蔵王県境事件のころから 私たちは何歩進んだのか
私たちが暮らす山形県という地域は、どういうところなのか。その政治風土や県民性を考える時に忘れてならないのは、「蔵王県境移動事件」である。
半世紀以上も前に起きた事件だが、山形県の政治や経済、社会の特質をこれほど雄弁に物語るものはほかにない。地元の支配的企業グループに便宜を図るため、秋田営林局と山形営林署は山形、宮城の県境を勝手に移動させた。そして、山形県当局もグルになってそれを押し通そうとした。信じがたいような出来事だ。
事件が起きたのは1963年である。
蔵王連峰を横断する道路「蔵王エコーライン」が前年に開通したのを機に、山形市の観光バス会社「北都開発」が蔵王の「お釜」(写真)に通じるリフトの建設を計画した。建設予定地は山形営林署が管轄する国有林内だった。そこで、北都開発は営林署に用地の貸付申請をし、山形県にはリフト建設の届け出をした。
すると、山形営林署長は同じように観光リフトの建設を計画していた山形交通にその内容を伝え、北都開発の貸付申請書を受理しないなど様々な妨害工作を始めた。山形県も「お釜には道路を造って行けるようにする計画だ」と、リフトの建設に反対した。
その一方で、山形交通は宮城県内の土地にお釜に通じる観光リフトの建設を決め、営林当局の支援を受けて着々と工事を進めていった。
都開発はあきらめず、妨害を跳ねのけて手続きを進めた。すると、秋田営林局と山形営林署は「山形と宮城の県境はもっと西寄りである。北都開発のリフト建設予定地は宮城県側だ。白石営林署で手続きせよ」と言い始めた。勝手に県境を変え、山形県の土地の一部を宮城県に譲り渡してしまったのである。
観光リフトの建設問題は県境紛争となり、国会議員や県知事、中央官庁も巻き込んだ大騒動に発展した。
この渦中で絶大な力を発揮したのが山形新聞の服部敬雄(よしお)社長である。グループ企業の山形交通の権益を守るため、政治家や経済人を動かし、傘下の新聞とテレビを動員して世論操作を図った。権力を監視すべきメディアが権力そのものと化していたのだ。
汚職の臭いをかぎ取り、山形地方検察庁が動き始める。警察は地元のしがらみにからめとられて、当てにできない。検察だけで捜査を進め、翌64年年に山形営林署長や山形交通の課長ら12人を逮捕し、65年に営林署長を公務員職権濫用罪で起訴した。
この刑事裁判で事実関係が明らかにされ、営林署長に有罪の判決が下っていれば、その後の展開はまるで異なるものになっていたはずだ。
ところが、一審の山形地裁でも控訴審でも営林署長は無罪になり、70年に確定した。致命的だったのは、検察側が「山形県と宮城県の本当の県境はどこか」を立証できなかったことである。
山形新聞・山形交通グループと営林当局、山形県はあらゆる手段を使って、勝手に移動させた県境こそ「本来の県境である」と主張し続けた。江戸時代の絵図を持ち出し、地図作成を担当する国土地理院の専門家まで引っ張り出して、被告に有利な証言をさせた。
裁判所は「ごまかしと嘘の洪水」にのみ込まれ、県境の画定をあきらめざるを得なかった。「県境の移動」が立証されなければ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則にのっとり、無罪を言い渡すしかなかった。
この間、北都開発の佐藤要作(ようさく)社長は妨害を乗り越えてリフトを完成させたが、嫌がらせはその後も続いた。万が一の噴火に備えて観光客用の避難所を建設した。すると、山形県は「お釜の景観を損ねる」と別の場所への建て替えを命じ、さらにその建て替えた避難所を新たな理由を持ち出して強制的に取り壊した。
意を決して、佐藤要作社長は「営林当局による県境の移動は不法行為である。これによって生じた損害を賠償せよ」と国を相手に民事訴訟を起こした。だが、弁護士が次々に辞めるなどして訴訟は停滞した。
転機は1980年に訪れた。
