長い間、文字は支配者のものだった。彼らは文字を使ってルールを定め、統治した。その統治の正統性を謳(うた)い、伝えるために記録を残した。

当然のことながら、支配する側が残した史書や記録は公平なものではあり得ない。敵は常に悪逆非道であり、「大義は我らにあり」と記す。戦いに敗れた者たちのことは「必要な範囲」で触れるだけだ。ましてや、隷属する者たちのことなど気にも留めない。かすかな断片のようなものが後世に伝えられるに過ぎない。

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部落史の研究者によれば、「エタ」あるいは「穢多」という文字が文献に初めて出てくるのは13世紀、鎌倉時代である。随筆形式の辞典、『塵袋(ちりぶくろ)』という文献(作者不詳)に次のように記されている。

  キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(こと)ハソ
  根本ハ餌取(エトリ)ト云フヘキ欤(か)
  餌ト云フハシヽムラ 鷹等ノ餌ヲ云フナルヘシ 其ヲトル物ト云フ也
  エトリヲハヤクイヒテ イヒユカメテエタト云ヘリ
 (中略)
  天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者(トシャ)也
  イキ物ヲ殺テウルエタ躰(てい)ノ悪人也   
 (片仮名のルビは写本の通り、平仮名のルビは筆者が補足)

現代語訳すれば、「清めの仕事をする者を『エタ』と言うのはなぜか。その語源は『餌取』と言うべきか。餌とは肉のかたまり、タカなどの餌を取る者のことである。『エトリ』を早口で言い、言いゆがめて『エタ』と言った」「インドの言葉で『旃陀羅』と言うのは『屠者』のことで、生き物を殺して売る『エタ』のような悪人のことである」という内容だ。

律令国家の時代から、鷹狩は天皇や貴族のたしなみであり、軍事訓練を兼ねていた。鷹狩を取り仕切り、タカの飼育を担う役職があった。餌取とは、その役人の配下でタカの餌の調達にあたった人々のことを言う。その「エトリ」が転じて「エタ」と呼ばれるようになった、というのが『塵袋』の説明である。

作者も自信がなかったのだろう。「語源は餌取と言うべきか」と留保を付けている。また、「エタ」のところには「非人やカタイ(ハンセン病者)、エタは人と交わらない点で同じようなもの」という説明もある。彼らは蔑まれ、忌避される存在だった。

「エタ」の語源に関する『塵袋』のこれらの記述はさまざまに解釈されてきたが、重要なのはすでに鎌倉時代には「エタ」という言葉が使われていたという点だ。同じ頃に作られた『天狗草紙』という絵巻物には、「穢多童(えたわらわ)」という文字が記され、子どもが鳥を捕まえ、さばいている絵がある。

鎌倉時代にはすでに「エタ」という言葉が使われ、「穢多」という漢字が当てられていたことは疑いようがない。そして、その言葉の由来については当時、辞典を編む知識人ですら「餌取から転じたものか」といった程度のことしか記すことができなくなっていた。

冒頭に記したように、支配層にとって「社会の底辺で生きる人々」のことなど取るに足らない事柄である。「エタ」という言葉が書き留められるまでにはかなりの時が流れ、その由来すらよく分からなくなっていた、と考えるのが自然だろう。

文字には「いったん記されると独り歩きを始める」という性質がある。室町時代の辞典『壒嚢抄(あいのうしょう)』や江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも「エタ」についての説明があり、どちらも「エタの語源は餌取」と記す。ともに『塵袋』を参照したと見られるが、『塵袋』にあった「語源は餌取か」の「か」という留保はなくなり、両方とも断定している。被差別部落の問題を扱う本には、これらの文献を引用して「エタは餌取の転訛」と説明しているものが少なくない。「独り歩き」の好例と言える。

文字や記録を扱う者は、素直すぎてはいけない。「エタ」や「穢多」の語源に関する文献は、一字一句を注意深く、時には疑い深く読む必要があることを教えている。「エタ」の語源については諸説あるが、今となっては「よく分からない」と言うしかない。

