心の底に沈み込み、癒やされることのない深い悲しみを「哀しみ」と呼ぶならば、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の綱領からにじみ出てくるものは「哀しみ」ではないか。

AfDの綱領は次のような言葉で始まる。
「ドイツのために起(た)ち上がる勇気。私たちは臣民ではなく、自由な市民である」
続いて、綱領は次の3つの文章を掲げる。
「私たちはリベラルであり、かつ保守主義者である」
「私たちはわが国の自由な市民である」
「私たちは民主主義の堅固な支持者である」
そして、長い間、募る思いを胸に抱え込み、口に出すことをためらってきた人々に「今こそ起ち上がり、行動する時だ」と呼びかける。「正義と法の支配に反すること、立憲国家を破壊するようなことをこれ以上、見過ごすわけにはいかない」「健全な経済諸原則に違背する政治家たちの無責任な行動を見過ごすわけにはいかない」と記し、「だからこそ、私たちは真の政治的選択肢を提示する」と訴えている。
「立憲国家の破壊」「健全な経済諸原則への違背」とは、何を意味するのか。これは、この政党の生い立ちに深く関わる表現である。「ドイツのための選択肢(AfD)」は2013年、ギリシャ危機のさなかに結成された。でたらめな財政運営を重ね、「国家破綻」の危機に瀕したギリシャを救済するため、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が大規模な金融支援に乗り出した時期である。
ギリシャは、労働人口の4人に1人が公務員という「役人天国」だった。年金の支給は55歳から。しかも、年金は現役時代の給与の9割を支給するという大盤振る舞い。これでは国家として立ち行かなくなるのは当たり前だ。
そのギリシャに、EUとIMFは2010年の第一次金融支援で1,100億ユーロ、2012年の第二次金融支援では1,300億ユーロという巨費を投じることを決めた。緊縮財政への転換と経済改革の断行を条件にしたうえでの支援とはいえ、その負担はEU加盟国、とりわけその最大の資金拠出国であるドイツに重くのしかかってくる。
ドイツは、欧州連合(EU)の前身の欧州共同体(EC)の時代から、巨額の資金を拠出してその運営を支えてきた。少し乱暴に言えば、自動車や鉄鋼製品の輸出でドイツが稼いだ金でフランスなどに潤沢な農業補助金を回し、それらの国々を支えてきたという側面がある。誰も口に出しては言わないが、それは第2次大戦を引き起こしたドイツによる「隠れた戦後賠償」という性格も帯びていた。戦争に敗れ、ホロコーストで断罪されたドイツには、そうした配分に抗弁できるはずもなかった。
しかも、加盟国による拠出金の負担と補助金配分という受益の割合をどうするかは、EU本部のあるブリュッセルの官僚たちと各国の政治指導者による協議で決められる。主権者である国民には異議を差し挟む機会すらない(ドイツには国民投票の制度がない)。そうした不満が鬱積しているところに、「健全な経済諸原則」を踏み外したギリシャを救済する決定が下されたのだ。

2013年にAfDを立ち上げた時の創設者の1人は、ハンブルク大学のベルント・ルッケ教授(経済学)である。もともと共通通貨ユーロの導入について「歴史的な過ちである」と批判しており、ギリシャ救済についても「とんでもない災い」と非難した。高級紙フランクフルター・アルゲマイネの元編集者も創設に加わった。
ドイツにとって、欧州統合は国是とみなされてきた。その国是に「しかるべき見識を持つ人たち」が初めて、公然と反旗を翻した。「我慢に我慢を重ねてきたが、これ以上、負担ばかり押し付けられるのはごめんだ」という声が噴き出したのである。
そうした憤りを背に船出したAfDは、綱領にも「欧州連合(EU)を中央集権的な連邦国家にする考えに反対する。EUは各国をゆるやかに結びつける経済共同体に戻すべきだ。ヨーロッパ合衆国という構想も拒絶する」と記した。そして、根本的な改革がなされないならば、「ドイツのEUからの離脱、もしくはEUの解体を求める」と宣言した。それは、戦後のドイツと欧州の歩みに真っ向から挑戦するものであり、政治と経済の基盤を根底から揺さぶるものだった。
欧州統合の推進役を果たしてきたドイツが「統合推進か離脱か」で大揺れになるような事態になれば、その影響はドイツだけにとどまらず欧州全体、さらには世界経済にも及ぶ。とてつもない混乱が広がる恐れがある。
ドイツでは、主要政党のキリスト教民主同盟(CDU)や社会民主党(SPD)、緑の党なども欧州統合を進めることでは一致している。このため、たとえAfDが総選挙で躍進し、第一党になったとしても、単独で過半数の議席を確保しない限り、政権を担う可能性はない。EUからのドイツの離脱がすぐに現実的な政治課題になる可能性も極めて小さい。
とはいえ、ドイツの各種世論調査によれば、来年2月に繰り上げて実施される総選挙で、AfDはメルケル元首相の出身母体であるCDUに次いで第2党になる勢いを見せている。ショルツ首相が率いるSPDをしのぐことは間違いない情勢だ。ドイツのEU離脱というテーマは、いまや「一部の過激派の極端な主張」と言って済ませるわけにはいかない。どの政党も真剣に立ち向かわざるを得なくなるだろう。
欧州連合(EU)の本部があるブリュッセルでは、欧州委員会や閣僚理事会、欧州議会のスタッフら3万2000人の職員が働いている。加盟27カ国で使われる公用語は24。主要な会議の話し合いと議事録の作成には、それぞれ大勢の通訳が必要になる。EUの運営費は年々、膨らむ。AfDはそこにも鋭い視線を向け、「これらのシステムは非効率で市民の暮らしからかけ離れているにもかかわらず、肥大化している」と批判してやまない。
AfDの勢力拡大のもう一つの大きな要因は移民・難民政策である。AfDは、2015年の難民危機の際のメルケル首相(当時)の決断(困窮し、庇護を求める人はすべて受け入れるとの政策転換)を「完全な失敗だった」と弾劾する。法的な枠組みもないまま、庇護を求める人も出稼ぎ目的の人も一緒くたにして受け入れてしまった、という。
その結果、同年末にケルンで集団性暴行事件が起き、ハンブルクやシュツットガルト、ドルトムントなど各地で同じような事件が続発した。移民と難民による犯罪の多発はドイツ社会に深刻な影を落としており、「政策の大転換が必要だ」というAfDの訴えは、ますます説得力を増してきている。
ただ、どのように転換するかをめぐってはAfD内部でも意見が割れ、創設者の1人のベルント・ルッケら穏健派は離党した。穏健派が離れた後に改訂された現在の綱領は「信仰の自由は無条件で支持する」としながら、「ただし、私たちの法秩序やユダヤ教・キリスト教的な文化基盤に反するイスラム教の礼拝や習慣には断固反対する」という。つまり、アザーン(礼拝の呼びかけ)や公共の場でのヒジャブやニカブの着用は認めない。
綱領には「イスラム教はドイツに属するものではない。イスラム教徒の数が増え、広がることはわが国にとって危険なことだと考える」という、より直接的な表現もある。それらは、より過激な団体「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」の唱えるスローガンと重なる部分があり、主要政党が警戒の眼差しを向ける理由になっている。
AfDの綱領でもう一つ注目されるのは「ドイツに国民投票の制度を設けよ」と主張している点だ。ナチス時代の反省から、「扇動的な政治家が民衆をあおり立てて国家の根幹を変えてしまう恐れがある」として、ドイツは国民投票の制度を設けなかった。このため、ユーロの導入にしてもギリシャ救済にしても「一握りの政治エリートたちによって決められてしまった」と、AfDは非難する。
綱領は「ドイツは政治的な岐路に立っている」とし、「憲法の改正や重要な条約の発効については国民の投票による同意なしに行ってはならない」と唱える。とりわけ、「財政支出をともなう決定については国民投票にかけよ」と言う。ユーロ導入やギリシャ救済が国民の頭越しに決められたことを非難するもので、これも有権者の胸に響く主張だろう。
ドイツのEU離脱は、英国の離脱とは比べようもないほどのインパクトを持つ。「イスラム教徒とどのように向き合うか」という問題も、欧州全体に突き付けられた課題である。そうした重要な政治課題について、これほどドラスティックな転換を唱えたドイツの政党は今までになかった。

現在、「ドイツのための選択肢(AfD)」を率いるのはティノ・クルパラ(49)、アリス・ワイデル(45)という2人の共同党首である。クルパラ氏は旧東ドイツ生まれで、塗装工から建設会社のオーナーになった実業家。ワイデル氏は西部ノルトライン・ヴェストファーレン州出身。バイロイト大学で経済学を専攻し、ゴールドマンサックスや中国銀行に勤めた。出身地、経歴とも対照的で、男女の共同党首というのも現代的と言うべきか。
ドイツの有権者は来年2月の総選挙で、2人が率いるAfDにどのような審判を下すのか。選挙結果は、ドイツだけでなく欧州全体の未来を大きく左右するものになるだろう。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2024年11月28日 「ドイツのEU離脱を求める政党の登場(3)」
≪写真≫
◎「ドイツのための選択肢(AfD)」の集会(オンライン・マガジンPolitical violence at a glance から)
◎AfDの創設者、ベルント・ルッケ教授(英語版ウィキペディアから)
◎AfDのティノ・クルパラ(左)、アリス・ワイデル(右)共同党首(独紙ベルリナー・モルゲンポストのサイトから)
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「ドイツの『封印された哀しみ』が噴き出している(2)」
◎「ドイツのための選択肢(AfD)」の綱領(英訳版)
◎「ギリシャ問題とユーロ圏の構造強化(内閣府の公式サイトから)
◎「変調するドイツ政治」(板橋拓己、国際問題No.660 2017年4月)
◎英語版ウィキペディア「ベルント・ルッケ Bernd Lucke」
◎「共通農業政策の財政と加盟国の農家経済」(石井圭一・東北大学大学院准教授)
◎「欧州理事会、閣僚会議、欧州委員会」(宮畑建志)
◎『超約 ドイツの歴史』(ジェームズ・ホーズ、東京書籍)

AfDの綱領は次のような言葉で始まる。
「ドイツのために起(た)ち上がる勇気。私たちは臣民ではなく、自由な市民である」
続いて、綱領は次の3つの文章を掲げる。
「私たちはリベラルであり、かつ保守主義者である」
「私たちはわが国の自由な市民である」
「私たちは民主主義の堅固な支持者である」
そして、長い間、募る思いを胸に抱え込み、口に出すことをためらってきた人々に「今こそ起ち上がり、行動する時だ」と呼びかける。「正義と法の支配に反すること、立憲国家を破壊するようなことをこれ以上、見過ごすわけにはいかない」「健全な経済諸原則に違背する政治家たちの無責任な行動を見過ごすわけにはいかない」と記し、「だからこそ、私たちは真の政治的選択肢を提示する」と訴えている。
「立憲国家の破壊」「健全な経済諸原則への違背」とは、何を意味するのか。これは、この政党の生い立ちに深く関わる表現である。「ドイツのための選択肢(AfD)」は2013年、ギリシャ危機のさなかに結成された。でたらめな財政運営を重ね、「国家破綻」の危機に瀕したギリシャを救済するため、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が大規模な金融支援に乗り出した時期である。
ギリシャは、労働人口の4人に1人が公務員という「役人天国」だった。年金の支給は55歳から。しかも、年金は現役時代の給与の9割を支給するという大盤振る舞い。これでは国家として立ち行かなくなるのは当たり前だ。
そのギリシャに、EUとIMFは2010年の第一次金融支援で1,100億ユーロ、2012年の第二次金融支援では1,300億ユーロという巨費を投じることを決めた。緊縮財政への転換と経済改革の断行を条件にしたうえでの支援とはいえ、その負担はEU加盟国、とりわけその最大の資金拠出国であるドイツに重くのしかかってくる。
ドイツは、欧州連合(EU)の前身の欧州共同体(EC)の時代から、巨額の資金を拠出してその運営を支えてきた。少し乱暴に言えば、自動車や鉄鋼製品の輸出でドイツが稼いだ金でフランスなどに潤沢な農業補助金を回し、それらの国々を支えてきたという側面がある。誰も口に出しては言わないが、それは第2次大戦を引き起こしたドイツによる「隠れた戦後賠償」という性格も帯びていた。戦争に敗れ、ホロコーストで断罪されたドイツには、そうした配分に抗弁できるはずもなかった。
しかも、加盟国による拠出金の負担と補助金配分という受益の割合をどうするかは、EU本部のあるブリュッセルの官僚たちと各国の政治指導者による協議で決められる。主権者である国民には異議を差し挟む機会すらない(ドイツには国民投票の制度がない)。そうした不満が鬱積しているところに、「健全な経済諸原則」を踏み外したギリシャを救済する決定が下されたのだ。

2013年にAfDを立ち上げた時の創設者の1人は、ハンブルク大学のベルント・ルッケ教授(経済学)である。もともと共通通貨ユーロの導入について「歴史的な過ちである」と批判しており、ギリシャ救済についても「とんでもない災い」と非難した。高級紙フランクフルター・アルゲマイネの元編集者も創設に加わった。
ドイツにとって、欧州統合は国是とみなされてきた。その国是に「しかるべき見識を持つ人たち」が初めて、公然と反旗を翻した。「我慢に我慢を重ねてきたが、これ以上、負担ばかり押し付けられるのはごめんだ」という声が噴き出したのである。
そうした憤りを背に船出したAfDは、綱領にも「欧州連合(EU)を中央集権的な連邦国家にする考えに反対する。EUは各国をゆるやかに結びつける経済共同体に戻すべきだ。ヨーロッパ合衆国という構想も拒絶する」と記した。そして、根本的な改革がなされないならば、「ドイツのEUからの離脱、もしくはEUの解体を求める」と宣言した。それは、戦後のドイツと欧州の歩みに真っ向から挑戦するものであり、政治と経済の基盤を根底から揺さぶるものだった。
欧州統合の推進役を果たしてきたドイツが「統合推進か離脱か」で大揺れになるような事態になれば、その影響はドイツだけにとどまらず欧州全体、さらには世界経済にも及ぶ。とてつもない混乱が広がる恐れがある。
ドイツでは、主要政党のキリスト教民主同盟(CDU)や社会民主党(SPD)、緑の党なども欧州統合を進めることでは一致している。このため、たとえAfDが総選挙で躍進し、第一党になったとしても、単独で過半数の議席を確保しない限り、政権を担う可能性はない。EUからのドイツの離脱がすぐに現実的な政治課題になる可能性も極めて小さい。
とはいえ、ドイツの各種世論調査によれば、来年2月に繰り上げて実施される総選挙で、AfDはメルケル元首相の出身母体であるCDUに次いで第2党になる勢いを見せている。ショルツ首相が率いるSPDをしのぐことは間違いない情勢だ。ドイツのEU離脱というテーマは、いまや「一部の過激派の極端な主張」と言って済ませるわけにはいかない。どの政党も真剣に立ち向かわざるを得なくなるだろう。
欧州連合(EU)の本部があるブリュッセルでは、欧州委員会や閣僚理事会、欧州議会のスタッフら3万2000人の職員が働いている。加盟27カ国で使われる公用語は24。主要な会議の話し合いと議事録の作成には、それぞれ大勢の通訳が必要になる。EUの運営費は年々、膨らむ。AfDはそこにも鋭い視線を向け、「これらのシステムは非効率で市民の暮らしからかけ離れているにもかかわらず、肥大化している」と批判してやまない。
AfDの勢力拡大のもう一つの大きな要因は移民・難民政策である。AfDは、2015年の難民危機の際のメルケル首相(当時)の決断(困窮し、庇護を求める人はすべて受け入れるとの政策転換)を「完全な失敗だった」と弾劾する。法的な枠組みもないまま、庇護を求める人も出稼ぎ目的の人も一緒くたにして受け入れてしまった、という。
その結果、同年末にケルンで集団性暴行事件が起き、ハンブルクやシュツットガルト、ドルトムントなど各地で同じような事件が続発した。移民と難民による犯罪の多発はドイツ社会に深刻な影を落としており、「政策の大転換が必要だ」というAfDの訴えは、ますます説得力を増してきている。
ただ、どのように転換するかをめぐってはAfD内部でも意見が割れ、創設者の1人のベルント・ルッケら穏健派は離党した。穏健派が離れた後に改訂された現在の綱領は「信仰の自由は無条件で支持する」としながら、「ただし、私たちの法秩序やユダヤ教・キリスト教的な文化基盤に反するイスラム教の礼拝や習慣には断固反対する」という。つまり、アザーン(礼拝の呼びかけ)や公共の場でのヒジャブやニカブの着用は認めない。
綱領には「イスラム教はドイツに属するものではない。イスラム教徒の数が増え、広がることはわが国にとって危険なことだと考える」という、より直接的な表現もある。それらは、より過激な団体「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」の唱えるスローガンと重なる部分があり、主要政党が警戒の眼差しを向ける理由になっている。
AfDの綱領でもう一つ注目されるのは「ドイツに国民投票の制度を設けよ」と主張している点だ。ナチス時代の反省から、「扇動的な政治家が民衆をあおり立てて国家の根幹を変えてしまう恐れがある」として、ドイツは国民投票の制度を設けなかった。このため、ユーロの導入にしてもギリシャ救済にしても「一握りの政治エリートたちによって決められてしまった」と、AfDは非難する。
綱領は「ドイツは政治的な岐路に立っている」とし、「憲法の改正や重要な条約の発効については国民の投票による同意なしに行ってはならない」と唱える。とりわけ、「財政支出をともなう決定については国民投票にかけよ」と言う。ユーロ導入やギリシャ救済が国民の頭越しに決められたことを非難するもので、これも有権者の胸に響く主張だろう。
ドイツのEU離脱は、英国の離脱とは比べようもないほどのインパクトを持つ。「イスラム教徒とどのように向き合うか」という問題も、欧州全体に突き付けられた課題である。そうした重要な政治課題について、これほどドラスティックな転換を唱えたドイツの政党は今までになかった。

現在、「ドイツのための選択肢(AfD)」を率いるのはティノ・クルパラ(49)、アリス・ワイデル(45)という2人の共同党首である。クルパラ氏は旧東ドイツ生まれで、塗装工から建設会社のオーナーになった実業家。ワイデル氏は西部ノルトライン・ヴェストファーレン州出身。バイロイト大学で経済学を専攻し、ゴールドマンサックスや中国銀行に勤めた。出身地、経歴とも対照的で、男女の共同党首というのも現代的と言うべきか。
ドイツの有権者は来年2月の総選挙で、2人が率いるAfDにどのような審判を下すのか。選挙結果は、ドイツだけでなく欧州全体の未来を大きく左右するものになるだろう。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2024年11月28日 「ドイツのEU離脱を求める政党の登場(3)」
≪写真≫
◎「ドイツのための選択肢(AfD)」の集会(オンライン・マガジンPolitical violence at a glance から)
◎AfDの創設者、ベルント・ルッケ教授(英語版ウィキペディアから)
◎AfDのティノ・クルパラ(左)、アリス・ワイデル(右)共同党首(独紙ベルリナー・モルゲンポストのサイトから)
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「ドイツの『封印された哀しみ』が噴き出している(2)」
◎「ドイツのための選択肢(AfD)」の綱領(英訳版)
◎「ギリシャ問題とユーロ圏の構造強化(内閣府の公式サイトから)
◎「変調するドイツ政治」(板橋拓己、国際問題No.660 2017年4月)
◎英語版ウィキペディア「ベルント・ルッケ Bernd Lucke」
◎「共通農業政策の財政と加盟国の農家経済」(石井圭一・東北大学大学院准教授)
◎「欧州理事会、閣僚会議、欧州委員会」(宮畑建志)
◎『超約 ドイツの歴史』(ジェームズ・ホーズ、東京書籍)
政党の本部といえば、首都の中心部にあるのが相場だ。日本の自民党と立憲民主党の本部は千代田区永田町にある。大阪を拠点とする日本維新の会を除けば、ほかの政党も都心に近いところに本部を構えている。

ところが、ドイツの極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」は違った。ベルリンの郊外、東京でいえば中野区か練馬区のはずれのようなところに党本部がある。最初、ネットで調べた時は「何かの間違いではないか」と首をかしげたが、AfDの公式サイトに載っているのもその住所だった。アポなしで訪ねることにした。
ベルリンの中心部、ブランデンブルク門の近くにあるホテルから地下鉄と近郊電車を乗り継いで30分ほど。最寄り駅のヴィッテナウに着いた。駅前で住所を示して尋ねたが、誰も知らない。9月の州議選で大躍進を遂げてドイツ政界を揺るがした、いま話題の政党なのに。
住所は「アイヒホルスター通り80番地」と分かっている。近所の住民なら知っているだろうと、片言のドイツ語で尋ね回ったが、これまた誰も知らない。さまよい歩いて30分、ようやく「80番地」にたどり着いた。ごく普通の5階建てのビルだ。党本部はその1階にあった。
インターホンのベルを押す。誰も出てこない。「みんなで昼食にでも行ったのか」と思い、ビルの玄関先でタバコをふかしながら20分ほど待った。党員か支持者とおぼしき若者が来たら、ドアが開いた。どうやら「いきなり訪ねてきた怪しげな男」を監視カメラで見ていたようだ。
「日本から来ました。元新聞記者です」と自己紹介すると、仕事をしていた職員が何人か奥のオフィスから出てきた。みんな興味津々といった顔つきだ。日本人が訪ねてきたのは初めてだという(帰国してからさらに調べたところ、都心にもう一つ、議員が陣取る本部があることが分かった)。
「なんでこんな遠いところに党本部を構えてるんですか。地元の人も誰も知らないので、探すのに苦労しました」と、素朴な疑問をぶつけてみた。すると、1人が「警戒する必要があるからです。左翼からの襲撃や破壊活動に備えなければなりません」と答えた。真顔だった。
「現在の問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決される」と豪語したのはビスマルクである。19世紀の鉄血宰相の言葉を持ち出すまでもなく、ドイツの政治は血なまぐさい。20世紀前半には、ヒトラー率いるナチスが突撃隊という準軍事組織を使って政敵を武力でねじ伏せた。
ナチスは選挙で第1党になって政権を握り、当時のワイマール憲法の非常大権を使って独裁体制を築き、戦争に突き進んでいった。その苦い歴史を繰り返さないために、戦後つくられた西ドイツの基本法(憲法)は、国民に「自由と民主主義を守るために戦うこと」を義務づけた。戦後の西ドイツは「反ナチス」と「戦う民主主義」を掲げて再出発したのである。
中央政府には「連邦憲法擁護庁」という情報機関があり、憲法秩序に抵触する恐れのある政党や団体を監視して取り締まる権限が与えられている。極右政党のAfDは監視対象になっており、ナチスを称賛する言動をして罰金を科せられた幹部もいる。2013年の結党時から、主要政党もメディアも厳しい目を向けており、身構えざるを得ないのだろう。
私が「初めてドイツに来ました。フランクフルトから入り、ミュンヘンを回って」と言うと、「第一印象はどうですか」と尋ねられた。「こざっぱりして、システムがしっかりしていて規律正しい社会だと思う(a decent, well-organized and well-disciplined society)」と率直に答えると、失笑が漏れた。「それは昔のこと」と言うのだ。
鉄道や地下鉄が定刻通りに運行されていたのは昔のこと。今では遅延は日常茶飯事、突然の運休も珍しくない。街頭にはゴミが散らばっている――延々と愚痴が続いた後、1人が「日本では深夜でも女性が独り歩きできると聞いたが、本当か」と聞いてきた。
新宿の裏社会を描いて秀逸だった馳星周や大沢在昌の小説を読んで得た知識と、ささやかな実体験をもとに「日本のヤクザと中国人マフィアの抗争が激しい時期は治安も良くなかったが、新宿や池袋の主な盛り場を中国人マフィアが抑えてからは落ち着いている。深夜でも若い女性が平気で歩いている」と答えると、顔を見合わせながらうなずいた。
ドイツ国内の、とりわけ大都市の治安の悪化はかなり深刻なようだ。彼らが脳裏に思い浮かべたのは、2015年の大晦日にドイツ西部ケルンで起きた「集団性暴行事件」だったのではないか。事件が起きたのはケルン中央駅と大聖堂の間にある広場である。ここに集まった1000人余りの中東アフリカ系の群衆が新年を祝うお祭り騒ぎの中で、多数の女性に性的暴行を加え、強盗をはたらいた。強姦された女性までいた。
一夜明けた2016年元日、ケルン警察は「大晦日はおおむね平穏だった」というプレスリリースを出した。主要メディアは何も報じなかった。大規模な市民の抗議デモが起き、被害届が殺到した。ケルンの警察長官が記者会見を開いて、事件の概要を発表したのは1月4日のことである。それでも、公共放送のZDFはその日夜のニュースで「群衆の背景が不明」として、この事件を報じなかった。
警察発表の翌5日、ヘンリエッテ・レーカー市長は会見で記者に「女性はどうやって身を守ればいいのか」と問われ、「見知らぬ人々には近づかないこと。腕の長さ以上の距離を保つことは、いつだってできるでしょ」と答え、市民の怒りを増幅した。その後、逮捕された容疑者の中には、難民申請中の者が多数いることが確認された。
警察が事件の発表をためらい、市長がこのような発言をしたのはなぜか。この年、2015年の夏にメルケル首相は「すべての難民を受け入れる」「私たちはやり遂げる」と宣言し、ドイツの難民政策を大転換した。ケルンの市長は当時の政権与党、キリスト教民主同盟(CDU)や緑の党の支援を受ける女性政治家である。「メルケル政権の難民政策を後退させるわけにはいかない」という思いがあった、と見るのが自然だろう。
前回のコラムで、「ドイツには戦後、トルコ系移民と旧ユーゴスラビアからの難民、中東アフリカ系の難民、ウクライナからの難民と4つの大波があった」と記した。だが、実はドイツにはこの前に、もう一つの「語ることを許されなかった、より大きな移民の波」があった。旧ドイツ東部領土からの移民である。

第2次大戦後、ドイツは東プロイセンやポンメルンなど広大な領土を失い、ソ連とポーランドに奪われた。土地によっては数百年にわたってドイツ人が住んでいたところもあったが、いっさいお構いなく、ドイツ系の住民は補償もないまま追放された。混住を認めれば、将来、再び紛争の種になる。戦勝国側は「ドイツ人を一掃する」と宣言し、実行したのである。
ナチス占領下でユダヤ人を東の強制収容所に送り込んだ貨物列車が、今度は追放されたドイツ人を乗せて西へ向かった。荷馬車と徒歩で移動した人々もいた。被追放者の総数は1200万人とも1500万人とも言われる。
移動の途中で、被追放者はポーランド人やユダヤ人、チェコ人らから凄惨な報復を受けた。死者は推定で40万人ないし60万人。戦争によるドイツ本国の破壊と荒廃はすさまじく、旧領土からの移民のことまで手が回らなかったのだろう。その総数も報復による犠牲者の数も、いまだ推計すら定まらない。「旧ドイツ東部領土問題」と呼ばれる。
戦後のドイツは、多くの国民が飢餓線上をさまよう状況にあった。そこに追放された人々が移り住んだ時、どのような境遇に落ちていくか。彼らは「外国人」として疎外されないよう、自らが被追放者であることを隠し、劣悪な条件の下で生きていくしかなかった。
公けの場で追放の辛苦を語ることもできなかった。戦後、ドイツ人による600万人のユダヤ人虐殺や占領直後のポーランドやウクライナでの蛮行が次々に暴かれ、裁かれていったからだ。「被害者としてのドイツ」を語ることは、「加害者としてのドイツの歴史的な罪を中和することになる」と批判され、沈黙するしかなかった。
日本のメディアもこの問題を報じたことはほとんどなかったが、ドイツの旅から戻って間もない10月28日の夜、NHKは「映像の世紀 ドイツ さまよえる人々」というドキュメンタリーを流した。ポーランド兵による殺害と暴行、解放されたユダヤ人による報復の数々・・・。その映像のおぞましさに息をのんだ。
追放された移民たちが「被追放者連盟」を結成して、公然と語り始めたのは21世紀に入ってからである。その体験と哀しみを語るのに60年余りを要した。そのうえ、主要政党からもメディアからも厳しく批判された。60年たっても、周りは「敵だらけ」だった。
ドキュメンタリーは、自らも被追放者だった作家ギュンター・グラスの「ドイツの罪や後悔が長く喫緊の課題であったとはいえ、彼らの苦悩について沈黙してはならない。この問題を右翼に任せてはいけない」という言葉を伝え、最後も彼の「歴史は私たちに慰めを与えてはくれない。私たちはその歴史の中を歩き続けるのだ」という言葉で締めくくっている。
9月のドイツ東部3州での極右政党AfDの躍進は、こうした歴史的な経緯を抜きにして考えることはできない。「統一後も残る東西ドイツの経済格差への不満」という視点だけでは説明できないことが多すぎるのだ。旧西ドイツ地域でも、AfDは着実に支持を広げ続けている。
東部3州の州議選の結果をよく見ると、チューリンゲン州とザクセン州ではショルツ政権の与党、社会民主党(SPD)が惨敗した。ブランデンブルク州ではメルケル前政権の与党、キリスト教民主同盟(CDU)が第4党に転落した(グラフ参照)。
グラフが複雑になるので省略したが、注目されるのはチューリンゲン、ブランデンブルク両州で第3党になった「ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟(BSW)」という新しい極左政党である。この政党は、難民政策に関しては「受け入れを制限すべきだ」と訴え、ロシアと戦い続けるウクライナへの武器供与の中止を求めて躍進した。
移民・難民政策とウクライナ戦争への対応では、極右のAfDと極左のBSWが同じような主張をして票を伸ばした。両党とも若者の支持率が高い点も共通している。つまり、戦後ドイツの政界のメインストリームとも言うべき社会民主党(中道左派)とCDU(中道右派)は、その支持基盤を両側から掘り崩されているのである。来年9月の総選挙でAfDはどこまで支持を伸ばすのか。社会民主党もCDUも戦略を練り直しているところだろう。
話をAfD党本部でのやり取りに戻す。彼らは、日本の移民・難民政策に強い関心を示した。難民申請をしても条件が極めて厳しく、なかなか難民として認めない日本の制度は「カナダと並んで、お手本(role model)なのです」とまで言う。
日本で移民と難民の問題を担当しているのは、法務省の外局の出入国在留管理庁である。その所管と名称からして、国際社会の基準から外れている。移民と難民を治安維持の観点から「管理する対象」と捉えているからである。昔ながらの「官尊民卑の感覚」と言える。
ドイツの場合、連邦移民難民庁は内務社会省の管轄下にあり、移民と難民を「困窮した人たちとどう向き合い、社会にどうやって受け入れていくか」という観点で捉えている。難民の申請受付と認定だけでなく、受け入れ後の語学教育や職業訓練まで総合的にカバーしている。要するに、移民も難民も「われわれと同じ人間」として向き合おうとしており、日本とは根本的に異なる。どちらがまともかは言うまでもない。
極右政党のAfDは連邦憲法擁護庁の「監視対象」になっていることを意識しており、移民の「排除」を要求してはいない。「受け入れの制限」を求めている。とはいえ、AfDの支持層は、より過激な団体「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」の支持層と重なっており、移民・難民政策をどうするかをめぐっては、党内で激しい議論が続いているようだ。
AfD党本部での対話は2時間たっても終わらない。そのうち、先方から「党の幹部に会ってみませんか。セットします」と提案された。私は「明日、ベルリンを離れるんです」と言って辞退したが、その日の夜には英語版で100ページ近い党綱領をメールで送ってきてくれた。
移民・難民問題と並んで、ドイツ政治の重要な課題の一つは「欧州連合(EU)とどう向き合うか」である。帰国してから、AfDの綱領をじっくり読んでみた。綱領には、ドイツ社会の根幹を揺さぶる政策が盛り込まれていた。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【追記】
ショルツ連立政権は11月6日、与党の自由民主党が連立から離脱し、崩壊した。連立の主軸の社会民主党と緑の党が大規模な財政出動による景気刺激策を唱えたのに対し、財政規律を重視する自民党は反対していた。連立の崩壊に伴って、来年9月に予定されていた総選挙は前倒しされる見通しだ。
【注】
・ドイツのための選択肢(AfD= Alternative für Deutshlandの略称、アーエフデー)
・ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei の略称Nazi の複数形。国家社会主義ドイツ労働者党と訳す専門家もいる)
≪写真&地図≫
◎Wikipedia “Flight and expulsion of Germans (1944?1950)”
https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_and_expulsion_of_Germans_(1944%E2%80%931950)
◎ベルリン郊外にある「ドイツのための選択肢(AfD)」の党本部=2024年10月16日、筆者撮影
◎地図 ドイツが第2次大戦後に失った東部領土(英語版ウィキペディアから引用)
https://en.wikipedia.org/wiki/Former_eastern_territories_of_Germany
◎グラフ ドイツ東部3州の州議選の得票率(主要3党)=各州の公式サイトのデータを基に作成
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「ドイツは『第4の大波』に耐えられるか」
◎「支持を広げるドイツのための選択肢」(川畑大地、みずほリサーチ&テクノロジーズ、2024年9月24日)
https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/report/research/express/2024/express-eu240924.html/
◎極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の公式サイト(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「ギュンター・グラス」
◎ウィキペディア「ケルン大晦日集団性暴行事件」
◎英語版ウィキペディア「2015-2016 New Year’s Eve sexual assaults in Germany」
◎ウィキペディア「旧ドイツ東部領土」
◎ウィキペディア「連邦憲法擁護庁」
◎ドイツ語版ウィキペディア「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge (BAMF) 」(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」
◎「ドイツ移民法・統合法成立の背景と動向」(ハンス・ゲオルク・マーセン、筑波ロー・ジャーナル2号 2007年12月)
https://www.lawschool.tsukuba.ac.jp/pdf_kiyou/tlj-02/images/hansu.pdf
◎『包摂・共生の政治か、排除の政治か』(宮島喬、佐藤成基編、明石書店)

ところが、ドイツの極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」は違った。ベルリンの郊外、東京でいえば中野区か練馬区のはずれのようなところに党本部がある。最初、ネットで調べた時は「何かの間違いではないか」と首をかしげたが、AfDの公式サイトに載っているのもその住所だった。アポなしで訪ねることにした。
ベルリンの中心部、ブランデンブルク門の近くにあるホテルから地下鉄と近郊電車を乗り継いで30分ほど。最寄り駅のヴィッテナウに着いた。駅前で住所を示して尋ねたが、誰も知らない。9月の州議選で大躍進を遂げてドイツ政界を揺るがした、いま話題の政党なのに。
住所は「アイヒホルスター通り80番地」と分かっている。近所の住民なら知っているだろうと、片言のドイツ語で尋ね回ったが、これまた誰も知らない。さまよい歩いて30分、ようやく「80番地」にたどり着いた。ごく普通の5階建てのビルだ。党本部はその1階にあった。
インターホンのベルを押す。誰も出てこない。「みんなで昼食にでも行ったのか」と思い、ビルの玄関先でタバコをふかしながら20分ほど待った。党員か支持者とおぼしき若者が来たら、ドアが開いた。どうやら「いきなり訪ねてきた怪しげな男」を監視カメラで見ていたようだ。
「日本から来ました。元新聞記者です」と自己紹介すると、仕事をしていた職員が何人か奥のオフィスから出てきた。みんな興味津々といった顔つきだ。日本人が訪ねてきたのは初めてだという(帰国してからさらに調べたところ、都心にもう一つ、議員が陣取る本部があることが分かった)。
「なんでこんな遠いところに党本部を構えてるんですか。地元の人も誰も知らないので、探すのに苦労しました」と、素朴な疑問をぶつけてみた。すると、1人が「警戒する必要があるからです。左翼からの襲撃や破壊活動に備えなければなりません」と答えた。真顔だった。
「現在の問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決される」と豪語したのはビスマルクである。19世紀の鉄血宰相の言葉を持ち出すまでもなく、ドイツの政治は血なまぐさい。20世紀前半には、ヒトラー率いるナチスが突撃隊という準軍事組織を使って政敵を武力でねじ伏せた。
ナチスは選挙で第1党になって政権を握り、当時のワイマール憲法の非常大権を使って独裁体制を築き、戦争に突き進んでいった。その苦い歴史を繰り返さないために、戦後つくられた西ドイツの基本法(憲法)は、国民に「自由と民主主義を守るために戦うこと」を義務づけた。戦後の西ドイツは「反ナチス」と「戦う民主主義」を掲げて再出発したのである。
中央政府には「連邦憲法擁護庁」という情報機関があり、憲法秩序に抵触する恐れのある政党や団体を監視して取り締まる権限が与えられている。極右政党のAfDは監視対象になっており、ナチスを称賛する言動をして罰金を科せられた幹部もいる。2013年の結党時から、主要政党もメディアも厳しい目を向けており、身構えざるを得ないのだろう。
私が「初めてドイツに来ました。フランクフルトから入り、ミュンヘンを回って」と言うと、「第一印象はどうですか」と尋ねられた。「こざっぱりして、システムがしっかりしていて規律正しい社会だと思う(a decent, well-organized and well-disciplined society)」と率直に答えると、失笑が漏れた。「それは昔のこと」と言うのだ。
鉄道や地下鉄が定刻通りに運行されていたのは昔のこと。今では遅延は日常茶飯事、突然の運休も珍しくない。街頭にはゴミが散らばっている――延々と愚痴が続いた後、1人が「日本では深夜でも女性が独り歩きできると聞いたが、本当か」と聞いてきた。
新宿の裏社会を描いて秀逸だった馳星周や大沢在昌の小説を読んで得た知識と、ささやかな実体験をもとに「日本のヤクザと中国人マフィアの抗争が激しい時期は治安も良くなかったが、新宿や池袋の主な盛り場を中国人マフィアが抑えてからは落ち着いている。深夜でも若い女性が平気で歩いている」と答えると、顔を見合わせながらうなずいた。
ドイツ国内の、とりわけ大都市の治安の悪化はかなり深刻なようだ。彼らが脳裏に思い浮かべたのは、2015年の大晦日にドイツ西部ケルンで起きた「集団性暴行事件」だったのではないか。事件が起きたのはケルン中央駅と大聖堂の間にある広場である。ここに集まった1000人余りの中東アフリカ系の群衆が新年を祝うお祭り騒ぎの中で、多数の女性に性的暴行を加え、強盗をはたらいた。強姦された女性までいた。
一夜明けた2016年元日、ケルン警察は「大晦日はおおむね平穏だった」というプレスリリースを出した。主要メディアは何も報じなかった。大規模な市民の抗議デモが起き、被害届が殺到した。ケルンの警察長官が記者会見を開いて、事件の概要を発表したのは1月4日のことである。それでも、公共放送のZDFはその日夜のニュースで「群衆の背景が不明」として、この事件を報じなかった。
警察発表の翌5日、ヘンリエッテ・レーカー市長は会見で記者に「女性はどうやって身を守ればいいのか」と問われ、「見知らぬ人々には近づかないこと。腕の長さ以上の距離を保つことは、いつだってできるでしょ」と答え、市民の怒りを増幅した。その後、逮捕された容疑者の中には、難民申請中の者が多数いることが確認された。
警察が事件の発表をためらい、市長がこのような発言をしたのはなぜか。この年、2015年の夏にメルケル首相は「すべての難民を受け入れる」「私たちはやり遂げる」と宣言し、ドイツの難民政策を大転換した。ケルンの市長は当時の政権与党、キリスト教民主同盟(CDU)や緑の党の支援を受ける女性政治家である。「メルケル政権の難民政策を後退させるわけにはいかない」という思いがあった、と見るのが自然だろう。
前回のコラムで、「ドイツには戦後、トルコ系移民と旧ユーゴスラビアからの難民、中東アフリカ系の難民、ウクライナからの難民と4つの大波があった」と記した。だが、実はドイツにはこの前に、もう一つの「語ることを許されなかった、より大きな移民の波」があった。旧ドイツ東部領土からの移民である。

第2次大戦後、ドイツは東プロイセンやポンメルンなど広大な領土を失い、ソ連とポーランドに奪われた。土地によっては数百年にわたってドイツ人が住んでいたところもあったが、いっさいお構いなく、ドイツ系の住民は補償もないまま追放された。混住を認めれば、将来、再び紛争の種になる。戦勝国側は「ドイツ人を一掃する」と宣言し、実行したのである。
ナチス占領下でユダヤ人を東の強制収容所に送り込んだ貨物列車が、今度は追放されたドイツ人を乗せて西へ向かった。荷馬車と徒歩で移動した人々もいた。被追放者の総数は1200万人とも1500万人とも言われる。
移動の途中で、被追放者はポーランド人やユダヤ人、チェコ人らから凄惨な報復を受けた。死者は推定で40万人ないし60万人。戦争によるドイツ本国の破壊と荒廃はすさまじく、旧領土からの移民のことまで手が回らなかったのだろう。その総数も報復による犠牲者の数も、いまだ推計すら定まらない。「旧ドイツ東部領土問題」と呼ばれる。
戦後のドイツは、多くの国民が飢餓線上をさまよう状況にあった。そこに追放された人々が移り住んだ時、どのような境遇に落ちていくか。彼らは「外国人」として疎外されないよう、自らが被追放者であることを隠し、劣悪な条件の下で生きていくしかなかった。
公けの場で追放の辛苦を語ることもできなかった。戦後、ドイツ人による600万人のユダヤ人虐殺や占領直後のポーランドやウクライナでの蛮行が次々に暴かれ、裁かれていったからだ。「被害者としてのドイツ」を語ることは、「加害者としてのドイツの歴史的な罪を中和することになる」と批判され、沈黙するしかなかった。
日本のメディアもこの問題を報じたことはほとんどなかったが、ドイツの旅から戻って間もない10月28日の夜、NHKは「映像の世紀 ドイツ さまよえる人々」というドキュメンタリーを流した。ポーランド兵による殺害と暴行、解放されたユダヤ人による報復の数々・・・。その映像のおぞましさに息をのんだ。
追放された移民たちが「被追放者連盟」を結成して、公然と語り始めたのは21世紀に入ってからである。その体験と哀しみを語るのに60年余りを要した。そのうえ、主要政党からもメディアからも厳しく批判された。60年たっても、周りは「敵だらけ」だった。
ドキュメンタリーは、自らも被追放者だった作家ギュンター・グラスの「ドイツの罪や後悔が長く喫緊の課題であったとはいえ、彼らの苦悩について沈黙してはならない。この問題を右翼に任せてはいけない」という言葉を伝え、最後も彼の「歴史は私たちに慰めを与えてはくれない。私たちはその歴史の中を歩き続けるのだ」という言葉で締めくくっている。
9月のドイツ東部3州での極右政党AfDの躍進は、こうした歴史的な経緯を抜きにして考えることはできない。「統一後も残る東西ドイツの経済格差への不満」という視点だけでは説明できないことが多すぎるのだ。旧西ドイツ地域でも、AfDは着実に支持を広げ続けている。
東部3州の州議選の結果をよく見ると、チューリンゲン州とザクセン州ではショルツ政権の与党、社会民主党(SPD)が惨敗した。ブランデンブルク州ではメルケル前政権の与党、キリスト教民主同盟(CDU)が第4党に転落した(グラフ参照)。
グラフが複雑になるので省略したが、注目されるのはチューリンゲン、ブランデンブルク両州で第3党になった「ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟(BSW)」という新しい極左政党である。この政党は、難民政策に関しては「受け入れを制限すべきだ」と訴え、ロシアと戦い続けるウクライナへの武器供与の中止を求めて躍進した。
移民・難民政策とウクライナ戦争への対応では、極右のAfDと極左のBSWが同じような主張をして票を伸ばした。両党とも若者の支持率が高い点も共通している。つまり、戦後ドイツの政界のメインストリームとも言うべき社会民主党(中道左派)とCDU(中道右派)は、その支持基盤を両側から掘り崩されているのである。来年9月の総選挙でAfDはどこまで支持を伸ばすのか。社会民主党もCDUも戦略を練り直しているところだろう。
話をAfD党本部でのやり取りに戻す。彼らは、日本の移民・難民政策に強い関心を示した。難民申請をしても条件が極めて厳しく、なかなか難民として認めない日本の制度は「カナダと並んで、お手本(role model)なのです」とまで言う。
日本で移民と難民の問題を担当しているのは、法務省の外局の出入国在留管理庁である。その所管と名称からして、国際社会の基準から外れている。移民と難民を治安維持の観点から「管理する対象」と捉えているからである。昔ながらの「官尊民卑の感覚」と言える。
ドイツの場合、連邦移民難民庁は内務社会省の管轄下にあり、移民と難民を「困窮した人たちとどう向き合い、社会にどうやって受け入れていくか」という観点で捉えている。難民の申請受付と認定だけでなく、受け入れ後の語学教育や職業訓練まで総合的にカバーしている。要するに、移民も難民も「われわれと同じ人間」として向き合おうとしており、日本とは根本的に異なる。どちらがまともかは言うまでもない。
極右政党のAfDは連邦憲法擁護庁の「監視対象」になっていることを意識しており、移民の「排除」を要求してはいない。「受け入れの制限」を求めている。とはいえ、AfDの支持層は、より過激な団体「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」の支持層と重なっており、移民・難民政策をどうするかをめぐっては、党内で激しい議論が続いているようだ。
AfD党本部での対話は2時間たっても終わらない。そのうち、先方から「党の幹部に会ってみませんか。セットします」と提案された。私は「明日、ベルリンを離れるんです」と言って辞退したが、その日の夜には英語版で100ページ近い党綱領をメールで送ってきてくれた。
移民・難民問題と並んで、ドイツ政治の重要な課題の一つは「欧州連合(EU)とどう向き合うか」である。帰国してから、AfDの綱領をじっくり読んでみた。綱領には、ドイツ社会の根幹を揺さぶる政策が盛り込まれていた。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【追記】
ショルツ連立政権は11月6日、与党の自由民主党が連立から離脱し、崩壊した。連立の主軸の社会民主党と緑の党が大規模な財政出動による景気刺激策を唱えたのに対し、財政規律を重視する自民党は反対していた。連立の崩壊に伴って、来年9月に予定されていた総選挙は前倒しされる見通しだ。
【注】
・ドイツのための選択肢(AfD= Alternative für Deutshlandの略称、アーエフデー)
・ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei の略称Nazi の複数形。国家社会主義ドイツ労働者党と訳す専門家もいる)
≪写真&地図≫
◎Wikipedia “Flight and expulsion of Germans (1944?1950)”
https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_and_expulsion_of_Germans_(1944%E2%80%931950)
◎ベルリン郊外にある「ドイツのための選択肢(AfD)」の党本部=2024年10月16日、筆者撮影
◎地図 ドイツが第2次大戦後に失った東部領土(英語版ウィキペディアから引用)
https://en.wikipedia.org/wiki/Former_eastern_territories_of_Germany
◎グラフ ドイツ東部3州の州議選の得票率(主要3党)=各州の公式サイトのデータを基に作成
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「ドイツは『第4の大波』に耐えられるか」
◎「支持を広げるドイツのための選択肢」(川畑大地、みずほリサーチ&テクノロジーズ、2024年9月24日)
https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/report/research/express/2024/express-eu240924.html/
◎極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の公式サイト(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「ギュンター・グラス」
◎ウィキペディア「ケルン大晦日集団性暴行事件」
◎英語版ウィキペディア「2015-2016 New Year’s Eve sexual assaults in Germany」
◎ウィキペディア「旧ドイツ東部領土」
◎ウィキペディア「連邦憲法擁護庁」
◎ドイツ語版ウィキペディア「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge (BAMF) 」(ドイツ語だが、日本語や英語への自動翻訳機能付き)
◎ウィキペディア「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(ペギーダ)」
◎「ドイツ移民法・統合法成立の背景と動向」(ハンス・ゲオルク・マーセン、筑波ロー・ジャーナル2号 2007年12月)
https://www.lawschool.tsukuba.ac.jp/pdf_kiyou/tlj-02/images/hansu.pdf
◎『包摂・共生の政治か、排除の政治か』(宮島喬、佐藤成基編、明石書店)
新聞記者として長くアジアを担当したので、インドやパキスタン、アフガニスタンから東南アジアまで、この地域の国々はかなり頻繁に訪れた。石油をめぐる連載記事の取材で湾岸の産油国を回ったこともある。だが、「担当地域外」ということで、ヨーロッパの国々を取材する機会はほとんどなかった。
古稀を過ぎて、体力も気力も徐々に衰えてきた。「まだ余力があるうちに取材の空白域に足を運んでみたい」と思い、かねて訪ねてみたかったドイツに10日間の旅に出た。

10月上旬、空路、フランクフルトから入り、中央駅近くのホテルにチェックインした。フランクフルトの繁華街は、中央駅の前に「こぎれいな歌舞伎町」をドスンと置いたような風情だ。駅前から延びる街路にはそれぞれ警察官が配置され、角々には中東系とアフリカ系の若者がたむろしていた。
中央駅から数ブロック奥に入っただけで、あやしいネオンが光り輝き、辻々には街娼が立っている。小さな紙片を広げてコソコソ売買しているのは麻薬だろう。大都市らしい猥雑さだ。夜遅く、散策を終えて駅前のホテルに戻ったが、明け方までパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、しばしば眠りを妨げられた。
翌朝、駅前のカフェに入った。店員の会話に耳を傾けていたら、「タシャクル」という言葉が聞こえてきた。アフガニスタンの共通語ダリ語(ペルシャ語方言)で「ありがとう」の意味だ。「私は日本から来た。あなたたちはアフガンから?」と英語で尋ねると、少し驚いたような表情で「そうです」と答えた。その店員はウズベク人だという。そこで、カウンターにいるもう1人の店員に「あなたはパシュトゥン人か」と問うと、ビンゴだった。
「なんで分かる」と聞くので、私は「元ジャーナリストで、アフガニスタンには取材で何度も行ったことがある」と答えた。パシュトゥンの若者は、首都カブール北方のパンジシール渓谷の近くで生まれたという。パンジシールと聞いてすぐに思い浮かぶのは、タジク人武装勢力の指導者、マスードである。
マスードが率いる勢力は1992年に社会主義政権を倒して権力を握ったが、4年後にはパシュトゥン人主体のタリバンに首都を追われた。マスードは拠点のパンジシール渓谷に立てこもってタリバンに抵抗し続けたが、2001年9月、アルカイダのメンバーと見られる男たちに自爆テロで殺害された。
当時、アフガニスタンを支配していたタリバンとその庇護下にあったアルカイダにとって、親欧米のマスードはアメリカとの戦争を始めるにあたって「障害になる人物」と見られていた。アメリカと手を組み、背後から攻めてくる恐れがあったからだ。
オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダのメンバーが旅客機を乗っ取り、世界貿易センターと米国防総省に突っ込んだのは、マスード暗殺の2日後、9月11日だった。「アメリカとの聖戦(ジハード)」を始める前に、彼らは「背後の敵」を始末したのである。
パシュトゥンの若者に「ドイツに来てどのくらいになる?」と尋ねた。「20年以上。タリバン政権になって逃げてきた」という。この感じならアフガン料理の店もあるはず、と思って探したら、すぐ近くにレストラン「カブール」があった。その日の夜、この店で羊肉と細切りニンジン、レーズンの炊き込みご飯「マヒチャ・パラウ」を食べた。懐かしい味がした。

戦火のアフガニスタンから逃れる人々の流れは、1979年のソ連のアフガン侵攻とその後の内戦、1990年代のタリバン政権成立前後の混乱、そして2001年9・11テロ後のアメリカとの戦争、と絶えることなく続いた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、隣国イランとパキスタンには今なお、合わせて500万人を超えるアフガン難民がいる。
隣国での苦しい生活から何とか抜け出したいと願うアフガン難民は、より良い暮らしを求めてヨーロッパを目指す。その中で、最も多くのアフガン難民を受け入れてきたのがドイツだ。連邦統計庁のデータによると、国内のアフガン人は2022年時点で42万人を上回る。ドイツでは、帰化した外国人やドイツ生まれで国籍を取得した子どもは統計上、外国人として扱われないので、アフガン系の人口はこれよりかなり多いと見ていい。
第2次大戦後、ドイツは労働力不足を補うため、トルコやイタリア、スペインなどから大量の移民を受け入れた。彼らは「ガスト・アルバイター(ゲスト労働者)」と呼ばれ、主に鉄鋼業や鉱業、農業部門などで働き、ドイツの戦後復興とその後の経済成長を底支えした。移民・難民のいわば「第1波」で、その数はトルコ人だけで約300万人とされる。
この移民政策は1973年の石油危機で景気が後退すると打ち切られたが、母国に帰らず、家族を呼び寄せて定住する者が多かった。イタリア人やスペイン人はあまり目立たず、社会に溶け込んでいったが、イスラム教徒のトルコ人は肩を寄せ合い、ドイツの中に「別のもう一つの社会」を形成していった。
ドイツは「資格社会」である。ほとんどの職業で公的な資格が必要とされ、一定の教育と職業訓練を経て資格を取らなければ、しかるべき職業に就けない。ドイツ語を覚え、ドイツの習慣に合わせるだけでも大変だ。それを乗り越えて、こうした資格を取るのは容易なことではない。多くのトルコ人は低賃金の仕事で糊口をしのぐしかなかった。
それはドイツ国内でも欧州各国でも広く知られたことだったが、ドイツ国内の「もう一つの社会」の問題にすぎないとして、声高に議論されることはなく、内外のメディアで取り上げられることも極めて少なかった。
ドイツの憲法である基本法には「政治的迫害を受ける者は庇護権を享有する」という条文がある。ナチス時代の圧政を繰り返さないために設けられた規定だ。これがあるため、「ドイツはずっと、難民に広く門戸を開いてきた」と受けとめられがちだが、必ずしもそうではない。国際的なルールに沿って粛々と難民として受け入れてきた、というのが実情だ。国内のトルコ人問題がトゲのように刺さったままであり、慎重な姿勢を保たざるを得なかったのだろう。
それでも、「難民鎖国」と批判される日本に比べれば、はるかに多くの移民と難民を受け入れてきた。アフガン難民に限らず、戦火に追われ困窮した人たちはドイツを目指した。1991年以降、旧ユーゴスラビアでの紛争が激しくなると、押し寄せる難民は急増し、翌1992年には40万人を超える難民がドイツに流れ込んだ。移民・難民の「第2の波」である。
そのピークが過ぎ、落ち着きを取り戻した頃、今度はシリアやイラク、スーダンなど中東アフリカ諸国からものすごい数の難民が押し寄せてきた。欧州連合(EU)には「最初に難民を受け入れた国が責任をもって対処する」というルールがあった。ダブリン規約と呼ばれるもので、特定の国に難民が集中するのを防ぐために定めたものだが、大波に直面したイタリアやギリシャ、オーストリアなどからは「負担に耐えきれない」と悲鳴が上がった。「2015年欧州難民危機」である。
混乱が深まる中で動いたのがドイツだった。当時のメルケル首相はダブリン規約にこだわることなく、「すべての難民を受け入れる」と宣言した。難民政策を大転換し、門戸を大きく広げたのである。国内から湧き上がった批判を、彼女は「私たちはやり遂げる」「困っている人たちに手を差し伸べたことで謝罪しなければならないというのなら、ドイツは私の国ではない」と一蹴した。その決断は、EUの境界周辺で立ち往生する難民たちを何よりも勇気づけるものだった。2015年から翌年にかけて、ドイツには100万人近くの難民が殺到した(グラフ参照)。
中東やアフリカから押し寄せた「第3の波」。ドイツは難民支援を担当する職員や関係施設の拡充に追われ、中央政府と州政府の予算も膨らんでいった。そこへ、2022年のロシアによるウクライナ侵攻である。戦争が激しくなるにつれて、ウクライナから「第4の波」が押し寄せた。ドイツが受け入れた難民はポーランドに次いで多く、100万人を上回った。
トルコからの移住者からウクライナ難民まで、人口約8500万人のドイツは約730万人(全体の8%)の外国人を抱えるに至った。欧州諸国の難民支援は手厚い。とりわけドイツは、難民として認定した人だけでなく、難民申請中の人にも住居を提供し、当面の生活費を支給する。申請した本人だけでなく、子どもや家族向けのドイツ語習得プログラムも充実している。
当然のことながら、移民と難民を支援する予算は膨らむ一方だ。豊かとはいえ、ドイツ経済にかつての勢いはない。国内では少子高齢化と地方の過疎化が進む。「難民ではなく、私たちのために税金を使え」という声が高まるのは避けられないことだった。
16年にわたってドイツを率いたメルケル元首相は、名宰相として今でも海外では高く評価されているが、ここ数年、国内では風向きが変わってきた。「いくら何でも、ここまで難民を受け入れる必要があったのか」「プーチンとツーカーの仲と言われていたのに、ロシアのウクライナ侵攻を止められなかったではないか」といった厳しい批判にさらされている。
こうした流れの中で、今年9月にドイツで行われたチューリンゲンの州議会選挙では、反EUと反移民を唱える極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が第1党に躍り出た。ザクセン州とブランデンブルク州でも躍進し、第2党になった。反ナチスを国是としてきたドイツで極右勢力がこれほど伸びたのは戦後初めてであり、衝撃的な結果だった。
多くのメディアは「東西ドイツの統一後も旧東ドイツ地域は経済的に立ち遅れたままだ。経済格差への不満が噴き出した」と分析したが、その底流に「難民政策への不満」があったことは間違いないだろう。旧東ドイツ地域以外でも確実に支持者を増やしているからだ。
「移民と難民の第4波」が打ち寄せるドイツで、何が起きているのか。ドイツは大波に耐えられるのか。ベルリンにある極右政党AfDの本部を訪れ、彼らの声に耳を傾けてみた。次のコラムで、ドイツ政治の底流を探ってみたい。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【初出】調査報道サイト「ハンター」 2024年11月1日
≪写真&グラフ≫
◎難民キャンプの子どもたち(著作権フリーの写真サイトPexelsから)
https://www.pexels.com/ja-jp/search/%E9%9B%A3%E6%B0%91/
◎フランクフルト中央駅の近くにあるアフガン料理店「カブール」
(ミュンヘナー通りとモーゼル通りの交差点近く=2024年10月10日、筆者撮影)
◎ドイツへの難民申請者数の推移(ドイツ連邦移民難民庁のデータを基に作成)
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「アフガニスタンの苦悩と誇り」
◎英語版ウィキペディア「Afghans in Germany」
◎「ドイツの『難民』問題とアフガン人の位置」(嶋田晴行、立命館国際研究2019年2月)
https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/31-3_02Shimada.pdf
◎「ドイツ在住トルコ系移民の社会的統合に向けて」(石川真作、立命館言語文化研究29巻1号)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_29-1/lcs_29_1_ishikawas.pdf
◎「ドイツの移民政策ー統合と選別」(前田直子、獨協大学大学院外国語学研究科)
https://iminseisaku.org/top/conference/090516ms1m.pdf
◎「ドイツはなぜ難民を受け入れるのか」(難民支援協会、2016年8月26日)
◎ドイツ語版ウィキペディア 連邦移民難民庁「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge」
◎『移民・難民・外国人労働者と多文化共生―日本とドイツ/歴史と現状―』(増谷英樹編、有志舎)
古稀を過ぎて、体力も気力も徐々に衰えてきた。「まだ余力があるうちに取材の空白域に足を運んでみたい」と思い、かねて訪ねてみたかったドイツに10日間の旅に出た。

10月上旬、空路、フランクフルトから入り、中央駅近くのホテルにチェックインした。フランクフルトの繁華街は、中央駅の前に「こぎれいな歌舞伎町」をドスンと置いたような風情だ。駅前から延びる街路にはそれぞれ警察官が配置され、角々には中東系とアフリカ系の若者がたむろしていた。
中央駅から数ブロック奥に入っただけで、あやしいネオンが光り輝き、辻々には街娼が立っている。小さな紙片を広げてコソコソ売買しているのは麻薬だろう。大都市らしい猥雑さだ。夜遅く、散策を終えて駅前のホテルに戻ったが、明け方までパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、しばしば眠りを妨げられた。
翌朝、駅前のカフェに入った。店員の会話に耳を傾けていたら、「タシャクル」という言葉が聞こえてきた。アフガニスタンの共通語ダリ語(ペルシャ語方言)で「ありがとう」の意味だ。「私は日本から来た。あなたたちはアフガンから?」と英語で尋ねると、少し驚いたような表情で「そうです」と答えた。その店員はウズベク人だという。そこで、カウンターにいるもう1人の店員に「あなたはパシュトゥン人か」と問うと、ビンゴだった。
「なんで分かる」と聞くので、私は「元ジャーナリストで、アフガニスタンには取材で何度も行ったことがある」と答えた。パシュトゥンの若者は、首都カブール北方のパンジシール渓谷の近くで生まれたという。パンジシールと聞いてすぐに思い浮かぶのは、タジク人武装勢力の指導者、マスードである。
マスードが率いる勢力は1992年に社会主義政権を倒して権力を握ったが、4年後にはパシュトゥン人主体のタリバンに首都を追われた。マスードは拠点のパンジシール渓谷に立てこもってタリバンに抵抗し続けたが、2001年9月、アルカイダのメンバーと見られる男たちに自爆テロで殺害された。
当時、アフガニスタンを支配していたタリバンとその庇護下にあったアルカイダにとって、親欧米のマスードはアメリカとの戦争を始めるにあたって「障害になる人物」と見られていた。アメリカと手を組み、背後から攻めてくる恐れがあったからだ。
オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダのメンバーが旅客機を乗っ取り、世界貿易センターと米国防総省に突っ込んだのは、マスード暗殺の2日後、9月11日だった。「アメリカとの聖戦(ジハード)」を始める前に、彼らは「背後の敵」を始末したのである。
パシュトゥンの若者に「ドイツに来てどのくらいになる?」と尋ねた。「20年以上。タリバン政権になって逃げてきた」という。この感じならアフガン料理の店もあるはず、と思って探したら、すぐ近くにレストラン「カブール」があった。その日の夜、この店で羊肉と細切りニンジン、レーズンの炊き込みご飯「マヒチャ・パラウ」を食べた。懐かしい味がした。

戦火のアフガニスタンから逃れる人々の流れは、1979年のソ連のアフガン侵攻とその後の内戦、1990年代のタリバン政権成立前後の混乱、そして2001年9・11テロ後のアメリカとの戦争、と絶えることなく続いた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、隣国イランとパキスタンには今なお、合わせて500万人を超えるアフガン難民がいる。
隣国での苦しい生活から何とか抜け出したいと願うアフガン難民は、より良い暮らしを求めてヨーロッパを目指す。その中で、最も多くのアフガン難民を受け入れてきたのがドイツだ。連邦統計庁のデータによると、国内のアフガン人は2022年時点で42万人を上回る。ドイツでは、帰化した外国人やドイツ生まれで国籍を取得した子どもは統計上、外国人として扱われないので、アフガン系の人口はこれよりかなり多いと見ていい。
第2次大戦後、ドイツは労働力不足を補うため、トルコやイタリア、スペインなどから大量の移民を受け入れた。彼らは「ガスト・アルバイター(ゲスト労働者)」と呼ばれ、主に鉄鋼業や鉱業、農業部門などで働き、ドイツの戦後復興とその後の経済成長を底支えした。移民・難民のいわば「第1波」で、その数はトルコ人だけで約300万人とされる。
この移民政策は1973年の石油危機で景気が後退すると打ち切られたが、母国に帰らず、家族を呼び寄せて定住する者が多かった。イタリア人やスペイン人はあまり目立たず、社会に溶け込んでいったが、イスラム教徒のトルコ人は肩を寄せ合い、ドイツの中に「別のもう一つの社会」を形成していった。
ドイツは「資格社会」である。ほとんどの職業で公的な資格が必要とされ、一定の教育と職業訓練を経て資格を取らなければ、しかるべき職業に就けない。ドイツ語を覚え、ドイツの習慣に合わせるだけでも大変だ。それを乗り越えて、こうした資格を取るのは容易なことではない。多くのトルコ人は低賃金の仕事で糊口をしのぐしかなかった。
それはドイツ国内でも欧州各国でも広く知られたことだったが、ドイツ国内の「もう一つの社会」の問題にすぎないとして、声高に議論されることはなく、内外のメディアで取り上げられることも極めて少なかった。
ドイツの憲法である基本法には「政治的迫害を受ける者は庇護権を享有する」という条文がある。ナチス時代の圧政を繰り返さないために設けられた規定だ。これがあるため、「ドイツはずっと、難民に広く門戸を開いてきた」と受けとめられがちだが、必ずしもそうではない。国際的なルールに沿って粛々と難民として受け入れてきた、というのが実情だ。国内のトルコ人問題がトゲのように刺さったままであり、慎重な姿勢を保たざるを得なかったのだろう。
それでも、「難民鎖国」と批判される日本に比べれば、はるかに多くの移民と難民を受け入れてきた。アフガン難民に限らず、戦火に追われ困窮した人たちはドイツを目指した。1991年以降、旧ユーゴスラビアでの紛争が激しくなると、押し寄せる難民は急増し、翌1992年には40万人を超える難民がドイツに流れ込んだ。移民・難民の「第2の波」である。
そのピークが過ぎ、落ち着きを取り戻した頃、今度はシリアやイラク、スーダンなど中東アフリカ諸国からものすごい数の難民が押し寄せてきた。欧州連合(EU)には「最初に難民を受け入れた国が責任をもって対処する」というルールがあった。ダブリン規約と呼ばれるもので、特定の国に難民が集中するのを防ぐために定めたものだが、大波に直面したイタリアやギリシャ、オーストリアなどからは「負担に耐えきれない」と悲鳴が上がった。「2015年欧州難民危機」である。
混乱が深まる中で動いたのがドイツだった。当時のメルケル首相はダブリン規約にこだわることなく、「すべての難民を受け入れる」と宣言した。難民政策を大転換し、門戸を大きく広げたのである。国内から湧き上がった批判を、彼女は「私たちはやり遂げる」「困っている人たちに手を差し伸べたことで謝罪しなければならないというのなら、ドイツは私の国ではない」と一蹴した。その決断は、EUの境界周辺で立ち往生する難民たちを何よりも勇気づけるものだった。2015年から翌年にかけて、ドイツには100万人近くの難民が殺到した(グラフ参照)。
中東やアフリカから押し寄せた「第3の波」。ドイツは難民支援を担当する職員や関係施設の拡充に追われ、中央政府と州政府の予算も膨らんでいった。そこへ、2022年のロシアによるウクライナ侵攻である。戦争が激しくなるにつれて、ウクライナから「第4の波」が押し寄せた。ドイツが受け入れた難民はポーランドに次いで多く、100万人を上回った。
トルコからの移住者からウクライナ難民まで、人口約8500万人のドイツは約730万人(全体の8%)の外国人を抱えるに至った。欧州諸国の難民支援は手厚い。とりわけドイツは、難民として認定した人だけでなく、難民申請中の人にも住居を提供し、当面の生活費を支給する。申請した本人だけでなく、子どもや家族向けのドイツ語習得プログラムも充実している。
当然のことながら、移民と難民を支援する予算は膨らむ一方だ。豊かとはいえ、ドイツ経済にかつての勢いはない。国内では少子高齢化と地方の過疎化が進む。「難民ではなく、私たちのために税金を使え」という声が高まるのは避けられないことだった。
16年にわたってドイツを率いたメルケル元首相は、名宰相として今でも海外では高く評価されているが、ここ数年、国内では風向きが変わってきた。「いくら何でも、ここまで難民を受け入れる必要があったのか」「プーチンとツーカーの仲と言われていたのに、ロシアのウクライナ侵攻を止められなかったではないか」といった厳しい批判にさらされている。
こうした流れの中で、今年9月にドイツで行われたチューリンゲンの州議会選挙では、反EUと反移民を唱える極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が第1党に躍り出た。ザクセン州とブランデンブルク州でも躍進し、第2党になった。反ナチスを国是としてきたドイツで極右勢力がこれほど伸びたのは戦後初めてであり、衝撃的な結果だった。
多くのメディアは「東西ドイツの統一後も旧東ドイツ地域は経済的に立ち遅れたままだ。経済格差への不満が噴き出した」と分析したが、その底流に「難民政策への不満」があったことは間違いないだろう。旧東ドイツ地域以外でも確実に支持者を増やしているからだ。
「移民と難民の第4波」が打ち寄せるドイツで、何が起きているのか。ドイツは大波に耐えられるのか。ベルリンにある極右政党AfDの本部を訪れ、彼らの声に耳を傾けてみた。次のコラムで、ドイツ政治の底流を探ってみたい。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【初出】調査報道サイト「ハンター」 2024年11月1日
≪写真&グラフ≫
◎難民キャンプの子どもたち(著作権フリーの写真サイトPexelsから)
https://www.pexels.com/ja-jp/search/%E9%9B%A3%E6%B0%91/
◎フランクフルト中央駅の近くにあるアフガン料理店「カブール」
(ミュンヘナー通りとモーゼル通りの交差点近く=2024年10月10日、筆者撮影)
◎ドイツへの難民申請者数の推移(ドイツ連邦移民難民庁のデータを基に作成)
≪参考サイト&文献≫
◎調査報道サイト・ハンター「アフガニスタンの苦悩と誇り」
◎英語版ウィキペディア「Afghans in Germany」
◎「ドイツの『難民』問題とアフガン人の位置」(嶋田晴行、立命館国際研究2019年2月)
https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/31-3_02Shimada.pdf
◎「ドイツ在住トルコ系移民の社会的統合に向けて」(石川真作、立命館言語文化研究29巻1号)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_29-1/lcs_29_1_ishikawas.pdf
◎「ドイツの移民政策ー統合と選別」(前田直子、獨協大学大学院外国語学研究科)
https://iminseisaku.org/top/conference/090516ms1m.pdf
◎「ドイツはなぜ難民を受け入れるのか」(難民支援協会、2016年8月26日)
◎ドイツ語版ウィキペディア 連邦移民難民庁「Bundesamt für Migration und Flüchtlinge」
◎『移民・難民・外国人労働者と多文化共生―日本とドイツ/歴史と現状―』(増谷英樹編、有志舎)
2012年から始まった最上川縦断カヌー探訪の記録を紹介し、併せて朝日町出身の民俗文化研究者、柴田謙吾氏(1912年?2010年)が作成した壮大な『最上川絵図』を一般公開するパネル展「最上川を見つめ直す」を、山形県朝日町の文化施設・創遊館で2024年9月17日(火)から9月29日(日)まで開催します(22日は臨時休館)。地域おこしのNPO「ブナの森」が主催します。

