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2003年1月20日付 朝日新聞 社説 


 ただひたすら土を集める。造形作家の栗田宏一さん(40)が修行僧のような仕事を始めてから、もう10年以上がたつ。
 車で全国を回る。持ち帰る土は、いつも一握りだけ。「もっと欲しいと思いだしたら、際限がなくなるから」という。山梨県石和(いさわ)町の自宅で、その土を乾かし、ふるいにかけてサラサラにする。淡い桃色の土、青みを帯びた土、灰白色の土。同じものはひとつとしてない。
 少しずつ色合いの異なる土を細いガラス管に詰めて並べると、長い虹ができる。そうして生まれた作品が「虹色の土」だ。京都の法然院では、庫裏に小さな土盛りを多数配して曼陀羅をつくった。ふだん気にもとめない土が放つ色彩の豊かさに、訪れた人は息をのんだ。
 古い土器のかけらを手にしたり、石ころを集めたりするのが好きな子どもだった。宝石加工の専門学校を出た後、アジアやアフリカを旅した。宿代を含め1日千円で暮らす日々。触れ合う人々は貧しかったが、大地を踏みしめて生きていた。その国々の土をテープではがきにはり付けて、日本の自分の住所に送った。

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撮影:大西 成明  「秘土巡礼」(INAX出版)より


 帰国して見た日本。比較にならないほど便利でぜいたくな暮らしをしているのに、あまり幸せそうには見えない。遺跡発掘の作業員をしながら、焼き物や窯跡を訪ね歩く生活を続け、土の魅力にますます取り込まれていった。
 「土は美しい。それを伝えたい」と栗田さんはいう。
 地球の表面を覆う土の厚さは、平均するとわずか18センチしかない。地上のすべての生き物は、この土の恵みにすがって生きている。だが、私たちはいつしか、そのことを忘れ、被膜のように薄い土や、土の再生に欠かせない生き物を傷めつけてきた。
 栃木県の足尾銅山がその典型だ。明治以来の発展を支えた銅山の鉱毒は、緑に覆われた山々をはげ山に変えてしまった。閉山から30年たつというのに、鉱山跡からは、いまだに鉱毒が流れ出している。
 死んだ山々を生き返らせるために、地元や県内の人々が立ち上がったのは7年前のことだ。足尾に緑を育てる会をつくり、大規模な緑化に乗り出した。足尾の土には亜硫酸ガスが染み込んでいる。苗木を植えても枯れてしまう。緑を取り戻すために、まずよそから生きた土を運び込んでいる。
 育てる会の神山英昭さん(65)は「日光に修学旅行に来た子どもたちが植樹をしていってくれる。足尾は緑化の聖地のようになってきました」と語る。
 土は命の源であり、文明の糧である。土の美しさ、大切さを見つめ直したい。
 繁栄の果てに行き先を見失い、漂い続ける日本。豊かさと引き換えに失ったものの大きさをいま思う。



月刊『論座』2005年4月号掲載「社説の現場から」

 「人の生き死に。それを書くのが俺たちの仕事だ」
 新聞記者になりたての頃、初任地の静岡で支局長からよくそう諭された。小さな火事や交通事故でも、できるだけ現場に行く。常に自分の目で見て書く。「それが大事だ」と教え込まれた。

 おっかない人だった。甘い記事を見逃さなかった。酔眼で「どういうつもりだ」と説教が始まる。酔いが深まるにつれて言葉は激しくなり、「甘ったれんじゃねぇ。死ね! 死んでしまえ!」で終わるのが常だった。こういう上司の下で働くのは、正直言ってしんどい。神経がすり減っていく。けれども、指摘は鋭く、いつも的確だった。新聞記者の仕事をこれほど端的に表現し、追い求めた人に、その後ついぞ巡り合わなかった。

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 外報部に配属になり、アジア担当になった。ニューデリーとジャカルタに住み、戦争や暴動、騒乱、災害の取材に追われた。「生き死に」へのこだわりを忘れてはいけないと思いつつ、日々流される血があまりにも多く、徐々に鈍感になっていくのを抑えることができなかった。

 取材の一線を離れ、社説を書く論説委員になると、現場から遠くなる。ニュースに対する感度が鈍る。それでいて、アジア担当としてのカバー範囲は東南アジアの国々からインドとその周辺、アフガニスタンまでと広大だ。いまひとつ確信が持てないようなことでも、訳知り顔で書かなければならないときもある。論説委員になって4年。「これでいいのか」。自問することが多くなっていた。

 スマトラ沖地震は、そんな自問を吹き飛ばすようにやってきた。2004年12月26日、日曜日だった。
 論説委員は通常、土日は休む。担当デスク(論説副主幹)のほかには、仕事を抱えた人が数人出てくるだけだ。その日は私も、正月用のひまだね原稿を書くために出社していた。昼過ぎに地震の発生を知ったが、夕方までその原稿を仕上げるのに専念した。緊張感を欠いていた。

 ニュースに向き合う編集局はさすがに違った。呼び出しを受けて記者が続々と集まり、殺到する情報をさばいていた。夜、刷り上がった朝刊のゲラを見た。早版は「死者3000人、マグニチュード8.9」。それが最終版では「死者6600人」に膨らんでいた。大災害である。その場ですぐ社説を書くべきだった。が、すでにタイミングを失していた。

 一夜明けた月曜日。論説委員室の会議で「即座に対応しなかったことを反省しています」と述べてから、どういう社説を書くかのプレゼンテーションをした。「明日はわが身」とか「教訓をくみ取れ」といった、紋切り型の社説は書きたくなかった。会議で議論をしている間にも、伝えられる死者は万単位で増えていった。阪神大震災も、少し前に起きた新潟県中越地震も大変な災害だが、それらとはスケールの違う、何かとてつもないことが起きたことが分かってきた。

 会議では、次の4点を中心に説明した。
(1)地震の規模を示すマグニチュードは9.0に上方修正された。これは、この100年で4番目の大きさだ。阪神大震災の360倍(計算方式によっては1600倍)の規模になる。犠牲者も災害史上に残る数になる可能性がある。(2)解き放たれたエネルギーはものすごい。1000キロ以上離れたインドやスリランカの沿岸まで津波が押し寄せた。「自然が持つ力におののく」という表現を使いたい。(3)これまでの情報から判断すると、もっとも多くの犠牲者が出るのは震源に近いインドネシアのアチェ地方とスリランカ東部だろう。どちらも紛争地で、被災地はもともと疲弊している。救援活動は難航するだろう。(4)インド洋沿岸の国々は貧しい。地震対策はなきに等しい。津波の警報システムなどあるわけもなく、誰もが何も知らされないまま波にのみ込まれた。緊急支援が一段落したら、「地震とは何か」といった基本的なことを知ってもらうための援助ができないものかーー。

 これに対し、国際担当のデスク、村松泰雄は「いま起きていることは非常事態だ。将来の対策も大事だが、まずは行方不明者の捜索と被災者の救援に全力を注がなければならない。それをしっかりと書くべきだ」と主張した。専用回線で会議に参加している大阪の論説委員、大峯伸之からは「ぐらりと来たら、何を置いても高台に逃げる。津波対策はそれに尽きる。なのに、日本ですらきちんと教訓化されていない。それを書き込んでほしい」との声が寄せられた。

 それぞれ、足りないところを補う意見だった。こうした声を踏まえて、12月28日付で「スマトラ地震 巨大な津波におののく」という社説を書いた。意見を踏まえたつもりだったが、「国際社会としてどう取り組むべきか」という視点が弱かった。そこで、科学担当の論説委員、辻篤子が第2弾の社説「スマトラ地震 史上最大の救援作戦だ」(12月30日付)を執筆した。第二次大戦で連合国軍がノルマンディーに上陸した「史上最大の作戦」を例に引きつつ、今回の災害支援の規模の大きさを指摘し、それが持つ政治的な意味を説いた。

 電気も電話もない被災地で、一線の記者はどうやって取材し、原稿を送ったのか。
 ジャカルタ支局長の藤谷健は、発生翌日の27日夕にはスマトラ島北部アチェ地方の中心都市、バンダアチェに入った。被災から1週間ほど経ってから、街の真ん中を海が濁流となって流れ、人と車を押し流していく映像が世界に伝えられ、衝撃を与えた、あの街である。バンダアチェの空港は内陸部にあるため、被害を受けなかった。空港に着いたのはいいが、タクシーがいない。ようやく車を見つけて取材し、泥まみれの遺体が折り重なる惨状を原稿にして衛星電話でふき込んだ。

 ジャカルタ支局に衛星電話を常備していたこと。電源が長持ちする高性能のパソコンを持っていたこと。市内で唯一、自家発電機が動いていた州知事の公舎にたどり着き、充電できたこと。日頃の準備と機転で、厳しい状況を乗り切った。

 泊まるホテルはなかった。地震でつぶれたもの、津波で泥につかったもの。全滅だった。幸い、津波の前の地震の揺れは震度5程度で、津波が押し寄せなかった地域には無傷の建物がたくさん残っていた。民家に転がり込み、ろうそくの明かりで食事を取ったという。

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 朝日新聞として、取材態勢の面で改善すべき点があったとするなら、初期の段階で被害と取材人員の釣り合いが取れていなかったことだろう。震源に近いアチェ地方は、沿岸部が幅数キロにわたって壊滅的な打撃を受けた。電話局もテレビ局も被災して機能しなくなった。被害を外部に向かって報告、発信する手段がすべて失われた。紛争地のため、もともと外国人は立ち入りが規制されている。津波の前にはメディアもなかなか入れなかった。「衝撃的な映像」が外部に伝わるまで1週間もかかったのには、こうした事情があった。

