木原スキャンダルの核心は何か
日本の新聞記者は入社すると警察担当、いわゆる「サツ回り」からキャリアをスタートさせることが多い。私もそうだった。最初の数日は「とにかく、刑事部屋にずっと座っていろ。デカの名前と顔を覚えろ。自分の名前も覚えてもらえ」と命じられた。
大学で多少、法律を勉強していてもほとんど役に立たない。なにせ、刑事たちは生の事件を扱っている。無愛想で取り付く島もない。刑事たちが何をしているのか、まるで分からないまま、数カ月が過ぎた。
ある日、読売新聞に抜かれた。翌日は毎日新聞に抜かれた。地元の静岡新聞も特ダネを放つ。他社の記者がどうやってスクープをものにするのか、まるで分からなかった。朝日新聞の当時の上司から、「記者に向いてないんじゃないか?(会社を)辞めたら」と叱責された。
悔しくて涙が出そうになったが、泣いているわけにもいかない。刑事たちがよく行く赤提灯の飲み屋を回り、彼らの自宅を夜回りしてネタ集めを続けた。そのうち、憐れんだ刑事の一人が手がけている事件についてヒントをくれた。それを手がかりにして、やっと小さな「特ダネ」を書き、一矢報いることができた。
他社に抜かれるたびに、先輩記者にこう諭(さと)された。「クヨクヨすんな!きちんと追いかけろ。読者は一つの新聞しかとってないんだ。お前が書かなければ、知るすべがないだろ」。その通りだと思った。どこに抜かれたのか。なぜ、抜かれたのか。読者にとって、そんなことはどうでもいいことだ。読者に届けるべきニュースかどうか。それがすべてだと知った。
週刊文春はこの1カ月、木原誠二・官房副長官の妻が2006年に当時夫だった男性の変死に関与した疑いがあり、2018年に警視庁が殺人事件として再捜査を進めたが、木原氏の圧力で事件捜査が潰された疑いがある、と連続して報じた。
その報道内容は詳細かつ具体的だ。証言や証拠は報道内容を裏付けるに十分で、調査報道のお手本のような報道だ。変死した元夫の遺族は警察に再捜査を求め、7月20日に記者会見を開いた。ついには、2018年当時、警視庁捜査一課の殺人担当の刑事だった佐藤誠・元警部補(昨年退職)が実名で捜査の実情と捜査終了に至った経緯を文春の記者に赤裸々に語り、記者会見まで開いた(7月28日)。
佐藤元警部補が告発に至ったきっかけは、警察のトップである露木康浩・警察庁長官が7月13日の記者会見で「警視庁において捜査等の結果、証拠上、事件性が認められない旨を明らかにしている」と述べたことだ。
佐藤氏ら現場の刑事たちは未解決になっていた事件を掘り起こし、真相を解明するために力を尽くした。なのに、警察のトップが「そもそも事件ではなかった」と全否定したのだ。現場にとっては許しがたいことである。義憤に駆られての証言、と言える。警察庁の長官と現場の刑事のどちらが本当のことを語っているのか。少しでも事件を担当したことのある新聞記者なら「現場の刑事にはウソを言う理由がない」と、確信をもって言えるはずだ。
では、全国紙やNHKを含むテレビ各局が週刊文春の報道を黙殺しているのはなぜか。権力にピタリと寄り添うのを旨とする読売新聞が静観するのはよく分かる。ある意味、一貫している。だが、常日頃、権力の監視役を自任する朝日新聞や毎日新聞はなぜ、きちんと報じようとしないのか。
「いや、報じている」と言うのかもしれない。確かに、両紙は「松野博一官房長官は『週刊文春の報道は事実無根』と木原氏から報告を受けたと語った」などとベタ記事で報じた(7月28日、29日)。こういうのを「アリバイ記事」という。「黙殺なんかしてないよ」と取り繕うための記事だからだ。
全国紙の事件記者たちは「警察が事件ではない、と言っているものを報道するわけにはいかない」と言いたいのかもしれない。「ふざけるな」と言いたい。何が事件で、何を報じるかは報道機関が自ら判断すべきことだ。こういう問題で権力に寄りかかって、どうするのか。
「警察が事件として扱わないものは報じない」などと言っていたら、1988年のリクルート事件の報道はあり得なかった。この事件は、リクルート社が子会社の未公開株を賄賂として政治家や官僚らにバラまいた汚職事件だが、神奈川県警は上からの圧力に負けて捜査を投げ出した。
それを朝日新聞横浜支局の記者たちが掘り起こし、最後には当時の竹下内閣を総辞職に追い込んだ。「事件かどうか」の判断を権力側にゆだねていたら、決して明るみに出ることはなかった。その貴重な教訓を忘れたのか。