   ◇    ◇

鎌倉時代や室町時代、差別にさらされた人々は穢多、非人のほか河原者、皮多(かわた)、宿(しゅく)の者、坂の者、細工、庭者、鉢たたきなどさまざまな名で呼ばれた。歌舞伎や人形浄瑠璃の役者も「河原者」として扱われ、賤視された。

戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行が相次いだ時代である。人々は疲弊し、社会は揺れ動いた。混乱の中で賤民からのし上がった人々も少なくなかっただろう。とりわけ、室町幕府が形骸化して戦国の世になると、下剋上という言葉に象徴されるように社会階層は激しく流動化した。

このプロセスをどのように見るかは「被差別部落の起源をどう考えるか」に直結する重要な論点となる。「大混乱の中でも多くの賤民は這い上がれなかった」と見るか。「社会階層はバラバラになり、リセットされた」と見るか。

前者の立場なら「今日の被差別部落の起源は江戸時代から中世、さらには古代にまで遡る可能性がある」となる。後者の立場からは「古代や中世の賤民とは断絶がある。豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、支配する側は新たな身分差別制度をつくった」と説くことになる。

どちらの見解がより合理的で説得力があるかの判断はひとまず置き、話を先に進める。

16世紀末に戦国の世を治め、天下を統一したのは豊臣秀吉である。豊臣政権は田畑の検地を実施して年貢の徴収を確実なものにし、農民一揆を抑えるために刀狩をした。部落差別との関係で重要なのは、武家の奉公人が町人や百姓になること及び百姓が商人や職人になることを禁じたことだ。身分が固定され、町人や百姓の下に位置づけられた被差別民は這い上がることができなくなった。

江戸時代になると、身分の固定はさらに強化され、宗門人別改帳によって厳しく管理されるようになる。教科書では江戸期の被差別民は「穢多・非人」と表現されるが、当時の文献を見ると、「穢多」の呼称は東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」や「革多」などと記されることが多い。「非人」もさまざまな名で呼ばれ、記録された。

太平の世が長く続くなるにつれて、差別はきつくなる。部落の人々は通婚の禁止に加え、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」(1683年、長府藩)、「武士や百姓、町人と出会った時は道の片側に寄れ」(紀州藩)といった厳しい規制を受けた。

極め付きは、伊予(愛媛)の大洲藩の触書(1798年)である。「近頃、穢多の分限不相応な振る舞いが目立つ」として、彼らに「五寸四方の毛皮を身に着けて歩くこと。家の戸口にも毛皮を下げること」を命じた。

これらの触書は、商品経済が広まるにつれて被差別民の中にも財を蓄え、裕福な暮らしをする者が増えていったことを示している。江戸幕府の支配は揺らぎ始め、やがて幕末から明治維新へ激動の時代を迎える。

欧米先進国に追いつくため、明治新政府は富国強兵策を推し進め、明治4年(1871年)に穢多・非人などの賤称を廃止する太政官布告(いわゆる解放令)を出した。これによって非人身分の人たちの多くは平民に溶け込んでいったが、穢多と呼ばれた人たちは取り残された。

大正11年(1922年)に全国水平社を結成し、部落差別の克服をめざして立ち上がった人々の多くは「旧穢多」の人たちであり、現在まで差別にさらされている人たちの多くもその末裔である。

   ◇     ◇

では、穢多のルーツは何か。江戸時代から明治にかけて、さまざまな解釈がなされてきた。

江戸後期に百科事典『守貞謾稿』を著した喜田川守貞は「高麗(朝鮮半島)から渡来し、皮なめしを業とした人たちの末裔」と記した(渡来人・帰化人説)。儒学者の帆足万里は『東潜夫論』で「穢多は昔、奥羽に住んでいた夷人の末裔である。田村麻呂が奥羽を平定し、蝦夷をことごとく日本人にした」と説いた(蝦夷起源説)。

ほかにも、仏教の教えが広まり、殺生を忌む風潮が広がる中で屠者がけがれた者として差別されるようになった(宗教起源説)、殺生を行い、血のけがれに関わる仕事に従事する者が差別されるようになった(職業起源説)、と唱える学者もいた。

実にさまざまな起源説があったが、これらを「妄説」と一蹴したのが京都帝大の歴史学の教授、喜田貞吉である。喜田は1919年(大正8年)に月刊『民族と歴史』の特殊部落研究号を出版し、次のように主張した(注1)。

