日本の教育にはまだ底力がある
東京と地方が互いに支え合う関係に
*メールマガジン「おおや通信 89」2012年8月30日
教育現場への風当たりが強い。大津市で起きた中学生の自殺事件についての市教育長と中学校長の不誠実な対応によって、現場への非難はピークに達した感がある。
一人の人間が13歳という若さで自ら命を絶った、という事実は重い。学校で何があったのか。それが自殺とどのようにかかわっていたのか。どんなにつらくても、関係者は事実を正面から受けとめ、見つめなければならない。それは教育者というより、一人の人間としてなさねばならぬことである。報道を通して伝えられる市教育長と中学校長の言動からは、その覚悟が感じられない。命が失われたことへの「畏(おそ)れ」がうかがえない。
警察が強制捜査に乗り出したことについて「教育の問題に警察が介入するのはいかがなものか」と異論を差し挟む人がいる。おかしな論理である。「いじめ」がエスカレートすれば、ある段階からそれは暴行、傷害、恐喝といった犯罪に転じる。学校が対処できるうちは警察は控えていればいいが、その範囲を超えれば刑事事件として捜査するのは当然のことだ。
「生徒が動揺する」と言う人もいる。その通りだろう。しかし、事実を隠蔽し、あいまいにすれば動揺は収まるのか。大人たちが苦悩する姿を見せる。そして、何が起きたのか可能な限り明らかにする。激しい心の揺れを静めるためには、そうするしかないのではないか。
大きな事件が一つの小さな過ちによって起きることは、まずない。過ちに過ちが重なり、さらに重大な判断ミスが折り重なった時に、噴き出すものだ。大津市の事件もそうしたケースと考えるべきであり、今は折り重なった過ちを一つひとつはがして検証作業を進めていくしかあるまい。
新聞記者として30年余り働いた後、早期退職して故郷の山形県で民間人校長になって4年目を迎えた。教育の一線に身を置いて違和感を覚えるのは、大津市のような事件が起きると、それがすぐに「今時の学校は」と一般化され、押し寄せてくることだ。
学校はそんなにひどいのか。 実際に校長として働いてみて、「そんなことはない」と強く思う。むしろ、日本の教育にはまだ底力がある。教師の多くは誠実に自らに課せられた職務を果たしている。気骨のある教師も少なくない。
小学校の校長になって間もなく、近くのキャンプ場で2泊3日の宿泊体験学習があった。5、6年生がテントを張り、5回の食事を自分たちだけで作るハードな合宿である。マッチと古新聞、それに炊事5回分の薪(まき)と食器が班ごとに子どもたちに配られた。食材はその都度、渡される。1日目の夕食のメニューはカレーライスだった。何となく浮き浮きしていた私は、6年担任の教師にこうくぎを刺された。
「火の焚(た)き方も調理の仕方も一切、教えないでください」
それでカレーライスはできるのか。心配して尋ねると、担任は涼しい顔で言い放った。
「いいんです。失敗して、泣いて覚えればいいんです」
私が勤める小学校は農村にある。今や農村の子どもたちですら、火の焚き方を知らない。かまどにドテッと薪を置き、古新聞を丸めて火をつけている。これでは勢いよく燃え上がるわけがない。それでも、容赦なく夕食の時間になる。子どもたちは、ポロポロのご飯に生煮えの「カレースープ」をかけて食べていた。泣きべそをかいている子もいた。先生たちは別のかまどで、ちゃんとしたカレーライスを作って食べた。
よほど悔しかったのだろう。先生たちはどうやって火を焚いているのか。翌朝から、必死になってまねをし始めた。そうやって、3日目にはどの班でも、ちゃんとご飯を炊けるようになった。優しく教えるだけでは子どもは育たない。時には突き離して、追い付くのを待つ。民間人校長の私が口を出すまでもなく、実にまともな教育が行われていた。
去年の5年生の稲作の学習にもうなった。地元の人の田んぼをお借りして田植えから稲刈りまで体験した後、刈り取った稲藁(いなわら)で縄をなう学習をした。さらに、その縄でお正月用の注連(しめ)飾りを作った。身近にあるものを使いきる、優れた実践である。
山形県の高畠町には、学校給食で使う野菜の半分以上を生徒たちが自ら作っている学校がある。二井宿(にいじゅく)小学校という。野菜の有機栽培をするだけでなく、この小学校ではモチ米を育て、生徒たちが地元の独り暮らしのお年寄りに励ましの手紙を添えて配って歩く。すごい学校である。
不祥事は不祥事として厳しく追及されなければならない。任に堪えない校長や教師がいるなら、退いてもらう必要がある。だが、そうしたことにかこつけて、教育の現場全体をたたくような風潮は改められるべきだ。これでは意欲のある教師まで萎縮してしまう。
不祥事があるたびに、文部科学省が偉そうな通知を出してくるのも耐え難い。教育の一線に細々と口出ししてきた習性から抜け出せないのだろう。いざという時、文部科学省をはじめとする中央の官僚たちがいかに頼りにならないか。私たちは東日本大震災を通して、骨身に染みて思い知らされた。
巨費を投じて開発した放射性物質の拡散予測システムは、ほとんど役に立たなかった。震災前、原発推進の国策に沿って、文科省は「原発事故の心配はない」という副読本を全国の小中学生に配布し、事故後にすごすごと撤回した。にもかかわらず、今度は「放射線はスイセンからも出ている」という副読本を全国に配布し、除染に苦しむ人たちから猛反発を受けた。度し難い人たちである。
東京が細々と指示を出し、地方がそれに従う。そんな時代はもう終わりにしなければならない。東京は大きな、揺るぎない方針を指し示す。地方は自分たちの実情に合わせて工夫を凝らす。それを東京にフィードバックし、必要に応じて助言を受ける。互いに支え合う関係へと変えていかなければならない。
私たちは「難しい過渡期」を生きている。冷戦は終わったが、新しい国際秩序はまだ見えない。インターネットの普及が政治と経済の在り様をがらりと変え、グローバル化を加速する。豊かにはなったものの、少子高齢化が進み、かつてのような活力はない。
未来は厳しい。だが、まだ力はある。問題は、まだある力を最大限に発揮するための変革を、自分たちの力で成し遂げられるかどうかだ。新しい道へと踏み出す覚悟はあるのか。私たち一人ひとりが問われているのである。
*京都に本社がある宗教の専門紙「中外日報」(8月28日付)に掲載された小論です。
中外日報から依頼されて寄稿しました。