過去の投稿

November 2024 の投稿一覧です。
政党の本部といえば、首都の中心部にあるのが相場だ。日本の自民党と立憲民主党の本部は千代田区永田町にある。大阪を拠点とする日本維新の会を除けば、ほかの政党も都心に近いところに本部を構えている。

null

ところが、ドイツの極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」は違った。ベルリンの郊外、東京でいえば中野区か練馬区のはずれのようなところに党本部がある。最初、ネットで調べた時は「何かの間違いではないか」と首をかしげたが、AfDの公式サイトに載っているのもその住所だった。アポなしで訪ねることにした。

ベルリンの中心部、ブランデンブルク門の近くにあるホテルから地下鉄と近郊電車を乗り継いで30分ほど。最寄り駅のヴィッテナウに着いた。駅前で住所を示して尋ねたが、誰も知らない。9月の州議選で大躍進を遂げてドイツ政界を揺るがした、いま話題の政党なのに。

住所は「アイヒホルスター通り80番地」と分かっている。近所の住民なら知っているだろうと、片言のドイツ語で尋ね回ったが、これまた誰も知らない。さまよい歩いて30分、ようやく「80番地」にたどり着いた。ごく普通の5階建てのビルだ。党本部はその1階にあった。

インターホンのベルを押す。誰も出てこない。「みんなで昼食にでも行ったのか」と思い、ビルの玄関先でタバコをふかしながら20分ほど待った。党員か支持者とおぼしき若者が来たら、ドアが開いた。どうやら「いきなり訪ねてきた怪しげな男」を監視カメラで見ていたようだ。

「日本から来ました。元新聞記者です」と自己紹介すると、仕事をしていた職員が何人か奥のオフィスから出てきた。みんな興味津々といった顔つきだ。日本人が訪ねてきたのは初めてだという(帰国してからさらに調べたところ、都心にもう一つ、議員が陣取る本部があることが分かった)。

「なんでこんな遠いところに党本部を構えてるんですか。地元の人も誰も知らないので、探すのに苦労しました」と、素朴な疑問をぶつけてみた。すると、1人が「警戒する必要があるからです。左翼からの襲撃や破壊活動に備えなければなりません」と答えた。真顔だった。

「現在の問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決される」と豪語したのはビスマルクである。19世紀の鉄血宰相の言葉を持ち出すまでもなく、ドイツの政治は血なまぐさい。20世紀前半には、ヒトラー率いるナチスが突撃隊という準軍事組織を使って政敵を武力でねじ伏せた。

ナチスは選挙で第1党になって政権を握り、当時のワイマール憲法の非常大権を使って独裁体制を築き、戦争に突き進んでいった。その苦い歴史を繰り返さないために、戦後つくられた西ドイツの基本法(憲法)は、国民に「自由と民主主義を守るために戦うこと」を義務づけた。戦後の西ドイツは「反ナチス」と「戦う民主主義」を掲げて再出発したのである。

中央政府には「連邦憲法擁護庁」という情報機関があり、憲法秩序に抵触する恐れのある政党や団体を監視して取り締まる権限が与えられている。極右政党のAfDは監視対象になっており、ナチスを称賛する言動をして罰金を科せられた幹部もいる。2013年の結党時から、主要政党もメディアも厳しい目を向けており、身構えざるを得ないのだろう。

私が「初めてドイツに来ました。フランクフルトから入り、ミュンヘンを回って」と言うと、「第一印象はどうですか」と尋ねられた。「こざっぱりして、システムがしっかりしていて規律正しい社会だと思う(a decent, well-organized and well-disciplined society)」と率直に答えると、失笑が漏れた。「それは昔のこと」と言うのだ。

鉄道や地下鉄が定刻通りに運行されていたのは昔のこと。今では遅延は日常茶飯事、突然の運休も珍しくない。街頭にはゴミが散らばっている――延々と愚痴が続いた後、1人が「日本では深夜でも女性が独り歩きできると聞いたが、本当か」と聞いてきた。

新宿の裏社会を描いて秀逸だった馳星周や大沢在昌の小説を読んで得た知識と、ささやかな実体験をもとに「日本のヤクザと中国人マフィアの抗争が激しい時期は治安も良くなかったが、新宿や池袋の主な盛り場を中国人マフィアが抑えてからは落ち着いている。深夜でも若い女性が平気で歩いている」と答えると、顔を見合わせながらうなずいた。

