波と北海油田とカズオ・イシグロを結ぶ物語
*メールマガジン「風切通信 38」 2017年10月19日
英国人の作家、カズオ・イシグロについてのコラムを書いた際、父親の石黒鎮雄(しずお)のことがとても気になりました。どんな研究者なのか。なぜ妻と幼い子どもたちを連れて40歳で英国に渡ったのか。海洋学を専門とする大学時代の友人に調べてもらったところ、父親が英国に渡った詳しい事情が分かりました。
石黒鎮雄は1920年に商社員をしていた石黒昌明の子として上海で生まれました。戦前、陸軍航空士官学校で学び、その後、九州工業大学を卒業して東京大学で博士号を取っています。博士論文のタイトルは「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」です。「エレクトロニクス」という表現が時代を感じさせます。戦後の日本では、普通の研究者がコンピューターを入手することは困難でした。そこで、さまざまな電子機器を駆使して研究に活かしたのでしょう。手先の器用な人だったようです。
彼は「潮位と波高の変化」を研究テーマにしていました。たとえば、ある海域で海難事故が多発するのはなぜなのか。それを調べるため、その海域の海底を模したモデルを作り、実際に起こる波を再現してみる。そして、その成果を踏まえて、現場の海底に消波ブロックを設置して流れを変え、海難事故を減らす、といった業績を上げています。長崎海洋気象台にいた時には、地元の人たちが苦しめられていた長崎湾の海面の大きな変動の解明にあたったりもしています。
その研究成果に注目したのがイギリス国立海洋研究所の所長、ジョージ・ディーコンでした。1960年当時、イギリスは北海油田の開発に躍起になっていました。第二次大戦で国力を使い果たし、戦時国債の支払いに追われる国にとって、石油を自力で確保することは最優先課題の一つだったからです。問題は、油田が見つかった北海が荒れ狂う海だったこと。海底油田を採掘するためには、巨大なヘリポートのような石油プラットホーム(掘削櫓)を建設しなければなりません。その建設自体が至難の技でした。しかも、完成後は、どんなに海が荒れ狂っても、壊れることは許されません。大規模な海洋汚染を引き起こすからです。
苦難に立ち向かうイギリスは、世界中の英知を結集することにしました。そのリサーチの目が石黒鎮雄の論文に辿り着き、彼を国立海洋研究所に招くことになったわけです。鎮雄はその招聘に「研究者としての冥利」を感じたはずです。渡英した1960年当時、若者の留学はともかく、研究者が家族連れで海外に出て行くことは珍しいことでした。妻静子と子ども3人(カズオ・イシグロと2人の姉妹)を抱えての海外生活。期するところがあったに違いありません。家族が日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、それに応じる余裕はなかったのでしょう。波の研究者として生き、2007年に没しました。
イギリスを石油輸出国にした北海油田。その開発の苦しみが石黒鎮雄をイギリスに引き寄せた。幼いカズオ・イシグロは父の転勤に翻弄され、異様なほどに長崎を懐かしみ、日本に焦がれる少年になりました。父と北海油田の出会いが時を経て、イシグロワールドを醸し出したのです。この世の巡り合わせの不思議さを感じさせる物語でした。(敬称略)
≪参考文献&サイト≫
◎エッセイ「イギリスに渡った研究者 シズオ・イシグロをさがして」(海洋学者、小栗一将)
http://www.jamstec.go.jp/res/ress/ogurik/essay2.html
◎「海洋学者 Shizuo Ishiguro、日本出身地球物理学者の波」(masudako)
http://d.hatena.ne.jp/masudako/20121014/1350215515
◎石黒鎮雄の博士論文「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」(論文検索サイトの検索結果のみ。論文そのものは国会図書館にある模様)
http://ci.nii.ac.jp/naid/500000493143
◎ウィキペディア「陸軍航空士官学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
◎カズオ・イシグロの父を招聘した英国立海洋研究所長、ジョージ・ディーコン(wikipedia、英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Deacon
≪写真説明&Source≫
◎海底油田を採掘するために建設された北海油田の石油プラットフォーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E6%B2%B9%E7%94%B0