被差別部落とは何か。そのルーツはどこにあるのか。明治生まれの在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は生涯かけて、それを追い続けた。

山哉がすごいのは、その探求を書斎にこもって行ったのではなく、実際に自分の足で全国の被差別部落を訪ね歩き、人々の言葉に耳を傾けて考え抜き、公表していったことだ。

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大正時代から昭和の戦前戦後を通して、彼が半世紀かけて訪ねた被差別部落の数は700を上回る。並行して古事記や日本書紀などの史書や古文書類に、可能な限り目を通している。その研究は質、量ともに群を抜いている。

もちろん、山哉よりも先に被差別部落の歴史をたどる書籍を出した人はいた。柳瀬頸介の『社会外の社会 穢多(えた)非人』(1901年)と京都帝大の歴史学者、喜田貞吉教授が主宰する研究誌『民族と歴史』特殊部落研究号(1919年)である。被差別部落の解放を目指して全国水平社が結成されて2年たった1924年には、高橋貞樹が『特殊部落一千年史』という啓蒙書を出版している。

ただ、それぞれ優れた研究ではあったものの、難点があった。3人とも、古代律令国家の頃から賎民制度があり、奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷がいて、囚われの身となった東北の蝦夷(えみし)が賎民にされたことは承知しており、書籍で触れてもいる。

だが、そうした古代の賎民制度が江戸時代の穢多・非人へと連綿とつながっている、とは見なさなかった。貴族政治から武家政治へと激変した平安から鎌倉時代への移行、さらに戦国時代の下剋上によって社会の階層は流動化し、いわゆる「穢多・非人」は江戸時代に身分制度が固定される中で新たに生み出されたもの、と唱えたのだ。

それをもっとも明確に主張したのは喜田貞吉である。『民族と歴史』特殊部落研究号に喜田は次のように記した。

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「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の坂上田村麻呂も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」

「もともと武士には蝦夷すなわちエビス出身者が多かったから、『徒然草』などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを『夷(えびす)』と云っております。鎌倉武士の事を『東夷(あずまえびす)』と云っております」

「世人が特に彼らをひどく賤(いや)しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」

戦後定説となる「被差別部落=近世政治起源説」の原型とも言える学説である。喜田はこれを皇国史観に立って唱えたのだが、「同じ日本人なのになぜ差別する」と憤る水平社の人々にとっても、運動の基盤として好ましい学説だった。

菊池山哉はこうした中で、1927年(昭和2年)に『先住民族と賎民族の研究』を出版し、「エタはエッタがなまったもので我が国の先住民族である」「投降、帰順した東北の蝦夷(えみし)は西日本に移送され、賎民として扱われた」と唱えた。喜田の学説を真っ向から否定したのである。

インドのカースト差別がそうであるように、征服した民族が被征服民族を賎民に落とし込んでいくのは世界各地で見られることである。そうした観点から考えれば、山哉の立論は自然であり、説得力がある。

だが、山哉は当時、在野の無名の郷土史家で、相手は帝大の教授である。山哉の主張はまるで相手にされず、黙殺された。

    ◇     ◇

戦後も山哉の学説に目を向ける研究者は現れない。水平社の運動を引き継いで再出発した部落解放同盟も相手にしなかった。

それでも、山哉はめげなかった。全国の被差別部落をめぐる「巡礼」のような調査行を半世紀にわたって続け、その成果を亡くなる直前、1966年に大著『別所と特殊部落の研究』にまとめて出版した(1990年代に『特殊部落の研究』『別所と俘囚』の2冊に分けて復刻された)。

踏査を重ねた末に山哉がたどり着いた結論は?東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる?西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸(しゅこ)」「別所」の四つに大別できる?別所とは東北の蝦夷を俘囚(ふしゅう)として移送したところである、というものだった。

山哉がとりわけ力を注いだのが「別所」と呼ばれる部落の調査である。例えば、京都郊外の大原にある別所について、次のように記している(原文は読みにくいため筆者が要約)。

