余命いくばくもなく、訪ねることができるところはあと一つだけ。そう告げられたら、あなたはどこを選ぶだろうか。
私は迷うことなく、「アフガニスタン」と答える。32年前、国際部門に配属されて最初に取材した国であり、その後も新聞記者として心血を注ぎ続けた土地だからだ。
戦争とは何か。その中で生きるとはどういうことか。アフガンの人々と接する中でそれを教えられ、考えさせられた。厳しい取材だったが、日本にいたのでは経験も想像もできないことが多かった。新聞記者として生きてゆく覚悟のようなものを植え付けられた土地だった。
この夏、そのアフガニスタンが再び国際報道の焦点になった。
2001年9月の同時多発テロの後、アメリカはこの国に攻め込んだ。当時、この国を支配していたイスラム勢力のタリバンが、テロの首謀者であるオサマ・ビンラディンらをかくまっていたからだ。
米国は圧倒的な軍事力でタリバン政権を崩壊させ、親米的な政権をつくり、この国を「自由で民主的な国」にしようと試みてきた。だが、20年にわたって戦い、支援してきたにもかかわらず、彼らが望むような国をつくることはできず、撤退に追い込まれた。
全土をほぼ支配下に収め、実権を握ったのは、米軍が一度はたたき潰したはずのタリバンである。
首都カブールの北郊にある空港は逃げ出す外国人であふれ返った。通訳や諜報員として米軍に協力したアフガン人とその家族も、報復を恐れて空港に押し寄せた。離陸する輸送機の機体にしがみつく人々を捉(とら)えた映像は、彼らの恐怖心がどれほどのものかを示している。
なにせタリバンは、アフガン各派の中で最も厳格にイスラム法を適用すると標榜している勢力である。かつて権力を掌握した際には、反対勢力を容赦なく処刑した。
女性には全身をすっぽり覆うブルカの着用を強制し、女子教育も認めなかった。「盗みを働いた者は手を切り落とす」「姦通は石打ちの刑」といった古来の刑罰を復活させ、実行した。バーミヤンの大仏を「偶像崇拝の象徴」として爆破したのもタリバンだ。
「あの恐怖の日々がまたやって来る」。普通の住民がおびえるのは無理もない。
だが、アフガニスタンの政治と社会をずっと追ってきた人間から見ると、「タリバンはかなり変わった」と映る。かつての統治の行き過ぎを認め、より現実的な方向に舵を切ろうとしているのではないか。
米軍撤退の前に米政府と交渉し、「撤退が完了するまではカブール国際空港の管理を米軍にゆだねる」と合意したのは、路線変更の証しと言っていい。かつてのタリバンなら、勢いにまかせて空港も制圧し、殺戮(さつりく)の限りを尽くしたことだろう。
権力掌握後の8月17日に開いた記者会見で、タリバンの報道官は「女性の権利を尊重する。女性は働き、学ぶことができる」「自由で独立した報道を認める」と語った。どちらも「イスラム法が認める範囲内で」という条件付きではあるが、大きな路線転換であることは間違いない。
報道官は、反対勢力の政治家や兵士に「恩赦を与える」と述べ、「外国に脅威を与えることは望まない」と表明した。「アフガンはまた『テロの温床』になってしまうのではないか」との懸念を払拭しようとしたのだろう。
こうしたタリバン側の表明を「国際社会からの批判をかわすための演技」と報じたメディアもある。確かに、額面通りに受けとめるわけにはいかない。タリバンの兵士たちがこうした約束をどれだけ守るかも定かではない。
だが、この国が歩んできた険しい道のりを思えば、「演技」と断じてしまうのは酷だろう。一線の兵士はともかく、少なくともタリバンの指導部は過去の失敗から学び、「現実的な路線を選択しなければ、安定した統治はできない」と悟ったのではないか。
◇ ◇
私が初めてアフガニスタンを訪れたのは1989年の4月である。インドのニューデリーから空路、首都のカブールに向かった。パキスタンの領土を横切り、空からこの国の風景を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。黒褐色の岩山が延々と続いていた。
国境の峰々を越えても、その色は変わらない。砂漠ではなく、岩と土漠(どばく)の世界が広がっていた。緑はほとんどない。雪融け水が流れる川に沿って草木がわずかに茂り、村々がへばり付くように点在していた。
緑に包まれた日本の風景の「ネガフィルム」を見ているような感覚。こんな厳しい土地で人々はどうやって生きてきたのか。なぜ、争いがやまないのか。褐色の大地を食い入るように見つめ続けた。
当時、この国を支配していたのは共産主義政権だった。ソ連はその政権を支えるため軍事介入したが、10年にわたって反政府イスラム武装勢力の激しい抵抗を受け、おびただしい数の犠牲者を出して2カ月前に完全撤退していた。
ソ連軍の撤退前にアメリカや日本の外交官は脱出し、国連の職員も去っていた。長い戦乱ですでにパキスタンとイランに500万人の難民が流出していたが、撤退を機に新たな難民も生まれた。この時の混乱状態は今回の米軍撤退時と重なるものがある。
