ディーゼル発電機(Diesel Generator, DG)が自動的に動き出し、原子炉を制御できるようになっている。1号機と2号機にはそれぞれ2台の非常用発電機が備えられていた。万が一、2台とも動かなくなっても隣の原子炉用の発電機から電気が供給される仕組みになっていた。
ところが、30分ほどして大津波が襲来し、ディーゼル発電機が水につかってしまった。電源盤も水浸しになったため、別の発電機の電気を回すことも不可能になった。すべての電源が失われた(トリップした)のである。その瞬間、中央制御室にいた運転員が叫んだ言葉が「DGトリップ!」だった。
事故当時、福島第一原発の1、2号機の中央制御室で当直長をしていた伊沢郁夫の証言。「心の中で弱気になったのはあの瞬間だけですね。打つ手がないという状況は人生の中で初めてでしたから」。当事者の生の証言は、政府や東京電力がまとめた事故報告書のいかなる表現よりも、現場の衝撃の大きさを端的に示している。
第5部の2回目(7月7日付)に載っている伊沢の証言も印象的だ。原発の運転員たちは様々な事故に備えてトレーニングを受けていた。その訓練の内容と現実とのギャップを、伊沢はこう語っている。「どんなに厳しい訓練でも常に最後は電源があるわけです。それがないという現実が分かったときのショック。『どうしよう、とにかく考えるんだ』って思いました」。
この証言は、日本政府や電力各社、原発メーカーが振りまいてきた「安全神話」がいかにでたらめなものだったかを示している。電力会社は原発事故に備えて保険に入っていた。その保険は、炉心溶融を含む過酷事故をも含むものだった。
ところが、事故に備えた訓練は「常に電源がある」条件で行われていた。つまり、最も厳しい局面でどう対処するか、については訓練すらしていなかったのである。欺瞞であり、国民に対する背信行為と言うしかない。
連載の3回目にも、政府と電力会社の欺瞞を示す証言が登場する。当直長の1人、遠藤英由の証言。3月11日の夜、すべての電源が失われ、運転員たちは原子炉の水位や温度を示す計器を読むことすらできない絶望的な状況に追い込まれていた。遠藤は述懐する。「スクラム(原子炉緊急停止)から時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」
原発事故に対応する現場では、「炉心溶融は避けられない」と覚悟していた。にもかかわらず、当時の民主党政権と東京電力はそれを認めようとしなかった。新聞に「炉心溶融」の見出しが載ると、政府は「何を根拠に炉心溶融と書くのか」と猛烈な圧力をかけ、その表現を撤回させた。事実を捻じ曲げようと必死になったのである。
そうした中にも救いはあった。4回目の連載記事(9日付)では、原子炉格納容器が爆発するのを防ぐために運転員たちがベントを試みる様子が描かれている。大量被曝を避けられない、危険きわまりない現場に誰が行くか。
当直長の伊沢郁夫は「まず俺が行く」と言った。だが、応援に駆け付けた別の当直長は「君はここに残って仕切ってくれなきゃ駄目だ。俺らが行く」と言い返す。若手の運転員たちも「私も行きます」と次々に手を挙げた。命をかけて、名乗り出たのだった。
福島の原発事故をあの規模で抑え込むことができたのは、さまざまな幸運に恵まれたのに加えて、こうした運転員たちを含む現場の覚悟があったからだ。「行きます」と名乗り出た時の運転員たちの胸のうちを思うと、今でも目頭が熱くなる。
それに引き換え、東京電力の首脳たちはどうだ。2008年の段階で「最悪の場合、高さ15メートルの津波が来ることもあり得る」という報告が内部から上がってきていたのに、「信頼性に疑問がある」などと難癖をつけてその報告を退け、有効な津波対策に乗り出すことを拒んだ。
当時の東京電力の会長、勝俣恒久、社長の清水正孝、副社長の武藤栄・・・。当時の首脳は誰一人、潔く責任を認めようとしない。「万死に値する判断ミス」を犯しておきながら、いまだに責任を逃れようとあがき続けている。
ぶざまな事故対応に終始した、当時の首相、菅直人や経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男ら民主党政権の首脳たちにしても、何が足りなかったのか、どう対応すべきだったのかについて率直に語るのを聞いたことがない。
二流のトップを一流の現場が支える。それが日本社会の伝統なのか。コロナ禍でも同じことが繰り返される、と覚悟しなければなるまい。
(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 91」 2021年7月9日
*このコラムは、山形新聞に掲載された共同通信配信の連載をもとに書いています。共同通信の「全電源喪失の記憶」の初期の連載は、祥伝社から2015年に出版されています。今回の連載も本にまとめ、出版されるかもしれません。朝日新聞や読売新聞は共同通信と国内記事の配信を受ける契約を結んでいないため掲載できず、読者は読むことができません。
≪写真説明&Source≫
照明が点灯した福島第一原発の中央制御室=2011年3月26日、時事通信社
https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp10647542&d=d4_topics
「全電源喪失の記憶」の通しタイトルで2014年から続く連載は、7月6日から第5部「1号機爆発」が始まった。地震による激しい揺れ、そして襲ってきた大津波。原発の運転に欠かせない電源がすべて失われた時、原発の中央制御室にいた当直長と運転員たちは何を考え、どう動いたのか。それを当事者たちの証言で綴っている。