ドイツ国内の、とりわけ大都市の治安の悪化はかなり深刻なようだ。彼らが脳裏に思い浮かべたのは、2015年の大晦日にドイツ西部ケルンで起きた「集団性暴行事件」だったのではないか。事件が起きたのはケルン中央駅と大聖堂の間にある広場である。ここに集まった1000人余りの中東アフリカ系の群衆が新年を祝うお祭り騒ぎの中で、多数の女性に性的暴行を加え、強盗をはたらいた。強姦された女性までいた。

一夜明けた2016年元日、ケルン警察は「大晦日はおおむね平穏だった」というプレスリリースを出した。主要メディアは何も報じなかった。大規模な市民の抗議デモが起き、被害届が殺到した。ケルンの警察長官が記者会見を開いて、事件の概要を発表したのは1月4日のことである。それでも、公共放送のZDFはその日夜のニュースで「群衆の背景が不明」として、この事件を報じなかった。

警察発表の翌5日、ヘンリエッテ・レーカー市長は会見で記者に「女性はどうやって身を守ればいいのか」と問われ、「見知らぬ人々には近づかないこと。腕の長さ以上の距離を保つことは、いつだってできるでしょ」と答え、市民の怒りを増幅した。その後、逮捕された容疑者の中には、難民申請中の者が多数いることが確認された。

警察が事件の発表をためらい、市長がこのような発言をしたのはなぜか。この年、2015年の夏にメルケル首相は「すべての難民を受け入れる」「私たちはやり遂げる」と宣言し、ドイツの難民政策を大転換した。ケルンの市長は当時の政権与党、キリスト教民主同盟(CDU)や緑の党の支援を受ける女性政治家である。「メルケル政権の難民政策を後退させるわけにはいかない」という思いがあった、と見るのが自然だろう。

前回のコラムで、「ドイツには戦後、トルコ系移民と旧ユーゴスラビアからの難民、中東アフリカ系の難民、ウクライナからの難民と4つの大波があった」と記した。だが、実はドイツにはこの前に、もう一つの「語ることを許されなかった、より大きな移民の波」があった。旧ドイツ東部領土からの移民である。

null

第2次大戦後、ドイツは東プロイセンやポンメルンなど広大な領土を失い、ソ連とポーランドに奪われた。土地によっては数百年にわたってドイツ人が住んでいたところもあったが、いっさいお構いなく、ドイツ系の住民は補償もないまま追放された。混住を認めれば、将来、再び紛争の種になる。戦勝国側は「ドイツ人を一掃する」と宣言し、実行したのである。
 
ナチス占領下でユダヤ人を東の強制収容所に送り込んだ貨物列車が、今度は追放されたドイツ人を乗せて西へ向かった。荷馬車と徒歩で移動した人々もいた。被追放者の総数は1200万人とも1500万人とも言われる。

移動の途中で、被追放者はポーランド人やユダヤ人、チェコ人らから凄惨な報復を受けた。死者は推定で40万人ないし60万人。戦争によるドイツ本国の破壊と荒廃はすさまじく、旧領土からの移民のことまで手が回らなかったのだろう。その総数も報復による犠牲者の数も、いまだ推計すら定まらない。「旧ドイツ東部領土問題」と呼ばれる。

戦後のドイツは、多くの国民が飢餓線上をさまよう状況にあった。そこに追放された人々が移り住んだ時、どのような境遇に落ちていくか。彼らは「外国人」として疎外されないよう、自らが被追放者であることを隠し、劣悪な条件の下で生きていくしかなかった。

公けの場で追放の辛苦を語ることもできなかった。戦後、ドイツ人による600万人のユダヤ人虐殺や占領直後のポーランドやウクライナでの蛮行が次々に暴かれ、裁かれていったからだ。「被害者としてのドイツ」を語ることは、「加害者としてのドイツの歴史的な罪を中和することになる」と批判され、沈黙するしかなかった。

日本のメディアもこの問題を報じたことはほとんどなかったが、ドイツの旅から戻って間もない10月28日の夜、NHKは「映像の世紀 ドイツ さまよえる人々」というドキュメンタリーを流した。ポーランド兵による殺害と暴行、解放されたユダヤ人による報復の数々・・・。その映像のおぞましさに息をのんだ。

追放された移民たちが「被追放者連盟」を結成して、公然と語り始めたのは21世紀に入ってからである。その体験と哀しみを語るのに60年余りを要した。そのうえ、主要政党からもメディアからも厳しく批判された。60年たっても、周りは「敵だらけ」だった。

