武器を持って起ち上がった場合、失敗すればその首謀者は極刑に処されるのが世の習いである。国家に対する明白な反逆であり、権力者は反逆者には死をもって報いるか終身刑に処すのが普通だ。けれども、ロシアではそうでもないようだ。不可解な国である。
エフゲニー・プリゴジン氏が率いる傭兵組織ワグネルが6月23日夜、ロシア南部のロストフ州で反乱を起こした。傭兵たちはロシア軍南部軍管区の司令部を制圧し、モスクワに向かって進軍を始めた。戦車を連ね、対空兵器を携えての反乱である。
日本でも1936年(昭和11年)に雪降る首都東京で青年将校が率いる反乱が起きたことがある。いわゆる二・二六事件だ。高橋是清蔵相や斎藤実・元海軍大臣らが殺害され、天皇と陸軍首脳を巻き込んで大騒動になったが、この時に武装蜂起した将兵は1500人足らずに過ぎない。武器も機関銃と小銃程度で、ほどなく鎮圧された。
それに比べると、「プリゴジンの反乱」はスケールがまるで異なる。傭兵組織の兵力は2万人から3万人とされる。2個師団相当である。しかも、ウクライナとの戦争の最前線で戦ってきた将兵が含まれ、戦闘力もけた違いだ。実際、ロシア軍が鎮圧のため武装ヘリコプターを差し向けたところ、ワグネルの部隊に撃墜されてしまったという。
反乱軍はものすごい勢いでモスクワへと北進した。翌24日にはモスクワまで200キロの地点に到達している。それは、ロシア軍内部にも反乱に同調もしくは黙認する動きがあったことを意味する。ネットには途中の街で反乱軍を歓呼の声で迎える市民の映像が流れた。まるで解放軍が来たかのような歓迎ぶりだった。
深刻な事態である。プーチン大統領は緊急テレビ演説で、「これは裏切りである」と断じ、武器を取った者は罰せられる、と警告した。2000年に大統領に就任し、すでに4半世紀近くその座にある絶対権力者である。断固たる措置を執る、と誰もが思った。共同通信は事態を「内戦の様相すら呈す」と報じた。
ここからがロシアが「不可解な国」であるゆえんである。蜂起から24時間もたたないうちに手打ちに至った。ロシア大統領府は「ワグネルへの(反逆罪での)捜査を打ち切る」「プリゴジン氏は隣国のベラルーシに出国(亡命)する」と発表した。プリゴジン氏もこれに応じて部隊を撤収させ、姿を消した。手打ちを仲介したベラルーシのルカシェンコ大統領の庇護を受けていると見られる。
反乱の首謀者はどのような人物なのか。プリゴジン氏はプーチン氏と同じサンクトペテルブルク(出生当時はレニングラード)出身だが、その生い立ちはポジとネガのように異なる。プーチン氏はレニングラード国立大学を出た後、KGB(国家保安委員会)の諜報員として出世の階段を駆け上っていった。ソ連共産党のエリート党員として歩み、政界に転じた。
一方のプリゴジン氏は幼くして父親を亡くし、病院で働く母親によって育てられた。英語版のウィキペディアによれば、実父も継父もユダヤ系という。全寮制の体育学校でクロスカントリースキーに打ち込んだが、目立った成績は収めていない。
18歳の時、窃盗で捕まり、執行猶予付き2年拘禁の判決を受けた。その2年後には強盗と詐欺、年少者に犯罪をそそのかした罪で12年の実刑判決。恩赦で9年の拘禁で済んだのは幸運だっただろう。プリゴジン氏は長い刑務所生活で様々なことを学び、人脈を築いていったものと見られる。
商才はあったようだ。出所後、彼は母親や継父とホットドッグの販売を始めた。商売は当たり、「ルーブル紙幣が数えきれないほど積み上がった」とニューヨークタイムズ紙に語っている。1991年のソ連崩壊後の混乱の中で、食料品チェーン店やカジノ、船上レストランとビジネスを広げていった。
とくに、古都サンクトペテルブルクでの船上レストランは大当たりした。プーチン大統領がシラク仏大統領やジョージ・W・ブッシュ米大統領を連れて食事に来た。この時の縁が「プーチンとの関係」の始まりのようだ。
プリゴジン氏が傭兵組織ワグネルを立ち上げたのは2014年頃である。ロシアがウクライナの政治的混乱に乗じてクリミア半島を併合し、東部ドンバス地方に住むロシア系住民の武装化を進めていった時期だ。ワグネルの軍事行動はシリア、中央アフリカ共和国などに広がっていった。