第5部の1回目の見出しは「DGトリップ!」」である。原発は、電力の供給が止まった場合、複数の非常用ディーゼル発電機(Diesel Generator, DG)が自動的に動き出し、原子炉を制御できるようになっている。1号機と2号機にはそれぞれ2台の非常用発電機が備えられていた。万が一、2台とも動かなくなっても隣の原子炉用の発電機から電気が供給される仕組みになっていた。
ところが、30分ほどして大津波が襲来し、ディーゼル発電機が水につかってしまった。電源盤も水浸しになったため、別の発電機の電気を回すことも不可能になった。すべての電源が失われた(トリップした)のである。その瞬間、中央制御室にいた運転員が叫んだ言葉が「DGトリップ!」だった。
事故当時、福島第一原発の1、2号機の中央制御室で当直長をしていた伊沢郁夫の証言。「心の中で弱気になったのはあの瞬間だけですね。打つ手がないという状況は人生の中で初めてでしたから」。当事者の生の証言は、政府や東京電力がまとめた事故報告書のいかなる表現よりも、現場の衝撃の大きさを端的に示している。
第5部の2回目(7月7日付)に載っている伊沢の証言も印象的だ。原発の運転員たちは様々な事故に備えてトレーニングを受けていた。その訓練の内容と現実とのギャップを、伊沢はこう語っている。「どんなに厳しい訓練でも常に最後は電源があるわけです。それがないという現実が分かったときのショック。『どうしよう、とにかく考えるんだ』って思いました」。
この証言は、日本政府や電力各社、原発メーカーが振りまいてきた「安全神話」がいかにでたらめなものだったかを示している。電力会社は原発事故に備えて保険に入っていた。その保険は、炉心溶融を含む過酷事故をも含むものだった。
ところが、事故に備えた訓練は「常に電源がある」条件で行われていた。つまり、最も厳しい局面でどう対処するか、については訓練すらしていなかったのである。欺瞞であり、国民に対する背信行為と言うしかない。
連載の3回目にも、政府と電力会社の欺瞞を示す証言が登場する。当直長の1人、遠藤英由の証言。3月11日の夜、すべての電源が失われ、運転員たちは原子炉の水位や温度を示す計器を読むことすらできない絶望的な状況に追い込まれていた。遠藤は述懐する。「スクラム(原子炉緊急停止)から時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」
原発事故に対応する現場では、「炉心溶融は避けられない」と覚悟していた。にもかかわらず、当時の民主党政権と東京電力はそれを認めようとしなかった。新聞に「炉心溶融」の見出しが載ると、政府は「何を根拠に炉心溶融と書くのか」と猛烈な圧力をかけ、その表現を撤回させた。事実を捻じ曲げようと必死になったのである。
そうした中にも救いはあった。4回目の連載記事(9日付)では、原子炉格納容器が爆発するのを防ぐために運転員たちがベントを試みる様子が描かれている。大量被曝を避けられない、危険きわまりない現場に誰が行くか。
当直長の伊沢郁夫は「まず俺が行く」と言った。だが、応援に駆け付けた別の当直長は「君はここに残って仕切ってくれなきゃ駄目だ。俺らが行く」と言い返す。若手の運転員たちも「私も行きます」と次々に手を挙げた。命をかけて、名乗り出たのだった。
福島の原発事故をあの規模で抑え込むことができたのは、さまざまな幸運に恵まれたのに加えて、こうした運転員たちを含む現場の覚悟があったからだ。「行きます」と名乗り出た時の運転員たちの胸のうちを思うと、今でも目頭が熱くなる。
それに引き換え、東京電力の首脳たちはどうだ。2008年の段階で「最悪の場合、高さ15メートルの津波が来ることもあり得る」という報告が内部から上がってきていたのに、「信頼性に疑問がある」などと難癖をつけてその報告を退け、有効な津波対策に乗り出すことを拒んだ。
当時の東京電力の会長、勝俣恒久、社長の清水正孝、副社長の武藤栄・・・。当時の首脳は誰一人、潔く責任を認めようとしない。「万死に値する判断ミス」を犯しておきながら、いまだに責任を逃れようとあがき続けている。
ぶざまな事故対応に終始した、当時の首相、菅直人や経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男ら民主党政権の首脳たちにしても、何が足りなかったのか、どう対応すべきだったのかについて率直に語るのを聞いたことがない。
二流のトップを一流の現場が支える。それが日本社会の伝統なのか。コロナ禍でも同じことが繰り返される、と覚悟しなければなるまい。
(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 91」 2021年7月9日
*このコラムは、山形新聞に掲載された共同通信配信の連載をもとに書いています。共同通信の「全電源喪失の記憶」の初期の連載は、祥伝社から2015年に出版されています。今回の連載も本にまとめ、出版されるかもしれません。朝日新聞や読売新聞は共同通信と国内記事の配信を受ける契約を結んでいないため掲載できず、読者は読むことができません。
≪写真説明&Source≫
照明が点灯した福島第一原発の中央制御室=2011年3月26日、時事通信社
https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp10647542&d=d4_topics