政府側が支配しているのは首都カブールをはじめとする主要都市だけ。農村部は反政府勢力がおさえ、都市を包囲していた。カブールにも連日のようにロケット弾が撃ち込まれていた。
中心部のホテルは破壊され、報道陣が宿泊できるのは丘の上にあるホテルのみ。ここに世界中からやって来た多くの記者やカメラマンが陣取っていた。
国際電話はほとんど通じない。衛星電話は登場したばかりで、大型のスーツケースほどもあった。高価なうえ記者一人ではとても持ち込めない。商用のテレックス回線を使い、ローマ字で日本語の原稿を送るしかなかった。
戦況を正確に把握するためには、反政府勢力側からも取材しなければならない。何回目かの出張の際、パキスタンの国境地帯からゲリラ部隊に同行して彼らの動きも取材した。
それができたのは、当時のアフガンでは「パシュトゥンの掟」と呼ばれる慣習が強く残っていたからである。その掟は部族によって微妙に異なるが、「尚武(トゥーラ)」「客人歓待(メルマスティア)」「復讐(バダル)」の三つはどこでも固く守られていた。
自立心が強く、家族と財産を守るために命をかけて戦う。一方で、見知らぬ者でも頼ってくれば、できる限りのもてなしをする。客人として記者を受け入れた部隊は、記者を守るためにあらゆる手段を尽くしてくれた。
目にした農村の風景は強烈だった。どの家も高い土壁に囲まれ、一軒一軒が砦(とりで)のような造りになっている。どの家にも男手の数だけ自動小銃があった。男の子は物心がついたころから、銃を分解して組み立てることを仕込まれるのだという。
アメリカは「銃社会」と言われるが、それをはるかに上回る「重武装の社会」である。そして、それはこの国の地勢を考えれば、当然のことだった。
周りの国はすべて陸続きだ。いつ、どこから、武装した人間たちがなだれ込んでくるか分からない。実際、騎乗したモンゴル兵に蹂躙(じゅうりん)され、ペルシャの軍勢に攻め込まれるといった歴史をくぐり抜けてきた。自分の身は自分で守るしかない社会なのだ。
日本は海に囲まれ、外敵に突然攻め込まれる、といった心配をする必要がない。有史以来、外国の大軍に攻撃されたのは、元寇とマッカーサー率いる米軍の2回だけである。
世界でもまれなほど「安全な国」だ。軍事的な観点から見ても、日本とアフガンは「写真のネガとポジ」のような関係にある。日本人の感覚でこの国の政治や社会を考えようとしても、とても捉えきれるものではない。
◇ ◇
ソ連軍撤退の3年後、1992年に共産主義政権は崩壊し、イスラム政権が樹立された。だが、待っていたのはイスラム諸勢力による凄惨な内戦だった。
アフガニスタンの国境が現在のような形になったのは19世紀末のことである。
インドを植民地支配していた大英帝国はその版図を西に広げようとした。一方、北からはロシア帝国が南下を図って攻め込んだ。せめぎ合う二つの帝国は、直接衝突することを避けるため、アフガニスタンを「緩衝地帯」として残すことで合意した。そうして引かれたのが今の国境線である。
その結果、この地域で暮らしていた主要な民族は真っ二つに分断された。ヒンドゥークシ山脈の南麓にいたパシュトゥン人はアフガンと英領インド(現パキスタン)に二分され、山脈の北側にいたタジク人とウズベク人も、半分はロシア領に組み込まれた(図参照)。
アフガンの苦悩は、この国境画定を抜きにして語ることはできない。人口の過半数を占める民族はない。おまけに、どの民族も多くの部族に分かれ、それぞれの利害がぶつかり合う。
一口に反政府イスラム勢力と言っても、私が取材していた頃ですら、15もの組織に分かれていた。共産主義政権という「共通の敵」がいなくなった途端、そうした勢力が入り乱れて戦い始めたのだ。
90年代の半ば、国土が荒れ果て、世界が関心を失う中で台頭したのがタリバンだった。パシュトゥー語で「(神学校の)生徒」を意味する。厳格なイスラム支配を唱える宗教指導者が神学校の生徒たちを糾合して組織した、と喧伝されたが、それは表向きの顔に過ぎない。
戦車をはじめとする武器と弾薬を供給したのはパキスタンの軍部であり、資金的に支えたのは湾岸諸国のイスラム主義勢力だった。パキスタンは隣国を意のままに操ることを目指し、湾岸の同調勢力は「理想のイスラム国家」の建設を夢見た。
だが、尚武の気質を持つ民は「武器と金」をもらっても、意のままにはならなかった。支援する者たちの思惑を超えて、信じられないほど厳格なイスラム支配に乗り出し、米国を「悪の帝国」とみなすアルカイダなど過激な勢力と手を組んだ。
共産主義から厳格なイスラム支配へ。大国と周辺国の思惑に突き動かされ、アフガンは振り子の重しが外れてしまうほど激しく揺れた。そして、9・11テロへと至ったのだった。
アメリカの政治家と軍人たちは「我々には『テロの撲滅』という大義がある。今度こそ、この国を自由で開かれた国にする」と決意していたのではないか。日本や欧州諸国もそれに従って巨額の援助を注ぎ込んだ。
