大昔、東北の地で暮らす人々のことを大和政権側は「えみし」と呼んだ。なぜ、そう呼んでいたのかについては諸説あるが、定説はなく、不明である。

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「蔑称だった」と唱える研究者もいる。だが、違うだろう。7世紀、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我一族に蘇我蝦夷(えみし)がおり、当時はほかにも「えみし」の名を持つ貴族がいた。蔑称を名前にする貴族はいない、と考えるのが自然だからだ。

大和政権が編纂した正史に「えみし」という言葉が初めて登場するのは、『日本書紀』の神武天皇紀である。神武紀の中に大和の軍人たちが戦勝を祝って口にした次のような歌謡が収められている(注)。

  愛瀰詩烏(えみしを)毘攮利(ひたり)
  毛々那比苔(ももなひと)
  比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 
  多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

「えみしは一人で百人を相手にするほど強いと人は言うけれど、俺たちには抵抗もしない」という意味である。古代から、「えみし」の戦闘能力の高さは恐れられていたようだが、「俺たちはそれよりもっと強い」と歌いあげているのだ。

日本書紀は全文、漢文で書かれている。ただ、こうした歌謡については言葉をそのまま借字で収録している。その際、「えみし」を「愛瀰詩」と記したことから見ても、蔑称という見方は的外れであることが分かる。

ただ、時を経るにつれて、「えみし」は「毛人」あるいは「蝦夷」と表記されるようになる。大和政権との軋轢が増し、戦争が続く中で「侮蔑」の意味合いが込められるようになっていったと考えられる。

   ◇     ◇ 

大和政権は7世紀に入ると東北の支配領域を急速に広げ、蝦夷勢力と激しく衝突するようになった。城冊(じょうさく)を築き、守るため各地から多くの移民を送り込む。蝦夷側では抵抗することをあきらめ、帰順して大和政権の下で生きる道を選ぶ者も増えていった。

8世紀の後半になると、大和側の支配は宮城県北部に達した。その最前線に築かれたのが桃生(ものう)城(現在の石巻市)と伊治(これはり)城(栗原市)であり、支配をさらに北へ広げるための前進基地だった(図参照)。

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774年、摩擦は発火点に達し、38年戦争に突入していく。最初に蜂起したのは、宮城県北部から三陸地方に住む「海道(かいどう)蝦夷」だ。桃生城を攻撃して城郭の一部を焼き払った。帰順した蝦夷の一部も造反し、大和側は大混乱に陥る。

蝦夷を戦争へと駆り立てたものは何だったのか。自らの生活圏が侵食されていくことへの焦慮、大和政権の官人による収奪と腐敗、そして侮蔑だったのではないか。

近畿大学の鈴木拓也教授は著書『蝦夷と東北戦争』で、陸奥・出羽両国から天皇に献上されたものとして馬と鷹を挙げている。鷹狩りは当時の天皇家にとって重要な行事の一つである。軍馬の重要性は言うまでもない。

また、交易品として陸奥の砂金や毛皮、昆布を挙げる。熊やアシカ、アザラシの毛皮は都の貴族にことのほか喜ばれた。現地の官人は公式ルートで献上するほか、私的な取引にも精を出していたようだ。『続日本後紀』には、任期を終えて帰京する国司が大量の「私荷」を運んだことが記されているという。

辺境に赴任した官人による収奪や腐敗は、洋の東西を問わない。そして、彼らの住民への横暴と侮蔑もまた、繰り返されてきたことである。

大和政権に帰順し、現地の蝦夷を束ねてきた族長たちは屈折した思いを抱いていたに違いない。官人の横暴にさらされる配下の者たちからは突き上げられ、北方で抵抗し続ける蝦夷からは「裏切者」扱い・・。

そうした蝦夷の族長の一人、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年、ついに反旗をひるがえす。伊治城で陸奥の最高責任者、紀広純らを殺害し、さらに反乱軍を率いて多賀城を略奪、焼き討ちにしたのである。

大和政権にとって、多賀城は陸奥・出羽を支配するための最大の拠点である。武器や兵糧も大量に蓄えられていた。それらをすべて奪われ、城も焼け落ちてしまった。城下の民衆も四散した。

反乱の急報が都に届いたのは6日後である。光仁天皇はただちに征東大使や副使らを任命し、坂東諸国に数万の兵の動員を命じた。それまで、陸奥と出羽の治安は現地の兵力でまかなってきたが、それでは対応できなくなり、蝦夷政策の転換を余儀なくされた。

その翌年、光仁天皇は高齢と病気のため譲位し、桓武天皇が即位した。大和政権と蝦夷勢力が全面対決の状態になるのは、この桓武天皇の治世下である。

軍の動員もけた違いになる。789年の第一次征討で5万、794年の第二次征討では10万、801年の第三次征討でも4万の兵力を投入した。徴兵は坂東にとどまらず東海道の諸国にも及び、兵糧も各地から調達した。