この年、大阪で仕事をしていた佐藤欣哉(きんや)弁護士が山形市に移り、事務所を開いた。1946年、山形県余目(あまるめ)町(現庄内町)生まれ。鶴岡南高校、一橋大学卒。34歳の闘志あふれる弁護士がこの事件を引き受けた。弁護団に加わった三浦元(はじめ)、外塚功両弁護士も30歳前後の若さだ。彼らは刑事訴訟の分も含め、膨大な証拠と記録の洗い直しを進め、止まっていた裁判を動かしていった。
しかし、87年、一審の山形地裁ではまたしても敗れた。「営林当局が県境を勝手に移動させた」ということを立証できなかったのである。刑事訴訟を含め、三連敗。それでも、控訴して闘い続けた。みな「県境は勝手に移動された」と確信していた。
救いの神は、意外なところから現れた。地図の専門家が「山形地裁の判決は間違っている」と明言した、という情報が佐藤欣哉弁護士のもとに寄せられたのだ。会ってみると、彼はその理由を明快に語ってくれた。
山形と宮城の県境を記した蔵王周辺の地形図を最初に作成したのは明治44年(1911年)、陸軍参謀本部の陸地測量部である。それ以来、その5万分の1の地図がずっと使われてきたが、問題のお釜周辺の境界線は特殊な線で描かれていた。
彼はその線の意味を旧陸軍の内規に基づいて詳しく説明し、「この線は『登山道が県境である』という北都開発の当初からの主張が正しいことを示している」と語った。決定的な証言だった。「地図屋の良心」がごまかしを許さなかったのである。
1995年、仙台高裁は旧陸軍の内規に基づく弁護団の主張を採用し、原告逆転勝訴の判決を言い渡した。事件から、実に32年後のことだった。
「山交は県内陸部最大のバス会社であったほか、同県の政財界に多大な影響力を有していた山形新聞、山形放送とグループを形成して密接な連携を保っていた」
「山形営林署長らは姑息な理由で(北都開発の)申請の受理を拒否ないし遷延(せんえん)し、他方で山交リフトの建設に対しては陰に陽に支援・協力していた」
「(山形営林署長らの)一連の貸付権限の行使は、故意による権限の濫用つまり包括的な不法行為に該当するというべきである」
高裁判決は、山形新聞・山形交通グループの策動を暴き、営林当局者の職権濫用を厳しく断罪した。先の刑事裁判の判断を覆し、事実上の「有罪判決」を下したのである。
長い闘いの記録は、佐藤欣哉氏によって『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』という本にまとめられ、出版された。
蔵王県境事件の弁護士たちはこの年、公金の使い方を監視する「市民オンブズマン山形県会議」を立ち上げ、山形県発注の土木建設工事をめぐる談合事件や山形市議、山形県議の政務調査費(のち政務活動費)の不適切な支出の追及に乗り出した。不正を次々に暴き、貴重な血税を取り戻すのに多大な貢献をした。
その先頭に立ってきた佐藤欣哉弁護士が10月17日、闘病の末、74歳で亡くなった。不正を許さず、闘い続けた人生だった。
◇ ◇
メディアを核に支配を広げ、「天皇」と称された山形新聞の服部敬雄氏は1991年に死去し、山新・山交(現ヤマコー)グループの結束は著しく弱まった。服部氏の番頭のような存在だった県知事も代替わりし、2009年には吉村美栄子氏が東北初の女性知事になった。
それによって、山形県の政治風土と県民性は変わったのだろうか。私たちはどれだけ前に進むことができたのだろうか。
この2年、このコラムで報じてきた通り、吉村知事が誕生して以来、知事の義理のいとこの吉村和文氏が率いる企業・法人グループは「わが世の春」を謳歌してきた。吉村県政誕生以来の10年間で、このグループに支出された公金は40億円を上回る。2019年度以降、さらに上積みされていることは言うまでもない。
吉村一族企業の所業は、山新・山交グループの振る舞いとそっくりではないか。
その実態を解明するため、筆者が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したところ、県は詳しい内容を白塗りにして隠し、不開示にした(2017年5月)。
「白塗り」は「黒塗り」より悪質である。「黒塗り」なら貸借対照表の備考欄に融資などの利益相反行為があることをうかがわせる痕跡が残るが、「白塗り」だと、そうしたものがあるかどうかも分からないからだ。