そうした介入と援助は水泡に帰した。なぜか。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「気概と気風」を軽く見ていたのではないか。彼らはよそ者から押し付けられることを何よりも嫌う。自分たちの社会のことは自分たちで決めたいのだ。彼らには彼らの掟と慣習がある。それはイスラムが伝来するはるか以前から育んできたもので、イスラムの教えと溶け合って社会に深く根を下ろしている。変える必要があるとしても、根付いたものに反しないよう変え方も自分たちで決めたいのだ。
「パシュトゥンの掟」の一つに、紛争はジルガ(部族評議会)で決着を付ける、というのがある。部族の代表者が一堂に会し、納得がいくまで話し合って決めるやり方だ。それは自由選挙を基にした代議制民主主義とはまるで異なるものだが、長い歴史の中で培われ、機能してきた制度である。民主主義を採り入れるにしても、こうしたジルガの伝統との折り合いを付けた制度にしない限り、この国でうまく機能することはないだろう。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「苦悩と誇り」にも思いが至らなかった。
アメリカのメディアは、今回の米軍の撤退を1975年の南ベトナムからの撤退になぞらえて報道した。多くの血を流しながら戦争の目的を達することができず、みじめな形で出ていった、という点では確かに似ている。
けれども、アフガンの人たちが思い浮かべたのはベトナムではないだろう。もっと長い時間軸、この100年余りの歴史を振り返っているのではないか。
19世紀から20世紀初頭にかけて、世界で最も強大だったのは大英帝国である。前述のように、大英帝国はインドの植民地を西に広げようとして、何度かアフガンに攻め込んだ。首都のカブールを占領したこともある。だが、繰り返される反乱に手を焼き、撤退した。
そして、20世紀の後半には超大国ソ連の軍隊を追い出し、今回は唯一の超大国アメリカの軍隊を追い払った。「帝国の軍隊」に3回も苦杯をなめさせたのである。
もちろん、そのたびにおびただしい犠牲を払い、語り尽くせぬほどの苦悩を味わった。だが、それも彼らの価値観に照らせば、避けられなかった犠牲であり、決して屈しなかったことを誇りとして胸に抱くことになるのだろう。
◇ ◇
現場の記者として、私がアフガニスタンを担当したのは1989年から95年までの6年間である。その後、東京でアジア担当のデスクとしてこの国の動きをフォーローし、社説を担当する論説委員になってからも足を運び続けた。
戦乱の国の取材なので、政治指導者や軍人に会うことが多かったが、可能な限り農村の様子を見て回った。戦火がどんなに激しくなっても、国土がいかに荒廃しようとも、農村には乾いた大地を耕し、乏しい水を分け合う姿があった。
食べ物を確保し、生き延びる。それだけでも大変な状況なのに、どの村でも人々は子どもたちに教育を授けるためにあらゆる努力を重ねていた。未来はそこからしか開けないことを知っていた。「この国には希望がある」。そう感じさせるものがあった。
忘れられない言葉を聞いたのも、この国の人たちからだった。
難民キャンプでみけんに深い皺を刻んだ老人に会った。戦闘に巻き込まれて孫を亡くしたばかりという。「私のような年寄りが生き残り、幼い孫が死んでいく。耐え難い」。そう嘆き、「いのちは幸運の結晶なのです」とつぶやいた。
いぶかる私の目を見ながら、老人はさとすように語った。
「君のいのちはお父さんとお母さんが出会って生まれた。どちらかが病気やけがで倒れていたら、君はこの世にいなかった。お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんが出会って生まれた。だれかが病気やけがで倒れていたら、二人はこの世にいなかった」
「たくさんの、数えきれないほどたくさんのいのちが幸運にも生き永らえて、君にいのちをつないできた。だから、いのちは一つひとつ『幸運の結晶』なのです」
命がいともたやすく失われていく国で聞く命の意味。いや、いともたやすく失われていくからこそ紡ぎ出された言葉だったのかもしれない。その後、記者として出会い、耳にしたどんな言葉よりも深く心に沈み、忘れられない言葉となった。
アフガニスタンを「失敗国家」と呼ぶ人がいる。「破綻国家」と言う人もいる。けれども、そこに生きる人たちは「失敗人間」でも「破綻した人間」でもない。だれもが「幸運の結晶」としての生を生きている。
再び権力の座に就いたタリバンはこの国をどこへ導くのか。それを見通すうえで大切なのは、自らの価値観だけでなく、彼らの価値観、さらに第三の価値観も携えてこの国に光を当ててみることだ。
それはアフガニスタン問題に限らない。一つの尺度で物事を見る。そんな時代はとうに過ぎ去った。未来は混沌としており、複眼でも見通せない。より良く生きるために、立体的な座標軸が求められる時代なのである。
