「二つの山」より「連なる山々」を見たい
*メールマガジン「小白川通信 24」 2015年3月6日
大学関係者が「地方の国立大学から文系の学部がなくなるらしい」と騒いでいます。「そんなバカな」と思うのですが、それを本気で唱えている人がいます。文部科学省は昨年10月に「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という諮問会議を立ち上げました。18人から成るこの有識者会議のメンバー、冨山(とやま)和彦氏(経営コンサルタント)がその人です。
どういう時代認識と論理で冨山氏は「地方の国立大学の文系学部廃止」を訴えているのでしょうか。彼が上記の有識者会議で配布した資料や、3月4日付の朝日新聞オピニオン面に掲載されたインタビュー記事から要約すると、次のような認識と論理に基づく主張です。
「日本経済は大きく二つの世界に分かれてしまいました。世界のトップと競う大企業中心のグローバル経済圏(G)と、地域に根差したサービス産業・中小企業のローカル経済圏(L)です。Gは競争力も生産性も十分だが、Lは欧米諸国に比べて生産性が低い。だから、地方の大学には学術的な教養ではなく、職業人として必要な実践的なスキルを学生に教えてほしい。従来の文系学部のほとんどは不要です。何の役にも立ちません。シェイクスピアよりも観光業で必要な英語を、サミュエルソンの経済学ではなく簿記会計を、憲法学ではなく宅建法こそ学ばせるべきです」
実に歯切れのいい主張です。現在の大学が激変する時代の要請に十分に応えているかと問われれば、否と答える人の方が多いでしょう。時代が変わる中で、大学もまた変わらなければならないことは確かです。けれども、冨山氏の主張は乱暴すぎるのではないか。彼が描く大学の将来像は次のようなものです。
「日本の大学はアカデミズム一本やりの『一つの山』構造になっています。これを、高度な資質を育てるアカデミズムの学校と、実践的な職業教育に重点を置いた実学の学校という『二つの山』にすべきです。地方大学の文系の教授には辞めてもらうか、職業訓練教員として再教育を受けてもらいます。(不足する教員は)民間企業の実務経験者から選抜すればいいのです」
これでは、大学関係者が騒ぐのも当然です。彼の主張には一部納得できるところもありますが、学問や教育に対する深い洞察が感じられません。そもそも、その時代認識と日本の現状についての考え方に同意できないものがあります。
アメリカの大学院で経営学を学んだ人らしく、冨山氏も二元論が得意なようです。善か悪か、敵か味方か。アメリカで二元論が好まれるのは、騎兵隊がインディアンを追い立てて西部開拓に邁進した歴史の投影かもしれません。キリスト教的な価値観が影響している面もあるのでしょう。けれども、今はアメリカ的な価値観・世界観そのものが問われているのではないか。1%の富豪が国富の多くを占めるような貪欲な資本主義の下でグローバル化がこのまま進んでもいいのか。新しい第2、第3の道があるのではないか。その模索が続く中で、単純な二元論で時代を認識し、対策を打ち出せば、道を過るおそれがあります。
何よりも、冨山氏が唱える「二つの山」論は、日本の経済成長を支えた「東京一極集中」の焼き直しです。東京がすべてを握り、地方に号令をかけて邁進する――江戸時代から綿々と続き、明治維新後も敗戦後も維持された上意下達型の社会構造を強化せよ、と言っているに等しい。そんなことで、多極化するこれからの世界を生きていけるのか。それこそが問われているのに、古い歌の替え歌を歌ってどうするのか。
6年前に東京から故郷の山形に戻り、その実情に触れてきました。相変わらず東京の顔色をうかがい、中央政府から補助金を引き出すことに知恵を絞っている面があることは事実です。けれども、その一方で農村を拠点に世界と競う中堅企業が育っているという現実もあります。私が勤める山形大学にも世界に通用する研究者が幾人もいます。冨山氏の主張は、地方を拠点に世界と競い、汗を流している人たちに冷水を浴びせるものです。育ちつつある芽をつぶしてしまいかねません。
私は「東京一極集中」の焼き直しの「二つの山」など見たくはありません。それで未来が開けるとも思えません。大小さまざまな山が連なる社会へと変わって行く姿を見たい。そして、そのために必要な財源は「実は東京にある」と考えています。
4年前の東日本大震災で、私たちは東京で号令をかける政治家や中央省庁の官僚たちが、いざという時にいかに頼りにならないかを骨身に染みて思い知らされました。政治システムも官僚制度もすでに時代にそぐわなくなっているのです。補助金分配機関と化した中央省庁は今の半分以下の人員と予算でいいのではないか。政官を取り巻く利権構造にも大ナタを入れなければなりません。いまだに甘い汁を吸い続けている組織と人間がいかに多いことか。
地方の政治・経済や大学も改革を迫られていることは間違いありません。それを逃れるための「反対のための反対」は終わりにしなければなりません。けれども、より根本的なところに手を付けないまま、痛みを地方にだけ押し付けるような「大学改革論」にくみするわけにはいきません。いくつもの山々が連なるような社会へと変わる。そういう改革にこそ力を注ぎたい。
(長岡 昇)
《写真説明》
冨山和彦氏
Source:http://blogos.com/article/100873/
新緑の飯豊(いいで)連峰
Source:http://blogs.yahoo.co.jp/utsugi788/61642479.html