 一方、タイ南部のプーケット島の被害は、海辺の幅数百メートルほどに限られていた。その奥は無事だったので、大波が打ち寄せる映像がすぐ世界に伝えられた。しかも、欧米や日本からの旅行者で犠牲になった人が多かった。スリランカやインドの被害も、インドネシアよりはずっと早く伝わった。このため、応援の取材陣はまず、タイやスリランカ、インドなどに向かった。朝日新聞の場合も、当初は「アチェには記者が1人しかいないのに、タイ南部には記者とカメラマンが6人もいる」という態勢が続いた。

 「インド洋全域で死者と行方不明者は約30万人(*)。その8割はアチェ」という被災の全体状況が分かったのはだいぶ経ってからであり、初動段階での取材態勢のアンバランスを問うのは酷かもしれない。ただ、日本のテレビ各局は、日本人犠牲者の報道にエネルギーの大部分を使い、この大津波による被害の全体像を伝えようとする気概を欠いていた。東京で取材の指揮を執る人たちに少なからぬ影響を与え、新聞の報道もこれに引きずられた面があったように思う。英国のBBCは、早い段階からアチェ地方とインドのアンダマン・ニコバル諸島に複数の取材チームを送り込み、果敢な報道をしていた。大災害の全体像に迫ろうとする気迫を感じた。

 地震でも津波でも、震源に近い所が一番大きな被害を受ける。初期の段階で被害が伝わらないとしたら、そこには別の理由があるはずだ。想像力を働かせなくてはならないーーそれが今回の地震と大津波の報道での教訓の一つだろう。

 話を「社説の現場」に戻す。
 年が明けてから、朝日新聞は「アジアの力が試される スマトラ沖大地震」(1月5日付)、「津波サミット 競い合い、支え合え」(1月7日付)という社説を掲げた。前者は、通常2本の社説が掲載される欄を全部使った、いわゆる「一本社説」である。憲法問題やイラク戦争の重大な局面、ブッシュ大統領の再選といった節目に、十分なスペースを使って朝日新聞としての基本的なスタンスを打ち出すために載せる社説だ。

 一つの災害のために、これだけ多くの国々が軍隊や医療チームを派遣して救援にあたったことはない。小泉首相やパウエル米国務長官(当時)、中国の温家宝首相、国連のアナン事務総長らがジャカルタに集まり、被災者の支援策を話し合う。これも異例のことだ。論説委員室の会議で「一本社説で論ずるべきだ」との声が出され、そう決した。

 米国は、今回の津波でアチェに1万4000人の兵力と空母部隊を投入した。多数のヘリコプターを使っての支援活動は水際立っていた。オーストラリアも輸送艦でブルドーザーやショベルカーといった重機を大量に持ち込み、がれきの除去などで貢献した。

 だが、インドネシア側は「米国はイラク戦争で高まったイスラム圏の反米感情を和らげようとしている」と斜に構えている。過去に東ティモール独立をめぐって対立したオーストラリアに対しては「次はアチェへの影響力を確保しようとしているのではないか」と疑っている。

 迅速さや機動力という点では、日本やアジア諸国の支援は米豪両国に到底、及ばない。だが、インドネシアとの間で摩擦が生じる恐れは少ない。息の長い支援を旗印にして、日本が復旧と復興のイニシアチブを取ることは可能だし、取るべきだーーそれが一本社説の眼目だった。

 被災地からの報道を受ける形で、論説としてもそれなりに書いたつもりだが、不満があった。現場を自分の目で見ていないことだ。新潟県中越地震では論説委員も次々に現地入りし、余震に揺られながら社説を書いた。それを思えば、これだけの大災害で現場取材をしないわけにはいかないだろう。議論の末、アジア担当と地震担当の論説委員が順次、被災地を訪ねることになった。

 大津波については、すでに膨大な量の報道がなされていたが、私は「まだまだ空白域がある」と感じていた。新聞の小さな地図で見ると、アチェ地方は小さく見えるが、実は九州の1・3倍もある。西海岸は約500キロ。東京?京都間に等しい。この長い海岸線がどうなっているのか、あまり報じられていない。気になっていた。バンダアチェより震源に近く、大津波を正面から受ける位置にあるからだ。

 1月下旬にアチェを訪ね、米軍の支援ヘリに同乗して空から海岸線を200キロほど見た。呆然とした。海沿いの地域がごっそり削り取られたようになり、町や村が消えていた。がれきすら、あまり残っていない。これでは映像で伝えにくい。あっさりしすぎて、悲惨さが伝わらないのだ。

 ちょうど同じ時期に、東大地震研究所の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)助教授が現地調査に来ていた。「バンダアチェより西海岸の方が被害は深刻なのではないか」と聞いてみた。「たぶん、そうでしょう。高さ30メートルくらいの津波があちこちに押し寄せたのではないか」と言う。その光景を想像すると、絶句するしかなかった。

 映像ではうまく伝えられないーーそういうところにこそ、新聞記者が入り込み、じっくりと取材して報道すべきだ。映像が力を持つようなフィールドでテレビと競争しても、活字メディアが勝てるわけはないのだから。

 アチェでの取材であきれたのは、復旧の見通しすら立っていないのに、インドネシア政府が「外国軍の早期撤退」を言い続けていたことだ。米豪両国軍がいることにわだかまりがあることは理解できる。しかし、今はそんなことを言っているときではあるまい。怒りを感じた。アチェから衛星電話で「アチェ報告 国の威信より人の命だ」と題した社説を送った(1月31日付で掲載)。

 インドネシアでの取材を終えて、タイ南部に回った。プーケット島より、その北のパンガー県の方が被害はひどいという。訪ねると、内陸深くまで津波が達している地区があった。カオラックという。専門家によれば、浜が遠浅なうえに北側に岬が突き出しているため、津波のエネルギーを丸ごと受けてしまったとのことだった。

 ここにも「取材の空白域」があった。この辺りには、ミャンマー(ビルマ)からの出稼ぎ労働者が多数いた。犠牲者もかなりいたはずなのだが、彼らは住所を登録しているわけではない。確認のしようがないのだ。

 白い砂浜には波が穏やかに打ち寄せていた。その海のかなたには、インドのアンダマン・ニコバル諸島があり、ミャンマーの島々が横たわっている。これらの島々の被災状況も実はよく分かっていない。インドは同諸島が軍事的に重要な意味を持つため、外国人の立ち入りを快く思っていない。ミャンマーの軍事政権は、そもそも外国人ジャーナリストを国内に入れようとしない。

 社説で「息の長い支援を」と何度も書いた。当然、メディアとしても「息の長い報道」をしなければならない。一線の取材も、論説の取材も、まだまだ終わらない。
(長岡 昇 ・朝日新聞論説委員)


*この記事は、朝日新聞社発行の月刊『論座』2005年4月号に次のタイトルで掲載された。 
 「社説の現場から」 まだまだ「報道の空白域」がある スマトラ沖地震と大津波
*その後の調査によれば、死者と行方不明者は約22万人と推定される。この地震は「スマトラ沖地震」あるいは「スマトラ島地震」などと表現されたが、メディアでは「インド洋大津波」の呼称が定着した。


≪写真説明≫
1 陸に打ち上げられた貨物船。この辺りには高さ30メートルを超える津波が押し寄せた
=スマトラ島北部のロックガで(1月29日、筆者撮影)
2 スマトラ島アチェの西海岸。道路は寸断され、この先は車で行くことはできない(同)


ながおか・のぼる 1953年生まれ。東京大学法学部卒。1977年、東芝入社。78年、朝日新聞入社。静岡支局、横浜支局、東京本社整理部、北海道報道部を経て外報部に。ニューデリー支局長、外報部次長、ジャカルタ支局長を務め、2001年から現職。

2004年7月17日付 朝日新聞 別刷りbe「ことばの旅人」 

 キリスト教と同じく、イスラム教でも、人間の始祖はアダムとイブである。聖典のコーランに、2人が禁断の木の実を食べて楽園を追われる話が出てくる。旧約聖書とほぼ同じ内容だ。
 ただ、コーランでは、追放される2人に神がこう宣告する。
「落ちて行け。お互い同士、敵となれ。お前たちには地上に仮の宿と儚い一時の楽しみがあろう」(井筒俊彦訳)

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船上でのベリーダンス。この日の踊り子はアルゼンチン人 (撮影:カレド・エル・フィキ〈エジプトの写真家〉)

 厳しい言葉である。男と女、そして性についての、イスラムの厳格な教えを凝縮したような言葉だ。
 イスラム学の総本山、カイロのアズハル大学のモハマド・オスマン教授は言う。
「性は結婚した男女間のものでなければなりません。婚姻外の交渉は許されない。性的な感情をかき立てるようなこともいけない。女性に顔と手以外は肌を見せないように求めているのも、そのためです」
 昼間、エジプトの人たちは比較的よく戒律を守っている。だが、日が沈み、涼しい川風が吹く夜になると、イスラムの教えは闇の中にのみ込まれていく。
 ナイル川に浮かぶ船上レストランで、ピラミッドに近いナイトクラブで、肌もあらわなベリーダンサーが踊りまくる。
「私たちは第4のピラミッドなのよ」
 売れっ子のダンサーが豪語した。「外国人観光客がエジプトに来るのは、ギザの3大ピラミッドに加えて、私たちの踊りがあるから」と自負する。
 観光だけではない。結婚式や誕生祝いでも、ベリーダンスは人気だ。暮らしの中に深く根付いている。
 謹厳なオスマン教授に「伝統文化の一つと言えるのではないか」と尋ねてみた。教授は言下に否定した。「ただ楽しみを追い求めるものは文化とは言えない」。「でも人気があります」。なお食い下がる。教授は少し不機嫌な顔になった。
「この世には犯罪が絶えない。だが、絶えないからといって合法になるわけではない。それと同じことです」
 犯罪と同じ扱いにされてしまった。
 実は、アラビア文学の傑作とされる千夜一夜物語も、エジプトではベリーダンサーのような扱いを受けている。
 一般には、「開け、ゴマ!」の呪文で知られる「アリババと40人の盗賊」や「アラジンと魔法のランプ」といった子供向けの話が有名だが、大人向けの艶話もふんだんに盛り込まれているからだ。
                                論説委員・長岡 昇