(長岡 昇)
2021年8月28日
≪写真説明&Source≫
タリバンの兵士たち(AFP、2020年3月2日撮影。BBCのサイトから)
https://www.bbc.com/japanese/51716332
≪参考文献≫
◎『アフガニスタン史』(前田耕作、山根聡)河出書房新社
◎『タリバン』(アハメド・ラシッド)講談社
◎『Afghanistan』(Louis Dupree)Princeton University Press
◎『The Great Game』(Peter Hopkirk) Butler & Tanner Ltd
私は迷うことなく、「アフガニスタン」と答える。32年前、国際部門に配属されて最初に取材した国であり、その後も新聞記者として心血を注ぎ続けた土地だからだ。
戦争とは何か。その中で生きるとはどういうことか。アフガンの人々と接する中でそれを教えられ、考えさせられた。厳しい取材だったが、日本にいたのでは経験も想像もできないことが多かった。新聞記者として生きてゆく覚悟のようなものを植え付けられた土地だった。
この夏、そのアフガニスタンが再び国際報道の焦点になった。
2001年9月の同時多発テロの後、アメリカはこの国に攻め込んだ。当時、この国を支配していたイスラム勢力のタリバンが、テロの首謀者であるオサマ・ビンラディンらをかくまっていたからだ。
米国は圧倒的な軍事力でタリバン政権を崩壊させ、親米的な政権をつくり、この国を「自由で民主的な国」にしようと試みてきた。だが、20年にわたって戦い、支援してきたにもかかわらず、彼らが望むような国をつくることはできず、撤退に追い込まれた。
全土をほぼ支配下に収め、実権を握ったのは、米軍が一度はたたき潰したはずのタリバンである。
首都カブールの北郊にある空港は逃げ出す外国人であふれ返った。通訳や諜報員として米軍に協力したアフガン人とその家族も、報復を恐れて空港に押し寄せた。離陸する輸送機の機体にしがみつく人々を捉(とら)えた映像は、彼らの恐怖心がどれほどのものかを示している。
なにせタリバンは、アフガン各派の中で最も厳格にイスラム法を適用すると標榜している勢力である。かつて権力を掌握した際には、反対勢力を容赦なく処刑した。
女性には全身をすっぽり覆うブルカの着用を強制し、女子教育も認めなかった。「盗みを働いた者は手を切り落とす」「姦通は石打ちの刑」といった古来の刑罰を復活させ、実行した。バーミヤンの大仏を「偶像崇拝の象徴」として爆破したのもタリバンだ。
「あの恐怖の日々がまたやって来る」。普通の住民がおびえるのは無理もない。
だが、アフガニスタンの政治と社会をずっと追ってきた人間から見ると、「タリバンはかなり変わった」と映る。かつての統治の行き過ぎを認め、より現実的な方向に舵を切ろうとしているのではないか。
米軍撤退の前に米政府と交渉し、「撤退が完了するまではカブール国際空港の管理を米軍にゆだねる」と合意したのは、路線変更の証しと言っていい。かつてのタリバンなら、勢いにまかせて空港も制圧し、殺戮(さつりく)の限りを尽くしたことだろう。
権力掌握後の8月17日に開いた記者会見で、タリバンの報道官は「女性の権利を尊重する。女性は働き、学ぶことができる」「自由で独立した報道を認める」と語った。どちらも「イスラム法が認める範囲内で」という条件付きではあるが、大きな路線転換であることは間違いない。
報道官は、反対勢力の政治家や兵士に「恩赦を与える」と述べ、「外国に脅威を与えることは望まない」と表明した。「アフガンはまた『テロの温床』になってしまうのではないか」との懸念を払拭しようとしたのだろう。
こうしたタリバン側の表明を「国際社会からの批判をかわすための演技」と報じたメディアもある。確かに、額面通りに受けとめるわけにはいかない。タリバンの兵士たちがこうした約束をどれだけ守るかも定かではない。
だが、この国が歩んできた険しい道のりを思えば、「演技」と断じてしまうのは酷だろう。一線の兵士はともかく、少なくともタリバンの指導部は過去の失敗から学び、「現実的な路線を選択しなければ、安定した統治はできない」と悟ったのではないか。
◇ ◇
私が初めてアフガニスタンを訪れたのは1989年の4月である。インドのニューデリーから空路、首都のカブールに向かった。パキスタンの領土を横切り、空からこの国の風景を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。黒褐色の岩山が延々と続いていた。
国境の峰々を越えても、その色は変わらない。砂漠ではなく、岩と土漠(どばく)の世界が広がっていた。緑はほとんどない。雪融け水が流れる川に沿って草木がわずかに茂り、村々がへばり付くように点在していた。