最上川をカヌーで下るイベント「最上川縦断カヌー探訪」は、毎年7月最後の週末に開催しています。2012年の第1回探訪の1日目は長井市を出発して、白鷹町から朝日町へと続く五百川(いもがわ)峡谷を下り、2日目は朝日町から中山町まで下りました(写真は五百川峡谷のタンの瀬)。
2013年は豪雨のため中止。2014年以降、少しずつ中流域から下流へと漕ぎ下り、2021年の第9回探訪で、ついに酒田市の最上川河口に到達して「縦断」を達成しました。2022年の第10回探訪からは、1日目は最上川、2日目は流域の湖や峡谷をめぐるツアーをしています(2024年は大雨のため中止)。
カヌー川下りで最上川に親しむ中で、私たちは最上川の民俗文化の研究に打ち込んだ柴田謙吾氏のことを知りました。柴田氏は朝日町の生まれで、会社を経営するかたわら、半世紀にわたって最上川の民俗文化の研究に力を注ぎ、著作物に加えて『最上川絵図』を残してくれました。長さ40メートル、幅60センチの壮大な絵巻物です。

絵図には、流域の村々の名称と人口などが克明に記され、ダム建設で消える前に存在した簗場(やなば)や渡し船の船着場が丁寧に描かれています。舟運で栄えた、かつての最上川の姿を浮かび上がらせる貴重な文化遺産です。絵図が一般公開されるのは7年ぶりです。ぜひ、足をお運びください(上の図は朝日町周辺)。
このパネル展は、朝日町町制70周年記念事業として朝日町の補助金を得て開催するものです。創遊館でのパネル展のあと、10月1日からは朝日町の西部公民館、10月12日からは北部公民館で巡回展示される予定です。ただし、『最上川絵図』の実物が公開されるのは、創遊館ギャラリーだけです。公民館での巡回展示では、絵図の写真パネルの展示になります。
≪柴田謙吾氏の略歴≫
最上川の民俗文化研究者。明治45年(1912年)、桐材商兼農家の次男として山形県大谷村(戦後の合併で朝日町に統合)の栗木沢で生まれる。戦前、中国大陸に渡り、大連語学校を卒業、南満州鉄道に入社した。終戦間際に召集され、朝鮮半島の陸軍部隊に配属されたが、苦難の末、妻の待つ大連に戻った。昭和22年(1947年)に帰国し、山形市旅篭町で菓子原材料の卸売会社の「柴田原料」を創業した。

会社経営の傍ら、昭和30年(1955年)ごろから最上川の民俗調査に乗り出し、舟運の船頭や筏(いかだ)下りの職人たちを訪ね歩いた。川下りの難所や簗場(やなば)など流域の村々についても調査を進めた。昭和44年(1969年)から最上川絵図の作成に乗り出し、10年がかりで長さ40メートル、幅60センチの絵図を完成させた。俳画家としても知られ、著書『最上川小鵜飼船と船頭衆の生活』に多数のスケッチ画が収められている。平成元年(1989年)、山形県社会文化協会から第3回大衆文化賞を受賞。平成22年(2010年)、98歳で死去。

最上川をカヌーで下るイベント「最上川縦断カヌー探訪」は、毎年7月最後の週末に開催しています。2012年の第1回探訪の1日目は長井市を出発して、白鷹町から朝日町へと続く五百川(いもがわ)峡谷を下り、2日目は朝日町から中山町まで下りました(写真は五百川峡谷のタンの瀬)。
2013年は豪雨のため中止。2014年以降、少しずつ中流域から下流へと漕ぎ下り、2021年の第9回探訪で、ついに酒田市の最上川河口に到達して「縦断」を達成しました。2022年の第10回探訪からは、1日目は最上川、2日目は流域の湖や峡谷をめぐるツアーをしています(2024年は大雨のため中止)。
カヌー川下りで最上川に親しむ中で、私たちは最上川の民俗文化の研究に打ち込んだ柴田謙吾氏のことを知りました。柴田氏は朝日町の生まれで、会社を経営するかたわら、半世紀にわたって最上川の民俗文化の研究に力を注ぎ、著作物に加えて『最上川絵図』を残してくれました。長さ40メートル、幅60センチの壮大な絵巻物です。

絵図には、流域の村々の名称と人口などが克明に記され、ダム建設で消える前に存在した簗場(やなば)や渡し船の船着場が丁寧に描かれています。舟運で栄えた、かつての最上川の姿を浮かび上がらせる貴重な文化遺産です。絵図が一般公開されるのは7年ぶりです。ぜひ、足をお運びください(上の図は朝日町周辺)。
このパネル展は、朝日町町制70周年記念事業として朝日町の補助金を得て開催するものです。創遊館でのパネル展のあと、10月1日からは朝日町の西部公民館、10月12日からは北部公民館で巡回展示される予定です。ただし、『最上川絵図』の実物が公開されるのは、創遊館ギャラリーだけです。公民館での巡回展示では、絵図の写真パネルの展示になります。
≪柴田謙吾氏の略歴≫
最上川の民俗文化研究者。明治45年(1912年)、桐材商兼農家の次男として山形県大谷村(戦後の合併で朝日町に統合)の栗木沢で生まれる。戦前、中国大陸に渡り、大連語学校を卒業、南満州鉄道に入社した。終戦間際に召集され、朝鮮半島の陸軍部隊に配属されたが、苦難の末、妻の待つ大連に戻った。昭和22年(1947年)に帰国し、山形市旅篭町で菓子原材料の卸売会社の「柴田原料」を創業した。

会社経営の傍ら、昭和30年(1955年)ごろから最上川の民俗調査に乗り出し、舟運の船頭や筏(いかだ)下りの職人たちを訪ね歩いた。川下りの難所や簗場(やなば)など流域の村々についても調査を進めた。昭和44年(1969年)から最上川絵図の作成に乗り出し、10年がかりで長さ40メートル、幅60センチの絵図を完成させた。俳画家としても知られ、著書『最上川小鵜飼船と船頭衆の生活』に多数のスケッチ画が収められている。平成元年(1989年)、山形県社会文化協会から第3回大衆文化賞を受賞。平成22年(2010年)、98歳で死去。
第12回の最上川縦断カヌー探訪は、2024年7月27日(土)、28日(日)の両日開催する予定でしたが、山形県内に25日、大雨が降り、最上川の水量が急増したため中止します。全国各地から50人を超えるカヌーイストが参加を申し込んでくださったのですが、天候の急変で中止のやむなきにいたりました。残念です。来年夏の再開に向けて準備を進めます。
開催要項にのっとり、振り込んでいただいた参加費は半額返金いたします。ブナの森あてに口座の名義と口座番号をお知らせください。よろしくお願いいたします。
開催要項にのっとり、振り込んでいただいた参加費は半額返金いたします。ブナの森あてに口座の名義と口座番号をお知らせください。よろしくお願いいたします。
世の中には、汗水たらして働くことを嫌い、他人をだまして金を儲けようとする輩がいる。そういう人間がIT(情報技術)に目を付けないわけがない。インターネットの世界でも、詐欺師どもが跳梁跋扈している。

彼らは「ITや金融の最先端の動き」に敏感である。対話型の人工知能(AI)であるChatGPTや外国為替保証金取引(FX)を持ち出し、言葉巧みに投資を呼びかけて金をだまし取る。すでに多くの詐欺被害者が発生し、警察が容疑者を逮捕した事件もあるが、ここ最近、とんでもない手口を使うグループが登場した。
朝日新聞や日経新聞、読売新聞のニュースサイトとそっくりの偽サイトを作って著名人を勝手に登場させ、「最先端技術を使って確実に資産を増やす方法がある」と投資を呼び掛けているのだ。最初は「3万5000円の投資で始めましょう」と敷居を低くし、その後、金額を膨らませて全額かすめ取る、という手口である。
12月下旬、Facebook に「著名な起業家のイ―ロン・マスク氏が革命的なAIプロジェクトに乗り出した」という記事を伝える投稿があった。クリックすると、朝日新聞デジタルとそっくりの画面が現れ、「スペシャルリポート」と銘打った記事が表示される。本物の朝日新聞デジタルと同じロゴを使い、サイトのバナーも同じだ(偽サイト1)。
記事では「イーロン・マスク氏が共同設立した企業がAIプロジェクトに数十億円を投資し、暗号通貨の取引を通じて富を生み出す技術を開発した」と伝え、ご丁寧にもマスク氏との独占インタビューなるものまで載せている。
マスク氏は「私たちの目的は、すべての人が自分の願望を手に入れられるようにすること」「世界中の銀行がこの新しいプラットフォームを快く思っておらず、サービスの閉鎖を試みている」と語ったのだという。
もちろん、サイトそのものが偽物で記事もすべてデタラメなのだが、一見しただけでは、朝日新聞の公式サイトと区別が付きにくく、「画期的な技術が開発され、投資のチャンスが到来した。乗り遅れてはいけない」と思い込んでしまう読者もいそうだ。
記事では続けて、「このトレーディング・プラットフォームの人気が急上昇しています」「利用可能な期間が限られている可能性がありますので、すぐに申し込むことを強くお勧めします」「現時点では(日本向けに)37名の枠が残っています」とたたみかけ、口座の開設とその口座への入金を促している。
実に巧みな手口だ。よく考えれば、世界的な起業家が日本の新聞にそのような重大なことを明かすはずもなく、怪しげな話だと分かる。が、このプロジェクトで資産を増やした、という東京の大場健さんやら京都の北澤繁樹さんやら(いずれも架空の人物と思われる)の「実例」が写真と利益額付きで紹介されている。読者の警戒心を緩める仕掛けも巧妙きわまりない。
同じ時期、Facebook には、日本経済新聞のニュースサイトが「トヨタ自動車の豊田章男会長がビットコイン(デジタル通貨)で2000億円の投資をして新しいプロジェクトに乗り出した」との記事が掲載された。こちらも、クリックすると日経の公式サイトと同じロゴを使った偽サイトにつながる(偽サイト2)。
初回に3万5000円を入金すれば、その金が「AIのプログラムで見る見るうちに増えていきます」との触れ込み。朝日新聞デジタルの偽サイトとまったく同じ手口で、同じように口座開設と入金を促すページに誘い込む仕掛けになっている。
Facebookには、読売新聞オンラインの偽サイトも登場した(偽サイト3)。こちらの登場人物は落語家の笑福亭鶴瓶で、ぐっと庶民的だ。鶴瓶が黒柳徹子の「徹子の部屋」に出演し、うっかり「お金持ちになるために働く必要はないんです。この(ビットコイン)プログラムは1日に何万円も稼いでくれるんです」との“秘密”をもらしてしまった、との仕立てだ。その後の投資勧誘の手口は、朝日新聞や日経新聞の偽サイトと変わらない。
この記事では「鶴瓶の発言で日銀が提訴」「放送中に日銀から番組の中断を求められた」などとなっているが、もとがデタラメなのだから、そのような事実もあるはずがない。
こうした罪深いものを掲載したFacebook はどう対応するのか。注視していたら、数日後にはどの偽サイトもFacebook からは消えていた。ただし、偽サイトそのものはネット上に残っているので、SNSで拡散される恐れは消えていない。
この手の話はSNSでアッと言う間に広まる。さっそく、Facebook には「投資詐欺にあいました」とのコメントが寄せられた。大金を失い、コメントを寄せる気力もない人もいることだろう。
そもそも、しかるべき人が見れば、一目でデマと分かる投稿や広告がなぜ、Facebook にはやすやすと載ってしまうのか。その運営方法に改善の余地があるのではないか。朝日新聞や読売新聞、日経新聞の本物のニュースサイトを見れば、デタラメな内容であると簡単に分かるのに・・・。偽サイトを作られ、利用された新聞社の方も、今回は「よくある投資詐欺の一種」と見過ごすべきではないだろう。
この投資詐欺グループは、口座を開いて入金した人にプログラムマネージャーを名乗る人物がしつこく、たどたどしい日本語で追加の投資を求めてくることで知られている。偽サイトの作成は日本人、電話での投資の勧誘は外国人と分業しているようで、かなりの人数がかかわっている、とみられる。
弁護士事務所には、この手の投資詐欺に遭った被害者からの相談が続々と寄せられているようだ。「当事務所には仮想通貨詐欺に強い弁護士がいます」などとうたった弁護士事務所のサイトがいくつもある。
詐欺師は、儲けより損失の方が大きいことを何より嫌う。関与した者たちを詐欺容疑で摘発し、厳罰に処すことが最善の解決策だろう。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【追記(12月25日)】
さらに調べたところ、10月27日にはネット上に「笑福亭鶴瓶の投資話はデマ」と注意を呼びかける投稿があった(下記のURL参照)。Facebook は2カ月近くも詐欺グループの偽サイトを掲載し続けていたことになる。
https://kawagopro.com/syoufukuteitsurube-rumor/
≪偽サイトの説明とURL≫
◎偽サイト1
Facebookに掲載された朝日新聞デジタルの偽サイト(2023年12月22日時点)
https://heilpraktiker-hamburg.com/products/wheres-my-catty-goodie-hoodie?promoted_link_id=kQ5dKQZGt8jbdN&adset_name=New%20Leads%20Ad%20Set%20-%20Copy7&fbclid=IwAR2PEdmtf-jx40FkEwANWTDI-o7a2-2eoMEVN_MoUJ623paFPOZAtSjjFpg
◎偽サイト2
Facebookに掲載された日本経済新聞の偽サイト(2023年12月22日時点)
https://growthopportunitiesforyou.com/products/1636-30728196-short-en-molleton-motif-tropical-west49-homme?fbclid=IwAR3jh18Tud2XTqD8aBcSddRYAX3KfqXuOCHYSIuf4mgHg8n2fnOhG5k6eUA
◎偽サイト3
Facebookに掲載された読売新聞オンラインの偽サイト(2023年12月22日時点)
https://etmirror.top/products/puma-palermo-og-sneakers-cobalt?utm_content=VahJwyb3DTLsmvN&adset_name=JP%20%E2%80%93%20Copy&fbclid=IwAR2YuQhzKCVpex5N-5s233YZQxQ55c09uTvsbMIC6mBcuVSjMCtNASGZcPs

彼らは「ITや金融の最先端の動き」に敏感である。対話型の人工知能(AI)であるChatGPTや外国為替保証金取引(FX)を持ち出し、言葉巧みに投資を呼びかけて金をだまし取る。すでに多くの詐欺被害者が発生し、警察が容疑者を逮捕した事件もあるが、ここ最近、とんでもない手口を使うグループが登場した。
朝日新聞や日経新聞、読売新聞のニュースサイトとそっくりの偽サイトを作って著名人を勝手に登場させ、「最先端技術を使って確実に資産を増やす方法がある」と投資を呼び掛けているのだ。最初は「3万5000円の投資で始めましょう」と敷居を低くし、その後、金額を膨らませて全額かすめ取る、という手口である。
12月下旬、Facebook に「著名な起業家のイ―ロン・マスク氏が革命的なAIプロジェクトに乗り出した」という記事を伝える投稿があった。クリックすると、朝日新聞デジタルとそっくりの画面が現れ、「スペシャルリポート」と銘打った記事が表示される。本物の朝日新聞デジタルと同じロゴを使い、サイトのバナーも同じだ(偽サイト1)。
記事では「イーロン・マスク氏が共同設立した企業がAIプロジェクトに数十億円を投資し、暗号通貨の取引を通じて富を生み出す技術を開発した」と伝え、ご丁寧にもマスク氏との独占インタビューなるものまで載せている。
マスク氏は「私たちの目的は、すべての人が自分の願望を手に入れられるようにすること」「世界中の銀行がこの新しいプラットフォームを快く思っておらず、サービスの閉鎖を試みている」と語ったのだという。
もちろん、サイトそのものが偽物で記事もすべてデタラメなのだが、一見しただけでは、朝日新聞の公式サイトと区別が付きにくく、「画期的な技術が開発され、投資のチャンスが到来した。乗り遅れてはいけない」と思い込んでしまう読者もいそうだ。
記事では続けて、「このトレーディング・プラットフォームの人気が急上昇しています」「利用可能な期間が限られている可能性がありますので、すぐに申し込むことを強くお勧めします」「現時点では(日本向けに)37名の枠が残っています」とたたみかけ、口座の開設とその口座への入金を促している。
実に巧みな手口だ。よく考えれば、世界的な起業家が日本の新聞にそのような重大なことを明かすはずもなく、怪しげな話だと分かる。が、このプロジェクトで資産を増やした、という東京の大場健さんやら京都の北澤繁樹さんやら(いずれも架空の人物と思われる)の「実例」が写真と利益額付きで紹介されている。読者の警戒心を緩める仕掛けも巧妙きわまりない。
同じ時期、Facebook には、日本経済新聞のニュースサイトが「トヨタ自動車の豊田章男会長がビットコイン(デジタル通貨)で2000億円の投資をして新しいプロジェクトに乗り出した」との記事が掲載された。こちらも、クリックすると日経の公式サイトと同じロゴを使った偽サイトにつながる(偽サイト2)。
初回に3万5000円を入金すれば、その金が「AIのプログラムで見る見るうちに増えていきます」との触れ込み。朝日新聞デジタルの偽サイトとまったく同じ手口で、同じように口座開設と入金を促すページに誘い込む仕掛けになっている。
Facebookには、読売新聞オンラインの偽サイトも登場した(偽サイト3)。こちらの登場人物は落語家の笑福亭鶴瓶で、ぐっと庶民的だ。鶴瓶が黒柳徹子の「徹子の部屋」に出演し、うっかり「お金持ちになるために働く必要はないんです。この(ビットコイン)プログラムは1日に何万円も稼いでくれるんです」との“秘密”をもらしてしまった、との仕立てだ。その後の投資勧誘の手口は、朝日新聞や日経新聞の偽サイトと変わらない。
この記事では「鶴瓶の発言で日銀が提訴」「放送中に日銀から番組の中断を求められた」などとなっているが、もとがデタラメなのだから、そのような事実もあるはずがない。
こうした罪深いものを掲載したFacebook はどう対応するのか。注視していたら、数日後にはどの偽サイトもFacebook からは消えていた。ただし、偽サイトそのものはネット上に残っているので、SNSで拡散される恐れは消えていない。
この手の話はSNSでアッと言う間に広まる。さっそく、Facebook には「投資詐欺にあいました」とのコメントが寄せられた。大金を失い、コメントを寄せる気力もない人もいることだろう。
そもそも、しかるべき人が見れば、一目でデマと分かる投稿や広告がなぜ、Facebook にはやすやすと載ってしまうのか。その運営方法に改善の余地があるのではないか。朝日新聞や読売新聞、日経新聞の本物のニュースサイトを見れば、デタラメな内容であると簡単に分かるのに・・・。偽サイトを作られ、利用された新聞社の方も、今回は「よくある投資詐欺の一種」と見過ごすべきではないだろう。
この投資詐欺グループは、口座を開いて入金した人にプログラムマネージャーを名乗る人物がしつこく、たどたどしい日本語で追加の投資を求めてくることで知られている。偽サイトの作成は日本人、電話での投資の勧誘は外国人と分業しているようで、かなりの人数がかかわっている、とみられる。
弁護士事務所には、この手の投資詐欺に遭った被害者からの相談が続々と寄せられているようだ。「当事務所には仮想通貨詐欺に強い弁護士がいます」などとうたった弁護士事務所のサイトがいくつもある。
詐欺師は、儲けより損失の方が大きいことを何より嫌う。関与した者たちを詐欺容疑で摘発し、厳罰に処すことが最善の解決策だろう。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
【追記(12月25日)】
さらに調べたところ、10月27日にはネット上に「笑福亭鶴瓶の投資話はデマ」と注意を呼びかける投稿があった(下記のURL参照)。Facebook は2カ月近くも詐欺グループの偽サイトを掲載し続けていたことになる。
https://kawagopro.com/syoufukuteitsurube-rumor/
≪偽サイトの説明とURL≫
◎偽サイト1
Facebookに掲載された朝日新聞デジタルの偽サイト(2023年12月22日時点)
https://heilpraktiker-hamburg.com/products/wheres-my-catty-goodie-hoodie?promoted_link_id=kQ5dKQZGt8jbdN&adset_name=New%20Leads%20Ad%20Set%20-%20Copy7&fbclid=IwAR2PEdmtf-jx40FkEwANWTDI-o7a2-2eoMEVN_MoUJ623paFPOZAtSjjFpg
◎偽サイト2
Facebookに掲載された日本経済新聞の偽サイト(2023年12月22日時点)
https://growthopportunitiesforyou.com/products/1636-30728196-short-en-molleton-motif-tropical-west49-homme?fbclid=IwAR3jh18Tud2XTqD8aBcSddRYAX3KfqXuOCHYSIuf4mgHg8n2fnOhG5k6eUA
◎偽サイト3
Facebookに掲載された読売新聞オンラインの偽サイト(2023年12月22日時点)
https://etmirror.top/products/puma-palermo-og-sneakers-cobalt?utm_content=VahJwyb3DTLsmvN&adset_name=JP%20%E2%80%93%20Copy&fbclid=IwAR2YuQhzKCVpex5N-5s233YZQxQ55c09uTvsbMIC6mBcuVSjMCtNASGZcPs
山形県の戸沢(とざわ)村には「最上川舟下り」の会社がある。江戸時代に船番所があった場所に本社を構え、冬には和船にコタツをしつらえた「コタツ舟」を運航している。鍋をつつきながら熱燗を手に、雄大な最上峡の冬景色を楽しむことができる。
そんな戸沢村で最近、こんなことがあった。
その男性は夏でも冬でも、朝の4時半に散歩に行くことを日課にしている。夏なら薄明るくなっているが、冬が近づけば、4時半では真っ暗だ。

それでも、彼はいつも通り、4時半に散歩にでかけた。歩き慣れたコース。暗闇でも道に迷うことはない。が、街灯のあるところに差しかかったら前を行くものがいる。「誰だ」と思ってよく見たら、ツキノワグマが歩いていたという。
それを伝え聞いた人がひと言、「知らないうちに追い越さなくて、よかったね」。もし、暗がりですれ違ったりしていたら、こんな軽口はたたけなかっただろう。
熊にまつわる話なら、戸沢村を持ち出すまでもない。私が暮らしている山形・新潟県境沿いの朝日町では農作物、とりわけリンゴ農家が大打撃を受けている。
朝日町は「無袋(むたい)フジ 発祥の地」として知られる。かつて、リンゴ栽培では1個1個に袋をかけて栽培するのが普通だったが、その袋掛けをしないでフジリンゴを栽培する手法を編み出した町である。太陽の光をたっぷり浴びさせることで、糖分やビタミンを豊富に含むリンゴができる。
そのリンゴ栽培の名人の畑がこの秋、熊に荒らされた。人家から遠い、山あいの畑にある10本のリンゴの木が収穫寸前にすべて熊に食べられてしまったのだ。1頭で食べきれる量ではない。何頭もの熊が入れ代わり立ち代わりやって来たようだ。
1本のリンゴの木からは、約1000個のリンゴが収穫できる。全部で1万個前後。これほどの被害は初めてで、さすがの名人も肩を落としていたという。10本どころか、手塩にかけて育ててきたリンゴをほとんど食べられてしまった篤農家もいる。
今年は全国的に熊が人里に下りてきて人を襲う事例が相次いだ。北海道のヒグマはともかく、本州に生息するツキノワグマは体長1.5メートルほどで、元来、それほど戦闘的ではない。人里に出てきて人間に出くわし、驚いて攻撃してしまったというケースが多のではないか。
問題は「なぜ、人里に下りてくるようになったのか」である。専門家は「エサとなるドングリが今年は不作だから」と解説している。それも大きな理由のようだが、もっと根本的な理由もある。
それは、人間が里山にあまり出入りしなくなったことだ。熊は臭覚が鋭い。山の畑や森に人間が通い、働いていた時代は「人間の臭い」を敏感に嗅ぎ分け、「ここいらは人間の縄張りだ」と警戒して、あまり出入りしなかったと考えられる。
ところが、農業も林業もすたれ、山の畑は荒れ放題。山林も手入れが行き届かない。ツキノワグマにしてみれば、「誰も出入りしないなら、おいらの縄張りにしてしまえ」と決め込んだのではないか。同じリンゴ畑でも、人家の近くより山あいにあるリンゴ畑で被害が続発しているのは、熊が自分の縄張りとみなした結果だろう。
里山まで縄張りを広げた熊の一部は、さらに人家の近くや市街地にまで足を延ばしたと考えられる。柿も栗もリンゴも、人間がたくさん植えてくれた。熊は「格好のエサ場」とみなして、これを当てにする個体が増えた、と見るのが自然だ。
人間の暮らしの変容が熊の生態にも影響を及ぼし、両者の境界線がぼやけてしまった結果が「熊の出没多発となって表れた」と言えるのではないか。
熊に襲われて亡くなった方やけがをした方の多さを考えれば、市街地や人里に出てきた熊を殺害するのはやむを得ない。農作物の被害の甚大さも考え合せれば、「熊と人間が共存する道はないか」などと悠長に構えていられる状況ではない。熊に加えてイノシシの食害に苦しむ農家にとっては、死活問題になりつつある。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン風切通信 123 (2023年11月25日配信)
≪写真説明≫
◎ツキノワグマ(よこはま動物園のサイトから)
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/zoo/zoorasia/animal/yamazato/JapaneseBlackBear/
≪参考サイト≫
◎「最上川芭蕉ライン舟下り」(山形県戸沢村)のサイト
https://www.blf.co.jp/
◎「山形 味の農園」のサイト
https://www.ajfarm.com/1916/
そんな戸沢村で最近、こんなことがあった。
その男性は夏でも冬でも、朝の4時半に散歩に行くことを日課にしている。夏なら薄明るくなっているが、冬が近づけば、4時半では真っ暗だ。

それでも、彼はいつも通り、4時半に散歩にでかけた。歩き慣れたコース。暗闇でも道に迷うことはない。が、街灯のあるところに差しかかったら前を行くものがいる。「誰だ」と思ってよく見たら、ツキノワグマが歩いていたという。
それを伝え聞いた人がひと言、「知らないうちに追い越さなくて、よかったね」。もし、暗がりですれ違ったりしていたら、こんな軽口はたたけなかっただろう。
熊にまつわる話なら、戸沢村を持ち出すまでもない。私が暮らしている山形・新潟県境沿いの朝日町では農作物、とりわけリンゴ農家が大打撃を受けている。
朝日町は「無袋(むたい)フジ 発祥の地」として知られる。かつて、リンゴ栽培では1個1個に袋をかけて栽培するのが普通だったが、その袋掛けをしないでフジリンゴを栽培する手法を編み出した町である。太陽の光をたっぷり浴びさせることで、糖分やビタミンを豊富に含むリンゴができる。
そのリンゴ栽培の名人の畑がこの秋、熊に荒らされた。人家から遠い、山あいの畑にある10本のリンゴの木が収穫寸前にすべて熊に食べられてしまったのだ。1頭で食べきれる量ではない。何頭もの熊が入れ代わり立ち代わりやって来たようだ。
1本のリンゴの木からは、約1000個のリンゴが収穫できる。全部で1万個前後。これほどの被害は初めてで、さすがの名人も肩を落としていたという。10本どころか、手塩にかけて育ててきたリンゴをほとんど食べられてしまった篤農家もいる。
今年は全国的に熊が人里に下りてきて人を襲う事例が相次いだ。北海道のヒグマはともかく、本州に生息するツキノワグマは体長1.5メートルほどで、元来、それほど戦闘的ではない。人里に出てきて人間に出くわし、驚いて攻撃してしまったというケースが多のではないか。
問題は「なぜ、人里に下りてくるようになったのか」である。専門家は「エサとなるドングリが今年は不作だから」と解説している。それも大きな理由のようだが、もっと根本的な理由もある。
それは、人間が里山にあまり出入りしなくなったことだ。熊は臭覚が鋭い。山の畑や森に人間が通い、働いていた時代は「人間の臭い」を敏感に嗅ぎ分け、「ここいらは人間の縄張りだ」と警戒して、あまり出入りしなかったと考えられる。
ところが、農業も林業もすたれ、山の畑は荒れ放題。山林も手入れが行き届かない。ツキノワグマにしてみれば、「誰も出入りしないなら、おいらの縄張りにしてしまえ」と決め込んだのではないか。同じリンゴ畑でも、人家の近くより山あいにあるリンゴ畑で被害が続発しているのは、熊が自分の縄張りとみなした結果だろう。
里山まで縄張りを広げた熊の一部は、さらに人家の近くや市街地にまで足を延ばしたと考えられる。柿も栗もリンゴも、人間がたくさん植えてくれた。熊は「格好のエサ場」とみなして、これを当てにする個体が増えた、と見るのが自然だ。
人間の暮らしの変容が熊の生態にも影響を及ぼし、両者の境界線がぼやけてしまった結果が「熊の出没多発となって表れた」と言えるのではないか。
熊に襲われて亡くなった方やけがをした方の多さを考えれば、市街地や人里に出てきた熊を殺害するのはやむを得ない。農作物の被害の甚大さも考え合せれば、「熊と人間が共存する道はないか」などと悠長に構えていられる状況ではない。熊に加えてイノシシの食害に苦しむ農家にとっては、死活問題になりつつある。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン風切通信 123 (2023年11月25日配信)
≪写真説明≫
◎ツキノワグマ(よこはま動物園のサイトから)
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/zoo/zoorasia/animal/yamazato/JapaneseBlackBear/
≪参考サイト≫
◎「最上川芭蕉ライン舟下り」(山形県戸沢村)のサイト
https://www.blf.co.jp/
◎「山形 味の農園」のサイト
https://www.ajfarm.com/1916/
日本の新聞記者は入社すると警察担当、いわゆる「サツ回り」からキャリアをスタートさせることが多い。私もそうだった。最初の数日は「とにかく、刑事部屋にずっと座っていろ。デカの名前と顔を覚えろ。自分の名前も覚えてもらえ」と命じられた。

大学で多少、法律を勉強していてもほとんど役に立たない。なにせ、刑事たちは生の事件を扱っている。無愛想で取り付く島もない。刑事たちが何をしているのか、まるで分からないまま、数カ月が過ぎた。
ある日、読売新聞に抜かれた。翌日は毎日新聞に抜かれた。地元の静岡新聞も特ダネを放つ。他社の記者がどうやってスクープをものにするのか、まるで分からなかった。朝日新聞の当時の上司から、「記者に向いてないんじゃないか?(会社を)辞めたら」と叱責された。
悔しくて涙が出そうになったが、泣いているわけにもいかない。刑事たちがよく行く赤提灯の飲み屋を回り、彼らの自宅を夜回りしてネタ集めを続けた。そのうち、憐れんだ刑事の一人が手がけている事件についてヒントをくれた。それを手がかりにして、やっと小さな「特ダネ」を書き、一矢報いることができた。
他社に抜かれるたびに、先輩記者にこう諭(さと)された。「クヨクヨすんな!きちんと追いかけろ。読者は一つの新聞しかとってないんだ。お前が書かなければ、知るすべがないだろ」。その通りだと思った。どこに抜かれたのか。なぜ、抜かれたのか。読者にとって、そんなことはどうでもいいことだ。読者に届けるべきニュースかどうか。それがすべてだと知った。
週刊文春はこの1カ月、木原誠二・官房副長官の妻が2006年に当時夫だった男性の変死に関与した疑いがあり、2018年に警視庁が殺人事件として再捜査を進めたが、木原氏の圧力で事件捜査が潰された疑いがある、と連続して報じた。
その報道内容は詳細かつ具体的だ。証言や証拠は報道内容を裏付けるに十分で、調査報道のお手本のような報道だ。変死した元夫の遺族は警察に再捜査を求め、7月20日に記者会見を開いた。ついには、2018年当時、警視庁捜査一課の殺人担当の刑事だった佐藤誠・元警部補(昨年退職)が実名で捜査の実情と捜査終了に至った経緯を文春の記者に赤裸々に語り、記者会見まで開いた(7月28日)。
佐藤元警部補が告発に至ったきっかけは、警察のトップである露木康浩・警察庁長官が7月13日の記者会見で「警視庁において捜査等の結果、証拠上、事件性が認められない旨を明らかにしている」と述べたことだ。
佐藤氏ら現場の刑事たちは未解決になっていた事件を掘り起こし、真相を解明するために力を尽くした。なのに、警察のトップが「そもそも事件ではなかった」と全否定したのだ。現場にとっては許しがたいことである。義憤に駆られての証言、と言える。警察庁の長官と現場の刑事のどちらが本当のことを語っているのか。少しでも事件を担当したことのある新聞記者なら「現場の刑事にはウソを言う理由がない」と、確信をもって言えるはずだ。
では、全国紙やNHKを含むテレビ各局が週刊文春の報道を黙殺しているのはなぜか。権力にピタリと寄り添うのを旨とする読売新聞が静観するのはよく分かる。ある意味、一貫している。だが、常日頃、権力の監視役を自任する朝日新聞や毎日新聞はなぜ、きちんと報じようとしないのか。
「いや、報じている」と言うのかもしれない。確かに、両紙は「松野博一官房長官は『週刊文春の報道は事実無根』と木原氏から報告を受けたと語った」などとベタ記事で報じた(7月28日、29日)。こういうのを「アリバイ記事」という。「黙殺なんかしてないよ」と取り繕うための記事だからだ。
全国紙の事件記者たちは「警察が事件ではない、と言っているものを報道するわけにはいかない」と言いたいのかもしれない。「ふざけるな」と言いたい。何が事件で、何を報じるかは報道機関が自ら判断すべきことだ。こういう問題で権力に寄りかかって、どうするのか。
「警察が事件として扱わないものは報じない」などと言っていたら、1988年のリクルート事件の報道はあり得なかった。この事件は、リクルート社が子会社の未公開株を賄賂として政治家や官僚らにバラまいた汚職事件だが、神奈川県警は上からの圧力に負けて捜査を投げ出した。
それを朝日新聞横浜支局の記者たちが掘り起こし、最後には当時の竹下内閣を総辞職に追い込んだ。「事件かどうか」の判断を権力側にゆだねていたら、決して明るみに出ることはなかった。その貴重な教訓を忘れたのか。
リクルート事件で問われたのは「贈収賄」だった。つまり、金品のやり取りである。重い罪であることに変わりはないが、今回、週刊文春が追及しているのは「人の命を奪う殺人」というさらに重大な罪である。こういう犯罪についてまで、政治家が権力をふりかざし、捜査を潰すのを許していたら、社会はどうなるのか。「法の支配」どころではない。「人としての道義」がすたれてしまう。
どんな社会でも、権力を握る者たちは自分たちに都合がいいように事を運ぼうとする。だが、そこにもおのずから「節度」というものがあるはずだ。それすら見失ったら、社会は漂流し、あらぬ方向に走り出す。「節度」まで崩れようとする時、それを押しとどめるものは「心ある者たちの覚悟」しかない。
今回の週刊文春の報道は、今の日本社会で「心ある者たち」がどこにいるか、それを炙り出す結果になった。全国紙やテレビ各局はてんでダメだが、東京新聞や河北新報などのブロック紙は立ち上がりつつある。河北新報は7月28日付で「文春報道 木原副長官が苦境」と報じ、東京新聞は8月2日付の「こちら特報部」で、木原副長官が報道陣との会見を避け、外遊もやめて「公務に支障」が生じている、と伝えた。
殺人事件の再捜査の状況と捜査終了に至った経緯を証言した佐藤元警部補に対して、「地方公務員法に定められた守秘義務に違反しているのではないか」と追及する向きがある。確かに、条文に照らせば、守秘義務に触れる可能性はある。
だが、「人としての道に反することをしている人たち」がいる時に「おかしい」と声をあげることが法律違反に問われるとしたら、それはどんな社会なのか。私たちはそんな社会になることを望んでいるのか。断じて否、である。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年8月3日
http://www.johoyatai.com/6160
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官(時事通信のサイトから)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023073100648&g=pol
≪参考記事≫
◎『週刊文春』7月13日号、7月20日号、7月27日号、8月3日号、8月10日号
◎朝日新聞7月25日付、7月28日付
◎毎日新聞7月29日付、読売新聞7月29日付
◎河北新報7月28日付
◎東京新聞8月2日付
*東京新聞以外は、山形県で発行されている新聞の日付

大学で多少、法律を勉強していてもほとんど役に立たない。なにせ、刑事たちは生の事件を扱っている。無愛想で取り付く島もない。刑事たちが何をしているのか、まるで分からないまま、数カ月が過ぎた。
ある日、読売新聞に抜かれた。翌日は毎日新聞に抜かれた。地元の静岡新聞も特ダネを放つ。他社の記者がどうやってスクープをものにするのか、まるで分からなかった。朝日新聞の当時の上司から、「記者に向いてないんじゃないか?(会社を)辞めたら」と叱責された。
悔しくて涙が出そうになったが、泣いているわけにもいかない。刑事たちがよく行く赤提灯の飲み屋を回り、彼らの自宅を夜回りしてネタ集めを続けた。そのうち、憐れんだ刑事の一人が手がけている事件についてヒントをくれた。それを手がかりにして、やっと小さな「特ダネ」を書き、一矢報いることができた。
他社に抜かれるたびに、先輩記者にこう諭(さと)された。「クヨクヨすんな!きちんと追いかけろ。読者は一つの新聞しかとってないんだ。お前が書かなければ、知るすべがないだろ」。その通りだと思った。どこに抜かれたのか。なぜ、抜かれたのか。読者にとって、そんなことはどうでもいいことだ。読者に届けるべきニュースかどうか。それがすべてだと知った。
週刊文春はこの1カ月、木原誠二・官房副長官の妻が2006年に当時夫だった男性の変死に関与した疑いがあり、2018年に警視庁が殺人事件として再捜査を進めたが、木原氏の圧力で事件捜査が潰された疑いがある、と連続して報じた。
その報道内容は詳細かつ具体的だ。証言や証拠は報道内容を裏付けるに十分で、調査報道のお手本のような報道だ。変死した元夫の遺族は警察に再捜査を求め、7月20日に記者会見を開いた。ついには、2018年当時、警視庁捜査一課の殺人担当の刑事だった佐藤誠・元警部補(昨年退職)が実名で捜査の実情と捜査終了に至った経緯を文春の記者に赤裸々に語り、記者会見まで開いた(7月28日)。
佐藤元警部補が告発に至ったきっかけは、警察のトップである露木康浩・警察庁長官が7月13日の記者会見で「警視庁において捜査等の結果、証拠上、事件性が認められない旨を明らかにしている」と述べたことだ。
佐藤氏ら現場の刑事たちは未解決になっていた事件を掘り起こし、真相を解明するために力を尽くした。なのに、警察のトップが「そもそも事件ではなかった」と全否定したのだ。現場にとっては許しがたいことである。義憤に駆られての証言、と言える。警察庁の長官と現場の刑事のどちらが本当のことを語っているのか。少しでも事件を担当したことのある新聞記者なら「現場の刑事にはウソを言う理由がない」と、確信をもって言えるはずだ。
では、全国紙やNHKを含むテレビ各局が週刊文春の報道を黙殺しているのはなぜか。権力にピタリと寄り添うのを旨とする読売新聞が静観するのはよく分かる。ある意味、一貫している。だが、常日頃、権力の監視役を自任する朝日新聞や毎日新聞はなぜ、きちんと報じようとしないのか。
「いや、報じている」と言うのかもしれない。確かに、両紙は「松野博一官房長官は『週刊文春の報道は事実無根』と木原氏から報告を受けたと語った」などとベタ記事で報じた(7月28日、29日)。こういうのを「アリバイ記事」という。「黙殺なんかしてないよ」と取り繕うための記事だからだ。
全国紙の事件記者たちは「警察が事件ではない、と言っているものを報道するわけにはいかない」と言いたいのかもしれない。「ふざけるな」と言いたい。何が事件で、何を報じるかは報道機関が自ら判断すべきことだ。こういう問題で権力に寄りかかって、どうするのか。
「警察が事件として扱わないものは報じない」などと言っていたら、1988年のリクルート事件の報道はあり得なかった。この事件は、リクルート社が子会社の未公開株を賄賂として政治家や官僚らにバラまいた汚職事件だが、神奈川県警は上からの圧力に負けて捜査を投げ出した。
それを朝日新聞横浜支局の記者たちが掘り起こし、最後には当時の竹下内閣を総辞職に追い込んだ。「事件かどうか」の判断を権力側にゆだねていたら、決して明るみに出ることはなかった。その貴重な教訓を忘れたのか。
リクルート事件で問われたのは「贈収賄」だった。つまり、金品のやり取りである。重い罪であることに変わりはないが、今回、週刊文春が追及しているのは「人の命を奪う殺人」というさらに重大な罪である。こういう犯罪についてまで、政治家が権力をふりかざし、捜査を潰すのを許していたら、社会はどうなるのか。「法の支配」どころではない。「人としての道義」がすたれてしまう。
どんな社会でも、権力を握る者たちは自分たちに都合がいいように事を運ぼうとする。だが、そこにもおのずから「節度」というものがあるはずだ。それすら見失ったら、社会は漂流し、あらぬ方向に走り出す。「節度」まで崩れようとする時、それを押しとどめるものは「心ある者たちの覚悟」しかない。
今回の週刊文春の報道は、今の日本社会で「心ある者たち」がどこにいるか、それを炙り出す結果になった。全国紙やテレビ各局はてんでダメだが、東京新聞や河北新報などのブロック紙は立ち上がりつつある。河北新報は7月28日付で「文春報道 木原副長官が苦境」と報じ、東京新聞は8月2日付の「こちら特報部」で、木原副長官が報道陣との会見を避け、外遊もやめて「公務に支障」が生じている、と伝えた。
殺人事件の再捜査の状況と捜査終了に至った経緯を証言した佐藤元警部補に対して、「地方公務員法に定められた守秘義務に違反しているのではないか」と追及する向きがある。確かに、条文に照らせば、守秘義務に触れる可能性はある。
だが、「人としての道に反することをしている人たち」がいる時に「おかしい」と声をあげることが法律違反に問われるとしたら、それはどんな社会なのか。私たちはそんな社会になることを望んでいるのか。断じて否、である。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年8月3日
http://www.johoyatai.com/6160
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官(時事通信のサイトから)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023073100648&g=pol
≪参考記事≫
◎『週刊文春』7月13日号、7月20日号、7月27日号、8月3日号、8月10日号
◎朝日新聞7月25日付、7月28日付
◎毎日新聞7月29日付、読売新聞7月29日付
◎河北新報7月28日付
◎東京新聞8月2日付
*東京新聞以外は、山形県で発行されている新聞の日付
2023年の第11回最上川縦断カヌー探訪は7月29日(土)に村山市の碁点、三ケ瀬(みかのせ)、隼の瀬の三難所を下り、翌30日(日)に月山湖を周遊しました。テレビが「危険な暑さが続きます」と連呼する中でのカヌー行となりましたが、37人の参加者は全員、熱中症にもならず元気にカヌーを楽しみました。ご協力いただいたすべての皆様に深く感謝いたします。


≪出発&到着時刻≫
▽7月29日(土) 最上川三難所下り(参加32人)
午前7時 参加受付・検艇開始
8時 出発地の碁点橋のたもとからゴールの大石田河岸(かし)に
参加者が車で移動開始
8時半 大石田河岸からマイクロバスで碁点橋に戻る
9時15分 碁点橋のたもとから順次、出発




9時40分 最上川の共栄橋を通過
10時半 大淀で休憩
11時40分 隼の瀬に到着、昼食・休憩





午後1時半 隼の瀬を出発
3時15分 大石田河岸に到着

▽7月30日(日) 月山湖周遊(参加26人)
午前8時 参加受付・検艇開始
9時 月山湖の湖面広場から出発
◎三難所下りと月山湖周遊の写真&動画(撮影・塚本雅俊、小田原紫朗<膝方歳三>、中沢崇、清水孝治)
◎三難所下りの動画(撮影・真鍋賢一)
◎月山湖周遊の動画(撮影・真鍋賢一)
◎月山湖の砂防ダムの滝の動画(撮影・小田原紫朗)

正午すぎ 湖面広場に戻り、斉藤栄司さん提供の尾花沢スイカにかぶりつく

*月山湖では8月2日から、2023高校総体(インターハイ)の
カヌー競技が開かれるため、高校生の試漕が始まっていました。
≪参加者≫ 2日間で37人(1日目 32人、2日目26人)
▽7月29日(土) 参加32人
阿部明美(山形県天童市)、阿部俊裕(同)、石川毅(山形県村山市)、林和明(東京都足立区)、西沢あつし(東京都東村山市)、菊地大二郎(山形市)、七海信夫(福島県郡山市)、佐竹博文(埼玉県戸田市)、齋藤龍真(村山市)、中津希美(仙台市)、柏倉稔(山形県大江町)=29日のみ参加、清水孝治(神奈川県厚木市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、佐竹久(大江町)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、中沢崇(長野市)、結城敏宏(米沢市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、岸浩(福島市)、赤塚望(前橋市)、塚本雅俊(同)、小田原紫朗(山形県酒田市)、寒河江洋光(盛岡市)、吉田誠(千葉県松戸市)、大類晋(尾花沢市)、、矢萩剛(村山市)、山本剛生(天童市)、山本明莉(同)、阿部悠子(東京都八王子市)、崔鍾八(山形県朝日町)=2日間参加
▽7月30日(日) 参加26人(1日目参加の21人に加えて次の5人が参加)
清野礼子(仙台市)、吉田英世(同)、吉田志乃(同)、吉田蓮(同)、茂木奈津美(天童市)
*参加者のうち、最ベテランは神奈川県厚木市の清水孝治さん(82歳)、最若手は1日目が山本明莉さん(11歳)、2日目が吉田蓮さん(4歳)。山本明莉さんは2020年の第8回大会に7歳で参加しており、カヌー探訪での最上川下りの最年少記録保持者。

≪参加者の地域別内訳≫
山形県内 16人(天童市5人、村山市3人、尾花沢市2人、大江町2人、
山形市・酒田市・米沢市・朝日町各1人)
山形県外 21人(宮城県5人、東京都3人、群馬県3人、福島県2人、
埼玉県2人、神奈川県2人、岩手県・栃木県・千葉県・長野県各1人)
≪第1回―第11回の参加者≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人
第10回(2022年)45人、第11回(2023年)37人
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省最上川ダム統合管理事務所、山形県、
朝日町、村山市、大石田町、西川町、山形県カヌー協会
(記録文・長岡昇、写真撮影・長岡典己、結城敏宏、小田原紫朗(膝方歳三)、塚本雅俊、中沢崇、動画撮影・塚本雅俊、小田原紫朗、清水孝治、真鍋賢一)
≪第11回カヌー探訪の参加記念ステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 白田金之助▽佐竹恵子▽長岡典己▽長岡位久子▽長岡昇▽長岡佳子
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪受付設営・交通案内板設置・弁当と飲料の手配≫ 白田金之助、長岡昇、長岡佳子
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪仕出し弁当≫ ハリス食堂(山形県村山市)
≪尾花沢スイカ提供≫斉藤栄司
≪漬物提供≫ 佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 朝日観光バス(寒河江市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝


≪出発&到着時刻≫
▽7月29日(土) 最上川三難所下り(参加32人)
午前7時 参加受付・検艇開始
8時 出発地の碁点橋のたもとからゴールの大石田河岸(かし)に
参加者が車で移動開始
8時半 大石田河岸からマイクロバスで碁点橋に戻る
9時15分 碁点橋のたもとから順次、出発




9時40分 最上川の共栄橋を通過
10時半 大淀で休憩
11時40分 隼の瀬に到着、昼食・休憩





午後1時半 隼の瀬を出発
3時15分 大石田河岸に到着

▽7月30日(日) 月山湖周遊(参加26人)
午前8時 参加受付・検艇開始
9時 月山湖の湖面広場から出発
◎三難所下りと月山湖周遊の写真&動画(撮影・塚本雅俊、小田原紫朗<膝方歳三>、中沢崇、清水孝治)
◎三難所下りの動画(撮影・真鍋賢一)
◎月山湖周遊の動画(撮影・真鍋賢一)
◎月山湖の砂防ダムの滝の動画(撮影・小田原紫朗)

正午すぎ 湖面広場に戻り、斉藤栄司さん提供の尾花沢スイカにかぶりつく

*月山湖では8月2日から、2023高校総体(インターハイ)の
カヌー競技が開かれるため、高校生の試漕が始まっていました。
≪参加者≫ 2日間で37人(1日目 32人、2日目26人)
▽7月29日(土) 参加32人
阿部明美(山形県天童市)、阿部俊裕(同)、石川毅(山形県村山市)、林和明(東京都足立区)、西沢あつし(東京都東村山市)、菊地大二郎(山形市)、七海信夫(福島県郡山市)、佐竹博文(埼玉県戸田市)、齋藤龍真(村山市)、中津希美(仙台市)、柏倉稔(山形県大江町)=29日のみ参加、清水孝治(神奈川県厚木市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、佐竹久(大江町)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、中沢崇(長野市)、結城敏宏(米沢市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、岸浩(福島市)、赤塚望(前橋市)、塚本雅俊(同)、小田原紫朗(山形県酒田市)、寒河江洋光(盛岡市)、吉田誠(千葉県松戸市)、大類晋(尾花沢市)、、矢萩剛(村山市)、山本剛生(天童市)、山本明莉(同)、阿部悠子(東京都八王子市)、崔鍾八(山形県朝日町)=2日間参加
▽7月30日(日) 参加26人(1日目参加の21人に加えて次の5人が参加)
清野礼子(仙台市)、吉田英世(同)、吉田志乃(同)、吉田蓮(同)、茂木奈津美(天童市)
*参加者のうち、最ベテランは神奈川県厚木市の清水孝治さん(82歳)、最若手は1日目が山本明莉さん(11歳)、2日目が吉田蓮さん(4歳)。山本明莉さんは2020年の第8回大会に7歳で参加しており、カヌー探訪での最上川下りの最年少記録保持者。

≪参加者の地域別内訳≫
山形県内 16人(天童市5人、村山市3人、尾花沢市2人、大江町2人、
山形市・酒田市・米沢市・朝日町各1人)
山形県外 21人(宮城県5人、東京都3人、群馬県3人、福島県2人、
埼玉県2人、神奈川県2人、岩手県・栃木県・千葉県・長野県各1人)
≪第1回―第11回の参加者≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人
第10回(2022年)45人、第11回(2023年)37人
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省最上川ダム統合管理事務所、山形県、
朝日町、村山市、大石田町、西川町、山形県カヌー協会
(記録文・長岡昇、写真撮影・長岡典己、結城敏宏、小田原紫朗(膝方歳三)、塚本雅俊、中沢崇、動画撮影・塚本雅俊、小田原紫朗、清水孝治、真鍋賢一)
≪第11回カヌー探訪の参加記念ステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 白田金之助▽佐竹恵子▽長岡典己▽長岡位久子▽長岡昇▽長岡佳子
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪受付設営・交通案内板設置・弁当と飲料の手配≫ 白田金之助、長岡昇、長岡佳子
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪仕出し弁当≫ ハリス食堂(山形県村山市)
≪尾花沢スイカ提供≫斉藤栄司
≪漬物提供≫ 佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 朝日観光バス(寒河江市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝
久しぶりに文春砲の連続弾が炸裂している。週刊文春の今回の標的は、岸田文雄首相の懐刀とされる木原誠二・官房副長官である。疑惑の内容は「木原氏の妻の元夫は殺害された可能性がある」というものだ。

週刊文春や木原氏の公式サイトなどによれば、木原氏は1970年6月生まれの53歳。東大法学部を卒業した後、大蔵省(現財務省)に入り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学、2005年の郵政解散選挙で東京20区から自民党候補として立候補、当選した。
高祖父は諫早銀行頭取、曾祖父は大蔵省銀行課長という「財政金融ファミリー」の出身で、自らもその道に進んだが、英国大蔵省に出向した際、サッチャー元首相と出会い、政治を志したという。語学力も生かし、岸田政権では外交・安全保障分野で重要な役割を果たしている。
その木原氏の結婚相手は、元モデルで銀座のホステルをしていた女性だった。この女性には夫、安田種雄氏がいたが、同じくモデルだった種雄氏は2006年4月に自宅で変死体となって発見された。遺体から致死量の覚醒剤が検出されたことから、所轄の大塚警察署は「自殺」として処理した。

ところが、2018年、この対応に疑問を抱いた現場の刑事が遺族の協力を得て再捜査を始めた。遺族によれば、元夫には喉元から肺にまで達する傷があり、ナイフが足元に置かれていたという。ほかにも不審なことがいくつもあり、殺人事件の捜査にあたる警視庁の刑事たちも乗り出した。刑事たちは木原氏の妻の事情聴取や家宅捜索にこぎつけたが、捜査は「上からの指示」で突然、打ち切られたという。
7月27日の文春オンラインによれば、この再捜査にあたったベテラン刑事の佐藤誠警部補(昨年退職)は再捜査の経緯と打ち切りに至った事情を詳細に語った。佐藤氏は文春の記者に「当時から我々はホシを挙げるために全力で捜査に当たってきた。ところが、志半ばで中断させられた」と述べた。
佐藤氏が実名での告発を決断したきっかけは、一連の週刊文春の報道を受けて、警察庁の露木康浩長官が7月13日の定例会見で「証拠上、事件性が認められないと警視庁が明らかにしている」と語ったことだという。
この警察庁長官発言について、佐藤元警部補は「頭に来た。あの発言は真面目に仕事してきた俺たちを馬鹿にしている」と述べ、事件の捜査が上からの圧力で潰されたと、上司の名前も挙げて明言した。そして、捜査の過程で捜索令状を得て、DNAを採取するため、すでに木原誠二氏と再婚していたこの女性の採尿と採血を試みたところ、木原氏は「オマエなんて、いつでもクビ飛ばせるぞ!」と恫喝したのだという。

不可解なのは、この事件について主要な新聞やテレビがほとんど報じないことだ。元夫の遺族は警察に再捜査を求める上申書を出し、今年の7月20日には司法クラブで事件の解明を求める会見を開いたが、東京新聞など一部を除いて主要メディアは黙殺した。その一方で、木原氏の弁護士が「週刊文春の報道で(木原氏の妻の)人権侵害が起こる可能性がある」として日本弁護士連合会に人権救済の申し立てをしたことは、しっかり報じた。
一連の経緯を見て思うのは、「これはジャニー喜多川氏による性加害への対応とまるで同じ」ということだ。週刊文春が何度、性加害を報じても主要メディアは完全に黙殺した。英国のBBCが今年の3月に特報すると、やっと後追いする始末だった。
性加害事件ではジャニーズ事務所が芸能界やテレビ局に持つ巨大な影響力に怯えて、沈黙した。それに比べれば、木原官房副長官が持つ影響力ははるかに強大だ。今度も、権力に怯えて模様眺めを決め込んだ、ということだろう。
全国紙やNHK、民放各局は警視庁の記者クラブに何人もの記者を常駐させている。週刊文春には失礼ながら、文春よりはるかに人手も金もある。本気になれば、文春砲など吹き飛ばせるだけの材料を集められるはずだ。が、なにせ、本気になることがない。
それで「読者の新聞離れ」だの「視聴者のテレビ離れ」だのと愚痴を吐いても、誰も相手にするわけがない。しかるべき報酬を得て、しかるべき処遇を得ているのならば、報道の道を選んだ者としての気概と誇りを示したらどうか。
木原誠二・官房副長官の公式サイトには「誠心誠意、政策で!!」とのスローガンが掲げられている。ある賢人によれば、「人は自ら持ち合わせないものを掲げたがるものだ」という。けだし、名言と言うべきか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年7月27日
http://www.johoyatai.com/6140
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官
https://sakisiru.jp/44823
◎木原誠二氏の妻(ニュースサイト「One More News」)
https://one-more-life.jp/kihara-seiji-family/
◎事件の再捜査を求める元夫の父親(東京新聞のサイト)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264383
≪参考記事&サイト≫
◎文春オンライン スクープ速報(2023年7月27日)など、一連の週刊文春の報道
https://bunshun.jp/articles/-/64612
◎木原誠二氏の公式サイト
https://kiharaseiji.com/
◎木原誠二氏の妻について(One More News)
https://one-more-life.jp/kihara-seiji-family/
◎事件の再捜査を訴える元夫の父親(東京新聞のサイト)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264383
◎木原誠二の妻の元夫は人気モデル
https://emasora.com/kiharaseiji-wife-exhusband/

週刊文春や木原氏の公式サイトなどによれば、木原氏は1970年6月生まれの53歳。東大法学部を卒業した後、大蔵省(現財務省)に入り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学、2005年の郵政解散選挙で東京20区から自民党候補として立候補、当選した。
高祖父は諫早銀行頭取、曾祖父は大蔵省銀行課長という「財政金融ファミリー」の出身で、自らもその道に進んだが、英国大蔵省に出向した際、サッチャー元首相と出会い、政治を志したという。語学力も生かし、岸田政権では外交・安全保障分野で重要な役割を果たしている。
その木原氏の結婚相手は、元モデルで銀座のホステルをしていた女性だった。この女性には夫、安田種雄氏がいたが、同じくモデルだった種雄氏は2006年4月に自宅で変死体となって発見された。遺体から致死量の覚醒剤が検出されたことから、所轄の大塚警察署は「自殺」として処理した。

ところが、2018年、この対応に疑問を抱いた現場の刑事が遺族の協力を得て再捜査を始めた。遺族によれば、元夫には喉元から肺にまで達する傷があり、ナイフが足元に置かれていたという。ほかにも不審なことがいくつもあり、殺人事件の捜査にあたる警視庁の刑事たちも乗り出した。刑事たちは木原氏の妻の事情聴取や家宅捜索にこぎつけたが、捜査は「上からの指示」で突然、打ち切られたという。
7月27日の文春オンラインによれば、この再捜査にあたったベテラン刑事の佐藤誠警部補(昨年退職)は再捜査の経緯と打ち切りに至った事情を詳細に語った。佐藤氏は文春の記者に「当時から我々はホシを挙げるために全力で捜査に当たってきた。ところが、志半ばで中断させられた」と述べた。
佐藤氏が実名での告発を決断したきっかけは、一連の週刊文春の報道を受けて、警察庁の露木康浩長官が7月13日の定例会見で「証拠上、事件性が認められないと警視庁が明らかにしている」と語ったことだという。
この警察庁長官発言について、佐藤元警部補は「頭に来た。あの発言は真面目に仕事してきた俺たちを馬鹿にしている」と述べ、事件の捜査が上からの圧力で潰されたと、上司の名前も挙げて明言した。そして、捜査の過程で捜索令状を得て、DNAを採取するため、すでに木原誠二氏と再婚していたこの女性の採尿と採血を試みたところ、木原氏は「オマエなんて、いつでもクビ飛ばせるぞ!」と恫喝したのだという。

不可解なのは、この事件について主要な新聞やテレビがほとんど報じないことだ。元夫の遺族は警察に再捜査を求める上申書を出し、今年の7月20日には司法クラブで事件の解明を求める会見を開いたが、東京新聞など一部を除いて主要メディアは黙殺した。その一方で、木原氏の弁護士が「週刊文春の報道で(木原氏の妻の)人権侵害が起こる可能性がある」として日本弁護士連合会に人権救済の申し立てをしたことは、しっかり報じた。
一連の経緯を見て思うのは、「これはジャニー喜多川氏による性加害への対応とまるで同じ」ということだ。週刊文春が何度、性加害を報じても主要メディアは完全に黙殺した。英国のBBCが今年の3月に特報すると、やっと後追いする始末だった。
性加害事件ではジャニーズ事務所が芸能界やテレビ局に持つ巨大な影響力に怯えて、沈黙した。それに比べれば、木原官房副長官が持つ影響力ははるかに強大だ。今度も、権力に怯えて模様眺めを決め込んだ、ということだろう。
全国紙やNHK、民放各局は警視庁の記者クラブに何人もの記者を常駐させている。週刊文春には失礼ながら、文春よりはるかに人手も金もある。本気になれば、文春砲など吹き飛ばせるだけの材料を集められるはずだ。が、なにせ、本気になることがない。
それで「読者の新聞離れ」だの「視聴者のテレビ離れ」だのと愚痴を吐いても、誰も相手にするわけがない。しかるべき報酬を得て、しかるべき処遇を得ているのならば、報道の道を選んだ者としての気概と誇りを示したらどうか。
木原誠二・官房副長官の公式サイトには「誠心誠意、政策で!!」とのスローガンが掲げられている。ある賢人によれば、「人は自ら持ち合わせないものを掲げたがるものだ」という。けだし、名言と言うべきか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2023年7月27日
http://www.johoyatai.com/6140
≪写真説明≫
◎木原誠二・官房副長官
https://sakisiru.jp/44823
◎木原誠二氏の妻(ニュースサイト「One More News」)
https://one-more-life.jp/kihara-seiji-family/
◎事件の再捜査を求める元夫の父親(東京新聞のサイト)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264383
≪参考記事&サイト≫
◎文春オンライン スクープ速報(2023年7月27日)など、一連の週刊文春の報道
https://bunshun.jp/articles/-/64612
◎木原誠二氏の公式サイト
https://kiharaseiji.com/
◎木原誠二氏の妻について(One More News)
https://one-more-life.jp/kihara-seiji-family/
◎事件の再捜査を訴える元夫の父親(東京新聞のサイト)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264383
◎木原誠二の妻の元夫は人気モデル
https://emasora.com/kiharaseiji-wife-exhusband/
第11回最上川縦断カヌー探訪(2023年7月29日、30日)は予定通り開催します。29日は午前7時から、村山市の碁点橋のたもとで検艇を始めます。30日は午前8時に月山湖のカヌー発着場にお集まりください。NPO「ブナの森」のサイトの「コース図」に詳しい地図をアップしています。ご参照ください。
今回の参加予定者は40人です。1日目は34人が最上川の三難所下りに挑み、2日目は29人が月山湖をめぐる予定です。山形県内から18人、県外から22人が参加します。県外の内訳は仙台市など宮城県から6人、東京都と群馬県から各3人、福島県・埼玉県・神奈川県から各2人など。山形県内では天童市の5人、山形市と村山市が各3人などです。
レスキュー担当がみなさんをサポートしますが、それぞれ無理のないカヌー行になるよう心がけてください。猛暑の中での開催になります。水分を十分にとるなど、熱中症対策も怠りなく。最上川の河畔、月山湖の湖畔でお待ちしています。
今回の参加予定者は40人です。1日目は34人が最上川の三難所下りに挑み、2日目は29人が月山湖をめぐる予定です。山形県内から18人、県外から22人が参加します。県外の内訳は仙台市など宮城県から6人、東京都と群馬県から各3人、福島県・埼玉県・神奈川県から各2人など。山形県内では天童市の5人、山形市と村山市が各3人などです。
レスキュー担当がみなさんをサポートしますが、それぞれ無理のないカヌー行になるよう心がけてください。猛暑の中での開催になります。水分を十分にとるなど、熱中症対策も怠りなく。最上川の河畔、月山湖の湖畔でお待ちしています。
アラブの春は2010年、チュニジアから始まった。失業と貧困、権力の腐敗に怒った民衆の大規模なデモで長期政権が倒されると、その波はエジプトに広がり、ムバラク大統領を退陣に追い込み、リビアでは独裁者カダフィ大佐を死に追いやった。
だが、春はシリアには来なかった。「中東でもっとも冷酷な独裁者」と評されるアサド大統領は激しい内戦を勝ち抜き、政権を維持している。アサド氏が生き延びることができたのは、イスラム教シーア派の国家イランに加えて、ロシアが支えたからである。

プーチン大統領は戦闘機や戦車、兵力を惜しみなく供与し、アサド大統領が敵対勢力を駆逐するのを助けた。中東でのロシアの存在感を誇示するためだ。その際、兵力の中心となったのはロシアの正規軍ではなく、今回反乱を起こしたプリゴジン氏率いる傭兵組織ワグネルである。
ワグネルに関しては、刑務所の囚人を兵士としてリクルートしていることが知られており、「囚人部隊」のように言う人もいるが、それは一面的な捉え方だろう。この傭兵組織の中核は「スペツナズ」と呼ばれるロシア軍参謀本部直属の特殊部隊の元将兵たちだ。
ワグネルの幹部ドミトリー・ウトキン氏は、チェチェン紛争で旅団長をつとめた猛者だ。スペツナズは通常の戦闘に加えて、破壊工作や要人の暗殺、ネット空間を使った電子戦も得意とする。混沌とした状況になるほど力を発揮する部隊と言っていい。
この傭兵組織が中東以上に存在感を示しているのがアフリカだ。中央アフリカ共和国やスーダン、リビア、ルワンダ、マリ、コンゴ民主共和国など十数カ国で作戦を展開している。ロシアは、外交的な配慮もあって正規軍を大規模に派遣するわけにはいかない。それをワグネルが代行している形だ。ゆえに「プーチンの影の軍団」と言われる。巨額の資金が投じられていることは言うまでもない。
フランスの植民地だった中央アフリカ共和国を例に取れば、1960年の独立以来、武力抗争とクーデターに明け暮れてきたこの国で、ワグネルは戦闘を担うだけでなく、トゥアデラ大統領の警護まで担当している。「ロシアの支えなしでは生きていけない大統領」なのだ。
もちろん、プーチン大統領もプリゴジン氏も善意で支援しているわけではない。中央アフリカ共和国にはダイヤモンドと金の有力な鉱山がある。リビアとスーダンには石油だ。プリゴジン氏の傭兵組織や関連会社はそれらの利権に深く食い込んで利益をむさぼっている、とされる。
今回、プリゴジン氏は反乱を終わらせ、部隊を撤収するにあたって、プーチン大統領側とギリギリと交渉を重ねた形跡がある。プリゴジン氏側は「部隊の撤収後もアフリカでの活動については沈黙を守る」と約束した、と見るのが自然だ。
ロシアがアフリカ諸国で行っていることを洗いざらいぶちまけられれば、国連など国際社会でのロシアの評判はガタ落ちになる。そんなことは何としても防がなければならない。一方で、プリゴジン氏側はロシアにいる妻子の安全を確保し、膨大な資産を保全しなければならない。そうしたことを秤にかけて、両者はベラルーシのルカシェンコ大統領の仲介を受け入れたのだろう。
見過ごせないのは、ワグネルのアフリカでのこうした活動を調べていたジャーナリストが次々に不審な死を遂げていることだ。中央アフリカ共和国では、2018年7月に経験豊富な戦場ジャーナリストのオルハン・ジェマリ氏とドキュメンタリー映像監督のアレクサンドル・ラストルグエフ氏、カメラマンのキリル・ラドチェンコ氏が射殺体で発見された。
地元の捜査当局は「武装した強盗の仕業」として扱った。ロシア国営タス通信も「強盗目的の犯行」と報じた。だが、3人はこの国でのワグネルの活動実態を調べるため現地入りしたのだった。捜査当局やロシアの言い分を額面通りに受けとめるわけにはいかない。

ジャーナリストの不慮の死はこれだけではない。ロシアのエカテリンブルクでは同年4月、シリアでのワグネルの動きを調べていた通信社記者のマクシム・ボロディン氏がアパートの5階から転落死しているのが発見された。タス通信は例によって「犯罪の形跡はない」と報じたが、欧州安保協力機構(OSCE)のメディア担当は「深刻な懸念」を表明し、徹底的な捜査を行うよう求めた。ワグネルを追っていて命を落とした記者はもっといる。
戦場の兵士だけが命がけで戦っているのではない。ロシアでは事実を追い求め、良心に基づいて報じる――そのこと自体が命がけなのだ。報道を生涯の仕事とした者の一人として、そのことを忘れるわけにはいかない。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年7月3日
https://news-hunter.org/?p=18294
≪写真説明≫
◎中央アフリカで殺害されたジェマリ、ラストルグエフ、ラドチェンコの3氏(右から、BBCのサイト)
https://www.bbc.com/news/world-europe-45030087
◎不慮の死を遂げたボロディン氏(BBCのサイト)
Russian reporter Borodin dead after mystery fall - BBC News
≪参考記事&サイト≫
◎ワグネル反乱に関する読売新聞、産経新聞の記事(6月29日付、同30日付)
◎Central African Republic : Russian journalists die in ambush (BBC, 31 July 2018)
https://www.bbc.com/news/world-africa-45025601
◎ロシア人記者が自宅で転落死、シリアで展開の同国人傭兵について執筆(AFP、2018年4月16日)
https://www.afpbb.com/articles/-/3171368
◎Russian reporter Borodin dead after mistery fall (BBC, 16 April 2018)
https://www.bbc.com/news/world-europe-43781351
だが、春はシリアには来なかった。「中東でもっとも冷酷な独裁者」と評されるアサド大統領は激しい内戦を勝ち抜き、政権を維持している。アサド氏が生き延びることができたのは、イスラム教シーア派の国家イランに加えて、ロシアが支えたからである。