ゴマは「美の象徴」

 出だしからして、おどろおどろしい。
 千夜一夜物語は、ペルシャ王妃の密通で幕を開ける。不貞を知った王は打ちひしがれ、同じように妻に裏切られた弟と共に旅に出る。と、今度は旅先で魔王の愛人から淫らな誘いを受ける。
 事を終えて、愛人はささやく。
「女がこうと思い込んだら、誰にも引きとめることはできないのよ」
 魔王すら裏切られる。王の女性不信はここに極まる。旅から戻ると王妃を殺し、ひと晩ごとに乙女を召して殺すようになる。そこに才女シャハラザードが登場して、千夜一夜にわたって奇想天外な物語を語り続ける、という筋立てだ。
 もともとが枕辺での夜話である。口語体なので、表現もどぎつい。
 カイロ大学の文学部で千夜一夜物語を教材に使ったところ、女子学生の親たちから「とんでもない」と抗議される事件があった。1984年のことだ。
 授業を担当したアフマド・シャムスディン教授は「大学当局から教材に使わないように圧力をかけられた」と振り返る。学生たちが擁護に回ったこともあって、大学側は要求を取り下げたが、それ以降、授業ではあまり使われなくなった。

攻撃される自由奔放な物語

 翌85年には、千夜一夜物語を出版した業者がわいせつ罪で起訴され、有罪判決を受けた。控訴審で無罪になったものの、イスラム強硬派は勢いづき、しばらく出版が途絶えた。
 詩人のマサウード・ショマーン氏は「彼らは、艶っぽい話だけを取り上げて攻撃する。ろくに読んでもいない。先達が残してくれた貴重な財産なのに」と嘆く。
 千夜一夜物語は、民衆の日々の営みの中から生まれ、長い歴史にもまれながら今のような形になっていった。愛と憎悪、希望と欲望、人の気高さといやらしさ。それらすべてを、想像力の翼を思い切り広げて、これほど自由奔放に描ききった物語がほかにあるだろうか。
 なんとも不思議な物語の数々。
「アリババと40人の盗賊」も、謎に満ちている。盗賊たちは、金銀財宝を隠した洞穴の岩を開ける時の呪文を、なぜ、「開け、ゴマ!」にしたのか。小麦やエンドウ豆では、どうして開かないのか。
 ものの本には「ゴマの栽培は、古代エジプト時代までさかのぼることができる。搾油のほか、薬草としても使われた貴重な作物」とある。が、古くて貴重な作物ならほかにもある。
 どこで生まれた物語なのかも分かっていない。エジプト芸術学院のサラーフ・アルラーウィ助教授によると、スーダン国境のハライブ地方の語り部たちは「ここが物語の発祥地だ」と言い張っているという。もともと洞穴の多い土地で、「アリババの洞穴」と呼ばれるものもあるとか。
 そういえば、ゴマの原産地はアフリカのサバンナというのが定説だ。スーダンも含まれる。洞穴があり、しかもゴマのふるさとに近い。身を乗り出したが、どうも話ができすぎている。
 日本とエジプトの研究者に呪文のいわれを聞いて回っても、謎は深まるばかり。困り果てて、カイロの旧市街にあるスパイスと薬草の老舗「ハラーズ」を訪ねた。

強権政治が文化を守る役割

 主人のアフメド・ハラーズ氏は、笑みを浮かべながら「誰にも分からないでしょう。謎は謎のままにしておけばいいではありませんか」と慰めてくれた。そして、ゴマを使った面白い表現を教えてくれた。
 アラビア語では、美しい女性のことを「ゴマのようね」と言って、ほめる。目がパッチリして、ふくよかなことがエジプト美人の条件だが、鼻と耳は小さい方が好まれる。
 ゴマは、小さくて美しいものの象徴なのだった。
 90年代に入って、エジプト政府はイスラム組織への締め付けを強めた。日本人も多数犠牲になったクルソールでの外国人観光客襲撃事件の後、弾圧はさらに苛烈になった。今なお続く非常事態宣言の下で、多くの活動家が逮捕令状もないまま身柄を拘束されている。
 宗教勢力からの圧力が弱まり、千夜一夜物語の出版は細々とながら再開された。宗教勢力と世俗勢力が歩み寄って文化を育むのではなく、強権政治が文化を守る。悲しいことだが、それがエジプトの現実だ。
「開け、ゴマ!」。盗賊たちが残した呪文は、心の扉を開くことができずにもがく社会に、皮肉な隠喩となって響き渡る。


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出典
 千夜一夜物語の起源についてはインド、ペルシャ、アラブの3説があり、決着がついていない。特定の作者や編者のいない説話文学で、エジプトで発見された9世紀の写本が最古。各地の説話を取り込みながらバグダッドやカイロで内容が発展し、15世紀ごろ今に伝わる形になった。
 18世紀の初め、フランスの東洋学者アントワーヌ・ガランがアラビア語の写本から仏語に翻訳して紹介、中東以外の世界に広まった。19世紀になると、アラビア語の印刷本も登場した。英語版では「アラビアン・ナイト」の書名が付けられた。
 日本では、明治8(1875)年に「暴夜物語」の書名で英語版から初めて部分訳された。仏語版と英語版からの完訳出版の後、慶応大学の前嶋信次教授(故人)と四天王寺国際仏教大学の池田修教授が、1966年から26年かけてアラビア語原典から完訳し、平凡社東洋文庫から出版した(さし絵は同文庫「アラビアン・ナイト別巻」から)。
 ガランの翻訳以来、アラビア語の写本探しが続けられ、ほとんどの説話の原典が見つかった。「アラジンと魔法のランプ」と「アリババと40人の盗賊」の原典も、それぞれ19世紀末と20世紀初めに発見と伝えられたが、その後の研究で偽物と判明した。原典はともに未発見。

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訪ねる
 ベリーダンス=写真=はカイロ市内のホテルやピラミッド近くのナイトクラブで毎日、演じられている。だが、ショーは午前1時ごろから未明まで。そんな時間にやるのは、地元の人や湾岸産油国からの観光客が日中は暑いので体を休め、涼しい夜にくつろぐため。これでは、欧米や日本からの観光客はなかなか行けない。そこで、夕食をとりながらダンスを鑑賞できる船上レストランがある。ナイル川を2時間ほど上がり下りする間に、ベリーダンスとスーフィーダンス(旋舞)が演じられる。最高級の船上レストランで、酒代を含めて1人3千円から4千円ほど。

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◇2004年10月23日付 朝日新聞別刷りbe「ことばの旅人」
 
 人は時に、奇妙な願望を抱く。
 私の場合、それは「灼熱の砂漠に身を置いて、どれだけ耐えられるか試してみたい」というものだった。
 北インドの農村で、熱風に身をさらしながら働く村人たちを見た。湾岸のクウェートでは、摂氏52度の熱波を体験した。その度に深いため息をつき、気候の穏やかな国に生まれ育った幸せをかみしめた。
 同時に、これほど過酷な土地にとどまり生きてきた人々に、畏敬の念に似たものを覚えた。何という強靭さ。自分にも、そのかけらのようなものがあるのだろうか。試してみたい、と思った。

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ヨルダンのワディ・ラムの砂漠を行く遊牧民の兄弟(撮影:千葉 康由)

 脳裏に浮かんだのは、学生のころに見た映画「アラビアのロレンス」に出てくる、あの砂漠だった。
 第1次大戦中、オスマン・トルコの支配下にあったアラビア半島で、アラブ人の反乱が起きる。トルコと戦っていた英国は、T・E・ロレンスを連絡将校としてアラブ軍に送り込み、反乱を支援した。
 映画はこの史実を基に、ロレンスを「砂漠の英雄」として描いたものだ。デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で1962年に封切られた。
 遊牧の民ベドウィンのラクダ部隊に加わり、ロレンスは砂漠に繰り出す。海に面したトルコの要衝アカバを背後から衝(つ)くためだ。
 砂漠を800キロ余りも踏破し、アカバまであとわずかという時、彼は部下のガシムがいなくなっていることに気付く。ラクダから落ち、砂漠に置き去りにされてしまったのだ。
 助けに行こうとするロレンスを、ベドウィンたちは「引き返せば死ぬ」「ガシムは寿命が尽きたのだ」と押しとどめ、こう言う。「これは定めなのだ」
(It is written.) 
 ラクダを鞭打ちながら、ロレンスは言い返す。「この世に定めなどない」
(Nothing is written.)
 ロレンスはガシムを救い、ベドウィンの信頼を勝ち取る。アカバを占領し、さらにダマスカスへ。映画は、西欧の理性がイスラムの宿命論を乗り越え、反乱に勝利をもたらす物語として展開する。
 だが、それは実像に虚像を塗り重ねた物語だ。虚像を剥ぎ取った後に見えてくるものは、歴史の激流に翻弄(ほんろう)され、魂を引き裂かれそうになりながら苦悩した一人の人間の孤独な姿ではないか。
論説委員・長岡昇