ドキュメンタリーは、自らも被追放者だった作家ギュンター・グラスの「ドイツの罪や後悔が長く喫緊の課題であったとはいえ、彼らの苦悩について沈黙してはならない。この問題を右翼に任せてはいけない」という言葉を伝え、最後も彼の「歴史は私たちに慰めを与えてはくれない。私たちはその歴史の中を歩き続けるのだ」という言葉で締めくくっている。

9月のドイツ東部3州での極右政党AfDの躍進は、こうした歴史的な経緯を抜きにして考えることはできない。「統一後も残る東西ドイツの経済格差への不満」という視点だけでは説明できないことが多すぎるのだ。旧西ドイツ地域でも、AfDは着実に支持を広げ続けている。

東部3州の州議選の結果をよく見ると、チューリンゲン州とザクセン州ではショルツ政権の与党、社会民主党(SPD)が惨敗した。ブランデンブルク州ではメルケル前政権の与党、キリスト教民主同盟(CDU)が第4党に転落した(グラフ参照)。

グラフが複雑になるので省略したが、注目されるのはチューリンゲン、ブランデンブルク両州で第3党になった「ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟(BSW)」という新しい極左政党である。この政党は、難民政策に関しては「受け入れを制限すべきだ」と訴え、ロシアと戦い続けるウクライナへの武器供与の中止を求めて躍進した。

移民・難民政策とウクライナ戦争への対応では、極右のAfDと極左のBSWが同じような主張をして票を伸ばした。両党とも若者の支持率が高い点も共通している。つまり、戦後ドイツの政界のメインストリームとも言うべき社会民主党(中道左派)とCDU(中道右派)は、その支持基盤を両側から掘り崩されているのである。来年9月の総選挙でAfDはどこまで支持を伸ばすのか。社会民主党もCDUも戦略を練り直しているところだろう。

話をAfD党本部でのやり取りに戻す。彼らは、日本の移民・難民政策に強い関心を示した。難民申請をしても条件が極めて厳しく、なかなか難民として認めない日本の制度は「カナダと並んで、お手本(role model)なのです」とまで言う。

日本で移民と難民の問題を担当しているのは、法務省の外局の出入国在留管理庁である。その所管と名称からして、国際社会の基準から外れている。移民と難民を治安維持の観点から「管理する対象」と捉えているからである。昔ながらの「官尊民卑の感覚」と言える。

ドイツの場合、連邦移民難民庁は内務社会省の管轄下にあり、移民と難民を「困窮した人たちとどう向き合い、社会にどうやって受け入れていくか」という観点で捉えている。難民の申請受付と認定だけでなく、受け入れ後の語学教育や職業訓練まで総合的にカバーしている。要するに、移民も難民も「われわれと同じ人間」として向き合おうとしており、日本とは根本的に異なる。どちらがまともかは言うまでもない。

極右政党のAfDは連邦憲法擁護庁の「監視対象」になっていることを意識しており、移民の「排除」を要求してはいない。「受け入れの制限」を求めている。とはいえ、AfDの支持層は、より過激な団体「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」の支持層と重なっており、移民・難民政策をどうするかをめぐっては、党内で激しい議論が続いているようだ。

AfD党本部での対話は2時間たっても終わらない。そのうち、先方から「党の幹部に会ってみませんか。セットします」と提案された。私は「明日、ベルリンを離れるんです」と言って辞退したが、その日の夜には英語版で100ページ近い党綱領をメールで送ってきてくれた。

移民・難民問題と並んで、ドイツ政治の重要な課題の一つは「欧州連合(EU)とどう向き合うか」である。帰国してから、AfDの綱領をじっくり読んでみた。綱領には、ドイツ社会の根幹を揺さぶる政策が盛り込まれていた。


(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)



【追記】
ショルツ連立政権は11月6日、与党の自由民主党が連立から離脱し、崩壊した。連立の主軸の社会民主党と緑の党が大規模な財政出動による景気刺激策を唱えたのに対し、財政規律を重視する自民党は反対していた。連立の崩壊に伴って、来年9月に予定されていた総選挙は前倒しされる見通しだ。


【注】
・ドイツのための選択肢(AfD= Alternative für Deutshlandの略称、アーエフデー)
・ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei の略称Nazi の複数形。国家社会主義ドイツ労働者党と訳す専門家もいる)