プーチン大統領は戦闘機や戦車、兵力を惜しみなく供与し、アサド大統領が敵対勢力を駆逐するのを助けた。中東でのロシアの存在感を誇示するためだ。その際、兵力の中心となったのはロシアの正規軍ではなく、今回反乱を起こしたプリゴジン氏率いる傭兵組織ワグネルである。
ワグネルに関しては、刑務所の囚人を兵士としてリクルートしていることが知られており、「囚人部隊」のように言う人もいるが、それは一面的な捉え方だろう。この傭兵組織の中核は「スペツナズ」と呼ばれるロシア軍参謀本部直属の特殊部隊の元将兵たちだ。
ワグネルの幹部ドミトリー・ウトキン氏は、チェチェン紛争で旅団長をつとめた猛者だ。スペツナズは通常の戦闘に加えて、破壊工作や要人の暗殺、ネット空間を使った電子戦も得意とする。混沌とした状況になるほど力を発揮する部隊と言っていい。
この傭兵組織が中東以上に存在感を示しているのがアフリカだ。中央アフリカ共和国やスーダン、リビア、ルワンダ、マリ、コンゴ民主共和国など十数カ国で作戦を展開している。ロシアは、外交的な配慮もあって正規軍を大規模に派遣するわけにはいかない。それをワグネルが代行している形だ。ゆえに「プーチンの影の軍団」と言われる。巨額の資金が投じられていることは言うまでもない。
フランスの植民地だった中央アフリカ共和国を例に取れば、1960年の独立以来、武力抗争とクーデターに明け暮れてきたこの国で、ワグネルは戦闘を担うだけでなく、トゥアデラ大統領の警護まで担当している。「ロシアの支えなしでは生きていけない大統領」なのだ。
もちろん、プーチン大統領もプリゴジン氏も善意で支援しているわけではない。中央アフリカ共和国にはダイヤモンドと金の有力な鉱山がある。リビアとスーダンには石油だ。プリゴジン氏の傭兵組織や関連会社はそれらの利権に深く食い込んで利益をむさぼっている、とされる。
今回、プリゴジン氏は反乱を終わらせ、部隊を撤収するにあたって、プーチン大統領側とギリギリと交渉を重ねた形跡がある。プリゴジン氏側は「部隊の撤収後もアフリカでの活動については沈黙を守る」と約束した、と見るのが自然だ。
ロシアがアフリカ諸国で行っていることを洗いざらいぶちまけられれば、国連など国際社会でのロシアの評判はガタ落ちになる。そんなことは何としても防がなければならない。一方で、プリゴジン氏側はロシアにいる妻子の安全を確保し、膨大な資産を保全しなければならない。そうしたことを秤にかけて、両者はベラルーシのルカシェンコ大統領の仲介を受け入れたのだろう。
見過ごせないのは、ワグネルのアフリカでのこうした活動を調べていたジャーナリストが次々に不審な死を遂げていることだ。中央アフリカ共和国では、2018年7月に経験豊富な戦場ジャーナリストのオルハン・ジェマリ氏とドキュメンタリー映像監督のアレクサンドル・ラストルグエフ氏、カメラマンのキリル・ラドチェンコ氏が射殺体で発見された。
地元の捜査当局は「武装した強盗の仕業」として扱った。ロシア国営タス通信も「強盗目的の犯行」と報じた。だが、3人はこの国でのワグネルの活動実態を調べるため現地入りしたのだった。捜査当局やロシアの言い分を額面通りに受けとめるわけにはいかない。

ジャーナリストの不慮の死はこれだけではない。ロシアのエカテリンブルクでは同年4月、シリアでのワグネルの動きを調べていた通信社記者のマクシム・ボロディン氏がアパートの5階から転落死しているのが発見された。タス通信は例によって「犯罪の形跡はない」と報じたが、欧州安保協力機構(OSCE)のメディア担当は「深刻な懸念」を表明し、徹底的な捜査を行うよう求めた。ワグネルを追っていて命を落とした記者はもっといる。
戦場の兵士だけが命がけで戦っているのではない。ロシアでは事実を追い求め、良心に基づいて報じる――そのこと自体が命がけなのだ。報道を生涯の仕事とした者の一人として、そのことを忘れるわけにはいかない。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年7月3日
https://news-hunter.org/?p=18294
≪写真説明≫
◎中央アフリカで殺害されたジェマリ、ラストルグエフ、ラドチェンコの3氏(右から、BBCのサイト)
https://www.bbc.com/news/world-europe-45030087
◎不慮の死を遂げたボロディン氏(BBCのサイト)
Russian reporter Borodin dead after mystery fall - BBC News
≪参考記事&サイト≫
◎ワグネル反乱に関する読売新聞、産経新聞の記事(6月29日付、同30日付)
◎Central African Republic : Russian journalists die in ambush (BBC, 31 July 2018)
https://www.bbc.com/news/world-africa-45025601
◎ロシア人記者が自宅で転落死、シリアで展開の同国人傭兵について執筆(AFP、2018年4月16日)
https://www.afpbb.com/articles/-/3171368
◎Russian reporter Borodin dead after mistery fall (BBC, 16 April 2018)
https://www.bbc.com/news/world-europe-43781351
武器を持って起ち上がった場合、失敗すればその首謀者は極刑に処されるのが世の習いである。国家に対する明白な反逆であり、権力者は反逆者には死をもって報いるか終身刑に処すのが普通だ。けれども、ロシアではそうでもないようだ。不可解な国である。

エフゲニー・プリゴジン氏が率いる傭兵組織ワグネルが6月23日夜、ロシア南部のロストフ州で反乱を起こした。傭兵たちはロシア軍南部軍管区の司令部を制圧し、モスクワに向かって進軍を始めた。戦車を連ね、対空兵器を携えての反乱である。
日本でも1936年(昭和11年)に雪降る首都東京で青年将校が率いる反乱が起きたことがある。いわゆる二・二六事件だ。高橋是清蔵相や斎藤実・元海軍大臣らが殺害され、天皇と陸軍首脳を巻き込んで大騒動になったが、この時に武装蜂起した将兵は1500人足らずに過ぎない。武器も機関銃と小銃程度で、ほどなく鎮圧された。
それに比べると、「プリゴジンの反乱」はスケールがまるで異なる。傭兵組織の兵力は2万人から3万人とされる。2個師団相当である。しかも、ウクライナとの戦争の最前線で戦ってきた将兵が含まれ、戦闘力もけた違いだ。実際、ロシア軍が鎮圧のため武装ヘリコプターを差し向けたところ、ワグネルの部隊に撃墜されてしまったという。
反乱軍はものすごい勢いでモスクワへと北進した。翌24日にはモスクワまで200キロの地点に到達している。それは、ロシア軍内部にも反乱に同調もしくは黙認する動きがあったことを意味する。ネットには途中の街で反乱軍を歓呼の声で迎える市民の映像が流れた。まるで解放軍が来たかのような歓迎ぶりだった。
深刻な事態である。プーチン大統領は緊急テレビ演説で、「これは裏切りである」と断じ、武器を取った者は罰せられる、と警告した。2000年に大統領に就任し、すでに4半世紀近くその座にある絶対権力者である。断固たる措置を執る、と誰もが思った。共同通信は事態を「内戦の様相すら呈す」と報じた。
ここからがロシアが「不可解な国」であるゆえんである。蜂起から24時間もたたないうちに手打ちに至った。ロシア大統領府は「ワグネルへの(反逆罪での)捜査を打ち切る」「プリゴジン氏は隣国のベラルーシに出国(亡命)する」と発表した。プリゴジン氏もこれに応じて部隊を撤収させ、姿を消した。手打ちを仲介したベラルーシのルカシェンコ大統領の庇護を受けていると見られる。
反乱の首謀者はどのような人物なのか。プリゴジン氏はプーチン氏と同じサンクトペテルブルク(出生当時はレニングラード)出身だが、その生い立ちはポジとネガのように異なる。プーチン氏はレニングラード国立大学を出た後、KGB(国家保安委員会)の諜報員として出世の階段を駆け上っていった。ソ連共産党のエリート党員として歩み、政界に転じた。
一方のプリゴジン氏は幼くして父親を亡くし、病院で働く母親によって育てられた。英語版のウィキペディアによれば、実父も継父もユダヤ系という。全寮制の体育学校でクロスカントリースキーに打ち込んだが、目立った成績は収めていない。
18歳の時、窃盗で捕まり、執行猶予付き2年拘禁の判決を受けた。その2年後には強盗と詐欺、年少者に犯罪をそそのかした罪で12年の実刑判決。恩赦で9年の拘禁で済んだのは幸運だっただろう。プリゴジン氏は長い刑務所生活で様々なことを学び、人脈を築いていったものと見られる。
商才はあったようだ。出所後、彼は母親や継父とホットドッグの販売を始めた。商売は当たり、「ルーブル紙幣が数えきれないほど積み上がった」とニューヨークタイムズ紙に語っている。1991年のソ連崩壊後の混乱の中で、食料品チェーン店やカジノ、船上レストランとビジネスを広げていった。
とくに、古都サンクトペテルブルクでの船上レストランは大当たりした。プーチン大統領がシラク仏大統領やジョージ・W・ブッシュ米大統領を連れて食事に来た。この時の縁が「プーチンとの関係」の始まりのようだ。
プリゴジン氏が傭兵組織ワグネルを立ち上げたのは2014年頃である。ロシアがウクライナの政治的混乱に乗じてクリミア半島を併合し、東部ドンバス地方に住むロシア系住民の武装化を進めていった時期だ。ワグネルの軍事行動はシリア、中央アフリカ共和国などに広がっていった。
ロシアでは私兵組織は法的に禁じられている。が、ロシアの法律は政治の力でどのようにでも解釈、運用可能だ。それは、政治や軍事、経済のカタギの世界と裏社会との境界がはっきりせず、溶け合っていることを意味する。その闇はとてつもなく深い、と見るべきだろう。
プリゴジン氏は有力なオリガルヒ(新興財閥)の一人であり、プーチン氏の盟友である。ワグネルは「プーチンの私兵」の役割を果たし、ロシア正規軍を派遣できないような紛争に派遣されるようになっていった。中央アフリカでは、ワグネルの活動を調査していたロシアの複数のジャーナリストが殺害された。「邪魔者は消す」という露骨なやり方は、明と暗が溶け合い、法があって無いような社会でまかり通る手法だ。
たたき上げの苦労人だからか、プリゴジン氏はいわゆるエリートが大嫌いなようだ(プーチン氏を除いて)。とりわけ、セルゲイ・ショイグ国防相を口を極めてののしっている。ショイグ氏は中央アジアのテュルク系の少数民族トゥバ人で、クラスノヤルスク工業大学で建築学を学んだ。危機管理と災害復旧での実績が評価されて共産党の大幹部になり、プーチン政権で国防相に上り詰めた。軍務経験はまったくない。

傭兵を率い、前線に出ることもいとわないプリゴジン氏にとって、戦場の経験もないショイグ氏があれこれ指図するのは受け入れがたいのだろう。ネットで「ショイグ!ゲラシモフ(参謀総長)! 弾薬はどこだ」と前線での弾薬不足に激怒し、「お前らがきれいな執務室で肥え太るために彼らは死んでいったのだ」とののしった。どこの社会にも庶民には「エリートに対する反発」がある。反乱軍に対する民衆の歓呼の声はそれを裏付けるものだろう。
ショイグ氏への誹謗中傷の中で注目されるのは、ウクライナ侵攻以来、ロシア軍やワグネルに犠牲者が続出していることをプリゴジン氏が明らかにし、「お前たちはロシア兵10万人を殺した犯罪者だ」とののしったことだ。ウクライナ戦争でのロシア側の犠牲者については様々な憶測が流れているが、ロシア側から10万人という数字が出たのはこれが初めてではないか。
ロシアは侵攻当初、ウクライナに19万の兵力を投入し、その後、30万人の予備役を追加したとされる。イギリスの情報機関やアメリカの戦争研究所などがロシア側の死者数についていくつかの推計を発表しているが、プリゴジン氏が唱える10万人はその最大値に近い。
傭兵組織の存在と活用にしても、今回の反乱の顛末にしても、ロシアには「法の支配」という意識が感じられない。力こそすべて、政治がすべてを決めていく、という土壌が分厚く積もっているように感じる。私たちには想像もできないような感覚が支配している、と言うべきだろう。
と、こんな風に書いてきて、では私たちの国を外から見れば、どんな風に見えるのだろうか、と考えさせられた。もちろん、自由な国であり、法律もそれなりに機能している。だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が残した日本国憲法は、第14条で「法の下の平等」をうたいながら、天皇の特別な地位と世襲を例外として認めている。
第9条で戦争の放棄と「戦力の不保持」を明記しているのに、アジア有数の軍備を持つ自衛隊がある。現実に合わせて憲法をはじめとする法律を改変し、それを守っていくという意識が乏しい。「今の憲法を一字一句変えてはならない」と真面目な顔で唱える政治家もいる。
法と論理に厳格なドイツ人やフランス人に言わせれば、とても理解できないことであり、彼らにとっては日本もまた、ロシアとは違う意味で「不可解な国」の一つだろう。この世には不可解と不条理が山ほどある、ということか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 119」 2023年6月28日
≪写真説明≫
◎ワグネルの戦車に歓呼の声を上げる市民(BBCのサイトから)
◎戦闘服を身に着けたプリゴジン氏(CNNのサイトから)
≪参考記事&サイト≫
◎6月25日、26日の新聞各紙
◎英語版ウィキペディア「Yevgeniy Prigozhin」
https://en.wikipedia.org/wiki/Yevgeny_Prigozhin

エフゲニー・プリゴジン氏が率いる傭兵組織ワグネルが6月23日夜、ロシア南部のロストフ州で反乱を起こした。傭兵たちはロシア軍南部軍管区の司令部を制圧し、モスクワに向かって進軍を始めた。戦車を連ね、対空兵器を携えての反乱である。
日本でも1936年(昭和11年)に雪降る首都東京で青年将校が率いる反乱が起きたことがある。いわゆる二・二六事件だ。高橋是清蔵相や斎藤実・元海軍大臣らが殺害され、天皇と陸軍首脳を巻き込んで大騒動になったが、この時に武装蜂起した将兵は1500人足らずに過ぎない。武器も機関銃と小銃程度で、ほどなく鎮圧された。
それに比べると、「プリゴジンの反乱」はスケールがまるで異なる。傭兵組織の兵力は2万人から3万人とされる。2個師団相当である。しかも、ウクライナとの戦争の最前線で戦ってきた将兵が含まれ、戦闘力もけた違いだ。実際、ロシア軍が鎮圧のため武装ヘリコプターを差し向けたところ、ワグネルの部隊に撃墜されてしまったという。
反乱軍はものすごい勢いでモスクワへと北進した。翌24日にはモスクワまで200キロの地点に到達している。それは、ロシア軍内部にも反乱に同調もしくは黙認する動きがあったことを意味する。ネットには途中の街で反乱軍を歓呼の声で迎える市民の映像が流れた。まるで解放軍が来たかのような歓迎ぶりだった。
深刻な事態である。プーチン大統領は緊急テレビ演説で、「これは裏切りである」と断じ、武器を取った者は罰せられる、と警告した。2000年に大統領に就任し、すでに4半世紀近くその座にある絶対権力者である。断固たる措置を執る、と誰もが思った。共同通信は事態を「内戦の様相すら呈す」と報じた。
ここからがロシアが「不可解な国」であるゆえんである。蜂起から24時間もたたないうちに手打ちに至った。ロシア大統領府は「ワグネルへの(反逆罪での)捜査を打ち切る」「プリゴジン氏は隣国のベラルーシに出国(亡命)する」と発表した。プリゴジン氏もこれに応じて部隊を撤収させ、姿を消した。手打ちを仲介したベラルーシのルカシェンコ大統領の庇護を受けていると見られる。
反乱の首謀者はどのような人物なのか。プリゴジン氏はプーチン氏と同じサンクトペテルブルク(出生当時はレニングラード)出身だが、その生い立ちはポジとネガのように異なる。プーチン氏はレニングラード国立大学を出た後、KGB(国家保安委員会)の諜報員として出世の階段を駆け上っていった。ソ連共産党のエリート党員として歩み、政界に転じた。
一方のプリゴジン氏は幼くして父親を亡くし、病院で働く母親によって育てられた。英語版のウィキペディアによれば、実父も継父もユダヤ系という。全寮制の体育学校でクロスカントリースキーに打ち込んだが、目立った成績は収めていない。
18歳の時、窃盗で捕まり、執行猶予付き2年拘禁の判決を受けた。その2年後には強盗と詐欺、年少者に犯罪をそそのかした罪で12年の実刑判決。恩赦で9年の拘禁で済んだのは幸運だっただろう。プリゴジン氏は長い刑務所生活で様々なことを学び、人脈を築いていったものと見られる。
商才はあったようだ。出所後、彼は母親や継父とホットドッグの販売を始めた。商売は当たり、「ルーブル紙幣が数えきれないほど積み上がった」とニューヨークタイムズ紙に語っている。1991年のソ連崩壊後の混乱の中で、食料品チェーン店やカジノ、船上レストランとビジネスを広げていった。
とくに、古都サンクトペテルブルクでの船上レストランは大当たりした。プーチン大統領がシラク仏大統領やジョージ・W・ブッシュ米大統領を連れて食事に来た。この時の縁が「プーチンとの関係」の始まりのようだ。
プリゴジン氏が傭兵組織ワグネルを立ち上げたのは2014年頃である。ロシアがウクライナの政治的混乱に乗じてクリミア半島を併合し、東部ドンバス地方に住むロシア系住民の武装化を進めていった時期だ。ワグネルの軍事行動はシリア、中央アフリカ共和国などに広がっていった。
ロシアでは私兵組織は法的に禁じられている。が、ロシアの法律は政治の力でどのようにでも解釈、運用可能だ。それは、政治や軍事、経済のカタギの世界と裏社会との境界がはっきりせず、溶け合っていることを意味する。その闇はとてつもなく深い、と見るべきだろう。
プリゴジン氏は有力なオリガルヒ(新興財閥)の一人であり、プーチン氏の盟友である。ワグネルは「プーチンの私兵」の役割を果たし、ロシア正規軍を派遣できないような紛争に派遣されるようになっていった。中央アフリカでは、ワグネルの活動を調査していたロシアの複数のジャーナリストが殺害された。「邪魔者は消す」という露骨なやり方は、明と暗が溶け合い、法があって無いような社会でまかり通る手法だ。
たたき上げの苦労人だからか、プリゴジン氏はいわゆるエリートが大嫌いなようだ(プーチン氏を除いて)。とりわけ、セルゲイ・ショイグ国防相を口を極めてののしっている。ショイグ氏は中央アジアのテュルク系の少数民族トゥバ人で、クラスノヤルスク工業大学で建築学を学んだ。危機管理と災害復旧での実績が評価されて共産党の大幹部になり、プーチン政権で国防相に上り詰めた。軍務経験はまったくない。

傭兵を率い、前線に出ることもいとわないプリゴジン氏にとって、戦場の経験もないショイグ氏があれこれ指図するのは受け入れがたいのだろう。ネットで「ショイグ!ゲラシモフ(参謀総長)! 弾薬はどこだ」と前線での弾薬不足に激怒し、「お前らがきれいな執務室で肥え太るために彼らは死んでいったのだ」とののしった。どこの社会にも庶民には「エリートに対する反発」がある。反乱軍に対する民衆の歓呼の声はそれを裏付けるものだろう。
ショイグ氏への誹謗中傷の中で注目されるのは、ウクライナ侵攻以来、ロシア軍やワグネルに犠牲者が続出していることをプリゴジン氏が明らかにし、「お前たちはロシア兵10万人を殺した犯罪者だ」とののしったことだ。ウクライナ戦争でのロシア側の犠牲者については様々な憶測が流れているが、ロシア側から10万人という数字が出たのはこれが初めてではないか。
ロシアは侵攻当初、ウクライナに19万の兵力を投入し、その後、30万人の予備役を追加したとされる。イギリスの情報機関やアメリカの戦争研究所などがロシア側の死者数についていくつかの推計を発表しているが、プリゴジン氏が唱える10万人はその最大値に近い。
傭兵組織の存在と活用にしても、今回の反乱の顛末にしても、ロシアには「法の支配」という意識が感じられない。力こそすべて、政治がすべてを決めていく、という土壌が分厚く積もっているように感じる。私たちには想像もできないような感覚が支配している、と言うべきだろう。
と、こんな風に書いてきて、では私たちの国を外から見れば、どんな風に見えるのだろうか、と考えさせられた。もちろん、自由な国であり、法律もそれなりに機能している。だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が残した日本国憲法は、第14条で「法の下の平等」をうたいながら、天皇の特別な地位と世襲を例外として認めている。
第9条で戦争の放棄と「戦力の不保持」を明記しているのに、アジア有数の軍備を持つ自衛隊がある。現実に合わせて憲法をはじめとする法律を改変し、それを守っていくという意識が乏しい。「今の憲法を一字一句変えてはならない」と真面目な顔で唱える政治家もいる。
法と論理に厳格なドイツ人やフランス人に言わせれば、とても理解できないことであり、彼らにとっては日本もまた、ロシアとは違う意味で「不可解な国」の一つだろう。この世には不可解と不条理が山ほどある、ということか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 119」 2023年6月28日
≪写真説明≫
◎ワグネルの戦車に歓呼の声を上げる市民(BBCのサイトから)
◎戦闘服を身に着けたプリゴジン氏(CNNのサイトから)
≪参考記事&サイト≫
◎6月25日、26日の新聞各紙
◎英語版ウィキペディア「Yevgeniy Prigozhin」
https://en.wikipedia.org/wiki/Yevgeny_Prigozhin
イデオロギーの怖さは「決めつけること」にある。「すべての歴史は階級闘争の歴史である」とマルクスは唱えた。そして、「人間の社会は原始共産制から奴隷制、封建制、資本主義を経て社会主義、共産主義に至る」と決めつけた。
それは「歴史の発展法則であり、必然である」として、資本主義を暴力革命で打倒するよう呼びかけた。イデオロギーは「自由な発想」を許さない。それに異を唱える思想や思考を排斥した。
日本では戦前、共産党は非合法とされ、過酷な弾圧を受けた。天皇制の下で戦争に突き進み、破局を迎えると、獄中で非転向を貫いた共産党員は釈放され、マルクス主義が急激に広まった。彼らは一貫して「天皇制の廃絶」と「侵略戦争反対」を訴えていたからだ。戦後社会、とりわけ知識層に大きな影響を与えた。
被差別部落の解放をめざす運動と理論は、こうした歴史のうねりの中で展開され、構築されていった。「部落は戦国末期から江戸時代にかけて、支配階級が民衆を分断統治するため新たにつくり出したもの」という近世政治起源説も戦後、マルクス主義を基盤にして成立し、広まった。
けれども、一人ひとりの人間が織り成す歴史は「階級闘争」という観点だけで説明できるものではない。「資本主義は革命によって打倒され、社会主義の世になる」というテーゼ(命題)はロシアの地で現実のものになり、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生した。だが、そこで人々が経験したのは、どのような圧政も及ばないほどのすさまじい粛清であり、収奪だった。
やがて社会システムは機能不全に陥り、ソ連は崩壊した。そして、その中核だったロシアは今、ウクライナに攻め入り、「ならず者国家」と指弾されている。
歴史の審判は峻厳で冷徹だ。その審判に耐えられないイデオロギーは葬り去られる。被差別部落の起源に関する近世政治起源説も破綻し、「歴史のゴミ箱」に打ち捨てられていく。

とはいえ、その破綻が明白になるまで、学校教育では「同和教育」の名の下で近世政治起源説が長い間、教え込まれた。大阪府では『にんげん』、兵庫県では『友だち』という副読本が作られ、小中学生に無償で配布された。
大阪府の副読本『にんげん』は1970年から発行が始まった。小学6年生用の『にんげん』には、被差別部落の起源について次のように記してある。
「いまの部落につながるものは、戦国時代の終わりごろから江戸時代のはじめにつくられた。豊臣秀吉は、武士に抵抗する農民をおさえつけるために検地や刀狩をし、ねんぐのとりたてをきびしくすると同時に、身分を法によって決めていく。徳川が全国を統一するようになると、鎖国をして諸大名や商人の力をおさえ、キリスト教もとりしまり、身分制度をいっそうきびしくする。今日まで尾をひく部落差別は、ここで形づくられたのである」(1973年、三訂版)
副読本を編集したのは「全国解放教育研究会」である。研究会の当時の代表は部落解放同盟の上田卓三(たくみ)大阪府連委員長と中村拡三・近畿大学教授で、現職の教師たちが編集にあたった。
この研究会が編集した『解放教育読本 にんげん 指導の手びき』という教師用の手引書には、解放教育がめざすのは「解放の学力」の涵養であり、それには「三つの柱」がある、としている。
第一は「集団主義の思想を確立すること」、第二は「科学的認識・芸術的認識を深めること」、そして第三は「子どもたちに部落解放、解放の自覚をもたせること」である。イデオロギー教育の推進を公然と唱えている。私のように東北で生まれ、同和教育を受けたことのない人間にとっては、唖然とするような指導方針だ。
おまけに、「科学的認識を深める」と言っておきながら、教えていたのは一学説にすぎない「被差別部落=近世政治起源説」であり、その後、研究が進むにつれて否定され、破綻した学説だった。
子どもたちは学び始めてまだ日が浅く、未熟である。だが、愚かではない。多くの子どもは「部落は戦国末期から江戸時代初めに新しくつくられた」という教師の説明を素直に受け入れたが、中には「どういう人たちが部落民にされたの」と尋ねる子がいた。「部落民にされた人たちは反対しなかったの」と問う子もいた。
素朴だが、鋭い質問である。それは、近世政治起源説のアキレス腱を射抜く質問だった。同和教育を担った教師たちはうろたえ、シドロモドロになったことだろう。
◇ ◇
学問の世界でもこれと同じ疑問が発せられた。イデオロギーに囚われた学者たちはそうした疑問を封じ込めようと躍起になったが、日本中世史の研究者たちはそれを打ち破っていく。
連載(9)で紹介したように、鎌倉時代にはすでに「穢多」という言葉を使った絵巻物があることが分かっており、室町時代の文献には「非人」という言葉も頻出する。それらがどのような文脈でどのように使われているか、彼らは丹念に調べ上げていった。そして、中世の賤民たちが江戸時代の穢多、非人へと連綿とつながっていることを実証していったのである。
桃山学院大学の横井清教授は著書『中世民衆の生活文化』で、鎌倉時代の絵巻物『天狗草紙』に描かれた「穢多童(えたわらわ)」とその詞書(ことばがき)を詳細に論じ、すでにこの時代に穢多は「強度の賤視の対象とされていた」と記した。
さらに、室町時代の辞典『下学(かがく)集』などを引用しながら、穢多という蔑称と皮革業という職業、河原という居住環境が密接に結びついていることを明らかにした。それは、「近世の部落の特徴は身分と職業、住所の三つが切り離せないものになった点にある」という、近世政治起源説の根幹とも言うべき「三位一体」が中世から成立していたことを示すもので、近世起源説を根本から掘り崩すものだった。
文献の研究に民俗学などの視点も加えて、「部落の形成史を学際的に考察すべきだ」と唱えたのは、中世史研究者の網野善彦・神奈川大学教授である。
網野は、従来の歴史学が「天皇をはじめとする権力者やそれを支える農民」を軸に歴史を捉えてきたことを批判し、漁民や狩猟民、手工業者や芸能民、遊女や漂白する人々にも光を当て、中世の賤民もそうした文脈から捉え直すことを提唱した。
著書『無縁・公界(くがい)・楽?-日本中世の自由と平和』で、網野は京都の蓮台野(れんだいの)が中世を通して葬送を担っていたことを詳しく論じた。蓮台野は代表的な被差別部落の一つであり、近世、明治を通して差別にさらされてきた。「部落は近世に新たにつくられた」などという学説が成り立たないことを疑問の余地なく明らかにしたのである。
また、『中世の非人と遊女』では、京都・清水坂の非人が「天皇に直属する存在」であり、平民とは「異質な存在」であったことを示した。中世においても、部落は天皇制と密接に結びついていたと主張し、「戦後の歴史学の主流は(その実証的、科学的な研究のために)どれほどのことをしてきたか」と痛烈に批判した。
1980年代になると、中世史の研究者による近世政治起源説への批判はさらに鋭く、厳しいものになった。やがて「部落史の研究者でこの説を信じる者はほとんどいない」という状況になり、今日に至っている。
振り返って、破綻した学説を唱えた人たちはどう思っているのか。大阪市立大学の原田伴彦教授は、1980年の第2回部落解放研究者会議で次のように語っている。
「部落の起源を中世、古代にさかのぼらせる見解は戦前からあり、昭和20年代においてもあった。近世の賤民身分に入れられた人々の個人的ルーツをたどってみると、中世の賤民身分の人々の血をひいているケースが多々あるわけです。当然、古代までさかのぼります。そうなりますと、結局は(中略)原始時代まで部落の起源をさかのぼらせる、ということになってくる」
「それから、もし部落の起源を古代までさかのぼらせるとすると、(中略)天皇を歴史の中核にすえる考え方になってきます。そこに重点を置きすぎると、何か割りきれない面が沢山うまれてくるのではないか」
「部落の起源を古い時代にもっていくことは、結局日本人そのものと部落問題が不可分の関係にある、日本人がなくならない限り部落問題がなくならないという考え方になるわけです。こういう考え方は、運動にとってマイナスにこそなれ、少しもプラスにならないと考えています」
運動にとってプラスかマイナスかで考える――それはイデオローグや活動家の発想であり、研究者がとるべき態度ではない。長い目で見た場合、そうした考えに立って誤った学説を唱え、次の世代に伝えることが何をもたらすか。そこに思いが至らなかった。罪深い人たちである。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年2月23日
*連載「東北の蝦夷(えみし)と被差別部落」の各回は、上記のサイトもしくはウェブコラム「情報屋台」でご覧ください
≪写真説明≫
大阪府が作成して配布した同和教育の副読本『にんげん』(副読本の無償配布は2008年度で終了した)
≪参考文献≫
◎『共産党宣言』(カール・マルクス&フリードリヒ・エンゲルス、岩波文庫)
◎『経済学批判』(カール・マルクス、大月書店国民文庫4)
◎大阪府の小学6年用副読本『にんげん』(全国解放教育研究会編、明治図書出版、1972年三訂版)
◎『解放教育読本 にんげん 指導の手びき』(全国解放教育研究会編、明治図書出版、1973年)
◎『中世民衆の生活文化』(横井清、東京大学出版会)
◎『無縁・公界・楽?-日本中世の自由と平和』(網野善彦、平凡社選書)
◎『中世の非人と遊女』(網野善彦、講談社学術文庫)
◎『部落解放研究 第21号』(部落解放研究所編集・発行)
それは「歴史の発展法則であり、必然である」として、資本主義を暴力革命で打倒するよう呼びかけた。イデオロギーは「自由な発想」を許さない。それに異を唱える思想や思考を排斥した。
日本では戦前、共産党は非合法とされ、過酷な弾圧を受けた。天皇制の下で戦争に突き進み、破局を迎えると、獄中で非転向を貫いた共産党員は釈放され、マルクス主義が急激に広まった。彼らは一貫して「天皇制の廃絶」と「侵略戦争反対」を訴えていたからだ。戦後社会、とりわけ知識層に大きな影響を与えた。
被差別部落の解放をめざす運動と理論は、こうした歴史のうねりの中で展開され、構築されていった。「部落は戦国末期から江戸時代にかけて、支配階級が民衆を分断統治するため新たにつくり出したもの」という近世政治起源説も戦後、マルクス主義を基盤にして成立し、広まった。
けれども、一人ひとりの人間が織り成す歴史は「階級闘争」という観点だけで説明できるものではない。「資本主義は革命によって打倒され、社会主義の世になる」というテーゼ(命題)はロシアの地で現実のものになり、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生した。だが、そこで人々が経験したのは、どのような圧政も及ばないほどのすさまじい粛清であり、収奪だった。
やがて社会システムは機能不全に陥り、ソ連は崩壊した。そして、その中核だったロシアは今、ウクライナに攻め入り、「ならず者国家」と指弾されている。
歴史の審判は峻厳で冷徹だ。その審判に耐えられないイデオロギーは葬り去られる。被差別部落の起源に関する近世政治起源説も破綻し、「歴史のゴミ箱」に打ち捨てられていく。

とはいえ、その破綻が明白になるまで、学校教育では「同和教育」の名の下で近世政治起源説が長い間、教え込まれた。大阪府では『にんげん』、兵庫県では『友だち』という副読本が作られ、小中学生に無償で配布された。
大阪府の副読本『にんげん』は1970年から発行が始まった。小学6年生用の『にんげん』には、被差別部落の起源について次のように記してある。
「いまの部落につながるものは、戦国時代の終わりごろから江戸時代のはじめにつくられた。豊臣秀吉は、武士に抵抗する農民をおさえつけるために検地や刀狩をし、ねんぐのとりたてをきびしくすると同時に、身分を法によって決めていく。徳川が全国を統一するようになると、鎖国をして諸大名や商人の力をおさえ、キリスト教もとりしまり、身分制度をいっそうきびしくする。今日まで尾をひく部落差別は、ここで形づくられたのである」(1973年、三訂版)
副読本を編集したのは「全国解放教育研究会」である。研究会の当時の代表は部落解放同盟の上田卓三(たくみ)大阪府連委員長と中村拡三・近畿大学教授で、現職の教師たちが編集にあたった。
この研究会が編集した『解放教育読本 にんげん 指導の手びき』という教師用の手引書には、解放教育がめざすのは「解放の学力」の涵養であり、それには「三つの柱」がある、としている。
第一は「集団主義の思想を確立すること」、第二は「科学的認識・芸術的認識を深めること」、そして第三は「子どもたちに部落解放、解放の自覚をもたせること」である。イデオロギー教育の推進を公然と唱えている。私のように東北で生まれ、同和教育を受けたことのない人間にとっては、唖然とするような指導方針だ。
おまけに、「科学的認識を深める」と言っておきながら、教えていたのは一学説にすぎない「被差別部落=近世政治起源説」であり、その後、研究が進むにつれて否定され、破綻した学説だった。
子どもたちは学び始めてまだ日が浅く、未熟である。だが、愚かではない。多くの子どもは「部落は戦国末期から江戸時代初めに新しくつくられた」という教師の説明を素直に受け入れたが、中には「どういう人たちが部落民にされたの」と尋ねる子がいた。「部落民にされた人たちは反対しなかったの」と問う子もいた。
素朴だが、鋭い質問である。それは、近世政治起源説のアキレス腱を射抜く質問だった。同和教育を担った教師たちはうろたえ、シドロモドロになったことだろう。
◇ ◇
学問の世界でもこれと同じ疑問が発せられた。イデオロギーに囚われた学者たちはそうした疑問を封じ込めようと躍起になったが、日本中世史の研究者たちはそれを打ち破っていく。
連載(9)で紹介したように、鎌倉時代にはすでに「穢多」という言葉を使った絵巻物があることが分かっており、室町時代の文献には「非人」という言葉も頻出する。それらがどのような文脈でどのように使われているか、彼らは丹念に調べ上げていった。そして、中世の賤民たちが江戸時代の穢多、非人へと連綿とつながっていることを実証していったのである。
桃山学院大学の横井清教授は著書『中世民衆の生活文化』で、鎌倉時代の絵巻物『天狗草紙』に描かれた「穢多童(えたわらわ)」とその詞書(ことばがき)を詳細に論じ、すでにこの時代に穢多は「強度の賤視の対象とされていた」と記した。
さらに、室町時代の辞典『下学(かがく)集』などを引用しながら、穢多という蔑称と皮革業という職業、河原という居住環境が密接に結びついていることを明らかにした。それは、「近世の部落の特徴は身分と職業、住所の三つが切り離せないものになった点にある」という、近世政治起源説の根幹とも言うべき「三位一体」が中世から成立していたことを示すもので、近世起源説を根本から掘り崩すものだった。
文献の研究に民俗学などの視点も加えて、「部落の形成史を学際的に考察すべきだ」と唱えたのは、中世史研究者の網野善彦・神奈川大学教授である。
網野は、従来の歴史学が「天皇をはじめとする権力者やそれを支える農民」を軸に歴史を捉えてきたことを批判し、漁民や狩猟民、手工業者や芸能民、遊女や漂白する人々にも光を当て、中世の賤民もそうした文脈から捉え直すことを提唱した。
著書『無縁・公界(くがい)・楽?-日本中世の自由と平和』で、網野は京都の蓮台野(れんだいの)が中世を通して葬送を担っていたことを詳しく論じた。蓮台野は代表的な被差別部落の一つであり、近世、明治を通して差別にさらされてきた。「部落は近世に新たにつくられた」などという学説が成り立たないことを疑問の余地なく明らかにしたのである。
また、『中世の非人と遊女』では、京都・清水坂の非人が「天皇に直属する存在」であり、平民とは「異質な存在」であったことを示した。中世においても、部落は天皇制と密接に結びついていたと主張し、「戦後の歴史学の主流は(その実証的、科学的な研究のために)どれほどのことをしてきたか」と痛烈に批判した。
1980年代になると、中世史の研究者による近世政治起源説への批判はさらに鋭く、厳しいものになった。やがて「部落史の研究者でこの説を信じる者はほとんどいない」という状況になり、今日に至っている。
振り返って、破綻した学説を唱えた人たちはどう思っているのか。大阪市立大学の原田伴彦教授は、1980年の第2回部落解放研究者会議で次のように語っている。
「部落の起源を中世、古代にさかのぼらせる見解は戦前からあり、昭和20年代においてもあった。近世の賤民身分に入れられた人々の個人的ルーツをたどってみると、中世の賤民身分の人々の血をひいているケースが多々あるわけです。当然、古代までさかのぼります。そうなりますと、結局は(中略)原始時代まで部落の起源をさかのぼらせる、ということになってくる」
「それから、もし部落の起源を古代までさかのぼらせるとすると、(中略)天皇を歴史の中核にすえる考え方になってきます。そこに重点を置きすぎると、何か割りきれない面が沢山うまれてくるのではないか」
「部落の起源を古い時代にもっていくことは、結局日本人そのものと部落問題が不可分の関係にある、日本人がなくならない限り部落問題がなくならないという考え方になるわけです。こういう考え方は、運動にとってマイナスにこそなれ、少しもプラスにならないと考えています」
運動にとってプラスかマイナスかで考える――それはイデオローグや活動家の発想であり、研究者がとるべき態度ではない。長い目で見た場合、そうした考えに立って誤った学説を唱え、次の世代に伝えることが何をもたらすか。そこに思いが至らなかった。罪深い人たちである。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年2月23日
*連載「東北の蝦夷(えみし)と被差別部落」の各回は、上記のサイトもしくはウェブコラム「情報屋台」でご覧ください
≪写真説明≫
大阪府が作成して配布した同和教育の副読本『にんげん』(副読本の無償配布は2008年度で終了した)
≪参考文献≫
◎『共産党宣言』(カール・マルクス&フリードリヒ・エンゲルス、岩波文庫)
◎『経済学批判』(カール・マルクス、大月書店国民文庫4)
◎大阪府の小学6年用副読本『にんげん』(全国解放教育研究会編、明治図書出版、1972年三訂版)
◎『解放教育読本 にんげん 指導の手びき』(全国解放教育研究会編、明治図書出版、1973年)
◎『中世民衆の生活文化』(横井清、東京大学出版会)
◎『無縁・公界・楽?-日本中世の自由と平和』(網野善彦、平凡社選書)
◎『中世の非人と遊女』(網野善彦、講談社学術文庫)
◎『部落解放研究 第21号』(部落解放研究所編集・発行)
ロシアと戦っているウクライナに対して、ドイツとアメリカが主力戦車を提供することを決めた。独米から、高速で走行しながら射撃姿勢をデジタル制御できるレオパルト2とエイブラムスがそれぞれ供与されるという。

密林が広がるベトナムや山岳地帯が戦場となったアフガニスタンと違って、ウクライナ戦争は広大な平原で戦われている。戦車の果たす役割はきわめて大きい。ウクライナにとって朗報であることは間違いない。
この戦争では、ドローンが大きな役割を果たしていることも注目されている。偵察だけでなく敵への攻撃にも使われている。ウクライナのドローンに捕捉されたロシア兵が空を見上げ、十字を切って命乞いをする映像がネット上に流れた。「デジタル時代の戦争」を象徴するような映像だった。
武器の優劣は戦争の帰趨に決定的な影響を及ぼす。その意味で、メディアが戦車の供与やドローンの活用に注目して報道するのは当然のことだが、メディアで報じられないもので「戦争に決定的な影響」を及ぼすものがもう一つある。情報戦の行方、とりわけ暗号の解読がどうなっているかだ。
第2次大戦ではイギリスがドイツの暗号を、アメリカが日本の暗号を解読することに成功した。暗号の解読によって、ドイツと日本がどのような戦略のもとにどのような作戦を立てているか、連合国側にほぼ筒抜けになった。これでは、たとえ戦力が拮抗していたとしても勝てるはずがなかった。
日独とも、戦争の途中で「われわれの暗号は解読されているのではないか」との疑念を抱いた。だが、暗号担当の情報将校たちは「理論的にそのようなことはあり得ない」と主張し、戦争指導者たちを納得させた。当時、日独は無線通信で「5桁の乱数に符丁を組み合わせた暗号システム」を使っていた。これを解読するためには、一つの電文でも「1,000人がかりで3年かかる」とされていた。
戦争を遂行するうえでは、3年後に暗号を解読しても無意味であり、実質的には「解読不能」と言っていい。その意味では、日独の情報将校たちの釈明は間違ってはいなかった。当時普及していた電気リレー式の計算機を使う限り、解読にはそれくらいの人員と年月がかかったからだ。
だが、日独は「前提条件が変われば、解読が可能になる」ということを想定していなかった。イギリスはロンドン北西のブレッチリ―・パーク(暗号解読本部)に数学者や言語学者、クロスワードパズルの名手ら約1万人の要員を集め、総力を挙げてドイツの暗号エニグマの解読に挑んだ。
その中に数学者、アラン・チューリングと彼の仲間たちがいた。計算可能性理論の天才であるチューリングは、その理論を暗号解読に生かし、解読のための「電子計算機」を発明した(写真)。この計算機は真空管を使い、プログラムで稼働する。後のコンピューターの原型とも言える機械で、イギリスはこれを活用してドイツの暗号の解読に成功したのである。

「電気リレー式の計算機」から「電子計算機」への飛躍は、暗号解読の世界をガラリと変えた。実質的に解読不能という説明の前提条件が崩れたことに、ドイツも日本も気づかなかった。「知の総合力に大きな差があった」と言うしかない。
アメリカは1941年の対日開戦前に日本の外交暗号の解読には成功していたが、重要な軍事暗号、とりわけ日本海軍のD暗号(18種類の海軍暗号の中で最も重要な暗号)は解読できていなかった。暗号解読の態勢を立て直し、開戦半年後にはD暗号の解読に成功する。イギリスとは密接な協力関係にあり、電子計算機の供与も受けている。
第2次大戦の終結後も米英による「暗号解読の成功」は極秘とされた。その解読の内実が明らかになったのは1970年代になってからである。その間、両国は冷戦で新たな敵となったソ連の暗号解読にいそしんだが、「ソ連の暗号は秘匿度が強く、解読できていない」と装い続けた。
実は、かなり早い段階で米英はソ連の暗号の解読に成功していた。それが明らかになったのは、1991年にソ連が崩壊し、関係文書が公開されてからだ。暗号の解読は常に、徹底的に秘匿される。
今回のウクライナ戦争でも、第2次大戦と似たことが起きているのではないか。米英はロシアの暗号を解読しており、それを適宜、差しさわりのない範囲でウクライナ側に提供している可能性がある。そう考えると、ウクライナ側が少ない兵力で首都キーウなどを守り抜き、侵攻したロシア軍を押し戻していることも納得がいく。
もちろん、具体的な証拠やデータは何もない。アメリカもイギリスも、こと暗号の解読に関しては厳重に秘匿し続けている。両国のメディアも報じようとしない。暗号の解読状況に触れるような記事を書こうものなら、たちまち政府と軍から「出入り禁止」にされる。「国家の安全保障に直結する機微な情報」は報じないのが米英メディアの伝統だ。
ロシア軍の暗号担当将校は「わが国の暗号はスーパーコンピューターを使っても、簡単には解読できない」とプーチン大統領に説明しているのではないか。確かに、スパコンでも解読できないようなシステムを使っているのかもしれない。
だが、米英が量子コンピューターをすでに実戦配備していたら、どうか。量子力学の原理を応用するこのコンピューターは、スパコンで1万年かかるような計算を3分ほどでこなすという。すでに試作機も登場しており、暗号解読の世界で新しい「パラダイムシフト」が起きている可能性がある。
ウクライナ戦争でロシア側の暗号はどのくらい解読されているのか。解読された情報はウクライナ側にどのくらい伝えられているのか。そうしたことが明らかになるのは20年後、あるいは30年後かもしれない。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」2023年1月31日
≪写真説明&Source≫
・ドイツ製の戦車レオパルト2(東京新聞のサイトから)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/227185
・チューリングが暗号解読のために製作した電子計算機の複製
=大駒誠一『コンピュータ開発史』(共立出版)から引用
≪参考文献≫
◎『暗号の天才』(R・W・クラーク、新潮選書)
◎『暗号解読』(サイモン・シン、新潮社)
◎『暗号 原理とその世界』(長田順行、ダイヤモンド社)
◎『ヴェノナ』(ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア、PHP研究所)

密林が広がるベトナムや山岳地帯が戦場となったアフガニスタンと違って、ウクライナ戦争は広大な平原で戦われている。戦車の果たす役割はきわめて大きい。ウクライナにとって朗報であることは間違いない。
この戦争では、ドローンが大きな役割を果たしていることも注目されている。偵察だけでなく敵への攻撃にも使われている。ウクライナのドローンに捕捉されたロシア兵が空を見上げ、十字を切って命乞いをする映像がネット上に流れた。「デジタル時代の戦争」を象徴するような映像だった。
武器の優劣は戦争の帰趨に決定的な影響を及ぼす。その意味で、メディアが戦車の供与やドローンの活用に注目して報道するのは当然のことだが、メディアで報じられないもので「戦争に決定的な影響」を及ぼすものがもう一つある。情報戦の行方、とりわけ暗号の解読がどうなっているかだ。
第2次大戦ではイギリスがドイツの暗号を、アメリカが日本の暗号を解読することに成功した。暗号の解読によって、ドイツと日本がどのような戦略のもとにどのような作戦を立てているか、連合国側にほぼ筒抜けになった。これでは、たとえ戦力が拮抗していたとしても勝てるはずがなかった。
日独とも、戦争の途中で「われわれの暗号は解読されているのではないか」との疑念を抱いた。だが、暗号担当の情報将校たちは「理論的にそのようなことはあり得ない」と主張し、戦争指導者たちを納得させた。当時、日独は無線通信で「5桁の乱数に符丁を組み合わせた暗号システム」を使っていた。これを解読するためには、一つの電文でも「1,000人がかりで3年かかる」とされていた。
戦争を遂行するうえでは、3年後に暗号を解読しても無意味であり、実質的には「解読不能」と言っていい。その意味では、日独の情報将校たちの釈明は間違ってはいなかった。当時普及していた電気リレー式の計算機を使う限り、解読にはそれくらいの人員と年月がかかったからだ。
だが、日独は「前提条件が変われば、解読が可能になる」ということを想定していなかった。イギリスはロンドン北西のブレッチリ―・パーク(暗号解読本部)に数学者や言語学者、クロスワードパズルの名手ら約1万人の要員を集め、総力を挙げてドイツの暗号エニグマの解読に挑んだ。
その中に数学者、アラン・チューリングと彼の仲間たちがいた。計算可能性理論の天才であるチューリングは、その理論を暗号解読に生かし、解読のための「電子計算機」を発明した(写真)。この計算機は真空管を使い、プログラムで稼働する。後のコンピューターの原型とも言える機械で、イギリスはこれを活用してドイツの暗号の解読に成功したのである。

「電気リレー式の計算機」から「電子計算機」への飛躍は、暗号解読の世界をガラリと変えた。実質的に解読不能という説明の前提条件が崩れたことに、ドイツも日本も気づかなかった。「知の総合力に大きな差があった」と言うしかない。
アメリカは1941年の対日開戦前に日本の外交暗号の解読には成功していたが、重要な軍事暗号、とりわけ日本海軍のD暗号(18種類の海軍暗号の中で最も重要な暗号)は解読できていなかった。暗号解読の態勢を立て直し、開戦半年後にはD暗号の解読に成功する。イギリスとは密接な協力関係にあり、電子計算機の供与も受けている。
第2次大戦の終結後も米英による「暗号解読の成功」は極秘とされた。その解読の内実が明らかになったのは1970年代になってからである。その間、両国は冷戦で新たな敵となったソ連の暗号解読にいそしんだが、「ソ連の暗号は秘匿度が強く、解読できていない」と装い続けた。
実は、かなり早い段階で米英はソ連の暗号の解読に成功していた。それが明らかになったのは、1991年にソ連が崩壊し、関係文書が公開されてからだ。暗号の解読は常に、徹底的に秘匿される。
今回のウクライナ戦争でも、第2次大戦と似たことが起きているのではないか。米英はロシアの暗号を解読しており、それを適宜、差しさわりのない範囲でウクライナ側に提供している可能性がある。そう考えると、ウクライナ側が少ない兵力で首都キーウなどを守り抜き、侵攻したロシア軍を押し戻していることも納得がいく。
もちろん、具体的な証拠やデータは何もない。アメリカもイギリスも、こと暗号の解読に関しては厳重に秘匿し続けている。両国のメディアも報じようとしない。暗号の解読状況に触れるような記事を書こうものなら、たちまち政府と軍から「出入り禁止」にされる。「国家の安全保障に直結する機微な情報」は報じないのが米英メディアの伝統だ。
ロシア軍の暗号担当将校は「わが国の暗号はスーパーコンピューターを使っても、簡単には解読できない」とプーチン大統領に説明しているのではないか。確かに、スパコンでも解読できないようなシステムを使っているのかもしれない。
だが、米英が量子コンピューターをすでに実戦配備していたら、どうか。量子力学の原理を応用するこのコンピューターは、スパコンで1万年かかるような計算を3分ほどでこなすという。すでに試作機も登場しており、暗号解読の世界で新しい「パラダイムシフト」が起きている可能性がある。
ウクライナ戦争でロシア側の暗号はどのくらい解読されているのか。解読された情報はウクライナ側にどのくらい伝えられているのか。そうしたことが明らかになるのは20年後、あるいは30年後かもしれない。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」2023年1月31日
≪写真説明&Source≫
・ドイツ製の戦車レオパルト2(東京新聞のサイトから)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/227185
・チューリングが暗号解読のために製作した電子計算機の複製
=大駒誠一『コンピュータ開発史』(共立出版)から引用
≪参考文献≫
◎『暗号の天才』(R・W・クラーク、新潮選書)
◎『暗号解読』(サイモン・シン、新潮社)
◎『暗号 原理とその世界』(長田順行、ダイヤモンド社)
◎『ヴェノナ』(ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア、PHP研究所)
学問の世界では、ある時期に定説として扱われた学説が後に覆されることはよくあることである。新しい事実が見つかったり、新たな知見が得られたりすれば、定説は「旧説」として打ち捨てられていく。

定説を唱えた者たちはそれまでの蓄積を踏まえ、精進を重ねたうえでそうしたのであって、責められるいわれはない。その当時、彼らには新しい事実を知り、知見を得るすべがなかったからである。
だが、被差別部落の歴史をめぐる研究については、いささか事情が異なる。戦後、長い間、被差別部落の起源については「戦国末期から江戸時代にかけて支配層が民衆を分断統治するため新たにつくり出したもの」という、いわゆる近世政治起源説が定説となった。
この説を唱えた者たちは「事実の持つ厳粛さ」と誠実に向き合うという学問の大原則をないがしろにし、自らが信じるイデオロギーに沿って研究を進め、その「成果」を発表し、「確固たる学説」として広めていった。
彼らが唱えた学説は、部落解放同盟が展開した運動と一体となって、「被差別部落の起源に関する自由な研究」を許さないような状況を作り出した。そして、表現と言論の自由を侵害し、部落差別の解消をめざす政府の同和対策事業をもゆがめるような結果をもたらした。
死者に鞭打つようなことはしたくはない。だが、被差別部落の歴史研究に関しては、この近世政治起源説を広めた学者たちの棺を掘り起こし、弾劾せずにはいられない。その罪は重く、それがもたらした影響はあまりにも深刻だからだ。
◇ ◇
すでに紹介したように、被差別部落=近世政治起源説の原型とも言える学説を唱えたのは、戦前の歴史学者、喜田貞吉・京都帝大教授である。喜田はこれを皇国史観に立って主張したのだが、その学説を別のイデオロギーで作り直し、定説と言えるものに仕立て上げていったのは、戦後のマルクス主義を信奉する学者たちだった。
その第一人者は、井上清・京都大学教授である。日本近代史を専門とする井上は、部落解放同盟の北原泰作書記長との共著『部落の歴史』(1956年)に、被差別部落の起源について次のように記した。
「戦国時代は『下剋上』が発展し、日本の歴史のもっとも活気あふれたときであった。古代からの天皇制は、天皇の位につく儀式の費用にもこまるほど無力になり、身分や家がらよりも、経済、軍事、知恵等々の実力がものをいった」
「近世の大名ができる過程で、すでに中世とはちがう差別された『部落』がつくられている。そして豊臣秀吉が全国をしたがえてゆくなかで、刀狩りや検地で、百姓町人の武装の自由はうばわれ、百姓の移動および職業をかえることは禁止され、百姓は孫子の末まで永久に百姓として領主の土地にしばりつけられ、士農工商の身分制の骨組がつくられる。徳川幕府時代に入って、それは細かいところまで完成される」
古代と中世の賤民制度は戦国の世を経てバラバラになり、近世に入って新たな身分制度がつくられた、という主張だ。随所にマルクス主義の歴史観がにじむ。そのうえで、井上はこう唱えた。
「百姓以下の身分として『えた』、『非人』および『宿の者』、『はちや』、『茶せん』、『おん坊』、『とうない』そのほかのいわゆる『雑種賤民』が、身分と職業と住所と三つをきりはなせないものにされ、いまに残る部落がつくられたのである」
近世の賤民の特徴は、この時代に定められた身分と職業、住所の三つが切り離せないものになった点にあるとの主張で、「三位一体説」と呼ばれ、近世政治起源説の根幹をなすものになった。
ちなみに、「被差別部落」という表現を初めて使って定着させたのも井上である。賤称を廃止するとの明治4年の太政官布告(いわゆる解放令)の後も、部落の人たちは「新平民」あるいは「特殊部落民」などと呼ばれ、差別され続けた。井上は新しい言葉を作り出して、そうした呼称を一掃したのである。
井上を中心とする学者たちが敷いた路線に沿って、近世の部落差別に関する史料や記録の発掘が進められ、研究論文の発表や書籍の出版が相次いだ。立命館大学の奈良本辰也、林家辰三郎両教授や大阪市立大学の原田伴彦教授ら錚々たるメンバーが部落問題研究所などに集い、近世政治起源説を打ち固めていった。
そして、この学説はついに政府の同和対策審議会の答申(1965年)に明記されるに至った。
同和対策審議会は、部落差別の解消に向けての基本方針と総合的な政策を打ち出すため、1961年に総理府の付属機関として設置された。4年の審議を経て出された答申は、部落差別を放置することは「断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」と記し、政府として部落の環境改善や社会福祉、教育面での支援に乗り出すよう求めるものだった。
差別に苦しみ、さいなまれてきた部落の人たちは、1922年(大正11年)に全国水平社を結成し、戦後も差別をなくすための闘争を繰り広げてきた。同対審の答申は、その長くて困難な道を歩み続けた末にたどり着いた到達点であり、部落解放運動の大きな成果であった。
問題は、その歴史的な文書に「部落の起源」に関する記述を書き加えたことである。前文の後の「第一部 同和問題の認識」に次のような文言が盛り込まれた。
「本審議会は、これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。ただ、世人の偏見を打破するためにはっきり断言しておかなければならないのは、同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく、疑いもなく日本民族、日本国民である、ということである」
「同和地区は、中世末期ないしは近世初期において、封建社会の政治的、経済的、社会的諸条件に規制せられ、一定地域に定着して居住することにより形成された集落である」
内閣総理大臣、佐藤栄作あてに出された審議会の答申に、研究途上の一学説にすぎない近世政治起源説がそっくりそのまま盛り込まれのだ。異様と言うしかない。
政府側の委員として答申の作成にかかわった磯村英一は、第4回部落問題研究者全国集会でその内情を次のように語っている(1967年の同集会報告所収)。
「はっきり申し上げますと、委員のメンバーの中でのイデオロギーの相違からきた反撥の問題が、具体的内容を定めるのにかなり強くひびいたことです。(中略)同対審の会長が三回も四回もやめるといったような問題の中には、今申しましたような問題も若干あります。」
「審議の過程における意見の対立は結構ですが、どちらがイニシャティブをとるとか、またどうしてもその関係者でなければ執筆できないというような点については、もう少し広い立場に立ってよいのではないかと思います」
審議会の内部で激しい意見の対立と葛藤があったことをうかがわせる報告だが、ともあれ、マルクス主義を信奉する研究者たちの学説は「政府のお墨付き」を得た形になり、揺るぎないものとして世に広まっていった。
この答申を受けて、4年後の1969年に同和対策事業特別措置法が制定され、同和地区のインフラ整備や職業・教育支援などのために巨額の公費が投じられた。2002年に同和対策事業に終止符が打たれるまで、投じられた公費は総額15兆円とされる。
こうした同和対策事業によって被差別部落の環境が大幅に改善され、福祉や教育の面で大きな成果があったことは間違いないが、そのひずみもまた大きかった。
大阪府では同和教育のための副読本『にんげん』が作られ、すべての小中学生に無償で配布された。その副読本に書かれていたのは、もちろん「部落は戦国時代の終わりから江戸時代にかけて新しくつくられたもの」という内容だった。他の自治体でも同様である。
部落の近世政治起源説は1980年代以降、中世の史料や記録の発掘・研究が進むにつれて揺らぎ始め、やがて「破綻した学説」としてほとんどの研究者が見向きもしなくなった。
しかしこの間、数十年にわたって、教師たちは「部落は近世になって新しく作られたもの」と子どもたちに教え続けた。イデオロギーに囚われた学者たちが仕立て上げた、誤った学説を垂れ流し続けた。それは広く、深く浸透し、再生産された。
答申に「近世政治起源説」を盛り込んだのは取り返しのつかない過ちであり、その悪影響は政治や行政、学問や教育、文化、言論などあらゆる分野に及んでいった。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年1月25日
≪写真説明≫
1922年に結成された全国水平社の宣言文
≪参考文献&サイト≫
◎『部落の歴史 物語・部落解放運動史』(井上清・北原泰作、理論社)
◎『賤民の後裔 わが屈辱と抵抗の半生』(北原泰作、筑摩書房)
◎『被差別部落の歴史』(原田伴彦、明石書店)
◎『同和対策審議会答申』(京都大学の公式サイト)
◎『「同対審」答申を読む』(奥田均、解放出版社)
◎『同和対策と部落問題:第4回部落問題研究者全国集会報告』(部落問題研究所)所収の磯村英一講演録=国立国会図書館のデジタルデータから抜粋
◎『部落史がかわる』(上杉聰、三一書房)

定説を唱えた者たちはそれまでの蓄積を踏まえ、精進を重ねたうえでそうしたのであって、責められるいわれはない。その当時、彼らには新しい事実を知り、知見を得るすべがなかったからである。
だが、被差別部落の歴史をめぐる研究については、いささか事情が異なる。戦後、長い間、被差別部落の起源については「戦国末期から江戸時代にかけて支配層が民衆を分断統治するため新たにつくり出したもの」という、いわゆる近世政治起源説が定説となった。
この説を唱えた者たちは「事実の持つ厳粛さ」と誠実に向き合うという学問の大原則をないがしろにし、自らが信じるイデオロギーに沿って研究を進め、その「成果」を発表し、「確固たる学説」として広めていった。
彼らが唱えた学説は、部落解放同盟が展開した運動と一体となって、「被差別部落の起源に関する自由な研究」を許さないような状況を作り出した。そして、表現と言論の自由を侵害し、部落差別の解消をめざす政府の同和対策事業をもゆがめるような結果をもたらした。
死者に鞭打つようなことはしたくはない。だが、被差別部落の歴史研究に関しては、この近世政治起源説を広めた学者たちの棺を掘り起こし、弾劾せずにはいられない。その罪は重く、それがもたらした影響はあまりにも深刻だからだ。
◇ ◇
すでに紹介したように、被差別部落=近世政治起源説の原型とも言える学説を唱えたのは、戦前の歴史学者、喜田貞吉・京都帝大教授である。喜田はこれを皇国史観に立って主張したのだが、その学説を別のイデオロギーで作り直し、定説と言えるものに仕立て上げていったのは、戦後のマルクス主義を信奉する学者たちだった。
その第一人者は、井上清・京都大学教授である。日本近代史を専門とする井上は、部落解放同盟の北原泰作書記長との共著『部落の歴史』(1956年)に、被差別部落の起源について次のように記した。
「戦国時代は『下剋上』が発展し、日本の歴史のもっとも活気あふれたときであった。古代からの天皇制は、天皇の位につく儀式の費用にもこまるほど無力になり、身分や家がらよりも、経済、軍事、知恵等々の実力がものをいった」
「近世の大名ができる過程で、すでに中世とはちがう差別された『部落』がつくられている。そして豊臣秀吉が全国をしたがえてゆくなかで、刀狩りや検地で、百姓町人の武装の自由はうばわれ、百姓の移動および職業をかえることは禁止され、百姓は孫子の末まで永久に百姓として領主の土地にしばりつけられ、士農工商の身分制の骨組がつくられる。徳川幕府時代に入って、それは細かいところまで完成される」
古代と中世の賤民制度は戦国の世を経てバラバラになり、近世に入って新たな身分制度がつくられた、という主張だ。随所にマルクス主義の歴史観がにじむ。そのうえで、井上はこう唱えた。
「百姓以下の身分として『えた』、『非人』および『宿の者』、『はちや』、『茶せん』、『おん坊』、『とうない』そのほかのいわゆる『雑種賤民』が、身分と職業と住所と三つをきりはなせないものにされ、いまに残る部落がつくられたのである」
近世の賤民の特徴は、この時代に定められた身分と職業、住所の三つが切り離せないものになった点にあるとの主張で、「三位一体説」と呼ばれ、近世政治起源説の根幹をなすものになった。
ちなみに、「被差別部落」という表現を初めて使って定着させたのも井上である。賤称を廃止するとの明治4年の太政官布告(いわゆる解放令)の後も、部落の人たちは「新平民」あるいは「特殊部落民」などと呼ばれ、差別され続けた。井上は新しい言葉を作り出して、そうした呼称を一掃したのである。
井上を中心とする学者たちが敷いた路線に沿って、近世の部落差別に関する史料や記録の発掘が進められ、研究論文の発表や書籍の出版が相次いだ。立命館大学の奈良本辰也、林家辰三郎両教授や大阪市立大学の原田伴彦教授ら錚々たるメンバーが部落問題研究所などに集い、近世政治起源説を打ち固めていった。
そして、この学説はついに政府の同和対策審議会の答申(1965年)に明記されるに至った。
同和対策審議会は、部落差別の解消に向けての基本方針と総合的な政策を打ち出すため、1961年に総理府の付属機関として設置された。4年の審議を経て出された答申は、部落差別を放置することは「断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」と記し、政府として部落の環境改善や社会福祉、教育面での支援に乗り出すよう求めるものだった。
差別に苦しみ、さいなまれてきた部落の人たちは、1922年(大正11年)に全国水平社を結成し、戦後も差別をなくすための闘争を繰り広げてきた。同対審の答申は、その長くて困難な道を歩み続けた末にたどり着いた到達点であり、部落解放運動の大きな成果であった。
問題は、その歴史的な文書に「部落の起源」に関する記述を書き加えたことである。前文の後の「第一部 同和問題の認識」に次のような文言が盛り込まれた。
「本審議会は、これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。ただ、世人の偏見を打破するためにはっきり断言しておかなければならないのは、同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく、疑いもなく日本民族、日本国民である、ということである」
「同和地区は、中世末期ないしは近世初期において、封建社会の政治的、経済的、社会的諸条件に規制せられ、一定地域に定着して居住することにより形成された集落である」
内閣総理大臣、佐藤栄作あてに出された審議会の答申に、研究途上の一学説にすぎない近世政治起源説がそっくりそのまま盛り込まれのだ。異様と言うしかない。
政府側の委員として答申の作成にかかわった磯村英一は、第4回部落問題研究者全国集会でその内情を次のように語っている(1967年の同集会報告所収)。
「はっきり申し上げますと、委員のメンバーの中でのイデオロギーの相違からきた反撥の問題が、具体的内容を定めるのにかなり強くひびいたことです。(中略)同対審の会長が三回も四回もやめるといったような問題の中には、今申しましたような問題も若干あります。」
「審議の過程における意見の対立は結構ですが、どちらがイニシャティブをとるとか、またどうしてもその関係者でなければ執筆できないというような点については、もう少し広い立場に立ってよいのではないかと思います」
審議会の内部で激しい意見の対立と葛藤があったことをうかがわせる報告だが、ともあれ、マルクス主義を信奉する研究者たちの学説は「政府のお墨付き」を得た形になり、揺るぎないものとして世に広まっていった。
この答申を受けて、4年後の1969年に同和対策事業特別措置法が制定され、同和地区のインフラ整備や職業・教育支援などのために巨額の公費が投じられた。2002年に同和対策事業に終止符が打たれるまで、投じられた公費は総額15兆円とされる。
こうした同和対策事業によって被差別部落の環境が大幅に改善され、福祉や教育の面で大きな成果があったことは間違いないが、そのひずみもまた大きかった。
大阪府では同和教育のための副読本『にんげん』が作られ、すべての小中学生に無償で配布された。その副読本に書かれていたのは、もちろん「部落は戦国時代の終わりから江戸時代にかけて新しくつくられたもの」という内容だった。他の自治体でも同様である。
部落の近世政治起源説は1980年代以降、中世の史料や記録の発掘・研究が進むにつれて揺らぎ始め、やがて「破綻した学説」としてほとんどの研究者が見向きもしなくなった。
しかしこの間、数十年にわたって、教師たちは「部落は近世になって新しく作られたもの」と子どもたちに教え続けた。イデオロギーに囚われた学者たちが仕立て上げた、誤った学説を垂れ流し続けた。それは広く、深く浸透し、再生産された。
答申に「近世政治起源説」を盛り込んだのは取り返しのつかない過ちであり、その悪影響は政治や行政、学問や教育、文化、言論などあらゆる分野に及んでいった。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年1月25日
≪写真説明≫
1922年に結成された全国水平社の宣言文
≪参考文献&サイト≫
◎『部落の歴史 物語・部落解放運動史』(井上清・北原泰作、理論社)
◎『賤民の後裔 わが屈辱と抵抗の半生』(北原泰作、筑摩書房)
◎『被差別部落の歴史』(原田伴彦、明石書店)
◎『同和対策審議会答申』(京都大学の公式サイト)
◎『「同対審」答申を読む』(奥田均、解放出版社)
◎『同和対策と部落問題:第4回部落問題研究者全国集会報告』(部落問題研究所)所収の磯村英一講演録=国立国会図書館のデジタルデータから抜粋
◎『部落史がかわる』(上杉聰、三一書房)
新型コロナウイルスのワクチンを開発できなかった日本の製薬会社が、ついに治療薬の開発に成功したという。塩野義製薬が北海道大学と共同で開発した「ゾコーバ」である。昨年11月下旬に厚生労働省が治療薬として緊急承認し、医療機関への供給が始まった。