私学助成を担当する山形県学事文書課は「あるかどうかも分からなくする」のが得意だ。東海山形学園から和文氏の率いるダイバーシティメディアへの3000万円融資に関する「特別代理人の選任文書」について、私が情報公開を求めると、「存否(そんぴ)応答拒否」(文書があるかどうかも答えない)という決定をした(2018年10月)。その理由は「学校法人の利益を害するおそれがある」という理不尽なものだった。
私立学校法は「利益相反行為がある場合、所轄庁(山形県)は特別代理人を選んでチェックさせなさい」と規定していた。私は「その法律に基づいて選んだのですか」と問いただしたに過ぎない。「利益を害する」ことなどあり得ないのだ。知事の義理のいとこが理事長をつとめる学校法人の不始末を隠そうとした、としか考えられない対応だった。
財務書類の不開示をめぐる裁判は、仙台高裁で「山形県の対応は違法。すべて開示しなさい」との判決が出され、県の上告が退けられて確定した。この判決に基づいて全面開示された財務書類を点検したところ、2016年の3000万円とは別に、2013年にも学校法人から和文氏個人に5000万円の融資が行われていたことが明らかになった。
県学事文書課は全面開示の直前に、この5000万円融資の事実に気づいたことを認めている。だが、筆者が記者会見をして明らかにするまで口をつぐんでいた。
蔵王県境事件の際の秋田営林局や山形営林署の対応と何と似ていることか。県知事も県職員も「学校法人と一蓮托生」とでも思っているのだろうか。
3000万円の融資でも5000万円の融資でも、県は「特別代理人」を選ばず、私立学校法に定められた責務を果たしていなかった。
その点を追及されると、吉村知事は記者会見や県議会で「県としては(融資という利益相反行為を)知り得なかったのです」と答え、そこに逃げ込もうとしている。
確かに、学校法人とグループ企業の間での融資という利益相反行為を事前に知るのは難しい。だが、私学助成を受けている学校法人は次年度の6月までにはすべての財務書類を県に提出する。丁寧に目を通せば、その時点で気づくはずだ。「知り得ない」という答えは、論理的にも日本語としても間違っている。
10月13日の定例記者会見で知事が答えに窮すると、大滝洋・総務部長は助け舟を出し、こう述べた。「(貸借対照表などの)財務諸表は参考資料なんです。その注記部分はチェックすべき対象になっていない」
暴言と言うしかない。私立学校振興助成法によって、学校法人は所轄庁(山形県)に財務書類を提出することを義務づけられている。学校法人の財務状況を示す重要な書類だからだ。それを「参考資料でチェック不要」と言ってのける度胸に驚く。
大滝部長が果たしている役割は、蔵王県境事件の刑事裁判で被告側の証人になった国土地理院の専門家に似ている。訳知り顔で不正確な情報をばらまき、混乱させて真相の解明を妨げる役回りだ。
当事者である東海山形学園の吉村和文理事長はメディアに対して様々な釈明をしている。いずれも説得力がなく、信ずるに足りない。紙幅が尽きてきた。どこがどのように信用できないのか、次号で詳しく分析したい。
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年11月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
≪写真説明≫
1995年1月23日、仙台高裁で逆転勝訴した原告と弁護団(『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』から複写)
≪参考文献&資料≫
◎蔵王県境事件の国家損害賠償請求に対する仙台高裁の判決(1995年1月23日)
◎『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』(佐藤欣哉著、やまがた散歩社)
◎『小説 蔵王県境事件』(須貝和輔著、東北出版企画)
◎『山形の政治 戦後40年・ある地方政界・』(朝日新聞山形支局、未来社)