 「砂漠の英雄? とんでもない。彼は典型的な二重スパイだ」
 エジプトの日刊紙アルワフドのタラビリ編集長は、ロレンスが果たした役割を端的な言葉で表現した。
 「英国は第1次大戦を中東進出の好機とみなした。ロレンスは情報将校として、ある時は母国のために、別の時にはアラブのために動いた。ユダヤ人によるイスラエル建国の手助けまでした」
 当時の英国の「三枚舌外交」は、つとに有名だ。フランス、ロシア両国と密約を交わし、トルコ敗北後の領土分割を決めた。一方で、アラブ人には独立を、ユダヤ人には国家建設をそれぞれ保証した。
 両立し得ない約束を交わしたのは、戦争に勝つことが至上命題だったからだ。英国の振る舞いは、中東に紛争の火種をばらまく結果になった。イラクの国境線が引かれたのはこの時だ。パレスチナ人が父祖の地を失った遠因もここにある。
 だが、こうした外交を進めたのは当時の政治家や高官だ。戦場にいたロレンスにその責めを負わせるのは酷だろう。
 彼自身、密約を知って苦しみ、戦後もアラブとの約束を果たすために奔走した。富も名誉もすべて拒み、名前まで変えて世捨て人のような後半生を送ったのは、それでも、自責の念をぬぐい去ることができなかったからかも知れない。
 ロレンスが多くの足跡を残したヨルダンでも、厳しい声を聞いた。
 歴史家のスレイマン・ムーサ氏は「ロレンス伝説は欧米メディアが作り上げたものだが、本人にも自分の役割を過大に売り込む癖があった。アカバ攻略は自分の発案、というのもその一つだ」と言う。
 ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムを駆け抜け、トルコ軍を撃破するアカバのシーンは、映画のハイライト部分だ。ロレンスの著書にも「私の奇襲作戦」とある。
 しかし、ムーサ氏は多数の証言を根拠にこれを否定する。「ロレンスがアラビア半島に来たのは、反乱が始まって半年もたってからだ。トルコを攻める戦略はすでに決まっていた。アカバ攻略を立案したのは、アウダ・アブ・ターイだ」
 映画では、彼は金目当てにロレンスの部隊に合流した、がさつな族長として描かれている。ムーサ氏の言う通りなら、アウダの一族にとっては受け入れがたい扱いだろう。
 アカバで、アウダの孫アキフ氏(51)に会った。建設会社を経営する孫は、やはり「祖父の描き方は不満だ」と言う。
 ところが、ロレンスに対しては、先の2人とは正反対の考えを口にした。「彼はベドウィンの真の友だ。われわれのために戦い、血を流した」
 チャーチル首相はロレンスを「現代に生きた最も偉大な人物」とたたえた。一方、作家のリチャード・オールディントンは「大うそつきの変質者」と切って捨てた。英国での評価は二つに割れ、その死から70年近くたっても定まらない。それはアラブから見ても同じなのだった。
 有名になった後、ロレンスは知人に「忘れたい。そして忘れられたい」と語った。自分ですら自分が分からない。他人に分かるはずがないではないか−−そう叫びたかったのではないか。
 アカバを去り、その東にあるワディ・ラムの砂漠に向かった。広い枯れ谷の両側に、ほぼ垂直の岩山が連なる。ロレンス伝説が広がるにつれて、世界遺産のペトラ遺跡と並ぶヨルダンの観光名所になった。
 酷暑期に入ったせいで、砂漠は閑散としていた。2頭のラクダを仕立て、通訳を伴って砂漠に乗り出した。1泊2日。ラクダ使いがずっと付き添い、さらに2人のガイドがトラックで先回りして食事と泊まりの支度をしてくれる。
 飲み水にも事欠いたロレンスの砂漠行とは比べようもない。それでも、照りつける太陽は変わらない。少しだけだが、「灼熱の砂漠」を体験できた。
 この日は砂漠の奥からの熱風ではなく、かすかに海風が吹いていた。それが驚くほど、つらさを和らげてくれた。
 夜、ラクダ使いのイブラヒム君(19)が「テントを使わないで、砂の上に寝具を敷いてそのまま寝たら」と勧める。素直に従い、満天の星を眺めながら寝入った。
 かすかな風。きらめく星。小さな恵みが砂漠では大きな慰めになることを知った。ロレンスは砂漠に、どんな慰めを見いだしていたのだろうか。

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  アラビアのロレンスの関係先を「訪ねる」

 ヨルダン南部の砂漠ワディ・ラムまでは、首都アンマンからデザート・ハイウエー経由で車で4時間ほど。アカバからは約1時間。アンマンの旅行会社に頼めば、砂漠の旅をアレンジし
てくれる。交渉次第で、1時間の旅から1週間の旅まで可能だ。
 ワディ・ラムの砂漠は砂がそれほど厚くないため、四輪駆動車でも走り回ることができる。ラクダより料金は高い。ラクダを使った今回の旅は1泊2日で1人分が310米ドル(約34
000円)だった。
 暑さのピークは8月。その前後もかなり暑い。ラクダに乗ると、慣れていないこともあって体がこわばる。跳びはねるように揺れるので、尻に負担がかかる。記者は50キロほど乗った
が、最後に肛門部から出血した。
 夜は冷えるので長袖を用意した方がいい。場所によっては毒蛇やサソリ、毒グモがいるので、野営する場合には注意が必要だ。ガイドによると、観光客に被害が出たことはないものの、
数年前に遊牧民が毒グモに刺されて死亡したという。
 近くにローマ時代の遺跡とされるペトラ遺跡がある。

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  「読む」

 ロレンスの自伝的著作「知恵の七柱」は平凡社の東洋文庫から翻訳出版されている。その簡約本「砂漠の反乱」(角川文庫)は品切れ。
 ロレンスをめぐる論争などを知るには牟田口義郎著「アラビアのロレンスを求めて」(中公新書)が有益。スレイマン・ムーサ著「アラブから見たアラビアのロレンス」(中公文庫)は
欧米とは違う視点からロレンスの実像に迫る。
 ロレンスを日本に初めて紹介した故中野好夫の著書に「アラビアのロレンス」(岩波新書)があるが、品切れ。

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ことばの出典

 トマス・エドワード(T・E)・ロレンス(1888ー1935年)は、英国貴族と駆け落ちした女性家庭教師との間に生まれた。オックスフォード大学在学中に中東を徒歩旅行し、卒論「十字軍の城砦(じょう・さい)」を執筆。卒業後はトルコとシリアの国境地帯で古代遺跡の発掘調査にあたった。
 第1次大戦の勃発に伴い陸軍に入り、1916年末から2年間、アラブの反乱に加わった。米国の従軍記者ローウェル・トマスが彼を「英雄」として報じ、米英両国で記録映画を交えた講演会をしたことから一躍、有名になった。
 アラブの反乱について、ロレンスは著書「知恵の七柱(なな・はしら)」で詳しく書いており、本文で紹介した「ガシム救出」のエピソードにも触れている。ただし、著書には「この世に定めなどない」という表現はない。この表現は映画「アラビアのロレンス」にあり、日本語の字幕では「運命だ」と訳している。
 日本学術会議の大川玲子・特別研究員(コーラン学)によると、アラビア語の動詞「カタバ」には「書く」という意味に加え、「運命をあらかじめ定める」という意味もある。詳しくは次のページの「学ぶ」の項を参照。

 写真はジェレミー・ウィルソン著「アラビアのロレンス」(新書館)から。

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 「学ぶ」

 大川玲子氏の新著「聖典『クルアーン』の思想」(講談社)によると、イスラム教では、全知全能の神が最初につくったものは「筆」と解釈されている。神は、その筆で天地創造から世の終末まですべての事を「天の書」に記し、次に天地創造にとりかかった、と解釈する。
 神が預言者ムハンマドに下した啓示は「天の書」の内容であり、すべてはあらかじめ定められている、という宿命論につながる。”It is written.”という映画のセリフは、以上のようなイスラムの宿命論を踏まえたものと考えられる。




*1994年4月4日 朝日新聞夕刊(社会面)

 太平洋戦争の末期、ビルマ(ミャンマー)駐留の日本軍がインド北東部の占領をめざして攻め込んだインパール作戦から、今年で50年。激しい戦闘と悲惨な退却行で命を落とした将兵は、2万人とも3万人ともいわれるが、その数すらはっきりしない。区切りの年とあって、この3月には170人近い遺族や戦友会関係者が、追悼のため相次いで現地を訪れ、インドの辺境で手を合わせた。

インパール写真(改訂)19940404.jpg
野原に仮の祭壇を設け、異郷に眠る肉親に向かって手を合わせる遺族=1994年3月17日、インパール盆地北方で(撮影・長岡昇)

 追悼に訪れたのは、政府派遣の慰霊巡拝団8人と全ビルマ戦友団体連絡協議会(西田将会長)の8グループ161人。遺族のひとり、大江ち江さん(69)=滋賀県高島郡新旭町=の兄達男さんは、インパール盆地の北カングラトンビで戦死した。「小隊長さんが兄の右腕だけをだびに付し、昭和22年3月に自宅に届けてくれはったんです。たまたま同じ日に、マニラで戦病死した次兄の遺骨も届きました。母は気丈な人でしたけど、その夜は白木の箱を両わきに抱きかかえて、声を上げて泣いとりました」