本来なら、「これで一安心」と祝福したいところだが、この「コロナ治療薬」、どうもおかしい。コロナ患者の治療にあたっている医師たちがほとんど使っていないのだという。理由はハッキリしている。あまり効き目がないからだ。
厚生労働省や塩野義製薬の発表資料をよく読むと、このコロナ治療薬「ゾコーバ」は1日1回服用すると、鼻水やせき、発熱などの症状が7日間ほどでなくなり、服用しない場合に比べて症状が1日早く治まるのだという。それって、個人差あるいは誤差の範囲内ではないのか。
おまけに、この薬は「軽症や中程度の症状の患者用」で、重症化するリスクが高い患者には向かないのだとか。これでは、医師が処方したがらないのも当然だろう。12月30日付の朝日新聞によると、この薬の供給が始まってから1カ月ほどで処方されたのは7700人余り。毎日20万人前後のコロナ患者が確認されていることを考えれば、「ほとんど使われていない」と言っていい。
そんな薬を厚生労働省は塩野義製薬と事前に「100万人分購入する」と契約し、緊急承認した後、さらに100万人分、合計で200万人分も購入する契約を結んだ。常日頃、厚生労働省の仕事ぶりに首をひねっている筆者としては「また、税金の無駄遣いになるのではないか」と疑いたくもなる。
新型コロナウイルスの感染症対策が急務なのは言うまでもない。従って、昨年5月に法律を改正して治療薬の「緊急承認制度」を作ったことまでは理解できる。「ゾコーバ」はその緊急承認制度が適用された第1号の治療薬である。
だが、薬の調達は処方される量に応じて確保する、というのが常道ではないか。どの程度使われるか分からないうちから、「200万人分買います」と約束して税金を投入する必要がどこにあるのか。
ましてや、塩野義製薬の「ゾコーバ」は日本国内で治療薬として緊急承認されただけで、アメリカなどでは治療薬として承認されていない。「効き目があるかどうか分からない」ような薬を承認しないのは当たり前だろう。
コロナの感染が広がってから、政府は国産ワクチンの開発を支援するため、2020年度の補正予算に2577億円、2021年度の補正予算に2562億円を計上し、合わせて5139億円の税金を投入した。にもかかわらず、国産のワクチンは開発できず、米英の大手製薬会社のワクチンを使うはめになった。5000億円余りの補助金はムダ金になったと言うしかない。
国産のコロナ治療薬の開発にも多額の税金が投じられている。その結果が「症状を1日短縮するだけの治療薬」の開発である。しかも、それを気前よく購入する契約を結んだ。日本の医療を担う厚労省の幹部たちは、恥ずかしくないのだろうか。
塩野義製薬のコロナ治療薬の開発経過を調べていて気になるのは、早い段階から政治家がうごめいている気配があることである。自民党の甘利明・元幹事長は去年の2月4日、この治療薬の薬事承認の手続き中に「(塩野義製薬の薬は)日本人対象の治験で副作用は既存薬より極めて少なく、効能は他を圧している。外国承認をアリバイに石橋を叩いても渡らない厚労省を督促中だ」と自身のツイッターに書き込んだ。
治験の結果もまだ明らかになっていない段階で「効能は他を圧している」と書き込む神経にあきれる。塩野義製薬側から伝えられた情報をうのみにして発信したのだろう。政財官がどのように癒着しているか、問わず語りにその一端を語ってしまった、といったところか。
ああ、また私たちの貴重な税金が政治家と企業、官僚の談合で消えていく。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年1月16日
https://news-hunter.org/?p=15960
≪写真説明&Source≫
塩野義製薬のコロナ治療薬「ゾコーバ」
https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20221124_n01/
≪参考サイト&記事≫
◎「ゾコーバ」の緊急承認に関する塩野義製薬のプレスリリース(2022年11月22日)
https://www.shionogi.com/jp/ja/news/2022/11/20221122.html
◎「塩野義製 国産コロナ薬 低調」(朝日新聞2022年12月30日付)
◎国産ワクチンの開発支援予算の概要(厚生労働省のサイト)
https://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/21hosei/dl/21hosei_20211129_02.pdf
◎塩野義の手代木(てしろぎ)社長、甘利氏ツイート念頭に「政治など外部の影響を受けることない」(日経バイオテクONLINE、2022年2月8日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/22/02/07/09135/

本来なら、「これで一安心」と祝福したいところだが、この「コロナ治療薬」、どうもおかしい。コロナ患者の治療にあたっている医師たちがほとんど使っていないのだという。理由はハッキリしている。あまり効き目がないからだ。
厚生労働省や塩野義製薬の発表資料をよく読むと、このコロナ治療薬「ゾコーバ」は1日1回服用すると、鼻水やせき、発熱などの症状が7日間ほどでなくなり、服用しない場合に比べて症状が1日早く治まるのだという。それって、個人差あるいは誤差の範囲内ではないのか。
おまけに、この薬は「軽症や中程度の症状の患者用」で、重症化するリスクが高い患者には向かないのだとか。これでは、医師が処方したがらないのも当然だろう。12月30日付の朝日新聞によると、この薬の供給が始まってから1カ月ほどで処方されたのは7700人余り。毎日20万人前後のコロナ患者が確認されていることを考えれば、「ほとんど使われていない」と言っていい。
そんな薬を厚生労働省は塩野義製薬と事前に「100万人分購入する」と契約し、緊急承認した後、さらに100万人分、合計で200万人分も購入する契約を結んだ。常日頃、厚生労働省の仕事ぶりに首をひねっている筆者としては「また、税金の無駄遣いになるのではないか」と疑いたくもなる。
新型コロナウイルスの感染症対策が急務なのは言うまでもない。従って、昨年5月に法律を改正して治療薬の「緊急承認制度」を作ったことまでは理解できる。「ゾコーバ」はその緊急承認制度が適用された第1号の治療薬である。
だが、薬の調達は処方される量に応じて確保する、というのが常道ではないか。どの程度使われるか分からないうちから、「200万人分買います」と約束して税金を投入する必要がどこにあるのか。
ましてや、塩野義製薬の「ゾコーバ」は日本国内で治療薬として緊急承認されただけで、アメリカなどでは治療薬として承認されていない。「効き目があるかどうか分からない」ような薬を承認しないのは当たり前だろう。
コロナの感染が広がってから、政府は国産ワクチンの開発を支援するため、2020年度の補正予算に2577億円、2021年度の補正予算に2562億円を計上し、合わせて5139億円の税金を投入した。にもかかわらず、国産のワクチンは開発できず、米英の大手製薬会社のワクチンを使うはめになった。5000億円余りの補助金はムダ金になったと言うしかない。
国産のコロナ治療薬の開発にも多額の税金が投じられている。その結果が「症状を1日短縮するだけの治療薬」の開発である。しかも、それを気前よく購入する契約を結んだ。日本の医療を担う厚労省の幹部たちは、恥ずかしくないのだろうか。
塩野義製薬のコロナ治療薬の開発経過を調べていて気になるのは、早い段階から政治家がうごめいている気配があることである。自民党の甘利明・元幹事長は去年の2月4日、この治療薬の薬事承認の手続き中に「(塩野義製薬の薬は)日本人対象の治験で副作用は既存薬より極めて少なく、効能は他を圧している。外国承認をアリバイに石橋を叩いても渡らない厚労省を督促中だ」と自身のツイッターに書き込んだ。
治験の結果もまだ明らかになっていない段階で「効能は他を圧している」と書き込む神経にあきれる。塩野義製薬側から伝えられた情報をうのみにして発信したのだろう。政財官がどのように癒着しているか、問わず語りにその一端を語ってしまった、といったところか。
ああ、また私たちの貴重な税金が政治家と企業、官僚の談合で消えていく。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2023年1月16日
https://news-hunter.org/?p=15960
≪写真説明&Source≫
塩野義製薬のコロナ治療薬「ゾコーバ」
https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20221124_n01/
≪参考サイト&記事≫
◎「ゾコーバ」の緊急承認に関する塩野義製薬のプレスリリース(2022年11月22日)
https://www.shionogi.com/jp/ja/news/2022/11/20221122.html
◎「塩野義製 国産コロナ薬 低調」(朝日新聞2022年12月30日付)
◎国産ワクチンの開発支援予算の概要(厚生労働省のサイト)
https://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/21hosei/dl/21hosei_20211129_02.pdf
◎塩野義の手代木(てしろぎ)社長、甘利氏ツイート念頭に「政治など外部の影響を受けることない」(日経バイオテクONLINE、2022年2月8日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/22/02/07/09135/
長い間、文字は支配者のものだった。彼らは文字を使ってルールを定め、統治した。その統治の正統性を謳(うた)い、伝えるために記録を残した。
当然のことながら、支配する側が残した史書や記録は公平なものではあり得ない。敵は常に悪逆非道であり、「大義は我らにあり」と記す。戦いに敗れた者たちのことは「必要な範囲」で触れるだけだ。ましてや、隷属する者たちのことなど気にも留めない。かすかな断片のようなものが後世に伝えられるに過ぎない。

部落史の研究者によれば、「エタ」あるいは「穢多」という文字が文献に初めて出てくるのは13世紀、鎌倉時代である。随筆形式の辞典、『塵袋(ちりぶくろ)』という文献(作者不詳)に次のように記されている。
キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(こと)ハソ
根本ハ餌取(エトリ)ト云フヘキ欤(か)
餌ト云フハシヽムラ 鷹等ノ餌ヲ云フナルヘシ 其ヲトル物ト云フ也
エトリヲハヤクイヒテ イヒユカメテエタト云ヘリ
(中略)
天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者(トシャ)也
イキ物ヲ殺テウルエタ躰(てい)ノ悪人也
(片仮名のルビは写本の通り、平仮名のルビは筆者が補足)
現代語訳すれば、「清めの仕事をする者を『エタ』と言うのはなぜか。その語源は『餌取』と言うべきか。餌とは肉のかたまり、タカなどの餌を取る者のことである。『エトリ』を早口で言い、言いゆがめて『エタ』と言った」「インドの言葉で『旃陀羅』と言うのは『屠者』のことで、生き物を殺して売る『エタ』のような悪人のことである」という内容だ。
律令国家の時代から、鷹狩は天皇や貴族のたしなみであり、軍事訓練を兼ねていた。鷹狩を取り仕切り、タカの飼育を担う役職があった。餌取とは、その役人の配下でタカの餌の調達にあたった人々のことを言う。その「エトリ」が転じて「エタ」と呼ばれるようになった、というのが『塵袋』の説明である。
作者も自信がなかったのだろう。「語源は餌取と言うべきか」と留保を付けている。また、「エタ」のところには「非人やカタイ(ハンセン病者)、エタは人と交わらない点で同じようなもの」という説明もある。彼らは蔑まれ、忌避される存在だった。
「エタ」の語源に関する『塵袋』のこれらの記述はさまざまに解釈されてきたが、重要なのはすでに鎌倉時代には「エタ」という言葉が使われていたという点だ。同じ頃に作られた『天狗草紙』という絵巻物には、「穢多童(えたわらわ)」という文字が記され、子どもが鳥を捕まえ、さばいている絵がある。
鎌倉時代にはすでに「エタ」という言葉が使われ、「穢多」という漢字が当てられていたことは疑いようがない。そして、その言葉の由来については当時、辞典を編む知識人ですら「餌取から転じたものか」といった程度のことしか記すことができなくなっていた。
冒頭に記したように、支配層にとって「社会の底辺で生きる人々」のことなど取るに足らない事柄である。「エタ」という言葉が書き留められるまでにはかなりの時が流れ、その由来すらよく分からなくなっていた、と考えるのが自然だろう。
文字には「いったん記されると独り歩きを始める」という性質がある。室町時代の辞典『壒嚢抄(あいのうしょう)』や江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも「エタ」についての説明があり、どちらも「エタの語源は餌取」と記す。ともに『塵袋』を参照したと見られるが、『塵袋』にあった「語源は餌取か」の「か」という留保はなくなり、両方とも断定している。被差別部落の問題を扱う本には、これらの文献を引用して「エタは餌取の転訛」と説明しているものが少なくない。「独り歩き」の好例と言える。
文字や記録を扱う者は、素直すぎてはいけない。「エタ」や「穢多」の語源に関する文献は、一字一句を注意深く、時には疑い深く読む必要があることを教えている。「エタ」の語源については諸説あるが、今となっては「よく分からない」と言うしかない。
◇ ◇
鎌倉時代や室町時代、差別にさらされた人々は穢多、非人のほか河原者、皮多(かわた)、宿(しゅく)の者、坂の者、細工、庭者、鉢たたきなどさまざまな名で呼ばれた。歌舞伎や人形浄瑠璃の役者も「河原者」として扱われ、賤視された。
戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行が相次いだ時代である。人々は疲弊し、社会は揺れ動いた。混乱の中で賤民からのし上がった人々も少なくなかっただろう。とりわけ、室町幕府が形骸化して戦国の世になると、下剋上という言葉に象徴されるように社会階層は激しく流動化した。
このプロセスをどのように見るかは「被差別部落の起源をどう考えるか」に直結する重要な論点となる。「大混乱の中でも多くの賤民は這い上がれなかった」と見るか。「社会階層はバラバラになり、リセットされた」と見るか。
前者の立場なら「今日の被差別部落の起源は江戸時代から中世、さらには古代にまで遡る可能性がある」となる。後者の立場からは「古代や中世の賤民とは断絶がある。豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、支配する側は新たな身分差別制度をつくった」と説くことになる。
どちらの見解がより合理的で説得力があるかの判断はひとまず置き、話を先に進める。
16世紀末に戦国の世を治め、天下を統一したのは豊臣秀吉である。豊臣政権は田畑の検地を実施して年貢の徴収を確実なものにし、農民一揆を抑えるために刀狩をした。部落差別との関係で重要なのは、武家の奉公人が町人や百姓になること及び百姓が商人や職人になることを禁じたことだ。身分が固定され、町人や百姓の下に位置づけられた被差別民は這い上がることができなくなった。
江戸時代になると、身分の固定はさらに強化され、宗門人別改帳によって厳しく管理されるようになる。教科書では江戸期の被差別民は「穢多・非人」と表現されるが、当時の文献を見ると、「穢多」の呼称は東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」や「革多」などと記されることが多い。「非人」もさまざまな名で呼ばれ、記録された。
太平の世が長く続くなるにつれて、差別はきつくなる。部落の人々は通婚の禁止に加え、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」(1683年、長府藩)、「武士や百姓、町人と出会った時は道の片側に寄れ」(紀州藩)といった厳しい規制を受けた。
極め付きは、伊予(愛媛)の大洲藩の触書(1798年)である。「近頃、穢多の分限不相応な振る舞いが目立つ」として、彼らに「五寸四方の毛皮を身に着けて歩くこと。家の戸口にも毛皮を下げること」を命じた。
これらの触書は、商品経済が広まるにつれて被差別民の中にも財を蓄え、裕福な暮らしをする者が増えていったことを示している。江戸幕府の支配は揺らぎ始め、やがて幕末から明治維新へ激動の時代を迎える。
欧米先進国に追いつくため、明治新政府は富国強兵策を推し進め、明治4年(1871年)に穢多・非人などの賤称を廃止する太政官布告(いわゆる解放令)を出した。これによって非人身分の人たちの多くは平民に溶け込んでいったが、穢多と呼ばれた人たちは取り残された。
大正11年(1922年)に全国水平社を結成し、部落差別の克服をめざして立ち上がった人々の多くは「旧穢多」の人たちであり、現在まで差別にさらされている人たちの多くもその末裔である。
◇ ◇
では、穢多のルーツは何か。江戸時代から明治にかけて、さまざまな解釈がなされてきた。
江戸後期に百科事典『守貞謾稿』を著した喜田川守貞は「高麗(朝鮮半島)から渡来し、皮なめしを業とした人たちの末裔」と記した(渡来人・帰化人説)。儒学者の帆足万里は『東潜夫論』で「穢多は昔、奥羽に住んでいた夷人の末裔である。田村麻呂が奥羽を平定し、蝦夷をことごとく日本人にした」と説いた(蝦夷起源説)。
ほかにも、仏教の教えが広まり、殺生を忌む風潮が広がる中で屠者がけがれた者として差別されるようになった(宗教起源説)、殺生を行い、血のけがれに関わる仕事に従事する者が差別されるようになった(職業起源説)、と唱える学者もいた。
実にさまざまな起源説があったが、これらを「妄説」と一蹴したのが京都帝大の歴史学の教授、喜田貞吉である。喜田は1919年(大正8年)に月刊『民族と歴史』の特殊部落研究号を出版し、次のように主張した(注1)。

「素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賎民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が日本民族に於いては、決してそんな事実はありません」
「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿(注2)も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
「我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがって、もと違った民族であっても、うまく融和同化して日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賎となる。今日、特殊部落と認められているものは、徳川時代のいわゆる穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかも、その穢多なるものは、もと雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賎民というものではありません」
「同じく日本民族たる同胞が互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賎民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう」
なにせ、京都帝大の歴史学者のご託宣である。その影響力は絶大だった。この特殊部落研究号の出版によって、「部落差別は江戸時代につくられた」という近世政治起源説の原型のようなものが打ち立てられた。
喜田はこの学説を部落差別の解消を願って唱えた。その善意は疑いようもない。学説の基盤にあったのは皇国史観である。「国民は皆、天皇の赤子である。同胞同士で差別し、圧迫を加えてどうする」と訴えたかったのだろう。
そして、それはこの研究号出版の3年後に旗揚げした全国水平社に集う人たちにとっても好ましいものだった。「同じ日本人なのに、いわれなき差別に苦しめられてきた。今こそ立ち上がる時だ」と奮い立ったのである。
水平社の運動は戦時中、翼賛体制にのみ込まれ、消えていく。敗戦後の1946年、部落解放全国委員会として再出発し、1955年に現在の部落解放同盟に改称した。
戦後、部落解放の運動を理論面で支えたのはマルクス主義を信奉する学者たちである。彼らは、喜田貞吉が打ち出した学説をより精緻に練り上げ、近世政治起源説として広め、定説にしていった。
喜田は皇国史観に立って「国民はみな天皇の赤子」と訴えた。戦後のマルクス主義の学者たちは、唯物史観の立場から「労働者も農民も部落民も、みな被搾取階級である。団結して革命を起こす主体となるべきだ」と唱えた。
拠(よ)って立つイデオロギーはまるで異なるが、どちらにとっても「部落差別をつくり出したのは豊臣政権であり、江戸幕府である」という説明は都合が良かった。「差別の根は浅い。権力者が政治的につくり出したものなら、政治的に解決しようではないか」と訴えることができるからだ。
喜田もマルクス主義の学者たちも「歴史をイデオロギーに基づいて解釈する」という点で共通している。事実の持つ厳粛さの前に謙虚になり、異なる学説への敬意を忘れず切磋琢磨していく、という姿勢が欠落していた。
だが、イデオロギーに基づく学説は事実によって掘り崩され、葬り去られていく。中世の史料の発掘が進み、後に続く研究者によって「鎌倉時代や室町時代の賤民と江戸時代の穢多・非人との強いつながり」が次々に明らかにされていった。
そして、研究はさらに「では、中世の賤民と古代の賤民とはどのような関係にあるのか」という課題の解明へと向かっている。そこでは、「天皇制と被差別の関係」に目を向けないわけにはいかない。部落史の研究は「新しい夜明け」を迎え、曇りのない目で歴史を見つめる時代を迎えている。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月28日
≪写真説明≫
◎「天狗草紙」に描かれた穢多童(えたわらわ)=『続日本絵巻大成19』(中央公論社)から複写
◎喜田貞吉(東北大学関係写真データベースから)
≪参考文献≫
◎『塵袋1』(大西晴隆・木村紀子校注、平凡社東洋文庫)
◎『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 続日本絵巻物大成19』(中央公論社)
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落史用語辞典』(小林茂ら編集、柏書房)
◎『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明・黒川みどり、解放出版社)
◎『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』(喜田川守貞、岩波文庫)
◎『近世後期の部落差別政策(上)』(井ケ田良治、同志社法学1969・1・31)
◎『帆足万里』(帆足図南次、吉川弘文館)
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)=『民族と歴史』特殊部落研究号の喜田論文をまとめて復刻
◎『日本歴史の中の被差別民』(奈良人権・部落解放研究所編、新人物往来社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)
*注1 喜田貞吉は『民族と歴史』特殊部落研究号を出版した1919年の時点では京都帝大専任講師。翌1920年に教授に昇格した。
*注2 喜田は「坂上田村麻呂」ではなく「坂上田村麿」と記している。
当然のことながら、支配する側が残した史書や記録は公平なものではあり得ない。敵は常に悪逆非道であり、「大義は我らにあり」と記す。戦いに敗れた者たちのことは「必要な範囲」で触れるだけだ。ましてや、隷属する者たちのことなど気にも留めない。かすかな断片のようなものが後世に伝えられるに過ぎない。

部落史の研究者によれば、「エタ」あるいは「穢多」という文字が文献に初めて出てくるのは13世紀、鎌倉時代である。随筆形式の辞典、『塵袋(ちりぶくろ)』という文献(作者不詳)に次のように記されている。
キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(こと)ハソ
根本ハ餌取(エトリ)ト云フヘキ欤(か)
餌ト云フハシヽムラ 鷹等ノ餌ヲ云フナルヘシ 其ヲトル物ト云フ也
エトリヲハヤクイヒテ イヒユカメテエタト云ヘリ
(中略)
天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者(トシャ)也
イキ物ヲ殺テウルエタ躰(てい)ノ悪人也
(片仮名のルビは写本の通り、平仮名のルビは筆者が補足)
現代語訳すれば、「清めの仕事をする者を『エタ』と言うのはなぜか。その語源は『餌取』と言うべきか。餌とは肉のかたまり、タカなどの餌を取る者のことである。『エトリ』を早口で言い、言いゆがめて『エタ』と言った」「インドの言葉で『旃陀羅』と言うのは『屠者』のことで、生き物を殺して売る『エタ』のような悪人のことである」という内容だ。
律令国家の時代から、鷹狩は天皇や貴族のたしなみであり、軍事訓練を兼ねていた。鷹狩を取り仕切り、タカの飼育を担う役職があった。餌取とは、その役人の配下でタカの餌の調達にあたった人々のことを言う。その「エトリ」が転じて「エタ」と呼ばれるようになった、というのが『塵袋』の説明である。
作者も自信がなかったのだろう。「語源は餌取と言うべきか」と留保を付けている。また、「エタ」のところには「非人やカタイ(ハンセン病者)、エタは人と交わらない点で同じようなもの」という説明もある。彼らは蔑まれ、忌避される存在だった。
「エタ」の語源に関する『塵袋』のこれらの記述はさまざまに解釈されてきたが、重要なのはすでに鎌倉時代には「エタ」という言葉が使われていたという点だ。同じ頃に作られた『天狗草紙』という絵巻物には、「穢多童(えたわらわ)」という文字が記され、子どもが鳥を捕まえ、さばいている絵がある。
鎌倉時代にはすでに「エタ」という言葉が使われ、「穢多」という漢字が当てられていたことは疑いようがない。そして、その言葉の由来については当時、辞典を編む知識人ですら「餌取から転じたものか」といった程度のことしか記すことができなくなっていた。
冒頭に記したように、支配層にとって「社会の底辺で生きる人々」のことなど取るに足らない事柄である。「エタ」という言葉が書き留められるまでにはかなりの時が流れ、その由来すらよく分からなくなっていた、と考えるのが自然だろう。
文字には「いったん記されると独り歩きを始める」という性質がある。室町時代の辞典『壒嚢抄(あいのうしょう)』や江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも「エタ」についての説明があり、どちらも「エタの語源は餌取」と記す。ともに『塵袋』を参照したと見られるが、『塵袋』にあった「語源は餌取か」の「か」という留保はなくなり、両方とも断定している。被差別部落の問題を扱う本には、これらの文献を引用して「エタは餌取の転訛」と説明しているものが少なくない。「独り歩き」の好例と言える。
文字や記録を扱う者は、素直すぎてはいけない。「エタ」や「穢多」の語源に関する文献は、一字一句を注意深く、時には疑い深く読む必要があることを教えている。「エタ」の語源については諸説あるが、今となっては「よく分からない」と言うしかない。
◇ ◇
鎌倉時代や室町時代、差別にさらされた人々は穢多、非人のほか河原者、皮多(かわた)、宿(しゅく)の者、坂の者、細工、庭者、鉢たたきなどさまざまな名で呼ばれた。歌舞伎や人形浄瑠璃の役者も「河原者」として扱われ、賤視された。
戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行が相次いだ時代である。人々は疲弊し、社会は揺れ動いた。混乱の中で賤民からのし上がった人々も少なくなかっただろう。とりわけ、室町幕府が形骸化して戦国の世になると、下剋上という言葉に象徴されるように社会階層は激しく流動化した。
このプロセスをどのように見るかは「被差別部落の起源をどう考えるか」に直結する重要な論点となる。「大混乱の中でも多くの賤民は這い上がれなかった」と見るか。「社会階層はバラバラになり、リセットされた」と見るか。
前者の立場なら「今日の被差別部落の起源は江戸時代から中世、さらには古代にまで遡る可能性がある」となる。後者の立場からは「古代や中世の賤民とは断絶がある。豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、支配する側は新たな身分差別制度をつくった」と説くことになる。
どちらの見解がより合理的で説得力があるかの判断はひとまず置き、話を先に進める。
16世紀末に戦国の世を治め、天下を統一したのは豊臣秀吉である。豊臣政権は田畑の検地を実施して年貢の徴収を確実なものにし、農民一揆を抑えるために刀狩をした。部落差別との関係で重要なのは、武家の奉公人が町人や百姓になること及び百姓が商人や職人になることを禁じたことだ。身分が固定され、町人や百姓の下に位置づけられた被差別民は這い上がることができなくなった。
江戸時代になると、身分の固定はさらに強化され、宗門人別改帳によって厳しく管理されるようになる。教科書では江戸期の被差別民は「穢多・非人」と表現されるが、当時の文献を見ると、「穢多」の呼称は東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」や「革多」などと記されることが多い。「非人」もさまざまな名で呼ばれ、記録された。
太平の世が長く続くなるにつれて、差別はきつくなる。部落の人々は通婚の禁止に加え、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」(1683年、長府藩)、「武士や百姓、町人と出会った時は道の片側に寄れ」(紀州藩)といった厳しい規制を受けた。
極め付きは、伊予(愛媛)の大洲藩の触書(1798年)である。「近頃、穢多の分限不相応な振る舞いが目立つ」として、彼らに「五寸四方の毛皮を身に着けて歩くこと。家の戸口にも毛皮を下げること」を命じた。
これらの触書は、商品経済が広まるにつれて被差別民の中にも財を蓄え、裕福な暮らしをする者が増えていったことを示している。江戸幕府の支配は揺らぎ始め、やがて幕末から明治維新へ激動の時代を迎える。
欧米先進国に追いつくため、明治新政府は富国強兵策を推し進め、明治4年(1871年)に穢多・非人などの賤称を廃止する太政官布告(いわゆる解放令)を出した。これによって非人身分の人たちの多くは平民に溶け込んでいったが、穢多と呼ばれた人たちは取り残された。
大正11年(1922年)に全国水平社を結成し、部落差別の克服をめざして立ち上がった人々の多くは「旧穢多」の人たちであり、現在まで差別にさらされている人たちの多くもその末裔である。
◇ ◇
では、穢多のルーツは何か。江戸時代から明治にかけて、さまざまな解釈がなされてきた。
江戸後期に百科事典『守貞謾稿』を著した喜田川守貞は「高麗(朝鮮半島)から渡来し、皮なめしを業とした人たちの末裔」と記した(渡来人・帰化人説)。儒学者の帆足万里は『東潜夫論』で「穢多は昔、奥羽に住んでいた夷人の末裔である。田村麻呂が奥羽を平定し、蝦夷をことごとく日本人にした」と説いた(蝦夷起源説)。
ほかにも、仏教の教えが広まり、殺生を忌む風潮が広がる中で屠者がけがれた者として差別されるようになった(宗教起源説)、殺生を行い、血のけがれに関わる仕事に従事する者が差別されるようになった(職業起源説)、と唱える学者もいた。
実にさまざまな起源説があったが、これらを「妄説」と一蹴したのが京都帝大の歴史学の教授、喜田貞吉である。喜田は1919年(大正8年)に月刊『民族と歴史』の特殊部落研究号を出版し、次のように主張した(注1)。

「素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賎民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が日本民族に於いては、決してそんな事実はありません」
「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿(注2)も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
「我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがって、もと違った民族であっても、うまく融和同化して日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賎となる。今日、特殊部落と認められているものは、徳川時代のいわゆる穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかも、その穢多なるものは、もと雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賎民というものではありません」
「同じく日本民族たる同胞が互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賎民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう」
なにせ、京都帝大の歴史学者のご託宣である。その影響力は絶大だった。この特殊部落研究号の出版によって、「部落差別は江戸時代につくられた」という近世政治起源説の原型のようなものが打ち立てられた。
喜田はこの学説を部落差別の解消を願って唱えた。その善意は疑いようもない。学説の基盤にあったのは皇国史観である。「国民は皆、天皇の赤子である。同胞同士で差別し、圧迫を加えてどうする」と訴えたかったのだろう。
そして、それはこの研究号出版の3年後に旗揚げした全国水平社に集う人たちにとっても好ましいものだった。「同じ日本人なのに、いわれなき差別に苦しめられてきた。今こそ立ち上がる時だ」と奮い立ったのである。
水平社の運動は戦時中、翼賛体制にのみ込まれ、消えていく。敗戦後の1946年、部落解放全国委員会として再出発し、1955年に現在の部落解放同盟に改称した。
戦後、部落解放の運動を理論面で支えたのはマルクス主義を信奉する学者たちである。彼らは、喜田貞吉が打ち出した学説をより精緻に練り上げ、近世政治起源説として広め、定説にしていった。
喜田は皇国史観に立って「国民はみな天皇の赤子」と訴えた。戦後のマルクス主義の学者たちは、唯物史観の立場から「労働者も農民も部落民も、みな被搾取階級である。団結して革命を起こす主体となるべきだ」と唱えた。
拠(よ)って立つイデオロギーはまるで異なるが、どちらにとっても「部落差別をつくり出したのは豊臣政権であり、江戸幕府である」という説明は都合が良かった。「差別の根は浅い。権力者が政治的につくり出したものなら、政治的に解決しようではないか」と訴えることができるからだ。
喜田もマルクス主義の学者たちも「歴史をイデオロギーに基づいて解釈する」という点で共通している。事実の持つ厳粛さの前に謙虚になり、異なる学説への敬意を忘れず切磋琢磨していく、という姿勢が欠落していた。
だが、イデオロギーに基づく学説は事実によって掘り崩され、葬り去られていく。中世の史料の発掘が進み、後に続く研究者によって「鎌倉時代や室町時代の賤民と江戸時代の穢多・非人との強いつながり」が次々に明らかにされていった。
そして、研究はさらに「では、中世の賤民と古代の賤民とはどのような関係にあるのか」という課題の解明へと向かっている。そこでは、「天皇制と被差別の関係」に目を向けないわけにはいかない。部落史の研究は「新しい夜明け」を迎え、曇りのない目で歴史を見つめる時代を迎えている。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月28日
≪写真説明≫
◎「天狗草紙」に描かれた穢多童(えたわらわ)=『続日本絵巻大成19』(中央公論社)から複写
◎喜田貞吉(東北大学関係写真データベースから)
≪参考文献≫
◎『塵袋1』(大西晴隆・木村紀子校注、平凡社東洋文庫)
◎『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 続日本絵巻物大成19』(中央公論社)
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落史用語辞典』(小林茂ら編集、柏書房)
◎『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明・黒川みどり、解放出版社)
◎『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』(喜田川守貞、岩波文庫)
◎『近世後期の部落差別政策(上)』(井ケ田良治、同志社法学1969・1・31)
◎『帆足万里』(帆足図南次、吉川弘文館)
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)=『民族と歴史』特殊部落研究号の喜田論文をまとめて復刻
◎『日本歴史の中の被差別民』(奈良人権・部落解放研究所編、新人物往来社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)
*注1 喜田貞吉は『民族と歴史』特殊部落研究号を出版した1919年の時点では京都帝大専任講師。翌1920年に教授に昇格した。
*注2 喜田は「坂上田村麻呂」ではなく「坂上田村麿」と記している。
なんて国だろう、と思う。
森友学園問題で公文書の改竄を指示した財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)を相手に損害賠償を求めた裁判の判決があった。公文書の改竄を命じられて自死した近畿財務局の職員、赤木俊夫氏の妻が訴えていたものだが、大阪地裁は25日、佐川氏の賠償責任を認めず、請求を棄却した。

公務員が故意または過失によって他人に損害を与えた時は、国または自治体が賠償する、と国家賠償法は定めている。今回のケースでは、政府は損害賠償の責任があることをすでに認めている。従って、「佐川氏には損害を賠償する責任はない」というわけだ。
理屈は通っている。「政府または地方自治体が賠償責任を負う場合、公務員個人の責任を問うことはできない」との最高裁判所の判例(1955年4月19日)を踏襲したものだという。しかし、前代未聞の公文書改竄の「下手人」をそんな大昔の判例をそのままなぞって裁いていいのか。
2017年2月に森友学園問題が表面化し、国有地が8億円も値引きされて森友側に払い下げられ、しかも一連の公文書が改竄されていたことが発覚した際、佐川氏は国会の証人喚問で「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否した。
ところが、大阪地検特捜部は「虚偽有印公文書作成罪などにはあたらない」として不起訴処分にした。検察は国有地の8億円値引きについて「それが不適切であると認定するのは困難」と説明した。端(はな)から、認定する気がなかったのだろう。
佐川氏は「刑事訴追の恐れがある」という理由で国会での証言を拒否したのに国税庁長官に栄転し、結局、訴追されずに逃げ切った。すべて安倍晋三政権下での出来事であり、安倍首相を守るための所業だった。栄転はその恩賞である。
どんなに卑劣なことをしても、それが権力を握る者のためであるならば許される。許すために政府も検察も裁判所も足並みをそろえて動く――なんて国だ、と思う。
法律はもともと「2周遅れて時代に付いていく」ものだ。時代の変化に付いていけない。法改正には年月がかかり、改正した頃にはまた時代が変わっていたりする。従って、時代の要請に応えるためには、法律を柔軟に大胆に解釈するしかない。問題は、当事者たちに「時代の要請」に応えようとする意志と勇気があるかどうかだ。
森友問題をめぐる一連の動きは、この国の政治家にも官僚にも、また検察官にも裁判官にもその「意志と勇気」がないことを示している。
国家賠償法は、公務員が故意または重大な過失によって他人に損害を与え、政府が賠償した場合、政府はその公務員に求償権を有する、と規定している。つまり、政府はその公務員に「あなたの違法行為によって損害が生じ、賠償しなければならなくなった。ついてはその賠償額を返してほしい」と要求する権利があるのだ。
ならば、政府が手間暇かけて求償するより、被害者(今回のケースでは赤木氏の妻)が直接、その公務員に損害賠償を求め、政府の手間を省いてあげることも認める、と解釈する余地もあるはずだ。時代の要請に応えるべく、判例を変え、新しい判例を積み上げていく。それこそ、司法に求められていることではないか。
「そんなことを認めたら、公務員個人を相手にした損害賠償請求訴訟が続発してしまう」と心配する向きもある。が、公務員個人を訴えることができるのは「故意または重大な過失があった場合のみ」である。しかも、訴える側は「故意または重大な過失があったこと」を立証しなければならない。おいそれと起こせる訴訟ではあるまい。
森友学園問題をめぐる公文書の改竄が佐川氏の「故意」によって行われたことは明白だ。しかも、改竄を迫られた職員が自死するという事態まで招いた。このような事件について、刑事でも民事でも責任を問えないとしたら、司法は何のためにあるのか。
今の日本では、どんな嘘もごまかしも、権力者と取り巻きにとっては自由自在。責任を問われることもない――森友学園問題はそれを満天下に示すことになった。佐川氏の罪はきわめて重い。それをかばい切ることに手を貸した者たちの罪はさらに重い。未来への希望を打ち砕いたからである。
(長岡 昇:元朝日新聞記者)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2022年11月26日
≪写真説明&Souce≫
◎森友学園の小学校建設現場(大阪市豊中市)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/486
≪参考サイト≫
◎裁判所が公務員である教員個人の損害賠償責任を認めないのはなぜか
森友学園問題で公文書の改竄を指示した財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)を相手に損害賠償を求めた裁判の判決があった。公文書の改竄を命じられて自死した近畿財務局の職員、赤木俊夫氏の妻が訴えていたものだが、大阪地裁は25日、佐川氏の賠償責任を認めず、請求を棄却した。

公務員が故意または過失によって他人に損害を与えた時は、国または自治体が賠償する、と国家賠償法は定めている。今回のケースでは、政府は損害賠償の責任があることをすでに認めている。従って、「佐川氏には損害を賠償する責任はない」というわけだ。
理屈は通っている。「政府または地方自治体が賠償責任を負う場合、公務員個人の責任を問うことはできない」との最高裁判所の判例(1955年4月19日)を踏襲したものだという。しかし、前代未聞の公文書改竄の「下手人」をそんな大昔の判例をそのままなぞって裁いていいのか。
2017年2月に森友学園問題が表面化し、国有地が8億円も値引きされて森友側に払い下げられ、しかも一連の公文書が改竄されていたことが発覚した際、佐川氏は国会の証人喚問で「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否した。
ところが、大阪地検特捜部は「虚偽有印公文書作成罪などにはあたらない」として不起訴処分にした。検察は国有地の8億円値引きについて「それが不適切であると認定するのは困難」と説明した。端(はな)から、認定する気がなかったのだろう。
佐川氏は「刑事訴追の恐れがある」という理由で国会での証言を拒否したのに国税庁長官に栄転し、結局、訴追されずに逃げ切った。すべて安倍晋三政権下での出来事であり、安倍首相を守るための所業だった。栄転はその恩賞である。
どんなに卑劣なことをしても、それが権力を握る者のためであるならば許される。許すために政府も検察も裁判所も足並みをそろえて動く――なんて国だ、と思う。
法律はもともと「2周遅れて時代に付いていく」ものだ。時代の変化に付いていけない。法改正には年月がかかり、改正した頃にはまた時代が変わっていたりする。従って、時代の要請に応えるためには、法律を柔軟に大胆に解釈するしかない。問題は、当事者たちに「時代の要請」に応えようとする意志と勇気があるかどうかだ。
森友問題をめぐる一連の動きは、この国の政治家にも官僚にも、また検察官にも裁判官にもその「意志と勇気」がないことを示している。
国家賠償法は、公務員が故意または重大な過失によって他人に損害を与え、政府が賠償した場合、政府はその公務員に求償権を有する、と規定している。つまり、政府はその公務員に「あなたの違法行為によって損害が生じ、賠償しなければならなくなった。ついてはその賠償額を返してほしい」と要求する権利があるのだ。
ならば、政府が手間暇かけて求償するより、被害者(今回のケースでは赤木氏の妻)が直接、その公務員に損害賠償を求め、政府の手間を省いてあげることも認める、と解釈する余地もあるはずだ。時代の要請に応えるべく、判例を変え、新しい判例を積み上げていく。それこそ、司法に求められていることではないか。
「そんなことを認めたら、公務員個人を相手にした損害賠償請求訴訟が続発してしまう」と心配する向きもある。が、公務員個人を訴えることができるのは「故意または重大な過失があった場合のみ」である。しかも、訴える側は「故意または重大な過失があったこと」を立証しなければならない。おいそれと起こせる訴訟ではあるまい。
森友学園問題をめぐる公文書の改竄が佐川氏の「故意」によって行われたことは明白だ。しかも、改竄を迫られた職員が自死するという事態まで招いた。このような事件について、刑事でも民事でも責任を問えないとしたら、司法は何のためにあるのか。
今の日本では、どんな嘘もごまかしも、権力者と取り巻きにとっては自由自在。責任を問われることもない――森友学園問題はそれを満天下に示すことになった。佐川氏の罪はきわめて重い。それをかばい切ることに手を貸した者たちの罪はさらに重い。未来への希望を打ち砕いたからである。
(長岡 昇:元朝日新聞記者)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2022年11月26日
≪写真説明&Souce≫
◎森友学園の小学校建設現場(大阪市豊中市)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/486
≪参考サイト≫
◎裁判所が公務員である教員個人の損害賠償責任を認めないのはなぜか
新聞記事にも著作権はある。記者が取材して執筆し、編集者が見出しを付けて紙面に組むのには手間暇がかかる。それを無断で利用すれば、著作権法に触れることは言うまでもない。

一方で、新聞には「社会の公器」としての役割もある。報道したことを広く知ってもらうことは報道機関にとって好ましいことでもある。インターネットが普及し、スマホで気軽にアクセスできる時代に、新聞社や通信社がネット上に転載された記事について「著作権法上の権利」をどこまで主張し、貫くかは悩ましいところだ。
ところが、世の中にはそうした「悩ましさ」など気にかけず、著作権を振りかざして「削除と謝罪」を求める新聞社がある。山形新聞である。11月2日付の社会面トップ記事で「国会議員、県議ら70人、本紙無断転載」と報じた。
11月8日には「紙面の無断転載巡り議員6人に通告書」と追い打ちをかけ、県議2人と市議4人の実名を挙げて「著作権を侵害したとの通告書を出した」と伝えた。議員らは自らのフェイスブックやツイッター、ブログに山形新聞の記事を無断で転載していたことを認め、謝罪したという。
これに先立って、同紙は7月に共産党の県議、10月には無所属の鶴岡市議の無断転載を報じていた。これをきっかけに「県内の政治家の無断転載」を総ざらいした結果、著作権侵害のケースが多数あることが分かり、今回の報道になったようだ。
「新聞社の権益を守る」という観点に立てば、一連の報道を英断と評する人もいるかもしれない。だが、議員の実名まで挙げて報道し、転載した記事を削除させたうえ、「今後は無断で転載しません」との誓約書まで提出させるのは「報道機関の暴走」と言えないか。
この新聞が日頃、公平で誠実な報道に徹しているのなら、私も「暴走」などという表現は使わない。だが、その実態は「公平」や「誠実」とはかけ離れている。
山形新聞は部数減対策として、2016年から「教育に新聞を」「1学級に1新聞を」というキャンペーンを始めた。すると、山形県の吉村美栄子知事はこれに呼応する形で2017年度予算に2,794万円を計上し、新聞を購読する小中学校に補助金を出すことを決めた。
同紙はこれを「全国で初」と1面トップで報じた。「全国初」なのは当たり前である。このIT化の時代に学級ごとに新聞を購読させ、それに補助金や助成金を出す都道府県などほかにあるわけがない。要するに「部数減を食い止めたい。県も税金を投入して協力して」と知事に泣きついたのである。
建前として、どの新聞を取るかは市町村の教育委員会と各学校に委ねられていたが、山形県の交付要項には「郷土愛を育むことを目指す」とうたわれていた。郷土のニュースがふんだんに盛り込まれている新聞、つまりは山形新聞の購読を促す内容だった。実際、学校が購読した新聞のほとんどは山形新聞で、この事業は翌年度以降も続けられた。
吉村知事と山形新聞は「持ちつ持たれつ」の関係にある。2021年1月知事選の前年の秋、山形県は山形新聞に「コロナを克服し、大雨災害からの復旧に取り組む」との全面広告を何度か出した。
広告には吉村知事のポーズ写真とメッセージも添えられた。選挙の事前運動とも受け取られかねない内容で、「選挙前には現職知事の写真などを付した広告を掲載しない」との新聞の広告倫理に触れかねない内容だった。が、吉村知事は気にせず、気前良く税金を投じて広告を出した。
知事との関係にせよ、今回の無断転載の追及にせよ、これを仕切っているのは山形新聞の寒河江浩二(さがえ・ひろじ)社長である。編集局長を経て、2012年から社長をつとめ、主筆を兼ねる。75歳。細かい記事にまで口を出すことで知られ、今では社内で自由に意見を言える人はいないという。「山新のプーチン」と陰口をたたかれるゆえんである。
山形新聞は、民放テレビ局や観光会社、1T企業、広告会社をグループに抱える山形県のミニ財閥の中核企業だ。寒河江社長は山形県経営者協会の会長でもある。「政治は知事、経済は私」といった気分なのだろう。
なにせ、山形新聞にはかつて「山形県の政治も経済も牛耳った」という?前科?がある。服部敬雄(よしお)社長の全盛期には国会議員も知事も山形市長もひれ伏し、頭が上がらなかった。地元の人たちは「服部天皇」と呼んだ。
服部社長が1991年に亡くなり、山新グループの勢いはだいぶ衰えた。が、寒河江社長は在任が10年に及び、鼻息はいよいよ荒い。「第二の服部になりかねない」と懸念する声がある。
かつて、山新グループのトップには「天皇」という肩書が付けられた。今は「プーチン」と呼ばれる。昔も今も、面と向かって道理を説く人が周りにいない。県民の一人として切なく、情けない。
長岡 昇(元朝日新聞記者)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月15日
≪参考記事&サイト≫
◎無断転用を報じた山形新聞の記事(2022年7月8日付、10月21日付、11月2日付、11月8日付)
◎日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権」に関する見解
◎新聞著作権協議会の「新聞記事・写真の著作権と複製」に関する見解
◎小中学校での新聞購読に山形県が助成金を出すことを報じた山形新聞の記事(2017年3月16日付)
◎2021年1月の知事選の前に山形新聞に掲載された山形県の全面広告(2020年9月9日付、11月20日付)
◎「服部天皇」による山形県支配の内実を伝えるコラム(ウエブコラム情報屋台)

一方で、新聞には「社会の公器」としての役割もある。報道したことを広く知ってもらうことは報道機関にとって好ましいことでもある。インターネットが普及し、スマホで気軽にアクセスできる時代に、新聞社や通信社がネット上に転載された記事について「著作権法上の権利」をどこまで主張し、貫くかは悩ましいところだ。
ところが、世の中にはそうした「悩ましさ」など気にかけず、著作権を振りかざして「削除と謝罪」を求める新聞社がある。山形新聞である。11月2日付の社会面トップ記事で「国会議員、県議ら70人、本紙無断転載」と報じた。
11月8日には「紙面の無断転載巡り議員6人に通告書」と追い打ちをかけ、県議2人と市議4人の実名を挙げて「著作権を侵害したとの通告書を出した」と伝えた。議員らは自らのフェイスブックやツイッター、ブログに山形新聞の記事を無断で転載していたことを認め、謝罪したという。
これに先立って、同紙は7月に共産党の県議、10月には無所属の鶴岡市議の無断転載を報じていた。これをきっかけに「県内の政治家の無断転載」を総ざらいした結果、著作権侵害のケースが多数あることが分かり、今回の報道になったようだ。
「新聞社の権益を守る」という観点に立てば、一連の報道を英断と評する人もいるかもしれない。だが、議員の実名まで挙げて報道し、転載した記事を削除させたうえ、「今後は無断で転載しません」との誓約書まで提出させるのは「報道機関の暴走」と言えないか。
この新聞が日頃、公平で誠実な報道に徹しているのなら、私も「暴走」などという表現は使わない。だが、その実態は「公平」や「誠実」とはかけ離れている。
山形新聞は部数減対策として、2016年から「教育に新聞を」「1学級に1新聞を」というキャンペーンを始めた。すると、山形県の吉村美栄子知事はこれに呼応する形で2017年度予算に2,794万円を計上し、新聞を購読する小中学校に補助金を出すことを決めた。
同紙はこれを「全国で初」と1面トップで報じた。「全国初」なのは当たり前である。このIT化の時代に学級ごとに新聞を購読させ、それに補助金や助成金を出す都道府県などほかにあるわけがない。要するに「部数減を食い止めたい。県も税金を投入して協力して」と知事に泣きついたのである。
建前として、どの新聞を取るかは市町村の教育委員会と各学校に委ねられていたが、山形県の交付要項には「郷土愛を育むことを目指す」とうたわれていた。郷土のニュースがふんだんに盛り込まれている新聞、つまりは山形新聞の購読を促す内容だった。実際、学校が購読した新聞のほとんどは山形新聞で、この事業は翌年度以降も続けられた。
吉村知事と山形新聞は「持ちつ持たれつ」の関係にある。2021年1月知事選の前年の秋、山形県は山形新聞に「コロナを克服し、大雨災害からの復旧に取り組む」との全面広告を何度か出した。
広告には吉村知事のポーズ写真とメッセージも添えられた。選挙の事前運動とも受け取られかねない内容で、「選挙前には現職知事の写真などを付した広告を掲載しない」との新聞の広告倫理に触れかねない内容だった。が、吉村知事は気にせず、気前良く税金を投じて広告を出した。
知事との関係にせよ、今回の無断転載の追及にせよ、これを仕切っているのは山形新聞の寒河江浩二(さがえ・ひろじ)社長である。編集局長を経て、2012年から社長をつとめ、主筆を兼ねる。75歳。細かい記事にまで口を出すことで知られ、今では社内で自由に意見を言える人はいないという。「山新のプーチン」と陰口をたたかれるゆえんである。
山形新聞は、民放テレビ局や観光会社、1T企業、広告会社をグループに抱える山形県のミニ財閥の中核企業だ。寒河江社長は山形県経営者協会の会長でもある。「政治は知事、経済は私」といった気分なのだろう。
なにせ、山形新聞にはかつて「山形県の政治も経済も牛耳った」という?前科?がある。服部敬雄(よしお)社長の全盛期には国会議員も知事も山形市長もひれ伏し、頭が上がらなかった。地元の人たちは「服部天皇」と呼んだ。
服部社長が1991年に亡くなり、山新グループの勢いはだいぶ衰えた。が、寒河江社長は在任が10年に及び、鼻息はいよいよ荒い。「第二の服部になりかねない」と懸念する声がある。
かつて、山新グループのトップには「天皇」という肩書が付けられた。今は「プーチン」と呼ばれる。昔も今も、面と向かって道理を説く人が周りにいない。県民の一人として切なく、情けない。
長岡 昇(元朝日新聞記者)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月15日
≪参考記事&サイト≫
◎無断転用を報じた山形新聞の記事(2022年7月8日付、10月21日付、11月2日付、11月8日付)
◎日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権」に関する見解
◎新聞著作権協議会の「新聞記事・写真の著作権と複製」に関する見解
◎小中学校での新聞購読に山形県が助成金を出すことを報じた山形新聞の記事(2017年3月16日付)
◎2021年1月の知事選の前に山形新聞に掲載された山形県の全面広告(2020年9月9日付、11月20日付)
◎「服部天皇」による山形県支配の内実を伝えるコラム(ウエブコラム情報屋台)
被差別部落とは何か。部落の人たちはなぜ厳しい差別にさらされ続けるのか。それを解明するためには事実を一つひとつ積み重ね、それを基にして考えていかなければならない。

だが、部落問題に関しては、事実を積み重ねるというそのこと自体が難しい。被差別部落はどこにどのくらいあるのか。部落の人口はどのくらいか。そういう基礎的な事実すら曖昧模糊としている。
1993年の総務庁の調査によれば、全国には4,442の同和地区があり、その人口は約89万人となっている。これは、政府が被差別部落の生活向上と環境改善のために進めた同和対策事業の対象になった地区と人口の合計である。事業の対象にならなかった地区、あるいは対象となることを望まなかった地区は含まれていないので、被差別部落の人口はこれよりかなり多いと推定される。
部落解放同盟は「全国には6,000の被差別部落があり、300万の同胞がいる」という。これは、総務庁の調査結果をベースに同和対策事業の対象外の地区やその人口を推計して積み上げた概数と思われる。実態にかなり近いと考えられるが、疑問も残る。
というのは、被差別部落の解放を目指して全国水平社が設立された大正時代から、すでに「部落の数は6,000、人口は300万人」と唱えられていたからだ。こんなに長い間、部落の数も人口も変わらない、ということがあり得るだろうか。
もっと具体的で都道府県別の内訳も分かるような統計はないのか。そう思って資料を探したが、戦後のものは見当たらない。昭和10年の統計があるようだが、入手できていない。網羅的で信頼性の高い統計は、なんと大正時代まで遡らなければならなかった。
水平社運動の闘士、高橋貞樹が1924年(大正13年)に出版した『特殊部落一千年史』に、1921年(大正10年)の内務省統計が掲載されている。この統計によって、道府県別の部落の数と人口を知ることができる(高橋の著書は戦後、『被差別部落一千年史』と改題され、復刻出版された)。
図1は、この内務省統計を基に被差別部落の人口の多い道府県を五つに分類したものである(東京は当時、東京府)。1位から10位までの府県とその人口を記すと、次のようになる(11位以下は添付の資料参照)。
1.兵庫県 107,608人 2.福岡県 69,345人
3.大阪府 47,909人 4.愛媛県 46,015人
5.岡山県 42,895人 6.京都府 42,179人
7.広島県 40,133人 8.三重県 38,383人
9.和歌山県 36,072人 10.高知県 33,353人

この分布図から読み取れるのは以下の3点である。(1)被差別部落は関西と中国・四国、九州北部に集中している(2)東日本では埼玉、群馬、長野、静岡、栃木にやや多いものの、全体として少ない(3)東北にはほとんどなく、北海道と沖縄にはない。
兵庫や福岡、大阪のように人口が多い府県では部落の人口も多くなる。従って、「被差別部落の人口密度」を見るためには「府県全体の人口との比率」を調べなければならない。この内務省統計の前年、大正9年には第1回の国勢調査が実施されており、この時の府県の人口を分母にすれば、部落の人口の百分率が得られる。
図2は、部落の人口比率を道府県別に5分類したものである。部落の人口比率が3%を超えるのは次の12府県だ(道府県すべての人口と比率は添付の資料を参照)。
1. 奈良県 5.79% 2.高知県 4.97%
3. 和歌山県 4.81% 4.兵庫県 4.67%
5. 愛媛県 4.40% 6.鳥取県 4.18%
7. 滋賀県 3.97% 8.三重県 3.59%
9・岡山県 3.52% 10.徳島県 3.33%
11.京都府 3.28% 12.福岡県 3.17%

この人口比率のデータは、図1の人口分布で示された傾向をより鮮明な形で浮かび上がらせる。ここから読み取れるのは、(1)部落の人口の比率が最も高いのは奈良であり、比率の高い地域は畿内からほぼ同心円状に広がっている(2)北関東と埼玉、長野を除けば、東日本の人口比率は低い(3)とりわけ東京と千葉の比率は低く、東北はさらに低い、ということだ。奈良の被差別部落の人口比率は山形0.10%の58倍、青森0.02%の290倍になる。これらは何を意味するのだろうか。
被差別部落の起源については、戦後長い間、「部落は豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、封建的な身分制度が固まる中で民衆を分断統治するために政治的につくられた」と唱えられてきた。いわゆる「被差別部落=近世政治起源説」である。
しかし、この二つの分布図を見れば、近世政治起源説に大きな疑問を抱かないではいられない。江戸幕府が置かれた東京とその隣の千葉に、なぜこれほど部落が少ないのか。豊臣政権や江戸幕府の支配が及んでいた東北にほとんど部落がないのはなぜか。近世政治起源説では、どちらも全く説明がつかない。
二つの分布図は、被差別部落の起源について、豊臣や徳川の武家政権より、むしろ畿内を拠点とした天皇制との関連が強いことを示唆している、と言えるのではないか。
部落の歴史についての研究が進み、中世の文献の掘り起こしが進むにつれて、近世政治起源説を唱える研究者は少なくなり、今では「部落の起源は中世あるいは古代と考えられる」という研究者が大勢を占めるようになった。部落と天皇制との関連にも、あらためて光が当てられるようになってきた。
けれども、部落問題の素人である私には「中世の文献などを調べるまでもなく、こうした人口や比率の地域的な偏りを見るだけでも、近世政治起源説がおかしいことは明白ではないか」と思える。なぜ、そのような説得力のない学説が生まれ、長い間、幅を利かせたのか。
そうした疑問を抱いて、被差別部落をめぐる研究や運動の経過をたどっていくと、イデオロギーに囚われた者たちが学問と文化をいかにゆがめ、政治や行政をどのように捻じ曲げていったのかが見えてくる。近世政治起源説の流布は「日本社会がずっと抱えてきた知的脆弱さの表れ」と言えるのではないか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」(2022年10月31日)
https://news-hunter.org/?p=14868
≪添付資料≫
◎被差別部落の道府県別の人口
◎被差別部落の道府県別の人口比率
≪参考文献≫
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『はじめての部落問題』(角岡伸彦、文春新書)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
◎『国勢調査以後 日本人口統計集成 第1巻』(内閣統計局、東洋書林)
◎『部落問題入門 部落差別解消推進法対応』(全国部落解放協議会、示現舎)
◎『天皇制と部落差別』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)

だが、部落問題に関しては、事実を積み重ねるというそのこと自体が難しい。被差別部落はどこにどのくらいあるのか。部落の人口はどのくらいか。そういう基礎的な事実すら曖昧模糊としている。
1993年の総務庁の調査によれば、全国には4,442の同和地区があり、その人口は約89万人となっている。これは、政府が被差別部落の生活向上と環境改善のために進めた同和対策事業の対象になった地区と人口の合計である。事業の対象にならなかった地区、あるいは対象となることを望まなかった地区は含まれていないので、被差別部落の人口はこれよりかなり多いと推定される。
部落解放同盟は「全国には6,000の被差別部落があり、300万の同胞がいる」という。これは、総務庁の調査結果をベースに同和対策事業の対象外の地区やその人口を推計して積み上げた概数と思われる。実態にかなり近いと考えられるが、疑問も残る。
というのは、被差別部落の解放を目指して全国水平社が設立された大正時代から、すでに「部落の数は6,000、人口は300万人」と唱えられていたからだ。こんなに長い間、部落の数も人口も変わらない、ということがあり得るだろうか。
もっと具体的で都道府県別の内訳も分かるような統計はないのか。そう思って資料を探したが、戦後のものは見当たらない。昭和10年の統計があるようだが、入手できていない。網羅的で信頼性の高い統計は、なんと大正時代まで遡らなければならなかった。
水平社運動の闘士、高橋貞樹が1924年(大正13年)に出版した『特殊部落一千年史』に、1921年(大正10年)の内務省統計が掲載されている。この統計によって、道府県別の部落の数と人口を知ることができる(高橋の著書は戦後、『被差別部落一千年史』と改題され、復刻出版された)。
図1は、この内務省統計を基に被差別部落の人口の多い道府県を五つに分類したものである(東京は当時、東京府)。1位から10位までの府県とその人口を記すと、次のようになる(11位以下は添付の資料参照)。
1.兵庫県 107,608人 2.福岡県 69,345人
3.大阪府 47,909人 4.愛媛県 46,015人
5.岡山県 42,895人 6.京都府 42,179人
7.広島県 40,133人 8.三重県 38,383人
9.和歌山県 36,072人 10.高知県 33,353人

この分布図から読み取れるのは以下の3点である。(1)被差別部落は関西と中国・四国、九州北部に集中している(2)東日本では埼玉、群馬、長野、静岡、栃木にやや多いものの、全体として少ない(3)東北にはほとんどなく、北海道と沖縄にはない。
兵庫や福岡、大阪のように人口が多い府県では部落の人口も多くなる。従って、「被差別部落の人口密度」を見るためには「府県全体の人口との比率」を調べなければならない。この内務省統計の前年、大正9年には第1回の国勢調査が実施されており、この時の府県の人口を分母にすれば、部落の人口の百分率が得られる。
図2は、部落の人口比率を道府県別に5分類したものである。部落の人口比率が3%を超えるのは次の12府県だ(道府県すべての人口と比率は添付の資料を参照)。
1. 奈良県 5.79% 2.高知県 4.97%
3. 和歌山県 4.81% 4.兵庫県 4.67%
5. 愛媛県 4.40% 6.鳥取県 4.18%
7. 滋賀県 3.97% 8.三重県 3.59%
9・岡山県 3.52% 10.徳島県 3.33%
11.京都府 3.28% 12.福岡県 3.17%

この人口比率のデータは、図1の人口分布で示された傾向をより鮮明な形で浮かび上がらせる。ここから読み取れるのは、(1)部落の人口の比率が最も高いのは奈良であり、比率の高い地域は畿内からほぼ同心円状に広がっている(2)北関東と埼玉、長野を除けば、東日本の人口比率は低い(3)とりわけ東京と千葉の比率は低く、東北はさらに低い、ということだ。奈良の被差別部落の人口比率は山形0.10%の58倍、青森0.02%の290倍になる。これらは何を意味するのだろうか。
被差別部落の起源については、戦後長い間、「部落は豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、封建的な身分制度が固まる中で民衆を分断統治するために政治的につくられた」と唱えられてきた。いわゆる「被差別部落=近世政治起源説」である。
しかし、この二つの分布図を見れば、近世政治起源説に大きな疑問を抱かないではいられない。江戸幕府が置かれた東京とその隣の千葉に、なぜこれほど部落が少ないのか。豊臣政権や江戸幕府の支配が及んでいた東北にほとんど部落がないのはなぜか。近世政治起源説では、どちらも全く説明がつかない。
二つの分布図は、被差別部落の起源について、豊臣や徳川の武家政権より、むしろ畿内を拠点とした天皇制との関連が強いことを示唆している、と言えるのではないか。
部落の歴史についての研究が進み、中世の文献の掘り起こしが進むにつれて、近世政治起源説を唱える研究者は少なくなり、今では「部落の起源は中世あるいは古代と考えられる」という研究者が大勢を占めるようになった。部落と天皇制との関連にも、あらためて光が当てられるようになってきた。
けれども、部落問題の素人である私には「中世の文献などを調べるまでもなく、こうした人口や比率の地域的な偏りを見るだけでも、近世政治起源説がおかしいことは明白ではないか」と思える。なぜ、そのような説得力のない学説が生まれ、長い間、幅を利かせたのか。
そうした疑問を抱いて、被差別部落をめぐる研究や運動の経過をたどっていくと、イデオロギーに囚われた者たちが学問と文化をいかにゆがめ、政治や行政をどのように捻じ曲げていったのかが見えてくる。近世政治起源説の流布は「日本社会がずっと抱えてきた知的脆弱さの表れ」と言えるのではないか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」(2022年10月31日)
https://news-hunter.org/?p=14868
≪添付資料≫
◎被差別部落の道府県別の人口
◎被差別部落の道府県別の人口比率
≪参考文献≫
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『はじめての部落問題』(角岡伸彦、文春新書)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
◎『国勢調査以後 日本人口統計集成 第1巻』(内閣統計局、東洋書林)
◎『部落問題入門 部落差別解消推進法対応』(全国部落解放協議会、示現舎)
◎『天皇制と部落差別』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)

2022年の第10回カヌー探訪は、7月30日(土)に最上川の中流域にある五百川(いもがわ)峡谷(朝日町―大江町)の急流を下り、翌31日(日)は長井ダム湖の三淵(みふち)渓谷を静かにめぐりました。参加者は45人。30日が37人、31日が21人でした。今年から、カヌーイストや朝日ナチュラリストクラブの子どもたちと一緒に最上川の河畔の清掃活動にも取り組み始めました。ご協力いただいたすべての皆様に深く感謝いたします。 (記録・長岡昇、写真撮影・長岡典己)



≪出発&到着時刻≫
◎2022年7月30日(土) 参加:37人、34艇
午前7時 山形県朝日町の雪谷(ゆきたに)カヌー公園で
カヌーイストと「ブナの森」のスタッフが清掃活動
9時20分 カヌーイストが雪谷カヌー公園から出発


10時30分 朝日ナチュラリストクラブの子どもたちや
保護者と一緒に最上川の激流「タンの瀬」
(朝日町栗木沢)で清掃活動
11時20分 カヌーイストが「タンの瀬」に到着。ナチュラリスト
クラブの子どもたちとラフティングを楽しむ



◎「タンの瀬」でラフティングを楽しむ朝日ナチュラリストクラブの子どもたち(動画撮影・結城敏宏)
午後1時30分 「タンの瀬」を出発
3時30分 大江町のゴール「おしんの筏下りロケ地」に到着


◎7月31日(日) 参加:21人、15艇
午前7時40分 長井ダム湖面広場から出発
8時20分 三淵渓谷の入り口に到着
9時 三淵渓谷の入り口に戻る
9時30分 長井ダム湖面広場に戻る


◎長井ダム湖・三淵渓谷へのツーリング(動画撮影・佐藤周平)
≪参加者≫ *エントリー順
◎7月30日、五百川峡谷 37人(34艇)
岸浩(福島市)、柳沼美由紀(福島県泉崎村)、柳沼幸男(同)、佐竹久(山形県大江町)、黒田美喜男(東根市)、寒河江洋光(盛岡市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、清水孝治(同県厚木市)、安部幸男(宮城県柴田町)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、崔鍾八(山形県朝日町)、結城敏宏(米沢市)、小田原紫朗(酒田市)、林和明(東京都足立区)、阿部俊裕(天童市)、阿部明美(同)、中沢崇(長野市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、七海孝(福島県鏡石町)、管慎太郎(岩手県北上市)、高橋洋(米沢市)、牧野格(南陽市)、矢萩剛(村山市)、柴田尚宏(山形市)、川添裕介(北上市)、川添裕加(同)、浅野智久(東根市)、阿部悠子(東京都八王子市)、内藤フィリップ邦夫(天童市)、石井拓海(山形県河北町)、馬場先詩織(東根市)、柳瀬真人(秋田県由利本荘市)、渡邉貴博(同)、菊地大二郎(山形市)、菊地恵里(同)、古家優(酒田市)
*最年少は、岩手県北上市の川添裕加(ゆうか)さん(11歳)。父親の川添裕介さんとカナディアンで参加。

◎7月31日 三淵渓谷 21人(15艇)
岸浩、柳沼美由紀、柳沼幸男、佐竹久、寒河江洋光、安部幸男、池田信一郎、吉田志乃(仙台市)、吉田英世(同)、吉田蓮(同)、真鍋賢一、佐藤周平(山形市)、崔鍾八、清野礼子(仙台市)、結城敏宏、里見優(山形市)、里見由利(同)、中沢崇、斉藤栄司(尾花沢市)、黒澤里司、管慎太郎
*最年少は、仙台市の吉田蓮君(3歳)。吉田志乃、吉田英世夫妻とカナディアンで参加。この記録はなかなか超えられないでしょう。

≪参加者の地域別内訳≫
▽山形県内 22人(山形市6人、天童市3人、東根市3人、米沢市2人、酒田市2人、村山市、尾花沢市、南陽市、大江町、朝日町、河北町各1人)
▽山形県外 23人(宮城県5人、福島県4人、岩手県4人、秋田県2人、東京都2人、神奈川県2人、栃木県、群馬県、埼玉県、長野県各1人)

≪第1回ー第10回の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人
第10回(2022年)45人

≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪協力≫ 朝日ナチュラリストクラブ(最上川・タンの瀬での清掃活動)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省最上川ダム統合管理事務所、山形県、
朝日町、大江町、長井市
≪第10回カヌー探訪の参加記念ステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽長岡佳子
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪受付設営・交通案内設置・弁当と飲料の手配≫ 白田金之助
≪写真撮影・動画の撮影と編集≫ 長岡典己(7月30日の五百川峡谷の写真) ▽結城敏宏(7月30日の「タンの瀬」ラフティングの動画、7月31日の三淵渓谷の写真)▽佐藤周平(7月31日の三淵渓谷ツーリングの動画)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪仕出し弁当≫ 伊藤惣菜(山形県朝日町)
≪漬物提供≫ 佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 朝日観光バス(寒河江市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝
ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロが父親と叔父に伴われて東方へと旅立ったのは1271年とされる。生きて帰れるかどうかも定かではない、危険な旅だった。

父親と叔父にとっては2度目、17歳のマルコにとっては初めての長旅である。一行はペルシャから中央アジアのシルクロードを通り、陸路、3年半かけてモンゴル帝国の夏の都、上都(現在の河北省張家口近郊)にたどり着いた。
時の皇帝クビライは、一行の到着をことのほか喜んだ。父親と叔父は最初の旅の際に命じられた通り、ローマ教皇の書簡とキリスト教の聖油を携えていた。書簡はローマへの使節派遣を促す好意的なものだった。息子のマルコの聡明さにも惹きつけられたようだ。3人はクビライの家臣として迎えられ、厚く遇される。
若いマルコはモンゴル語や中国語を習得し、皇帝の使者としてしばしば、帝国内に派遣された。クビライはマルコの報告を好んだという。任務の報告が的確だっただけでなく、「その土地の珍しい事柄や不思議な話を巧みに語ったから」とされる。
クビライはマルコを寵愛し、一行が帰国することをなかなか許さなかったが、モンゴルの姫をイル・ハン国(ペルシャとその周辺が版図)に嫁がせる使節団に加わることを渋々認めた。3人が船団に加わり、海路、インド洋経由で帰国したのは1295年、実に24年後のことだった。

帰国してほどなく、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦争に巻き込まれ、ジェノヴァの捕虜になった。獄中で、同じように捕虜になった物語作家のルスティケッロと出会う。そこで彼がマルコから聞いた長い旅の物語をまとめたものが『世界の記述』、あるいは『驚異の書』『マルコ・ポーロ旅行記』などと名付けられ、世に知られるに至った。
マルコの旅行記はフランス語やラテン語に次々に翻訳され、写本として広まった。原本は失われ、多種多様な写本が残る。日本では明治時代に『東方見聞録』の書名で紹介され、その呼び方が定着した。
マルコは日本を訪れたことはなかったが、その書には次のような伝聞が記されている。
「ジパングは東方の島で、沿岸から1500マイル離れている。とても大きな島で、人々は色白く美しく礼儀正しい。偶像を崇(あが)め、自分たちの王に統治されている」
「金がものすごく大量にあり、そこに桁外れに見つかり、王が国外に持ち出させない。(中略)ちょうど我々が家あるいは教会を鉛で葺(ふ)くように、すべて金の板で葺かれた大宮殿がある。広間や多くの部屋の天井もすべて分厚い純金の板で、窓もやはり金で飾られている」(高田英樹『世界の記』から引用、イタリア語集成本からの和訳)
ヨーロッパの人々はマルコの書で初めてシルクロードやモンゴル帝国、アジアの国々のことを知り、興奮した。とりわけ、黄金の国ジパングの物語に熱狂した。
時を経て、その熱はジェノヴァ生まれの探検家コロンブスをも巻き込む。コロンブスはスペイン王の支援を得て西回りでジパングを目指し、大西洋のかなたで「未知の大陸」に到達した。
マルコが世に広めた「黄金の国伝説」は、コロンブスを突き動かしてアメリカ大陸へと導き、歴史の歯車を大きく回す結果をもたらしたのである。
◇ ◇
では、その黄金の国伝説はどのようにして生まれたのか。話は、マルコが旅した時代からさらに500年以上さかのぼる。
天平年間(729?749年)、聖武(しょうむ)天皇は藤原一族がらみの激しい政争に加え、天然痘の大流行や旱魃と飢饉、大地震に襲われ、苦しんでいた。天皇は仏教に深く帰依し、仏教にすがって世を立て直そうと試みた。
国家鎮護のため全国に国分寺を建立する詔(みことのり)を出したのに続いて、743年(天平15年)には大仏造立(ぞうりゅう)を宣言した。奈良東大寺の大仏様である。
「私は天皇の位に就いて民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下に行き渡っていない。三宝(仏、法、僧)の力によって天下が安らかになり、生きとし生けるものすべてが栄えることを望む」(『続日本紀』所収の詔、現代語訳は筆者)
詔には、聖武天皇の切なる思いがにじむ。「一本の草、一握りの土でも協力したいという者がいれば、それを許しなさい」との一文を付け加えている。
高さ16メートルもの大仏を造る大事業である。まず木材と土で原型を造り、さらに外型を造って間に溶銅を流し込んで鋳造する。一気にはできないので、下部から順々に鋳造していったと考えられている。
原料の銅や錫は国内にたくさんあった。だが、問題は金だった。銅による鋳造の後、大仏には鍍金(ときん)を施して金ピカにする計画だが、国内の産金はごくわずかで、中国や朝鮮半島から輸入するしかない。当然のことながら、「莫大な代価を払わなければならない」と覚悟していた。

