コロナでかき消された 未来にかかわる重大事
コロナ禍と大雪の中で争われた山形県の知事選挙は、現職の吉村美栄子氏が圧勝し、四選を果たした。挑戦した元県議の大内理加氏は、頼みとする自民党と公明党の支持者すら十分に取り込めず、惨敗した。
吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。
2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」
吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。
2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」