*メールマガジン「風切通信 36」 2017年10月12日
        
 小池百合子という政治家のことを私が初めて強く意識したのは2004年のことでした。取材でエジプトを訪れた際、中東専門の記者から彼女の父親がカイロで日本料理店を経営していたことを教わりました。それだけなら、「ヘエーッ」で終わり、記憶に残ることもなかったのでしょうが、同僚はカイロ名物のハト肉の料理をほおばりながら、意外なことを口にしました。「彼女は国立カイロ大学の卒業生なんです」

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 エジプトに留学してアラビア語を学ぶ場合、多くはカイロ・アメリカン大学に行くとのこと。英語をベースにしてアラビア語を学ぶのです。どの国の言葉を学ぶにせよ、外国語はそれぞれに難しいものですが、同僚によれば、アラビア語は飛び抜けて難しい。アラビア語で行われる授業についていくのは普通の外国人にはとうてい無理なのだそうです。その理由は、アラビア語では文語と口語の乖離がはなはだしく、文語で書かれた文献を読みこなすことができないからです。

 イスラム圏を旅すると、朝な夕なに街中のモスクから礼拝の呼びかけ(アザーン)が聞こえてきます。その呼びかけのアラビア語は、預言者ムハンマドが生きていた7世紀のアラビア語のままです。聖典のコーランももちろん、当時のアラビア語がそのまま使われています。しかも、敬虔なイスラム教徒は日々、それを唱えているのです。

 そうした宗教的、文化的な背景があるためか、アラビア語圏の新聞や雑誌で使われている言語は、日常生活で使われているアラビア語とはかけ離れており、アラビア語を習得する場合には、口語のアラビア語と文語のアラビア語の二つを学ばなければなりません。日本に置き換えてみれば、文章では聖徳太子が生きていた頃の色合いが濃い日本語を学び、同時に現代の日本語も学ぶ、ということになります。そうしなければ、新聞ひとつ読むことができないからです。「それは大変なことだ」と納得しました。

 アラビア語を学ぶことを決めた若き小池百合子は、在籍していた関西学院大学を中退してカイロ・アメリカン大学に進み、ここでアラビア語を習得した後、国立カイロ大学の文学部で4年間みっちり勉強して卒業しています。つまり、彼女のアラビア語は「話せる」というレベルではなく、「仕事で使える」レベルだということです。

 なぜ、アラビア語だったのか。小池百合子編著『希望の政治』(中公新書ラクレ)で、彼女自身がその理由を明らかにしています。
「振り返ってみると、私は高校生の頃から自己マーケティングをやっていました。日本における女性の居場所、女性が今後伸びる方向、その中で自分はどういう位置にいて、10代で何をし、20代でどういうスキルを身に付けるか、と。自分を一種の『商品』に見立て、いわば商品開発を考えるのです。我ながら怖い女子高生でした」(p37)

 怖いかどうかはともかく、高校生の頃から「ひとかどの人物(a man of something)」になりたいという志を抱いていたのは立派と言うべきでしょう。彼女の場合は、a woman of something と記すべきかもしれません。英語でも中国語でも、ドイツ語でもフランス語でもなく、これから伸びる言語はアラビア語である、と判断したところに、私は「勝負師としての小池百合子」の面目躍如たるものを感じます。

 彼女が働く女性としてステップアップしていった過程を見ても、アラビア語は決定的な役割を果たしています。まずアラビア語の通訳として働き始め、日本テレビがリビアのカダフィ大佐やPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長と会見する際のコーディネーターをしています。その縁で、政治評論家・竹村健一のアシスタントとしてテレビの世界に入り、次いでテレビ東京のビジネス番組のキャスターに抜擢されました。東京とニューヨーク、ロンドンの三大市場を結ぶ経済番組のキャスターとしての仕事は、彼女に世界経済の動向を知り、日本だけでなく、世界のビジネスリーダーと知り合う機会を与えてくれました。