その時である。749年(天平21年)、陸奥(むつ)の国から「大量の砂金が見つかった」との報告が寄せられ、都に黄金900両(13キロ)が届けられた。
聖武天皇の喜びようは尋常ではなかった。「願いが天に届いた」と思ったのではないか。天皇はその年のうちに元号を「天平感宝」と改め、出家して退位してしまった。
武人で歌人でもあった大伴家持は当時、越中の国守だったが、陸奥の産金を知り、産金をことほぐ長歌と次のような反歌を詠んだ。
天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あづま)なる
陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く
万葉集に収められた歌の中で「最北の地を詠んだ歌」とされる。
大仏の開眼供養が営まれたのは752年(天平勝宝4年)である。大仏造立の詔から9年。その後も陸奥からは砂金が次々に届けられ、鍍金と仕上げ作業が続けられた。
日本の元号が漢字4文字で表されたのは、この時期の5代しかない。うち3代に「黄金」を意味する「宝」が使われた。朝廷の喜びがいかに大きかったかを示している。
陸奥で砂金が見つかった時の国守は、百済王(くだらのこにきし)敬福である。その名が示すように朝鮮半島の百済から渡来した王族の末裔で、陸奥に赴任する際に同行した部下にも渡来系の人たちがいたことが知られている。
砂金の発見と採取には特殊なノウハウと技術が求められる。大和朝廷の支配下にはもともとそうした人材はおらず、渡来系の人たちに頼るしかなかったのだろう。
砂金貢納の功績により、百済王敬福は従五位上から7階級特進し、その部下たちも褒賞にあずかった。朝廷にとっては「金の輸入国から輸出国に転じるきっかけを作ってくれた人たち」であった。
これ以降、陸奥では砂金や金鉱脈が相次いで発見される。大陸に渡る使者や僧侶には渡航費用に充てるため、砂金を持たせるようになっていった。
黄金を基盤にして、平泉の藤原一族は栄華を極めた。中尊寺金色堂はその象徴であり、扉も壁も天井も金箔で飾られた。マルコが記した「黄金の国ジパング伝説」はこうしたことを反映したものであり、多少の誇張はあったにせよ、伝説ではなく、事実であった。
◇ ◇
大仏造立時に大量の砂金が見つかったのは、宮城県北東部の涌谷(わくや)町である。砂金の採取地は、町の中心部の北に広がる箟岳(ののだけ)丘陵の沢筋にある。夏の渇水期には水がわずかに流れるだけの小さな沢だ。
周辺で金の鉱脈は見つかっていない。金をわずかに含む地層が隆起して浸食され、その砂金が大雨の時に押し流され、長い年月のうちに堆積したものと考えられている。
砂金が採取された場所には神社と寺が建てられた。聖武天皇は「仏が恵んでくれた金」という宣明と「天地の神々が祝福してくれた金」という宣明を同じ日に出しており、それに基づいて建立されたものだろう。「日本の神仏混淆(こんこう)はここに始まる」との見方もある。
だが、砂金が採れなくなると、神社も寺も忘れ去られた。どこの国でも、金が採れなくなった地域は「ゴーストタウン」と化す運命にある。
いつしか、「天平時代に砂金が採れたのは牡鹿半島沖の金華山」という俗説が流布し、そう信じられるようになっていった。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅日誌に、大伴家持が「陸奥山に金花咲く」とうたったのは金華山、と記している。
こうした俗説に異を唱え、『続日本紀』などの史書を丹念に調べて是正したのは、江戸時代後期の伊勢の国学者、沖安海(おき・やすみ)である。
沖は当時の涌谷村の砂金採取地の様子を次のように記している。
「社(やしろ)があると聞いて訪ねたが、松や竹が生い茂り、道もなく荒れ果てていた。地元の人に問うたが、誰も知らない」
それでも、沖はやぶの中から大きな礎石と瓦の破片を見つけた。ここに社があったことを確信し、自ら資金を調達して黄金山神社を再建した。黄金の国伝説の起点となった場所は、一人の国学者によって息を吹き返し、歴史の表舞台に戻ってきたのである。

これ以降、地元の人たちはまた神社を大切にするようになった。昭和から平成にかけて、竹下政権は地域おこしのために市町村に1億円を交付する「ふるさと創生事業」を始めた。
涌谷町は、この事業を足がかりにして黄金山神社の周辺を整備し、神社の入り口に「天平ろまん館」というテーマ館を建てて地域おこしに取り組み始めた。展示資料が充実している。砂金採取の体験もできる施設で人気を集めた。
2019年には、涌谷町や平泉町を含む地域が「黄金の国ジパング 産金はじまりの地」として、文化庁に「日本遺産」に認定された。これで地域おこしに弾みがつくはずだった。
だが、コロナ禍の影響を大きく受け、集客に苦心しているのが実情だ。今はポスト・コロナを見据え、戦略を練り直す時だろう。
シルクロードにあこがれ、大航海時代の冒険に胸躍らせる人は世界中にたくさんいる。マルコ・ポーロとコロンブスにも登場してもらい、海外からもっと人を招き寄せる方策を探ってはどうか。「黄金をめぐる世界のネットワーク」の拠点を目指す道もある。ここは、知恵の絞りどころだろう。
◇ ◇
古代東北の蝦夷(えみし)と畿内の朝廷勢力との関係で考えると、涌谷での砂金の発見は「朝廷が蝦夷討伐に本腰を入れる要因の一つになったのではないか」との推測を生む。
8世紀の前半、東北の情勢は比較的落ち着いていた。朝廷の支配は現在の宮城県の北部まで、それ以北の岩手県や青森県の大部分は蝦夷の勢力圏、という構図で推移していた。
ところが、涌谷で砂金が発見された後、朝廷は桃生(ものう)城の建設(758年)と伊治(これはり)城の建設(767年)に踏み切った。涌谷の砂金採取地は桃生城の近くである。「陸奥にはもっと黄金があるに違いない」と見て、支配を北へ押し広げることを決意したのではないか。
実際、蝦夷と朝廷との「38年戦争」は、蝦夷側による桃生城と伊治城の襲撃から始まり、岩手県の胆沢(いさわ)を拠点とするアテルイ(阿弖流為)らの蝦夷勢力との激突、という形で展開していった。
大陸や朝鮮半島との交易において、黄金は何よりも有力な品となる。その確保は、朝廷にとって最優先課題となった可能性がある(佐渡島で金の採掘が本格化するのは江戸時代以降)。
砂金はしばしば、砂鉄と共に採取される。「朝廷は、砂金に加えて鉄などの鉱物資源の確保を目指したのではないか」という見方もある。これは、「蝦夷の刀」とされる蕨手(わらびて)刀の鍛造や伝播とも関わってくる。
古代の東北をめぐっては、解明されなければならない課題がまだ山のようにある。私たちの探求の旅は始まったばかり、と言えるのではないか。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*連載?「東北の蝦夷と被差別部落」
【初出】調査報道サイト「ハンター」 2022年6月29日
https://news-hunter.org/?p=12909
*参考:連載? 東北の蝦夷と被差別部落 菊池山哉が紡いだ細い糸
http://www.johoyatai.com/4384
≪写真と図の説明&Source≫
◎マルコ・ポーロの肖像画
https://www.biography.com/explorer/marco-polo
◎マルコ・ポーロの行路
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Route_of_Marco_Polo.png
◎奈良東大寺の大仏。戦火で2度焼損し、再建された
https://seikyokudo.jp/?pid=151001936
◎宮城県涌谷町の黄金山神社(筆者撮影)
≪参考文献≫
◎『マルコ・ポーロ ルスティケッロ・ダ・ピーサ 世界の記 「東方見聞録」対校訳』(高田英樹、名古屋大学出版会)
◎『東方見聞録』(マルコ・ポーロ、愛宕<おたぎ>松男訳、平凡社・東洋文庫)
◎『奈良の大仏 世界最大の鋳造仏』(香取忠彦、イラスト・穂積和夫、草思社)
◎『東大寺大仏の研究 解説篇』(前田泰次、松山鐵夫、平川晋吾、西大由、戸津圭之介、岩波書店)
◎『日本の金』(彌永<やなが>芳子、東海大学出版会)
◎『天平産金物語』(宮城県涌谷町教育委員会)
◎『天平の産金地、宮城県箟岳(ののだけ)丘陵の砂金と地質の研究史』(鈴木舜一、地質学雑誌第116巻第6号)
◎『陸奥産金と家持』(福山宗志、『官人(つかさびと) 大伴家持』所収)
◎『日本鉱山史の研究』(小葉田<こばた>淳、岩波書店)
*注: マルコ・ポーロが訪れた当時のモンゴル帝国の皇帝について、中学や高校の教科書の多くは「フビライ」と表記していますが、研究者の間では「クビライ」と表記することが多いようです。アルファベットでは「KHUBILAI」と表記されます。「KH」は、ペルシャ語を含む中央アジア諸言語で喉の奥を使って発する音を表記する際の綴りで、「ク」と「フ」の中間のような音です。私もどちらかと言えば「ク」の方が適切と考えます。

父親と叔父にとっては2度目、17歳のマルコにとっては初めての長旅である。一行はペルシャから中央アジアのシルクロードを通り、陸路、3年半かけてモンゴル帝国の夏の都、上都(現在の河北省張家口近郊)にたどり着いた。
時の皇帝クビライは、一行の到着をことのほか喜んだ。父親と叔父は最初の旅の際に命じられた通り、ローマ教皇の書簡とキリスト教の聖油を携えていた。書簡はローマへの使節派遣を促す好意的なものだった。息子のマルコの聡明さにも惹きつけられたようだ。3人はクビライの家臣として迎えられ、厚く遇される。
若いマルコはモンゴル語や中国語を習得し、皇帝の使者としてしばしば、帝国内に派遣された。クビライはマルコの報告を好んだという。任務の報告が的確だっただけでなく、「その土地の珍しい事柄や不思議な話を巧みに語ったから」とされる。
クビライはマルコを寵愛し、一行が帰国することをなかなか許さなかったが、モンゴルの姫をイル・ハン国(ペルシャとその周辺が版図)に嫁がせる使節団に加わることを渋々認めた。3人が船団に加わり、海路、インド洋経由で帰国したのは1295年、実に24年後のことだった。

帰国してほどなく、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦争に巻き込まれ、ジェノヴァの捕虜になった。獄中で、同じように捕虜になった物語作家のルスティケッロと出会う。そこで彼がマルコから聞いた長い旅の物語をまとめたものが『世界の記述』、あるいは『驚異の書』『マルコ・ポーロ旅行記』などと名付けられ、世に知られるに至った。
マルコの旅行記はフランス語やラテン語に次々に翻訳され、写本として広まった。原本は失われ、多種多様な写本が残る。日本では明治時代に『東方見聞録』の書名で紹介され、その呼び方が定着した。
マルコは日本を訪れたことはなかったが、その書には次のような伝聞が記されている。
「ジパングは東方の島で、沿岸から1500マイル離れている。とても大きな島で、人々は色白く美しく礼儀正しい。偶像を崇(あが)め、自分たちの王に統治されている」
「金がものすごく大量にあり、そこに桁外れに見つかり、王が国外に持ち出させない。(中略)ちょうど我々が家あるいは教会を鉛で葺(ふ)くように、すべて金の板で葺かれた大宮殿がある。広間や多くの部屋の天井もすべて分厚い純金の板で、窓もやはり金で飾られている」(高田英樹『世界の記』から引用、イタリア語集成本からの和訳)
ヨーロッパの人々はマルコの書で初めてシルクロードやモンゴル帝国、アジアの国々のことを知り、興奮した。とりわけ、黄金の国ジパングの物語に熱狂した。
時を経て、その熱はジェノヴァ生まれの探検家コロンブスをも巻き込む。コロンブスはスペイン王の支援を得て西回りでジパングを目指し、大西洋のかなたで「未知の大陸」に到達した。
マルコが世に広めた「黄金の国伝説」は、コロンブスを突き動かしてアメリカ大陸へと導き、歴史の歯車を大きく回す結果をもたらしたのである。
◇ ◇
では、その黄金の国伝説はどのようにして生まれたのか。話は、マルコが旅した時代からさらに500年以上さかのぼる。
天平年間(729?749年)、聖武(しょうむ)天皇は藤原一族がらみの激しい政争に加え、天然痘の大流行や旱魃と飢饉、大地震に襲われ、苦しんでいた。天皇は仏教に深く帰依し、仏教にすがって世を立て直そうと試みた。
国家鎮護のため全国に国分寺を建立する詔(みことのり)を出したのに続いて、743年(天平15年)には大仏造立(ぞうりゅう)を宣言した。奈良東大寺の大仏様である。
「私は天皇の位に就いて民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下に行き渡っていない。三宝(仏、法、僧)の力によって天下が安らかになり、生きとし生けるものすべてが栄えることを望む」(『続日本紀』所収の詔、現代語訳は筆者)
詔には、聖武天皇の切なる思いがにじむ。「一本の草、一握りの土でも協力したいという者がいれば、それを許しなさい」との一文を付け加えている。
高さ16メートルもの大仏を造る大事業である。まず木材と土で原型を造り、さらに外型を造って間に溶銅を流し込んで鋳造する。一気にはできないので、下部から順々に鋳造していったと考えられている。
原料の銅や錫は国内にたくさんあった。だが、問題は金だった。銅による鋳造の後、大仏には鍍金(ときん)を施して金ピカにする計画だが、国内の産金はごくわずかで、中国や朝鮮半島から輸入するしかない。当然のことながら、「莫大な代価を払わなければならない」と覚悟していた。

その時である。749年(天平21年)、陸奥(むつ)の国から「大量の砂金が見つかった」との報告が寄せられ、都に黄金900両(13キロ)が届けられた。
聖武天皇の喜びようは尋常ではなかった。「願いが天に届いた」と思ったのではないか。天皇はその年のうちに元号を「天平感宝」と改め、出家して退位してしまった。
武人で歌人でもあった大伴家持は当時、越中の国守だったが、陸奥の産金を知り、産金をことほぐ長歌と次のような反歌を詠んだ。
天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あづま)なる
陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く
万葉集に収められた歌の中で「最北の地を詠んだ歌」とされる。
大仏の開眼供養が営まれたのは752年(天平勝宝4年)である。大仏造立の詔から9年。その後も陸奥からは砂金が次々に届けられ、鍍金と仕上げ作業が続けられた。
日本の元号が漢字4文字で表されたのは、この時期の5代しかない。うち3代に「黄金」を意味する「宝」が使われた。朝廷の喜びがいかに大きかったかを示している。
陸奥で砂金が見つかった時の国守は、百済王(くだらのこにきし)敬福である。その名が示すように朝鮮半島の百済から渡来した王族の末裔で、陸奥に赴任する際に同行した部下にも渡来系の人たちがいたことが知られている。
砂金の発見と採取には特殊なノウハウと技術が求められる。大和朝廷の支配下にはもともとそうした人材はおらず、渡来系の人たちに頼るしかなかったのだろう。
砂金貢納の功績により、百済王敬福は従五位上から7階級特進し、その部下たちも褒賞にあずかった。朝廷にとっては「金の輸入国から輸出国に転じるきっかけを作ってくれた人たち」であった。
これ以降、陸奥では砂金や金鉱脈が相次いで発見される。大陸に渡る使者や僧侶には渡航費用に充てるため、砂金を持たせるようになっていった。
黄金を基盤にして、平泉の藤原一族は栄華を極めた。中尊寺金色堂はその象徴であり、扉も壁も天井も金箔で飾られた。マルコが記した「黄金の国ジパング伝説」はこうしたことを反映したものであり、多少の誇張はあったにせよ、伝説ではなく、事実であった。
◇ ◇
大仏造立時に大量の砂金が見つかったのは、宮城県北東部の涌谷(わくや)町である。砂金の採取地は、町の中心部の北に広がる箟岳(ののだけ)丘陵の沢筋にある。夏の渇水期には水がわずかに流れるだけの小さな沢だ。
周辺で金の鉱脈は見つかっていない。金をわずかに含む地層が隆起して浸食され、その砂金が大雨の時に押し流され、長い年月のうちに堆積したものと考えられている。
砂金が採取された場所には神社と寺が建てられた。聖武天皇は「仏が恵んでくれた金」という宣明と「天地の神々が祝福してくれた金」という宣明を同じ日に出しており、それに基づいて建立されたものだろう。「日本の神仏混淆(こんこう)はここに始まる」との見方もある。
だが、砂金が採れなくなると、神社も寺も忘れ去られた。どこの国でも、金が採れなくなった地域は「ゴーストタウン」と化す運命にある。
いつしか、「天平時代に砂金が採れたのは牡鹿半島沖の金華山」という俗説が流布し、そう信じられるようになっていった。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅日誌に、大伴家持が「陸奥山に金花咲く」とうたったのは金華山、と記している。
こうした俗説に異を唱え、『続日本紀』などの史書を丹念に調べて是正したのは、江戸時代後期の伊勢の国学者、沖安海(おき・やすみ)である。
沖は当時の涌谷村の砂金採取地の様子を次のように記している。
「社(やしろ)があると聞いて訪ねたが、松や竹が生い茂り、道もなく荒れ果てていた。地元の人に問うたが、誰も知らない」
それでも、沖はやぶの中から大きな礎石と瓦の破片を見つけた。ここに社があったことを確信し、自ら資金を調達して黄金山神社を再建した。黄金の国伝説の起点となった場所は、一人の国学者によって息を吹き返し、歴史の表舞台に戻ってきたのである。

これ以降、地元の人たちはまた神社を大切にするようになった。昭和から平成にかけて、竹下政権は地域おこしのために市町村に1億円を交付する「ふるさと創生事業」を始めた。
涌谷町は、この事業を足がかりにして黄金山神社の周辺を整備し、神社の入り口に「天平ろまん館」というテーマ館を建てて地域おこしに取り組み始めた。展示資料が充実している。砂金採取の体験もできる施設で人気を集めた。
2019年には、涌谷町や平泉町を含む地域が「黄金の国ジパング 産金はじまりの地」として、文化庁に「日本遺産」に認定された。これで地域おこしに弾みがつくはずだった。
だが、コロナ禍の影響を大きく受け、集客に苦心しているのが実情だ。今はポスト・コロナを見据え、戦略を練り直す時だろう。
シルクロードにあこがれ、大航海時代の冒険に胸躍らせる人は世界中にたくさんいる。マルコ・ポーロとコロンブスにも登場してもらい、海外からもっと人を招き寄せる方策を探ってはどうか。「黄金をめぐる世界のネットワーク」の拠点を目指す道もある。ここは、知恵の絞りどころだろう。
◇ ◇
古代東北の蝦夷(えみし)と畿内の朝廷勢力との関係で考えると、涌谷での砂金の発見は「朝廷が蝦夷討伐に本腰を入れる要因の一つになったのではないか」との推測を生む。
8世紀の前半、東北の情勢は比較的落ち着いていた。朝廷の支配は現在の宮城県の北部まで、それ以北の岩手県や青森県の大部分は蝦夷の勢力圏、という構図で推移していた。
ところが、涌谷で砂金が発見された後、朝廷は桃生(ものう)城の建設(758年)と伊治(これはり)城の建設(767年)に踏み切った。涌谷の砂金採取地は桃生城の近くである。「陸奥にはもっと黄金があるに違いない」と見て、支配を北へ押し広げることを決意したのではないか。
実際、蝦夷と朝廷との「38年戦争」は、蝦夷側による桃生城と伊治城の襲撃から始まり、岩手県の胆沢(いさわ)を拠点とするアテルイ(阿弖流為)らの蝦夷勢力との激突、という形で展開していった。
大陸や朝鮮半島との交易において、黄金は何よりも有力な品となる。その確保は、朝廷にとって最優先課題となった可能性がある(佐渡島で金の採掘が本格化するのは江戸時代以降)。
砂金はしばしば、砂鉄と共に採取される。「朝廷は、砂金に加えて鉄などの鉱物資源の確保を目指したのではないか」という見方もある。これは、「蝦夷の刀」とされる蕨手(わらびて)刀の鍛造や伝播とも関わってくる。
古代の東北をめぐっては、解明されなければならない課題がまだ山のようにある。私たちの探求の旅は始まったばかり、と言えるのではないか。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*連載?「東北の蝦夷と被差別部落」
【初出】調査報道サイト「ハンター」 2022年6月29日
https://news-hunter.org/?p=12909
*参考:連載? 東北の蝦夷と被差別部落 菊池山哉が紡いだ細い糸
http://www.johoyatai.com/4384
≪写真と図の説明&Source≫
◎マルコ・ポーロの肖像画
https://www.biography.com/explorer/marco-polo
◎マルコ・ポーロの行路
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Route_of_Marco_Polo.png
◎奈良東大寺の大仏。戦火で2度焼損し、再建された
https://seikyokudo.jp/?pid=151001936
◎宮城県涌谷町の黄金山神社(筆者撮影)
≪参考文献≫
◎『マルコ・ポーロ ルスティケッロ・ダ・ピーサ 世界の記 「東方見聞録」対校訳』(高田英樹、名古屋大学出版会)
◎『東方見聞録』(マルコ・ポーロ、愛宕<おたぎ>松男訳、平凡社・東洋文庫)
◎『奈良の大仏 世界最大の鋳造仏』(香取忠彦、イラスト・穂積和夫、草思社)
◎『東大寺大仏の研究 解説篇』(前田泰次、松山鐵夫、平川晋吾、西大由、戸津圭之介、岩波書店)
◎『日本の金』(彌永<やなが>芳子、東海大学出版会)
◎『天平産金物語』(宮城県涌谷町教育委員会)
◎『天平の産金地、宮城県箟岳(ののだけ)丘陵の砂金と地質の研究史』(鈴木舜一、地質学雑誌第116巻第6号)
◎『陸奥産金と家持』(福山宗志、『官人(つかさびと) 大伴家持』所収)
◎『日本鉱山史の研究』(小葉田<こばた>淳、岩波書店)
*注: マルコ・ポーロが訪れた当時のモンゴル帝国の皇帝について、中学や高校の教科書の多くは「フビライ」と表記していますが、研究者の間では「クビライ」と表記することが多いようです。アルファベットでは「KHUBILAI」と表記されます。「KH」は、ペルシャ語を含む中央アジア諸言語で喉の奥を使って発する音を表記する際の綴りで、「ク」と「フ」の中間のような音です。私もどちらかと言えば「ク」の方が適切と考えます。
第10回最上川縦断カヌー探訪は、7月30日(土)と31日(日)に予定通り開催します。1日目は最上川の五百川(いもがわ)峡谷(朝日町ー大江町)を15キロ下り、2日目は長井ダム湖の三淵渓谷を周遊します。
コロナの感染が再び急拡大し、厳しい状況ですが、感染対策を施しながら、なんとか開催する予定です。参加者は45人(1日目は37人、2日目は23人)です。
天気予報によれば、山形県の内陸部は30日、31日とも晴れ時々曇り。最高気温は30日が摂氏33度、31日が34度の見込みです。
コロナの感染が再び急拡大し、厳しい状況ですが、感染対策を施しながら、なんとか開催する予定です。参加者は45人(1日目は37人、2日目は23人)です。
天気予報によれば、山形県の内陸部は30日、31日とも晴れ時々曇り。最高気温は30日が摂氏33度、31日が34度の見込みです。
安倍晋三首相(当時)の昭恵夫人が知人の招きで山形県の長井市を訪れたのは、2017年の夏だった。長井市内で開かれたイベントに参加した後、昭恵さんは最上川の支流・野川の奥にある三淵(みふち)渓谷まで足を延ばした。

高さ50メートルほどの断崖が続く渓谷にはかつて三淵神社があったが、その場所は長井ダムの完成によって水没し、神社はさらに奥の山腹に移された。昭恵さんは地元の人たちが用意してくれたボートに乗って渓谷へと進み、神社の方角に向かって手を合わせたという。
「この時期はよくコシジロ(アブの一種)が出ます。お付きの人たちはキャーキャー騒いであちこち刺されていましたが、昭恵さんは泰然としていました」。一行を案内したNPO最上川リバーツーリズムネットワークの佐藤五郎・代表理事は振り返る。
ボートの手配まで依頼して昭恵さんがこの地を訪れ、手を合わせたのはなぜなのか。それは、この渓谷にまつわる不思議な物語を知ったからである。
◇ ◇
物語は1000年ほど昔にさかのぼる。舞台は古代の東北である。陸奥(むつ)と出羽で暮らしていた蝦夷(えみし)は畿内の朝廷勢力との「38年戦争」に敗れ、いったんはその支配下に組み込まれたが、11世紀の半ばには再び勢力を盛り返していた。
この時期、「奥六郡」と呼ばれた岩手県の中部から南部にかけての地域を実質的に支配していたのは安倍一族だった(図参照)。

奥六郡は砂金と馬の産地であり、アザラシの毛皮や鷲の羽、絹の供給地でもあった。それらの品々は朝廷への貢租として納められ、都の人たちに珍重されてきたが、安倍一族は貢納をやめ、その支配を衣川の南へ広げようとした。
朝廷にとっては許しがたいことである。永承6年(1051年)、「前九年の役」と呼ばれる戦争が始まる。陸奥守、藤原登任(なりとう)は出羽の軍勢も動員して、鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で安倍一族との合戦に臨んだ。
結果は安倍一族の圧勝、朝廷側の惨敗だった。藤原登任は多数の死傷者を出して敗走し、更迭された。
代わって陸奥守に就任したのが、武勇のほまれ高い源頼義である。頼義は「安倍一族追討」の命を帯びて着任したが、その前後に後冷泉天皇は祖母、上東門院(藤原彰子)の病気快癒を願って恩赦を発布した。朝廷軍と戦った安倍一族の棟梁、安倍頼時(よりとき)や息子の貞任(さだとう)らの罪がすべて許されることになったのである。
安倍一族は源頼義を盛大にもてなし、恭順の意を示した。陸奥にしばしの平和が訪れた。だが、それも長くは続かなかった。
天喜4年(1056年)、源頼義の家臣と安倍貞任との間に争いが起きた。阿久利河事件と呼ばれる。頼義の家臣の妹との結婚を貞任が申し入れたのに対し、その家臣が「安倍のような賎しい一族に妹はやれぬ」と断ったことに貞任が怒り、夜討ちをかけたとされる事件で、これをきっかけに再び戦さが始まる。風雪の中、朝廷軍と安倍一族は激突し、またもや貞任率いる安倍一族が圧勝した。
前九年の役を記録した『陸奥話記』は「官軍大いに敗れ、死する者数百人なり」「将軍の従兵、散走し、残るところわずかに六騎」と伝える。源頼義は命からがら逃げ延びた。
戦争の様相が一変するのは、出羽を支配する清原一族が朝廷側に加わってからである。源頼義に懇請され、清原武則(たけのり)は1万の軍勢を率いて参戦した。朝廷・清原連合軍は城柵に立てこもる安倍一族を次々に打ち破り、壊滅に追い込む。安倍貞任は瀕死の状態で捕らえられて息絶え、息子や家臣もことごとく処刑された。
奥六郡を支配した安倍一族とは、どのような人たちだったのか。『陸奥話記』には、父祖安倍忠頼は「東夷の酋長なり」とある。「俘囚安倍貞任」と記す史書もある。
素直に読めば、古代東北の蝦夷で朝廷に服属した一族となる。だが、岩手大学の高橋崇教授は著書『蝦夷の末裔』に「地方官として陸奥に赴任し、土着化した勢力」や「移民としてやってきて豪族になった一族」である可能性も否定できない、と記した。
都で暮らす人々にとって陸奥や出羽は「地の果て」であり、住民そのものを「蝦夷」や「俘囚」と称して蔑む風潮があったからである。史書をいくら読み込んでも一族の出自を明らかにすることはできない、という。
朝廷に立ち向かうほどの力を誇った安倍一族は滅びた。ただ、ごく少数ながら生き延びた者もいた。貞任の弟の宗任(むねとう)は投降して許され、源頼義が陸奥守から四国の伊予守に転じると、伊予(愛媛県)に配流された。宗任はその後、さらに太宰府管内に流されて没した。この宗任こそ、安倍家の先祖である。
安倍晋三氏の父、晋太郎氏(元外相)は、盛岡タイムス社が発行した『安倍一族』(1989年発行)に「我が祖は『宗任』」と題して、次のような文章を寄せた。
「筑前大島(福岡県宗像郡大島村)に没した安倍宗任の後裔である松浦水軍が、壇ノ浦の合戦に平家方として参戦、敗れ散じたわが父祖が長門の国、先大津後畑(さきおおつうしろばた)の日本海に面した部落に潜み、再度転居の後、現在の地(山口県大津郡油谷<ゆや>町蔵小田)に住むことになったのは明治に入る前後のこと」
「先頃、宗任配流の地大島の住居跡に建立された安生院において、御縁の皆さんによって八百八十年の追善供養が行われましたが、八百八十年という歳月は気の遠くなるような長さにも思われますが、宇宙の大きいサイクルからみれば、ほんのしばらくの時間なのかもしれない」
「奥州文化の代表である金色堂も、毛越寺も、敗れた一族の華として今を息づいていることを思うとき、宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進をつづけられたらと、願うことしきりです」
苦難の道を歩んだ宗任や父祖への慈愛に満ちた文章である。安倍家の系図を晋三、晋太郎、寛(かん)とたどっていくと、高祖父は英任と名付けられていることが分かる(系図参照)。宗任の「任」の名を引き継いだのは、それを誇りとしていたからだろう。

さて、昭恵夫人の三淵渓谷訪問である。長井市には、前九年の役について次のような物語が伝わっている。
安倍貞任の息女に「卯(う)の花姫」という美しい姫がいた。宗任の姪にあたる。源頼義が陸奥守として着任し、安倍一族が盛大にもてなした際、姫は頼義の長男、義家と相思相愛の仲になった。義家からは「北の方(正妻)として都にお迎えする」との文も届いたものの、戦さによってその仲は引き裂かれた。
安倍一族が敗れた後、姫と一行は出羽に逃れ、朝日連峰の山道を通って長井の庄にたどり着いた。野川の奥にある山に館を構え、僧兵の助力も得て源氏の追手と何度か戦ったものの力尽き、三淵渓谷の断崖から身を投げて自害した。付き従った女性たちも渓谷に身を投じ、兵もみな討ち死にした――。
戦記の『陸奥話記』にも『今昔物語集』にも、卯の花姫のことは出てこない。だが、三淵渓谷の奥には、この物語の通り「安部ケ館(あべがたて)山」という山があり、国土地理院の地図にも記されている(地図の山の名前は「安倍」ではなく「安部」)。
長井市を訪問するにあたって、昭恵さんはこうした物語があることを知り、三淵渓谷を訪ねることにしたのだという。手紙で問い合わせると、「私は全てはご縁と思っており、私がやるべきことは神様が与えて下さると信じて流されるままに生きております」と返事があった。
卯の花姫の物語は人々の口から口へと伝えられたものと見られ、江戸時代の医師で文人の長沼牛翁(ぎゅうおう)(1761?1834年)が見聞録『牛涎(うしのよだれ)』に書き留めている。
牛翁は長井の呉服商の長男だったが、家業を弟に譲り、全国を漫遊した人物である。江戸で医術を学ぶなど、その旅は帰郷まで足かけ29年に及んだ。見聞録『牛涎』は全60巻の大著で4巻が欠落、56巻が地元に残る。卯の花姫の物語は第15巻に収録されている。
物語はしばしば、伝説と渾然一体となる。
最期を悟った卯の花姫は「龍神となってこの地の人々を守らん」と言い残して断崖に身を投じたとされ、人々は三淵渓谷に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)った。そして、姫は毎年、龍神となって野川を下り、化粧直しをしたうえで長井の庄の神社に入るのだという。
長井市では5月の下旬、各神社から龍神を思わせる「黒獅子」が出て市街地を練り歩く。コロナ禍で中止や規模の縮小を余儀なくされてきたが、今年は3年ぶりに黒獅子舞が披露され、街は沸き立った。
龍神の話はともかく、卯の花姫が長井の庄にたどり着き、三淵渓谷で自害したという話は、単なる伝説とは思えないところがある。姫は侍女の一人に「生き延びてわが亡き後の菩提を弔うておくれ」と申しつけ、侍女はそれを守り、その末裔が連綿と姫の霊を祀ってきた、という伝承もある。
実際、渓谷の入り口にあたる長井市平山には代々、青木半三郎を名乗り、「八朔(はっさく)の祀り」を営んできた家族がいる。八朔は旧暦の8月1日のことで、卯の花姫が自害した日とされる(今年は8月27日)。
現在の当主、青木芳弘さん(62)によれば、一家は大昔には山奥の「桂谷(かつらや)」という集落で暮らし、150年ほど前までは今より奥の川岸に2軒だけで住んでいた。八朔の日には羽織、袴姿で「木流しの職人」たちが20人ほど集まり、川岸で円陣を組んで龍神を出迎えていたという。

青木家と渋谷家が毎年交代で酒宴の席を設けてもてなし、遠来の客には泊まってもらう習わしだったが、それも先々代で途絶え、渋谷家も離れていった。その後は青木家の敷地内に建てた小さな祠に家族だけでお供えをし、手を合わせているという。
青木家には「ご神体」とされる品々が伝わる。金属製の古い鏡とベッコウの櫛、笄(こうがい)である。その由来も意味も今となっては判然としないが、いずれも伐採した木を川に流すことを生業とする職人たちとは無縁の品々だ。「卯の花姫の形見」と考える方が合点がいく。
青木家のことは昭恵さんには初耳だったようだが、安倍宗任については、手紙への返事で次のように記している。
「安倍宗任の話は安倍家に嫁に来た30年以上前から聞いてはいましたが、主人が2度目の総理になってからとても近く感じるようになり、宗像市大島にある安倍宗任のお墓に私は何度もお参りすることになります」
「一度はこの日しか行かれないということで、たまたま行った日が宗任の亡くなった日であったこともあり、1000年の時を経てご先祖様は何を主人に伝えたいのだろうかと思ったりしていました」
現職首相の妻でありながら反原発、大麻解禁を唱え、「家庭内野党」と称した人は、長い歴史の流れに身をゆだねて生きる人でもあった。
古代の東北で源氏が率いる朝廷の軍勢と戦い、一敗地にまみれた一族の末裔が生き延びて力を蓄え、安倍寛、安倍晋太郎、安倍晋三という3人の政治家を世に送り出し、ついには憲政史上最長の政権を担うに至った。
歴史のダイナミズム、人と人との巡り会いの不思議さを感じさせる物語である。
長岡 昇 ( NPO「ブナの森」代表 )
*メールマガジン「風切通信 109」 2022年5月27日
*初出:調査報道サイト「ハンター」
【訂正】「鬼切部(現在の宮城県鳴子町鬼首)」とあるのは「鬼切部(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。鳴子町は2006年に発足した大崎市に統合されました。
≪写真、図の説明&Source≫
◎三淵渓谷(山形県長井市)=最上川リバーツーリズムネットワーク提供
◎図 安倍一族が支配していた「奥六郡」
https://blog.goo.ne.jp/replankeigo/e/4eae025b68ed99721937fbfa310a36c9
◎青木芳弘さんと青木家に伝わるご神体(筆者撮影)
◎安倍一族の系図(ウィキペディア「安倍晋三」の系図から)
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『陸奥話記』(梶原正昭校注、現代思潮社)
◎『陸奥話記 校本とその研究』(笠栄治、桜楓社)
◎『今昔物語集 四 新 日本古典文学大系36』(小峯和明校注、岩波書店)
◎『安倍一族』(盛岡タイムス社)
◎『気骨 安倍晋三のDNA』(野上忠興、講談社)
◎『絶頂の一族』(松田賢弥、講談社)
◎『牛涎』(長沼牛翁、文教の杜ながい所蔵)
◎『長井市史 各論 第2巻』(長井市史編纂委員会、2021年)
◎『長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市史編纂委員会、1984年)
◎『長井市史 第二巻(近世編)』(長井市史編纂委員会、1982年)

高さ50メートルほどの断崖が続く渓谷にはかつて三淵神社があったが、その場所は長井ダムの完成によって水没し、神社はさらに奥の山腹に移された。昭恵さんは地元の人たちが用意してくれたボートに乗って渓谷へと進み、神社の方角に向かって手を合わせたという。
「この時期はよくコシジロ(アブの一種)が出ます。お付きの人たちはキャーキャー騒いであちこち刺されていましたが、昭恵さんは泰然としていました」。一行を案内したNPO最上川リバーツーリズムネットワークの佐藤五郎・代表理事は振り返る。
ボートの手配まで依頼して昭恵さんがこの地を訪れ、手を合わせたのはなぜなのか。それは、この渓谷にまつわる不思議な物語を知ったからである。
◇ ◇
物語は1000年ほど昔にさかのぼる。舞台は古代の東北である。陸奥(むつ)と出羽で暮らしていた蝦夷(えみし)は畿内の朝廷勢力との「38年戦争」に敗れ、いったんはその支配下に組み込まれたが、11世紀の半ばには再び勢力を盛り返していた。
この時期、「奥六郡」と呼ばれた岩手県の中部から南部にかけての地域を実質的に支配していたのは安倍一族だった(図参照)。

奥六郡は砂金と馬の産地であり、アザラシの毛皮や鷲の羽、絹の供給地でもあった。それらの品々は朝廷への貢租として納められ、都の人たちに珍重されてきたが、安倍一族は貢納をやめ、その支配を衣川の南へ広げようとした。
朝廷にとっては許しがたいことである。永承6年(1051年)、「前九年の役」と呼ばれる戦争が始まる。陸奥守、藤原登任(なりとう)は出羽の軍勢も動員して、鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で安倍一族との合戦に臨んだ。
結果は安倍一族の圧勝、朝廷側の惨敗だった。藤原登任は多数の死傷者を出して敗走し、更迭された。
代わって陸奥守に就任したのが、武勇のほまれ高い源頼義である。頼義は「安倍一族追討」の命を帯びて着任したが、その前後に後冷泉天皇は祖母、上東門院(藤原彰子)の病気快癒を願って恩赦を発布した。朝廷軍と戦った安倍一族の棟梁、安倍頼時(よりとき)や息子の貞任(さだとう)らの罪がすべて許されることになったのである。
安倍一族は源頼義を盛大にもてなし、恭順の意を示した。陸奥にしばしの平和が訪れた。だが、それも長くは続かなかった。
天喜4年(1056年)、源頼義の家臣と安倍貞任との間に争いが起きた。阿久利河事件と呼ばれる。頼義の家臣の妹との結婚を貞任が申し入れたのに対し、その家臣が「安倍のような賎しい一族に妹はやれぬ」と断ったことに貞任が怒り、夜討ちをかけたとされる事件で、これをきっかけに再び戦さが始まる。風雪の中、朝廷軍と安倍一族は激突し、またもや貞任率いる安倍一族が圧勝した。
前九年の役を記録した『陸奥話記』は「官軍大いに敗れ、死する者数百人なり」「将軍の従兵、散走し、残るところわずかに六騎」と伝える。源頼義は命からがら逃げ延びた。
戦争の様相が一変するのは、出羽を支配する清原一族が朝廷側に加わってからである。源頼義に懇請され、清原武則(たけのり)は1万の軍勢を率いて参戦した。朝廷・清原連合軍は城柵に立てこもる安倍一族を次々に打ち破り、壊滅に追い込む。安倍貞任は瀕死の状態で捕らえられて息絶え、息子や家臣もことごとく処刑された。
奥六郡を支配した安倍一族とは、どのような人たちだったのか。『陸奥話記』には、父祖安倍忠頼は「東夷の酋長なり」とある。「俘囚安倍貞任」と記す史書もある。
素直に読めば、古代東北の蝦夷で朝廷に服属した一族となる。だが、岩手大学の高橋崇教授は著書『蝦夷の末裔』に「地方官として陸奥に赴任し、土着化した勢力」や「移民としてやってきて豪族になった一族」である可能性も否定できない、と記した。
都で暮らす人々にとって陸奥や出羽は「地の果て」であり、住民そのものを「蝦夷」や「俘囚」と称して蔑む風潮があったからである。史書をいくら読み込んでも一族の出自を明らかにすることはできない、という。
朝廷に立ち向かうほどの力を誇った安倍一族は滅びた。ただ、ごく少数ながら生き延びた者もいた。貞任の弟の宗任(むねとう)は投降して許され、源頼義が陸奥守から四国の伊予守に転じると、伊予(愛媛県)に配流された。宗任はその後、さらに太宰府管内に流されて没した。この宗任こそ、安倍家の先祖である。
安倍晋三氏の父、晋太郎氏(元外相)は、盛岡タイムス社が発行した『安倍一族』(1989年発行)に「我が祖は『宗任』」と題して、次のような文章を寄せた。
「筑前大島(福岡県宗像郡大島村)に没した安倍宗任の後裔である松浦水軍が、壇ノ浦の合戦に平家方として参戦、敗れ散じたわが父祖が長門の国、先大津後畑(さきおおつうしろばた)の日本海に面した部落に潜み、再度転居の後、現在の地(山口県大津郡油谷<ゆや>町蔵小田)に住むことになったのは明治に入る前後のこと」
「先頃、宗任配流の地大島の住居跡に建立された安生院において、御縁の皆さんによって八百八十年の追善供養が行われましたが、八百八十年という歳月は気の遠くなるような長さにも思われますが、宇宙の大きいサイクルからみれば、ほんのしばらくの時間なのかもしれない」
「奥州文化の代表である金色堂も、毛越寺も、敗れた一族の華として今を息づいていることを思うとき、宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進をつづけられたらと、願うことしきりです」
苦難の道を歩んだ宗任や父祖への慈愛に満ちた文章である。安倍家の系図を晋三、晋太郎、寛(かん)とたどっていくと、高祖父は英任と名付けられていることが分かる(系図参照)。宗任の「任」の名を引き継いだのは、それを誇りとしていたからだろう。

さて、昭恵夫人の三淵渓谷訪問である。長井市には、前九年の役について次のような物語が伝わっている。
安倍貞任の息女に「卯(う)の花姫」という美しい姫がいた。宗任の姪にあたる。源頼義が陸奥守として着任し、安倍一族が盛大にもてなした際、姫は頼義の長男、義家と相思相愛の仲になった。義家からは「北の方(正妻)として都にお迎えする」との文も届いたものの、戦さによってその仲は引き裂かれた。
安倍一族が敗れた後、姫と一行は出羽に逃れ、朝日連峰の山道を通って長井の庄にたどり着いた。野川の奥にある山に館を構え、僧兵の助力も得て源氏の追手と何度か戦ったものの力尽き、三淵渓谷の断崖から身を投げて自害した。付き従った女性たちも渓谷に身を投じ、兵もみな討ち死にした――。
戦記の『陸奥話記』にも『今昔物語集』にも、卯の花姫のことは出てこない。だが、三淵渓谷の奥には、この物語の通り「安部ケ館(あべがたて)山」という山があり、国土地理院の地図にも記されている(地図の山の名前は「安倍」ではなく「安部」)。
長井市を訪問するにあたって、昭恵さんはこうした物語があることを知り、三淵渓谷を訪ねることにしたのだという。手紙で問い合わせると、「私は全てはご縁と思っており、私がやるべきことは神様が与えて下さると信じて流されるままに生きております」と返事があった。
卯の花姫の物語は人々の口から口へと伝えられたものと見られ、江戸時代の医師で文人の長沼牛翁(ぎゅうおう)(1761?1834年)が見聞録『牛涎(うしのよだれ)』に書き留めている。
牛翁は長井の呉服商の長男だったが、家業を弟に譲り、全国を漫遊した人物である。江戸で医術を学ぶなど、その旅は帰郷まで足かけ29年に及んだ。見聞録『牛涎』は全60巻の大著で4巻が欠落、56巻が地元に残る。卯の花姫の物語は第15巻に収録されている。
物語はしばしば、伝説と渾然一体となる。
最期を悟った卯の花姫は「龍神となってこの地の人々を守らん」と言い残して断崖に身を投じたとされ、人々は三淵渓谷に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)った。そして、姫は毎年、龍神となって野川を下り、化粧直しをしたうえで長井の庄の神社に入るのだという。
長井市では5月の下旬、各神社から龍神を思わせる「黒獅子」が出て市街地を練り歩く。コロナ禍で中止や規模の縮小を余儀なくされてきたが、今年は3年ぶりに黒獅子舞が披露され、街は沸き立った。
龍神の話はともかく、卯の花姫が長井の庄にたどり着き、三淵渓谷で自害したという話は、単なる伝説とは思えないところがある。姫は侍女の一人に「生き延びてわが亡き後の菩提を弔うておくれ」と申しつけ、侍女はそれを守り、その末裔が連綿と姫の霊を祀ってきた、という伝承もある。
実際、渓谷の入り口にあたる長井市平山には代々、青木半三郎を名乗り、「八朔(はっさく)の祀り」を営んできた家族がいる。八朔は旧暦の8月1日のことで、卯の花姫が自害した日とされる(今年は8月27日)。
現在の当主、青木芳弘さん(62)によれば、一家は大昔には山奥の「桂谷(かつらや)」という集落で暮らし、150年ほど前までは今より奥の川岸に2軒だけで住んでいた。八朔の日には羽織、袴姿で「木流しの職人」たちが20人ほど集まり、川岸で円陣を組んで龍神を出迎えていたという。

青木家と渋谷家が毎年交代で酒宴の席を設けてもてなし、遠来の客には泊まってもらう習わしだったが、それも先々代で途絶え、渋谷家も離れていった。その後は青木家の敷地内に建てた小さな祠に家族だけでお供えをし、手を合わせているという。
青木家には「ご神体」とされる品々が伝わる。金属製の古い鏡とベッコウの櫛、笄(こうがい)である。その由来も意味も今となっては判然としないが、いずれも伐採した木を川に流すことを生業とする職人たちとは無縁の品々だ。「卯の花姫の形見」と考える方が合点がいく。
青木家のことは昭恵さんには初耳だったようだが、安倍宗任については、手紙への返事で次のように記している。
「安倍宗任の話は安倍家に嫁に来た30年以上前から聞いてはいましたが、主人が2度目の総理になってからとても近く感じるようになり、宗像市大島にある安倍宗任のお墓に私は何度もお参りすることになります」
「一度はこの日しか行かれないということで、たまたま行った日が宗任の亡くなった日であったこともあり、1000年の時を経てご先祖様は何を主人に伝えたいのだろうかと思ったりしていました」
現職首相の妻でありながら反原発、大麻解禁を唱え、「家庭内野党」と称した人は、長い歴史の流れに身をゆだねて生きる人でもあった。
古代の東北で源氏が率いる朝廷の軍勢と戦い、一敗地にまみれた一族の末裔が生き延びて力を蓄え、安倍寛、安倍晋太郎、安倍晋三という3人の政治家を世に送り出し、ついには憲政史上最長の政権を担うに至った。
歴史のダイナミズム、人と人との巡り会いの不思議さを感じさせる物語である。
長岡 昇 ( NPO「ブナの森」代表 )
*メールマガジン「風切通信 109」 2022年5月27日
*初出:調査報道サイト「ハンター」
【訂正】「鬼切部(現在の宮城県鳴子町鬼首)」とあるのは「鬼切部(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。鳴子町は2006年に発足した大崎市に統合されました。
≪写真、図の説明&Source≫
◎三淵渓谷(山形県長井市)=最上川リバーツーリズムネットワーク提供
◎図 安倍一族が支配していた「奥六郡」
https://blog.goo.ne.jp/replankeigo/e/4eae025b68ed99721937fbfa310a36c9
◎青木芳弘さんと青木家に伝わるご神体(筆者撮影)
◎安倍一族の系図(ウィキペディア「安倍晋三」の系図から)
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『陸奥話記』(梶原正昭校注、現代思潮社)
◎『陸奥話記 校本とその研究』(笠栄治、桜楓社)
◎『今昔物語集 四 新 日本古典文学大系36』(小峯和明校注、岩波書店)
◎『安倍一族』(盛岡タイムス社)
◎『気骨 安倍晋三のDNA』(野上忠興、講談社)
◎『絶頂の一族』(松田賢弥、講談社)
◎『牛涎』(長沼牛翁、文教の杜ながい所蔵)
◎『長井市史 各論 第2巻』(長井市史編纂委員会、2021年)
◎『長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市史編纂委員会、1984年)
◎『長井市史 第二巻(近世編)』(長井市史編纂委員会、1982年)
古代の東北に住み、畿内の朝廷勢力と「38年戦争」を繰り広げた蝦夷(えみし)とはどういう人たちだったのか。

7世紀半ば、斉明天皇の時代に遣唐使が男女2人の蝦夷を連れて海を渡り、唐の皇帝に謁見したことが日中双方の文献に記されている。わざわざ蝦夷を連れていったのは「わが国にも朝廷に貢ぎ物をする異民族がいる」ということを示すためだったと考えられる。同行した蝦夷は、人の頭に載せたひょうたんを弓矢で次々に射抜いて皇帝を驚かせたという。
蝦夷は日本語とは異なる言葉を話していた。畿内勢力はそれを「夷語(いご)」と呼び、蝦夷との交渉には通訳を必要とした。史書はその通訳のことを「訳語(おさ)」と記している。彼らが「辺境の日本人」だったとしたら、通訳を必要とするはずがない(方言の使い手に官職名を付けたりしない)。
一方で、言語学者の金田一京助やアイヌ語地名研究者の山田秀三は、東北にはアイヌ語を語源とする地名がたくさん残っていることを実証的に明らかにした。東北に残るアイヌ語源と考えられる地名の分布(図1)は、8世紀時点での大和政権の東北進出状況(図2)と強い相関関係を示している。


こうしたことを考えれば、古代東北の蝦夷は「アイヌ系の人たちだった」と考えるのが自然であり、私も「蝦夷=アイヌ説」を前提にして書いてきた。
ところが、「蝦夷はアイヌ系の人たちではなく、われわれの祖先と同じ日本人である」と唱える研究者が少なくない。「蝦夷とは朝廷の支配が及ばない辺境で暮らし、服属しなかった人たちである」というもので、「蝦夷=辺民説」と呼ばれる。「蝦夷=日本人説」あるいは「蝦夷=和人説」と言い換えてもいい。
彼らがその論拠とするのは「戦後、東北各地の発掘調査で得られた考古学の知見」である。たとえば、岩手県水沢市の常盤遺跡から籾(もみ)の痕が付いた弥生土器が発見された。青森県南津軽郡の垂柳(たれやなぎ)遺跡からは弥生時代の水田跡も見つかった。いずれも当時、水田稲作が行われていたことを示している。蝦夷は狩猟採集の生活をしていたはずで、アイヌ系と考えると説明がつかない、というわけだ。
古墳の存在も「蝦夷=日本人説」を後押しした。岩手県の胆沢(いさわ)町(水沢市などと共に奥州市に統合)に角塚(つのづか)古墳という前方後円墳がある。前方後円墳としては日本最北にあり、国の史跡になっている。
この古墳の存在は古くから知られており、幕末から明治にかけての探検家、松浦武四郎の図録『撥雲(はつうん)余興』第2集にも出てくるが、戦後の数次の発掘調査によってその詳細が明らかになった。
全長45メートル、後円部の直径28メートル、高さ4メートル余りの小ぶりの古墳だが、大和朝廷の支配地域で盛んに造られた前方後円墳であることは間違いない。出土した埴輪などから5世紀後半の築造であることも判明した。
岩手県の胆沢と言えば、奈良時代の後期から平安時代の初めにかけて朝廷側と戦った蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の根拠地である。そこに300年も前に前方後円墳が造られていた。蝦夷=アイヌ説では説明しがたいことである。
こうした考古学上の発掘成果も踏まえて、岩手大学の教授、樋口知志は著書『阿弖流為』(2013年)で、古代東北の蝦夷について「現在ではほぼ学界の共有財産となる標準的な見解が成立しており、(中略)概ね彼らは私たち現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである」と記している。
歯切れのいい、思い切った表現だが、私に言わせれば「とんでもない決めつけ」であり、「牽強付会の極み」である。
東北北部から弥生時代に水田稲作が行われていたことを示す遺跡が見つかることは、蝦夷=アイヌ説に立っても説明できないことではない。「蝦夷はすべて狩猟採集の生活をしていた」という前提自体が間違っている可能性があるからである。
日本人との接触が多かった蝦夷の中には、早い段階で水田稲作の技法を学び、それを採り入れた集団があってもおかしくはない。「蝦夷にも様々な集団があり、早くから稲作をしていた集団もあれば、もっぱら狩猟採集をしていた集団もあった」と考えれば、矛盾はしない。
角塚古墳にしても、5世紀ごろには胆沢の蝦夷集団は大和政権と良好な関係にあり、大和側の了解を得て前方後円墳を造った可能性がある。この古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土しており、被葬者は蝦夷の族長と考えられるからだ。
そもそも、考古学の成果を言うなら、東北の北部からは北海道で発見されたのと同型の古い土器も見つかっている。北海道のアイヌ系の人たちと文化的につながっていたことを示す証拠がたくさんある。「蝦夷=アイヌ説」は今なお、有力な説と言っていい。
だからこそ、2012年版の『日本史事典』(朝倉書店)は、「蝦夷と隼人」について次のように記しているのだ。
「蝦夷は『同じ日本人』の辺民への政治的設定とされてきたが、アイヌ民族の祖型と共通する文化をもつ独自の社会と見る説が近年再興し、日本民族形成史に問題を提起(している)」
古代東北の蝦夷については江戸時代から明治、大正、昭和とアイヌ説が強く唱えられ、戦後、日本人説を唱える研究者が増えた。だが、最近になって再びアイヌ説が盛り返している――というのが古代史学界の現状だろう。要するに、いまだに決着がつかない、ホットな問題なのである。
一連の論争を見ていて気づくのは、蝦夷=日本人説を唱える研究者たちは(1)遣唐使が蝦夷を随伴して渡航したとの記録(2)蝦夷との交渉に通訳を必要とした事実(3)東北北部に多数残るアイヌ語源と思われる地名の数々、といった蝦夷=アイヌ説の論拠についてほとんど言及しないことだ。
彼らは「考古学の発掘調査で得られた知見」を並べ立て、蝦夷=アイヌ説では説明しがたい問題を突きつけることに終始している。
そうした反省もあってか、蝦夷=日本人説を唱えてきた研究者からは「邪馬台国論争は畿内説か九州説のどちらかが正しければ、一方は誤りとなるが、古代蝦夷の問題は二者択一の論理では解決がつかない問題ではないか」といった見解も出てきた。
福島大学名誉教授の工藤雅樹は、2000年9月の講演で「東北地方北部の縄文人の子孫は北海道でアイヌ民族を形成することになる人々と途中まではほぼ同じ道をたどったものの、最終的にはアイヌ民族となる道を阻まれて日本民族の一員となった」と語った。
確かに、どちらの説に立っても、それぞれ説明が難しい問題がある。研究者の間では「蝦夷がエゾと呼ばれるようになり、アイヌ民族というものが成立したのは平安時代の末期から」というのが定説になっている。それを前提にすれば、奈良時代や平安初期の時代を生きた東北の蝦夷(えみし)を「アイヌ系」と呼ぶのはためらわれるのかもしれない。
だが、ある集団はある時点からいきなり「民族」になるわけではない。それは連続したプロセスであり、言語や風俗、習慣、規範などが変化しながら形成されていくものだろう。
そういう観点から「古代東北の蝦夷とはどういう人たちだったのか」と考えれば、やはり「アイヌ系の人たち」と見るのが自然で、蝦夷=日本人説は受け入れがたい。
古代の東北については「蝦夷はアイヌ系か日本人か」「38年戦争とは何だったのか」という論争にエネルギーを注ぎ過ぎて、その前後の探求がおろそかになっている、という指摘もある。実はこのことこそ、より重要な問題なのかもしれない。
蝦夷と呼ばれた人たちはもともと、東日本全体に広がっていた可能性がある。彼らは畿内の勢力によって関東から北へ、さらに東北北部へと追いやられたのではないか。その挙げ句に長く苦しい戦争を強いられ、敗れていったと考えられる。
だとするなら、この過程で朝廷側に投降・帰順した蝦夷は「数世紀にわたって」西日本や関東などに次々に移住させられた可能性がある。では、俘囚(ふしゅう)と呼ばれたその人たちはどうなったのか。
東北大学名誉教授の高橋富雄(2013年没)は、「それからのエゾ」についても「しっかりした見通しを立てておく必要がある」とし、「この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる」と指摘している。
移住させられた俘囚の運命、差別にさらされた彼らのその後の歩みをも視野に入れて研究し、論じていかなければならない、と後に続く人たちに呼びかけた。
残念なことに、私が知る限り、そうした長い射程で古代東北の蝦夷の問題を捉(とら)え、被差別部落の歴史まで視野に入れて探求し続けた人はほとんどいない。
在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は長い射程でこうした問題を探求した人で、被差別部落の実態とルーツについては膨大な踏査記録を基に貴重な著作を残した。
ただ、山哉は「東北の蝦夷はアイヌではなく、別の先住民族のコロボックルである」といった突飛な説を唱えた。著書『蝦夷とアイヌ』では「その民族性が如何に殺伐性のものであるかを、深く注意する必要がある」「元来、劣等種であり獣性の脱せざる彼等」など、アイヌについて偏見に満ちた記述をしており、高橋が求めたような研究の基礎にするわけにはいかない。
「うずもれた歴史を掘り起こし、日本史の暗部を照らし出す作業」はこれからの課題、と言うしかない。
◇ ◇
岩手県胆沢町の角塚古墳のところで「蕨手刀」について触れた。この古刀の存在そのものは江戸時代から知られており、記録にも残っている。
刀の柄(つか)の頭の部分が早蕨(さわらび)のように丸まっていることから、探検家で博物学者でもあった松浦武四郎が明治初期に名付けたとされる。
この刀が注目されるのは、出土・発見された場所が図のように東北と北海道に集中しているからである。発見後に紛失したものも含めれば、これまでに300を超す蕨手刀が知られており、その8割が東北と北海道で見つかっている。このため、古くから「蝦夷の刀」と考えられてきた。

作られたのは7世紀から9世紀と推定され、その後、姿を消す。東北の蝦夷が畿内の朝廷勢力と戦った時代と重なることも「蝦夷の刀」との見方を強める。
蕨手刀は片手で持つ刀で、柄が上に反っているのも特徴の一つだ。広島大学名誉教授の下向井龍彦は、この反りが「疾駆する馬上での激しい斬り合いに耐える」ことを可能にし、「蝦夷の騎馬戦士の強さの秘密はこの蕨手刀にあった」と唱える。
蕨手刀はしばしば、古墳から副葬品として発見される。私が住む山形県の場合、南陽市だけでこの時期の小さな円墳が100以上あり、蕨手刀が副葬品としていくつも出土している。いずれも「被葬者は蝦夷の有力者」と見るのが自然だろう。
問題は、この蕨手刀が群馬県や長野県でもかなり見つかり、西日本でもわずかながら発見されていることだ。山口県萩市の沖合にある見島からも出土した。
これらをどう考えるか。歴史学者の喜田貞吉や下向井は「移住させられた俘囚が持ち込んだもの」と推測するが、異論もある。
『蕨手刀の考古学』の著者、黒済(くろずみ)和彦は、古いタイプの蕨手刀が上野(こうずけ)と信濃で見つかっていることから「上信地方が蕨手刀の発祥の地であり、そこから東北に伝わった」と見る。西日本で発見された蕨手刀についても「俘囚による持ち込み説」を否定している。
「蝦夷=アイヌ説」と「蝦夷=日本人説」の対立にも似て、蕨手刀をめぐっても「蝦夷の刀鍛冶が作り、蝦夷が使った」という説と「日本人が作り、東北に持ち込んだ」という説に分かれ、鋭く対立している。
私はもちろん、ここでも蝦夷説を採る。日本人説には「時間軸を長く取り、物事を大きな流れの中で捉える」という姿勢が感じられないからだ。
たとえば、蕨手刀の古いタイプが上野や信濃で最初に作られたのだとしても、それは刀鍛冶が日本人だったことを意味するとは限らない。この地方に残っていた蝦夷の刀鍛冶が作った可能性もあり、彼らが東北に移って作刀技術を伝えたとも考えられる。
また、西日本に送られた俘囚にしても、全員が移住後に隷属的な身分に貶(おとし)められたわけではない。史書をひも解けば、大宰府の管内で防人(さきもり)として重用された蝦夷もいたことが分かる。
山口県の見島は、朝鮮半島から来襲する海賊に備えて大和朝廷が防備を固めた島の一つである。その島に防人として赴任した俘囚たちがいて、その族長が亡くなって葬られ、棺に蕨手刀を添えた、ということも十分に考えられることなのだ。
歴史の大きなうねりの中で物事を捉える。朝廷の立場からだけでなく、蝦夷の側からも十分に光を当てる。そういう作業を地道に積み重ねていけば、古代東北の蝦夷たちがたどった道も少しずつ見えてくるのではないか。(敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年4月27日
https://news-hunter.org/?p=12064
≪図・写真の説明&Source≫
図1 アイヌ語源と考えられる東北の地名の分布
*安本美典『日本人と日本語の起源』から引用。アイヌ語地名の分布は金田一京助による。アイヌ語地名の濃い地帯の南限線は山田秀三による
図2 東北への大和政権の進出状況
*山川出版社『詳説 日本史』(1982年版)から引用
図3 蕨手刀の分布
*『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』所収の八木光則作成の図を引用
写真
岩手県胆沢町(現奥州市)の角塚古墳(2022年3月17日、筆者撮影)
≪参考文献&サイト≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『東北・アイヌ語地名の研究』(山田秀三、草思社)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『角塚古墳―整備基本計画策定に伴う形態確認調査報告書』(2002年3月、胆沢町教育委員会)
◎『阿弖流為(あてるい)』(樋口知志、ミネルヴァ書房)
◎『蝦夷(えみし)の古代史』(工藤雅樹、平凡社新書)
◎『エミシ・エゾ・アイヌ』(アイヌ民族文化財団での工藤雅樹の講演録、2000年9月)
◎『辺境 もう一つの日本史』(高橋富雄、教育社)
◎日本大百科全書(ニッポニカ)「蝦夷」の解説(高橋富雄)
https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7-36617
◎『蕨手刀 日本刀の始源に関する一考察』(石井昌国、雄山閣)
◎『蕨手刀の考古学』(黒済和彦、同成社)
◎『武士の成長と院政 日本の歴史07』(下向井龍彦、講談社)

7世紀半ば、斉明天皇の時代に遣唐使が男女2人の蝦夷を連れて海を渡り、唐の皇帝に謁見したことが日中双方の文献に記されている。わざわざ蝦夷を連れていったのは「わが国にも朝廷に貢ぎ物をする異民族がいる」ということを示すためだったと考えられる。同行した蝦夷は、人の頭に載せたひょうたんを弓矢で次々に射抜いて皇帝を驚かせたという。
蝦夷は日本語とは異なる言葉を話していた。畿内勢力はそれを「夷語(いご)」と呼び、蝦夷との交渉には通訳を必要とした。史書はその通訳のことを「訳語(おさ)」と記している。彼らが「辺境の日本人」だったとしたら、通訳を必要とするはずがない(方言の使い手に官職名を付けたりしない)。
一方で、言語学者の金田一京助やアイヌ語地名研究者の山田秀三は、東北にはアイヌ語を語源とする地名がたくさん残っていることを実証的に明らかにした。東北に残るアイヌ語源と考えられる地名の分布(図1)は、8世紀時点での大和政権の東北進出状況(図2)と強い相関関係を示している。


こうしたことを考えれば、古代東北の蝦夷は「アイヌ系の人たちだった」と考えるのが自然であり、私も「蝦夷=アイヌ説」を前提にして書いてきた。
ところが、「蝦夷はアイヌ系の人たちではなく、われわれの祖先と同じ日本人である」と唱える研究者が少なくない。「蝦夷とは朝廷の支配が及ばない辺境で暮らし、服属しなかった人たちである」というもので、「蝦夷=辺民説」と呼ばれる。「蝦夷=日本人説」あるいは「蝦夷=和人説」と言い換えてもいい。
彼らがその論拠とするのは「戦後、東北各地の発掘調査で得られた考古学の知見」である。たとえば、岩手県水沢市の常盤遺跡から籾(もみ)の痕が付いた弥生土器が発見された。青森県南津軽郡の垂柳(たれやなぎ)遺跡からは弥生時代の水田跡も見つかった。いずれも当時、水田稲作が行われていたことを示している。蝦夷は狩猟採集の生活をしていたはずで、アイヌ系と考えると説明がつかない、というわけだ。
古墳の存在も「蝦夷=日本人説」を後押しした。岩手県の胆沢(いさわ)町(水沢市などと共に奥州市に統合)に角塚(つのづか)古墳という前方後円墳がある。前方後円墳としては日本最北にあり、国の史跡になっている。
この古墳の存在は古くから知られており、幕末から明治にかけての探検家、松浦武四郎の図録『撥雲(はつうん)余興』第2集にも出てくるが、戦後の数次の発掘調査によってその詳細が明らかになった。
全長45メートル、後円部の直径28メートル、高さ4メートル余りの小ぶりの古墳だが、大和朝廷の支配地域で盛んに造られた前方後円墳であることは間違いない。出土した埴輪などから5世紀後半の築造であることも判明した。
岩手県の胆沢と言えば、奈良時代の後期から平安時代の初めにかけて朝廷側と戦った蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の根拠地である。そこに300年も前に前方後円墳が造られていた。蝦夷=アイヌ説では説明しがたいことである。
こうした考古学上の発掘成果も踏まえて、岩手大学の教授、樋口知志は著書『阿弖流為』(2013年)で、古代東北の蝦夷について「現在ではほぼ学界の共有財産となる標準的な見解が成立しており、(中略)概ね彼らは私たち現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである」と記している。
歯切れのいい、思い切った表現だが、私に言わせれば「とんでもない決めつけ」であり、「牽強付会の極み」である。
東北北部から弥生時代に水田稲作が行われていたことを示す遺跡が見つかることは、蝦夷=アイヌ説に立っても説明できないことではない。「蝦夷はすべて狩猟採集の生活をしていた」という前提自体が間違っている可能性があるからである。
日本人との接触が多かった蝦夷の中には、早い段階で水田稲作の技法を学び、それを採り入れた集団があってもおかしくはない。「蝦夷にも様々な集団があり、早くから稲作をしていた集団もあれば、もっぱら狩猟採集をしていた集団もあった」と考えれば、矛盾はしない。
角塚古墳にしても、5世紀ごろには胆沢の蝦夷集団は大和政権と良好な関係にあり、大和側の了解を得て前方後円墳を造った可能性がある。この古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土しており、被葬者は蝦夷の族長と考えられるからだ。
そもそも、考古学の成果を言うなら、東北の北部からは北海道で発見されたのと同型の古い土器も見つかっている。北海道のアイヌ系の人たちと文化的につながっていたことを示す証拠がたくさんある。「蝦夷=アイヌ説」は今なお、有力な説と言っていい。
だからこそ、2012年版の『日本史事典』(朝倉書店)は、「蝦夷と隼人」について次のように記しているのだ。
「蝦夷は『同じ日本人』の辺民への政治的設定とされてきたが、アイヌ民族の祖型と共通する文化をもつ独自の社会と見る説が近年再興し、日本民族形成史に問題を提起(している)」
古代東北の蝦夷については江戸時代から明治、大正、昭和とアイヌ説が強く唱えられ、戦後、日本人説を唱える研究者が増えた。だが、最近になって再びアイヌ説が盛り返している――というのが古代史学界の現状だろう。要するに、いまだに決着がつかない、ホットな問題なのである。
一連の論争を見ていて気づくのは、蝦夷=日本人説を唱える研究者たちは(1)遣唐使が蝦夷を随伴して渡航したとの記録(2)蝦夷との交渉に通訳を必要とした事実(3)東北北部に多数残るアイヌ語源と思われる地名の数々、といった蝦夷=アイヌ説の論拠についてほとんど言及しないことだ。
彼らは「考古学の発掘調査で得られた知見」を並べ立て、蝦夷=アイヌ説では説明しがたい問題を突きつけることに終始している。
そうした反省もあってか、蝦夷=日本人説を唱えてきた研究者からは「邪馬台国論争は畿内説か九州説のどちらかが正しければ、一方は誤りとなるが、古代蝦夷の問題は二者択一の論理では解決がつかない問題ではないか」といった見解も出てきた。
福島大学名誉教授の工藤雅樹は、2000年9月の講演で「東北地方北部の縄文人の子孫は北海道でアイヌ民族を形成することになる人々と途中まではほぼ同じ道をたどったものの、最終的にはアイヌ民族となる道を阻まれて日本民族の一員となった」と語った。
確かに、どちらの説に立っても、それぞれ説明が難しい問題がある。研究者の間では「蝦夷がエゾと呼ばれるようになり、アイヌ民族というものが成立したのは平安時代の末期から」というのが定説になっている。それを前提にすれば、奈良時代や平安初期の時代を生きた東北の蝦夷(えみし)を「アイヌ系」と呼ぶのはためらわれるのかもしれない。
だが、ある集団はある時点からいきなり「民族」になるわけではない。それは連続したプロセスであり、言語や風俗、習慣、規範などが変化しながら形成されていくものだろう。
そういう観点から「古代東北の蝦夷とはどういう人たちだったのか」と考えれば、やはり「アイヌ系の人たち」と見るのが自然で、蝦夷=日本人説は受け入れがたい。
古代の東北については「蝦夷はアイヌ系か日本人か」「38年戦争とは何だったのか」という論争にエネルギーを注ぎ過ぎて、その前後の探求がおろそかになっている、という指摘もある。実はこのことこそ、より重要な問題なのかもしれない。
蝦夷と呼ばれた人たちはもともと、東日本全体に広がっていた可能性がある。彼らは畿内の勢力によって関東から北へ、さらに東北北部へと追いやられたのではないか。その挙げ句に長く苦しい戦争を強いられ、敗れていったと考えられる。
だとするなら、この過程で朝廷側に投降・帰順した蝦夷は「数世紀にわたって」西日本や関東などに次々に移住させられた可能性がある。では、俘囚(ふしゅう)と呼ばれたその人たちはどうなったのか。
東北大学名誉教授の高橋富雄(2013年没)は、「それからのエゾ」についても「しっかりした見通しを立てておく必要がある」とし、「この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる」と指摘している。
移住させられた俘囚の運命、差別にさらされた彼らのその後の歩みをも視野に入れて研究し、論じていかなければならない、と後に続く人たちに呼びかけた。
残念なことに、私が知る限り、そうした長い射程で古代東北の蝦夷の問題を捉(とら)え、被差別部落の歴史まで視野に入れて探求し続けた人はほとんどいない。
在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は長い射程でこうした問題を探求した人で、被差別部落の実態とルーツについては膨大な踏査記録を基に貴重な著作を残した。
ただ、山哉は「東北の蝦夷はアイヌではなく、別の先住民族のコロボックルである」といった突飛な説を唱えた。著書『蝦夷とアイヌ』では「その民族性が如何に殺伐性のものであるかを、深く注意する必要がある」「元来、劣等種であり獣性の脱せざる彼等」など、アイヌについて偏見に満ちた記述をしており、高橋が求めたような研究の基礎にするわけにはいかない。
「うずもれた歴史を掘り起こし、日本史の暗部を照らし出す作業」はこれからの課題、と言うしかない。
◇ ◇
岩手県胆沢町の角塚古墳のところで「蕨手刀」について触れた。この古刀の存在そのものは江戸時代から知られており、記録にも残っている。
刀の柄(つか)の頭の部分が早蕨(さわらび)のように丸まっていることから、探検家で博物学者でもあった松浦武四郎が明治初期に名付けたとされる。
この刀が注目されるのは、出土・発見された場所が図のように東北と北海道に集中しているからである。発見後に紛失したものも含めれば、これまでに300を超す蕨手刀が知られており、その8割が東北と北海道で見つかっている。このため、古くから「蝦夷の刀」と考えられてきた。