 埼玉県北葛飾郡庄和町の名倉健次さん(61)の父平次さんは、ミャンマー国境に近いテグノパールで戦死した。砲兵部隊の兵士だった。一家は働き手を失い、当時12歳だった名倉さんが農業を継いだ。「日本は何不自由なく暮らせる、豊かな国になりました。皆様はその礎になられたのです」。インパール南のロッパチンに建設中の平和記念碑の前で、合同慰霊祭が営まれ、名倉さんは遺族を代表して、かすれ声で鎮魂の言葉を読み上げた。

 インドとはいっても、インパール周辺はモンゴル系の少数民族が多数を占め、分離独立を求める武装闘争が続く。中央政府は外国人の立ち入りを厳しく制限しており、地元にとっては、日本と英国の旧軍関係者がほとんど唯一の外国からの訪問者になっている。しかし、現地を訪れる遺族も老いが進む。地元マニプール州の政府当局者は「日本の若い人たちはここに来てくれるでしょうか」と語っていた。(インパール〈インド〉=長岡昇)
  
 <インパール作戦> 1944年3月から7月にかけて、日本のビルマ方面軍第15軍が実施したインド進攻作戦。敗色濃い太平洋戦争の戦局打開を狙って、約8万5600人の兵力(航空部隊を除く)を投入。インド北東部インパールの占領をめざしたが、英軍の反撃で敗退した。


2001年3月8日の朝日新聞夕刊「らうんじ」

 「都会は騒がしくて、かなわん。土をいじりながら静かに暮らしたい」
作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールは、インドネシアのボゴール郊外の農村、ボジョン・グデに新しい家を建てた。小さな畑も付いている。近く引っ越す予定だ。

 今でも1日4箱は吸うという丁字入りのたばこをくゆらせながら、老作家は「ジャワの農村で育ったから」と、土へのこだわりを口にした。2月中旬、完成間近の新居で、プラムディヤの76歳の誕生日を祝う会が開かれた。旧友らは記念に日本製の耕運機を贈った。足腰が弱って、もう自分で動かすことはできない。それでも、いとおしそうにハンドルをさすり、目を細めた。

物語1家族写真 修正版.jpg
76歳の誕生祝い。子と孫が勢ぞろいし、プラムディヤ夫妻(中央)を囲んだ/撮影・M・スルヤ氏、ボゴール郊外のボジョン・グデで

 
 昼食後、前庭で家族の写真を撮ることになった。
傍らに白いスカーフをかぶったマイムナ夫人。夫妻を7人の娘と1人息子、孫たちが取り囲む。初めてのひ孫も長女に抱っこされて加わった。

 後日、引き伸ばして手渡すと、プラムディヤはつぶやいた。
「歴史的な写真だな、これは」
すぐには意味が分からなかった。
通算16年に及ぶ投獄。釈放後も続いた当局による監視と迫害。娘のうち3人は、亡くなった前妻との子供。家族全員がそろったことは、これまで一度もなかったという。
家族が集まる。そんな当たり前のことが難しい人生だった。

      *    *

 1965年の9月30日から10月1日にかけて、インドネシアを揺るがす大事件が起きた。共産党系の将校が部隊を率いて陸軍司令官ら6人の幹部を殺害、放送局や電話局を占拠して「革命評議会」の樹立を宣言した。

 当時、陸軍戦略予備軍の司令官だったスハルト将軍はこのクーデターを鎮圧、共産党の伸長を許したスカルノ初代大統領を失脚させ、実権を握った。いわゆる「9・30事件」である。拮抗(きっこう)していた国軍と共産党の力関係は崩れ、共産党支持者に対する大虐殺が始まった。死者は、国軍の推計で45万?50万人。被害者と遺族の団体は約90万人と主張している。

 プラムディヤは共産党系の文化団体の中心メンバーだった。「芸術は政治に従属すべきだ」との論陣を張り、反対勢力を激しく攻撃していた。事件後間もなく、ジャカルタの自宅で逮捕された。
「手間をかけやがって」
連行の途中、兵士はそう毒づきながら、銃床で彼の頭部を乱打した。この時から、右耳は聞こえなくなった。

 刑務所を転々とした後、1969年にマルク諸島の流刑地、ブル島に送られた。荒れ地を切り開いて自分たちで収容所をつくった。食糧は自給自足。ピーク時には1万人を超える政治犯がいた。「ヘビ、ネズミ、犬……。栄養になるものは何でも食べた。必ず生き抜く、と自分に誓った」

 プラムディヤは、この収容所で代表4部作を完成させた。後にタイプライターを使えるようになったが、最初のころは紙もペンもなかった。毎夕、囚人仲間に語り聞かせながら、構想をまとめていった。

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流刑地ブル島の収容所でタイプライターを打つ プラムディヤ=1977年2月、当時の朝日新聞ジャカルタ支局長、増子義孝氏写す

 
 『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡(そくせき)』『ガラスの家』の4部作は、連続した一つの物語である。舞台は、19世紀末から20世紀初めにかけてのインドネシア。オランダの植民地支配下で苦悩するジャワ貴族出身の若者が民族意識にめざめ、独立運動に立ち上がるまでを描いている。インドネシアという国家の原型が、この時代に形成されたとみるからだ。

 『人間の大地』の中で、プラムディヤはオランダによる砂糖の強制栽培の実態と農民の屈従を描いている。そして、抵抗することを忘れたジャワ人を「太陽に焼かれたミミズのような」民族と表現した。

 「彼らは敗れるべく運命づけられていたのであり、その自己の運命を理解していなかったがゆえに、なおさら哀れなのです」(出版社めこん、押川典昭訳)
オランダに最後まで抵抗し続けたのはスマトラ島北部のアチェ人だった。
「彼らには守るべきもの、たんなる生や死、あるいは勝ち敗けよりもっと尊い何かがあるからです」(同)

 そのアチェも武力に屈した。
人間としての誇り。それを守り抜く決意が崩れた時、人々はひれ伏し、流れに身を任せて漂い続けるしかなかった。

      *  *

 流刑地で10年。プラムディヤは1979年末に釈放された。最初にブル島に送り込まれ、最後に釈放された政治犯の1人だった。
「逮捕の理由を説明されたことは一度もない。もちろん、裁判もなし。釈放書には『法的には9・30事件とのかかわりはない』と書いてあった。あまりの文化の低さに、怒りより哀れを覚えた」

 翌年、『人間の大地』を出版した。初版は12日間で売り切れた。当時のアダム・マリク副大統領は「祖父や父がいかに植民地主義に立ち向かったかを理解するために、すべての若者が読むべきだ」と賛辞を寄せた。

 ところが、スハルト政権は間もなく、この本を「マルクス・レーニン主義を広め、社会の秩序を乱そうとしている」として発禁にした。その後に出版したものもすべて発禁になった。プラムディヤは言う。
「人間を平気で踏みつけにするという点で、スハルト政権はオランダの植民地支配と何ら変わらなかった。何度発禁処分を受けようと、本を出し続けた。書き続けることが、私にとっては闘いだった」

 1998年にスハルト政権が倒れ、インドネシアは民主化に踏み出した。国民はようやく、プラムディヤの本を手にすることができるようになった。だが、出版が黙認されているだけで、発禁処分そのものは解除されていない。最高検察庁の担当官は「共産主義を禁じた国民協議会の決定が撤回されていない以上、発禁を取り消すわけにはいかない」と言う。プラムディヤの闘いはまだ終わっていない。
(敬称略)
                                               (文・長岡昇 ジャカルタ支局長)

 * プラムディヤは2006年4月30日、81歳で死去。紙面では「プラムディア」と表記しましたが、より原音に近い「プラムディヤ」に改めました。このほかにも一部、加筆訂正をしました。





2001年3月9日の朝日新聞夕刊「らうんじ」


 強靱な意志。強烈な個性。作家プラムディヤの生い立ちを知るため、故郷のブローラに向かった。ジャカルタから中部ジャワの州都スマランまで空路で1時間。そこから東へ車で3時間半ほど。東ジャワとの州境に近い小さな町だ。

 空港から乗ったタクシーの運転手は、たまたまブローラの出身だという。道すがら「町の名物は何なの」と聞いてみた。
「サテ・アヤムがうまい」
即座に答えが返ってきた。甘辛いタレをつけて食べるインドネシア風の焼き鳥だ。どこにでもあるが、ブローラのものは地鶏の肉質がいいうえ、タレが独特なのだという。

 続けて「町の出身者で有名な人はいる?」と尋ねた。しばらく考え込んでいる。「思いつかないなあ。とくにいないんじゃないの」。いろいろ水を向けてみたが、名前は出てこなかった。

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プラムディヤの父親が校長をしていた中部ジャワ・ブローラの学校は、今は公立中学になっている。生徒た ちは午前7時前に登校してくる

 
 プラムディヤはこの町で、1925年に生まれた。オランダの植民地支配は爛熟期に入っていた。その一方で、独立への胎動も始まり、運動が地方にも広がりつつあった。父親のマス・トゥールは「ブディ・ウトモ」という民族主義団体が運営する学校の校長をしていた。自ら教壇に立つかたわら、自宅で大人のための識字教室を開くなど、この地方の中心的な活動家として人望を集めていた。

 「親戚の子供だけでなく、貧しい家庭の子供もうちで預かっていました。多いときには24人もいた。食事の支度だけでも大変でした」。故郷で暮らすプラムディヤの妹ウミ(70)は、母親のサイダが汗だくになりながらも誇らしげに働いていたのを覚えている。

