イチョウ、壮大な命の物語
イチョウが色づき始めました。ありふれた街路樹の一つですが、ある本に出合ってから、私はこの樹(き)を特別な思いで見つめるようになりました。英国の植物学者、ピーター・クレインが著した『イチョウ 奇跡の2億年史』(河出書房新社)です。
この樹には、命をめぐる壮大な物語が秘められていることを知りました。クレインの著書は、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだ次のような詩で始まります。
はるか東方のかなたから
わが庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかおまえも私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを
クレインによれば、シーラカンスが「生きた化石」の動物界のチャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表格なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の大変動を生き抜いてきました。
ただ、氷河期にうまく適応することができず、世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の博物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。
けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったと考えられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。
日本に伝わったのはいつか。著者はそれも調べています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。
鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある樹の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その樹がイチョウだというのは後世の付け足しのようです。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのがクレインの見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。
東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』の中で絵入りで紹介しています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。
博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音されることを知り、著書にはginkgo と記しました。クレインは「ケンペルはなぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。
植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として欧州で広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコウ」です。
それまで「化石」でしか見たことがなく、絶滅したものと思っていた植物が生きていた――それを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導いてくれる一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。
植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木(おぎ)があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際には「その精子が繊毛をふるわせてかすかに泳ぐ」ということを、この本で初めて知りました。
イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を揺さぶる大発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。
それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。
訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウの栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った際には、境内でギンナンを焼いて売っている屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。
かくもイチョウを愛し、イチョウの謎を追い続けた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」
壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べれば、私たち人間など、つい最近登場したばかりの小さな、小さな存在でしかない。
*初出:メールマガジン「小白川通信 20」(2014年11月29日)。書き出しを含め一部手直し
≪写真説明とSource≫
◎青森県弘前公園の「根上がりイチョウ」
http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies
*『イチョウ 奇跡の2億年史』の原題は GINKGO : The Tree That Time Forgot 。矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。詳しくは次のURLを参照。
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0506.htm
この樹には、命をめぐる壮大な物語が秘められていることを知りました。クレインの著書は、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだ次のような詩で始まります。
はるか東方のかなたから
わが庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかおまえも私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを
クレインによれば、シーラカンスが「生きた化石」の動物界のチャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表格なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の大変動を生き抜いてきました。
ただ、氷河期にうまく適応することができず、世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の博物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。
けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったと考えられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。
日本に伝わったのはいつか。著者はそれも調べています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。
鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある樹の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その樹がイチョウだというのは後世の付け足しのようです。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのがクレインの見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。
東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』の中で絵入りで紹介しています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。
博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音されることを知り、著書にはginkgo と記しました。クレインは「ケンペルはなぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。
植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として欧州で広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコウ」です。
それまで「化石」でしか見たことがなく、絶滅したものと思っていた植物が生きていた――それを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導いてくれる一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。
植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木(おぎ)があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際には「その精子が繊毛をふるわせてかすかに泳ぐ」ということを、この本で初めて知りました。
イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を揺さぶる大発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。
それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。
訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウの栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った際には、境内でギンナンを焼いて売っている屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。
かくもイチョウを愛し、イチョウの謎を追い続けた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」
壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べれば、私たち人間など、つい最近登場したばかりの小さな、小さな存在でしかない。
*初出:メールマガジン「小白川通信 20」(2014年11月29日)。書き出しを含め一部手直し
≪写真説明とSource≫
◎青森県弘前公園の「根上がりイチョウ」
http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies
*『イチョウ 奇跡の2億年史』の原題は GINKGO : The Tree That Time Forgot 。矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。詳しくは次のURLを参照。
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0506.htm