緑に包まれた日本の風景の「ネガフィルム」を見ているような感覚。こんな厳しい土地で人々はどうやって生きてきたのか。なぜ、争いがやまないのか。褐色の大地を食い入るように見つめ続けた。
当時、この国を支配していたのは共産主義政権だった。ソ連はその政権を支えるため軍事介入したが、10年にわたって反政府イスラム武装勢力の激しい抵抗を受け、おびただしい数の犠牲者を出して2カ月前に完全撤退していた。
ソ連軍の撤退前にアメリカや日本の外交官は脱出し、国連の職員も去っていた。長い戦乱ですでにパキスタンとイランに500万人の難民が流出していたが、撤退を機に新たな難民も生まれた。この時の混乱状態は今回の米軍撤退時と重なるものがある。
政府側が支配しているのは首都カブールをはじめとする主要都市だけ。農村部は反政府勢力がおさえ、都市を包囲していた。カブールにも連日のようにロケット弾が撃ち込まれていた。
中心部のホテルは破壊され、報道陣が宿泊できるのは丘の上にあるホテルのみ。ここに世界中からやって来た多くの記者やカメラマンが陣取っていた。
国際電話はほとんど通じない。衛星電話は登場したばかりで、大型のスーツケースほどもあった。高価なうえ記者一人ではとても持ち込めない。商用のテレックス回線を使い、ローマ字で日本語の原稿を送るしかなかった。
戦況を正確に把握するためには、反政府勢力側からも取材しなければならない。何回目かの出張の際、パキスタンの国境地帯からゲリラ部隊に同行して彼らの動きも取材した。
それができたのは、当時のアフガンでは「パシュトゥンの掟」と呼ばれる慣習が強く残っていたからである。その掟は部族によって微妙に異なるが、「尚武(トゥーラ)」「客人歓待(メルマスティア)」「復讐(バダル)」の三つはどこでも固く守られていた。
自立心が強く、家族と財産を守るために命をかけて戦う。一方で、見知らぬ者でも頼ってくれば、できる限りのもてなしをする。客人として記者を受け入れた部隊は、記者を守るためにあらゆる手段を尽くしてくれた。
目にした農村の風景は強烈だった。どの家も高い土壁に囲まれ、一軒一軒が砦(とりで)のような造りになっている。どの家にも男手の数だけ自動小銃があった。男の子は物心がついたころから、銃を分解して組み立てることを仕込まれるのだという。
アメリカは「銃社会」と言われるが、それをはるかに上回る「重武装の社会」である。そして、それはこの国の地勢を考えれば、当然のことだった。
周りの国はすべて陸続きだ。いつ、どこから、武装した人間たちがなだれ込んでくるか分からない。実際、騎乗したモンゴル兵に蹂躙(じゅうりん)され、ペルシャの軍勢に攻め込まれるといった歴史をくぐり抜けてきた。自分の身は自分で守るしかない社会なのだ。
日本は海に囲まれ、外敵に突然攻め込まれる、といった心配をする必要がない。有史以来、外国の大軍に攻撃されたのは、元寇とマッカーサー率いる米軍の2回だけである。
世界でもまれなほど「安全な国」だ。軍事的な観点から見ても、日本とアフガンは「写真のネガとポジ」のような関係にある。日本人の感覚でこの国の政治や社会を考えようとしても、とても捉えきれるものではない。
◇ ◇
ソ連軍撤退の3年後、1992年に共産主義政権は崩壊し、イスラム政権が樹立された。だが、待っていたのはイスラム諸勢力による凄惨な内戦だった。
アフガニスタンの国境が現在のような形になったのは19世紀末のことである。
インドを植民地支配していた大英帝国はその版図を西に広げようとした。一方、北からはロシア帝国が南下を図って攻め込んだ。せめぎ合う二つの帝国は、直接衝突することを避けるため、アフガニスタンを「緩衝地帯」として残すことで合意した。そうして引かれたのが今の国境線である。
その結果、この地域で暮らしていた主要な民族は真っ二つに分断された。ヒンドゥークシ山脈の南麓にいたパシュトゥン人はアフガンと英領インド(現パキスタン)に二分され、山脈の北側にいたタジク人とウズベク人も、半分はロシア領に組み込まれた(図参照)。
アフガンの苦悩は、この国境画定を抜きにして語ることはできない。人口の過半数を占める民族はない。おまけに、どの民族も多くの部族に分かれ、それぞれの利害がぶつかり合う。
一口に反政府イスラム勢力と言っても、私が取材していた頃ですら、15もの組織に分かれていた。共産主義政権という「共通の敵」がいなくなった途端、そうした勢力が入り乱れて戦い始めたのだ。
90年代の半ば、国土が荒れ果て、世界が関心を失う中で台頭したのがタリバンだった。パシュトゥー語で「(神学校の)生徒」を意味する。厳格なイスラム支配を唱える宗教指導者が神学校の生徒たちを糾合して組織した、と喧伝されたが、それは表向きの顔に過ぎない。
戦車をはじめとする武器と弾薬を供給したのはパキスタンの軍部であり、資金的に支えたのは湾岸諸国のイスラム主義勢力だった。パキスタンは隣国を意のままに操ることを目指し、湾岸の同調勢力は「理想のイスラム国家」の建設を夢見た。