作られたのは7世紀から9世紀と推定され、その後、姿を消す。東北の蝦夷が畿内の朝廷勢力と戦った時代と重なることも「蝦夷の刀」との見方を強める。
蕨手刀は片手で持つ刀で、柄が上に反っているのも特徴の一つだ。広島大学名誉教授の下向井龍彦は、この反りが「疾駆する馬上での激しい斬り合いに耐える」ことを可能にし、「蝦夷の騎馬戦士の強さの秘密はこの蕨手刀にあった」と唱える。
蕨手刀はしばしば、古墳から副葬品として発見される。私が住む山形県の場合、南陽市だけでこの時期の小さな円墳が100以上あり、蕨手刀が副葬品としていくつも出土している。いずれも「被葬者は蝦夷の有力者」と見るのが自然だろう。
問題は、この蕨手刀が群馬県や長野県でもかなり見つかり、西日本でもわずかながら発見されていることだ。山口県萩市の沖合にある見島からも出土した。
これらをどう考えるか。歴史学者の喜田貞吉や下向井は「移住させられた俘囚が持ち込んだもの」と推測するが、異論もある。
『蕨手刀の考古学』の著者、黒済(くろずみ)和彦は、古いタイプの蕨手刀が上野(こうずけ)と信濃で見つかっていることから「上信地方が蕨手刀の発祥の地であり、そこから東北に伝わった」と見る。西日本で発見された蕨手刀についても「俘囚による持ち込み説」を否定している。
「蝦夷=アイヌ説」と「蝦夷=日本人説」の対立にも似て、蕨手刀をめぐっても「蝦夷の刀鍛冶が作り、蝦夷が使った」という説と「日本人が作り、東北に持ち込んだ」という説に分かれ、鋭く対立している。
私はもちろん、ここでも蝦夷説を採る。日本人説には「時間軸を長く取り、物事を大きな流れの中で捉える」という姿勢が感じられないからだ。
たとえば、蕨手刀の古いタイプが上野や信濃で最初に作られたのだとしても、それは刀鍛冶が日本人だったことを意味するとは限らない。この地方に残っていた蝦夷の刀鍛冶が作った可能性もあり、彼らが東北に移って作刀技術を伝えたとも考えられる。
また、西日本に送られた俘囚にしても、全員が移住後に隷属的な身分に貶(おとし)められたわけではない。史書をひも解けば、大宰府の管内で防人(さきもり)として重用された蝦夷もいたことが分かる。
山口県の見島は、朝鮮半島から来襲する海賊に備えて大和朝廷が防備を固めた島の一つである。その島に防人として赴任した俘囚たちがいて、その族長が亡くなって葬られ、棺に蕨手刀を添えた、ということも十分に考えられることなのだ。
歴史の大きなうねりの中で物事を捉える。朝廷の立場からだけでなく、蝦夷の側からも十分に光を当てる。そういう作業を地道に積み重ねていけば、古代東北の蝦夷たちがたどった道も少しずつ見えてくるのではないか。(敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年4月27日
https://news-hunter.org/?p=12064
≪図・写真の説明&Source≫
図1 アイヌ語源と考えられる東北の地名の分布
*安本美典『日本人と日本語の起源』から引用。アイヌ語地名の分布は金田一京助による。アイヌ語地名の濃い地帯の南限線は山田秀三による
図2 東北への大和政権の進出状況
*山川出版社『詳説 日本史』(1982年版)から引用
図3 蕨手刀の分布
*『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』所収の八木光則作成の図を引用
写真
岩手県胆沢町(現奥州市)の角塚古墳(2022年3月17日、筆者撮影)
≪参考文献&サイト≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『東北・アイヌ語地名の研究』(山田秀三、草思社)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『角塚古墳―整備基本計画策定に伴う形態確認調査報告書』(2002年3月、胆沢町教育委員会)
◎『阿弖流為(あてるい)』(樋口知志、ミネルヴァ書房)
◎『蝦夷(えみし)の古代史』(工藤雅樹、平凡社新書)
◎『エミシ・エゾ・アイヌ』(アイヌ民族文化財団での工藤雅樹の講演録、2000年9月)
◎『辺境 もう一つの日本史』(高橋富雄、教育社)
◎日本大百科全書(ニッポニカ)「蝦夷」の解説(高橋富雄)
https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7-36617
◎『蕨手刀 日本刀の始源に関する一考察』(石井昌国、雄山閣)
◎『蕨手刀の考古学』(黒済和彦、同成社)
◎『武士の成長と院政 日本の歴史07』(下向井龍彦、講談社)
ロシア黒海艦隊の旗艦である巡洋艦「モスクワ」が沈没した。ロシア側は14日、「火災が起きて弾薬が爆発し、曳航中に沈没した」と発表した。一方、ウクライナ側は「対艦ミサイルで攻撃し、沈めた」と公表した。

どちらの説明に説得力があるかは明らかだ。「モスクワ」はウクライナ軍によって撃沈されたのである。
日本の新聞はそれぞれこのニュースを伝えたが、核心をつく報道はきわめて少ない。朝日新聞は16日、ロシア国営タス通信の報道とウクライナ側の発表を並べたうえで、「炎上、沈没」「攻撃・防空両面で打撃」と報じた。読売新聞も「露艦隊、防空網に打撃」と伝えた。
巡洋艦「モスクワ」が攻撃、防御の両面で大きな役割を果たしていたことは間違いなく、従ってロシア黒海艦隊にとって「沈没が大きな痛手」であることは疑いない。だが、どちらの新聞も「もっとも重要なこと」にまるで触れていない。報道する記者たちが「艦隊にとって旗艦とはどういう意味を持つか」を理解していないからである。
旗艦が持つもっとも重要な機能は「作戦の立案・実行と指揮・命令の伝達」という点だ。旗艦には司令官だけでなく、艦隊全体の作戦を立案する高級参謀や情報分析・通信解析を行う情報将校が乗り込む。「艦隊の頭脳」が集中しており、彼らが必要とする電子機器や通信設備もすべてそろっている。
日米戦争の口火を切った真珠湾攻撃の戦史をひも解けば、連合艦隊の旗艦「長門」がどういう役割を果たしたかがよく分かる。航空母艦を中心とするハワイ攻撃の機動部隊をどう動かし、何を攻撃するか。作戦はすべて旗艦「長門」で立案され、命令・実行された。旗艦とは艦隊の「頭脳」であり、「中枢」なのだ。
敵を攻撃したり、敵の攻撃から味方を防御したりする機能は、ほかの軍艦をいくつか集めれば代替可能だ。だが、「頭脳」が破壊され、機能不全に陥った場合、それに取って代わるのは容易なことではない。極めて深刻な事態に陥る。
そういう観点から見た場合、手元にある16日付の新聞でその意味合いを的確に報じたのは産経新聞だけだった。「司令塔失い 作戦打撃」と大きな見出しで報じた。旗艦が撃沈されれば、「司令塔」が失われ、「中枢機能」がマヒする。つまり、ロシアの黒海艦隊は「頭脳」を吹き飛ばされてしまったのである。
ウクライナ側は対艦ミサイルで「モスクワ」を攻撃したようだが、攻撃するためには「モスクワ」の位置を正確に把握していなくてはならない。偵察衛星などを駆使して、その動向を的確に押さえているのはアメリカ軍であり、イギリス軍だろう。米英の軍事情報がウクライナ側にリアルタイムで伝えられた、と考えるのが自然だ(米英は決して公表しないだろうが)。
日本メディアの多くは、旗艦の撃沈というニュースをなぜ的確に報道できないのか。きつい言い方をすれば、この間、戦争というものにきちんと向き合おうとせず、現場に記者を出して鍛えることを怠ってきたからではないか。
2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した際、首都キーウ(キエフ)から情報を発信した日本の報道機関は共同通信くらいだった。ほかは、安全なウクライナ西部やポーランドに記者を退避させた。キーウ周辺からロシア軍が撤退し、各国の外交官が戻ってきた時点でおずおずと記者を首都に送り込んだのが実情だ。
何かを報じようとするなら、可能な限り現場へ。そこで何が起きているのか、自分の目で見、話を聞いて伝えなければならない。それが報道機関に課せられた使命である。だが、日本の主要メディアの多くはその役割を放棄した。「原稿より健康」が大事であり、「命は何ものにも代えがたい」からである。
お題目は立派だ。だが、ギリギリまで現場に肉薄するという覚悟なしに戦争を伝えることができるのか。極限近くまで追い込まれるから、記者は「戦争とは何か」を深く考え、その意味を知ろうと必死にもがく。その積み重ねが大事な時に生きてくるのだ。
欧米の記者たちは、かつてと同じように戦争の実相に迫る努力を重ねている。日本の報道機関の多くは「これまでしてきたこと」を放棄した。その結果が今回のウクライナ侵攻をめぐる報道の惨状であり、旗艦撃沈をめぐるトンチンカンな記事の数々ではないのか。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
【訂正】日米開戦時の連合艦隊の旗艦を「大和」と記しましたが、「長門」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。「大和」は1941年12月16日に就役し、連合艦隊の旗艦になったのは1942年2月からでした(2022年4月19日追記)。
*メールマガジン「風切通信 107」 2022年4月16日
*各紙の内容と見出しは、山形県内で16日に配られた新聞による。
≪写真説明とSource≫
◎ロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」
https://trafficnews.jp/post/117672

どちらの説明に説得力があるかは明らかだ。「モスクワ」はウクライナ軍によって撃沈されたのである。
日本の新聞はそれぞれこのニュースを伝えたが、核心をつく報道はきわめて少ない。朝日新聞は16日、ロシア国営タス通信の報道とウクライナ側の発表を並べたうえで、「炎上、沈没」「攻撃・防空両面で打撃」と報じた。読売新聞も「露艦隊、防空網に打撃」と伝えた。
巡洋艦「モスクワ」が攻撃、防御の両面で大きな役割を果たしていたことは間違いなく、従ってロシア黒海艦隊にとって「沈没が大きな痛手」であることは疑いない。だが、どちらの新聞も「もっとも重要なこと」にまるで触れていない。報道する記者たちが「艦隊にとって旗艦とはどういう意味を持つか」を理解していないからである。
旗艦が持つもっとも重要な機能は「作戦の立案・実行と指揮・命令の伝達」という点だ。旗艦には司令官だけでなく、艦隊全体の作戦を立案する高級参謀や情報分析・通信解析を行う情報将校が乗り込む。「艦隊の頭脳」が集中しており、彼らが必要とする電子機器や通信設備もすべてそろっている。
日米戦争の口火を切った真珠湾攻撃の戦史をひも解けば、連合艦隊の旗艦「長門」がどういう役割を果たしたかがよく分かる。航空母艦を中心とするハワイ攻撃の機動部隊をどう動かし、何を攻撃するか。作戦はすべて旗艦「長門」で立案され、命令・実行された。旗艦とは艦隊の「頭脳」であり、「中枢」なのだ。
敵を攻撃したり、敵の攻撃から味方を防御したりする機能は、ほかの軍艦をいくつか集めれば代替可能だ。だが、「頭脳」が破壊され、機能不全に陥った場合、それに取って代わるのは容易なことではない。極めて深刻な事態に陥る。
そういう観点から見た場合、手元にある16日付の新聞でその意味合いを的確に報じたのは産経新聞だけだった。「司令塔失い 作戦打撃」と大きな見出しで報じた。旗艦が撃沈されれば、「司令塔」が失われ、「中枢機能」がマヒする。つまり、ロシアの黒海艦隊は「頭脳」を吹き飛ばされてしまったのである。
ウクライナ側は対艦ミサイルで「モスクワ」を攻撃したようだが、攻撃するためには「モスクワ」の位置を正確に把握していなくてはならない。偵察衛星などを駆使して、その動向を的確に押さえているのはアメリカ軍であり、イギリス軍だろう。米英の軍事情報がウクライナ側にリアルタイムで伝えられた、と考えるのが自然だ(米英は決して公表しないだろうが)。
日本メディアの多くは、旗艦の撃沈というニュースをなぜ的確に報道できないのか。きつい言い方をすれば、この間、戦争というものにきちんと向き合おうとせず、現場に記者を出して鍛えることを怠ってきたからではないか。
2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した際、首都キーウ(キエフ)から情報を発信した日本の報道機関は共同通信くらいだった。ほかは、安全なウクライナ西部やポーランドに記者を退避させた。キーウ周辺からロシア軍が撤退し、各国の外交官が戻ってきた時点でおずおずと記者を首都に送り込んだのが実情だ。
何かを報じようとするなら、可能な限り現場へ。そこで何が起きているのか、自分の目で見、話を聞いて伝えなければならない。それが報道機関に課せられた使命である。だが、日本の主要メディアの多くはその役割を放棄した。「原稿より健康」が大事であり、「命は何ものにも代えがたい」からである。
お題目は立派だ。だが、ギリギリまで現場に肉薄するという覚悟なしに戦争を伝えることができるのか。極限近くまで追い込まれるから、記者は「戦争とは何か」を深く考え、その意味を知ろうと必死にもがく。その積み重ねが大事な時に生きてくるのだ。
欧米の記者たちは、かつてと同じように戦争の実相に迫る努力を重ねている。日本の報道機関の多くは「これまでしてきたこと」を放棄した。その結果が今回のウクライナ侵攻をめぐる報道の惨状であり、旗艦撃沈をめぐるトンチンカンな記事の数々ではないのか。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
【訂正】日米開戦時の連合艦隊の旗艦を「大和」と記しましたが、「長門」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。「大和」は1941年12月16日に就役し、連合艦隊の旗艦になったのは1942年2月からでした(2022年4月19日追記)。
*メールマガジン「風切通信 107」 2022年4月16日
*各紙の内容と見出しは、山形県内で16日に配られた新聞による。
≪写真説明とSource≫
◎ロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」
https://trafficnews.jp/post/117672
ウクライナに侵攻したロシア軍はキーウ(キエフ)の制圧に失敗し、首都近郊から撤退した。それに伴って首都近郊の街や村はウクライナ軍が掌握し、欧米のメディアによって戦闘状況を示す多数の映像が送られてきている。

それを見て気づくのは、ロシア軍の戦闘車両の残骸の多くが兵員輸送用の装甲車や軽武装の車両であることだ。ウクライナ軍によって破壊され、焼けただれた多数の装甲車が映っている。その一方で、砲を備えた戦車の残骸は少ない。
1980年代末から90年代にかけてアフガニスタン戦争を取材した際、私は記者として首都カブールの郊外や首都から北部に通じるサラン街道の戦闘状況をつぶさに見て回った。戦車や装甲車、軍用トラックの残骸も数えきれないほど目にした。その経験から言えるのは、キーウ近郊のこの戦闘状況は「きわめて異様」ということだ。
兵員輸送用の装甲車は、文字通り兵士を輸送するための車両なので装甲は薄っぺらだ。兵装も機関銃を備えているくらいで弱々しい。当然のことながら、敵の攻撃に対しても弱い。機関銃の弾を跳ね返すくらいがせいぜいだ。従って、装甲車は戦車部隊が敵を掃討した後から進んでいく、というのが一般的だ。
ところが、首都キーウ近郊の攻防でロシア軍は戦車の大部隊を突入させるのではなく、軽武装の戦闘車両や装甲車を連ねて進み、ウクライナ軍の反撃で多数の車両を破壊された、と思われる。なぜ、そんなことになってしまったのか。
軍事専門家は「ロシアはウクライナを甘く見ていた」と分析している。2014年にクリミア半島を攻撃して占領した際、ウクライナ軍は総崩れに近い状態になり、ロシア軍は強い抵抗を受けることなく半島を制圧した。今回も「ウクライナ軍はすぐに崩れる」と見ていたのではないか。
ゼレンスキー大統領はもともと喜劇タレントで、政治経験はまるでない。ウクライナの腐敗した政治を風刺したテレビドラマで大人気になり、その勢いで大統領選挙に勝っただけ。ロシア軍が攻め込めばすぐに逃げ出す――そう判断して、侵攻すれば首都キーウにも比較的たやすく入っていける、と考えたとしか思えない。
ところが、現実はまるで違った。クリミア半島の住民は6割近くがロシア人で、ウクライナ人は24%と少数派だった。だが、首都キーウとその近郊はウクライナ人が圧倒的多数を占める。クリミアとはまるで事情が異なる。「自分たちの土地」なのだ。
ウクライナ軍もこの8年の間に立て直しを図り、ロシアの侵攻に対して身構えていた。欧米の情報機関からも「ロシア軍の作戦と動き」について十分な情報を得ていた節がある。戦意もきわめて高く、十分に備えていたのである。
ロシア軍によるキーウ制圧の失敗は、甘い状況判断と稚拙な作戦の結果であり、兵員輸送用の装甲車の多数の残骸はそれを如実に示している。ロシア兵の多くは銃を構える前に、装甲車の中で死んでいったのではないか。
犠牲者の多さに驚愕し、ロシア軍は非戦闘員である普通の住民の拘束や殺害に及んだ可能性がある。そうだとすれば、ウクライナ侵攻を立案し、遂行したプーチン大統領をはじめとするロシア指導部の責任はなおさら重い。
ロシア軍は作戦を練り直し、今後はウクライナ東部の制圧に力を注ぐと伝えられている。作戦の指揮を執る司令官も、シリア内戦で実績のあるドボルニコフ将軍に交代させたという。初期段階での失敗を認めたということだろう。
ロシア軍によるウクライナ侵攻がこれからどのような経過をたどるかは、不確定要素があまりにも多く、見通すのは難しい。核兵器や生物化学兵器が使われる恐れも排除できない。だが、少なくとも「プーチンの思惑通りに進む」ことはあるまい。
ウクライナ、ロシア双方におびただしい戦死者を出し、多数の民間人を殺害して、ロシアは何を得ようするのか。得られるのは「NATOの東方への拡大の阻止」と「ウクライナの中立化」くらいではないのか。
だとしたら、ウクライナ側が失う人命と社会インフラの破壊、ロシア側が失う人命と国際的な信用の失墜はあまりにも多く、大きい。それでも、ロシア国民は「プーチンは正しい」と言い続けるのだろうか。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信106」 2022年4月11日
≪写真説明とSource≫
◎破壊されたロシアの装甲車=4月4日、キーウ西郊ブチャ/Aris Messinis/AFP/Getty Images(CNNのサイトから)
https://www.cnn.co.jp/photo/l/1057048.html

それを見て気づくのは、ロシア軍の戦闘車両の残骸の多くが兵員輸送用の装甲車や軽武装の車両であることだ。ウクライナ軍によって破壊され、焼けただれた多数の装甲車が映っている。その一方で、砲を備えた戦車の残骸は少ない。
1980年代末から90年代にかけてアフガニスタン戦争を取材した際、私は記者として首都カブールの郊外や首都から北部に通じるサラン街道の戦闘状況をつぶさに見て回った。戦車や装甲車、軍用トラックの残骸も数えきれないほど目にした。その経験から言えるのは、キーウ近郊のこの戦闘状況は「きわめて異様」ということだ。
兵員輸送用の装甲車は、文字通り兵士を輸送するための車両なので装甲は薄っぺらだ。兵装も機関銃を備えているくらいで弱々しい。当然のことながら、敵の攻撃に対しても弱い。機関銃の弾を跳ね返すくらいがせいぜいだ。従って、装甲車は戦車部隊が敵を掃討した後から進んでいく、というのが一般的だ。
ところが、首都キーウ近郊の攻防でロシア軍は戦車の大部隊を突入させるのではなく、軽武装の戦闘車両や装甲車を連ねて進み、ウクライナ軍の反撃で多数の車両を破壊された、と思われる。なぜ、そんなことになってしまったのか。
軍事専門家は「ロシアはウクライナを甘く見ていた」と分析している。2014年にクリミア半島を攻撃して占領した際、ウクライナ軍は総崩れに近い状態になり、ロシア軍は強い抵抗を受けることなく半島を制圧した。今回も「ウクライナ軍はすぐに崩れる」と見ていたのではないか。
ゼレンスキー大統領はもともと喜劇タレントで、政治経験はまるでない。ウクライナの腐敗した政治を風刺したテレビドラマで大人気になり、その勢いで大統領選挙に勝っただけ。ロシア軍が攻め込めばすぐに逃げ出す――そう判断して、侵攻すれば首都キーウにも比較的たやすく入っていける、と考えたとしか思えない。
ところが、現実はまるで違った。クリミア半島の住民は6割近くがロシア人で、ウクライナ人は24%と少数派だった。だが、首都キーウとその近郊はウクライナ人が圧倒的多数を占める。クリミアとはまるで事情が異なる。「自分たちの土地」なのだ。
ウクライナ軍もこの8年の間に立て直しを図り、ロシアの侵攻に対して身構えていた。欧米の情報機関からも「ロシア軍の作戦と動き」について十分な情報を得ていた節がある。戦意もきわめて高く、十分に備えていたのである。
ロシア軍によるキーウ制圧の失敗は、甘い状況判断と稚拙な作戦の結果であり、兵員輸送用の装甲車の多数の残骸はそれを如実に示している。ロシア兵の多くは銃を構える前に、装甲車の中で死んでいったのではないか。
犠牲者の多さに驚愕し、ロシア軍は非戦闘員である普通の住民の拘束や殺害に及んだ可能性がある。そうだとすれば、ウクライナ侵攻を立案し、遂行したプーチン大統領をはじめとするロシア指導部の責任はなおさら重い。
ロシア軍は作戦を練り直し、今後はウクライナ東部の制圧に力を注ぐと伝えられている。作戦の指揮を執る司令官も、シリア内戦で実績のあるドボルニコフ将軍に交代させたという。初期段階での失敗を認めたということだろう。
ロシア軍によるウクライナ侵攻がこれからどのような経過をたどるかは、不確定要素があまりにも多く、見通すのは難しい。核兵器や生物化学兵器が使われる恐れも排除できない。だが、少なくとも「プーチンの思惑通りに進む」ことはあるまい。
ウクライナ、ロシア双方におびただしい戦死者を出し、多数の民間人を殺害して、ロシアは何を得ようするのか。得られるのは「NATOの東方への拡大の阻止」と「ウクライナの中立化」くらいではないのか。
だとしたら、ウクライナ側が失う人命と社会インフラの破壊、ロシア側が失う人命と国際的な信用の失墜はあまりにも多く、大きい。それでも、ロシア国民は「プーチンは正しい」と言い続けるのだろうか。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信106」 2022年4月11日
≪写真説明とSource≫
◎破壊されたロシアの装甲車=4月4日、キーウ西郊ブチャ/Aris Messinis/AFP/Getty Images(CNNのサイトから)
https://www.cnn.co.jp/photo/l/1057048.html
戦争とは、生身の人間が集団で殺し合うことである。兵士の数が多く、武器をたくさん持つ方が有利なことは言うまでもない。だが、それにも増して重要なことがある。

それは、戦いに身を投じる一人ひとりの人間が「この戦争は命をかけるに値するか」と自問し、納得できるかどうかだ。自ら納得し、覚悟を決めた集団は侮(あなど)りがたい力を発揮する。
強大な軍事力を誇ったアメリカは、なぜベトナムで敗れたのか。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍は、なぜ全面撤退に追い込まれたのか。9・11テロの後、アフガンに攻め込んだ米軍も撤退せざるを得なかったのはなぜか。
それは、攻め込んだ米兵にもソ連兵にも命をかける理由が乏しく、一方でベトナム側とアフガン側には「自らの土地を守り、同胞を守る」という揺るぎない決意があったからである。戦いが長引けば長引くほど、その差は戦況に如実に表れていった。
ロシアによるウクライナ侵攻でも、同じことが起きている。ロシア兵の多くは、なぜここで戦わなければならないのか、戸惑っているのではないか。ウクライナの兵士たちの頑強な抵抗に「なぜ、ここまで」と驚愕しているのではないか。
この戦争が最終的にどのように決着するかは見通せない。だが、戦場で命をかけるのは一人ひとりの兵士であり、その兵士たちの「覚悟の差」が戦争の帰趨に大きな影響を及ぼすことをあらためて示すことになるだろう。
◇ ◇
古代東北の地で繰り広げられた蝦夷(えみし)と大和政権との戦争もまた、覚悟を決めた集団とそうでない集団との戦いだった。
戦争は、都が平城京(奈良)にあった774年から長岡京(京都)、平安京(同)と移った後の811年まで、足かけ38年に及んだ。その中で、戦う者たちの「覚悟の差」をもっともよく示しているのは、789年(延暦8年)の桓武天皇治下での第一次征討である。
それまでの戦いで苦杯をなめた朝廷側は、この征討で5万余りの兵を動員し、蝦夷の拠点である胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧を目指した。迎え撃った蝦夷側の兵力は数千人と推定されている。兵力だけを見れば、朝廷側が圧倒的に優位に立っていた。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする朝廷軍は北上川の西岸を北上し、支流の衣川を越えた地点に陣を構えた。蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の拠点・胆沢が西岸にあったからである。
ところが、この時、蝦夷側は胆沢を捨て、東岸に陣を敷いた。このため、朝廷側は征討軍の一部を前軍と中軍、後軍の三つ分け、北上川を渡河(とか)する作戦を立てた。3軍それぞれ2000人で計6000人。これで十分と見たのだろう。
蝦夷側にはモレ(母禮)という優れた軍師がいたとされる。兵力の差は歴然としている。正面から戦いを挑んだのでは勝つのは難しい。そこで、朝廷軍を北上川の両岸に分断する策略をめぐらしたと思われる。
戦端が開かれたのは5月である。北上川は雪解け水で増水していた。6000人の将兵を舟やいかだで渡河させるのは容易なことではない。前軍の2000人は蝦夷側に妨害されて河を渡ることができず、東岸の巣伏(すふし)に達したのは中軍と後軍の4000人だけだった。
この後の蝦夷側の戦術も巧みだった。最初に迎え撃った300人ほどの部隊は小競り合いの後、後退した。朝廷軍は勢いに乗って追撃し、部隊は縦に長く延びた。そこに800人ほどの蝦夷が襲いかかり、さらに潜んでいた400人ほどが背後から挟撃した。
朝廷軍は総崩れになった。北上川に飛び込んで本隊に逃げ帰ろうとする者が続出し、1000人余りが溺死した。その数は戦死者をはるかに上回った。
蝦夷にとっては「自らの土地と生活を守る戦い」である。一方の朝廷軍は坂東や東海道の各地から徴兵された寄せ集めの部隊だ。双方の戦意の差は大きく、4000人の大部隊が1500人ほどの蝦夷に蹴散らされたのである。
征東将軍の紀古佐美は戦意を喪失し、ほどなく軍を解散した。にもかかわらず、『続日本紀』によれば、古佐美は朝廷に「戦さで蝦夷の田は荒れ果て、放置しても滅びる」「わが軍は兵糧の補給が困難で、これ以上戦うのは得策ではない」などと?戦勝?の報告を送った。
桓武天皇は激怒した。「蝦夷の首級は100に満たず、官軍の死傷は3000人にも上る」として報告を虚飾と断じ、敗戦の責任を追及している。
雪辱を果たすため、桓武天皇が794年の第二次征討で10万、801年の第三次征討で4万の軍勢を陸奥に送り込み、蝦夷の制圧に執念を燃やし続けたこと、さらにこの時期の正史である『日本後紀』の写本が欠落していて第二次、第三次征討の詳しいことがほとんど分からないことは、すでにお伝えした。
次々に押し寄せる大軍との戦いに疲れ果てたのか、アテルイとモレは802年、500人の部下を伴って征夷大将軍の坂上田村麻呂に投降した。2人は都に連行され、田村麻呂が助命を嘆願したものの朝廷は受け入れず、河内の杜山(もりやま)(大阪府枚方市)で処刑された。
◇ ◇
「覚悟」を固めたとて、勝てない戦さもある。指導者と軍師は賊徒として斬首された。だが、朝廷がどのように貶(おとし)めようと、忘れ去られることはなかった。人々はアテルイとモレたちの戦いに心を揺さぶられ、語り継いできた。
京都の清水寺に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」が建てられたのは1994年、平安遷都から1200年後のことである。関西在住の水沢市や胆沢町などの出身者で作る同郷会が資金を募って建立した。

清水寺は、蝦夷と戦い続けた坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。戦いながらも蝦夷の窮状に心を寄せたとされる田村麻呂の思いをくんで、当時の貫主が快諾したという。
岩手県の地元紙、胆江(たんこう)日日新聞も供養碑設立の運動を支え、その除幕式の様子を「蘇った古代東北の歴史」「この日はあいにくの雨模様だったが、関係者の表情は晴れやかだった」と報じた。同郷会の会長、高橋敏男(故人)は同紙に「5年の際月をかけたことだけに、感慨も無量」と語っている(1994年11月7日付)。
水沢市と江刺市、胆沢町など5市町村は2006年に合併して奥州市になった。北上川の河畔には、延暦8年にアテルイらが朝廷軍を敗走させた「巣伏(すふし)の戦い」を記念する櫓(やぐら)と碑が建てられ、地域おこしのシンボルになっている。
岩手出身の作家、高橋克彦は1999年に小説『火怨 北の輝星アテルイ』を出版し、史書からこぼれ落ちた蝦夷たちの戦いに光を当てようと試みた。
「敵はほとんどが無理に徴集された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空を守るために戦っている」
「いかにも我らの暮らしは獣並みやも知れませぬ。白湯(さゆ)を啜(すす)り、わずかの芋を分け合うて凌(しの)いでおりまする。なれど獣にはあらず。人を獣と見下す者らに従って生きることなどできぬ」
こうした言葉はすべてフィクションである。だが、どの言葉にも北の大地から湧き出したような味わいがある。小説は吉川英治文学賞を受賞し、刷を重ねている。
この小説を基に、NHKは2013年の1月から2月にかけて、BS時代劇「アテルイ伝」を4回にわたって放送した。最終回で主演の大沢たかおが叫ぶ。「帝は我等(わあら)をなにゆえ憎む。なにゆえ殺す。同じ人ぞ。同じ人間ぞ」。深い問いだった。
2015年夏には歌舞伎で市川染五郎がアテルイを演じ、2年後、宝塚歌劇団のミュージカルとしても上演された。アテルイをテーマにした作品は読む者の心を揺さぶり、観る者の心をとらえてやまない。その生き方に、時を超えて語りかけてくるものがあるからだろう。
◇ ◇
歴史は勝者によって記され、勝者は自分たちに都合の悪いことには触れようとしない。だが、本当に大切なことは「触れられなかったこと」の中に埋もれているのかもしれない。古代東北の歴史を調べ、蝦夷が歩んだ道を思う時、心に浮かぶのは北アメリカの先住民たちがたどった運命である。
米国の人類学者ヘンリー・ドビンズによれば、コロンブスがアメリカ大陸に到達した15世紀当時、北米には推定で1000万人前後の先住民が暮らしていた。そこに移民としてやって来たのはヨーロッパで迫害され、貧困に打ちのめされた人たちだった。
1620年、イギリスからメイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスにたどり着いた101人の清教徒は、飢えと寒さで冬を越すことができず、春までに半数が亡くなった。
生き残った者たちに食糧を与え、トウモロコシやジャガイモの栽培法を教えて助けたのは、その地に暮らすワンパノアグ族の人たちである。「飢えた旅人には、自らの食を割いてでも手を差し伸べる」という古来の慣習に従ったのだった。
翌年の秋には豊かな収穫に恵まれ、白人たちは先住民と共に祝った。それがアメリカにおける感謝祭の始まりとされる。
だが、共に祝う日々はすぐに終わった。移民たちは「土地の所有」を主張し始めたからである。「大地や空は誰のものでもない」と考える先住民には理解できないことだった。
移民が持ち込んだ天然痘や赤痢、コレラといった伝染病も脅威となった。先住民には未知の病であり、治療のすべもないまま次々に倒れていった。
流入する移民と疫病が先住民を西へと追いやる。イギリスやフランス、スペインなど欧州の国々による植民地の争奪戦が始まり、先住民も巻き込まれていった。
1763年、英国王のジョージ3世が「英国の領土はアパラチア山脈まで。その西はインディアンの居住地」と宣言し、両者は住み分けることになったが、直後に独立戦争が勃発して宣言は雲散霧消した。

入植者は広い土地を求めてインディアンの居住地域に入り込む。金鉱が発見されれば、ならず者が殺到する。それを白人の側から描けば、「開拓を妨害するインディアン、騎兵隊と入植者がそれを追い払う」という、西部劇でおなじみの図式になる。
武力衝突が起きるたびに協定が結ばれたが、そうした約束が守られることはなかった。どのような協定が結ばれ、どのように破られていったのか。白人側が残した記録を基に、その内実を克明に記したのがディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』である。
非道な協定破りの数々。その典型の一つが「チェロキー族の涙の旅路」である。この部族は白人たちと戦うことをやめ、18世紀後半には指定されたジョージア州などの居住地に住んでいた。
ところが、居住地で金鉱が発見されるや、数万人が1000キロ離れたオクラホマ州に追いやられた。老人や女性、子どもを連れ、真冬に徒歩での旅。4人に1人が命を落とした。
戦うことをやめない部族には、容赦ない殺戮(さつりく)が待っていた。インディアンの戦士たちとの戦いが難渋すれば、騎兵隊は後背地にいる彼らの家族を殺害した。インディアンの人口は、19世紀末には25万人まで激減した。
軍隊と、家族を抱えた生活者との戦い・・・・。いかに決意が固かろうと、インディアンたちが抗(あらが)い続けることは困難だった。東北の蝦夷たちもまた、同じ苦しみを抱えて戦うしかなかった。
カナダ・アルバータ大学の教授、藤永茂は著書『アメリカ・インディアン悲史』に、彼らは「自分たちをあくまで大自然のほんの一部と看做(みな)す人たちだった」と記した。
「森に入れば無言の木々の誠実と愛に包まれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心に支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた」
だから、「インディアン問題はインディアンたちの問題ではない。我々の問題である」と藤永はいう。
そうなのだ。古代東北の蝦夷たちの営為も、遠い歴史のかなたに置き去りにするわけにはいかない。彼らがたどった道は今を生きる私たちにつながり、さらに未来へと延びている。(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年3月29日
https://news-hunter.org/?p=11599
≪写真・図の説明&Source≫
◎789年の第一次征討の合戦場となった北上川の河畔、巣伏(すふし)に建てられた櫓(奥州市水沢佐倉河字北田、筆者撮影)
◎京都の清水寺に建立されたアテルイと盟友モレの碑
yoritomo-japan.com
◎英国王の1763年宣言による英国領土とインディアン居住地の区分け図。英国の領土はアパラチア山脈まで、その西側はインディアン居住地とされた(ウィキペディアから)
≪参文献&サイト≫
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』(樋口知志、ミネルヴァ書房)
◎『火怨 北の輝星アテルイ』(高橋克彦、上下、講談社文庫)
◎『胆江日日新聞七十年史』(胆江日日新聞社)
◎清水寺の歴史(清水寺の公式サイトから)
https://www.kiyomizudera.or.jp/history.php
◎『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂、朝日新聞社)
◎『わが魂を聖地に埋めよ』(ディー・ブラウン、上下、草思社文庫)
◎『アメリカの歴史を知るための62章』(富田虎男、鵜月裕典、佐藤円編、明石書店)

それは、戦いに身を投じる一人ひとりの人間が「この戦争は命をかけるに値するか」と自問し、納得できるかどうかだ。自ら納得し、覚悟を決めた集団は侮(あなど)りがたい力を発揮する。
強大な軍事力を誇ったアメリカは、なぜベトナムで敗れたのか。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍は、なぜ全面撤退に追い込まれたのか。9・11テロの後、アフガンに攻め込んだ米軍も撤退せざるを得なかったのはなぜか。
それは、攻め込んだ米兵にもソ連兵にも命をかける理由が乏しく、一方でベトナム側とアフガン側には「自らの土地を守り、同胞を守る」という揺るぎない決意があったからである。戦いが長引けば長引くほど、その差は戦況に如実に表れていった。
ロシアによるウクライナ侵攻でも、同じことが起きている。ロシア兵の多くは、なぜここで戦わなければならないのか、戸惑っているのではないか。ウクライナの兵士たちの頑強な抵抗に「なぜ、ここまで」と驚愕しているのではないか。
この戦争が最終的にどのように決着するかは見通せない。だが、戦場で命をかけるのは一人ひとりの兵士であり、その兵士たちの「覚悟の差」が戦争の帰趨に大きな影響を及ぼすことをあらためて示すことになるだろう。
◇ ◇
古代東北の地で繰り広げられた蝦夷(えみし)と大和政権との戦争もまた、覚悟を決めた集団とそうでない集団との戦いだった。
戦争は、都が平城京(奈良)にあった774年から長岡京(京都)、平安京(同)と移った後の811年まで、足かけ38年に及んだ。その中で、戦う者たちの「覚悟の差」をもっともよく示しているのは、789年(延暦8年)の桓武天皇治下での第一次征討である。
それまでの戦いで苦杯をなめた朝廷側は、この征討で5万余りの兵を動員し、蝦夷の拠点である胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧を目指した。迎え撃った蝦夷側の兵力は数千人と推定されている。兵力だけを見れば、朝廷側が圧倒的に優位に立っていた。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする朝廷軍は北上川の西岸を北上し、支流の衣川を越えた地点に陣を構えた。蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の拠点・胆沢が西岸にあったからである。
ところが、この時、蝦夷側は胆沢を捨て、東岸に陣を敷いた。このため、朝廷側は征討軍の一部を前軍と中軍、後軍の三つ分け、北上川を渡河(とか)する作戦を立てた。3軍それぞれ2000人で計6000人。これで十分と見たのだろう。
蝦夷側にはモレ(母禮)という優れた軍師がいたとされる。兵力の差は歴然としている。正面から戦いを挑んだのでは勝つのは難しい。そこで、朝廷軍を北上川の両岸に分断する策略をめぐらしたと思われる。
戦端が開かれたのは5月である。北上川は雪解け水で増水していた。6000人の将兵を舟やいかだで渡河させるのは容易なことではない。前軍の2000人は蝦夷側に妨害されて河を渡ることができず、東岸の巣伏(すふし)に達したのは中軍と後軍の4000人だけだった。
この後の蝦夷側の戦術も巧みだった。最初に迎え撃った300人ほどの部隊は小競り合いの後、後退した。朝廷軍は勢いに乗って追撃し、部隊は縦に長く延びた。そこに800人ほどの蝦夷が襲いかかり、さらに潜んでいた400人ほどが背後から挟撃した。
朝廷軍は総崩れになった。北上川に飛び込んで本隊に逃げ帰ろうとする者が続出し、1000人余りが溺死した。その数は戦死者をはるかに上回った。
蝦夷にとっては「自らの土地と生活を守る戦い」である。一方の朝廷軍は坂東や東海道の各地から徴兵された寄せ集めの部隊だ。双方の戦意の差は大きく、4000人の大部隊が1500人ほどの蝦夷に蹴散らされたのである。
征東将軍の紀古佐美は戦意を喪失し、ほどなく軍を解散した。にもかかわらず、『続日本紀』によれば、古佐美は朝廷に「戦さで蝦夷の田は荒れ果て、放置しても滅びる」「わが軍は兵糧の補給が困難で、これ以上戦うのは得策ではない」などと?戦勝?の報告を送った。
桓武天皇は激怒した。「蝦夷の首級は100に満たず、官軍の死傷は3000人にも上る」として報告を虚飾と断じ、敗戦の責任を追及している。
雪辱を果たすため、桓武天皇が794年の第二次征討で10万、801年の第三次征討で4万の軍勢を陸奥に送り込み、蝦夷の制圧に執念を燃やし続けたこと、さらにこの時期の正史である『日本後紀』の写本が欠落していて第二次、第三次征討の詳しいことがほとんど分からないことは、すでにお伝えした。
次々に押し寄せる大軍との戦いに疲れ果てたのか、アテルイとモレは802年、500人の部下を伴って征夷大将軍の坂上田村麻呂に投降した。2人は都に連行され、田村麻呂が助命を嘆願したものの朝廷は受け入れず、河内の杜山(もりやま)(大阪府枚方市)で処刑された。
◇ ◇
「覚悟」を固めたとて、勝てない戦さもある。指導者と軍師は賊徒として斬首された。だが、朝廷がどのように貶(おとし)めようと、忘れ去られることはなかった。人々はアテルイとモレたちの戦いに心を揺さぶられ、語り継いできた。
京都の清水寺に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」が建てられたのは1994年、平安遷都から1200年後のことである。関西在住の水沢市や胆沢町などの出身者で作る同郷会が資金を募って建立した。

清水寺は、蝦夷と戦い続けた坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。戦いながらも蝦夷の窮状に心を寄せたとされる田村麻呂の思いをくんで、当時の貫主が快諾したという。
岩手県の地元紙、胆江(たんこう)日日新聞も供養碑設立の運動を支え、その除幕式の様子を「蘇った古代東北の歴史」「この日はあいにくの雨模様だったが、関係者の表情は晴れやかだった」と報じた。同郷会の会長、高橋敏男(故人)は同紙に「5年の際月をかけたことだけに、感慨も無量」と語っている(1994年11月7日付)。
水沢市と江刺市、胆沢町など5市町村は2006年に合併して奥州市になった。北上川の河畔には、延暦8年にアテルイらが朝廷軍を敗走させた「巣伏(すふし)の戦い」を記念する櫓(やぐら)と碑が建てられ、地域おこしのシンボルになっている。
岩手出身の作家、高橋克彦は1999年に小説『火怨 北の輝星アテルイ』を出版し、史書からこぼれ落ちた蝦夷たちの戦いに光を当てようと試みた。
「敵はほとんどが無理に徴集された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空を守るために戦っている」
「いかにも我らの暮らしは獣並みやも知れませぬ。白湯(さゆ)を啜(すす)り、わずかの芋を分け合うて凌(しの)いでおりまする。なれど獣にはあらず。人を獣と見下す者らに従って生きることなどできぬ」
こうした言葉はすべてフィクションである。だが、どの言葉にも北の大地から湧き出したような味わいがある。小説は吉川英治文学賞を受賞し、刷を重ねている。
この小説を基に、NHKは2013年の1月から2月にかけて、BS時代劇「アテルイ伝」を4回にわたって放送した。最終回で主演の大沢たかおが叫ぶ。「帝は我等(わあら)をなにゆえ憎む。なにゆえ殺す。同じ人ぞ。同じ人間ぞ」。深い問いだった。
2015年夏には歌舞伎で市川染五郎がアテルイを演じ、2年後、宝塚歌劇団のミュージカルとしても上演された。アテルイをテーマにした作品は読む者の心を揺さぶり、観る者の心をとらえてやまない。その生き方に、時を超えて語りかけてくるものがあるからだろう。
◇ ◇
歴史は勝者によって記され、勝者は自分たちに都合の悪いことには触れようとしない。だが、本当に大切なことは「触れられなかったこと」の中に埋もれているのかもしれない。古代東北の歴史を調べ、蝦夷が歩んだ道を思う時、心に浮かぶのは北アメリカの先住民たちがたどった運命である。
米国の人類学者ヘンリー・ドビンズによれば、コロンブスがアメリカ大陸に到達した15世紀当時、北米には推定で1000万人前後の先住民が暮らしていた。そこに移民としてやって来たのはヨーロッパで迫害され、貧困に打ちのめされた人たちだった。
1620年、イギリスからメイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスにたどり着いた101人の清教徒は、飢えと寒さで冬を越すことができず、春までに半数が亡くなった。
生き残った者たちに食糧を与え、トウモロコシやジャガイモの栽培法を教えて助けたのは、その地に暮らすワンパノアグ族の人たちである。「飢えた旅人には、自らの食を割いてでも手を差し伸べる」という古来の慣習に従ったのだった。
翌年の秋には豊かな収穫に恵まれ、白人たちは先住民と共に祝った。それがアメリカにおける感謝祭の始まりとされる。
だが、共に祝う日々はすぐに終わった。移民たちは「土地の所有」を主張し始めたからである。「大地や空は誰のものでもない」と考える先住民には理解できないことだった。
移民が持ち込んだ天然痘や赤痢、コレラといった伝染病も脅威となった。先住民には未知の病であり、治療のすべもないまま次々に倒れていった。
流入する移民と疫病が先住民を西へと追いやる。イギリスやフランス、スペインなど欧州の国々による植民地の争奪戦が始まり、先住民も巻き込まれていった。
1763年、英国王のジョージ3世が「英国の領土はアパラチア山脈まで。その西はインディアンの居住地」と宣言し、両者は住み分けることになったが、直後に独立戦争が勃発して宣言は雲散霧消した。

入植者は広い土地を求めてインディアンの居住地域に入り込む。金鉱が発見されれば、ならず者が殺到する。それを白人の側から描けば、「開拓を妨害するインディアン、騎兵隊と入植者がそれを追い払う」という、西部劇でおなじみの図式になる。
武力衝突が起きるたびに協定が結ばれたが、そうした約束が守られることはなかった。どのような協定が結ばれ、どのように破られていったのか。白人側が残した記録を基に、その内実を克明に記したのがディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』である。
非道な協定破りの数々。その典型の一つが「チェロキー族の涙の旅路」である。この部族は白人たちと戦うことをやめ、18世紀後半には指定されたジョージア州などの居住地に住んでいた。
ところが、居住地で金鉱が発見されるや、数万人が1000キロ離れたオクラホマ州に追いやられた。老人や女性、子どもを連れ、真冬に徒歩での旅。4人に1人が命を落とした。
戦うことをやめない部族には、容赦ない殺戮(さつりく)が待っていた。インディアンの戦士たちとの戦いが難渋すれば、騎兵隊は後背地にいる彼らの家族を殺害した。インディアンの人口は、19世紀末には25万人まで激減した。
軍隊と、家族を抱えた生活者との戦い・・・・。いかに決意が固かろうと、インディアンたちが抗(あらが)い続けることは困難だった。東北の蝦夷たちもまた、同じ苦しみを抱えて戦うしかなかった。
カナダ・アルバータ大学の教授、藤永茂は著書『アメリカ・インディアン悲史』に、彼らは「自分たちをあくまで大自然のほんの一部と看做(みな)す人たちだった」と記した。
「森に入れば無言の木々の誠実と愛に包まれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心に支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた」
だから、「インディアン問題はインディアンたちの問題ではない。我々の問題である」と藤永はいう。
そうなのだ。古代東北の蝦夷たちの営為も、遠い歴史のかなたに置き去りにするわけにはいかない。彼らがたどった道は今を生きる私たちにつながり、さらに未来へと延びている。(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年3月29日
https://news-hunter.org/?p=11599
≪写真・図の説明&Source≫
◎789年の第一次征討の合戦場となった北上川の河畔、巣伏(すふし)に建てられた櫓(奥州市水沢佐倉河字北田、筆者撮影)
◎京都の清水寺に建立されたアテルイと盟友モレの碑
yoritomo-japan.com
◎英国王の1763年宣言による英国領土とインディアン居住地の区分け図。英国の領土はアパラチア山脈まで、その西側はインディアン居住地とされた(ウィキペディアから)
≪参文献&サイト≫
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』(樋口知志、ミネルヴァ書房)
◎『火怨 北の輝星アテルイ』(高橋克彦、上下、講談社文庫)
◎『胆江日日新聞七十年史』(胆江日日新聞社)
◎清水寺の歴史(清水寺の公式サイトから)
https://www.kiyomizudera.or.jp/history.php
◎『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂、朝日新聞社)
◎『わが魂を聖地に埋めよ』(ディー・ブラウン、上下、草思社文庫)
◎『アメリカの歴史を知るための62章』(富田虎男、鵜月裕典、佐藤円編、明石書店)
大昔、東北の地で暮らす人々のことを大和政権側は「えみし」と呼んだ。なぜ、そう呼んでいたのかについては諸説あるが、定説はなく、不明である。

「蔑称だった」と唱える研究者もいる。だが、違うだろう。7世紀、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我一族に蘇我蝦夷(えみし)がおり、当時はほかにも「えみし」の名を持つ貴族がいた。蔑称を名前にする貴族はいない、と考えるのが自然だからだ。
大和政権が編纂した正史に「えみし」という言葉が初めて登場するのは、『日本書紀』の神武天皇紀である。神武紀の中に大和の軍人たちが戦勝を祝って口にした次のような歌謡が収められている(注)。
愛瀰詩烏(えみしを)毘攮利(ひたり)
毛々那比苔(ももなひと)
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)
多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)
「えみしは一人で百人を相手にするほど強いと人は言うけれど、俺たちには抵抗もしない」という意味である。古代から、「えみし」の戦闘能力の高さは恐れられていたようだが、「俺たちはそれよりもっと強い」と歌いあげているのだ。
日本書紀は全文、漢文で書かれている。ただ、こうした歌謡については言葉をそのまま借字で収録している。その際、「えみし」を「愛瀰詩」と記したことから見ても、蔑称という見方は的外れであることが分かる。
ただ、時を経るにつれて、「えみし」は「毛人」あるいは「蝦夷」と表記されるようになる。大和政権との軋轢が増し、戦争が続く中で「侮蔑」の意味合いが込められるようになっていったと考えられる。
◇ ◇
大和政権は7世紀に入ると東北の支配領域を急速に広げ、蝦夷勢力と激しく衝突するようになった。城冊(じょうさく)を築き、守るため各地から多くの移民を送り込む。蝦夷側では抵抗することをあきらめ、帰順して大和政権の下で生きる道を選ぶ者も増えていった。
8世紀の後半になると、大和側の支配は宮城県北部に達した。その最前線に築かれたのが桃生(ものう)城(現在の石巻市)と伊治(これはり)城(栗原市)であり、支配をさらに北へ広げるための前進基地だった(図参照)。

774年、摩擦は発火点に達し、38年戦争に突入していく。最初に蜂起したのは、宮城県北部から三陸地方に住む「海道(かいどう)蝦夷」だ。桃生城を攻撃して城郭の一部を焼き払った。帰順した蝦夷の一部も造反し、大和側は大混乱に陥る。
蝦夷を戦争へと駆り立てたものは何だったのか。自らの生活圏が侵食されていくことへの焦慮、大和政権の官人による収奪と腐敗、そして侮蔑だったのではないか。
近畿大学の鈴木拓也教授は著書『蝦夷と東北戦争』で、陸奥・出羽両国から天皇に献上されたものとして馬と鷹を挙げている。鷹狩りは当時の天皇家にとって重要な行事の一つである。軍馬の重要性は言うまでもない。
また、交易品として陸奥の砂金や毛皮、昆布を挙げる。熊やアシカ、アザラシの毛皮は都の貴族にことのほか喜ばれた。現地の官人は公式ルートで献上するほか、私的な取引にも精を出していたようだ。『続日本後紀』には、任期を終えて帰京する国司が大量の「私荷」を運んだことが記されているという。
辺境に赴任した官人による収奪や腐敗は、洋の東西を問わない。そして、彼らの住民への横暴と侮蔑もまた、繰り返されてきたことである。
大和政権に帰順し、現地の蝦夷を束ねてきた族長たちは屈折した思いを抱いていたに違いない。官人の横暴にさらされる配下の者たちからは突き上げられ、北方で抵抗し続ける蝦夷からは「裏切者」扱い・・。
そうした蝦夷の族長の一人、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年、ついに反旗をひるがえす。伊治城で陸奥の最高責任者、紀広純らを殺害し、さらに反乱軍を率いて多賀城を略奪、焼き討ちにしたのである。
大和政権にとって、多賀城は陸奥・出羽を支配するための最大の拠点である。武器や兵糧も大量に蓄えられていた。それらをすべて奪われ、城も焼け落ちてしまった。城下の民衆も四散した。
反乱の急報が都に届いたのは6日後である。光仁天皇はただちに征東大使や副使らを任命し、坂東諸国に数万の兵の動員を命じた。それまで、陸奥と出羽の治安は現地の兵力でまかなってきたが、それでは対応できなくなり、蝦夷政策の転換を余儀なくされた。
その翌年、光仁天皇は高齢と病気のため譲位し、桓武天皇が即位した。大和政権と蝦夷勢力が全面対決の状態になるのは、この桓武天皇の治世下である。
軍の動員もけた違いになる。789年の第一次征討で5万、794年の第二次征討では10万、801年の第三次征討でも4万の兵力を投入した。徴兵は坂東にとどまらず東海道の諸国にも及び、兵糧も各地から調達した。
征討の対象は、アテルイ(阿弖流為)が率いる胆沢(いさわ=岩手県南部)の蝦夷である。38年戦争の発端も呰麻呂の反乱もその背後にいたのは胆沢の蝦夷勢力、と大和側は見ていた。
第一次征討が蝦夷勢力の巧みな作戦で惨敗に終わったことはすでに紹介した。北上川を挟んでの戦いで朝廷側は1000人余の溺死者を出し、指揮官まで逃げ出す醜態をさらした。桓武天皇が激怒したのは言うまでもない。
苦い教訓を踏まえて、第二次征討は兵力を倍増し、陣立ても一新した。征東大使に大友弟麻呂、副使には百済王俊哲や坂上田村麻呂ら4人を充て、地方の豪族を指揮官として抜擢した。
ただ、第二次と第三次征討については、これを記録したはずの『日本後紀』が欠落(全40巻のうち10巻のみ現存)しており、詳しいことは分からない。
関連史料によって、第二次征討では朝廷側が勝利したものの胆沢は陥落しなかったこと、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた第三次征討についても、アテルイが500人の蝦夷を連れて投降し、胆沢が陥落したことが分かる程度だ(アテルイは都に連行され、802年に処刑)。38年戦争のもっとも重要な部分は、正史の欠落によって知り得ないのである。
◇ ◇
桓武天皇は大規模な軍事遠征で東北の蝦夷勢力を屈服させ、朝廷の支配領域を北へ大きく広げた。裏返せば、東北の蝦夷は再び立ち上がれないほどの打撃を受けた。
しかも、三次にわたる遠征によって多数の蝦夷が囚われの身になり、「俘囚(ふしゅう)」として関東や西日本の各地に移送された。移送は陸奥と出羽を除いた全国64カ国のうちの7割に及ぶ。その総数は万単位と見て、間違いない。
俘囚の一部は、九州の太宰府で防人として生きる道を与えられたりしたが、大多数は集落の外れの狭い土地に収容され、悲惨な境遇に落とされた。当然のことながら、周辺の大和側の住民との軋轢も絶えなかった。
移送先からの逃亡や騒乱も相次いだ。記録に残るだけでも、814年に出雲、848年に上総(かずさ)、875年に下総(しもうさ)と下野(しもつけ)、883年に上総で俘囚の反乱が起きている。下野の反乱では100人以上の俘囚が殺された。
彼らの多くは田を与えられなかった。従って、コメを収める租は課されなかったが、特産品や布を納める調庸の義務はあった。それも容易には納められなかった。
徴収がままならない事情について、798年の太政官符は次のように記している。
「俘囚たちは常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(荒々しい心)を改めようとしません。狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています」(『蝦夷と東北戦争』)
隷属状態に追いやっておきながら、「雲のように浮遊」と責める。俘囚たちの心が静まるわけはなかった。
桓武天皇は「征夷の天皇」であると同時に、「造都の天皇」でもあった。都を平城京から長岡京に移し、さらに平安京に移した。これほどの大事業を二つも遂行したエネルギーのもとは何か。「数奇な運命」が桓武天皇を突き動かしたのかもしれない。
先帝の光仁天皇は、聖武(しょうむ)天皇の娘を皇后に迎えた。皇后には他戸(おさべ)親王という皇太子がいた。ところが、この皇后が「光仁天皇を呪詛した罪」でその地位を追われ、皇太子も廃された。2人は幽閉先で同じ日に謎の死を遂げる(藤原一族による陰謀・暗殺説がある)。
それによって、光仁天皇と百済系渡来人一族の女性との間に生まれた山部親王が急遽、皇太子になり、後に桓武天皇として即位することになるのである。天皇の生母は皇族か貴族の出という慣例がある中では異例の即位だった。
2002年の日韓共催サッカーワールドカップを前に、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言し、話題になったが、それはこのことを指している。
二つの偉業を成し遂げることで「異例の即位」という陰口を吹き飛ばす。そんな思いがあったのかもしれない。
とはいえ、二つの大事業の負担は民衆に重くのしかかった。それは朝廷の屋台骨を揺るがしかねないほどだった。さすがの桓武天皇も第四次の征討はあきらめざるを得なかった。
811年の嵯峨天皇による征夷は、現地の陸奥・出羽の兵力だけで行われ、38年に及ぶ東北の戦火はようやく鎮まったのである。
(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表)
*注 日本書紀では「毘攮利」の部分の1文字目は「田へんに比」、2文字目は「手へん」ではなく「人べん」ですが、このブログでは転換できないため、それぞれこの文字で代用しました。「多牟伽毘」の4文字目も「田へんに比」です。
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月25日
https://news-hunter.org/?p=11044
≪写真、図の説明&Source≫
(写真) 京都の清水寺にあるアテルイと盟友モレの碑。1994年、平安遷都1200年を記念して有志が建立した
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm
(図) 海道蝦夷と山道蝦夷の居住範囲(『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』から複写
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『日本書紀?』((坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)
◎『校本日本書紀 一 神代巻』(國學院大學日本文化研究所編、角川書店)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)

「蔑称だった」と唱える研究者もいる。だが、違うだろう。7世紀、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我一族に蘇我蝦夷(えみし)がおり、当時はほかにも「えみし」の名を持つ貴族がいた。蔑称を名前にする貴族はいない、と考えるのが自然だからだ。
大和政権が編纂した正史に「えみし」という言葉が初めて登場するのは、『日本書紀』の神武天皇紀である。神武紀の中に大和の軍人たちが戦勝を祝って口にした次のような歌謡が収められている(注)。
愛瀰詩烏(えみしを)毘攮利(ひたり)
毛々那比苔(ももなひと)
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)
多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)
「えみしは一人で百人を相手にするほど強いと人は言うけれど、俺たちには抵抗もしない」という意味である。古代から、「えみし」の戦闘能力の高さは恐れられていたようだが、「俺たちはそれよりもっと強い」と歌いあげているのだ。
日本書紀は全文、漢文で書かれている。ただ、こうした歌謡については言葉をそのまま借字で収録している。その際、「えみし」を「愛瀰詩」と記したことから見ても、蔑称という見方は的外れであることが分かる。
ただ、時を経るにつれて、「えみし」は「毛人」あるいは「蝦夷」と表記されるようになる。大和政権との軋轢が増し、戦争が続く中で「侮蔑」の意味合いが込められるようになっていったと考えられる。
◇ ◇
大和政権は7世紀に入ると東北の支配領域を急速に広げ、蝦夷勢力と激しく衝突するようになった。城冊(じょうさく)を築き、守るため各地から多くの移民を送り込む。蝦夷側では抵抗することをあきらめ、帰順して大和政権の下で生きる道を選ぶ者も増えていった。
8世紀の後半になると、大和側の支配は宮城県北部に達した。その最前線に築かれたのが桃生(ものう)城(現在の石巻市)と伊治(これはり)城(栗原市)であり、支配をさらに北へ広げるための前進基地だった(図参照)。

774年、摩擦は発火点に達し、38年戦争に突入していく。最初に蜂起したのは、宮城県北部から三陸地方に住む「海道(かいどう)蝦夷」だ。桃生城を攻撃して城郭の一部を焼き払った。帰順した蝦夷の一部も造反し、大和側は大混乱に陥る。
蝦夷を戦争へと駆り立てたものは何だったのか。自らの生活圏が侵食されていくことへの焦慮、大和政権の官人による収奪と腐敗、そして侮蔑だったのではないか。
近畿大学の鈴木拓也教授は著書『蝦夷と東北戦争』で、陸奥・出羽両国から天皇に献上されたものとして馬と鷹を挙げている。鷹狩りは当時の天皇家にとって重要な行事の一つである。軍馬の重要性は言うまでもない。
また、交易品として陸奥の砂金や毛皮、昆布を挙げる。熊やアシカ、アザラシの毛皮は都の貴族にことのほか喜ばれた。現地の官人は公式ルートで献上するほか、私的な取引にも精を出していたようだ。『続日本後紀』には、任期を終えて帰京する国司が大量の「私荷」を運んだことが記されているという。
辺境に赴任した官人による収奪や腐敗は、洋の東西を問わない。そして、彼らの住民への横暴と侮蔑もまた、繰り返されてきたことである。
大和政権に帰順し、現地の蝦夷を束ねてきた族長たちは屈折した思いを抱いていたに違いない。官人の横暴にさらされる配下の者たちからは突き上げられ、北方で抵抗し続ける蝦夷からは「裏切者」扱い・・。
そうした蝦夷の族長の一人、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年、ついに反旗をひるがえす。伊治城で陸奥の最高責任者、紀広純らを殺害し、さらに反乱軍を率いて多賀城を略奪、焼き討ちにしたのである。
大和政権にとって、多賀城は陸奥・出羽を支配するための最大の拠点である。武器や兵糧も大量に蓄えられていた。それらをすべて奪われ、城も焼け落ちてしまった。城下の民衆も四散した。
反乱の急報が都に届いたのは6日後である。光仁天皇はただちに征東大使や副使らを任命し、坂東諸国に数万の兵の動員を命じた。それまで、陸奥と出羽の治安は現地の兵力でまかなってきたが、それでは対応できなくなり、蝦夷政策の転換を余儀なくされた。
その翌年、光仁天皇は高齢と病気のため譲位し、桓武天皇が即位した。大和政権と蝦夷勢力が全面対決の状態になるのは、この桓武天皇の治世下である。
軍の動員もけた違いになる。789年の第一次征討で5万、794年の第二次征討では10万、801年の第三次征討でも4万の兵力を投入した。徴兵は坂東にとどまらず東海道の諸国にも及び、兵糧も各地から調達した。
征討の対象は、アテルイ(阿弖流為)が率いる胆沢(いさわ=岩手県南部)の蝦夷である。38年戦争の発端も呰麻呂の反乱もその背後にいたのは胆沢の蝦夷勢力、と大和側は見ていた。
第一次征討が蝦夷勢力の巧みな作戦で惨敗に終わったことはすでに紹介した。北上川を挟んでの戦いで朝廷側は1000人余の溺死者を出し、指揮官まで逃げ出す醜態をさらした。桓武天皇が激怒したのは言うまでもない。
苦い教訓を踏まえて、第二次征討は兵力を倍増し、陣立ても一新した。征東大使に大友弟麻呂、副使には百済王俊哲や坂上田村麻呂ら4人を充て、地方の豪族を指揮官として抜擢した。
ただ、第二次と第三次征討については、これを記録したはずの『日本後紀』が欠落(全40巻のうち10巻のみ現存)しており、詳しいことは分からない。
関連史料によって、第二次征討では朝廷側が勝利したものの胆沢は陥落しなかったこと、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた第三次征討についても、アテルイが500人の蝦夷を連れて投降し、胆沢が陥落したことが分かる程度だ(アテルイは都に連行され、802年に処刑)。38年戦争のもっとも重要な部分は、正史の欠落によって知り得ないのである。
◇ ◇
桓武天皇は大規模な軍事遠征で東北の蝦夷勢力を屈服させ、朝廷の支配領域を北へ大きく広げた。裏返せば、東北の蝦夷は再び立ち上がれないほどの打撃を受けた。
しかも、三次にわたる遠征によって多数の蝦夷が囚われの身になり、「俘囚(ふしゅう)」として関東や西日本の各地に移送された。移送は陸奥と出羽を除いた全国64カ国のうちの7割に及ぶ。その総数は万単位と見て、間違いない。
俘囚の一部は、九州の太宰府で防人として生きる道を与えられたりしたが、大多数は集落の外れの狭い土地に収容され、悲惨な境遇に落とされた。当然のことながら、周辺の大和側の住民との軋轢も絶えなかった。
移送先からの逃亡や騒乱も相次いだ。記録に残るだけでも、814年に出雲、848年に上総(かずさ)、875年に下総(しもうさ)と下野(しもつけ)、883年に上総で俘囚の反乱が起きている。下野の反乱では100人以上の俘囚が殺された。
彼らの多くは田を与えられなかった。従って、コメを収める租は課されなかったが、特産品や布を納める調庸の義務はあった。それも容易には納められなかった。
徴収がままならない事情について、798年の太政官符は次のように記している。
「俘囚たちは常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(荒々しい心)を改めようとしません。狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています」(『蝦夷と東北戦争』)
隷属状態に追いやっておきながら、「雲のように浮遊」と責める。俘囚たちの心が静まるわけはなかった。
桓武天皇は「征夷の天皇」であると同時に、「造都の天皇」でもあった。都を平城京から長岡京に移し、さらに平安京に移した。これほどの大事業を二つも遂行したエネルギーのもとは何か。「数奇な運命」が桓武天皇を突き動かしたのかもしれない。
先帝の光仁天皇は、聖武(しょうむ)天皇の娘を皇后に迎えた。皇后には他戸(おさべ)親王という皇太子がいた。ところが、この皇后が「光仁天皇を呪詛した罪」でその地位を追われ、皇太子も廃された。2人は幽閉先で同じ日に謎の死を遂げる(藤原一族による陰謀・暗殺説がある)。
それによって、光仁天皇と百済系渡来人一族の女性との間に生まれた山部親王が急遽、皇太子になり、後に桓武天皇として即位することになるのである。天皇の生母は皇族か貴族の出という慣例がある中では異例の即位だった。
2002年の日韓共催サッカーワールドカップを前に、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言し、話題になったが、それはこのことを指している。
二つの偉業を成し遂げることで「異例の即位」という陰口を吹き飛ばす。そんな思いがあったのかもしれない。
とはいえ、二つの大事業の負担は民衆に重くのしかかった。それは朝廷の屋台骨を揺るがしかねないほどだった。さすがの桓武天皇も第四次の征討はあきらめざるを得なかった。
811年の嵯峨天皇による征夷は、現地の陸奥・出羽の兵力だけで行われ、38年に及ぶ東北の戦火はようやく鎮まったのである。
(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表)
*注 日本書紀では「毘攮利」の部分の1文字目は「田へんに比」、2文字目は「手へん」ではなく「人べん」ですが、このブログでは転換できないため、それぞれこの文字で代用しました。「多牟伽毘」の4文字目も「田へんに比」です。
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月25日
https://news-hunter.org/?p=11044
≪写真、図の説明&Source≫
(写真) 京都の清水寺にあるアテルイと盟友モレの碑。1994年、平安遷都1200年を記念して有志が建立した
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm
(図) 海道蝦夷と山道蝦夷の居住範囲(『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』から複写
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『日本書紀?』((坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)
◎『校本日本書紀 一 神代巻』(國學院大學日本文化研究所編、角川書店)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)
ロシア軍がウクライナとの国境を越え、新しい戦争を始めた。ロシア側はまずウクライナの戦闘指揮所やレーダー施設を破壊し、航空優勢を確保したうえで、戦車などの地上部隊を大規模に展開しようとしている。