◎1963年8月29日から1995年1月29日の朝日新聞山形県版の関係記事
半世紀以上も前に起きた事件だが、山形県の政治や経済、社会の特質をこれほど雄弁に物語るものはほかにない。地元の支配的企業グループに便宜を図るため、秋田営林局と山形営林署は山形、宮城の県境を勝手に移動させた。そして、山形県当局もグルになってそれを押し通そうとした。信じがたいような出来事だ。
事件が起きたのは1963年である。
蔵王連峰を横断する道路「蔵王エコーライン」が前年に開通したのを機に、山形市の観光バス会社「北都開発」が蔵王の「お釜」(写真)に通じるリフトの建設を計画した。建設予定地は山形営林署が管轄する国有林内だった。そこで、北都開発は営林署に用地の貸付申請をし、山形県にはリフト建設の届け出をした。
すると、山形営林署長は同じように観光リフトの建設を計画していた山形交通にその内容を伝え、北都開発の貸付申請書を受理しないなど様々な妨害工作を始めた。山形県も「お釜には道路を造って行けるようにする計画だ」と、リフトの建設に反対した。
その一方で、山形交通は宮城県内の土地にお釜に通じる観光リフトの建設を決め、営林当局の支援を受けて着々と工事を進めていった。
都開発はあきらめず、妨害を跳ねのけて手続きを進めた。すると、秋田営林局と山形営林署は「山形と宮城の県境はもっと西寄りである。北都開発のリフト建設予定地は宮城県側だ。白石営林署で手続きせよ」と言い始めた。勝手に県境を変え、山形県の土地の一部を宮城県に譲り渡してしまったのである。
観光リフトの建設問題は県境紛争となり、国会議員や県知事、中央官庁も巻き込んだ大騒動に発展した。
この渦中で絶大な力を発揮したのが山形新聞の服部敬雄(よしお)社長である。グループ企業の山形交通の権益を守るため、政治家や経済人を動かし、傘下の新聞とテレビを動員して世論操作を図った。権力を監視すべきメディアが権力そのものと化していたのだ。
汚職の臭いをかぎ取り、山形地方検察庁が動き始める。警察は地元のしがらみにからめとられて、当てにできない。検察だけで捜査を進め、翌64年年に山形営林署長や山形交通の課長ら12人を逮捕し、65年に営林署長を公務員職権濫用罪で起訴した。
この刑事裁判で事実関係が明らかにされ、営林署長に有罪の判決が下っていれば、その後の展開はまるで異なるものになっていたはずだ。
ところが、一審の山形地裁でも控訴審でも営林署長は無罪になり、70年に確定した。致命的だったのは、検察側が「山形県と宮城県の本当の県境はどこか」を立証できなかったことである。
山形新聞・山形交通グループと営林当局、山形県はあらゆる手段を使って、勝手に移動させた県境こそ「本来の県境である」と主張し続けた。江戸時代の絵図を持ち出し、地図作成を担当する国土地理院の専門家まで引っ張り出して、被告に有利な証言をさせた。
裁判所は「ごまかしと嘘の洪水」にのみ込まれ、県境の画定をあきらめざるを得なかった。「県境の移動」が立証されなければ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則にのっとり、無罪を言い渡すしかなかった。
この間、北都開発の佐藤要作(ようさく)社長は妨害を乗り越えてリフトを完成させたが、嫌がらせはその後も続いた。万が一の噴火に備えて観光客用の避難所を建設した。すると、山形県は「お釜の景観を損ねる」と別の場所への建て替えを命じ、さらにその建て替えた避難所を新たな理由を持ち出して強制的に取り壊した。
意を決して、佐藤要作社長は「営林当局による県境の移動は不法行為である。これによって生じた損害を賠償せよ」と国を相手に民事訴訟を起こした。だが、弁護士が次々に辞めるなどして訴訟は停滞した。
転機は1980年に訪れた。
この年、大阪で仕事をしていた佐藤欣哉(きんや)弁護士が山形市に移り、事務所を開いた。1946年、山形県余目(あまるめ)町(現庄内町)生まれ。鶴岡南高校、一橋大学卒。34歳の闘志あふれる弁護士がこの事件を引き受けた。弁護団に加わった三浦元(はじめ)、外塚功両弁護士も30歳前後の若さだ。彼らは刑事訴訟の分も含め、膨大な証拠と記録の洗い直しを進め、止まっていた裁判を動かしていった。