だが、尚武の気質を持つ民は「武器と金」をもらっても、意のままにはならなかった。支援する者たちの思惑を超えて、信じられないほど厳格なイスラム支配に乗り出し、米国を「悪の帝国」とみなすアルカイダなど過激な勢力と手を組んだ。
共産主義から厳格なイスラム支配へ。大国と周辺国の思惑に突き動かされ、アフガンは振り子の重しが外れてしまうほど激しく揺れた。そして、9・11テロへと至ったのだった。
アメリカの政治家と軍人たちは「我々には『テロの撲滅』という大義がある。今度こそ、この国を自由で開かれた国にする」と決意していたのではないか。日本や欧州諸国もそれに従って巨額の援助を注ぎ込んだ。
そうした介入と援助は水泡に帰した。なぜか。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「気概と気風」を軽く見ていたのではないか。彼らはよそ者から押し付けられることを何よりも嫌う。自分たちの社会のことは自分たちで決めたいのだ。彼らには彼らの掟と慣習がある。それはイスラムが伝来するはるか以前から育んできたもので、イスラムの教えと溶け合って社会に深く根を下ろしている。変える必要があるとしても、根付いたものに反しないよう変え方も自分たちで決めたいのだ。
「パシュトゥンの掟」の一つに、紛争はジルガ(部族評議会)で決着を付ける、というのがある。部族の代表者が一堂に会し、納得がいくまで話し合って決めるやり方だ。それは自由選挙を基にした代議制民主主義とはまるで異なるものだが、長い歴史の中で培われ、機能してきた制度である。民主主義を採り入れるにしても、こうしたジルガの伝統との折り合いを付けた制度にしない限り、この国でうまく機能することはないだろう。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「苦悩と誇り」にも思いが至らなかった。
アメリカのメディアは、今回の米軍の撤退を1975年の南ベトナムからの撤退になぞらえて報道した。多くの血を流しながら戦争の目的を達することができず、みじめな形で出ていった、という点では確かに似ている。
けれども、アフガンの人たちが思い浮かべたのはベトナムではないだろう。もっと長い時間軸、この100年余りの歴史を振り返っているのではないか。
19世紀から20世紀初頭にかけて、世界で最も強大だったのは大英帝国である。前述のように、大英帝国はインドの植民地を西に広げようとして、何度かアフガンに攻め込んだ。首都のカブールを占領したこともある。だが、繰り返される反乱に手を焼き、撤退した。
そして、20世紀の後半には超大国ソ連の軍隊を追い出し、今回は唯一の超大国アメリカの軍隊を追い払った。「帝国の軍隊」に3回も苦杯をなめさせたのである。
もちろん、そのたびにおびただしい犠牲を払い、語り尽くせぬほどの苦悩を味わった。だが、それも彼らの価値観に照らせば、避けられなかった犠牲であり、決して屈しなかったことを誇りとして胸に抱くことになるのだろう。
◇ ◇
現場の記者として、私がアフガニスタンを担当したのは1989年から95年までの6年間である。その後、東京でアジア担当のデスクとしてこの国の動きをフォーローし、社説を担当する論説委員になってからも足を運び続けた。
戦乱の国の取材なので、政治指導者や軍人に会うことが多かったが、可能な限り農村の様子を見て回った。戦火がどんなに激しくなっても、国土がいかに荒廃しようとも、農村には乾いた大地を耕し、乏しい水を分け合う姿があった。
食べ物を確保し、生き延びる。それだけでも大変な状況なのに、どの村でも人々は子どもたちに教育を授けるためにあらゆる努力を重ねていた。未来はそこからしか開けないことを知っていた。「この国には希望がある」。そう感じさせるものがあった。
忘れられない言葉を聞いたのも、この国の人たちからだった。
難民キャンプでみけんに深い皺を刻んだ老人に会った。戦闘に巻き込まれて孫を亡くしたばかりという。「私のような年寄りが生き残り、幼い孫が死んでいく。耐え難い」。そう嘆き、「いのちは幸運の結晶なのです」とつぶやいた。
いぶかる私の目を見ながら、老人はさとすように語った。
「君のいのちはお父さんとお母さんが出会って生まれた。どちらかが病気やけがで倒れていたら、君はこの世にいなかった。お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんが出会って生まれた。だれかが病気やけがで倒れていたら、二人はこの世にいなかった」
「たくさんの、数えきれないほどたくさんのいのちが幸運にも生き永らえて、君にいのちをつないできた。だから、いのちは一つひとつ『幸運の結晶』なのです」
命がいともたやすく失われていく国で聞く命の意味。いや、いともたやすく失われていくからこそ紡ぎ出された言葉だったのかもしれない。その後、記者として出会い、耳にしたどんな言葉よりも深く心に沈み、忘れられない言葉となった。