ロシアでは私兵組織は法的に禁じられている。が、ロシアの法律は政治の力でどのようにでも解釈、運用可能だ。それは、政治や軍事、経済のカタギの世界と裏社会との境界がはっきりせず、溶け合っていることを意味する。その闇はとてつもなく深い、と見るべきだろう。
プリゴジン氏は有力なオリガルヒ(新興財閥)の一人であり、プーチン氏の盟友である。ワグネルは「プーチンの私兵」の役割を果たし、ロシア正規軍を派遣できないような紛争に派遣されるようになっていった。中央アフリカでは、ワグネルの活動を調査していたロシアの複数のジャーナリストが殺害された。「邪魔者は消す」という露骨なやり方は、明と暗が溶け合い、法があって無いような社会でまかり通る手法だ。
たたき上げの苦労人だからか、プリゴジン氏はいわゆるエリートが大嫌いなようだ(プーチン氏を除いて)。とりわけ、セルゲイ・ショイグ国防相を口を極めてののしっている。ショイグ氏は中央アジアのテュルク系の少数民族トゥバ人で、クラスノヤルスク工業大学で建築学を学んだ。危機管理と災害復旧での実績が評価されて共産党の大幹部になり、プーチン政権で国防相に上り詰めた。軍務経験はまったくない。
傭兵を率い、前線に出ることもいとわないプリゴジン氏にとって、戦場の経験もないショイグ氏があれこれ指図するのは受け入れがたいのだろう。ネットで「ショイグ!ゲラシモフ(参謀総長)! 弾薬はどこだ」と前線での弾薬不足に激怒し、「お前らがきれいな執務室で肥え太るために彼らは死んでいったのだ」とののしった。どこの社会にも庶民には「エリートに対する反発」がある。反乱軍に対する民衆の歓呼の声はそれを裏付けるものだろう。
ショイグ氏への誹謗中傷の中で注目されるのは、ウクライナ侵攻以来、ロシア軍やワグネルに犠牲者が続出していることをプリゴジン氏が明らかにし、「お前たちはロシア兵10万人を殺した犯罪者だ」とののしったことだ。ウクライナ戦争でのロシア側の犠牲者については様々な憶測が流れているが、ロシア側から10万人という数字が出たのはこれが初めてではないか。
ロシアは侵攻当初、ウクライナに19万の兵力を投入し、その後、30万人の予備役を追加したとされる。イギリスの情報機関やアメリカの戦争研究所などがロシア側の死者数についていくつかの推計を発表しているが、プリゴジン氏が唱える10万人はその最大値に近い。
傭兵組織の存在と活用にしても、今回の反乱の顛末にしても、ロシアには「法の支配」という意識が感じられない。力こそすべて、政治がすべてを決めていく、という土壌が分厚く積もっているように感じる。私たちには想像もできないような感覚が支配している、と言うべきだろう。
と、こんな風に書いてきて、では私たちの国を外から見れば、どんな風に見えるのだろうか、と考えさせられた。もちろん、自由な国であり、法律もそれなりに機能している。だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が残した日本国憲法は、第14条で「法の下の平等」をうたいながら、天皇の特別な地位と世襲を例外として認めている。
第9条で戦争の放棄と「戦力の不保持」を明記しているのに、アジア有数の軍備を持つ自衛隊がある。現実に合わせて憲法をはじめとする法律を改変し、それを守っていくという意識が乏しい。「今の憲法を一字一句変えてはならない」と真面目な顔で唱える政治家もいる。
法と論理に厳格なドイツ人やフランス人に言わせれば、とても理解できないことであり、彼らにとっては日本もまた、ロシアとは違う意味で「不可解な国」の一つだろう。この世には不可解と不条理が山ほどある、ということか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 119」 2023年6月28日
≪写真説明≫
◎ワグネルの戦車に歓呼の声を上げる市民(BBCのサイトから)
◎戦闘服を身に着けたプリゴジン氏(CNNのサイトから)
≪参考記事&サイト≫
◎6月25日、26日の新聞各紙
◎英語版ウィキペディア「Yevgeniy Prigozhin」