 政界入りは1992年、40歳の時です。日本新党を立ち上げた細川護熙(もりひろ)熊本県知事に請われて参議院議員になってからの「政界渡り鳥」ぶりは有名です。細川の日本新党から小沢一郎が率いる新進党へ、さらに自由党、保守党を経て自民党に入り、昨夏、東京選出の衆議院議員の地位を投げ打って都知事選に立候補して、当選したことはご承知の通りです。

 言葉に対する感覚にも鋭いものがあります。前掲書で、小池は尊敬する人物として台湾総督府の民政長官や満鉄初代総裁、第7代東京市長をつとめた後藤新平を挙げ、彼が残した「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」という言葉を胸に秘めている、と述べています(p110)。これは「渡り鳥」批判に対する彼女なりの反論でもあるようです。私の志は何一つ変わっていない、政党の方が時代に揺さぶられてコロコロと変わっただけ、と言いたいのでしょう。

 読売新聞記者から小池の秘書に転じた宮地美陽子(みよこ)が出版した『小池百合子 人を動かす100の言葉』(プレジデント社)では、この後藤新平の言葉とともに、小池が好きな「三つの目」が紹介されています(p106)。
「鳥の目で物事を俯瞰し、虫の目で細やかな部分を見て、魚の目でトレンドをつかむ」
「三つの目」の二番目は「蟻の目」というのもあるようですが、あらためて政治家・小池百合子の好きな言葉として読むと、味わい深い。群れなす魚が潮の流れを敏感に感じ取るように、私は時代の潮流を感じ取り、大きな流れに乗りたい、といったところでしょうか。

 「三つの目」は歴史を学び、歴史を考える場合にも欠かせません。その時代を俯瞰し、人々の動きをつかむだけでなく、微細なことも知る必要があります。そこにその時代の本質的なものが現れることがあるからです。視点で言えば、勝者と敗者、賢者の三つの目から歴史を見ることも大切です。

 そういう観点から判断すると、小池の歴史認識はあやうい。あやういというより、著しくバランスが悪い。今年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式に都知事名の追悼文を送るのをやめたのはなぜなのか。去年は送っていたのに。石原慎太郎や舛添要一も追悼文を寄せたのに。会見で記者に問われて、小池は「昨年は事務的に(追悼文を送るとの決裁書を)戻していた。今回は私自身が判断をした」「さまざまな歴史的な認識があろうかと思う。亡くなられた方々に対して慰霊する気持ちは変わらない」と述べました。

 歴史認識は政治家の資質を判断するうえで、とても重要な要素です。政治家の根っこにかかわることだからです。日本語とアラビア語、英語という三つの言葉を自在に操り、「三つの目」を大切にしている政治家が朝鮮人虐殺に疑問を呈するような言動をするのはなぜか。国際経済をよく学び、政界の権謀術策にもまれてきた政治家がなぜ、歴史をないがしろにするような発言をするのか。私には理解できません。

 歴史認識に疑問を感じるようでは、彼女が選んだという衆議院選挙の候補者たちまで、「大丈夫なのか」と心配になってきます。小池百合子が「稀代の勝負師」であることは間違いなさそうですが、歴史に残る政治家であるかどうかは分かりません。後世、「世渡り上手な権力亡者だった」と評されるおそれ、なしとしない。    (敬称略)



≪参考文献&サイト≫
◎『希望の政治 都民ファーストの会講義録』(小池百合子編著、中公新書ラクレ)
◎『小池百合子 人を動かす100の言葉』(宮地美陽子、プレジデント社)
◎『女子の本懐 市ヶ谷の55日』(小池百合子、文春新書)
◎関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らないことに決めた小池知事の記者会見を報じるハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/26/yuriko-koike-great-kanto-earthquake-of-1923_a_23186257/
◎冒頭に記した私のエジプト出張は、朝日新聞・別刷りbe「ことばの旅人 開け、ゴマ!」の取材、執筆のため。2004年7月17日付の別刷りに掲載された企画記事は次のサイトでご覧ください。
http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/?itemid=37


≪写真説明&Source≫
◎関東大震災時の朝鮮人虐殺問題について定例記者会見で答える小池知事(8月25日)
http://blogos.com/article/242368/