しかし、87年、一審の山形地裁ではまたしても敗れた。「営林当局が県境を勝手に移動させた」ということを立証できなかったのである。刑事訴訟を含め、三連敗。それでも、控訴して闘い続けた。みな「県境は勝手に移動された」と確信していた。
救いの神は、意外なところから現れた。地図の専門家が「山形地裁の判決は間違っている」と明言した、という情報が佐藤欣哉弁護士のもとに寄せられたのだ。会ってみると、彼はその理由を明快に語ってくれた。
山形と宮城の県境を記した蔵王周辺の地形図を最初に作成したのは明治44年(1911年)、陸軍参謀本部の陸地測量部である。それ以来、その5万分の1の地図がずっと使われてきたが、問題のお釜周辺の境界線は特殊な線で描かれていた。
彼はその線の意味を旧陸軍の内規に基づいて詳しく説明し、「この線は『登山道が県境である』という北都開発の当初からの主張が正しいことを示している」と語った。決定的な証言だった。「地図屋の良心」がごまかしを許さなかったのである。
1995年、仙台高裁は旧陸軍の内規に基づく弁護団の主張を採用し、原告逆転勝訴の判決を言い渡した。事件から、実に32年後のことだった。
「山交は県内陸部最大のバス会社であったほか、同県の政財界に多大な影響力を有していた山形新聞、山形放送とグループを形成して密接な連携を保っていた」
「山形営林署長らは姑息な理由で(北都開発の)申請の受理を拒否ないし遷延(せんえん)し、他方で山交リフトの建設に対しては陰に陽に支援・協力していた」
「(山形営林署長らの)一連の貸付権限の行使は、故意による権限の濫用つまり包括的な不法行為に該当するというべきである」
高裁判決は、山形新聞・山形交通グループの策動を暴き、営林当局者の職権濫用を厳しく断罪した。先の刑事裁判の判断を覆し、事実上の「有罪判決」を下したのである。
長い闘いの記録は、佐藤欣哉氏によって『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』という本にまとめられ、出版された。
蔵王県境事件の弁護士たちはこの年、公金の使い方を監視する「市民オンブズマン山形県会議」を立ち上げ、山形県発注の土木建設工事をめぐる談合事件や山形市議、山形県議の政務調査費(のち政務活動費)の不適切な支出の追及に乗り出した。不正を次々に暴き、貴重な血税を取り戻すのに多大な貢献をした。
その先頭に立ってきた佐藤欣哉弁護士が10月17日、闘病の末、74歳で亡くなった。不正を許さず、闘い続けた人生だった。
◇ ◇
メディアを核に支配を広げ、「天皇」と称された山形新聞の服部敬雄氏は1991年に死去し、山新・山交(現ヤマコー)グループの結束は著しく弱まった。服部氏の番頭のような存在だった県知事も代替わりし、2009年には吉村美栄子氏が東北初の女性知事になった。
それによって、山形県の政治風土と県民性は変わったのだろうか。私たちはどれだけ前に進むことができたのだろうか。
この2年、このコラムで報じてきた通り、吉村知事が誕生して以来、知事の義理のいとこの吉村和文氏が率いる企業・法人グループは「わが世の春」を謳歌してきた。吉村県政誕生以来の10年間で、このグループに支出された公金は40億円を上回る。2019年度以降、さらに上積みされていることは言うまでもない。
吉村一族企業の所業は、山新・山交グループの振る舞いとそっくりではないか。
その実態を解明するため、筆者が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したところ、県は詳しい内容を白塗りにして隠し、不開示にした(2017年5月)。
「白塗り」は「黒塗り」より悪質である。「黒塗り」なら貸借対照表の備考欄に融資などの利益相反行為があることをうかがわせる痕跡が残るが、「白塗り」だと、そうしたものがあるかどうかも分からないからだ。