 オランダは当初、「ブディ・ウトモ」の運動を「原住民の教育水準の向上に役立つ」と推奨していた。しかし、教育運動が独立運動へと発展し始めたのに気づき、1930年代後半から弾圧に転じた。

 植民地政府は親たちに転校させるよう、露骨な圧力をかけた。生徒数は激減し、運動の拠点になっていた自宅に住民が寄りつかなくなった。絶望した父は、バクチにのめり込んでいく。短編『弟の生まれたころ』で、プラムディヤは父の挫折を書いている。

 「父は家に帰って来なかった。時には3日3晩も姿を見せなかった。学校にもいなかった。母は私に言った。『父さんはね、とても失望しているの。今は慰めが必要なの』」(冨尾武弘訳)
 
 このころのことを語る時、プラムディヤの口調は重くなる。独立運動に邁進し、ジャワ文化の豊かさを教えてくれた父と、家庭を顧みなくなった父の姿が交錯し、心が乱れるのだろう。

 崩れた父に代わって、家族の生活を支えたのは母だった。裕福な家庭に育ち、土をいじったこともなかった母が、田畑を耕して食糧を確保し、雑貨商をして生活費を稼いだ。「女性の隠された力はすごい」。奮闘する姿を見て、プラムディヤはそう思ったと言う。彼の人生と作品に最も大きな影響を与えたのは、この母といっていい。

 小学校を卒業すると、プラムディヤはスラバヤにあるラジオ修理工の養成学校に進んだ。早く働き手になり、家族の生活を支えるためだった。在学中に第2次大戦が始まり、日本軍がジャワ島に上陸した。その3カ月後、母は10人目の子供を出産して体調を崩し、35歳で世を去った。

*      *

 父が校長をし、プラムディヤが通った学校の跡地は今、公立中学になっている。校門のわきには「学校の創設者」として父を顕彰する碑がある。放課後、生徒30人ほどの3年生のクラスで「故郷が生んだ作家」を知っているか尋ねた。プラムディヤのフルネームも言ってみた。みんなキョトンとしている。ひょうきんな男の子が「ルーパ(忘れた)」というと、ドッと笑いが広がった。だれ1人、知らなかった。

 「彼の作品は教科書に載っていないし、文学史にも名前が出てきませんから。図書館にも1冊もないんです」。国語担当の女性教師、ワフユ・ウィナンティは気まずそうな表情をした。民主化されたはずなのに、中学の指導要領はスハルト政権時代の1994年版がそのまま使われている。政治的な混乱が続き、改訂作業は遅々として進まない。

 「ブローラ生まれの生徒たちが将来、外に出て、プラムディヤの名前も知らないのではつらいのではないですか」と言うと、彼女は「授業内容について検討する職員会議で話し合ってみます」と語った。

*      *

 プラムディヤの生家には、弟のワルヤディ(74)が住んでいる。1965年のクーデター未遂事件の後、兄に続いて3人の弟たちも次々に逮捕された。投獄期間はそれぞれ12年、10年、5年。もう1人いる末弟だけが逃走し、逮捕を免れた。

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 プラムディヤの妻は夫の釈放を待ち続けたが、ワルヤディの妻はすぐに去った。流刑地のブル島から故郷に戻って以来、ずっと独りで暮らしている。医学や薬草の知識があるため、近隣の住民に治療を頼まれ、評判になったこともあったが、当局ににらまれ、だれも訪ねて来なくなった。

 「兄貴には世話になった。若いころ英語の通訳になれたのも、兄貴に援助してもらったおかげだ」。かなりしっかりした英語でそう言う。だが、プラムディヤは、里帰りしても生家ではなく、妹の家に泊まる。

 兄は建て替えの費用を出すと言っているのだが、弟は「このままでいい」と受け付けない。居間にかけられた両親の肖像画には、クモの巣がまとわりついていた。朽ちかけた家で、弟は世捨て人のようにして生きている。名をなした兄に、複雑な思いがあるのだろう。

 ぎくしゃくしたものはある。けれども、ともかく全員生き延びた。プラムディヤ兄弟にはまだ、救いがある。この国には、理由も分からないまま殺されていった人々が数十万人もいるのだから。
(敬称略)
                                           (文・写真 長岡昇 ジャカルタ支局長)



2001年3月15日の朝日新聞夕刊「らうんじ」


 故郷ブローラの小学校を卒業したプラムディヤは、東ジャワのスラバヤにあるラジオ修理学校に入学した。修業期間1年半の職業訓練校だ。卒業が間近に迫った1942年12月、太平洋戦争が始まった。

 「ちょうど分解修理の実習をしている時、ラジオで『日本が真珠湾を攻撃した』というニュースを聴いた。みんな茫然としていた」。戦争になれば、徴兵が始まる。生徒はそれぞれ帰郷した。プラムディヤもブローラの実家に帰った。

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年を重ねて、プラムディヤの視力は落ちてきた。しかし、目には力がある(撮影/千葉康由氏、西ジャワ州ボゴール近郊のボジョン・グデで)


 オランダ領東インド(現在のインドネシア)には、戦争遂行のために日本が必要とする石油があった。フィリピンとマレー半島を確保した日本軍は、インドネシア攻略を開始した。翌42年1月、まずスラウェシ島北部のマナドとボルネオ島沖のタラカン島に進出。2月にはスマトラ島南部パレンバンの油田地帯を押さえ、ティモール島を占領してオーストラリアへの退路を断った。

 欧州ではこれより先に戦争が始まっており、オランダ本国はすでにドイツに占領されていた。補給が途絶えた現地軍は総崩れになる。3月1日、日本軍が三方面からジャワ島に上陸すると、オランダ軍はわずか9日で全面降伏した。

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 植民地支配者として、300年以上も君臨してきたオランダ人が右往左往し、逃げ惑う。しかも、攻め込んできたのは自分たちと同じような肌の色、体格の日本人。インドネシアの人々にとって、それは衝撃だった。

 当時、プラムディヤは17歳。故郷でオランダの敗走と日本の進撃を目撃した。「うれしくてしょうがなかった」ことを覚えている。アジアのほかの国はともかく、少なくともインドネシアでは当初、多くの人が日本軍を「白人の植民地支配から解放してくれた」と大歓迎したのは間違いない。

 だが、幻想はすぐに崩れる。日本軍歓迎の渦の中にいたプラムディヤは、行軍中の日本兵に腕時計と自転車を略奪された。「こつこつためた金で、やっと買ったものだった。何の抵抗もできない自分に、無力感を覚えた」。17歳の少年の体験は、その後の日本軍による支配がどのようなものになるかを暗示していた。

   *  *

 「インドネシアのような広大な地域が、なぜオランダのようなちっぽけな国に支配されてしまったのか」。プラムディヤは1950年代に『ゲリラの家族』など、対オランダ独立戦争をテーマにした作品で作家としての地位を確立したが、こうした疑問にとらわれ、しばらく執筆活動をやめる。

 「答えは歴史の中にある」と考え、アジア史、とくに20世紀初頭の歴史の研究に没頭した。その時、西欧列強の力に屈しなかった日本に目を向ける。

 スハルト体制下での14年間の獄中生活を経て、1985年に出版した作品『足跡』の中で、プラムディヤは日本のことをこう表現した。
「北のかなたには、すっくと立ち上がり、世界の文明国から対等の存在として認められた、
輝けるアジアの民がいる。すなわち、日本人である。日本人以外に、これほど大きな名誉に浴したアジアの民はいない」(出版社めこん、押川典昭訳)

 オランダの植民地支配に抵抗しようとして挫折した父。そのせいで家族は生活苦に陥り、プラムディヤは手に職を付けるため職業訓練校に進まざるを得なかった。夢の中でまどろむしかない、わが民族……。それを思う時、自立し、列強と戦う日本は「驚異の民族」だった。

 日本の軍政が始まると、プラムディヤはジャカルタに出てきた。首都で、同盟通信社(共同通信社の前身)のタイピストの職を得た。働きながら中学に通い、小説を読みあさった。 「同盟通信では、マタノさんとスズキさんにお世話になった。小説で影響を受けたのは、アメリカの作家スタインベック。ストーリー展開が映画のようだと思った」

 速記も習い、日本への傾斜が深まる。「日本人女性と結婚したいと思ったこともあったよ」と言う。しかし、戦局が悪化するにつれ、日本が唱える「大東亜共栄圏」の虚飾は急速にはがれ、「インドネシアは日本が戦争を続けるための資源と労働力の供給地」という本音があらわになっていく。

 若い男は補助兵力として動員された。軍事施設の建設や軍需工場での労働、鉄道敷設などに住民が動員され、十分な食料も与えられないまま過酷な労働を強いられた。『日本占領下のジャワ農村の変容』(草思社、倉沢愛子著)によれば、住民の動員数は日本軍関係者の推計で257万人、インドネシア政府は戦争賠償の交渉の際、約400万人と主張した。動員による死者数は、推計すらない。

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インドネシアの独立記念塔の地下にある日本占領時代のジオラマ。強制労働させられる住民の姿が描かれている=ジャカルタ市内
  
 
 プラムディヤとのインタビューの通訳をしてくれた助手に、私は「日本はオランダを追い出して、独立のきっかけを作った。一方で軍政時代にひどいことをした。プラスマイナス、ゼロではないか」と聞いたことがある。