≪写真&地図≫

◎Wikipedia “Flight and expulsion of Germans (1944?1950)”
https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_and_expulsion_of_Germans_(1944%E2%80%931950)
◎ベルリン郊外にある「ドイツのための選択肢(AfD)」の党本部=2024年10月16日、筆者撮影
◎地図 ドイツが第2次大戦後に失った東部領土(英語版ウィキペディアから引用)
https://en.wikipedia.org/wiki/Former_eastern_territories_of_Germany
◎グラフ ドイツ東部3州の州議選の得票率(主要3党)=各州の公式サイトのデータを基に作成


≪参考サイト&文献≫

◎調査報道サイト・ハンター「ドイツは『第4の大波』に耐えられるか」
◎「支持を広げるドイツのための選択肢」(川畑大地、みずほリサーチ&テクノロジーズ、2024年9月24日)
https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/report/research/express/2024/express-eu240924.html/
極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の公式サイト(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「ギュンター・グラス」
◎ウィキペディア「ケルン大晦日集団性暴行事件」
◎英語版ウィキペディア「2015-2016 New Year’s Eve sexual assaults in Germany」
◎ウィキペディア「旧ドイツ東部領土」
◎ウィキペディア「連邦憲法擁護庁」
◎ドイツ語版ウィキペディア「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge (BAMF) 」(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」
◎「ドイツ移民法・統合法成立の背景と動向」(ハンス・ゲオルク・マーセン、筑波ロー・ジャーナル2号 2007年12月)
https://www.lawschool.tsukuba.ac.jp/pdf_kiyou/tlj-02/images/hansu.pdf
◎『包摂・共生の政治か、排除の政治か』(宮島喬、佐藤成基編、明石書店)




新聞記者として長くアジアを担当したので、インドやパキスタン、アフガニスタンから東南アジアまで、この地域の国々はかなり頻繁に訪れた。石油をめぐる連載記事の取材で湾岸の産油国を回ったこともある。だが、「担当地域外」ということで、ヨーロッパの国々を取材する機会はほとんどなかった。

古稀を過ぎて、体力も気力も徐々に衰えてきた。「まだ余力があるうちに取材の空白域に足を運んでみたい」と思い、かねて訪ねてみたかったドイツに10日間の旅に出た。

null

10月上旬、空路、フランクフルトから入り、中央駅近くのホテルにチェックインした。フランクフルトの繁華街は、中央駅の前に「こぎれいな歌舞伎町」をドスンと置いたような風情だ。駅前から延びる街路にはそれぞれ警察官が配置され、角々には中東系とアフリカ系の若者がたむろしていた。

中央駅から数ブロック奥に入っただけで、あやしいネオンが光り輝き、辻々には街娼が立っている。小さな紙片を広げてコソコソ売買しているのは麻薬だろう。大都市らしい猥雑さだ。夜遅く、散策を終えて駅前のホテルに戻ったが、明け方までパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、しばしば眠りを妨げられた。

翌朝、駅前のカフェに入った。店員の会話に耳を傾けていたら、「タシャクル」という言葉が聞こえてきた。アフガニスタンの共通語ダリ語(ペルシャ語方言)で「ありがとう」の意味だ。「私は日本から来た。あなたたちはアフガンから?」と英語で尋ねると、少し驚いたような表情で「そうです」と答えた。その店員はウズベク人だという。そこで、カウンターにいるもう1人の店員に「あなたはパシュトゥン人か」と問うと、ビンゴだった。

「なんで分かる」と聞くので、私は「元ジャーナリストで、アフガニスタンには取材で何度も行ったことがある」と答えた。パシュトゥンの若者は、首都カブール北方のパンジシール渓谷の近くで生まれたという。パンジシールと聞いてすぐに思い浮かぶのは、タジク人武装勢力の指導者、マスードである。

マスードが率いる勢力は1992年に社会主義政権を倒して権力を握ったが、4年後にはパシュトゥン人主体のタリバンに首都を追われた。マスードは拠点のパンジシール渓谷に立てこもってタリバンに抵抗し続けたが、2001年9月、アルカイダのメンバーと見られる男たちに自爆テロで殺害された。

当時、アフガニスタンを支配していたタリバンとその庇護下にあったアルカイダにとって、親欧米のマスードはアメリカとの戦争を始めるにあたって「障害になる人物」と見られていた。アメリカと手を組み、背後から攻めてくる恐れがあったからだ。

オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダのメンバーが旅客機を乗っ取り、世界貿易センターと米国防総省に突っ込んだのは、マスード暗殺の2日後、9月11日だった。「アメリカとの聖戦(ジハード)」を始める前に、彼らは「背後の敵」を始末したのである。

パシュトゥンの若者に「ドイツに来てどのくらいになる?」と尋ねた。「20年以上。タリバン政権になって逃げてきた」という。この感じならアフガン料理の店もあるはず、と思って探したら、すぐ近くにレストラン「カブール」があった。その日の夜、この店で羊肉と細切りニンジン、レーズンの炊き込みご飯「マヒチャ・パラウ」を食べた。懐かしい味がした。

null

戦火のアフガニスタンから逃れる人々の流れは、1979年のソ連のアフガン侵攻とその後の内戦、1990年代のタリバン政権成立前後の混乱、そして2001年9・11テロ後のアメリカとの戦争、と絶えることなく続いた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、隣国イランとパキスタンには今なお、合わせて500万人を超えるアフガン難民がいる。

隣国での苦しい生活から何とか抜け出したいと願うアフガン難民は、より良い暮らしを求めてヨーロッパを目指す。その中で、最も多くのアフガン難民を受け入れてきたのがドイツだ。連邦統計庁のデータによると、国内のアフガン人は2022年時点で42万人を上回る。ドイツでは、帰化した外国人やドイツ生まれで国籍を取得した子どもは統計上、外国人として扱われないので、アフガン系の人口はこれよりかなり多いと見ていい。

第2次大戦後、ドイツは労働力不足を補うため、トルコやイタリア、スペインなどから大量の移民を受け入れた。彼らは「ガスト・アルバイター(ゲスト労働者)」と呼ばれ、主に鉄鋼業や鉱業、農業部門などで働き、ドイツの戦後復興とその後の経済成長を底支えした。移民・難民のいわば「第1波」で、その数はトルコ人だけで約300万人とされる。

この移民政策は1973年の石油危機で景気が後退すると打ち切られたが、母国に帰らず、家族を呼び寄せて定住する者が多かった。イタリア人やスペイン人はあまり目立たず、社会に溶け込んでいったが、イスラム教徒のトルコ人は肩を寄せ合い、ドイツの中に「別のもう一つの社会」を形成していった。

ドイツは「資格社会」である。ほとんどの職業で公的な資格が必要とされ、一定の教育と職業訓練を経て資格を取らなければ、しかるべき職業に就けない。ドイツ語を覚え、ドイツの習慣に合わせるだけでも大変だ。それを乗り越えて、こうした資格を取るのは容易なことではない。多くのトルコ人は低賃金の仕事で糊口をしのぐしかなかった。

それはドイツ国内でも欧州各国でも広く知られたことだったが、ドイツ国内の「もう一つの社会」の問題にすぎないとして、声高に議論されることはなく、内外のメディアで取り上げられることも極めて少なかった。

ドイツの憲法である基本法には「政治的迫害を受ける者は庇護権を享有する」という条文がある。ナチス時代の圧政を繰り返さないために設けられた規定だ。これがあるため、「ドイツはずっと、難民に広く門戸を開いてきた」と受けとめられがちだが、必ずしもそうではない。国際的なルールに沿って粛々と難民として受け入れてきた、というのが実情だ。国内のトルコ人問題がトゲのように刺さったままであり、慎重な姿勢を保たざるを得なかったのだろう。

それでも、「難民鎖国」と批判される日本に比べれば、はるかに多くの移民と難民を受け入れてきた。アフガン難民に限らず、戦火に追われ困窮した人たちはドイツを目指した。1991年以降、旧ユーゴスラビアでの紛争が激しくなると、押し寄せる難民は急増し、翌1992年には40万人を超える難民がドイツに流れ込んだ。移民・難民の「第2の波」である。

そのピークが過ぎ、落ち着きを取り戻した頃、今度はシリアやイラク、スーダンなど中東アフリカ諸国からものすごい数の難民が押し寄せてきた。欧州連合(EU)には「最初に難民を受け入れた国が責任をもって対処する」というルールがあった。ダブリン規約と呼ばれるもので、特定の国に難民が集中するのを防ぐために定めたものだが、大波に直面したイタリアやギリシャ、オーストリアなどからは「負担に耐えきれない」と悲鳴が上がった。「2015年欧州難民危機」である。