ロシアはこれまで、ウクライナ東部のロシア系住民が多い地域の武装勢力を支援してきた。今回の侵攻によって、ロシアはこの武装勢力が支配する地域を独立させて「友好的な地域」にしたうえで、ウクライナのほかの地域を「緩衝地帯」にすることを狙っているようだ。
アメリカのバイデン大統領は「この攻撃がもたらす死と破壊はロシアだけに責任がある」と非難した。岸田文雄首相はこれに同調し、「国際社会と連携して迅速に対処していく」と述べた。武力で自分の言い分を押し通そうとするロシアの行動は非難されて当然である。だが、バイデン大統領が言うように、この戦争の責任は「ロシアだけにある」のだろうか。
今回のロシア・ウクライナ戦争を考えるうえでのキーワードは「NATOの東方拡大」である。NATO(北大西洋条約機構)は、第2次世界大戦後にアメリカとイギリスがソ連と対峙するため西欧諸国を糾合して結成した「共産圏包囲軍事同盟」である。ソ連はワルシャワ条約機構を結成して、これに対抗した。
1989年に米ソの冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊したのだから、本来ならNATOは「新しい軍事同盟」に改編されるべきだった。だが、アメリカはその後もその基本的な構造を維持したまま、共産圏にあった東欧諸国を一つ、また一つとNATOに組み込んでいった。
ソ連崩壊後、ロシアは政治的にも経済的にも混乱状態に陥り、NATOの東方拡大に対処する余裕がなかった。NATOの東縁はじわじわとロシアに迫り、ついにロシアと直接、国境を接するウクライナに到達しようとしている。
経済を立て直し、国力を回復したロシアのプーチン大統領が「NATOのウクライナへの拡大」に強い危機感を抱いたのは、理解できないことではない。2008年のNATO加盟国との首脳会談で、プーチン大統領は「ウクライナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナと戦争をする用意がある」と発言している。
旧共産圏の東欧諸国や旧ソ連の構成国であるウクライナがNATOに加盟するということは、単に軍事同盟の組み合わせが変わる、ということだけにとどまらない。戦闘機や戦車といった武器体系がロシア製から米英製に切り替わることを意味する。そのビジネス上の損得は極めて大きい。
それ以上に深刻なのは、旧共産圏諸国が持っていた暗号解読を含む軍事機密情報が米英の手に渡ることだ。軍事情報が戦争で果たす役割は、IT革命の進展に伴ってますます大きくなってきている。かつての同盟国の寝返りは死活に直結する、と言っていい。
モンゴル帝国の来襲からナポレオンのモスクワ遠征、ナチスドイツの侵攻と、ロシア・ソ連は幾度も、陸続きの大国から攻め込まれ、そのたびに甚大な被害をこうむってきた。海に囲まれ、この1000年余で外敵に攻め込まれたのは元寇とマッカーサー率いる米軍だけ、という日本とは危機意識がまるで異なる、ということに思いを致すべきだろう。
岸田首相は「国際社会との連携」と「在留邦人の安全確保」をオウムのように繰り返している。官僚が作った文章を棒読みしているだけだ。今の国際情勢をどう捉えているのか。世界はどこへ向かおうとしているのか。自らの歴史認識や政治哲学がうかがえるような発言は皆無である。
一方のメディアはどうか。25日付朝日新聞のコラム「天声人語」は「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いた。歯切れはいいが、説得力はまるでない。追い詰められて牙をむいたロシアにも言い分はある。一方で、アメリカが振りかざす正義にはしばしば大きなごまかしがある。そうしたことを丁寧に、冷徹に報じるのがメディアの役割ではないか。
アメリカが唯一の超大国と呼ばれたポスト冷戦の第一段階は終わり、世界は第二段階に入りつつある。ロシア・ウクライナ戦争の帰趨は、それがどのような世界になるかを示すことになるだろう。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 104」 2022年2月25日
【追記 2022年2月26日】 私の自宅(山形県朝日町)に配られた25日付朝日新聞朝刊(13版S)の「天声人語」には「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いてありましたが、同日付の次の版(14版S)では「ロシアの暴挙には、正当性のかけらもない」と手直しされていました。
≪写真説明&Source≫
◎ロシア軍の侵攻が迫る中、演習をするウクライナ軍の戦車。2月18日にUkrainian Joint Forces Operation Press Serviceが提供(2022年 ロイター)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/02/post-98115.php

ロシアはこれまで、ウクライナ東部のロシア系住民が多い地域の武装勢力を支援してきた。今回の侵攻によって、ロシアはこの武装勢力が支配する地域を独立させて「友好的な地域」にしたうえで、ウクライナのほかの地域を「緩衝地帯」にすることを狙っているようだ。
アメリカのバイデン大統領は「この攻撃がもたらす死と破壊はロシアだけに責任がある」と非難した。岸田文雄首相はこれに同調し、「国際社会と連携して迅速に対処していく」と述べた。武力で自分の言い分を押し通そうとするロシアの行動は非難されて当然である。だが、バイデン大統領が言うように、この戦争の責任は「ロシアだけにある」のだろうか。
今回のロシア・ウクライナ戦争を考えるうえでのキーワードは「NATOの東方拡大」である。NATO(北大西洋条約機構)は、第2次世界大戦後にアメリカとイギリスがソ連と対峙するため西欧諸国を糾合して結成した「共産圏包囲軍事同盟」である。ソ連はワルシャワ条約機構を結成して、これに対抗した。
1989年に米ソの冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊したのだから、本来ならNATOは「新しい軍事同盟」に改編されるべきだった。だが、アメリカはその後もその基本的な構造を維持したまま、共産圏にあった東欧諸国を一つ、また一つとNATOに組み込んでいった。
ソ連崩壊後、ロシアは政治的にも経済的にも混乱状態に陥り、NATOの東方拡大に対処する余裕がなかった。NATOの東縁はじわじわとロシアに迫り、ついにロシアと直接、国境を接するウクライナに到達しようとしている。
経済を立て直し、国力を回復したロシアのプーチン大統領が「NATOのウクライナへの拡大」に強い危機感を抱いたのは、理解できないことではない。2008年のNATO加盟国との首脳会談で、プーチン大統領は「ウクライナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナと戦争をする用意がある」と発言している。
旧共産圏の東欧諸国や旧ソ連の構成国であるウクライナがNATOに加盟するということは、単に軍事同盟の組み合わせが変わる、ということだけにとどまらない。戦闘機や戦車といった武器体系がロシア製から米英製に切り替わることを意味する。そのビジネス上の損得は極めて大きい。
それ以上に深刻なのは、旧共産圏諸国が持っていた暗号解読を含む軍事機密情報が米英の手に渡ることだ。軍事情報が戦争で果たす役割は、IT革命の進展に伴ってますます大きくなってきている。かつての同盟国の寝返りは死活に直結する、と言っていい。
モンゴル帝国の来襲からナポレオンのモスクワ遠征、ナチスドイツの侵攻と、ロシア・ソ連は幾度も、陸続きの大国から攻め込まれ、そのたびに甚大な被害をこうむってきた。海に囲まれ、この1000年余で外敵に攻め込まれたのは元寇とマッカーサー率いる米軍だけ、という日本とは危機意識がまるで異なる、ということに思いを致すべきだろう。
岸田首相は「国際社会との連携」と「在留邦人の安全確保」をオウムのように繰り返している。官僚が作った文章を棒読みしているだけだ。今の国際情勢をどう捉えているのか。世界はどこへ向かおうとしているのか。自らの歴史認識や政治哲学がうかがえるような発言は皆無である。
一方のメディアはどうか。25日付朝日新聞のコラム「天声人語」は「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いた。歯切れはいいが、説得力はまるでない。追い詰められて牙をむいたロシアにも言い分はある。一方で、アメリカが振りかざす正義にはしばしば大きなごまかしがある。そうしたことを丁寧に、冷徹に報じるのがメディアの役割ではないか。
アメリカが唯一の超大国と呼ばれたポスト冷戦の第一段階は終わり、世界は第二段階に入りつつある。ロシア・ウクライナ戦争の帰趨は、それがどのような世界になるかを示すことになるだろう。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 104」 2022年2月25日
【追記 2022年2月26日】 私の自宅(山形県朝日町)に配られた25日付朝日新聞朝刊(13版S)の「天声人語」には「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いてありましたが、同日付の次の版(14版S)では「ロシアの暴挙には、正当性のかけらもない」と手直しされていました。
≪写真説明&Source≫
◎ロシア軍の侵攻が迫る中、演習をするウクライナ軍の戦車。2月18日にUkrainian Joint Forces Operation Press Serviceが提供(2022年 ロイター)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/02/post-98115.php
気象庁が首都圏に「大雪注意報」を出したのを受けて、10日昼のNHKのトップニュースは「東京23区など大雪のおそれ」だった。リポーターが東京都調布市の街頭に立って、みぞれがちらつく様子を伝え、雪への警戒を呼び掛けていた。

これだけでは「さすがにつらい」と報道する側も思ったのか、次の映像は箱根の芦ノ湖畔の雪景色だった。記者が地面に手を差し込んで「こんなに積もっています」とのたもうた。確かに5センチほど積もっている。「すごい雪でしょ」と言いたげだった。
なんて報道だ、と思う。東京に数センチの雪が降り積もれば、かなり大変なことだとは分かる。が、それを気象庁が「大雪」と表現し、報道機関が「大雪」と報じるのは、日本語の使い方としておかしいのではないか。「積雪注意報」「東京で積雪」で十分ではないか。
雪国で暮らす人たちがこういう報道をどういう思いで見ているか、まるで考えていない。東京の報道機関が「東京ローカル」のニュースを、さも重大なニュースであるかのように報じるのに辟易(へきえき)しているのは、私だけだろうか。
私が暮らす山形県で9日夜、屋根に降り積もった雪で家がつぶれ、1人暮らしの男性(64歳)が亡くなる事故があった。県内でも豪雪地帯として知られる新庄市の住宅街での出来事である。NHKはこれを「ローカルニュース」として報じた。
雪下ろし中に屋根から転落して死亡したり、除雪機に挟まれて亡くなったりする事故は、雪国ではしばしば起きる。従って、そうしたニュースを地方ニュースとして扱うのは分かる。だが、積雪で家が潰れ、それで住民が亡くなる事故など、雪国でも滅多にあるものではない。それを「ありふれたニュース」のように扱うのはおかしい。
現場の映像を見ると、屋根に降り積もった雪は1.5メートルほどある。冬の初めに降った雪は圧縮され、一部は氷になっている。そこに次の雪が降り積もり、さらに新雪が加わる。屋根に加わる重量は相当なもので、古い住宅の場合には文字通り潰れてしまう。
倒壊を防ぐため、屋根の雪下ろしは欠かせない。私は山形と新潟の県境に近い村で暮らしている。積雪は今回の事故が起きた新庄市と同じくらいだ。ただ、山村なら空き地が十分にあるので気軽に屋根の雪下ろしができるが、市街地だとそれもままならない。屋根から下ろした雪の始末に困るからだ。
新庄市の住民に聞くと、雪下ろしの手間賃は1人当たり1日2万円前後(危険手当込み)。さらに、下ろした雪を運んだり、除雪したりする費用も必要なので、雪下ろしを数人に頼めば、1回で10万円は覚悟しなければならない。
それで雪下ろしをためらっているうちに、雪の重みで家が潰れてしまったようだ。痛ましい事故であり、雪国で暮らすことの切なさを象徴するような出来事だ。それをなぜ、全国的なニュースとして報じないのか。
調布の街頭に降るみぞれを伝える時間があるなら、せめて数秒でもいいから、1.5メートルの雪で潰れてしまった家の映像を伝えられなかったのか。「大雪」という日本語の使い方と併せて、何がニュースなのかについても、報道する人たちにはもっと神経をとがらせてほしい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月11日
https://news-hunter.org/?p=10949
≪写真・映像の説明&Source≫
◎豪雪地帯の雪下ろし風景
https://sumairu-doctor.com/360/
◎山形県新庄市で起きた「積雪で家屋倒壊、住民死亡」を報じるNHK山形のニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220210/amp/k10013477011000.html

これだけでは「さすがにつらい」と報道する側も思ったのか、次の映像は箱根の芦ノ湖畔の雪景色だった。記者が地面に手を差し込んで「こんなに積もっています」とのたもうた。確かに5センチほど積もっている。「すごい雪でしょ」と言いたげだった。
なんて報道だ、と思う。東京に数センチの雪が降り積もれば、かなり大変なことだとは分かる。が、それを気象庁が「大雪」と表現し、報道機関が「大雪」と報じるのは、日本語の使い方としておかしいのではないか。「積雪注意報」「東京で積雪」で十分ではないか。
雪国で暮らす人たちがこういう報道をどういう思いで見ているか、まるで考えていない。東京の報道機関が「東京ローカル」のニュースを、さも重大なニュースであるかのように報じるのに辟易(へきえき)しているのは、私だけだろうか。
私が暮らす山形県で9日夜、屋根に降り積もった雪で家がつぶれ、1人暮らしの男性(64歳)が亡くなる事故があった。県内でも豪雪地帯として知られる新庄市の住宅街での出来事である。NHKはこれを「ローカルニュース」として報じた。
雪下ろし中に屋根から転落して死亡したり、除雪機に挟まれて亡くなったりする事故は、雪国ではしばしば起きる。従って、そうしたニュースを地方ニュースとして扱うのは分かる。だが、積雪で家が潰れ、それで住民が亡くなる事故など、雪国でも滅多にあるものではない。それを「ありふれたニュース」のように扱うのはおかしい。
現場の映像を見ると、屋根に降り積もった雪は1.5メートルほどある。冬の初めに降った雪は圧縮され、一部は氷になっている。そこに次の雪が降り積もり、さらに新雪が加わる。屋根に加わる重量は相当なもので、古い住宅の場合には文字通り潰れてしまう。
倒壊を防ぐため、屋根の雪下ろしは欠かせない。私は山形と新潟の県境に近い村で暮らしている。積雪は今回の事故が起きた新庄市と同じくらいだ。ただ、山村なら空き地が十分にあるので気軽に屋根の雪下ろしができるが、市街地だとそれもままならない。屋根から下ろした雪の始末に困るからだ。
新庄市の住民に聞くと、雪下ろしの手間賃は1人当たり1日2万円前後(危険手当込み)。さらに、下ろした雪を運んだり、除雪したりする費用も必要なので、雪下ろしを数人に頼めば、1回で10万円は覚悟しなければならない。
それで雪下ろしをためらっているうちに、雪の重みで家が潰れてしまったようだ。痛ましい事故であり、雪国で暮らすことの切なさを象徴するような出来事だ。それをなぜ、全国的なニュースとして報じないのか。
調布の街頭に降るみぞれを伝える時間があるなら、せめて数秒でもいいから、1.5メートルの雪で潰れてしまった家の映像を伝えられなかったのか。「大雪」という日本語の使い方と併せて、何がニュースなのかについても、報道する人たちにはもっと神経をとがらせてほしい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月11日
https://news-hunter.org/?p=10949
≪写真・映像の説明&Source≫
◎豪雪地帯の雪下ろし風景
https://sumairu-doctor.com/360/
◎山形県新庄市で起きた「積雪で家屋倒壊、住民死亡」を報じるNHK山形のニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220210/amp/k10013477011000.html
大金を盗んだ泥棒が犯行発覚の後、「悪かった。金は返す」と言えば許されるのか。他人の金をだまし取った詐欺師がばれた後、「反省している。全額返す」と言えば許されるのか。

そんなことは法律の専門家に聞くまでもない。どちらのケースも許されるはずがない。「謝って済むなら警察は要らない」のであり、そんなことは「お天道様が許さない」からである。
だが、山形県議会の坂本貴美雄議長も吉村美栄子知事も、ものの道理など気にならないようだ。野川政文・元県議による政務活動費の不正受給について、坂本議長は「告発しない」と何度も言明し、吉村知事も記者会見で「すでに議員を辞職し、社会的制裁を受けている。全額返還する意思も示している。こういったことを総合的に判断して告訴しない」と述べた。
あきれる。2人とも、ごく普通の県民がこの事件にどのくらい怒っているか、まるで理解していない。理解しようともしていない。普通の人が毎月8万円の収入を得ようとすれば、どのくらい働かなければならないか、考えたこともないのだろう。
野川元県議は何をしたのか。あらためて確認したい。県議には月額77万8000円の議員報酬のほかに1人当たり月に28万円の政務活動費が支給される。これは報酬(給与)ではなく、県政に関する調査研究や事務所の維持、事務職員の給与などに充てるための費用である。余ったら県に返すことになっている。
政治に金がかかることは誰もが理解している。従って、政務活動費の趣旨に沿ってきちんと支出し、残余を返却している分には誰も文句は言わない。
だが、野川氏は事務職員を雇ったように装い、勤務の実態がないのに毎月8万円の領収書に署名捺印させ、政務活動費として計上していた。つまり、毎月8万円の人件費をごまかし、懐に入れていたのである。この事務職員には毎月1万円を払っていたというが、勤務実態がないのだから、これも含めてだまし取っていたことに変わりはない。
虚偽の領収書を使っての詐欺行為は、2008年度から2020年度まで13年間に及んだ。総額1248万円に達する。刑法第246条2項の詐欺罪(人をだまして不法の利益を得る)に当たることは明白だ。
許しがたいのは、こうした詐欺行為を13年にわたって続けていたことだけではない。この間、2014年には兵庫県議会で「号泣県議」こと野々村竜太郎県議の架空出張問題が明るみに出て、そのでたらめさ加減に世間があきれる事件があった。野川氏はその前後も詐欺行為を続けていた。
さらに、山形県でも2016年9月に阿部賢一県議による政務活動費の不正受給が発覚した(発覚後、阿部氏は議員を辞職)。野川氏はこの時、県議会の議長をしており、白々しくも「県議会としてけじめが必要だ」「刑事告発を検討する」と述べた(刑事告発は民進、社民系の県政クラブが反対したため見送られた)。
加えて、野川氏はこの時、全国都道府県議会議長会の会長の座にあり、議員の範たるべき立場にあった。にもかかわらず、平気で詐欺行為を続けていたのである。何と破廉恥な政治家であることか。
彼はこの詐欺行為を恥じて「自白」したわけでもない。信頼できる筋によれば、山形県警は去年の9月ごろには野川氏のこうした不正行為を把握し、政務活動費の収支報告書や人件費の領収書などを任意で提出させていたという。県警がなぜ、このような明白な詐欺事件を立件しなかったのかは不明である。何らかの力が働いて「立件見送り」の判断をしたようだ。
事件は警察の捜査ではなく、報道によって明るみに出た。NHK山形放送局が11月4日朝のニュースで特ダネとして報じ、新聞と民放各社が追いかけて広く知られるに至った。各社入り乱れての報道合戦が繰り広げられ、人件費以外の不正行為も明らかになった。野川氏は自宅の一部を事務所として使っており、自宅の光熱費の2分の1を政務活動費として計上していた。
だが、県議会が自ら定めた「政務活動費の手引」(2017年2月改訂版)によれば、事務所は県政に関する調査や研究だけでなく、選挙や後援会活動でも使うのが常であり、こうしたケースでは原則として自宅の光熱費の4分の1を政務活動費として計上するルールになっている。つまり、事務所費や事務費でも長期にわたって経費の4分の1を不正に得ていたのである。
こちらは「詐欺」と言えるかどうか微妙だが、不正であることに変わりはない。議長まで経験した議員が「知らなかった」あるいは「勘違いした」と言い訳して済む問題ではない。
悪事が露見してからの野川氏の行動は素早かった。第一報の2日後には坂本議長に議員辞職願を出し、11月15日には山形市内のレンタル会議場で記者会見を開いた。その釈明は最初から最後まで支離滅裂だった。
架空の事務職員には毎月1万円を渡し、残りの7万円は「政治資金として提供してもらった」と述べた。だが、政治資金報告書には何の記載もない。だまし取った金を「私的に流用したことはない」と言い張ったが、何に使ったかの領収書などは何もない。こんな説明では、まるで説得力がない。
「説得力がない」という点では、県議会の坂本貴美雄議長の言い分も吉村美栄子知事の主張も同じだ。
坂本議長は報道陣に対して、何度も「議会としての告発は法制度上、できない」と述べた。ウソである。議会が構成メンバーである議員を告発することは法的に可能だからだ。現に、先に述べた野々村・元兵庫県議の不正事件では、兵庫県議会が各会派代表の連名で虚偽公文書作成・同行使罪で県警に告発している。野々村氏は起訴され、2016年7月に神戸地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けた。

坂本議長はなぜ、このようなウソを繰り返したのか。県議会事務局が入れ知恵したのだろうと推測して問いただしたら、その通りだった。県議会事務局が「議会としての告発はできない」という主張の根拠にしたのは、株式会社「地方議会総合研究所」の代表取締役、廣瀬和彦氏が書いた『100条調査ハンドブック』(ぎょうせい)という本にある次の一節だ。
「議会は地方公共団体の一機関であり、法人格を有しないため、一般に告発する権利を有しない」
この本は地方自治法の第100条に基づく議会による不祥事などの調査についての解説本で、いわゆる「百条調査委員会」が作られた場合のみ、議会は告発することができ、「それ以外では告発する権利がない」と解説している。
つまり、県議会事務局は株式社会の社長の見解をうのみにし、それを坂本議長に伝え、議長もそれを頼りに発言しているに過ぎない。
刑事訴訟法は第239条で「何人(なんぴと)でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる」と規定しており、その「何人」には法人格のない団体も含まれると考える解釈の方が有力なのだ。
だからこそ、法人格のない市民オンブズマン山形県会議でも野川氏を告発することができるのであり、必要なら私が主宰する地域おこしの小さなNPO「ブナの森」として告発することも可能なのだ。
「議会が法制度上、告発できるかどうか」は刑事訴訟法の解釈の問題であり、『100条調査ハンドブック』は「できない」という一つの解釈を示しているに過ぎない。坂本議長にも県議会事務局にも「もっとしっかり調べてから発言すべきだ」と言いたい。
百歩譲って、『ハンドブック』の解釈が正しいとしても、先に書いたように議会には「各会派の代表者の連名で告発する」という方法もある。議長が議会各派の了承を得て議長個人として告発する道もある。「法制度上、できない」という表現は誤りであり、報道陣を惑わすものだ。要するに「告発したくないんです」と言っているに過ぎない。

吉村知事の対応もお粗末きわまりない。政務活動費の問題は「一義的には議会の問題」と主張して逃げ切ろうとしている。「議会の問題」であることは間違いないが、その議会がきちんと対応しないなら、公金をだまし取られたのだから納税者の代表として知事が告訴するのは当然のことではないか。
それを「すでに社会的制裁を受けている」とか「過去に遡って全額返還する意思も示している」などと言って逃げようとするのはおかしい。1月12日の記者会見では、報道陣の追及にたまりかねたのか「さらに一歩進めて、息の根を止めるようなところまでやるのかというようなことも、ちょっと私としてはそこまでは・・」と口走った。
驚くべき発言である。法律に基づいて知事として為すべきことを「息の根を止める行為」と表現するとは。情報公開の不開示訴訟で知事を相手に争った際にも感じたことだが、この人は「法の支配の重要さ」あるいは「政治倫理の向上」といった問題についてまるで無頓着だ。知事としての適性を疑いたくなる発言である。
ともあれ、知事も県議会議長も当然為すべきことをしないのであれば、市民オンブズマン山形県会議としては「市民としての義務」を粛々と果たすしかない。みんなボランティアとして無報酬で働いており、もっと建設的なことをしたいのは山々だが、そうも言っていられない。やむなく、1月14日に山形地方検察庁に告発状を提出した。告発状は、市民オンブズマン県会議という団体として提出し、さらにメンバー4人も個人として名を連ねた。
告発するには「動かぬ証拠」が必要である。野川氏が作成して県議会議長に提出した政務活動費の収支報告関係文書のうち、保存期間が過ぎたものはすでに廃棄されていて無い。従って、関係文書が残っている2015年度以降の人件費の不正に絞って告発した。
詐欺罪の公訴時効は7年であり、それ以前の罪を問うことはできない。また、事務所費や事務費についても不正があることは明白だが、どのような罪に当たるかは難しいところだ。ゆえに、告発状ではそうしたことについては検察側に判断をゆだねた。
あとは、山形地検が県警と連携しながら適切な捜査を積み重ね、きちんと起訴するのを待つしかない。万が一、このような悪質、破廉恥な詐欺行為について、検察が「不起訴」あるいは「起訴猶予」などという不真面目な決定をしたならば、オンブズマンとして今度は検察を相手に法的な手段に訴えて闘わざるを得なくなる。
検察庁は「我々は、その重責を深く自覚し、常に公正誠実に、熱意を持って職務に取り組まなければならない」との理念を掲げている。そういう人たちがよもや、自分たちの理念に反するようなことはすまい、と信じたい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*初出:月刊『素晴らしい山形』2022年2月号
≪写真説明&Source≫
◎2017年1月の全国都道府県議会議長会の総会で挨拶する野川政文氏(同議長会のサイトから)
http://www.gichokai.gr.jp/topics/2016/170120-2/index.html
◎2021年11月、報道陣の質問に答える坂本貴美雄議長(NHKのサイトから)
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/71511.html
◎山形の名産品ラ・フランスを手に首相官邸で安倍晋三氏と写真に納まる吉村美栄子知事(2016年11月28日)。この写真は山形県政記者クラブの加盟各社に配布された

そんなことは法律の専門家に聞くまでもない。どちらのケースも許されるはずがない。「謝って済むなら警察は要らない」のであり、そんなことは「お天道様が許さない」からである。
だが、山形県議会の坂本貴美雄議長も吉村美栄子知事も、ものの道理など気にならないようだ。野川政文・元県議による政務活動費の不正受給について、坂本議長は「告発しない」と何度も言明し、吉村知事も記者会見で「すでに議員を辞職し、社会的制裁を受けている。全額返還する意思も示している。こういったことを総合的に判断して告訴しない」と述べた。
あきれる。2人とも、ごく普通の県民がこの事件にどのくらい怒っているか、まるで理解していない。理解しようともしていない。普通の人が毎月8万円の収入を得ようとすれば、どのくらい働かなければならないか、考えたこともないのだろう。
野川元県議は何をしたのか。あらためて確認したい。県議には月額77万8000円の議員報酬のほかに1人当たり月に28万円の政務活動費が支給される。これは報酬(給与)ではなく、県政に関する調査研究や事務所の維持、事務職員の給与などに充てるための費用である。余ったら県に返すことになっている。
政治に金がかかることは誰もが理解している。従って、政務活動費の趣旨に沿ってきちんと支出し、残余を返却している分には誰も文句は言わない。
だが、野川氏は事務職員を雇ったように装い、勤務の実態がないのに毎月8万円の領収書に署名捺印させ、政務活動費として計上していた。つまり、毎月8万円の人件費をごまかし、懐に入れていたのである。この事務職員には毎月1万円を払っていたというが、勤務実態がないのだから、これも含めてだまし取っていたことに変わりはない。
虚偽の領収書を使っての詐欺行為は、2008年度から2020年度まで13年間に及んだ。総額1248万円に達する。刑法第246条2項の詐欺罪(人をだまして不法の利益を得る)に当たることは明白だ。
許しがたいのは、こうした詐欺行為を13年にわたって続けていたことだけではない。この間、2014年には兵庫県議会で「号泣県議」こと野々村竜太郎県議の架空出張問題が明るみに出て、そのでたらめさ加減に世間があきれる事件があった。野川氏はその前後も詐欺行為を続けていた。
さらに、山形県でも2016年9月に阿部賢一県議による政務活動費の不正受給が発覚した(発覚後、阿部氏は議員を辞職)。野川氏はこの時、県議会の議長をしており、白々しくも「県議会としてけじめが必要だ」「刑事告発を検討する」と述べた(刑事告発は民進、社民系の県政クラブが反対したため見送られた)。
加えて、野川氏はこの時、全国都道府県議会議長会の会長の座にあり、議員の範たるべき立場にあった。にもかかわらず、平気で詐欺行為を続けていたのである。何と破廉恥な政治家であることか。
彼はこの詐欺行為を恥じて「自白」したわけでもない。信頼できる筋によれば、山形県警は去年の9月ごろには野川氏のこうした不正行為を把握し、政務活動費の収支報告書や人件費の領収書などを任意で提出させていたという。県警がなぜ、このような明白な詐欺事件を立件しなかったのかは不明である。何らかの力が働いて「立件見送り」の判断をしたようだ。
事件は警察の捜査ではなく、報道によって明るみに出た。NHK山形放送局が11月4日朝のニュースで特ダネとして報じ、新聞と民放各社が追いかけて広く知られるに至った。各社入り乱れての報道合戦が繰り広げられ、人件費以外の不正行為も明らかになった。野川氏は自宅の一部を事務所として使っており、自宅の光熱費の2分の1を政務活動費として計上していた。
だが、県議会が自ら定めた「政務活動費の手引」(2017年2月改訂版)によれば、事務所は県政に関する調査や研究だけでなく、選挙や後援会活動でも使うのが常であり、こうしたケースでは原則として自宅の光熱費の4分の1を政務活動費として計上するルールになっている。つまり、事務所費や事務費でも長期にわたって経費の4分の1を不正に得ていたのである。
こちらは「詐欺」と言えるかどうか微妙だが、不正であることに変わりはない。議長まで経験した議員が「知らなかった」あるいは「勘違いした」と言い訳して済む問題ではない。
悪事が露見してからの野川氏の行動は素早かった。第一報の2日後には坂本議長に議員辞職願を出し、11月15日には山形市内のレンタル会議場で記者会見を開いた。その釈明は最初から最後まで支離滅裂だった。
架空の事務職員には毎月1万円を渡し、残りの7万円は「政治資金として提供してもらった」と述べた。だが、政治資金報告書には何の記載もない。だまし取った金を「私的に流用したことはない」と言い張ったが、何に使ったかの領収書などは何もない。こんな説明では、まるで説得力がない。
「説得力がない」という点では、県議会の坂本貴美雄議長の言い分も吉村美栄子知事の主張も同じだ。
坂本議長は報道陣に対して、何度も「議会としての告発は法制度上、できない」と述べた。ウソである。議会が構成メンバーである議員を告発することは法的に可能だからだ。現に、先に述べた野々村・元兵庫県議の不正事件では、兵庫県議会が各会派代表の連名で虚偽公文書作成・同行使罪で県警に告発している。野々村氏は起訴され、2016年7月に神戸地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けた。

坂本議長はなぜ、このようなウソを繰り返したのか。県議会事務局が入れ知恵したのだろうと推測して問いただしたら、その通りだった。県議会事務局が「議会としての告発はできない」という主張の根拠にしたのは、株式会社「地方議会総合研究所」の代表取締役、廣瀬和彦氏が書いた『100条調査ハンドブック』(ぎょうせい)という本にある次の一節だ。
「議会は地方公共団体の一機関であり、法人格を有しないため、一般に告発する権利を有しない」
この本は地方自治法の第100条に基づく議会による不祥事などの調査についての解説本で、いわゆる「百条調査委員会」が作られた場合のみ、議会は告発することができ、「それ以外では告発する権利がない」と解説している。
つまり、県議会事務局は株式社会の社長の見解をうのみにし、それを坂本議長に伝え、議長もそれを頼りに発言しているに過ぎない。
刑事訴訟法は第239条で「何人(なんぴと)でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる」と規定しており、その「何人」には法人格のない団体も含まれると考える解釈の方が有力なのだ。
だからこそ、法人格のない市民オンブズマン山形県会議でも野川氏を告発することができるのであり、必要なら私が主宰する地域おこしの小さなNPO「ブナの森」として告発することも可能なのだ。
「議会が法制度上、告発できるかどうか」は刑事訴訟法の解釈の問題であり、『100条調査ハンドブック』は「できない」という一つの解釈を示しているに過ぎない。坂本議長にも県議会事務局にも「もっとしっかり調べてから発言すべきだ」と言いたい。
百歩譲って、『ハンドブック』の解釈が正しいとしても、先に書いたように議会には「各会派の代表者の連名で告発する」という方法もある。議長が議会各派の了承を得て議長個人として告発する道もある。「法制度上、できない」という表現は誤りであり、報道陣を惑わすものだ。要するに「告発したくないんです」と言っているに過ぎない。

吉村知事の対応もお粗末きわまりない。政務活動費の問題は「一義的には議会の問題」と主張して逃げ切ろうとしている。「議会の問題」であることは間違いないが、その議会がきちんと対応しないなら、公金をだまし取られたのだから納税者の代表として知事が告訴するのは当然のことではないか。
それを「すでに社会的制裁を受けている」とか「過去に遡って全額返還する意思も示している」などと言って逃げようとするのはおかしい。1月12日の記者会見では、報道陣の追及にたまりかねたのか「さらに一歩進めて、息の根を止めるようなところまでやるのかというようなことも、ちょっと私としてはそこまでは・・」と口走った。
驚くべき発言である。法律に基づいて知事として為すべきことを「息の根を止める行為」と表現するとは。情報公開の不開示訴訟で知事を相手に争った際にも感じたことだが、この人は「法の支配の重要さ」あるいは「政治倫理の向上」といった問題についてまるで無頓着だ。知事としての適性を疑いたくなる発言である。
ともあれ、知事も県議会議長も当然為すべきことをしないのであれば、市民オンブズマン山形県会議としては「市民としての義務」を粛々と果たすしかない。みんなボランティアとして無報酬で働いており、もっと建設的なことをしたいのは山々だが、そうも言っていられない。やむなく、1月14日に山形地方検察庁に告発状を提出した。告発状は、市民オンブズマン県会議という団体として提出し、さらにメンバー4人も個人として名を連ねた。
告発するには「動かぬ証拠」が必要である。野川氏が作成して県議会議長に提出した政務活動費の収支報告関係文書のうち、保存期間が過ぎたものはすでに廃棄されていて無い。従って、関係文書が残っている2015年度以降の人件費の不正に絞って告発した。
詐欺罪の公訴時効は7年であり、それ以前の罪を問うことはできない。また、事務所費や事務費についても不正があることは明白だが、どのような罪に当たるかは難しいところだ。ゆえに、告発状ではそうしたことについては検察側に判断をゆだねた。
あとは、山形地検が県警と連携しながら適切な捜査を積み重ね、きちんと起訴するのを待つしかない。万が一、このような悪質、破廉恥な詐欺行為について、検察が「不起訴」あるいは「起訴猶予」などという不真面目な決定をしたならば、オンブズマンとして今度は検察を相手に法的な手段に訴えて闘わざるを得なくなる。
検察庁は「我々は、その重責を深く自覚し、常に公正誠実に、熱意を持って職務に取り組まなければならない」との理念を掲げている。そういう人たちがよもや、自分たちの理念に反するようなことはすまい、と信じたい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*初出:月刊『素晴らしい山形』2022年2月号
≪写真説明&Source≫
◎2017年1月の全国都道府県議会議長会の総会で挨拶する野川政文氏(同議長会のサイトから)
http://www.gichokai.gr.jp/topics/2016/170120-2/index.html
◎2021年11月、報道陣の質問に答える坂本貴美雄議長(NHKのサイトから)
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/71511.html
◎山形の名産品ラ・フランスを手に首相官邸で安倍晋三氏と写真に納まる吉村美栄子知事(2016年11月28日)。この写真は山形県政記者クラブの加盟各社に配布された
被差別部落とは何か。そのルーツはどこにあるのか。明治生まれの在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は生涯かけて、それを追い続けた。
山哉がすごいのは、その探求を書斎にこもって行ったのではなく、実際に自分の足で全国の被差別部落を訪ね歩き、人々の言葉に耳を傾けて考え抜き、公表していったことだ。

大正時代から昭和の戦前戦後を通して、彼が半世紀かけて訪ねた被差別部落の数は700を上回る。並行して古事記や日本書紀などの史書や古文書類に、可能な限り目を通している。その研究は質、量ともに群を抜いている。
もちろん、山哉よりも先に被差別部落の歴史をたどる書籍を出した人はいた。柳瀬頸介の『社会外の社会 穢多(えた)非人』(1901年)と京都帝大の歴史学者、喜田貞吉教授が主宰する研究誌『民族と歴史』特殊部落研究号(1919年)である。被差別部落の解放を目指して全国水平社が結成されて2年たった1924年には、高橋貞樹が『特殊部落一千年史』という啓蒙書を出版している。
ただ、それぞれ優れた研究ではあったものの、難点があった。3人とも、古代律令国家の頃から賎民制度があり、奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷がいて、囚われの身となった東北の蝦夷(えみし)が賎民にされたことは承知しており、書籍で触れてもいる。
だが、そうした古代の賎民制度が江戸時代の穢多・非人へと連綿とつながっている、とは見なさなかった。貴族政治から武家政治へと激変した平安から鎌倉時代への移行、さらに戦国時代の下剋上によって社会の階層は流動化し、いわゆる「穢多・非人」は江戸時代に身分制度が固定される中で新たに生み出されたもの、と唱えたのだ。
それをもっとも明確に主張したのは喜田貞吉である。『民族と歴史』特殊部落研究号に喜田は次のように記した。

「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の坂上田村麻呂も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「もともと武士には蝦夷すなわちエビス出身者が多かったから、『徒然草』などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを『夷(えびす)』と云っております。鎌倉武士の事を『東夷(あずまえびす)』と云っております」
「世人が特に彼らをひどく賤(いや)しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
戦後定説となる「被差別部落=近世政治起源説」の原型とも言える学説である。喜田はこれを皇国史観に立って唱えたのだが、「同じ日本人なのになぜ差別する」と憤る水平社の人々にとっても、運動の基盤として好ましい学説だった。
菊池山哉はこうした中で、1927年(昭和2年)に『先住民族と賎民族の研究』を出版し、「エタはエッタがなまったもので我が国の先住民族である」「投降、帰順した東北の蝦夷(えみし)は西日本に移送され、賎民として扱われた」と唱えた。喜田の学説を真っ向から否定したのである。
インドのカースト差別がそうであるように、征服した民族が被征服民族を賎民に落とし込んでいくのは世界各地で見られることである。そうした観点から考えれば、山哉の立論は自然であり、説得力がある。
だが、山哉は当時、在野の無名の郷土史家で、相手は帝大の教授である。山哉の主張はまるで相手にされず、黙殺された。
◇ ◇
戦後も山哉の学説に目を向ける研究者は現れない。水平社の運動を引き継いで再出発した部落解放同盟も相手にしなかった。
それでも、山哉はめげなかった。全国の被差別部落をめぐる「巡礼」のような調査行を半世紀にわたって続け、その成果を亡くなる直前、1966年に大著『別所と特殊部落の研究』にまとめて出版した(1990年代に『特殊部落の研究』『別所と俘囚』の2冊に分けて復刻された)。
踏査を重ねた末に山哉がたどり着いた結論は?東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる?西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸(しゅこ)」「別所」の四つに大別できる?別所とは東北の蝦夷を俘囚(ふしゅう)として移送したところである、というものだった。
山哉がとりわけ力を注いだのが「別所」と呼ばれる部落の調査である。例えば、京都郊外の大原にある別所について、次のように記している(原文は読みにくいため筆者が要約)。
「ここには今は廃寺となった補陀落寺というのがある。『東鑑(あずまかがみ)』によれば、この寺に観音像があったが、奥州平泉の藤原基衡(もとひら)はこの観音像を模したものを作らせ、毛越(もうつう)寺の吉祥堂の本尊にしたという。この寺が奥州と密接な関係にあったことを裏書きするものだ」(『別所と俘囚』165ページ)
近世政治起源説の最大の弱点は、「被差別部落が豊臣政権から徳川政権への移行期に身分制度が固まるにつれて形成された」とするなら、「なぜ東北には部落がほとんどないのか」という問いに答えられない、という点にある。
山哉が説くように「大和朝廷側が古代東北の蝦夷を攻め、投降・帰順した者を移送したところが別所であり、被差別部落になった」のであれば、問いへの答えとして納得がいく。
もちろん、数は極端に少ないが、東北にも別所という地名はあり、被差別部落がある。表は、被差別部落の都道府県別の数と人口(1921年、内務省統計)を一覧表にしたものである。福島に6,山形に4,青森に1となっている。

山哉はこれらの被差別部落も一つひとつ調べている。そして、東北の被差別部落のほとんどは江戸時代に国替えになった大名が前任地から引き連れてきたものであることを明らかにした。古代からその土地にあったと考えられる被差別部落は、福島県南部の部落一つだけだった。
◇ ◇
天皇の陵墓に配置され、警護と維持管理にあたる「守戸」についての記述も興味深い。これは東日本にはなく、西日本、とりわけ畿内に集中している。
奈良盆地に「神武天皇陵の守戸をつとめてきた」という被差別部落があった。この部落の人たちは少なくとも持統天皇(7世紀末)の時代から代々、尾根筋にある陵墓を守ってきたが、明治2年(1869年)に新政府がこの人たちに何の相談もなく、平地にある小さな古墳を「神武天皇の陵墓である」と認定してしまった。「そこは違う」と思っても、口に出すことはできなかったという。
古代の天皇陵については、幕末から明治維新にかけての混乱期にあたふたと認定作業を進めたこともあって、「陵墓の治定の誤りが多数ある」とされる。このため、考古学者は発掘調査を望んできたが、宮内庁は戦後も長い間「静安と尊厳を保つのが本義」と調査を拒んできた。大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産に登録される動きが出る中で、2018年にようやくこれらの古墳の調査を認めたが、ほかの古墳群の調査が認められる見通しは立っていない。
山哉の調査は、そうした天皇陵の治定の誤りを被差別部落の側から照らし出している可能性がある。
自ら足を運び、人々の話にひたすら耳を傾ける。そうやって得た事実を愚直に記録する。それを基に仮説を組み立てていく――山哉が書き残したものは「学者たちが古文書から導き出した立論」などより、はるかに迫力があり、示唆に富む。
彼の著作は民俗学の枠にとどまらず、古代史や考古学にとっても「探求の素材の宝庫」であり、やがては被差別部落の歴史を考えるための古典になっていくのではないか。
(敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年1月28日
https://news-hunter.org/?p=10695
≪写真&表の説明とSource≫
◎山城、近江の別所分布図(菊池山哉『別所と俘囚』から複写、トリミング)
◎喜田貞吉・京都帝大教授(東北大学関係写真データベースから)
http://webdb3.museum.tohoku.ac.jp/tua-photo/photo-img-l.php?mode=i&id=C012811
◎都道府県別の被差別部落の数と人数(1921年、内務省統計)=『部落史入門』から複写
≪参考文献≫
◎『えた非人 社会外の社会』(柳瀬頸介著、塩見鮮一郎訳、河出書房新社)
=『社会外の社会 穢多非人』を改題、復刻
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)
=『民族と歴史』特殊部落研究号から喜田の論文を編集、復刻
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
=『特殊部落一千年史』を改題
◎『部落史入門』(塩見鮮一郎、河出文庫)
◎『特殊部落の研究』(菊池山哉、批評社)
◎『別所と俘囚』(菊池山哉、批評社)
◎『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(前田速夫、晶文社)
山哉がすごいのは、その探求を書斎にこもって行ったのではなく、実際に自分の足で全国の被差別部落を訪ね歩き、人々の言葉に耳を傾けて考え抜き、公表していったことだ。

大正時代から昭和の戦前戦後を通して、彼が半世紀かけて訪ねた被差別部落の数は700を上回る。並行して古事記や日本書紀などの史書や古文書類に、可能な限り目を通している。その研究は質、量ともに群を抜いている。
もちろん、山哉よりも先に被差別部落の歴史をたどる書籍を出した人はいた。柳瀬頸介の『社会外の社会 穢多(えた)非人』(1901年)と京都帝大の歴史学者、喜田貞吉教授が主宰する研究誌『民族と歴史』特殊部落研究号(1919年)である。被差別部落の解放を目指して全国水平社が結成されて2年たった1924年には、高橋貞樹が『特殊部落一千年史』という啓蒙書を出版している。
ただ、それぞれ優れた研究ではあったものの、難点があった。3人とも、古代律令国家の頃から賎民制度があり、奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷がいて、囚われの身となった東北の蝦夷(えみし)が賎民にされたことは承知しており、書籍で触れてもいる。
だが、そうした古代の賎民制度が江戸時代の穢多・非人へと連綿とつながっている、とは見なさなかった。貴族政治から武家政治へと激変した平安から鎌倉時代への移行、さらに戦国時代の下剋上によって社会の階層は流動化し、いわゆる「穢多・非人」は江戸時代に身分制度が固定される中で新たに生み出されたもの、と唱えたのだ。
それをもっとも明確に主張したのは喜田貞吉である。『民族と歴史』特殊部落研究号に喜田は次のように記した。

「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の坂上田村麻呂も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「もともと武士には蝦夷すなわちエビス出身者が多かったから、『徒然草』などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを『夷(えびす)』と云っております。鎌倉武士の事を『東夷(あずまえびす)』と云っております」
「世人が特に彼らをひどく賤(いや)しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
戦後定説となる「被差別部落=近世政治起源説」の原型とも言える学説である。喜田はこれを皇国史観に立って唱えたのだが、「同じ日本人なのになぜ差別する」と憤る水平社の人々にとっても、運動の基盤として好ましい学説だった。
菊池山哉はこうした中で、1927年(昭和2年)に『先住民族と賎民族の研究』を出版し、「エタはエッタがなまったもので我が国の先住民族である」「投降、帰順した東北の蝦夷(えみし)は西日本に移送され、賎民として扱われた」と唱えた。喜田の学説を真っ向から否定したのである。
インドのカースト差別がそうであるように、征服した民族が被征服民族を賎民に落とし込んでいくのは世界各地で見られることである。そうした観点から考えれば、山哉の立論は自然であり、説得力がある。
だが、山哉は当時、在野の無名の郷土史家で、相手は帝大の教授である。山哉の主張はまるで相手にされず、黙殺された。
◇ ◇
戦後も山哉の学説に目を向ける研究者は現れない。水平社の運動を引き継いで再出発した部落解放同盟も相手にしなかった。
それでも、山哉はめげなかった。全国の被差別部落をめぐる「巡礼」のような調査行を半世紀にわたって続け、その成果を亡くなる直前、1966年に大著『別所と特殊部落の研究』にまとめて出版した(1990年代に『特殊部落の研究』『別所と俘囚』の2冊に分けて復刻された)。
踏査を重ねた末に山哉がたどり着いた結論は?東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる?西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸(しゅこ)」「別所」の四つに大別できる?別所とは東北の蝦夷を俘囚(ふしゅう)として移送したところである、というものだった。
山哉がとりわけ力を注いだのが「別所」と呼ばれる部落の調査である。例えば、京都郊外の大原にある別所について、次のように記している(原文は読みにくいため筆者が要約)。
「ここには今は廃寺となった補陀落寺というのがある。『東鑑(あずまかがみ)』によれば、この寺に観音像があったが、奥州平泉の藤原基衡(もとひら)はこの観音像を模したものを作らせ、毛越(もうつう)寺の吉祥堂の本尊にしたという。この寺が奥州と密接な関係にあったことを裏書きするものだ」(『別所と俘囚』165ページ)
近世政治起源説の最大の弱点は、「被差別部落が豊臣政権から徳川政権への移行期に身分制度が固まるにつれて形成された」とするなら、「なぜ東北には部落がほとんどないのか」という問いに答えられない、という点にある。
山哉が説くように「大和朝廷側が古代東北の蝦夷を攻め、投降・帰順した者を移送したところが別所であり、被差別部落になった」のであれば、問いへの答えとして納得がいく。
もちろん、数は極端に少ないが、東北にも別所という地名はあり、被差別部落がある。表は、被差別部落の都道府県別の数と人口(1921年、内務省統計)を一覧表にしたものである。福島に6,山形に4,青森に1となっている。

山哉はこれらの被差別部落も一つひとつ調べている。そして、東北の被差別部落のほとんどは江戸時代に国替えになった大名が前任地から引き連れてきたものであることを明らかにした。古代からその土地にあったと考えられる被差別部落は、福島県南部の部落一つだけだった。
◇ ◇
天皇の陵墓に配置され、警護と維持管理にあたる「守戸」についての記述も興味深い。これは東日本にはなく、西日本、とりわけ畿内に集中している。
奈良盆地に「神武天皇陵の守戸をつとめてきた」という被差別部落があった。この部落の人たちは少なくとも持統天皇(7世紀末)の時代から代々、尾根筋にある陵墓を守ってきたが、明治2年(1869年)に新政府がこの人たちに何の相談もなく、平地にある小さな古墳を「神武天皇の陵墓である」と認定してしまった。「そこは違う」と思っても、口に出すことはできなかったという。
古代の天皇陵については、幕末から明治維新にかけての混乱期にあたふたと認定作業を進めたこともあって、「陵墓の治定の誤りが多数ある」とされる。このため、考古学者は発掘調査を望んできたが、宮内庁は戦後も長い間「静安と尊厳を保つのが本義」と調査を拒んできた。大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産に登録される動きが出る中で、2018年にようやくこれらの古墳の調査を認めたが、ほかの古墳群の調査が認められる見通しは立っていない。
山哉の調査は、そうした天皇陵の治定の誤りを被差別部落の側から照らし出している可能性がある。
自ら足を運び、人々の話にひたすら耳を傾ける。そうやって得た事実を愚直に記録する。それを基に仮説を組み立てていく――山哉が書き残したものは「学者たちが古文書から導き出した立論」などより、はるかに迫力があり、示唆に富む。
彼の著作は民俗学の枠にとどまらず、古代史や考古学にとっても「探求の素材の宝庫」であり、やがては被差別部落の歴史を考えるための古典になっていくのではないか。
(敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年1月28日
https://news-hunter.org/?p=10695
≪写真&表の説明とSource≫
◎山城、近江の別所分布図(菊池山哉『別所と俘囚』から複写、トリミング)
◎喜田貞吉・京都帝大教授(東北大学関係写真データベースから)
http://webdb3.museum.tohoku.ac.jp/tua-photo/photo-img-l.php?mode=i&id=C012811
◎都道府県別の被差別部落の数と人数(1921年、内務省統計)=『部落史入門』から複写
≪参考文献≫
◎『えた非人 社会外の社会』(柳瀬頸介著、塩見鮮一郎訳、河出書房新社)
=『社会外の社会 穢多非人』を改題、復刻
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)
=『民族と歴史』特殊部落研究号から喜田の論文を編集、復刻
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
=『特殊部落一千年史』を改題
◎『部落史入門』(塩見鮮一郎、河出文庫)
◎『特殊部落の研究』(菊池山哉、批評社)
◎『別所と俘囚』(菊池山哉、批評社)
◎『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(前田速夫、晶文社)
歴史は勝者によって綴られる。敗れ去った者たちの声が記されることは、ほとんどない。敗者の姿は歴史の闇の中に消えていく。
大昔、私たちが住む東北には蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが暮らしていた。その東北に、畿内で成立した大和政権の勢力が本格的に進出してくるのは古墳時代の末期、7世紀からである。

大和の勢力は北関東と越後の2方面から北上していった。8世紀、奈良時代になると、陸奥(福島、宮城、岩手)や出羽(山形、秋田)に「城柵(じょうさく)」と呼ばれる行政・軍事拠点を次々に築いて支配領域を広げ、先住民である蝦夷をのみ込んでいった(図1)。
生活圏に侵入された蝦夷との間に軋轢が生じ、争いになるのは避けられないことだった。奈良時代末期から平安時代の初期にかけて、「38年戦争」が勃発する。それは長く、激しい戦いだった。
戦争はどのようにして始まり、どのような経過をたどり、どう決着したのか。それを知るためには、大和政権側が残した古事記や日本書紀、続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(こうき)といった正史や関連史料をひも解くしかない。蝦夷は文字を持たず、記録するすべがなかったからである。
それでも、大和政権側の史書を丹念に読み込み、そこから蝦夷たちが歩んだ道をたどろうとした研究者がいた。岩手大学の古代日本史研究者、高橋崇(たかし)教授(2014年没)である。
それは労多くして実り少ない、落穂拾いのような作業ではあったが、その労苦は中公新書の3部作『蝦夷(えみし)』『蝦夷の末裔』『奥州藤原氏』として結実した。深くこうべを垂れずにはいられない労作である。高橋が残した著作を頼りに、揺れ動いた古代東北の歴史をたどってみる。
◇ ◇
蝦夷とは、どういう人たちだったのか。それを知る手がかりの一つが『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)の条にある。この年、大和朝廷が中国の唐に派遣した使節団は東北の蝦夷男女2人を同行させ、唐の高宗に謁見した。遣唐使の渡航日誌によれば、高宗は強い関心を示し、次のような問答が交わされたという(問答の概要を筆者が現代語訳)。
高宗 蝦夷の国はどの方角にあるのか。
遣唐使 東北です。
高宗 蝦夷は幾種あるのか。
遣唐使 3種あります。遠くにいる者は都加留(つかる)、次の者は麁(あら)蝦夷、
近くにいる者を熟(にぎ)蝦夷と名付けています。今回連れて来たのは熟蝦夷
です。毎年、大和朝廷に朝貢しています。
高宗 その国に五穀はあるか。
遣唐使 ありません。肉を食って暮らしています。
唐の高宗は、蝦夷の身体や顔つきが遣唐使たちと異なるのを見て興味津々の様子だったという。この謁見については中国側の史料にも記録されており、事実と見ていい。
都加留は青森県の津軽、麁蝦夷は岩手や秋田に住み大和朝廷に服属しない蝦夷、熟蝦夷とは東北南部にいて大和朝廷に帰順した蝦夷を指すと見られる。当時の東北の政治状況をうかがわせる問答である。
東北の蝦夷と大和勢力との争いは7世紀半ば、斉明天皇の頃から激しくなった。将軍、阿部比羅夫が軍船を率いて日本海沿岸を北上して蝦夷と戦い、投降・帰順した者多数を都に連れ帰ったことが記録されている。遣唐使が中国に連れていったのも、こうした蝦夷だったと見られる。
大和勢力が北へ進むにつれ、抗争はより激しくなっていく。774年、蝦夷が桃生(ものう)城(宮城県石巻市)を襲い、38年戦争の口火を切った。780年には大和側についていた蝦夷の族長、伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)が反旗をひるがえし、陸奥の最高責任者である紀広純らを殺害、多賀城を焼き討ちにするという大事件が発生した。
この翌年に即位した桓武天皇はこれを深刻に受けとめ、「蝦夷討伐」の号令を発した。789年、朝廷は関東などから5万余の軍を派遣し、蝦夷の拠点・胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧をめざして進軍した。
ところが、北上川を挟んでの合戦で朝廷側は胆沢の族長、阿弖流為(あてるい)が率いる蝦夷のゲリラ部隊に惨敗した。多数の溺死者と戦死者を出し、将軍たちまで逃げ出す始末だった。
桓武天皇は激怒し、2回目の討伐軍を派遣する。平安京に遷都した794年、今度は10万の大軍が胆沢に押し寄せた。激しい戦闘になったと見られるが、史料は乏しく、「457人の蝦夷を斬首し、150人を捕虜にした」との戦勝報告が残る程度である。阿弖流為は降伏せず、胆沢も陥落しなかった。
坂上田村麻呂を征夷大将軍とする801年の第3次遠征によって、ようやく蝦夷の抵抗は鎮圧され、阿弖流為らも投降、処刑された。東北一帯での蝦夷との戦争が収束したのは811年、足かけ38年に及んだ。
この戦争で注目されるのは、戦闘で捕虜になったり投降したりした蝦夷が多数、西日本の各地に移送されたことである。彼らは「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、四国の伊予に144人、九州の筑紫に578人、畿内の摂津に115人、太宰府管内に395人、日向に66人といった記録が断片的に残っている(図2参照)。家族ごと移送された例もある。総数は不明である。

朝廷はなんのために移送したのか。史書には「蝦夷の野蛮な風俗を変え、文明化するため」といった趣旨の記述もあるが、高橋は捕虜や反抗的な者たちを彼らの根拠地から連れ去り、蝦夷勢力を分断することを狙ったのではないか、との見方を示している。捕虜を賎民として扱った可能性も否定しない。
当然のことながら、移送先となった地方にとっては大きな負担となる。田を持たない彼らから租税を取り立てるわけにはいかない。集団で住まわせることによって、周辺の住民との摩擦も起きる。騒乱もしばしば起きた。
こうしたことに配慮して、朝廷は受け入れた地方に農民から「俘囚料」を取り立て、それで移送された蝦夷の面倒を見るよう命じた。高橋はこの俘囚料についても史書を丹念に調べ、その記録から逆算して、「少なくとも4565人の俘囚を養うのに相当するものだった」との推計を明らかにしている。記録として残されなかった移送も数多くあったことを考慮に入れれば、東北から移送された蝦夷の総数は万単位であったと見ていいだろう。
そもそも、蝦夷とはどういう人たちだったのか。「大和政権の支配地からの逃亡者や落伍者」といった説もあるが、説得力はない。蝦夷の言葉は日本語とはまるで異なり、大和側が交渉する際には通訳を必要とした。風俗や生活習慣もまるで異なるものだった。
アイヌ語地名の研究者として知られる山田秀三の調査によって、北海道だけでなく東北の各地にアイヌ語源と見られる地名が多数残っていることも明らかになっている。
高橋は、こうした地名研究や北海道と東北各地で発掘された土器の共通性にも着目し、蝦夷とは「アイヌ人か、あるいは控え目にいってアイヌ語を使う人、といってよいだろう」と結論づけている。
◇ ◇
西日本の各地に「俘囚」として移住させられた蝦夷たちは、その後どうなったのか。史書は何も語らない。彼らがたどった道を知るすべはない。
だが、この問題の解明にまったく異なる立場から挑んだ人物がいた。在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)(1890―1966年)である。
山哉は明治33年、東京府府中市の富農の4男として生まれた。工学院大学の前身である工手学校の土木科を卒業した後、東京府の土木技師に採用された。後に東京市役所に移った。
技師として工事に携わっている時、作業員の中に「あいつは筋が悪い」と、うとまれる者がいることに気づき、奥多摩にあるその人の村を訪ねていった。村人の話を聞いても、差別される理由は見当がつかなかった。
同じ頃、沖積層の中に分厚い貝塚がある現場に幾度か出くわし、「先史時代にこの巨大な貝塚をつくったのはどういう人たちか」との疑問を抱く。勤務のかたわら、被差別部落と古代史の研究にのめり込んでいった。在野の民俗学者、菊池山哉の誕生である。

何事であれ、現場を訪ね、自分の目で確かめる。山哉は生涯、その流儀を貫いた。全国の被差別部落を訪ね回り、そこに住む人たちの話に耳を傾け、そこから自分の仮説と理論を構築していった。
大正12年(1923年)7月、その成果を『穢多(えた)族に関する研究』と題した本にまとめ、自費出版した。「穢多・非人」と呼ばれ、差別されてきた人たちの状況を詳細に報告し、その歴史的な経緯についての自説を次のように展開した。
「エタとはエッタのなまったもので民族名である。彼らはわが国の先住民族と考えられる」「後からやって来たヤマトが彼らを駆逐した」「ヤマトに抵抗し、俘囚として移送された蝦夷は被差別民にされた」
折しも、その前年に被差別部落の人たちは「全国水平社」を立ち上げ、部落解放運動に乗り出したばかりだった。運動は「差別は豊臣政権から徳川政権の初期にかけて形成された身分制度が起源」とする、いわゆる近世政治起源説に依拠している。山哉の説はこれを真っ向から否定するものだった。
出版予告の広告を見た水平社の幹部は、融和事業を担当する内務省に「差別図書だ」と猛烈な圧力をかけた。近世政治起源説を唱える京都帝大の喜田貞吉教授らも動き、本は「安寧秩序を乱す」として発禁処分になった。直後に関東大震災に見舞われたこともあって、すぐには改訂もかなわなかった。
興味深いのはこの後である。山哉は出版をあきらめなかった。内務省の高官や水平社の幹部に会い、この本は純粋な学術書であること、差別がいわれなきものであることを世に問うものである、と訴えた。内容にも手を加えて4年後、『先住民族と賎民族の研究』と改題して出版した。
今度は応援してくれる研究者もいた。水平社の平野小剣(しょうけん)・関東執行委員長に至っては「先に糾弾したのは自分らの誤りであった。根本思想についての研究のあった方がむしろ良い」と推薦文まで寄せてくれた。
にもかかわらず、この本が市中に出回ることはなかった。中央融和事業協会がすべて買い取ってしまったからである。「部落差別は近世の政治的所産」と主張する水平社も相手にしなかった。
刺激的すぎたという点に加えて、山哉の立論自体にも難点があった。彼はこの本で、当時有力だった「東北の蝦夷はアイヌである」という説を否定し、「日本の先住民族のうちで多数を占めたのは北方ツングース系の少数民族、オロッコ(ウイルタ)である。蝦夷と呼ばれた人たちもその多くはオロッコと見られる」と唱えたのだ(戦後、調査を重ね、この部分は撤回している)。
「日本列島にはアイヌ以前に住んでいた民族がいた」という説は目新しいものではない。大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・S・モースが明治初期に最初に唱え、「プレ・アイヌ説」と呼ばれた。その後、日本の人類学の先駆者、坪井正五郎(しょうごろう)も「アイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルこそ日本の旧石器人である」と唱え、大論争を巻き起こしている。
山哉の立論はこうした論争に影響を受けたものと思われるが、それを支える材料に乏しく、荒唐無稽な印象を与えたようだ。考古学会にも民俗学者にも黙殺された。
だが、山哉は少しもひるまなかった。「多麻史談会」という郷土史研究の会(のち「東京史談会」に改称)を主宰し、全国の被差別部落を訪ね歩き、その成果を会報に発表し続けた。
戦前から戦後にかけて、四国から九州まで、山哉が訪ねた被差別部落は700を超える。車ではたどり着けない山奥の村から吊り橋を渡らなければならない村まで、気の遠くなるような行脚を重ねた。
1966年、死の直前に山哉は半世紀に及ぶ研究の集大成とも言える大著『別所と特殊部落の研究』を出版した。調べ尽くしたうえでたどり着いた結論は、次のようなものだった。
(1)東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる(2)西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸」「別所」の四つに大別できる(3)別所とは東北の蝦夷を俘囚として移送したところである。
四つのルーツそれぞれについての説明は複雑きわまりないので割愛する。重要なのは、大和政権と戦い俘囚として西に移送された蝦夷は、被差別部落民のルーツの一つである、と結論づけたことである。
著書には、全国に散在する「別所」と呼ばれる部落を訪ね、そこに住む人々から聞いた話が克明に記録してある。それは、歴史の闇に消えた人々の姿を浮かび上がらせるものだった。
被差別部落について、これほど網羅的かつ詳細に調べた研究者は、菊池山哉以外にはいない。にもかかわらず、歴史学会でも民俗学会でも、山哉の業績が正面から議論されることはなかった。
水平社の運動を引き継ぎ、戦後、部落解放同盟として再出発した人たちも無視し続けた。無視しただけではない。近世政治起源説に固執し、それ以外の幅広い視点から研究に踏み出すことができないような状況をつくり出した。
なぜ、このような状況が長く続いたのか。文芸誌の編集長をつとめ、菊池山哉の再評価に力を注ぐ前田速夫は、編著『日本原住民と被差別部落』に次のように記した。
「こうした当たり前のことを誰も言えなかったのは、私が思うに、天皇制と被差別部落は近代日本の二大ダブーだったからだろう。両者が表裏の関係にあるとは、よく言われることだが、それを突き詰めて考えた人は驚くほど少ない。(中略)賢明な学者はみな用心深くそれを避けた。山哉はそこが他のどの研究者とも違っていた」
彼の著作と業績にあらためて光が当てられるようになるのは、1990年代になってからである。山哉の大著『別所と特殊部落の研究』は、批評社から『特殊部落の研究』(1993年)と『別所と俘囚』(1996年)の2冊に分けて復刻された。先の前田の編著が出版されたのは2009年である。
私は山形大学に勤めていた2013年に山哉のことを初めて知り、その後、2018年に出版された『被差別民の起源』を手にした。この本は、大正12年に発禁処分となった山哉の最初の本『穢多族に関する研究』を改題、復刻したものである。その目次を見ただけで圧倒され、山哉が費やしたであろうエネルギーと時間を思って身が震えた。
私は長く新聞記者として働き、現場に足を運んで人の話に耳を傾け、なにがしかのものを書く仕事をしてきた。この本にはそういう職人の心を揺さぶるものがあった。前田が記すように、山哉の著作は「空前絶後の民俗探求の宝庫」である、と感じた。
同時に、イデオロギーや利害にからめとられ、愚直に事実を追い求める心を失った時、社会で何が起きるかを見せつけられた思いがした。
これほどの宝を黙殺する社会、これほどの業績に目を向けようとしないアカデミズムとは何なのか。私たちは今も、身近なところで同じような過ちと失敗を繰り返しているのではないか。そうした思いが身の震えを大きくしたのかもしれない。
救いは、ごく少数ではあっても、山哉の偉業を忘れず、それを後世に伝えるために力を尽くした人たちがいたことだ。そして、その志を引き継ぎ、広めようとする人たちがいることに勇気づけられる。
大きな歴史の流れから見れば、菊池山哉が紡いだ糸はか細いものかもしれない。けれども、それは強靭な糸である。より多くの人が自らの糸を持ち寄り、撚(よ)り合わせれば、太い糸となって豊かな輝きを放つのではないか。そう信じて、私も一本の糸を持ち寄る列に加わりたい。 (敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
【訂正】平城京から長岡京に遷都した784年、平安京に遷都した794年以降は「大和政権」や「大和朝廷」と表現するのは不適切なので、「朝廷」あるいは「朝廷側」と手直しした(2022年4月19日追記)。
*メールマガジン「風切通信 99」 2021年12月21日
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2021年12月21日
≪図・写真の説明とSource≫
◎写真 晩年の菊池山哉(家族提供)
◎図1 東北への大和政権の進出状況(『詳説 日本史』山川出版社、1982年から複写)
◎図2 蝦夷が俘囚として移送された地方(高橋崇『蝦夷』から複写)
◎写真 若き日の菊池山哉。大正2年か3年の撮影(『余多歩き 菊池山哉の人と学問』から複写)
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『奥州藤原氏』(高橋崇、中公新書)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也、吉川弘文館)
◎『東北・アイヌ語地名の研究』(山田秀三、草風館)
◎『被差別民の起源』(菊池山哉、河出書房新社)
◎『特殊部落の研究』(菊池山哉、批評社)
◎『別所と俘囚』(菊池山哉、批評社)
◎『余多歩き菊池山哉の人と学問』(前田速夫、晶文社)
◎『日本原住民と被差別部落』(前田速夫編、河出書房新社)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
大昔、私たちが住む東北には蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが暮らしていた。その東北に、畿内で成立した大和政権の勢力が本格的に進出してくるのは古墳時代の末期、7世紀からである。

大和の勢力は北関東と越後の2方面から北上していった。8世紀、奈良時代になると、陸奥(福島、宮城、岩手)や出羽(山形、秋田)に「城柵(じょうさく)」と呼ばれる行政・軍事拠点を次々に築いて支配領域を広げ、先住民である蝦夷をのみ込んでいった(図1)。
生活圏に侵入された蝦夷との間に軋轢が生じ、争いになるのは避けられないことだった。奈良時代末期から平安時代の初期にかけて、「38年戦争」が勃発する。それは長く、激しい戦いだった。
戦争はどのようにして始まり、どのような経過をたどり、どう決着したのか。それを知るためには、大和政権側が残した古事記や日本書紀、続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(こうき)といった正史や関連史料をひも解くしかない。蝦夷は文字を持たず、記録するすべがなかったからである。
それでも、大和政権側の史書を丹念に読み込み、そこから蝦夷たちが歩んだ道をたどろうとした研究者がいた。岩手大学の古代日本史研究者、高橋崇(たかし)教授(2014年没)である。
それは労多くして実り少ない、落穂拾いのような作業ではあったが、その労苦は中公新書の3部作『蝦夷(えみし)』『蝦夷の末裔』『奥州藤原氏』として結実した。深くこうべを垂れずにはいられない労作である。高橋が残した著作を頼りに、揺れ動いた古代東北の歴史をたどってみる。
◇ ◇
蝦夷とは、どういう人たちだったのか。それを知る手がかりの一つが『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)の条にある。この年、大和朝廷が中国の唐に派遣した使節団は東北の蝦夷男女2人を同行させ、唐の高宗に謁見した。遣唐使の渡航日誌によれば、高宗は強い関心を示し、次のような問答が交わされたという(問答の概要を筆者が現代語訳)。
高宗 蝦夷の国はどの方角にあるのか。
遣唐使 東北です。
高宗 蝦夷は幾種あるのか。
遣唐使 3種あります。遠くにいる者は都加留(つかる)、次の者は麁(あら)蝦夷、
近くにいる者を熟(にぎ)蝦夷と名付けています。今回連れて来たのは熟蝦夷
です。毎年、大和朝廷に朝貢しています。
高宗 その国に五穀はあるか。
遣唐使 ありません。肉を食って暮らしています。
唐の高宗は、蝦夷の身体や顔つきが遣唐使たちと異なるのを見て興味津々の様子だったという。この謁見については中国側の史料にも記録されており、事実と見ていい。
都加留は青森県の津軽、麁蝦夷は岩手や秋田に住み大和朝廷に服属しない蝦夷、熟蝦夷とは東北南部にいて大和朝廷に帰順した蝦夷を指すと見られる。当時の東北の政治状況をうかがわせる問答である。
東北の蝦夷と大和勢力との争いは7世紀半ば、斉明天皇の頃から激しくなった。将軍、阿部比羅夫が軍船を率いて日本海沿岸を北上して蝦夷と戦い、投降・帰順した者多数を都に連れ帰ったことが記録されている。遣唐使が中国に連れていったのも、こうした蝦夷だったと見られる。
大和勢力が北へ進むにつれ、抗争はより激しくなっていく。774年、蝦夷が桃生(ものう)城(宮城県石巻市)を襲い、38年戦争の口火を切った。780年には大和側についていた蝦夷の族長、伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)が反旗をひるがえし、陸奥の最高責任者である紀広純らを殺害、多賀城を焼き討ちにするという大事件が発生した。
この翌年に即位した桓武天皇はこれを深刻に受けとめ、「蝦夷討伐」の号令を発した。789年、朝廷は関東などから5万余の軍を派遣し、蝦夷の拠点・胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧をめざして進軍した。
ところが、北上川を挟んでの合戦で朝廷側は胆沢の族長、阿弖流為(あてるい)が率いる蝦夷のゲリラ部隊に惨敗した。多数の溺死者と戦死者を出し、将軍たちまで逃げ出す始末だった。
桓武天皇は激怒し、2回目の討伐軍を派遣する。平安京に遷都した794年、今度は10万の大軍が胆沢に押し寄せた。激しい戦闘になったと見られるが、史料は乏しく、「457人の蝦夷を斬首し、150人を捕虜にした」との戦勝報告が残る程度である。阿弖流為は降伏せず、胆沢も陥落しなかった。
坂上田村麻呂を征夷大将軍とする801年の第3次遠征によって、ようやく蝦夷の抵抗は鎮圧され、阿弖流為らも投降、処刑された。東北一帯での蝦夷との戦争が収束したのは811年、足かけ38年に及んだ。
この戦争で注目されるのは、戦闘で捕虜になったり投降したりした蝦夷が多数、西日本の各地に移送されたことである。彼らは「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、四国の伊予に144人、九州の筑紫に578人、畿内の摂津に115人、太宰府管内に395人、日向に66人といった記録が断片的に残っている(図2参照)。家族ごと移送された例もある。総数は不明である。

