月刊『論座』2005年4月号掲載「社説の現場から」

 「人の生き死に。それを書くのが俺たちの仕事だ」
 新聞記者になりたての頃、初任地の静岡で支局長からよくそう諭された。小さな火事や交通事故でも、できるだけ現場に行く。常に自分の目で見て書く。「それが大事だ」と教え込まれた。

 おっかない人だった。甘い記事を見逃さなかった。酔眼で「どういうつもりだ」と説教が始まる。酔いが深まるにつれて言葉は激しくなり、「甘ったれんじゃねぇ。死ね! 死んでしまえ!」で終わるのが常だった。こういう上司の下で働くのは、正直言ってしんどい。神経がすり減っていく。けれども、指摘は鋭く、いつも的確だった。新聞記者の仕事をこれほど端的に表現し、追い求めた人に、その後ついぞ巡り合わなかった。

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 外報部に配属になり、アジア担当になった。ニューデリーとジャカルタに住み、戦争や暴動、騒乱、災害の取材に追われた。「生き死に」へのこだわりを忘れてはいけないと思いつつ、日々流される血があまりにも多く、徐々に鈍感になっていくのを抑えることができなかった。

 取材の一線を離れ、社説を書く論説委員になると、現場から遠くなる。ニュースに対する感度が鈍る。それでいて、アジア担当としてのカバー範囲は東南アジアの国々からインドとその周辺、アフガニスタンまでと広大だ。いまひとつ確信が持てないようなことでも、訳知り顔で書かなければならないときもある。論説委員になって4年。「これでいいのか」。自問することが多くなっていた。

 スマトラ沖地震は、そんな自問を吹き飛ばすようにやってきた。2004年12月26日、日曜日だった。
 論説委員は通常、土日は休む。担当デスク(論説副主幹)のほかには、仕事を抱えた人が数人出てくるだけだ。その日は私も、正月用のひまだね原稿を書くために出社していた。昼過ぎに地震の発生を知ったが、夕方までその原稿を仕上げるのに専念した。緊張感を欠いていた。

 ニュースに向き合う編集局はさすがに違った。呼び出しを受けて記者が続々と集まり、殺到する情報をさばいていた。夜、刷り上がった朝刊のゲラを見た。早版は「死者3000人、マグニチュード8.9」。それが最終版では「死者6600人」に膨らんでいた。大災害である。その場ですぐ社説を書くべきだった。が、すでにタイミングを失していた。

 一夜明けた月曜日。論説委員室の会議で「即座に対応しなかったことを反省しています」と述べてから、どういう社説を書くかのプレゼンテーションをした。「明日はわが身」とか「教訓をくみ取れ」といった、紋切り型の社説は書きたくなかった。会議で議論をしている間にも、伝えられる死者は万単位で増えていった。阪神大震災も、少し前に起きた新潟県中越地震も大変な災害だが、それらとはスケールの違う、何かとてつもないことが起きたことが分かってきた。

 会議では、次の4点を中心に説明した。
(1)地震の規模を示すマグニチュードは9.0に上方修正された。これは、この100年で4番目の大きさだ。阪神大震災の360倍(計算方式によっては1600倍)の規模になる。犠牲者も災害史上に残る数になる可能性がある。(2)解き放たれたエネルギーはものすごい。1000キロ以上離れたインドやスリランカの沿岸まで津波が押し寄せた。「自然が持つ力におののく」という表現を使いたい。(3)これまでの情報から判断すると、もっとも多くの犠牲者が出るのは震源に近いインドネシアのアチェ地方とスリランカ東部だろう。どちらも紛争地で、被災地はもともと疲弊している。救援活動は難航するだろう。(4)インド洋沿岸の国々は貧しい。地震対策はなきに等しい。津波の警報システムなどあるわけもなく、誰もが何も知らされないまま波にのみ込まれた。緊急支援が一段落したら、「地震とは何か」といった基本的なことを知ってもらうための援助ができないものかーー。

 これに対し、国際担当のデスク、村松泰雄は「いま起きていることは非常事態だ。将来の対策も大事だが、まずは行方不明者の捜索と被災者の救援に全力を注がなければならない。それをしっかりと書くべきだ」と主張した。専用回線で会議に参加している大阪の論説委員、大峯伸之からは「ぐらりと来たら、何を置いても高台に逃げる。津波対策はそれに尽きる。なのに、日本ですらきちんと教訓化されていない。それを書き込んでほしい」との声が寄せられた。

 それぞれ、足りないところを補う意見だった。こうした声を踏まえて、12月28日付で「スマトラ地震 巨大な津波におののく」という社説を書いた。意見を踏まえたつもりだったが、「国際社会としてどう取り組むべきか」という視点が弱かった。そこで、科学担当の論説委員、辻篤子が第2弾の社説「スマトラ地震 史上最大の救援作戦だ」(12月30日付)を執筆した。第二次大戦で連合国軍がノルマンディーに上陸した「史上最大の作戦」を例に引きつつ、今回の災害支援の規模の大きさを指摘し、それが持つ政治的な意味を説いた。