https://en.wikipedia.org/wiki/Yevgeny_Prigozhin
エフゲニー・プリゴジン氏が率いる傭兵組織ワグネルが6月23日夜、ロシア南部のロストフ州で反乱を起こした。傭兵たちはロシア軍南部軍管区の司令部を制圧し、モスクワに向かって進軍を始めた。戦車を連ね、対空兵器を携えての反乱である。
日本でも1936年(昭和11年)に雪降る首都東京で青年将校が率いる反乱が起きたことがある。いわゆる二・二六事件だ。高橋是清蔵相や斎藤実・元海軍大臣らが殺害され、天皇と陸軍首脳を巻き込んで大騒動になったが、この時に武装蜂起した将兵は1500人足らずに過ぎない。武器も機関銃と小銃程度で、ほどなく鎮圧された。
それに比べると、「プリゴジンの反乱」はスケールがまるで異なる。傭兵組織の兵力は2万人から3万人とされる。2個師団相当である。しかも、ウクライナとの戦争の最前線で戦ってきた将兵が含まれ、戦闘力もけた違いだ。実際、ロシア軍が鎮圧のため武装ヘリコプターを差し向けたところ、ワグネルの部隊に撃墜されてしまったという。
反乱軍はものすごい勢いでモスクワへと北進した。翌24日にはモスクワまで200キロの地点に到達している。それは、ロシア軍内部にも反乱に同調もしくは黙認する動きがあったことを意味する。ネットには途中の街で反乱軍を歓呼の声で迎える市民の映像が流れた。まるで解放軍が来たかのような歓迎ぶりだった。
深刻な事態である。プーチン大統領は緊急テレビ演説で、「これは裏切りである」と断じ、武器を取った者は罰せられる、と警告した。2000年に大統領に就任し、すでに4半世紀近くその座にある絶対権力者である。断固たる措置を執る、と誰もが思った。共同通信は事態を「内戦の様相すら呈す」と報じた。
ここからがロシアが「不可解な国」であるゆえんである。蜂起から24時間もたたないうちに手打ちに至った。ロシア大統領府は「ワグネルへの(反逆罪での)捜査を打ち切る」「プリゴジン氏は隣国のベラルーシに出国(亡命)する」と発表した。プリゴジン氏もこれに応じて部隊を撤収させ、姿を消した。手打ちを仲介したベラルーシのルカシェンコ大統領の庇護を受けていると見られる。
反乱の首謀者はどのような人物なのか。プリゴジン氏はプーチン氏と同じサンクトペテルブルク(出生当時はレニングラード)出身だが、その生い立ちはポジとネガのように異なる。プーチン氏はレニングラード国立大学を出た後、KGB(国家保安委員会)の諜報員として出世の階段を駆け上っていった。ソ連共産党のエリート党員として歩み、政界に転じた。
一方のプリゴジン氏は幼くして父親を亡くし、病院で働く母親によって育てられた。英語版のウィキペディアによれば、実父も継父もユダヤ系という。全寮制の体育学校でクロスカントリースキーに打ち込んだが、目立った成績は収めていない。
18歳の時、窃盗で捕まり、執行猶予付き2年拘禁の判決を受けた。その2年後には強盗と詐欺、年少者に犯罪をそそのかした罪で12年の実刑判決。恩赦で9年の拘禁で済んだのは幸運だっただろう。プリゴジン氏は長い刑務所生活で様々なことを学び、人脈を築いていったものと見られる。
商才はあったようだ。出所後、彼は母親や継父とホットドッグの販売を始めた。商売は当たり、「ルーブル紙幣が数えきれないほど積み上がった」とニューヨークタイムズ紙に語っている。1991年のソ連崩壊後の混乱の中で、食料品チェーン店やカジノ、船上レストランとビジネスを広げていった。
とくに、古都サンクトペテルブルクでの船上レストランは大当たりした。プーチン大統領がシラク仏大統領やジョージ・W・ブッシュ米大統領を連れて食事に来た。この時の縁が「プーチンとの関係」の始まりのようだ。
プリゴジン氏が傭兵組織ワグネルを立ち上げたのは2014年頃である。ロシアがウクライナの政治的混乱に乗じてクリミア半島を併合し、東部ドンバス地方に住むロシア系住民の武装化を進めていった時期だ。ワグネルの軍事行動はシリア、中央アフリカ共和国などに広がっていった。