征討の対象は、アテルイ(阿弖流為)が率いる胆沢(いさわ=岩手県南部)の蝦夷である。38年戦争の発端も呰麻呂の反乱もその背後にいたのは胆沢の蝦夷勢力、と大和側は見ていた。

第一次征討が蝦夷勢力の巧みな作戦で惨敗に終わったことはすでに紹介した。北上川を挟んでの戦いで朝廷側は1000人余の溺死者を出し、指揮官まで逃げ出す醜態をさらした。桓武天皇が激怒したのは言うまでもない。

苦い教訓を踏まえて、第二次征討は兵力を倍増し、陣立ても一新した。征東大使に大友弟麻呂、副使には百済王俊哲や坂上田村麻呂ら4人を充て、地方の豪族を指揮官として抜擢した。

ただ、第二次と第三次征討については、これを記録したはずの『日本後紀』が欠落(全40巻のうち10巻のみ現存)しており、詳しいことは分からない。

関連史料によって、第二次征討では朝廷側が勝利したものの胆沢は陥落しなかったこと、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた第三次征討についても、アテルイが500人の蝦夷を連れて投降し、胆沢が陥落したことが分かる程度だ(アテルイは都に連行され、802年に処刑)。38年戦争のもっとも重要な部分は、正史の欠落によって知り得ないのである。

  ◇     ◇

桓武天皇は大規模な軍事遠征で東北の蝦夷勢力を屈服させ、朝廷の支配領域を北へ大きく広げた。裏返せば、東北の蝦夷は再び立ち上がれないほどの打撃を受けた。

しかも、三次にわたる遠征によって多数の蝦夷が囚われの身になり、「俘囚(ふしゅう)」として関東や西日本の各地に移送された。移送は陸奥と出羽を除いた全国64カ国のうちの7割に及ぶ。その総数は万単位と見て、間違いない。

俘囚の一部は、九州の太宰府で防人として生きる道を与えられたりしたが、大多数は集落の外れの狭い土地に収容され、悲惨な境遇に落とされた。当然のことながら、周辺の大和側の住民との軋轢も絶えなかった。

移送先からの逃亡や騒乱も相次いだ。記録に残るだけでも、814年に出雲、848年に上総(かずさ)、875年に下総(しもうさ)と下野(しもつけ)、883年に上総で俘囚の反乱が起きている。下野の反乱では100人以上の俘囚が殺された。

彼らの多くは田を与えられなかった。従って、コメを収める租は課されなかったが、特産品や布を納める調庸の義務はあった。それも容易には納められなかった。

徴収がままならない事情について、798年の太政官符は次のように記している。
「俘囚たちは常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(荒々しい心)を改めようとしません。狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています」(『蝦夷と東北戦争』)

隷属状態に追いやっておきながら、「雲のように浮遊」と責める。俘囚たちの心が静まるわけはなかった。

桓武天皇は「征夷の天皇」であると同時に、「造都の天皇」でもあった。都を平城京から長岡京に移し、さらに平安京に移した。これほどの大事業を二つも遂行したエネルギーのもとは何か。「数奇な運命」が桓武天皇を突き動かしたのかもしれない。

先帝の光仁天皇は、聖武(しょうむ)天皇の娘を皇后に迎えた。皇后には他戸(おさべ)親王という皇太子がいた。ところが、この皇后が「光仁天皇を呪詛した罪」でその地位を追われ、皇太子も廃された。2人は幽閉先で同じ日に謎の死を遂げる(藤原一族による陰謀・暗殺説がある)。

それによって、光仁天皇と百済系渡来人一族の女性との間に生まれた山部親王が急遽、皇太子になり、後に桓武天皇として即位することになるのである。天皇の生母は皇族か貴族の出という慣例がある中では異例の即位だった。

2002年の日韓共催サッカーワールドカップを前に、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言し、話題になったが、それはこのことを指している。

二つの偉業を成し遂げることで「異例の即位」という陰口を吹き飛ばす。そんな思いがあったのかもしれない。

とはいえ、二つの大事業の負担は民衆に重くのしかかった。それは朝廷の屋台骨を揺るがしかねないほどだった。さすがの桓武天皇も第四次の征討はあきらめざるを得なかった。

811年の嵯峨天皇による征夷は、現地の陸奥・出羽の兵力だけで行われ、38年に及ぶ東北の戦火はようやく鎮まったのである。


(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表)


*注 日本書紀では「毘攮利」の部分の1文字目は「田へんに比」、2文字目は「手へん」ではなく「人べん」ですが、このブログでは転換できないため、それぞれこの文字で代用しました。「多牟伽毘」の4文字目も「田へんに比」です。

*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月25日
https://news-hunter.org/?p=11044

≪写真、図の説明&Source≫
(写真) 京都の清水寺にあるアテルイと盟友モレの碑。1994年、平安遷都1200年を記念して有志が建立した
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm
(図) 海道蝦夷と山道蝦夷の居住範囲(『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』から複写
                                            
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『日本書紀?』((坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)
◎『校本日本書紀 一 神代巻』(國學院大學日本文化研究所編、角川書店)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)