 電気も電話もない被災地で、一線の記者はどうやって取材し、原稿を送ったのか。
 ジャカルタ支局長の藤谷健は、発生翌日の27日夕にはスマトラ島北部アチェ地方の中心都市、バンダアチェに入った。被災から1週間ほど経ってから、街の真ん中を海が濁流となって流れ、人と車を押し流していく映像が世界に伝えられ、衝撃を与えた、あの街である。バンダアチェの空港は内陸部にあるため、被害を受けなかった。空港に着いたのはいいが、タクシーがいない。ようやく車を見つけて取材し、泥まみれの遺体が折り重なる惨状を原稿にして衛星電話でふき込んだ。

 ジャカルタ支局に衛星電話を常備していたこと。電源が長持ちする高性能のパソコンを持っていたこと。市内で唯一、自家発電機が動いていた州知事の公舎にたどり着き、充電できたこと。日頃の準備と機転で、厳しい状況を乗り切った。

 泊まるホテルはなかった。地震でつぶれたもの、津波で泥につかったもの。全滅だった。幸い、津波の前の地震の揺れは震度5程度で、津波が押し寄せなかった地域には無傷の建物がたくさん残っていた。民家に転がり込み、ろうそくの明かりで食事を取ったという。

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 朝日新聞として、取材態勢の面で改善すべき点があったとするなら、初期の段階で被害と取材人員の釣り合いが取れていなかったことだろう。震源に近いアチェ地方は、沿岸部が幅数キロにわたって壊滅的な打撃を受けた。電話局もテレビ局も被災して機能しなくなった。被害を外部に向かって報告、発信する手段がすべて失われた。紛争地のため、もともと外国人は立ち入りが規制されている。津波の前にはメディアもなかなか入れなかった。「衝撃的な映像」が外部に伝わるまで1週間もかかったのには、こうした事情があった。

 一方、タイ南部のプーケット島の被害は、海辺の幅数百メートルほどに限られていた。その奥は無事だったので、大波が打ち寄せる映像がすぐ世界に伝えられた。しかも、欧米や日本からの旅行者で犠牲になった人が多かった。スリランカやインドの被害も、インドネシアよりはずっと早く伝わった。このため、応援の取材陣はまず、タイやスリランカ、インドなどに向かった。朝日新聞の場合も、当初は「アチェには記者が1人しかいないのに、タイ南部には記者とカメラマンが6人もいる」という態勢が続いた。

 「インド洋全域で死者と行方不明者は約30万人(*)。その8割はアチェ」という被災の全体状況が分かったのはだいぶ経ってからであり、初動段階での取材態勢のアンバランスを問うのは酷かもしれない。ただ、日本のテレビ各局は、日本人犠牲者の報道にエネルギーの大部分を使い、この大津波による被害の全体像を伝えようとする気概を欠いていた。東京で取材の指揮を執る人たちに少なからぬ影響を与え、新聞の報道もこれに引きずられた面があったように思う。英国のBBCは、早い段階からアチェ地方とインドのアンダマン・ニコバル諸島に複数の取材チームを送り込み、果敢な報道をしていた。大災害の全体像に迫ろうとする気迫を感じた。

 地震でも津波でも、震源に近い所が一番大きな被害を受ける。初期の段階で被害が伝わらないとしたら、そこには別の理由があるはずだ。想像力を働かせなくてはならないーーそれが今回の地震と大津波の報道での教訓の一つだろう。

 話を「社説の現場」に戻す。
 年が明けてから、朝日新聞は「アジアの力が試される スマトラ沖大地震」(1月5日付)、「津波サミット 競い合い、支え合え」(1月7日付)という社説を掲げた。前者は、通常2本の社説が掲載される欄を全部使った、いわゆる「一本社説」である。憲法問題やイラク戦争の重大な局面、ブッシュ大統領の再選といった節目に、十分なスペースを使って朝日新聞としての基本的なスタンスを打ち出すために載せる社説だ。

 一つの災害のために、これだけ多くの国々が軍隊や医療チームを派遣して救援にあたったことはない。小泉首相やパウエル米国務長官(当時)、中国の温家宝首相、国連のアナン事務総長らがジャカルタに集まり、被災者の支援策を話し合う。これも異例のことだ。論説委員室の会議で「一本社説で論ずるべきだ」との声が出され、そう決した。

 米国は、今回の津波でアチェに1万4000人の兵力と空母部隊を投入した。多数のヘリコプターを使っての支援活動は水際立っていた。オーストラリアも輸送艦でブルドーザーやショベルカーといった重機を大量に持ち込み、がれきの除去などで貢献した。

 だが、インドネシア側は「米国はイラク戦争で高まったイスラム圏の反米感情を和らげようとしている」と斜に構えている。過去に東ティモール独立をめぐって対立したオーストラリアに対しては「次はアチェへの影響力を確保しようとしているのではないか」と疑っている。