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「素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賎民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が日本民族に於いては、決してそんな事実はありません」

「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿(注2)も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」

「世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」

「我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがって、もと違った民族であっても、うまく融和同化して日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賎となる。今日、特殊部落と認められているものは、徳川時代のいわゆる穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかも、その穢多なるものは、もと雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賎民というものではありません」

「同じく日本民族たる同胞が互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賎民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう」

なにせ、京都帝大の歴史学者のご託宣である。その影響力は絶大だった。この特殊部落研究号の出版によって、「部落差別は江戸時代につくられた」という近世政治起源説の原型のようなものが打ち立てられた。

喜田はこの学説を部落差別の解消を願って唱えた。その善意は疑いようもない。学説の基盤にあったのは皇国史観である。「国民は皆、天皇の赤子である。同胞同士で差別し、圧迫を加えてどうする」と訴えたかったのだろう。

そして、それはこの研究号出版の3年後に旗揚げした全国水平社に集う人たちにとっても好ましいものだった。「同じ日本人なのに、いわれなき差別に苦しめられてきた。今こそ立ち上がる時だ」と奮い立ったのである。

水平社の運動は戦時中、翼賛体制にのみ込まれ、消えていく。敗戦後の1946年、部落解放全国委員会として再出発し、1955年に現在の部落解放同盟に改称した。

戦後、部落解放の運動を理論面で支えたのはマルクス主義を信奉する学者たちである。彼らは、喜田貞吉が打ち出した学説をより精緻に練り上げ、近世政治起源説として広め、定説にしていった。

喜田は皇国史観に立って「国民はみな天皇の赤子」と訴えた。戦後のマルクス主義の学者たちは、唯物史観の立場から「労働者も農民も部落民も、みな被搾取階級である。団結して革命を起こす主体となるべきだ」と唱えた。

拠(よ)って立つイデオロギーはまるで異なるが、どちらにとっても「部落差別をつくり出したのは豊臣政権であり、江戸幕府である」という説明は都合が良かった。「差別の根は浅い。権力者が政治的につくり出したものなら、政治的に解決しようではないか」と訴えることができるからだ。

喜田もマルクス主義の学者たちも「歴史をイデオロギーに基づいて解釈する」という点で共通している。事実の持つ厳粛さの前に謙虚になり、異なる学説への敬意を忘れず切磋琢磨していく、という姿勢が欠落していた。

だが、イデオロギーに基づく学説は事実によって掘り崩され、葬り去られていく。中世の史料の発掘が進み、後に続く研究者によって「鎌倉時代や室町時代の賤民と江戸時代の穢多・非人との強いつながり」が次々に明らかにされていった。

そして、研究はさらに「では、中世の賤民と古代の賤民とはどのような関係にあるのか」という課題の解明へと向かっている。そこでは、「天皇制と被差別の関係」に目を向けないわけにはいかない。部落史の研究は「新しい夜明け」を迎え、曇りのない目で歴史を見つめる時代を迎えている。


(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)


*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月28日

≪写真説明≫
◎「天狗草紙」に描かれた穢多童(えたわらわ)=『続日本絵巻大成19』(中央公論社)から複写
◎喜田貞吉(東北大学関係写真データベースから)

≪参考文献≫
◎『塵袋1』(大西晴隆・木村紀子校注、平凡社東洋文庫)
◎『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 続日本絵巻物大成19』(中央公論社)
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落史用語辞典』(小林茂ら編集、柏書房)
◎『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明・黒川みどり、解放出版社)
◎『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』(喜田川守貞、岩波文庫)
◎『近世後期の部落差別政策(上)』(井ケ田良治、同志社法学1969・1・31)
◎『帆足万里』(帆足図南次、吉川弘文館)
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)=『民族と歴史』特殊部落研究号の喜田論文をまとめて復刻
◎『日本歴史の中の被差別民』(奈良人権・部落解放研究所編、新人物往来社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)


*注1 喜田貞吉は『民族と歴史』特殊部落研究号を出版した1919年の時点では京都帝大専任講師。翌1920年に教授に昇格した。
*注2 喜田は「坂上田村麻呂」ではなく「坂上田村麿」と記している。