「ここには今は廃寺となった補陀落寺というのがある。『東鑑(あずまかがみ)』によれば、この寺に観音像があったが、奥州平泉の藤原基衡(もとひら)はこの観音像を模したものを作らせ、毛越(もうつう)寺の吉祥堂の本尊にしたという。この寺が奥州と密接な関係にあったことを裏書きするものだ」(『別所と俘囚』165ページ)

近世政治起源説の最大の弱点は、「被差別部落が豊臣政権から徳川政権への移行期に身分制度が固まるにつれて形成された」とするなら、「なぜ東北には部落がほとんどないのか」という問いに答えられない、という点にある。

山哉が説くように「大和朝廷側が古代東北の蝦夷を攻め、投降・帰順した者を移送したところが別所であり、被差別部落になった」のであれば、問いへの答えとして納得がいく。

もちろん、数は極端に少ないが、東北にも別所という地名はあり、被差別部落がある。表は、被差別部落の都道府県別の数と人口(1921年、内務省統計)を一覧表にしたものである。福島に6,山形に4,青森に1となっている。

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山哉はこれらの被差別部落も一つひとつ調べている。そして、東北の被差別部落のほとんどは江戸時代に国替えになった大名が前任地から引き連れてきたものであることを明らかにした。古代からその土地にあったと考えられる被差別部落は、福島県南部の部落一つだけだった。

   ◇     ◇

天皇の陵墓に配置され、警護と維持管理にあたる「守戸」についての記述も興味深い。これは東日本にはなく、西日本、とりわけ畿内に集中している。

奈良盆地に「神武天皇陵の守戸をつとめてきた」という被差別部落があった。この部落の人たちは少なくとも持統天皇(7世紀末)の時代から代々、尾根筋にある陵墓を守ってきたが、明治2年(1869年)に新政府がこの人たちに何の相談もなく、平地にある小さな古墳を「神武天皇の陵墓である」と認定してしまった。「そこは違う」と思っても、口に出すことはできなかったという。

古代の天皇陵については、幕末から明治維新にかけての混乱期にあたふたと認定作業を進めたこともあって、「陵墓の治定の誤りが多数ある」とされる。このため、考古学者は発掘調査を望んできたが、宮内庁は戦後も長い間「静安と尊厳を保つのが本義」と調査を拒んできた。大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産に登録される動きが出る中で、2018年にようやくこれらの古墳の調査を認めたが、ほかの古墳群の調査が認められる見通しは立っていない。

山哉の調査は、そうした天皇陵の治定の誤りを被差別部落の側から照らし出している可能性がある。

自ら足を運び、人々の話にひたすら耳を傾ける。そうやって得た事実を愚直に記録する。それを基に仮説を組み立てていく――山哉が書き残したものは「学者たちが古文書から導き出した立論」などより、はるかに迫力があり、示唆に富む。

彼の著作は民俗学の枠にとどまらず、古代史や考古学にとっても「探求の素材の宝庫」であり、やがては被差別部落の歴史を考えるための古典になっていくのではないか。
(敬称略)


長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)


*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年1月28日
https://news-hunter.org/?p=10695


≪写真&表の説明とSource≫
◎山城、近江の別所分布図(菊池山哉『別所と俘囚』から複写、トリミング)
◎喜田貞吉・京都帝大教授(東北大学関係写真データベースから)
http://webdb3.museum.tohoku.ac.jp/tua-photo/photo-img-l.php?mode=i&id=C012811
◎都道府県別の被差別部落の数と人数(1921年、内務省統計)=『部落史入門』から複写

≪参考文献≫
◎『えた非人 社会外の社会』(柳瀬頸介著、塩見鮮一郎訳、河出書房新社)
=『社会外の社会 穢多非人』を改題、復刻
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)
=『民族と歴史』特殊部落研究号から喜田の論文を編集、復刻
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
=『特殊部落一千年史』を改題
◎『部落史入門』(塩見鮮一郎、河出文庫)
◎『特殊部落の研究』(菊池山哉、批評社)
◎『別所と俘囚』(菊池山哉、批評社)
◎『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(前田速夫、晶文社)