 迅速さや機動力という点では、日本やアジア諸国の支援は米豪両国に到底、及ばない。だが、インドネシアとの間で摩擦が生じる恐れは少ない。息の長い支援を旗印にして、日本が復旧と復興のイニシアチブを取ることは可能だし、取るべきだーーそれが一本社説の眼目だった。

 被災地からの報道を受ける形で、論説としてもそれなりに書いたつもりだが、不満があった。現場を自分の目で見ていないことだ。新潟県中越地震では論説委員も次々に現地入りし、余震に揺られながら社説を書いた。それを思えば、これだけの大災害で現場取材をしないわけにはいかないだろう。議論の末、アジア担当と地震担当の論説委員が順次、被災地を訪ねることになった。

 大津波については、すでに膨大な量の報道がなされていたが、私は「まだまだ空白域がある」と感じていた。新聞の小さな地図で見ると、アチェ地方は小さく見えるが、実は九州の1・3倍もある。西海岸は約500キロ。東京?京都間に等しい。この長い海岸線がどうなっているのか、あまり報じられていない。気になっていた。バンダアチェより震源に近く、大津波を正面から受ける位置にあるからだ。

 1月下旬にアチェを訪ね、米軍の支援ヘリに同乗して空から海岸線を200キロほど見た。呆然とした。海沿いの地域がごっそり削り取られたようになり、町や村が消えていた。がれきすら、あまり残っていない。これでは映像で伝えにくい。あっさりしすぎて、悲惨さが伝わらないのだ。

 ちょうど同じ時期に、東大地震研究所の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)助教授が現地調査に来ていた。「バンダアチェより西海岸の方が被害は深刻なのではないか」と聞いてみた。「たぶん、そうでしょう。高さ30メートルくらいの津波があちこちに押し寄せたのではないか」と言う。その光景を想像すると、絶句するしかなかった。

 映像ではうまく伝えられないーーそういうところにこそ、新聞記者が入り込み、じっくりと取材して報道すべきだ。映像が力を持つようなフィールドでテレビと競争しても、活字メディアが勝てるわけはないのだから。

 アチェでの取材であきれたのは、復旧の見通しすら立っていないのに、インドネシア政府が「外国軍の早期撤退」を言い続けていたことだ。米豪両国軍がいることにわだかまりがあることは理解できる。しかし、今はそんなことを言っているときではあるまい。怒りを感じた。アチェから衛星電話で「アチェ報告 国の威信より人の命だ」と題した社説を送った(1月31日付で掲載)。

 インドネシアでの取材を終えて、タイ南部に回った。プーケット島より、その北のパンガー県の方が被害はひどいという。訪ねると、内陸深くまで津波が達している地区があった。カオラックという。専門家によれば、浜が遠浅なうえに北側に岬が突き出しているため、津波のエネルギーを丸ごと受けてしまったとのことだった。

 ここにも「取材の空白域」があった。この辺りには、ミャンマー(ビルマ)からの出稼ぎ労働者が多数いた。犠牲者もかなりいたはずなのだが、彼らは住所を登録しているわけではない。確認のしようがないのだ。

 白い砂浜には波が穏やかに打ち寄せていた。その海のかなたには、インドのアンダマン・ニコバル諸島があり、ミャンマーの島々が横たわっている。これらの島々の被災状況も実はよく分かっていない。インドは同諸島が軍事的に重要な意味を持つため、外国人の立ち入りを快く思っていない。ミャンマーの軍事政権は、そもそも外国人ジャーナリストを国内に入れようとしない。

 社説で「息の長い支援を」と何度も書いた。当然、メディアとしても「息の長い報道」をしなければならない。一線の取材も、論説の取材も、まだまだ終わらない。
(長岡 昇 ・朝日新聞論説委員)


*この記事は、朝日新聞社発行の月刊『論座』2005年4月号に次のタイトルで掲載された。 
 「社説の現場から」 まだまだ「報道の空白域」がある スマトラ沖地震と大津波
*その後の調査によれば、死者と行方不明者は約22万人と推定される。この地震は「スマトラ沖地震」あるいは「スマトラ島地震」などと表現されたが、メディアでは「インド洋大津波」の呼称が定着した。


≪写真説明≫
1 陸に打ち上げられた貨物船。この辺りには高さ30メートルを超える津波が押し寄せた
=スマトラ島北部のロックガで(1月29日、筆者撮影)
2 スマトラ島アチェの西海岸。道路は寸断され、この先は車で行くことはできない(同)


ながおか・のぼる 1953年生まれ。東京大学法学部卒。1977年、東芝入社。78年、朝日新聞入社。静岡支局、横浜支局、東京本社整理部、北海道報道部を経て外報部に。ニューデリー支局長、外報部次長、ジャカルタ支局長を務め、2001年から現職。