アフガニスタンを「失敗国家」と呼ぶ人がいる。「破綻国家」と言う人もいる。けれども、そこに生きる人たちは「失敗人間」でも「破綻した人間」でもない。だれもが「幸運の結晶」としての生を生きている。
再び権力の座に就いたタリバンはこの国をどこへ導くのか。それを見通すうえで大切なのは、自らの価値観だけでなく、彼らの価値観、さらに第三の価値観も携えてこの国に光を当ててみることだ。
それはアフガニスタン問題に限らない。一つの尺度で物事を見る。そんな時代はとうに過ぎ去った。未来は混沌としており、複眼でも見通せない。より良く生きるために、立体的な座標軸が求められる時代なのである。
(長岡 昇)
2021年8月28日
≪写真説明&Source≫
タリバンの兵士たち(AFP、2020年3月2日撮影。BBCのサイトから)
https://www.bbc.com/japanese/51716332
≪参考文献≫
◎『アフガニスタン史』(前田耕作、山根聡)河出書房新社
◎『タリバン』(アハメド・ラシッド)講談社
◎『Afghanistan』(Louis Dupree)Princeton University Press
◎『The Great Game』(Peter Hopkirk) Butler & Tanner Ltd
2012年の第1回カヌー探訪から足かけ10年。長井市から始まった最上川縦断のカヌー行は2021年夏、ついに酒田市の河口に到達しました。過去最多の49人が参加し、全員が13キロを漕破しました。最年少は高校2年の16歳、最ベテランは83歳。東京五輪が開かれ、新型コロナウイルスの感染が再び広がる中での開催になりました。イベントにご協力いただいた皆様に深く感謝いたします。
◎真鍋賢一さん撮影の動画(ドローンによる空撮を含む。44分)
≪出発&到着時刻≫
2021年7月31日(土)
午前10時 山形県庄内町の庄内橋の上流、左岸から出発
午前11時20分 酒田市新堀豊森の右岸に上陸、休憩・差し入れ
午後1時?1時40分 酒田市の出羽大橋の下流、右岸に到着
≪参加者&参加艇≫
49人、38艇
≪カヌーイスト=申込順≫
齋藤龍真(村山市)、佐藤博隆(酒田市)、和田 勤(栃木県那須塩原市)、和田基秀(同)、?橋 洋(米沢市)、牧野 格(南陽市)、阿部明美(天童市)、阿部俊裕(同)、佐藤 明(鶴岡市)、安部幸男(宮城県柴田町)、新美武司(尾花沢市)、池田丈人(酒田市)、林 和明(東京都足立区)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、柴田尚宏(山形市)、結城敏宏(米沢市)、小田原紫朗(酒田市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、石井秀明(さいたま市)、岸 浩(福島市)、七海 孝(福島県鏡石町)、門脇和人(酒田市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、石川 毅(村山市)、伊藤信生(酒田市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、斉藤栄司(尾花沢市)、佐竹 久(大江町)、スマイルえりこ(新潟県新発田市)、崔 鍾八(朝日町)、清野千春(同)、清野礼子(仙台市)、清野由奈(朝日町)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、中沢 崇(長野市)、和田智枝(栃木県那須塩原市)、山田耕右(山形市)、菊地大二郎(同)、平 善昭(川西町)、菅原久之(遊佐町)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、矢萩 剛(村山市)、阿部悠子(東根市)、市川 秀(東京都中野区)、安孫子笑美里(東根市)、内藤フィリップ邦夫(天童市)
≪参加者の地域別内訳≫
▽山形県内 28人(酒田市5人、山形市3人、村山市3人、天童市3人、米沢市2人、尾花沢市2人、東根市2人、鶴岡市1人、南陽市1人、朝日町3人、大江町1人、川西町1人、遊佐町1人)
▽山形県外 21人(福島県4人、栃木県4人、群馬県3人、宮城県2人、埼玉県2人、東京都2人、神奈川県2人、新潟県1人、長野県1人)
≪第1回?第9回の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブ)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、
東北電力(株)山形支店、朝日町、庄内町、酒田市、山形カヌークラブ、
大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
