アメリカ・インディアン悲史
コンラッド『闇の奥』と重なるもの
*メールマガジン「小白川通信 9」 2013年11月4日
山形の農村に住んでいても、新聞や雑誌の書評を読めば、読みたい本を探すことはできる。それをインターネットのアマゾンで注文すれば、数日後には手許に届く――と強がっているが、最近「やっぱり、身近なところに本屋さんがあるといいなぁ」と思う出来事があった。
夕方、山形市内である人と待ち合わせた。早く着き過ぎてしまい、20分ほどあったので、近くの本屋さんに入った。そこで文芸書のコーナーに差しかかった時である。まるで「オイ、俺を手に取ってみろよ」と声をかけられたように、英国の作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥 Heart of Darkness』(三交社)という本に吸い寄せられていった。
Joseph Conrad (3 December 1857-3 August 1924) Source:Wikipedia
まず、最初にある「訳者まえがき」を読んだ。「この小説は文学的にも思想的にもたいへん興味深い作品である。英文学史上屈指の名作とみなされ、世界の英語圏諸国の大学で、教材として、20世紀で最も多く使用された文学作品とも言われる」とある。ここで、心にピクンと来るところがあった。大学入学直後に味わった小さな挫折感と、そのトラウマがかすかにうずいたのである。
山形から上京した18歳の私は、すこぶる小生意気な若者だった。周りにも同種の人間がたくさんいた。そうした新入生の鼻っ柱をへし折ってやろうとしたのだろう。英語担当の助教授は教材として、コンラッドの短編『文明の前哨地点 An Outpost of Progress』を使った。19世紀末の作品なので、英語そのものが難しい。内容はもっと難しい。辞書で単語の意味は分かっても、何が書いてあるのか、何を言いたいのかほとんど分からなかった。
その助教授の試験問題がまた、難しかった。設問も英語で書いてあり、作品の意味が分からなければ答えられないものだった。当然のことながら、ボロボロの赤点。英語にはいささか自信があった田舎育ちの18歳はいたく傷ついた。そして、助教授の目的は見事に達成された。落第しないために、学生たちは彼の後期の授業に必死で取り組まざるを得なくなったからだ(後期の試験は極端に簡単で、平均すれば合格点を取れるように配慮してあった)。
そんな古傷を思い出しつつ、「訳者まえがき」に惹かれて購入し、読みふけった。ベルギーのかつての植民地、コンゴの奥地に小さな蒸気船(川船)の船員として赴いたコンラッド自身の体験に基づいて書かれた長編小説である。訳文が練れているので、日本語としては読みやすいのだが、内容は相変わらず難しい。正直に言えば、まだよく理解できないところがそこかしこにあった。けれども、途中でやめることはできず、読み通した。人の心の奥底を抉り出すようなところがある、と感じたからだ。
解説を読んで、英国人の作家と思っていたコンラッドが実は没落ポーランド貴族の末裔で、英国に帰化してからも英語を流暢にはしゃべれない、特異な作家だったこと、ベトナム戦争を題材にした映画『地獄の黙示録』がこの『闇の奥』を下敷きにしていたことを知った。人間とはどういう生きものなのか。文明とは何か。野蛮とは何か。『闇の奥』も『地獄の黙示録』も、それを透徹した目で見つめ、描いた作品だった。「18歳の若者に理解できないのも無理はない」と今にして思い、古傷が少し癒やされたような気がした。
翻訳した藤永茂(ふじなが・しげる)という人がまた面白い経歴の持ち主だった。1926年、旧満州の長春生まれ。九州大学理学部の物理学科を卒業し、1968年からカナダ・アルバータ大学教授、とあった。著書に『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)とあるので、これも取り寄せて読んでみた。今年の9月にコロラドとテキサスを訪れ、かの地の開拓の歴史を少しかじり、インディアン殺戮のすさまじさを知ったばかりなので、興味津々で読み始めた。こちらは小説ではなく、アメリカ史における開拓とインディアンがたどった運命を綴ったノンフィクションである。「読みたい」と思っていた内容が書き記してあった。
1620年の秋にメイフラワー号でアメリカ大陸(マサチューセッツ州プリマス)に渡ったイギリスの移民101人は冬の厳しさに耐えられず、その半数が春を待たずに死んだこと。先住民であるインディアンたちは困窮する彼らを見捨てることなく、生きる術を教えたこと。翌年の秋、移民たちは豊かな収穫に恵まれ、インディアンと共に祝った。この時の祭りが「感謝祭(サンクス・ギビングデイ)」として定着していった、と記してあった。本のテーマは、藤永氏が記す次の一節に要約されている。
「飢えた旅人には、自らの食をさいてもてなすというインディアン古来の習慣にしたがって、彼(白人の入植地一帯を支配していたインディアンの指導者マサソイト)はピルグリムを遇した。しかし、ピルグリムたちの『感謝』は、インディアンの親切に対してではなく「天なる神」へのみ向けられていたことが、やがて痛々しいまでに明らかになる」(同書p29)
その後の叙述は、銃と馬を持つ欧州からの移民たちがいかにしてアメリカ・インディアンを古来の土地から追い払い、殺戮し、開拓を続けていったかの物語である。血みどろの戦いの末にインディアンたちは西へ西へと追い立てられていった。戦闘は女性や子どもをも巻き込み、しばしば虐殺の様相を呈した。その描写はおぞましいほどである。やがて、インディアンたちは「居留地」というゲットー(収容所)へと押し込められ、細々と生きていくしかなくなった。藤永氏は、アメリカ・インディアンの社会を次のように描く。
「(彼らは)自分たちをあくまで大自然のほんの一部と見做し、森に入れば無言の木々の誠実と愛につつまれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心とに支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた人間たちの声がきこえて来るに違いない」(同書p252)
18世紀末から19世紀初めにかけてインディアン諸部族の連合を率いて白人と戦った指導者テクムセ(テカムセとも表記)S:Wikipedia
藤永茂氏は量子化学者である。その彼がなぜ、ジョセフ・コンラッドの作品と彼の思想にのめり込み、アメリカ・インディアンの運命にかくも深く身を寄せていったのか。それは、コンラッドがアフリカ・コンゴのジャングルの奥深くで観たものと同じものをアメリカ・インディアンがたどった歴史の中に観たからではないか。そして、藤永氏の言葉を借りれば、それは「現在、我々の直面する数々の問題と深くかかわっており、我々がそれによって生きる価値の体系の問題であり、人間がしあわせに生きるとはどういうことかという切実な関心事と深くかかわっている」(同書p3)からにほかならない。
19世紀のコンラッドの作品も、同じ時期にヨーロッパからの移民に追われ、死んでいったアメリカ・インディアンたちの物語も、少しも色あせることがない。なぜなら、21世紀を生きる私たちもまた、一人ひとりが同じ根源的な問いを突き付けられ、日々、選択を迫られながら生きていかなければならないのだから。
(長岡 昇)
《注》白人の西部開拓・入植に武力で抵抗したインディアン諸部族連合の指導者テクムセ(テカムセ)について詳しく知りたい方は、次のウィキペディアURLを参照してください。
▽日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB
▽英語版 http://en.wikipedia.org/wiki/Tecumseh