 日ごろ穏やかな助手が、この時だけは顔色を変えた。「冗談じゃないですよ。じいさんは、日本の軍政はオランダの植民地支配より、ずっとひどかったって怒ってましたよ」。インドネシアで今使われている高校の歴史教科書は、より明確に表現している。
「日本はインドネシアを占領したことのある国の中で、もっとも残酷だった」(グラフィンド・メディア・プラタマ社版)

 『足跡』の中で、プラムディヤは日本を「希望の星」としつつも、日本や列強による中国侵略にも触れ、侵略に抵抗する中国の民族主義者を登場させている。近く、日本軍政時代の従軍慰安婦問題をテーマにした本を出版し、日本のもう一つの顔を世に問う。

 プラムディヤに冒頭の問いをしてみた。彼は「フッ」と小さく息を吹き出しただけだった。あの戦争を一言で定義しようとすること自体、愚かなこと。そう言いたかったのではないか。
(敬称略)
                                        (長岡昇=ジャカルタ支局長)



2001年3月16日の朝日新聞夕刊「らうんじ」 連載終了


 プラムディヤの両親は、2人ともジャワ人である。生まれ育ったのは中部ジャワで、家庭では当然のことながらジャワ語が使われていた。だが、彼はこの言葉が「嫌いだ」と言う。

 「ジャワ語は敬語や謙譲語がものすごく複雑だ。相手が自分より目上なのか目下なのかをまず決めてから、話さなければならない。権力や秩序を固定し、維持するような機能がある」

 学校教育はオランダ語で受けた。父親が校長をし、プラムディヤが通った郷里の小学校も、その後入学したスラバヤのラジオ修理学校も、授業はオランダ語だった。植民地では「支配者の言葉」が共通語になる。独立を語るにしても、職を得るにしても、共通語ができなければ話にならない。独立運動の初期、指導者たちは運動方針や組織づくりについてオランダ語で議論している。

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76歳の誕生祝いの席で、初のひ孫に目を細める プラムディヤ(撮影/M・スルヤ氏、西ジャワ州ボゴール近郊のボジョン・グデで)


 プラムディヤにとって、インドネシア語は第三の言語である。初めてこの言葉を教えてくれたのは、生家のお手伝いさんだった。
「彼女はジャワ人なのに、なぜかインドネシア語ができた。人間のことを『オラン』って言うんだよ、と教えてくれた。ジャワ語ではエビを『ウラン』という。幼心に『人間がエビみたい。変な言葉だなあ』と思った記憶がある」
インドネシアを代表する作家は少年時代まで、インドネシア語とほとんど無縁の生活を送っていた。

     *  *

 インドネシア語は、マラッカ海峡の両岸で使われているマレー語(ムラユ語)がもとになっている。交易や布教のための言葉として、昔からジャワ島やスラウェシ島の港町などでも使われていた。

 さまざまな民族が入り交じる中で意思疎通を図るためには、言葉は単純で明快な方がいい。マレー語には単数、複数の区別がない。過去と現在は動詞の変化ではなく、文脈で区別する。敬語はあるが、複雑ではない。

 インドネシア大学文学部のクリストミー講師(言語学)によれば、オランダは自分たちの言葉と文化を植民地に広めようとしなかった。このため、マレー語はその後も交易語として広がり続けた。オランダが自国語の普及に力を入れ始めるのは、20世紀の初めに植民地政策を融和的な方向に転換してからだ。

 ところが、独立運動の指導者の間ではそのころから「自分たちの言葉で民衆に独立の意義を訴えるべきだ」との機運が高まっていく。代表作の一つ『すべての民族の子』の中で、
プラムディヤは言葉をめぐる知識人の葛藤を描いている。ジャワ貴族出身の主人公ミンケはオランダ語で書くことにこだわり、マレー語は「借用語だらけの貧しい言葉だ」として使おうとしない。友人はこう言って説得する。

 「あなた自身の民族の言葉で書くこと、それこそが自分の国と民族に対するあなたの愛のあかしなのです」(出版社めこん、押川典昭訳)

 独立運動の指導者たちは1928年、最大の民族であるジャワ人の言葉ではなく、少数派の言葉であるマレー語を共通語にすることを決め、これをインドネシア語と名付けた。話者の数より、民族間の架け橋としての機能を重視した結果だ。少数派の言語が独立後の公用語になった珍しい例で、歴史家は「インドネシアの賢明な選択」と呼んでいる。

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 プラムディヤがインドネシア語を日常的に使うようになったのは、日本の軍政が始まった1942年に首都ジャカルタに移ってからである。多感な17歳の若者は、インドネシア語の小説をむさぼるように読んだ。

 戦時下の日本と同じように、軍政当局は「敵性語」のオランダ語や英語の使用を禁止した。インドネシア語にはオランダ語をそのまま転用した言葉がたくさんあったが、使用禁止に伴い、インドネシア語への翻訳と転換が急速に進んだ。

 プラムディヤは皮肉を込めて、この時期を「インドネシア語の黄金時代」と呼ぶ。動機はどうあれ、敵性語の禁止はインドネシア語の成熟を促し、その後の発達に大きな影響を及ぼした。

 1945年8月15日、日本は降伏した。インドネシアはその2日後に独立を宣言する。オランダはこれを認めず、49年までインドネシアと戦争を続けた。プラムディヤも独立戦争に加わり、反オランダ活動の容疑で逮捕され、2年間投獄された。この体験を基にした小説『ゲリラの家族』で、彼は作家としての地位を確立する。

 長年投獄された反骨の作家が一度だけ、弾圧する側に回ったことがある。1950年代後半、共産党系の人民文化協会(レクラ)の中心メンバーだったころだ。共産党勢力を取り込んだスカルノ政権の下で、彼は「芸術は政治に奉仕すべきだ」との論陣を張り、「芸術は何ものからも自由であるべきだ」と主張する芸術家を排撃した。

 詩人のタウフィック・イスマイルは「彼の作品には敬意を払うが、あの時の行為は許せない」と言う。「共産党の青年組織は『反共』とみなした作家の活動を妨害し、その本を焼いた。レクラは反対するどころか、それを支持した」

 この話になると、プラムディヤは反論も弁明もせず、沈黙する。文壇の亀裂はいまだに修復されていない。

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 インド洋の波を受けるスマトラ島から、南太平洋に横たわるニューギニア島中央部まで、5000キロ余り。インドネシアは米国本土よりも長く東西に広がる。そこに1万数千の島が散らばり、200とも300ともいわれる民族が隣り合って暮らす。

 国家としての統一を保つのは容易なことではない。植民地として支配したオランダも、独立後のスカルノ、スハルト両政権も結局は「鉄拳」で抑え込むしかなかった。

 1998年にスハルト政権が崩壊し、インドネシアは民主化に踏み出した。「力による支配」は終わった。では、複雑多様なこの国を力以外の何でまとめていくのか。
宗教でも、イデオロギーでもない、何か。
 プラムディヤはそれを探し求めて、人々の営みを紡ぎ続ける。           
(敬称略)

(長岡昇 ジャカルタ支局長)




2003年9月18日 朝日新聞夕刊コラム「窓/論説委員室から」


 土木という言葉で思い浮かべるのは、汚職と談合。ダムにいたっては、今や「無駄な公共事業の代名詞」のようになってしまった。土木史を専門とする岡山大学の馬場俊介教授は嘆く。

 教授によれば、土木の語感が変わり始めたのは昭和30年代の高度成長のころからだ。橋や道路が競うように造られ、土木全体が利権の渦にのみ込まれていった。
「それまでは材料も資金も乏しく、技術者は一つひとつ心を込めて造った。土木という仕事に誇りを持っていたのです」

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 実際、古い時代に造られたものには、人をひき付けてやまないものがある。写真家の西山芳一(ほういち)さんは、そうした土木構造物を撮り続けてきた。代表作を集めた個展「水辺の土木」が、東京・京橋のINAXギャラリーで開かれている。

 潅漑用の小さなダムの写真がある。あふれた水が堰堤(えん・てい)の切り石にはじかれ、白いレース状の流紋を描く。右岸の擁壁は地形に合わせてしなやかに曲げられ、水が弾むように流れ落ちていく。大分県の竹田市にある白水(はくすい)ダムだ。1938年に完成し、今も地域の田畑を潤している。研究者は「日本で一番美しいダム」と呼ぶ。

 軍靴の響きが高まり、物資も欠乏し始めた時代に、ここまで美しさを追い求めた技術者がいたことに驚く。この小さなダムに込められたような思いを人々が失った時、土木という言葉もまた輝きを失ってしまったのではないだろうか。〈長岡 昇〉





2006年11月16日 朝日新聞夕刊 コラム「窓 論説委員室から」


 甲乙つけがたい提案が二つあった場合、どうするか。「じゃんけん」で決めている会社の話が経済誌に載っていた。愛知県のマスプロ電工というテレビ部品メーカーだ。「これなら、負けてもしこりが残らないから」と社長が語っていた。確かにあれこれ迷うより、いいかもしれない。会社の業績も好調らしい。


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考えてみれば、じゃんけんはすごいゲームだ。グー、チョキ、パーのそれぞれが強くて弱い。哲学的ですらある。気になって、起源を調べてみた。大手出版社の百科事典は30行足らずの記述しかなくて、要領を得ない。図書館でも、いい本や資料が見当たらない。その歴史から語源まで、内容がもっとも充実していたのはインターネット上の無料百科事典「ウィキペディア」だった。

 それによると、じゃんけんの誕生は意外に新しく、19世紀末の日本だという。戦後、日本が立ち直り、経済的に発展するにつれて海外に広まったようだ。 英語ではRPSという。Rock(岩)、Paper(紙)、Scissors(はさみ)の頭文字を取ったものだ。