≪第9回カヌー探訪記念のステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽佐竹恵子▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 長岡典己▽遠藤大輔
≪動画の撮影・編集≫ 真鍋賢一
≪ゴール地点でのサポート≫ 酒田市の遊快倶楽部(佐藤雅之、武田安英、長南平)
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当・飲料の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 安藤昭郎▽佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 庄内みどり観光バス(酒田市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝
◎真鍋賢一さん撮影の動画(ドローンによる空撮を含む。44分)
≪出発&到着時刻≫
2021年7月31日(土)
午前10時 山形県庄内町の庄内橋の上流、左岸から出発
午前11時20分 酒田市新堀豊森の右岸に上陸、休憩・差し入れ
午後1時?1時40分 酒田市の出羽大橋の下流、右岸に到着
≪参加者&参加艇≫
49人、38艇
≪カヌーイスト=申込順≫
齋藤龍真(村山市)、佐藤博隆(酒田市)、和田 勤(栃木県那須塩原市)、和田基秀(同)、?橋 洋(米沢市)、牧野 格(南陽市)、阿部明美(天童市)、阿部俊裕(同)、佐藤 明(鶴岡市)、安部幸男(宮城県柴田町)、新美武司(尾花沢市)、池田丈人(酒田市)、林 和明(東京都足立区)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、柴田尚宏(山形市)、結城敏宏(米沢市)、小田原紫朗(酒田市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、石井秀明(さいたま市)、岸 浩(福島市)、七海 孝(福島県鏡石町)、門脇和人(酒田市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、石川 毅(村山市)、伊藤信生(酒田市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、斉藤栄司(尾花沢市)、佐竹 久(大江町)、スマイルえりこ(新潟県新発田市)、崔 鍾八(朝日町)、清野千春(同)、清野礼子(仙台市)、清野由奈(朝日町)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、中沢 崇(長野市)、和田智枝(栃木県那須塩原市)、山田耕右(山形市)、菊地大二郎(同)、平 善昭(川西町)、菅原久之(遊佐町)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、矢萩 剛(村山市)、阿部悠子(東根市)、市川 秀(東京都中野区)、安孫子笑美里(東根市)、内藤フィリップ邦夫(天童市)
≪参加者の地域別内訳≫
▽山形県内 28人(酒田市5人、山形市3人、村山市3人、天童市3人、米沢市2人、尾花沢市2人、東根市2人、鶴岡市1人、南陽市1人、朝日町3人、大江町1人、川西町1人、遊佐町1人)
▽山形県外 21人(福島県4人、栃木県4人、群馬県3人、宮城県2人、埼玉県2人、東京都2人、神奈川県2人、新潟県1人、長野県1人)
≪第1回?第9回の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブ)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、
東北電力(株)山形支店、朝日町、庄内町、酒田市、山形カヌークラブ、
大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
≪第9回カヌー探訪記念のステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽佐竹恵子▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 長岡典己▽遠藤大輔
≪動画の撮影・編集≫ 真鍋賢一
≪ゴール地点でのサポート≫ 酒田市の遊快倶楽部(佐藤雅之、武田安英、長南平)
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当・飲料の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 安藤昭郎▽佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 庄内みどり観光バス(酒田市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