*メールマガジン「おおや通信 83」2012年5月27日


 3年前に私が校長として赴任した時、大谷小学校の生徒は89人でした。その後、90人、80人と増減し、4年目の今年は78人になりました。閉校になる心配は当面ありませんが、これからもじりじりと減り続けます。
 では、明治6年の創立以来、大谷小の生徒数が一番多かったのはいつか。校長に成りたてのころ、調べたことがあります。「きっと、戦後のベビーブームのころだろう」と思いました。
 男たちが戦場から続々と故郷に戻ったのは、昭和20年から23年ごろでした。厚生労働省の統計によると、日本の赤ちゃん誕生のピークは昭和24年で269万人です。ならば、小学校の生徒数のピークは昭和30年前後になるはずです。
 ところが、意外なことに大谷小の生徒数のピークは昭和21年の716人でした。疑問に思いながらも「戦争が始まる前に生まれた子どもが多かったのだろう」と、漠然と考えていました。
 最近、そうではなかったことを知りました。私の小学校時代の恩師(81歳)が大谷小を訪ねてきて、こんな昔話をしてくれたからです。
 「女学校を出たばかりで、私はまだ16歳でした。そのころ(昭和22年)は先生が足りなくてねぇ。なんとか教壇に立ってくれないかと頼まれて、西五百川(にしいもがわ)小学校の先生になったんですよ。初めて持った学級の子どもが54人。疎開してきていた子も多くて、地元の子とよく喧嘩になっていました」
 当時を知る年配の方に確認したところ、西五百川小だけでなく、町内のほかの小学校にも疎開児童がかなりいた、とのことでした。農村では、戦争による疎開が生徒数のピークを変えるほど多かったのです(私は昭和28年生まれ、小学校入学は昭和34年です)。

 時はめぐり、今、「第二の疎開」とも言うべき現象が起きています。原発事故によって多くの児童生徒が福島県から逃げ出しました。文部科学省の調査によれば、その数は昨年の9月時点で1万1918人でした(幼稚園、小中学校、高校の合計)。最も多く受け入れているのは山形県です。福島県と境を接する米沢市や、県庁所在地の山形市が主な受け入れ先になっています。
 子どもが追い立てられ、逃げなければならない――時代背景も理由も異なりますが、なんとも切ないことが21世紀の日本で起きています。しかも、その「第二の疎開」が原発事故から1年以上たった今の時点でもそれほど減っていないのです。
 米沢市の教育委員会によると、同市に避難してきた小中学生は昨年12月の267人がピークで、徐々に福島県に戻って減る傾向にありましたが、この春になってまた増え、262人に達したそうです。「原発のある福島県の浜通りではなく、(福島市や郡山市がある)中通りからの転校生が増えているのが特徴です。とくに小学1年生がたくさん転校してきました」と市教委の担当者が説明してくれました。
 政府が「原発事故の収束宣言」をし、「食品の放射能汚染はしっかり検査をしています」と言ってみても、子を持つ親は信じていません。自分で判断し、自分にできる方法でわが子を守ろうとしているのです。
 この期に及んでも、原発建設を推進してきた人たちの中には「脱原発など絵空事だ」と言い張り、電力の原発依存を維持しようとする人たちがいます。その人たちに、私は問うてみたい。「あなたには、自ら福島原発の近くに住み続ける覚悟がありますか。わが子を、自分の家族を、自分の親を住まわせ続ける覚悟はありますか」と。
 即座に「もちろん」と答えることができる人とならば、「原発依存をどうやって減らしていくのか」「代替エネルギーの開発をどう進めるのか」について真剣に議論をしてみたい。けれども、わが子を避難させる親たちの苦悩に思いが及ばないような人たちとは議論すら難しいだろう。謙虚な気持ちで未来を見つめようとする心がないのだから。