混乱が深まる中で動いたのがドイツだった。当時のメルケル首相はダブリン規約にこだわることなく、「すべての難民を受け入れる」と宣言した。難民政策を大転換し、門戸を大きく広げたのである。国内から湧き上がった批判を、彼女は「私たちはやり遂げる」「困っている人たちに手を差し伸べたことで謝罪しなければならないというのなら、ドイツは私の国ではない」と一蹴した。その決断は、EUの境界周辺で立ち往生する難民たちを何よりも勇気づけるものだった。2015年から翌年にかけて、ドイツには100万人近くの難民が殺到した(グラフ参照)。

中東やアフリカから押し寄せた「第3の波」。ドイツは難民支援を担当する職員や関係施設の拡充に追われ、中央政府と州政府の予算も膨らんでいった。そこへ、2022年のロシアによるウクライナ侵攻である。戦争が激しくなるにつれて、ウクライナから「第4の波」が押し寄せた。ドイツが受け入れた難民はポーランドに次いで多く、100万人を上回った。

トルコからの移住者からウクライナ難民まで、人口約8500万人のドイツは約730万人(全体の8%)の外国人を抱えるに至った。欧州諸国の難民支援は手厚い。とりわけドイツは、難民として認定した人だけでなく、難民申請中の人にも住居を提供し、当面の生活費を支給する。申請した本人だけでなく、子どもや家族向けのドイツ語習得プログラムも充実している。

当然のことながら、移民と難民を支援する予算は膨らむ一方だ。豊かとはいえ、ドイツ経済にかつての勢いはない。国内では少子高齢化と地方の過疎化が進む。「難民ではなく、私たちのために税金を使え」という声が高まるのは避けられないことだった。

16年にわたってドイツを率いたメルケル元首相は、名宰相として今でも海外では高く評価されているが、ここ数年、国内では風向きが変わってきた。「いくら何でも、ここまで難民を受け入れる必要があったのか」「プーチンとツーカーの仲と言われていたのに、ロシアのウクライナ侵攻を止められなかったではないか」といった厳しい批判にさらされている。

こうした流れの中で、今年9月にドイツで行われたチューリンゲンの州議会選挙では、反EUと反移民を唱える極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が第1党に躍り出た。ザクセン州とブランデンブルク州でも躍進し、第2党になった。反ナチスを国是としてきたドイツで極右勢力がこれほど伸びたのは戦後初めてであり、衝撃的な結果だった。

多くのメディアは「東西ドイツの統一後も旧東ドイツ地域は経済的に立ち遅れたままだ。経済格差への不満が噴き出した」と分析したが、その底流に「難民政策への不満」があったことは間違いないだろう。旧東ドイツ地域以外でも確実に支持者を増やしているからだ。

「移民と難民の第4波」が打ち寄せるドイツで、何が起きているのか。ドイツは大波に耐えられるのか。ベルリンにある極右政党AfDの本部を訪れ、彼らの声に耳を傾けてみた。次のコラムで、ドイツ政治の底流を探ってみたい。


(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)


【初出】調査報道サイト「ハンター」 2024年11月1日


≪写真&グラフ≫
◎難民キャンプの子どもたち(著作権フリーの写真サイトPexelsから)
https://www.pexels.com/ja-jp/search/%E9%9B%A3%E6%B0%91/
◎フランクフルト中央駅の近くにあるアフガン料理店「カブール」
 (ミュンヘナー通りとモーゼル通りの交差点近く=2024年10月10日、筆者撮影)
◎ドイツへの難民申請者数の推移(ドイツ連邦移民難民庁のデータを基に作成)

≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「アフガニスタンの苦悩と誇り」
◎英語版ウィキペディア「Afghans in Germany」
◎「ドイツの『難民』問題とアフガン人の位置」(嶋田晴行、立命館国際研究2019年2月)
https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/31-3_02Shimada.pdf
◎「ドイツ在住トルコ系移民の社会的統合に向けて」(石川真作、立命館言語文化研究29巻1号)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_29-1/lcs_29_1_ishikawas.pdf
◎「ドイツの移民政策ー統合と選別」(前田直子、獨協大学大学院外国語学研究科)
https://iminseisaku.org/top/conference/090516ms1m.pdf
「ドイツはなぜ難民を受け入れるのか」(難民支援協会、2016年8月26日)
◎ドイツ語版ウィキペディア 連邦移民難民庁「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge」
◎『移民・難民・外国人労働者と多文化共生―日本とドイツ/歴史と現状―』(増谷英樹編、有志舎)