リクルート事件で問われたのは「贈収賄」だった。つまり、金品のやり取りである。重い罪であることに変わりはないが、今回、週刊文春が追及しているのは「人の命を奪う殺人」というさらに重大な罪である。こういう犯罪についてまで、政治家が権力をふりかざし、捜査を潰すのを許していたら、社会はどうなるのか。「法の支配」どころではない。「人としての道義」がすたれてしまう。
どんな社会でも、権力を握る者たちは自分たちに都合がいいように事を運ぼうとする。だが、そこにもおのずから「節度」というものがあるはずだ。それすら見失ったら、社会は漂流し、あらぬ方向に走り出す。「節度」まで崩れようとする時、それを押しとどめるものは「心ある者たちの覚悟」しかない。
今回の週刊文春の報道は、今の日本社会で「心ある者たち」がどこにいるか、それを炙り出す結果になった。全国紙やテレビ各局はてんでダメだが、東京新聞や河北新報などのブロック紙は立ち上がりつつある。河北新報は7月28日付で「文春報道 木原副長官が苦境」と報じ、東京新聞は8月2日付の「こちら特報部」で、木原副長官が報道陣との会見を避け、外遊もやめて「公務に支障」が生じている、と伝えた。
殺人事件の再捜査の状況と捜査終了に至った経緯を証言した佐藤元警部補に対して、「地方公務員法に定められた守秘義務に違反しているのではないか」と追及する向きがある。確かに、条文に照らせば、守秘義務に触れる可能性はある。
だが、「人としての道に反することをしている人たち」がいる時に「おかしい」と声をあげることが法律違反に問われるとしたら、それはどんな社会なのか。私たちはそんな社会になることを望んでいるのか。断じて否、である。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年8月3日
http://www.johoyatai.com/6160
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官(時事通信のサイトから)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023073100648&g=pol
≪参考記事≫
◎『週刊文春』7月13日号、7月20日号、7月27日号、8月3日号、8月10日号
◎朝日新聞7月25日付、7月28日付
◎毎日新聞7月29日付、読売新聞7月29日付
◎河北新報7月28日付
◎東京新聞8月2日付
*東京新聞以外は、山形県で発行されている新聞の日付
大学で多少、法律を勉強していてもほとんど役に立たない。なにせ、刑事たちは生の事件を扱っている。無愛想で取り付く島もない。刑事たちが何をしているのか、まるで分からないまま、数カ月が過ぎた。
ある日、読売新聞に抜かれた。翌日は毎日新聞に抜かれた。地元の静岡新聞も特ダネを放つ。他社の記者がどうやってスクープをものにするのか、まるで分からなかった。朝日新聞の当時の上司から、「記者に向いてないんじゃないか?(会社を)辞めたら」と叱責された。
悔しくて涙が出そうになったが、泣いているわけにもいかない。刑事たちがよく行く赤提灯の飲み屋を回り、彼らの自宅を夜回りしてネタ集めを続けた。そのうち、憐れんだ刑事の一人が手がけている事件についてヒントをくれた。それを手がかりにして、やっと小さな「特ダネ」を書き、一矢報いることができた。
他社に抜かれるたびに、先輩記者にこう諭(さと)された。「クヨクヨすんな!きちんと追いかけろ。読者は一つの新聞しかとってないんだ。お前が書かなければ、知るすべがないだろ」。その通りだと思った。どこに抜かれたのか。なぜ、抜かれたのか。読者にとって、そんなことはどうでもいいことだ。読者に届けるべきニュースかどうか。それがすべてだと知った。
週刊文春はこの1カ月、木原誠二・官房副長官の妻が2006年に当時夫だった男性の変死に関与した疑いがあり、2018年に警視庁が殺人事件として再捜査を進めたが、木原氏の圧力で事件捜査が潰された疑いがある、と連続して報じた。
その報道内容は詳細かつ具体的だ。証言や証拠は報道内容を裏付けるに十分で、調査報道のお手本のような報道だ。変死した元夫の遺族は警察に再捜査を求め、7月20日に記者会見を開いた。ついには、2018年当時、警視庁捜査一課の殺人担当の刑事だった佐藤誠・元警部補(昨年退職)が実名で捜査の実情と捜査終了に至った経緯を文春の記者に赤裸々に語り、記者会見まで開いた(7月28日)。
佐藤元警部補が告発に至ったきっかけは、警察のトップである露木康浩・警察庁長官が7月13日の記者会見で「警視庁において捜査等の結果、証拠上、事件性が認められない旨を明らかにしている」と述べたことだ。