 カナダに「世界じゃんけん協会」というのがある。11年前に結成され、4年前から世界選手権大会を開いている。代表のグラハム・ウォーカーさんによると、先週末、トロントで今年の大会が開かれたが、日本からの参加者はゼロだった。「寂しい」と嘆いていた。「本家」としては、やや肩身が狭い。       〈長岡昇〉




2005年6月12日 朝日新聞の社説「児童労働」


 学校に行かず、家族の生活を支えるために働く。そうした児童労働は、先進国ではほとんど見かけなくなった。けれども、アジアやアフリカ、中南米の途上国では農園や工場でいまだに多くの子どもたちが働いている。国際労働機関(ILO)の推計によれば、世界中の15歳未満の子どものうち、1億8600万人が働いている。6人に1人の割合だ。

 働く姿を目にすることはなくとも、私たちの身の回りには子どもたちの手で生み出されたものがあふれている。チョコレートはその一つである。原料になるカカオ豆の多くが西アフリカの国々で栽培されている。北海道大学の石弘之教授が新著「子どもたちのアフリカ」(岩波書店)で、カカオ農園の実態を描いている。

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チョコレートの原料になるカカオ豆

 最大の輸出国コートジボワールでカカオ豆を摘むのは、奴隷として売られてきた少年たちだ。早朝から深夜まで棒で殴られながら働かされている。チョコレートとは、カカオ豆を炒って砂糖と牛乳、それにアフリカの子どもたちの汗と血と涙を加えたもの??地元の人たちは悲しみを込めて、そう言う。

 木綿のシャツにも、子どもたちの労苦が織り込まれていることがある。南インドでは、10代前半の少女たちが綿花の授粉と綿摘みをしている。現地で調査にあたった一橋大学の黒崎卓・助教授は「安くて従順な労働力として、雇う側には好都合なのだろう」と見る。

 73年に採択されたILO条約で、15歳未満の子どもを働かせることが原則として禁止された。条約を生かすための国際計画が作られ、各国でさまざまな施策が推し進められている。3年前からは、ILOが6月12日を「児童労働反対世界デー」とすることを提唱し、取り組みを強めてきた。

 だが、改善の兆しはなかなか見えない。アフリカではエイズが蔓延し、社会の基盤を掘り崩しつつある。アジアには、圧政や腐敗にあえぐ国がある。それぞれの国を土台から立て直さない限り、子供たちを労働から解き放ち、学舎にもどすのは難しい。児童労働がはびこる国々で何が起きているのか。まず、それを知り、私たちに何ができるのかを考えたい。

 インドの労働組合は日本のNGO「国際労働財団」の支援を受けて、石切り場で働く子どもたちを学校に通わせる活動を続ける。子どもが働くのを当たり前のように見ていた大人たちの意識が、少しずつだが変わってきた。

 国際機関や国、自治体に加えて、NGOの果たす役割はますます重要になってきた。それをしっかりと支えたい。先進国の企業にとっても他人事ではない。児童労働で生まれる原料や製品をなくしていくように努める。そうした姿勢の企業を後押ししたい。
 一つひとつは細い糸でも、束ねれば、太くて強い綱になる。




2000年6月3日 朝日新聞夕刊1面 
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 「生きた化石」といわれ、アフリカ南部でしか見つかっていなかった古代魚シーラカンスが3年前、インドネシアのスラウェシ島でも発見された。サンゴがきらめく透明な海。海洋学者は「海面下の断がいにシーラカンスが好む横穴がたくさんある。生息に最適の条件がそろっている」という。経済の低迷にあえぐ地元は「シーラカンスで地域興しを」と夢見ている。
 (マナド<インドネシア・スラウェシ島>=長岡昇)
 
 ●サメの網に
 シーラカンスを最初に捕まえたのは、マナド沖合のマナドトゥア島に住む漁師のマクソン・ハニコさん(38)。1997年9月、サメを取るための底刺し網にかかっていた。
「うろこが硬いのにブヨブヨして、変な魚だった。長いこと漁をしているおやじも『見たことがない』と言っていた」

 マナドの魚市場に運んだ。そこに、米カリフォルニア大学バークリー校の海洋学者、マーク・アードマンさん(31)が居合わせた。インドネシアでの研究が一区切りつき、バリ島で結婚式を挙げた。新婚旅行でマナドまで足を延ばし、散歩がてらに市場を訪れたところだったという。「シーラカンスみたいだが、まさか」と思い、写真を撮っただけだった。インドネシア初のシーラカンスは、3万ルピア(約400円)で仲買人に競り落とされた。
 
 ●たった100円
 マクソンさんと仲間の漁師はその後、同じ魚を2匹捕まえたという。「脂っぽくてまずい」と評判が悪く、3匹目の売値はわずか8000ルピア(約100円)。買い取ったレストランの経営者は「食えそうもないので捨ててしまった」と話した。

 米国に戻ったアードマンさんが専門家に写真を見せたところ「シーラカンスに間違いない」との鑑定。アードマンさんは発見場所に近いブナケン島に居を構え、本格的にシーラカンスの研究を始めた。

 翌1998年7月、漁師のラメ・ソナタムさん(57)が同じマナドトゥア島沖で、シーラカンスを生きたまま捕まえた。マクソンさん同様、水深100?200メートルでサメ用の底刺し網にかかっていた。ラメさんによると、底刺し網漁を始めたのは1983年から。中華料理に使われるフカヒレが高値で取引されるようになったからだ。

 この標本はジャカルタ郊外の研究所に運ばれ、論文が科学誌に掲載された。発見は海外で大きく報じられたが、インドネシアの新聞は地味な記事を載せただけだった。この年、インドネシアではスハルト政権が倒れ、国内は混乱の極みにあった。経済危機も深まるばかり。地元サムラトゥランギ大学のブルヒンポン水産学部長は「研究費を申請したが、まったく認められなかった」と嘆いた。

 それでも、大学の研究者や非政府組織(NGO)が中心になって、地域興しの運動を始めた。シーラカンスをあしらったアクセサリーやハンカチが土産品として登場した。NGOの関係者は「政情不安で観光収入は激減した。隣のマルク諸島では宗教抗争がくすぶっている。シーラカンスのある水族館ができれば、足を運んでもらえる」と期待を込める。

 「水中遊歩道をつくって、シーラカンスの泳いでいるところを見てもらったらどうか」「人工飼育はできないだろうか」。資金はないが、夢はどんどん広がっている。
 
 ●日本が支援
 この地域興しを、日本の国際協力事業団が支援している。海洋保全の専門家として環境庁から派遣された和田茂樹さんらが、関係機関を集めて保護検討委員会を立ち上げるなど奔走した。和田さんは「アフリカでは欧米の研究者がシーラカンスを全部持っていって、地元には何も残らなかった。インドネシアでは地元が活用できるように手助けしたい」と話している。
 
 <シーラカンス> 約4億年前の古生代デボン紀に登場し、約7000万年前(中生代白亜紀)に絶滅したと考えられていた原始的な魚。1938年、南アフリカの沖合で発見され、その後、マダガスカル島やコモロ諸島で多数捕獲された。魚から陸生動物への進化の道筋からそれて孤立した特殊な魚と考えられている。硬骨魚類の総鰭(そうき)類に属する。

 
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 【写真説明】
 シーラカンスを捕まえた漁師のラメさん(右)とマクソンさん。手にしている刺し網にかかった/撮影・長岡昇=北スラウェシ州マナドトゥア島で
 98年に発見され、インドネシア科学院の生物研究開発センターに保存されているシーラカンスの標本。一般には公開していない/撮影・長岡昇=ジャカルタ郊外のチビノンで
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1993年1月13日付 朝日新聞国際面のコラム「特派員メモ」から


 1992年末から始まった宗教暴動がインド中に広がり、世情が騒然としてきたら、1階に住む家主さんが突如、大型犬を飼い始めた。門の前ではもともと、チョキダールと呼ばれる警備員が寝ずの番をしているのだが、「それだけでは心もとない」と考えたようだ。
 ところが、この犬がものすごい勢いでほえ続ける。2階に間借りしているわが家にまで、グワングワンと響いて眠れないほどだ。

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 「おいしいものでも食べれば、落ち着くかも」と思って、ある日の夕方、ベランダからおかずの肉ダンゴを2個投げてみた。わざわざシンガポールまで行って買ってきた上等の豚肉だ。なのに、このワンちゃんはクン、クンと二度ほどにおいをかいだきり、プイと横を向いてしまった。
 次の日、家主さんに聞いたら「あの犬も、菜食主義なんです。ミルクとパンと野菜以外は受けつけません」。家主さん一家はジャイナ教徒で、全員が厳格な菜食主義者だ。考えてみれば、肉を食ったりする不埓(ふらち)な犬を飼うはずがなかった。
 忠実で仕事熱心だったが、間もなく、この菜食主義犬はお役御免になった。家主さんも、うるさくて眠れなかったらしい。こちらもホッとした。家族からは「貴重な肉を無駄にした」と責められたけれど。

※古い記事なので、冒頭に「1992年末から始まった」と加筆しました。

(ニューデリー・長岡昇)

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※上の写真は、銀座でワインバー「オクシトン」を経営する
 小島宏明さんと初枝さんの愛犬クローカ。
 彼はベジタリアンではありません。コラムとは直接の関係はありませんが、
 愛らしく、また富士山のたたずまいが初春らしいので掲載させていただきました。

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