ロシアでは私兵組織は法的に禁じられている。が、ロシアの法律は政治の力でどのようにでも解釈、運用可能だ。それは、政治や軍事、経済のカタギの世界と裏社会との境界がはっきりせず、溶け合っていることを意味する。その闇はとてつもなく深い、と見るべきだろう。
プリゴジン氏は有力なオリガルヒ(新興財閥)の一人であり、プーチン氏の盟友である。ワグネルは「プーチンの私兵」の役割を果たし、ロシア正規軍を派遣できないような紛争に派遣されるようになっていった。中央アフリカでは、ワグネルの活動を調査していたロシアの複数のジャーナリストが殺害された。「邪魔者は消す」という露骨なやり方は、明と暗が溶け合い、法があって無いような社会でまかり通る手法だ。
たたき上げの苦労人だからか、プリゴジン氏はいわゆるエリートが大嫌いなようだ(プーチン氏を除いて)。とりわけ、セルゲイ・ショイグ国防相を口を極めてののしっている。ショイグ氏は中央アジアのテュルク系の少数民族トゥバ人で、クラスノヤルスク工業大学で建築学を学んだ。危機管理と災害復旧での実績が評価されて共産党の大幹部になり、プーチン政権で国防相に上り詰めた。軍務経験はまったくない。
傭兵を率い、前線に出ることもいとわないプリゴジン氏にとって、戦場の経験もないショイグ氏があれこれ指図するのは受け入れがたいのだろう。ネットで「ショイグ!ゲラシモフ(参謀総長)! 弾薬はどこだ」と前線での弾薬不足に激怒し、「お前らがきれいな執務室で肥え太るために彼らは死んでいったのだ」とののしった。どこの社会にも庶民には「エリートに対する反発」がある。反乱軍に対する民衆の歓呼の声はそれを裏付けるものだろう。
ショイグ氏への誹謗中傷の中で注目されるのは、ウクライナ侵攻以来、ロシア軍やワグネルに犠牲者が続出していることをプリゴジン氏が明らかにし、「お前たちはロシア兵10万人を殺した犯罪者だ」とののしったことだ。ウクライナ戦争でのロシア側の犠牲者については様々な憶測が流れているが、ロシア側から10万人という数字が出たのはこれが初めてではないか。
ロシアは侵攻当初、ウクライナに19万の兵力を投入し、その後、30万人の予備役を追加したとされる。イギリスの情報機関やアメリカの戦争研究所などがロシア側の死者数についていくつかの推計を発表しているが、プリゴジン氏が唱える10万人はその最大値に近い。
傭兵組織の存在と活用にしても、今回の反乱の顛末にしても、ロシアには「法の支配」という意識が感じられない。力こそすべて、政治がすべてを決めていく、という土壌が分厚く積もっているように感じる。私たちには想像もできないような感覚が支配している、と言うべきだろう。
と、こんな風に書いてきて、では私たちの国を外から見れば、どんな風に見えるのだろうか、と考えさせられた。もちろん、自由な国であり、法律もそれなりに機能している。だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が残した日本国憲法は、第14条で「法の下の平等」をうたいながら、天皇の特別な地位と世襲を例外として認めている。
第9条で戦争の放棄と「戦力の不保持」を明記しているのに、アジア有数の軍備を持つ自衛隊がある。現実に合わせて憲法をはじめとする法律を改変し、それを守っていくという意識が乏しい。「今の憲法を一字一句変えてはならない」と真面目な顔で唱える政治家もいる。
法と論理に厳格なドイツ人やフランス人に言わせれば、とても理解できないことであり、彼らにとっては日本もまた、ロシアとは違う意味で「不可解な国」の一つだろう。この世には不可解と不条理が山ほどある、ということか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 119」 2023年6月28日
≪写真説明≫
◎ワグネルの戦車に歓呼の声を上げる市民(BBCのサイトから)
◎戦闘服を身に着けたプリゴジン氏(CNNのサイトから)
≪参考記事&サイト≫
◎6月25日、26日の新聞各紙
◎英語版ウィキペディア「Yevgeniy Prigozhin」
https://en.wikipedia.org/wiki/Yevgeny_Prigozhin