佐藤氏ら現場の刑事たちは未解決になっていた事件を掘り起こし、真相を解明するために力を尽くした。なのに、警察のトップが「そもそも事件ではなかった」と全否定したのだ。現場にとっては許しがたいことである。義憤に駆られての証言、と言える。警察庁の長官と現場の刑事のどちらが本当のことを語っているのか。少しでも事件を担当したことのある新聞記者なら「現場の刑事にはウソを言う理由がない」と、確信をもって言えるはずだ。
では、全国紙やNHKを含むテレビ各局が週刊文春の報道を黙殺しているのはなぜか。権力にピタリと寄り添うのを旨とする読売新聞が静観するのはよく分かる。ある意味、一貫している。だが、常日頃、権力の監視役を自任する朝日新聞や毎日新聞はなぜ、きちんと報じようとしないのか。
「いや、報じている」と言うのかもしれない。確かに、両紙は「松野博一官房長官は『週刊文春の報道は事実無根』と木原氏から報告を受けたと語った」などとベタ記事で報じた(7月28日、29日)。こういうのを「アリバイ記事」という。「黙殺なんかしてないよ」と取り繕うための記事だからだ。
全国紙の事件記者たちは「警察が事件ではない、と言っているものを報道するわけにはいかない」と言いたいのかもしれない。「ふざけるな」と言いたい。何が事件で、何を報じるかは報道機関が自ら判断すべきことだ。こういう問題で権力に寄りかかって、どうするのか。
「警察が事件として扱わないものは報じない」などと言っていたら、1988年のリクルート事件の報道はあり得なかった。この事件は、リクルート社が子会社の未公開株を賄賂として政治家や官僚らにバラまいた汚職事件だが、神奈川県警は上からの圧力に負けて捜査を投げ出した。
それを朝日新聞横浜支局の記者たちが掘り起こし、最後には当時の竹下内閣を総辞職に追い込んだ。「事件かどうか」の判断を権力側にゆだねていたら、決して明るみに出ることはなかった。その貴重な教訓を忘れたのか。
リクルート事件で問われたのは「贈収賄」だった。つまり、金品のやり取りである。重い罪であることに変わりはないが、今回、週刊文春が追及しているのは「人の命を奪う殺人」というさらに重大な罪である。こういう犯罪についてまで、政治家が権力をふりかざし、捜査を潰すのを許していたら、社会はどうなるのか。「法の支配」どころではない。「人としての道義」がすたれてしまう。
どんな社会でも、権力を握る者たちは自分たちに都合がいいように事を運ぼうとする。だが、そこにもおのずから「節度」というものがあるはずだ。それすら見失ったら、社会は漂流し、あらぬ方向に走り出す。「節度」まで崩れようとする時、それを押しとどめるものは「心ある者たちの覚悟」しかない。
今回の週刊文春の報道は、今の日本社会で「心ある者たち」がどこにいるか、それを炙り出す結果になった。全国紙やテレビ各局はてんでダメだが、東京新聞や河北新報などのブロック紙は立ち上がりつつある。河北新報は7月28日付で「文春報道 木原副長官が苦境」と報じ、東京新聞は8月2日付の「こちら特報部」で、木原副長官が報道陣との会見を避け、外遊もやめて「公務に支障」が生じている、と伝えた。
殺人事件の再捜査の状況と捜査終了に至った経緯を証言した佐藤元警部補に対して、「地方公務員法に定められた守秘義務に違反しているのではないか」と追及する向きがある。確かに、条文に照らせば、守秘義務に触れる可能性はある。
だが、「人としての道に反することをしている人たち」がいる時に「おかしい」と声をあげることが法律違反に問われるとしたら、それはどんな社会なのか。私たちはそんな社会になることを望んでいるのか。断じて否、である。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年8月3日
http://www.johoyatai.com/6160
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官(時事通信のサイトから)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023073100648&g=pol
≪参考記事≫
◎『週刊文春』7月13日号、7月20日号、7月27日号、8月3日号、8月10日号
◎朝日新聞7月25日付、7月28日付
◎毎日新聞7月29日付、読売新聞7月29日付
◎河北新報7月28日付
◎東京新聞8月2日付
*東京新聞以外は、山形県で発行されている新聞の日付