私学助成を担当する山形県学事文書課は「あるかどうかも分からなくする」のが得意だ。東海山形学園から和文氏の率いるダイバーシティメディアへの3000万円融資に関する「特別代理人の選任文書」について、私が情報公開を求めると、「存否(そんぴ)応答拒否」(文書があるかどうかも答えない)という決定をした(2018年10月)。その理由は「学校法人の利益を害するおそれがある」という理不尽なものだった。
私立学校法は「利益相反行為がある場合、所轄庁(山形県)は特別代理人を選んでチェックさせなさい」と規定していた。私は「その法律に基づいて選んだのですか」と問いただしたに過ぎない。「利益を害する」ことなどあり得ないのだ。知事の義理のいとこが理事長をつとめる学校法人の不始末を隠そうとした、としか考えられない対応だった。
財務書類の不開示をめぐる裁判は、仙台高裁で「山形県の対応は違法。すべて開示しなさい」との判決が出され、県の上告が退けられて確定した。この判決に基づいて全面開示された財務書類を点検したところ、2016年の3000万円とは別に、2013年にも学校法人から和文氏個人に5000万円の融資が行われていたことが明らかになった。
県学事文書課は全面開示の直前に、この5000万円融資の事実に気づいたことを認めている。だが、筆者が記者会見をして明らかにするまで口をつぐんでいた。
蔵王県境事件の際の秋田営林局や山形営林署の対応と何と似ていることか。県知事も県職員も「学校法人と一蓮托生」とでも思っているのだろうか。
3000万円の融資でも5000万円の融資でも、県は「特別代理人」を選ばず、私立学校法に定められた責務を果たしていなかった。
その点を追及されると、吉村知事は記者会見や県議会で「県としては(融資という利益相反行為を)知り得なかったのです」と答え、そこに逃げ込もうとしている。
確かに、学校法人とグループ企業の間での融資という利益相反行為を事前に知るのは難しい。だが、私学助成を受けている学校法人は次年度の6月までにはすべての財務書類を県に提出する。丁寧に目を通せば、その時点で気づくはずだ。「知り得ない」という答えは、論理的にも日本語としても間違っている。
10月13日の定例記者会見で知事が答えに窮すると、大滝洋・総務部長は助け舟を出し、こう述べた。「(貸借対照表などの)財務諸表は参考資料なんです。その注記部分はチェックすべき対象になっていない」
暴言と言うしかない。私立学校振興助成法によって、学校法人は所轄庁(山形県)に財務書類を提出することを義務づけられている。学校法人の財務状況を示す重要な書類だからだ。それを「参考資料でチェック不要」と言ってのける度胸に驚く。
大滝部長が果たしている役割は、蔵王県境事件の刑事裁判で被告側の証人になった国土地理院の専門家に似ている。訳知り顔で不正確な情報をばらまき、混乱させて真相の解明を妨げる役回りだ。
当事者である東海山形学園の吉村和文理事長はメディアに対して様々な釈明をしている。いずれも説得力がなく、信ずるに足りない。紙幅が尽きてきた。どこがどのように信用できないのか、次号で詳しく分析したい。
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年11月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
≪写真説明≫
1995年1月23日、仙台高裁で逆転勝訴した原告と弁護団(『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』から複写)
≪参考文献&資料≫
◎蔵王県境事件の国家損害賠償請求に対する仙台高裁の判決(1995年1月23日)
◎『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』(佐藤欣哉著、やまがた散歩社)
◎『小説 蔵王県境事件』(須貝和輔著、東北出版企画)
◎『山形の政治 戦後40年・ある地方政界・』(朝日新聞山形支局、未来社)
◎1963年8月29日から1995年1月29日の朝日新聞山形県版の関係記事