あの惨劇を見てもまだ原発を推進する人たち
日本の政府と電力会社は大切なことを隠し、国民を欺いている――原子力発電について私が疑念を抱き、不信感を深めたのは1988年のことだった。
旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。
三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)
旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。
三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)