隔離病棟で「お上のパンツ」をはいた日々
「憧れの対象」だった豪華クルーズ船は昨今、「浮かぶ隔離病棟」のような目で見られるようになってしまった。横浜港に停泊中のダイヤモンド・プリンセス号の乗客から、また新型コロナウイルスの感染者が見つかり、患者が61人になったという。日本国内で確認された感染者は計86人なので、なんと7割がこの豪華客船に乗っていた人ということになる。
客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html
客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html