朝廷はなんのために移送したのか。史書には「蝦夷の野蛮な風俗を変え、文明化するため」といった趣旨の記述もあるが、高橋は捕虜や反抗的な者たちを彼らの根拠地から連れ去り、蝦夷勢力を分断することを狙ったのではないか、との見方を示している。捕虜を賎民として扱った可能性も否定しない。
当然のことながら、移送先となった地方にとっては大きな負担となる。田を持たない彼らから租税を取り立てるわけにはいかない。集団で住まわせることによって、周辺の住民との摩擦も起きる。騒乱もしばしば起きた。
こうしたことに配慮して、朝廷は受け入れた地方に農民から「俘囚料」を取り立て、それで移送された蝦夷の面倒を見るよう命じた。高橋はこの俘囚料についても史書を丹念に調べ、その記録から逆算して、「少なくとも4565人の俘囚を養うのに相当するものだった」との推計を明らかにしている。記録として残されなかった移送も数多くあったことを考慮に入れれば、東北から移送された蝦夷の総数は万単位であったと見ていいだろう。
そもそも、蝦夷とはどういう人たちだったのか。「大和政権の支配地からの逃亡者や落伍者」といった説もあるが、説得力はない。蝦夷の言葉は日本語とはまるで異なり、大和側が交渉する際には通訳を必要とした。風俗や生活習慣もまるで異なるものだった。
アイヌ語地名の研究者として知られる山田秀三の調査によって、北海道だけでなく東北の各地にアイヌ語源と見られる地名が多数残っていることも明らかになっている。
高橋は、こうした地名研究や北海道と東北各地で発掘された土器の共通性にも着目し、蝦夷とは「アイヌ人か、あるいは控え目にいってアイヌ語を使う人、といってよいだろう」と結論づけている。
◇ ◇
西日本の各地に「俘囚」として移住させられた蝦夷たちは、その後どうなったのか。史書は何も語らない。彼らがたどった道を知るすべはない。
だが、この問題の解明にまったく異なる立場から挑んだ人物がいた。在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)(1890―1966年)である。
山哉は明治33年、東京府府中市の富農の4男として生まれた。工学院大学の前身である工手学校の土木科を卒業した後、東京府の土木技師に採用された。後に東京市役所に移った。
技師として工事に携わっている時、作業員の中に「あいつは筋が悪い」と、うとまれる者がいることに気づき、奥多摩にあるその人の村を訪ねていった。村人の話を聞いても、差別される理由は見当がつかなかった。
同じ頃、沖積層の中に分厚い貝塚がある現場に幾度か出くわし、「先史時代にこの巨大な貝塚をつくったのはどういう人たちか」との疑問を抱く。勤務のかたわら、被差別部落と古代史の研究にのめり込んでいった。在野の民俗学者、菊池山哉の誕生である。

何事であれ、現場を訪ね、自分の目で確かめる。山哉は生涯、その流儀を貫いた。全国の被差別部落を訪ね回り、そこに住む人たちの話に耳を傾け、そこから自分の仮説と理論を構築していった。
大正12年(1923年)7月、その成果を『穢多(えた)族に関する研究』と題した本にまとめ、自費出版した。「穢多・非人」と呼ばれ、差別されてきた人たちの状況を詳細に報告し、その歴史的な経緯についての自説を次のように展開した。
「エタとはエッタのなまったもので民族名である。彼らはわが国の先住民族と考えられる」「後からやって来たヤマトが彼らを駆逐した」「ヤマトに抵抗し、俘囚として移送された蝦夷は被差別民にされた」
折しも、その前年に被差別部落の人たちは「全国水平社」を立ち上げ、部落解放運動に乗り出したばかりだった。運動は「差別は豊臣政権から徳川政権の初期にかけて形成された身分制度が起源」とする、いわゆる近世政治起源説に依拠している。山哉の説はこれを真っ向から否定するものだった。
出版予告の広告を見た水平社の幹部は、融和事業を担当する内務省に「差別図書だ」と猛烈な圧力をかけた。近世政治起源説を唱える京都帝大の喜田貞吉教授らも動き、本は「安寧秩序を乱す」として発禁処分になった。直後に関東大震災に見舞われたこともあって、すぐには改訂もかなわなかった。
興味深いのはこの後である。山哉は出版をあきらめなかった。内務省の高官や水平社の幹部に会い、この本は純粋な学術書であること、差別がいわれなきものであることを世に問うものである、と訴えた。内容にも手を加えて4年後、『先住民族と賎民族の研究』と改題して出版した。
今度は応援してくれる研究者もいた。水平社の平野小剣(しょうけん)・関東執行委員長に至っては「先に糾弾したのは自分らの誤りであった。根本思想についての研究のあった方がむしろ良い」と推薦文まで寄せてくれた。
にもかかわらず、この本が市中に出回ることはなかった。中央融和事業協会がすべて買い取ってしまったからである。「部落差別は近世の政治的所産」と主張する水平社も相手にしなかった。
刺激的すぎたという点に加えて、山哉の立論自体にも難点があった。彼はこの本で、当時有力だった「東北の蝦夷はアイヌである」という説を否定し、「日本の先住民族のうちで多数を占めたのは北方ツングース系の少数民族、オロッコ(ウイルタ)である。蝦夷と呼ばれた人たちもその多くはオロッコと見られる」と唱えたのだ(戦後、調査を重ね、この部分は撤回している)。
「日本列島にはアイヌ以前に住んでいた民族がいた」という説は目新しいものではない。大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・S・モースが明治初期に最初に唱え、「プレ・アイヌ説」と呼ばれた。その後、日本の人類学の先駆者、坪井正五郎(しょうごろう)も「アイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルこそ日本の旧石器人である」と唱え、大論争を巻き起こしている。
山哉の立論はこうした論争に影響を受けたものと思われるが、それを支える材料に乏しく、荒唐無稽な印象を与えたようだ。考古学会にも民俗学者にも黙殺された。
だが、山哉は少しもひるまなかった。「多麻史談会」という郷土史研究の会(のち「東京史談会」に改称)を主宰し、全国の被差別部落を訪ね歩き、その成果を会報に発表し続けた。
戦前から戦後にかけて、四国から九州まで、山哉が訪ねた被差別部落は700を超える。車ではたどり着けない山奥の村から吊り橋を渡らなければならない村まで、気の遠くなるような行脚を重ねた。
1966年、死の直前に山哉は半世紀に及ぶ研究の集大成とも言える大著『別所と特殊部落の研究』を出版した。調べ尽くしたうえでたどり着いた結論は、次のようなものだった。
(1)東日本と西日本では被差別部落のルーツが異なる(2)西日本、とくに近畿の部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸」「別所」の四つに大別できる(3)別所とは東北の蝦夷を俘囚として移送したところである。
四つのルーツそれぞれについての説明は複雑きわまりないので割愛する。重要なのは、大和政権と戦い俘囚として西に移送された蝦夷は、被差別部落民のルーツの一つである、と結論づけたことである。
著書には、全国に散在する「別所」と呼ばれる部落を訪ね、そこに住む人々から聞いた話が克明に記録してある。それは、歴史の闇に消えた人々の姿を浮かび上がらせるものだった。
被差別部落について、これほど網羅的かつ詳細に調べた研究者は、菊池山哉以外にはいない。にもかかわらず、歴史学会でも民俗学会でも、山哉の業績が正面から議論されることはなかった。
水平社の運動を引き継ぎ、戦後、部落解放同盟として再出発した人たちも無視し続けた。無視しただけではない。近世政治起源説に固執し、それ以外の幅広い視点から研究に踏み出すことができないような状況をつくり出した。
なぜ、このような状況が長く続いたのか。文芸誌の編集長をつとめ、菊池山哉の再評価に力を注ぐ前田速夫は、編著『日本原住民と被差別部落』に次のように記した。
「こうした当たり前のことを誰も言えなかったのは、私が思うに、天皇制と被差別部落は近代日本の二大ダブーだったからだろう。両者が表裏の関係にあるとは、よく言われることだが、それを突き詰めて考えた人は驚くほど少ない。(中略)賢明な学者はみな用心深くそれを避けた。山哉はそこが他のどの研究者とも違っていた」
彼の著作と業績にあらためて光が当てられるようになるのは、1990年代になってからである。山哉の大著『別所と特殊部落の研究』は、批評社から『特殊部落の研究』(1993年)と『別所と俘囚』(1996年)の2冊に分けて復刻された。先の前田の編著が出版されたのは2009年である。
私は山形大学に勤めていた2013年に山哉のことを初めて知り、その後、2018年に出版された『被差別民の起源』を手にした。この本は、大正12年に発禁処分となった山哉の最初の本『穢多族に関する研究』を改題、復刻したものである。その目次を見ただけで圧倒され、山哉が費やしたであろうエネルギーと時間を思って身が震えた。
私は長く新聞記者として働き、現場に足を運んで人の話に耳を傾け、なにがしかのものを書く仕事をしてきた。この本にはそういう職人の心を揺さぶるものがあった。前田が記すように、山哉の著作は「空前絶後の民俗探求の宝庫」である、と感じた。
同時に、イデオロギーや利害にからめとられ、愚直に事実を追い求める心を失った時、社会で何が起きるかを見せつけられた思いがした。
これほどの宝を黙殺する社会、これほどの業績に目を向けようとしないアカデミズムとは何なのか。私たちは今も、身近なところで同じような過ちと失敗を繰り返しているのではないか。そうした思いが身の震えを大きくしたのかもしれない。
救いは、ごく少数ではあっても、山哉の偉業を忘れず、それを後世に伝えるために力を尽くした人たちがいたことだ。そして、その志を引き継ぎ、広めようとする人たちがいることに勇気づけられる。
大きな歴史の流れから見れば、菊池山哉が紡いだ糸はか細いものかもしれない。けれども、それは強靭な糸である。より多くの人が自らの糸を持ち寄り、撚(よ)り合わせれば、太い糸となって豊かな輝きを放つのではないか。そう信じて、私も一本の糸を持ち寄る列に加わりたい。 (敬称略)
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
【訂正】平城京から長岡京に遷都した784年、平安京に遷都した794年以降は「大和政権」や「大和朝廷」と表現するのは不適切なので、「朝廷」あるいは「朝廷側」と手直しした(2022年4月19日追記)。
*メールマガジン「風切通信 99」 2021年12月21日
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2021年12月21日
≪図・写真の説明とSource≫
◎写真 晩年の菊池山哉(家族提供)
◎図1 東北への大和政権の進出状況(『詳説 日本史』山川出版社、1982年から複写)
◎図2 蝦夷が俘囚として移送された地方(高橋崇『蝦夷』から複写)
◎写真 若き日の菊池山哉。大正2年か3年の撮影(『余多歩き 菊池山哉の人と学問』から複写)
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『奥州藤原氏』(高橋崇、中公新書)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也、吉川弘文館)
◎『東北・アイヌ語地名の研究』(山田秀三、草風館)
◎『被差別民の起源』(菊池山哉、河出書房新社)
◎『特殊部落の研究』(菊池山哉、批評社)
◎『別所と俘囚』(菊池山哉、批評社)
◎『余多歩き菊池山哉の人と学問』(前田速夫、晶文社)
◎『日本原住民と被差別部落』(前田速夫編、河出書房新社)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
政務活動費の不正受給と聞けば、多くの人は兵庫県の「号泣県議」こと、野々村竜太郎県議のことを思い浮かべるのではないだろうか。

不正が発覚したのは2014年である。ものすごい数のカラ出張を繰り返す。切手を大量に購入して換金する。そうした手法で政務活動費として使ったことにして公金をだまし取っていた。その年の7月には記者会見中に泣きじゃくり、その異様な姿は海外でも報じられた。
野々村氏は兵庫県議会の各会派代表の連名で刑事告発された。翌2015年8月に913万円を詐取したとして詐欺および虚偽公文書作成・同行使容疑で在宅起訴され、2016年7月に懲役3年、執行猶予4年の神戸地裁判決が確定した。
一連の騒ぎの間、山形県議の野川政文氏は勤務実態のない女性事務員を雇用したと偽り、人件費として毎月8万円を計上し、公金をだまし取っていた。年額96万円になる(後に2008年から続けていたことが判明)。
野々村氏の判決が確定した後、2016年9月には山形県内でも阿部賢一県議の政務活動費の不正受給が明るみに出た。山形新聞がスクープしたもので、会合費や事務費をごまかしていた。阿部県議は辞職し、県議会事務局によると最終的に663万円を返納した。
野川氏はこの時、山形県議会議長で「阿部県議の刑事告発を検討する」と表明している(民進党や社民党県議らでつくる県政クラブが反対して告発はされなかった)。おまけに野川氏は全国都道府県議会議長会の会長でもあった。2016年10月中旬には、全国議長会の会長として自民党との政策懇談会に出席し、要望事項を伝えたりしている。

にもかかわらず、その後も素知らぬ顔で架空の人件費を計上し、公金をだまし取っていた。よくそんなことが続けられたものだと思う。
◇ ◇
野川氏の長年の悪事が露見したのは11月4日である。NHK山形放送局が朝のニュースで特ダネとして報じ、新聞・テレビ各社が追いかけた。
市民オンブズマン山形県会議も報道の裏付けに走り、信頼できる筋から「本人は不正を認め、辞職する意向と聞いている」との情報を得た。その日の夕方には県政記者クラブで緊急会見を開き、「刑事告発も検討する」と表明した。
山形県に限らず、市民オンブズマンは全国で議員の政務活動費の不正を追及してきた。監査請求を繰り返し、撥(は)ねつけられると、裁判に訴えて不正をただそうとしてきた。「政務活動費の収支報告書や領収書類をインターネットで公開し、その内容をガラス張りにすべきだ」と提言もしている。
だが、山形県議会はこの間、ほとんど何の努力もしてこなかった。一方、足もとの山形市議会では、議長がリーダーシップを発揮して領収書のインターネット公開など次々に改善策を打ち出した。
その結果、全国市民オンブズマン連絡会議が毎年公表している「政務活動費の情報公開度ランキング」で、山形市議会は2019年の「中核市の議会でビリから3番目」から今年は「全国2位」(1位は函館市議会)へと大躍進した。改革どころか何もしない山形県議会は毎年、ズルズルと順位を下げ、今年は29位まで落ちた。その挙げ句に、県議会議長経験者の不正である。山形のオンブズマンが怒るのは当然ではないか。
不正受給が発覚すると、野川氏は2日後の6日に県議会の坂本貴美雄議長に辞職願を出し、身を引いた。15日には山形市内のレンタル会議場で記者会見を開き、人件費の架空計上が2008年度からの13年間で総額1248万円に上ることを明らかにした。
記者会見では、自宅の一部を事務所として使い、その電気代や水道代、灯油代などでも不適切な支出があるのではないかと追及され、否定しなかった。不正は人件費の架空請求にとどまらず、総額は有罪判決を受けた野々村氏のそれをかなり上回る。
不可解なのは、その後の山形県議会と山形県当局の対応である。坂本議長は「個人のモラルの問題」とし、刑事告発については「考えていない」と述べた。あきれる。「モラルの問題」であると同時に、政務活動費の制度と運用が問われているのだ。
坂本議長は「県議会には法人格がない。議会としての告発は法制度上できない」とも述べた。議会に「法人格」がないことくらい言われなくても分かっている。ならば、議会を代表して議長として、あるいは兵庫県議会のように各会派代表の連名で告発すればいいのだ。
公金詐取の被害者は納税者であり、それを代表すべきは県知事である。こちらは告発ではなく、告訴すべき立場にある。ところが、山形県の吉村美栄子知事は記者会見で対応を問われると、「一義的には議会が対応すべきこと。議会の独立性、自主性を尊重したい」と述べた。この発言だけ聞けば、もっともらしい。
だが、吉村知事は今年3月、若松正俊副知事の再任人事案が県議会で否決されるや、若松氏を議会の同意がいらない非常勤特別職に任命して続投させた。議会をこけにする暴挙である。なのに、こういう時は「議会を尊重する」と言って逃げようとする。つくづく、いい加減な政治家である。
ことは巨額の詐欺事件である。本人も詐取したことを認めている。血税をだまし取った人間がいるなら、納税者の代表として知事が告訴するのは当然のことであり、責務であると言ってもいい。
野川氏は会見で「(詐取した金を)私的には使っていない」と繰り返した。それを見出しに取った愚かな新聞もあるが、だまし取った金をどう使ったかは詐欺罪の立件には関係がない。刑の言い渡しに際して「情状酌量の材料の一つ」になるに過ぎない。
一般人が一般人から金をだまし取る詐欺でも罪は重い。ましてや、政務活動費が適切に使われるようにする責任を負う県議会の議長経験者が公金をだまし取ったのである。議会が告発し、知事が告訴するのは当然ではないか。
知事や議会のこうした対応を見ていると、この人たちは「不正を知っても、こっそりと処理して闇に葬ってしまおうとしていたのではないか」と疑ってしまう。
あらためて、報道の大切さを思う。悪いことは悪い。許されないことは許してはならない。政治や行政をしっかり監視して不正を暴くのは、報道機関の重要な役割の一つである。
警察や検察がお目こぼしをしようとしても、それが納税者のためにならないなら、見過ごしてはならない。真相の解明に果敢に挑み、人々に伝えなければならない。日々の出来事の報道ももちろん大切なことだが、やはり「スクーブ」こそ、報道の要と言うべきだろう。
長岡 昇( NPO「ブナの森」 代表)
*メールマガジン「風切通信 98」 2021年11月27日
*この文章は、月刊『素晴らしい山形』2021年12月号に寄稿したコラムを手直しし、加筆したものです。
≪写真説明&Source≫
◎記者会見で号泣する野々村竜太郎県議
https://looking.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%8E%E3%80%85%E6%9D%91%E7%AB%9C%E5%A4%AA%E9%83%8E
◎2016年10月19日、自民党との政策懇談会で全国都道府県議会議長会の会長として発言する野川政文氏(全国都道府県議会議長会のサイトから)
http://www.gichokai.gr.jp/topics/2016/161019/index.html

不正が発覚したのは2014年である。ものすごい数のカラ出張を繰り返す。切手を大量に購入して換金する。そうした手法で政務活動費として使ったことにして公金をだまし取っていた。その年の7月には記者会見中に泣きじゃくり、その異様な姿は海外でも報じられた。
野々村氏は兵庫県議会の各会派代表の連名で刑事告発された。翌2015年8月に913万円を詐取したとして詐欺および虚偽公文書作成・同行使容疑で在宅起訴され、2016年7月に懲役3年、執行猶予4年の神戸地裁判決が確定した。
一連の騒ぎの間、山形県議の野川政文氏は勤務実態のない女性事務員を雇用したと偽り、人件費として毎月8万円を計上し、公金をだまし取っていた。年額96万円になる(後に2008年から続けていたことが判明)。
野々村氏の判決が確定した後、2016年9月には山形県内でも阿部賢一県議の政務活動費の不正受給が明るみに出た。山形新聞がスクープしたもので、会合費や事務費をごまかしていた。阿部県議は辞職し、県議会事務局によると最終的に663万円を返納した。
野川氏はこの時、山形県議会議長で「阿部県議の刑事告発を検討する」と表明している(民進党や社民党県議らでつくる県政クラブが反対して告発はされなかった)。おまけに野川氏は全国都道府県議会議長会の会長でもあった。2016年10月中旬には、全国議長会の会長として自民党との政策懇談会に出席し、要望事項を伝えたりしている。

にもかかわらず、その後も素知らぬ顔で架空の人件費を計上し、公金をだまし取っていた。よくそんなことが続けられたものだと思う。
◇ ◇
野川氏の長年の悪事が露見したのは11月4日である。NHK山形放送局が朝のニュースで特ダネとして報じ、新聞・テレビ各社が追いかけた。
市民オンブズマン山形県会議も報道の裏付けに走り、信頼できる筋から「本人は不正を認め、辞職する意向と聞いている」との情報を得た。その日の夕方には県政記者クラブで緊急会見を開き、「刑事告発も検討する」と表明した。
山形県に限らず、市民オンブズマンは全国で議員の政務活動費の不正を追及してきた。監査請求を繰り返し、撥(は)ねつけられると、裁判に訴えて不正をただそうとしてきた。「政務活動費の収支報告書や領収書類をインターネットで公開し、その内容をガラス張りにすべきだ」と提言もしている。
だが、山形県議会はこの間、ほとんど何の努力もしてこなかった。一方、足もとの山形市議会では、議長がリーダーシップを発揮して領収書のインターネット公開など次々に改善策を打ち出した。
その結果、全国市民オンブズマン連絡会議が毎年公表している「政務活動費の情報公開度ランキング」で、山形市議会は2019年の「中核市の議会でビリから3番目」から今年は「全国2位」(1位は函館市議会)へと大躍進した。改革どころか何もしない山形県議会は毎年、ズルズルと順位を下げ、今年は29位まで落ちた。その挙げ句に、県議会議長経験者の不正である。山形のオンブズマンが怒るのは当然ではないか。
不正受給が発覚すると、野川氏は2日後の6日に県議会の坂本貴美雄議長に辞職願を出し、身を引いた。15日には山形市内のレンタル会議場で記者会見を開き、人件費の架空計上が2008年度からの13年間で総額1248万円に上ることを明らかにした。
記者会見では、自宅の一部を事務所として使い、その電気代や水道代、灯油代などでも不適切な支出があるのではないかと追及され、否定しなかった。不正は人件費の架空請求にとどまらず、総額は有罪判決を受けた野々村氏のそれをかなり上回る。
不可解なのは、その後の山形県議会と山形県当局の対応である。坂本議長は「個人のモラルの問題」とし、刑事告発については「考えていない」と述べた。あきれる。「モラルの問題」であると同時に、政務活動費の制度と運用が問われているのだ。
坂本議長は「県議会には法人格がない。議会としての告発は法制度上できない」とも述べた。議会に「法人格」がないことくらい言われなくても分かっている。ならば、議会を代表して議長として、あるいは兵庫県議会のように各会派代表の連名で告発すればいいのだ。
公金詐取の被害者は納税者であり、それを代表すべきは県知事である。こちらは告発ではなく、告訴すべき立場にある。ところが、山形県の吉村美栄子知事は記者会見で対応を問われると、「一義的には議会が対応すべきこと。議会の独立性、自主性を尊重したい」と述べた。この発言だけ聞けば、もっともらしい。
だが、吉村知事は今年3月、若松正俊副知事の再任人事案が県議会で否決されるや、若松氏を議会の同意がいらない非常勤特別職に任命して続投させた。議会をこけにする暴挙である。なのに、こういう時は「議会を尊重する」と言って逃げようとする。つくづく、いい加減な政治家である。
ことは巨額の詐欺事件である。本人も詐取したことを認めている。血税をだまし取った人間がいるなら、納税者の代表として知事が告訴するのは当然のことであり、責務であると言ってもいい。
野川氏は会見で「(詐取した金を)私的には使っていない」と繰り返した。それを見出しに取った愚かな新聞もあるが、だまし取った金をどう使ったかは詐欺罪の立件には関係がない。刑の言い渡しに際して「情状酌量の材料の一つ」になるに過ぎない。
一般人が一般人から金をだまし取る詐欺でも罪は重い。ましてや、政務活動費が適切に使われるようにする責任を負う県議会の議長経験者が公金をだまし取ったのである。議会が告発し、知事が告訴するのは当然ではないか。
知事や議会のこうした対応を見ていると、この人たちは「不正を知っても、こっそりと処理して闇に葬ってしまおうとしていたのではないか」と疑ってしまう。
あらためて、報道の大切さを思う。悪いことは悪い。許されないことは許してはならない。政治や行政をしっかり監視して不正を暴くのは、報道機関の重要な役割の一つである。
警察や検察がお目こぼしをしようとしても、それが納税者のためにならないなら、見過ごしてはならない。真相の解明に果敢に挑み、人々に伝えなければならない。日々の出来事の報道ももちろん大切なことだが、やはり「スクーブ」こそ、報道の要と言うべきだろう。
長岡 昇( NPO「ブナの森」 代表)
*メールマガジン「風切通信 98」 2021年11月27日
*この文章は、月刊『素晴らしい山形』2021年12月号に寄稿したコラムを手直しし、加筆したものです。
≪写真説明&Source≫
◎記者会見で号泣する野々村竜太郎県議
https://looking.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%8E%E3%80%85%E6%9D%91%E7%AB%9C%E5%A4%AA%E9%83%8E
◎2016年10月19日、自民党との政策懇談会で全国都道府県議会議長会の会長として発言する野川政文氏(全国都道府県議会議長会のサイトから)
http://www.gichokai.gr.jp/topics/2016/161019/index.html
山形地方検察庁の友添太郎検事正が今年7月に地検の公式サイトにアップした着任挨拶文は、前任の松下裕子(ひろこ)氏の挨拶文を名前以外すべて盗用したものだ、との記事を11月11日の朝、調査報道サイト「ハンター」に掲載した。すると、ほどなく投稿欄を通して「松下氏のも前任者のコピペでした」との情報が寄せられた。

仰天した。2代続けての盗用など考えてもいなかった。投稿には次のような「証拠」も添付されていた(カッコ内の在任期間は筆者が補足)。
◎松下裕子検事正(2020年1月?2021年7月)
https://web.archive.org/web/20200828002412/http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
◎伊藤栄二検事正(2019年7月?2020年1月)
https://web.archive.org/web/20190919082509/https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
◎吉田久検事正(2018年7月?2019年7月)
https://web.archive.org/web/20180929050945/http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
クリックすると、その検事正の紹介画面が出てくる。顔写真と略歴の下に着任の挨拶がそれぞれ掲載されていた。読んでみると、松下裕子氏の着任挨拶文も前任の伊藤栄二氏(現静岡地検検事正)の文章をほぼそのままなぞったものであることが分かる。伊藤氏の挨拶文は次の通りである。
* *
この度、山形地方検察庁検事正に就任しました伊藤栄二です。山形県をはじめ東北で勤務するのは今回が初めてですが、山形県は豊かな自然と歴史・文化があり、人は温和で情に厚く、とても良い所だと聞いており、これからの生活を楽しみにしているところです。
近年の当県内における犯罪の情勢を見ますと、一人暮らしの高齢者や幼児・児童などの弱い立場にある方が被害に遭い、キャッシュカードや現金をだまし取られるなどの特殊詐欺や児童虐待に当たる事件が増え続けています。
当山形地方検察庁は、これら一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合い、警察等関係機関とも連携し、罰すべき者が適切に罰されるよう対処することを通じ、山形県民の皆様の期待に応え、その安心・安全の確保に力を尽くして参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
* *
松下氏は仙台地検に勤務したことがあるので「山形県をはじめ東北で勤務するのは今回が初めて」とは言えない。そこで「山形県で勤務するのは今回が初めて」と直してある。が、その後にある「山形県の犯罪情勢」と「検察官としての決意」の部分は、伊藤氏の文章をほぼそのままなぞっていた。
「被害に遭い」を「被害に遭われ」、「事件が増え続けています」を「事件が、連続的に発生しています」と手を入れている程度だ。伊藤氏の挨拶文343文字のうち、松下氏が変えたのは名前を含めて18文字のみ。文章の盗用率は95%である(ちなみに、伊藤氏の挨拶文は前任の吉田氏のものとはまるで異なる)。
この松下氏の着任挨拶文を、次の友添太郎検事正は名前の4文字を入れ替えただけで全文盗用したわけだ。伊藤氏の着任挨拶文を2代続けてパクッていたのである。

検察官同士での挨拶文の盗用なので、「論文の盗用」とは意味合いが異なる。著作権法などの法律に触れるわけではない。だが、こんな行為は「法律以前の人としての道義の問題」として許されるものではない。何よりも、地元山形の人たちに対して失礼きわまる。着任の挨拶を盗用しておきながら「一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合う」などと言われても、誰が信用すると言うのか。
情報提供の詳細を知った時、筆者は「それにしても、とうの昔に検察庁の公式サイトから消えた挨拶文がなぜあるのか」と、素朴な疑問を抱いた。手がかりはURL(インターネット上の位置情報)にある、と考え、冒頭の「https://web.archive.org/」の意味をネットに強い知人に尋ねた。以下は知人の解説である。
アメリカのカリフォルニアに「インターネットアーカイブ Internet Archive 」というNPO(非営利団体)がある。ここがネット上にある世界中のサイトをほぼすべて収集して保管し、検索できるサービスを提供している。「インターネットの国際図書館」のようなものだ。1996年に設立され、運営はすべて寄付金でまかなっている。もちろん、世界にはものすごい数のサイトがあるので、すべてを毎日収集するわけにはいかない。定期的に巡回して自動的にダウンロードするプログラムを使っている。保管しているサイトのページ数は5880億ページに及ぶ。
筆者のようなアナログ人間には想像もできなかった。そんなサービスがあるとは。ウェブサイト制作会社のエンジニアたちの間では広く知られており、さまざまな目的で使われているという。利用の仕方を教わり、さっそく検索を始めた。
着任挨拶文の使い回しは山形地検だけなのか。ほかの地検にはないのか。東北を皮切りに全国の地検の公式サイトを手当たり次第に調べてみた。これまで調べた範囲では、挨拶文の盗用をしているような検事正は山形以外にはいなかった。
東日本大震災の被災地である福島、仙台、盛岡の各地検検事正は、復興状況を織り交ぜながら、被災地の人たちに寄り添う言葉を綴っていた。鳥取の検事正は自ら歩んできた道をたどりながら犯罪に立ち向かう決意を語り、佐賀の検事正は「薩長土肥の一翼を担った歴史」に触れつつ支援と協力を呼びかけていた。それぞれ、「自分の言葉」と分かる内容だった(紋切型の文章を載せている地検はある。また、そもそも検事正の着任挨拶を載せていない地検もある)。
なぜ、山形地検でこのようなことが起きたのか。検察関係者はこんな風に言う。「山形県は大きな事件もないし、落ち着いている。激務に追われた人を『しばし、リフレッシュしておいで』と送り出すところなのだ」
松下氏は千葉や横浜など主に首都圏の地検で現場を踏み、東京地検特捜部の副部長を務めた。法務省の国際課長や刑事課長も歴任している。「検察の本流」を経てきた検察官で、激務の連続だったことは間違いない。
山形県はソバと日本酒がうまい。果物も牛肉もブランドものがそろっている。温泉もいたる所にある。リフレッシュには最適の土地の一つだろう。要するに、山形県は「検察の湯治場」のようなもの、ということのようだ。
松下氏も友添氏も「地検のサイトの挨拶文をじっくり読む人などいない」とでも思ったのか。あまりと言えばあまりの見下しようである。この問題の第一報をアップした後、筆者は山形地検を訪ね、見解を問おうとした。だが、広報を担当する大林潤・次席検事は会おうともせず、事務官を通して「ノーコメント」と伝えてきた。見下しぶりは徹底している。
2代続けて盗用された着任挨拶文にあるように、山形県民の多くは「温和で情に厚い」。だが、その温和さにも限度がある、と知るべきである。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
【追記】この記事がアップされた11月22日に山形地検の公式サイトにある検事正挨拶は全面的に更新された。ようやく、自分で書く気になったようだ。
≪写真説明≫
検察官の「秋霜烈日」のバッジ
*山形地検・友添太郎検事正の着任挨拶(11月22日に更新)
https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
*インターネットアーカイブの利用方法(筆者作成)
https://news-hunter.org/wp-content/uploads/2021/11/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9.pdf

仰天した。2代続けての盗用など考えてもいなかった。投稿には次のような「証拠」も添付されていた(カッコ内の在任期間は筆者が補足)。
◎松下裕子検事正(2020年1月?2021年7月)
https://web.archive.org/web/20200828002412/http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
◎伊藤栄二検事正(2019年7月?2020年1月)
https://web.archive.org/web/20190919082509/https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
◎吉田久検事正(2018年7月?2019年7月)
https://web.archive.org/web/20180929050945/http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
クリックすると、その検事正の紹介画面が出てくる。顔写真と略歴の下に着任の挨拶がそれぞれ掲載されていた。読んでみると、松下裕子氏の着任挨拶文も前任の伊藤栄二氏(現静岡地検検事正)の文章をほぼそのままなぞったものであることが分かる。伊藤氏の挨拶文は次の通りである。
* *
この度、山形地方検察庁検事正に就任しました伊藤栄二です。山形県をはじめ東北で勤務するのは今回が初めてですが、山形県は豊かな自然と歴史・文化があり、人は温和で情に厚く、とても良い所だと聞いており、これからの生活を楽しみにしているところです。
近年の当県内における犯罪の情勢を見ますと、一人暮らしの高齢者や幼児・児童などの弱い立場にある方が被害に遭い、キャッシュカードや現金をだまし取られるなどの特殊詐欺や児童虐待に当たる事件が増え続けています。
当山形地方検察庁は、これら一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合い、警察等関係機関とも連携し、罰すべき者が適切に罰されるよう対処することを通じ、山形県民の皆様の期待に応え、その安心・安全の確保に力を尽くして参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
* *
松下氏は仙台地検に勤務したことがあるので「山形県をはじめ東北で勤務するのは今回が初めて」とは言えない。そこで「山形県で勤務するのは今回が初めて」と直してある。が、その後にある「山形県の犯罪情勢」と「検察官としての決意」の部分は、伊藤氏の文章をほぼそのままなぞっていた。
「被害に遭い」を「被害に遭われ」、「事件が増え続けています」を「事件が、連続的に発生しています」と手を入れている程度だ。伊藤氏の挨拶文343文字のうち、松下氏が変えたのは名前を含めて18文字のみ。文章の盗用率は95%である(ちなみに、伊藤氏の挨拶文は前任の吉田氏のものとはまるで異なる)。
この松下氏の着任挨拶文を、次の友添太郎検事正は名前の4文字を入れ替えただけで全文盗用したわけだ。伊藤氏の着任挨拶文を2代続けてパクッていたのである。

検察官同士での挨拶文の盗用なので、「論文の盗用」とは意味合いが異なる。著作権法などの法律に触れるわけではない。だが、こんな行為は「法律以前の人としての道義の問題」として許されるものではない。何よりも、地元山形の人たちに対して失礼きわまる。着任の挨拶を盗用しておきながら「一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合う」などと言われても、誰が信用すると言うのか。
情報提供の詳細を知った時、筆者は「それにしても、とうの昔に検察庁の公式サイトから消えた挨拶文がなぜあるのか」と、素朴な疑問を抱いた。手がかりはURL(インターネット上の位置情報)にある、と考え、冒頭の「https://web.archive.org/」の意味をネットに強い知人に尋ねた。以下は知人の解説である。
アメリカのカリフォルニアに「インターネットアーカイブ Internet Archive 」というNPO(非営利団体)がある。ここがネット上にある世界中のサイトをほぼすべて収集して保管し、検索できるサービスを提供している。「インターネットの国際図書館」のようなものだ。1996年に設立され、運営はすべて寄付金でまかなっている。もちろん、世界にはものすごい数のサイトがあるので、すべてを毎日収集するわけにはいかない。定期的に巡回して自動的にダウンロードするプログラムを使っている。保管しているサイトのページ数は5880億ページに及ぶ。
筆者のようなアナログ人間には想像もできなかった。そんなサービスがあるとは。ウェブサイト制作会社のエンジニアたちの間では広く知られており、さまざまな目的で使われているという。利用の仕方を教わり、さっそく検索を始めた。
着任挨拶文の使い回しは山形地検だけなのか。ほかの地検にはないのか。東北を皮切りに全国の地検の公式サイトを手当たり次第に調べてみた。これまで調べた範囲では、挨拶文の盗用をしているような検事正は山形以外にはいなかった。
東日本大震災の被災地である福島、仙台、盛岡の各地検検事正は、復興状況を織り交ぜながら、被災地の人たちに寄り添う言葉を綴っていた。鳥取の検事正は自ら歩んできた道をたどりながら犯罪に立ち向かう決意を語り、佐賀の検事正は「薩長土肥の一翼を担った歴史」に触れつつ支援と協力を呼びかけていた。それぞれ、「自分の言葉」と分かる内容だった(紋切型の文章を載せている地検はある。また、そもそも検事正の着任挨拶を載せていない地検もある)。
なぜ、山形地検でこのようなことが起きたのか。検察関係者はこんな風に言う。「山形県は大きな事件もないし、落ち着いている。激務に追われた人を『しばし、リフレッシュしておいで』と送り出すところなのだ」
松下氏は千葉や横浜など主に首都圏の地検で現場を踏み、東京地検特捜部の副部長を務めた。法務省の国際課長や刑事課長も歴任している。「検察の本流」を経てきた検察官で、激務の連続だったことは間違いない。
山形県はソバと日本酒がうまい。果物も牛肉もブランドものがそろっている。温泉もいたる所にある。リフレッシュには最適の土地の一つだろう。要するに、山形県は「検察の湯治場」のようなもの、ということのようだ。
松下氏も友添氏も「地検のサイトの挨拶文をじっくり読む人などいない」とでも思ったのか。あまりと言えばあまりの見下しようである。この問題の第一報をアップした後、筆者は山形地検を訪ね、見解を問おうとした。だが、広報を担当する大林潤・次席検事は会おうともせず、事務官を通して「ノーコメント」と伝えてきた。見下しぶりは徹底している。
2代続けて盗用された着任挨拶文にあるように、山形県民の多くは「温和で情に厚い」。だが、その温和さにも限度がある、と知るべきである。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
【追記】この記事がアップされた11月22日に山形地検の公式サイトにある検事正挨拶は全面的に更新された。ようやく、自分で書く気になったようだ。
≪写真説明≫
検察官の「秋霜烈日」のバッジ
*山形地検・友添太郎検事正の着任挨拶(11月22日に更新)
https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/yamagata/page1000025.html
*インターネットアーカイブの利用方法(筆者作成)
https://news-hunter.org/wp-content/uploads/2021/11/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9.pdf
ものを盗んだり、人を傷つけたりすれば、誰であれ咎(とが)められ、処罰される。ましてや、それが一般の人ではなく、摘発する側の警察官や検察官であれば、その罪は一段と重い。

そうした「一段と重い罪」を犯した者が、わが故郷の山形県にいる。普通の警察官や検察官ではない。山形地方検察庁のトップ、友添太郎・検事正である。
友添氏は今年7月16日付の人事で静岡地検沼津支部長から山形地検の検事正に転じた。ほどなく着任し、山形地検の公式サイトに次のような挨拶文をアップした(公式サイトはカラー文字をクリック)。
◇ ◇
このたび、山形地方検察庁検事正に就任しました友添太郎です。山形県で勤務するのは今回が初めてですが、豊かな自然と歴史・文化が大切にされ、人は温和で情に厚く、とても良い所だと聞いており、これからの生活を楽しみにしているところです。
近年の当県内における犯罪の情勢を見ますと、一人暮らしの高齢者や幼児・児童などの弱い立場にある方が被害に遭われ、現金やキャッシュカードをだまし取られるなどの特殊詐欺や児童虐待に当たる事件が、連続的に発生しています。
当山形地方検察庁は、これら一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合い、警察等関係機関とも連携し、罰すべき者が適切に罰されるよう対処することを通じ、山形県民の皆様の期待に応え、その安心・安全の確保に力を尽くして参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
◇ ◇
赴任地・山形についての思いを綴り、犯罪に立ち向かう決意を記した、なかなか味のある挨拶文である。が、一読して既視感を覚えた。とりわけ、「罰すべき者が適切に罰されるよう対処する」という一文が引っかかった。
友添氏の前任の松下裕子(ひろこ)山形地検検事正の着任挨拶文に同じ表現があったからである。すぐさま、松下氏の挨拶文(2020年1月にアップ)を引っ張り出し、読んでみた。
唖然とした。「このたび」から始まり、「よろしくお願いいたします」まで、一字一句、句読点に至るまでまったく同じだった。「松下裕子」の4文字を「友添太郎」と差し替えただけで、全文を盗用していた。
なんという手抜き。いや、「手抜き」などという生やさしい言葉で表現すべきではない。地元山形の人々を愚弄し、法の執行に当たる警察官や検察官をあざ笑うような所業だ。地方検察庁のトップとして、許されざる行為と言わなければならない。
実は、この着任挨拶文の盗用には7月の時点で気づいていた。それに目をつぶっていたのは「着任直後であわただしい状況にあるのだろう」と少しばかり同情したのに加えて、この時、山形県警と山形地検が「副知事の公職選挙法違反(公務員の地位利用)」という重大事件を抱えていたので、「捜査の妨げになるようなことは控えたい」という思いがあったからだ。
副知事の公選法違反事件とは、今年1月の山形県知事選をめぐって、当時副知事だった人物が県内の市長らに現職知事の対立候補を応援しないよう圧力を加えた疑いがある、というものだ。圧力を加えられたとされる市長は何人もいる。しかも、山形県当局は現職知事が4選を果たすやいなや、反旗を翻した市長らに補助金の削減をほのめかすなど露骨な動きを見せた。
山形県警は知事選の直後から内偵を進め、市長や副知事だった人物への事情聴取に乗り出した。友添氏が着任する直前、6月の半ばには「前副知事から任意で事情聴取」との報道もなされていた。
だが、その後、捜査当局は立件に向けた動きを見せない。あいまいなまま、事件の幕引きを図ろうとしている気配がある。「もはや重大事件を抱えていることへの配慮は無用」と筆者は判断し、検事正の破廉恥な行為を告発することにした。
この手の問題を報じる場合、普通なら相手(山形地検及び友添氏)の言い分を取材し、それも伝えるべきなのだろうが、今回はあえて事前に相手に接触しなかった。接触した途端、山形地検の公式サイトにある「全文盗用の着任挨拶」を削除してしまう恐れがあるからだ。
読者のみなさんには、本文中に記した山形地検の公式サイトのURLをクリックして、友添氏の挨拶文に目を通し、末尾に添付した前任者の挨拶文と照合して「盗用」を確認していただきたい。
山形地検は盗用についてどう釈明するのか。また、この記事にいつ気づき、どう動くのか。さらに、上級庁である仙台高検や最高検はどのように対応するのか。それらについては続報でお伝えしたい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2021年11月11日
*前任の山形地検検事正、松下裕子氏の着任挨拶文
≪写真説明とSource≫
◎東京・霞が関の検察庁(Web:東京新聞 2020年5月18日)

そうした「一段と重い罪」を犯した者が、わが故郷の山形県にいる。普通の警察官や検察官ではない。山形地方検察庁のトップ、友添太郎・検事正である。
友添氏は今年7月16日付の人事で静岡地検沼津支部長から山形地検の検事正に転じた。ほどなく着任し、山形地検の公式サイトに次のような挨拶文をアップした(公式サイトはカラー文字をクリック)。
◇ ◇
このたび、山形地方検察庁検事正に就任しました友添太郎です。山形県で勤務するのは今回が初めてですが、豊かな自然と歴史・文化が大切にされ、人は温和で情に厚く、とても良い所だと聞いており、これからの生活を楽しみにしているところです。
近年の当県内における犯罪の情勢を見ますと、一人暮らしの高齢者や幼児・児童などの弱い立場にある方が被害に遭われ、現金やキャッシュカードをだまし取られるなどの特殊詐欺や児童虐待に当たる事件が、連続的に発生しています。
当山形地方検察庁は、これら一つ一つの事件と真摯かつ誠実に向き合い、警察等関係機関とも連携し、罰すべき者が適切に罰されるよう対処することを通じ、山形県民の皆様の期待に応え、その安心・安全の確保に力を尽くして参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
◇ ◇
赴任地・山形についての思いを綴り、犯罪に立ち向かう決意を記した、なかなか味のある挨拶文である。が、一読して既視感を覚えた。とりわけ、「罰すべき者が適切に罰されるよう対処する」という一文が引っかかった。
友添氏の前任の松下裕子(ひろこ)山形地検検事正の着任挨拶文に同じ表現があったからである。すぐさま、松下氏の挨拶文(2020年1月にアップ)を引っ張り出し、読んでみた。
唖然とした。「このたび」から始まり、「よろしくお願いいたします」まで、一字一句、句読点に至るまでまったく同じだった。「松下裕子」の4文字を「友添太郎」と差し替えただけで、全文を盗用していた。
なんという手抜き。いや、「手抜き」などという生やさしい言葉で表現すべきではない。地元山形の人々を愚弄し、法の執行に当たる警察官や検察官をあざ笑うような所業だ。地方検察庁のトップとして、許されざる行為と言わなければならない。
実は、この着任挨拶文の盗用には7月の時点で気づいていた。それに目をつぶっていたのは「着任直後であわただしい状況にあるのだろう」と少しばかり同情したのに加えて、この時、山形県警と山形地検が「副知事の公職選挙法違反(公務員の地位利用)」という重大事件を抱えていたので、「捜査の妨げになるようなことは控えたい」という思いがあったからだ。
副知事の公選法違反事件とは、今年1月の山形県知事選をめぐって、当時副知事だった人物が県内の市長らに現職知事の対立候補を応援しないよう圧力を加えた疑いがある、というものだ。圧力を加えられたとされる市長は何人もいる。しかも、山形県当局は現職知事が4選を果たすやいなや、反旗を翻した市長らに補助金の削減をほのめかすなど露骨な動きを見せた。
山形県警は知事選の直後から内偵を進め、市長や副知事だった人物への事情聴取に乗り出した。友添氏が着任する直前、6月の半ばには「前副知事から任意で事情聴取」との報道もなされていた。
だが、その後、捜査当局は立件に向けた動きを見せない。あいまいなまま、事件の幕引きを図ろうとしている気配がある。「もはや重大事件を抱えていることへの配慮は無用」と筆者は判断し、検事正の破廉恥な行為を告発することにした。
この手の問題を報じる場合、普通なら相手(山形地検及び友添氏)の言い分を取材し、それも伝えるべきなのだろうが、今回はあえて事前に相手に接触しなかった。接触した途端、山形地検の公式サイトにある「全文盗用の着任挨拶」を削除してしまう恐れがあるからだ。
読者のみなさんには、本文中に記した山形地検の公式サイトのURLをクリックして、友添氏の挨拶文に目を通し、末尾に添付した前任者の挨拶文と照合して「盗用」を確認していただきたい。
山形地検は盗用についてどう釈明するのか。また、この記事にいつ気づき、どう動くのか。さらに、上級庁である仙台高検や最高検はどのように対応するのか。それらについては続報でお伝えしたい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2021年11月11日
*前任の山形地検検事正、松下裕子氏の着任挨拶文
≪写真説明とSource≫
◎東京・霞が関の検察庁(Web:東京新聞 2020年5月18日)
イチョウが色づき始めました。ありふれた街路樹の一つですが、ある本に出合ってから、私はこの樹(き)を特別な思いで見つめるようになりました。英国の植物学者、ピーター・クレインが著した『イチョウ 奇跡の2億年史』(河出書房新社)です。

この樹には、命をめぐる壮大な物語が秘められていることを知りました。クレインの著書は、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだ次のような詩で始まります。
はるか東方のかなたから
わが庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかおまえも私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを
クレインによれば、シーラカンスが「生きた化石」の動物界のチャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表格なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の大変動を生き抜いてきました。
ただ、氷河期にうまく適応することができず、世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の博物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。
けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったと考えられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。
日本に伝わったのはいつか。著者はそれも調べています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。
鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある樹の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その樹がイチョウだというのは後世の付け足しのようです。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのがクレインの見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。
東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』の中で絵入りで紹介しています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。
博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音されることを知り、著書にはginkgo と記しました。クレインは「ケンペルはなぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。

植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として欧州で広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコウ」です。
それまで「化石」でしか見たことがなく、絶滅したものと思っていた植物が生きていた――それを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導いてくれる一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。
植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木(おぎ)があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際には「その精子が繊毛をふるわせてかすかに泳ぐ」ということを、この本で初めて知りました。
イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を揺さぶる大発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。
それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。
訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウの栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った際には、境内でギンナンを焼いて売っている屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。
かくもイチョウを愛し、イチョウの謎を追い続けた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」
壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べれば、私たち人間など、つい最近登場したばかりの小さな、小さな存在でしかない。
*初出:メールマガジン「小白川通信 20」(2014年11月29日)。書き出しを含め一部手直し
≪写真説明とSource≫
◎青森県弘前公園の「根上がりイチョウ」
http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies
*『イチョウ 奇跡の2億年史』の原題は GINKGO : The Tree That Time Forgot 。矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。詳しくは次のURLを参照。
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0506.htm

この樹には、命をめぐる壮大な物語が秘められていることを知りました。クレインの著書は、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだ次のような詩で始まります。
はるか東方のかなたから
わが庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかおまえも私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを
クレインによれば、シーラカンスが「生きた化石」の動物界のチャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表格なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の大変動を生き抜いてきました。
ただ、氷河期にうまく適応することができず、世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の博物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。
けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったと考えられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。
日本に伝わったのはいつか。著者はそれも調べています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。
鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある樹の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その樹がイチョウだというのは後世の付け足しのようです。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのがクレインの見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。
東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』の中で絵入りで紹介しています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。
博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音されることを知り、著書にはginkgo と記しました。クレインは「ケンペルはなぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。

植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として欧州で広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコウ」です。
それまで「化石」でしか見たことがなく、絶滅したものと思っていた植物が生きていた――それを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導いてくれる一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。
植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木(おぎ)があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際には「その精子が繊毛をふるわせてかすかに泳ぐ」ということを、この本で初めて知りました。
イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を揺さぶる大発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。
それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。
訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウの栽培農家に接ぎ木の仕方まで教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った際には、境内でギンナンを焼いて売っている屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。
かくもイチョウを愛し、イチョウの謎を追い続けた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、娘と息子への短い献辞を記しています。「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」
壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べれば、私たち人間など、つい最近登場したばかりの小さな、小さな存在でしかない。
*初出:メールマガジン「小白川通信 20」(2014年11月29日)。書き出しを含め一部手直し
≪写真説明とSource≫
◎青森県弘前公園の「根上がりイチョウ」
http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
◎ピーター・クレイン(前キュー植物園長、イェール大学林業・環境科学部長)
http://news.yale.edu/2009/03/04/sir-peter-crane-appointed-dean-yale-school-forestry-and-environmental-studies
*『イチョウ 奇跡の2億年史』の原題は GINKGO : The Tree That Time Forgot 。矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。詳しくは次のURLを参照。
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0506.htm
自民党の総裁選を勝ち抜き、岸田文雄氏が首相に就任した。明治の元勲、伊藤博文から数えてちょうど100代目の総理大臣という。その岸田首相の下であわただしく衆議院が解散され、総選挙に突入した。10月31日に投開票され、その日の夜には大勢が判明する。

NHKや朝日新聞は今回の総選挙について、盛んに「政権選択の選挙」と報じた。だが、この選挙で政権交代が実現する可能性があると考えている人はほとんどいないだろう。
安倍晋三、菅義偉両氏の下で9年に及んだ政権運営を有権者はどう判断するのか。ウソとごまかしの政治にどこまでお灸をすえるのか。そのお灸の度合いが示される選挙、と見る方が自然だろう。立憲民主党を中心とする野党に再び政権運営をゆだねるほど、有権者はうぶではあるまい。
選挙に向けて、岸田首相は「新しい資本主義」なるスローガンを掲げた。アメリカ型の強欲な資本主義、弱者切り捨ての資本主義とは異なるものを目指したいようだ。どのような資本主義を思い描いているのか。岸田首相は所信表明演説でこう述べた。
「成長と分配の好循環と、コロナ後の新しい社会の開拓。これがコンセプトです。成長の果実をしっかりと分配することで、初めて次の成長が実現します。大切なのは成長と分配の好循環です。『成長か分配か』という不毛な議論から脱却し、『成長も分配も』実現するためにあらゆる政策を総動員します」
具体的には何をするのか。成長するための第一の柱は「科学技術立国の実現」であり、第二の柱は「デジタル田園都市国家構想」だという。「経済安全保障に取り組み、人生100年時代の不安解消を図る」とも述べた。ズラズラと政策を並べているが、それがどのような「新しい資本主義」につながっていくのか、少しも見えてこない。一番肝心な点に触れていないからだ。
戦後日本の資本主義は、終身雇用と家族的な経営を特徴としていた。同一労働=同一賃金の原則がそれなりに守られ、少なくとも真面目に働いている限り、働く者はそれほど将来の心配をする必要がなかった。それが高度経済成長の原動力となった。
こうした日本型の資本主義が大きく変わったのは、1985年に労働者派遣法が成立してからだ。同一労働=同一賃金の大原則に風穴が空いた。当初、派遣の対象は通訳や秘書、ソフトウェア開発など特別な技能を必要とする13の業務に制限されていたが、その後、対象は少しずつ拡大されていった。
そして2004年、小泉純一郎政権の時に派遣労働は製造業にまで拡大され、事実上、歯止めがなくなった。推進する側はこれを「働き方の多様化」と呼んだが、その実態は企業側に「働かせ方の多様化」をもたらすものだった。
時を経て、それがどのような結果を招いたか。私たちはまざまざと見せつけられている。今や、働く者の4割は派遣や契約社員、パートの非正規労働者である(図1)。不安定な雇用の下、低賃金で働くことを余儀なくされている。
将来を見通せない若者たちは結婚をためらい、子育てを躊躇(ちゅうちょ)する。非婚や晩婚化、少子化は経済と雇用の大きな変化を抜きにして語ることはできない。行政が結婚の斡旋や子育て世代への支援に乗り出す、といった小手先の対応をして解決できるような問題ではなくなっている。
その結果、日本の労働者はどのような状況に追い込まれたか。先進国を中心に38の国でつくるOECD(経済協力開発機構)の統計を見れば、それが如実に分かる。図2は、主要国の平均賃金の推移を示したものである。各国の平均賃金が着実に上がっていく中で、日本人労働者の平均賃金はこの20年、横ばいのままだ。2015年には韓国にも抜かれ、イタリアと最下位を争う状態になっている。
図3を見れば、気分はさらに落ち込む。OECD加盟国の「2020年平均賃金ランキング」によれば、日本人の平均賃金は加盟国平均のかなり下だ。もはや「中進国レベル」と言うしかない。
この間、もちろん企業も苦しんできたが、その痛みは働く者よりはるかに小さい。内部留保を膨らませている企業も少なくない。
パート労働や派遣労働が広がり、働く者が低賃金にあえいでいる現状にメスを入れ、労働環境の大胆な改革に乗り出さない限り、「新しい資本主義」など夢のまた夢だ。経済界の抵抗を押し切り、覚悟をもって取り組まなければ、事態は一歩も動かない。
では、岸田首相にはその覚悟があるのだろうか。改革にかける首相の本気度を測るためには、その言葉より、彼が仕切った人事を見る方がいい。岸田首相は、官房長官とともに政権運営の要となる自民党幹事長に甘利明氏を充てた。都市再生機構(UR)がらみの補償交渉で千葉県の建設会社に肩入れし、口利き料として1200万円もの資金提供や接待を受けた政治家だ(2016年1月、週刊文春の報道で発覚)。
資金を受け取り、接待を受けたのは主に秘書のようだが、甘利氏本人も50万円の札束を2回受け取り、ポケットに入れたことを認めている。「政治資金として受け取った」と釈明したものの、斡旋利得処罰法違反の疑いが濃厚だ。東京地検特捜部が捜査に乗り出し、疑惑が深まるや、甘利氏は「睡眠障害」を理由に入院し、国会にも出て来なくなった。眠れないから入院。ふざけた政治家だ。その後、捜査は尻すぼみになり、事件は闇に葬られた。
その甘利氏が素知らぬ顔で表舞台に舞い戻り、今回の自民党総裁選では「岸田総裁誕生」のために動き、論功で自民党幹事長の要職に就いた。安倍元首相が総裁候補として担いだ高市早苗氏は政務調査会長になった。
新内閣の閣僚の顔ぶれを見ても、岸田首相が「各派閥のバランスを取ってまずは安全運転」と考えていることは明白だ。そのような政治家に「新しい資本主義」を打ち立てるための大胆な改革などできるわけがない。「小さな改革」を小出しにするのが関の山だろう。
◇ ◇
誰が首相になろうと、日本丸の舵取りはきわめて難しい。政府と地方自治体の借金は1100兆円を超える。国内総生産(GDP)の2倍以上だ。それはどのような意味を持つのか。
図4は国際通貨基金(IMF)の経済統計に基づいて、主要国の債務(借金)残高を示したものだ。借金の総額を1年間のGDPで割り、それを百分率で表している。積み重ねた借金が1年分のGDPと同額なら100%となる。日本の債務残高は250%を超え、主要国の中で突出している。2年分のGDPをすべて借金の返済に充てても足りない状態だ。主要国の労働者の平均賃金で最下位を争うイタリアより、ずっとひどい。
経済学者の中には「日本は民間の貯蓄率が際立って高い。政府が保有する資産も膨大だ。イタリアとはまるで違う。これくらいの借金でよろめくことはない」と説く者がいる。「公的な債務は将来に対する投資であり、必ずリターンがある。債務を心配する必要などそもそもない」と主張する学者すらいる。
こういう人たちには「ではなぜ、ほかの国々は債務残高を低く抑えるために必死になっているのか」と問えばいい。ドイツは政府の歳入と歳出をトントンにする、という原則を固く守っている。コロナ禍で国債を発行せざるを得なくなったものの、それを返済する段取りもきちんと国民に示している。
国の財布も個人の財布も、原理は変わらない。収入よりも多く金を使えば、借金をするしかなくなる。そして、借金を重ねていけば、いつか破産する。経済理論をいくらこねくり回しても、この原理を超越することはできないのだ。
あらためて、政府の今年度予算案を眺めてみよう(図5)。国の歳入106兆円の4割は国債を発行してまかなっている。一方で歳出のうち、借金の返済に充てる国債費は2割に過ぎない。つまり、毎年、国の借金は雪ダルマのように膨らみ続ける。
それなのに、日本はインフレにならず、株価の暴落も起きていない。歴代の自民党政権が自転車操業のような手法を編み出し、駆使してきたからだ。
その典型が安倍晋三政権である。国の借金である国債を銀行の元締めの日本銀行に引き受けさせ、どんどん買わせた。紙幣を発行する中央銀行が国債を買い付けることなど、かつては「決してやってはいけない」とされていたが、平気でそれを続けた。
安倍政権は、株価を吊り上げるための手立ても講じた。日本の厚生年金と国民年金の資金は、「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)が運用している。その運用資産は2020年度末で186兆円もあり、世界最大の機関投資家だ。図6に見るように、GPIFは発足時の2006年時点では、主にリスクの小さい国内の債券を買って運用していた。年金制度を支える積立金が目減りしたら大変なことになるからだ。
ところが、安倍政権の下でGPIFはリスクの高い内外の株式や外国債券の割合を大幅に増やしていった。2020年4月の時点では運用先は4分の1ずつ。リスクの高い株式市場に資金をジャブジャブ注ぎ込んだのである。
それは「ギャンブル」のような運用だ。図7が示しているように、2008年のリーマンショックで9兆円もの赤字を出したかと思えば、景気が上向いた2014年には15兆円の黒字になった。何とも危うい運用だ。
年金を管轄する厚生労働省やGPIFは「カナダやノルウェーの年金の株式運用の割合はもっと高い」と説明する。だが、アメリカ最大の公的年金の運用機関である社会保障信託基金(OASDI)が米国債しか買わないことには触れない。ドイツやイギリス、フランスの年金制度は「原則として徴収した資金で年金をまかなう」という堅実なもので、そもそも巨額の積立金を持っていない。それも説明しない。
要するに、年金の積み立てと運用という面でも、日本は極めてリスクの高いことをしている「突出した国家」なのだ。「アベノミクスの3本の矢、成長戦略の一環」などという声に踊らされて株式投資の割合を増やし続け、リスクは極大化した、と言わなければならない。
株価がどう動くかは誰にも予想できない。暴落すれば、年金の支給そのものに影響が出る恐れがある。政府の膨大な債務とともに、年金積立金の運用も大きなリスク要因である。
「新しい資本主義」を唱えるなら、岸田首相はこうした深刻な問題についても率直に語りかけなければならない。が、まったく触れようとしない。問題に手を付けようとするそぶりも見せない。問題の根があまりにも深くかつ重大なので、怖くて触れることすらできないのかもしれない。
◇ ◇
では、政権交代を叫ぶ立憲民主党はどうか。安倍政権は森友学園問題で公文書を改竄(かいざん)し、加計学園問題や「桜を見る会」をめぐってウソとごまかしを重ねた。立憲民主党は、それによって「政治と行政がゆがめられた」と批判し、「透明で信頼できる政府をつくる」と訴える。「原発に依存せず、自然エネルギー立国を目指す」とも唱えている。このへんまでは、すこぶるまっとうだ。
ところが、国の財政や金融の話になると、この政党は途端に突拍子もないことを言い出す。枝野幸男代表はコロナ禍で落ち込んだ消費を回復させるため、「消費税5%への減税が必要だ」と言い放った。年収1000万円程度までは一時的に「所得税をゼロにする」とも口にした。
消費税を半分の5%にすれば、それだけで10兆円の歳入が吹き飛ぶ。所得税ゼロでも兆円単位の歳入減になる。その手当てをどうすると言うのか。「財源は富裕層や大企業への優遇税制の是正で捻出する」と、もっともらしい公約を掲げているが、そうした措置でいくら捻出できるか、試算を示そうともしない。
かつて政権交代を実現した民主党は、掛け声だけは立派だったが、政策を実行する力量も覚悟もなく自滅した。立憲民主党の公約を聞いていると、その姿と二重写しになる。過去の失敗から教訓をくみ取り、今度こそ有権者の信頼を勝ち取らなければならないのに、そういう謙虚さがみじんも感じられない。立憲民主党の面々も、自民党とは異なる意味で有権者を小馬鹿にしている。
国民民主党はどうか。この政党の公約は、立憲民主党の公約が現実的に思えてしまうほど非現実的だ。コロナ禍から立ち上がるため積極財政に転じ、「今後10年間で150兆円の投資をする」のだという。まず、コロナで傷ついた生活と事業を救済するため50兆円の緊急経済対策を講じる。次に、環境やデジタルなど未来への投資に50兆円。さらに、教育と科学技術予算を倍増させ、「人づくり」に50兆円の投資をするのだという。
こんな公約は「私たちはどの党よりも速やかに国家財政を破綻させ、国を破滅に導いてみせます」と言っているに等しい。党の幹部に経済や財政、金融をまともに考えている人間が1人もいないことを示している。論外と言うしかない。
ひたすら税金のバラマキを訴えるという意味では、「0歳から高校3年生まで全員に一律10万円を支給する」と唱える連立与党の公明党も、消費税を廃止すると言う「れいわ新選組」も同列だ。どちらも「責任をもって未来を語ろうとしない」という点で共通している。
各政党の無責任な公約に堪忍袋の緒が切れたのだろう。財務事務次官の矢野康治(こうじ)氏は、月刊『文藝春秋』の11月号に「このままでは国家財政は破綻する」と題した一文を寄せた。
「これでは古代ローマ帝国のパンとサーカスです。誰が一番景気のいいことを言えるか、他の人が思いつかないような大盤振る舞いができるかを競っているかのようでもあり、かの強大な帝国もバラマキで滅亡したのです」
矢野氏は、前述したような日本の財政の危機的状況を具体的に説明しつつ、「あえて今の日本の状況を喩(たと)えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです」と記し、「破滅的な衝突を避けるためには、『不都合な真実』もきちんと直視し、先送りすることなく、最も賢明なやり方で対処していかねばなりません」と訴えている。
森友学園問題で公文書を改竄し、職員を自死にまで追い込みながら誰一人責任を取らなかった財務省のトップがなにを偉そうに、と反発する人もいるかもしれない。
けれども、「国庫の管理をまかされた立場にいる者」として、また「心あるモノ言う犬」として「どんなに叱られても、どんなに搾(しぼ)られても、言うべきことを言わなければならないと思います」と綴った文章には熱を感じる。そして、官僚をここまで追い詰めてしまった日本の政治の貧困を思わないではいられない。
長い文章になってしまった。その他の政党については、寸評するしかない。日本維新の会は主要政党の中では珍しく税金のバラマキを掲げていない。日本社会のどこをどう改革すべきか、現実的な処方箋を示している。が、いかんせん、関西の政党である。ほかの地域の有権者にとってはやはり「遠い存在」だ。
共産党は真面目な政党だが、今さら「共産主義に基づく国家建設」に与(くみ)する気にはなれない。社民党の政策に至っては「大学生の作文か」と言いたくなる。
選択に苦しむ選挙だ。こんなに重苦しい選挙は記憶にない。それでも、私たちは選ばなければならない。「下り坂にさしかかった国」ではあっても、私たちの国にはまだ底力がある。その底力を引き出して、せめてなだらかな坂道にして次の世代に引き継ぎたい。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
≪写真のSource≫
◎岸田文雄首相(HuffPost のサイトから)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6153bcace4b05025422bd5e5
≪参考資料&サイト≫
◎NHKウェブ特集「クローズアップ現代が見つめた17年」
https://www.nhk.or.jp/gendai/special/tokusyu01_figure_section.html
◎「日本人は韓国人より給料が38万円も安い!」(DIAMOND online)
https://diamond.jp/articles/-/278127
◎日医総研リサーチエッセイNo.90 「公的年金の運営状況についての考察(補論)」(石尾勝主任研究員)
https://www.jmari.med.or.jp/research/research/wr_712.html
◎「公的年金積立金運用のあり方について:予備的考察」(國枝繁樹)
https://www.zenginkyo.or.jp/fileadmin/res/news/news270918_14.pdf

NHKや朝日新聞は今回の総選挙について、盛んに「政権選択の選挙」と報じた。だが、この選挙で政権交代が実現する可能性があると考えている人はほとんどいないだろう。
安倍晋三、菅義偉両氏の下で9年に及んだ政権運営を有権者はどう判断するのか。ウソとごまかしの政治にどこまでお灸をすえるのか。そのお灸の度合いが示される選挙、と見る方が自然だろう。立憲民主党を中心とする野党に再び政権運営をゆだねるほど、有権者はうぶではあるまい。
選挙に向けて、岸田首相は「新しい資本主義」なるスローガンを掲げた。アメリカ型の強欲な資本主義、弱者切り捨ての資本主義とは異なるものを目指したいようだ。どのような資本主義を思い描いているのか。岸田首相は所信表明演説でこう述べた。
「成長と分配の好循環と、コロナ後の新しい社会の開拓。これがコンセプトです。成長の果実をしっかりと分配することで、初めて次の成長が実現します。大切なのは成長と分配の好循環です。『成長か分配か』という不毛な議論から脱却し、『成長も分配も』実現するためにあらゆる政策を総動員します」
具体的には何をするのか。成長するための第一の柱は「科学技術立国の実現」であり、第二の柱は「デジタル田園都市国家構想」だという。「経済安全保障に取り組み、人生100年時代の不安解消を図る」とも述べた。ズラズラと政策を並べているが、それがどのような「新しい資本主義」につながっていくのか、少しも見えてこない。一番肝心な点に触れていないからだ。
戦後日本の資本主義は、終身雇用と家族的な経営を特徴としていた。同一労働=同一賃金の原則がそれなりに守られ、少なくとも真面目に働いている限り、働く者はそれほど将来の心配をする必要がなかった。それが高度経済成長の原動力となった。
こうした日本型の資本主義が大きく変わったのは、1985年に労働者派遣法が成立してからだ。同一労働=同一賃金の大原則に風穴が空いた。当初、派遣の対象は通訳や秘書、ソフトウェア開発など特別な技能を必要とする13の業務に制限されていたが、その後、対象は少しずつ拡大されていった。
そして2004年、小泉純一郎政権の時に派遣労働は製造業にまで拡大され、事実上、歯止めがなくなった。推進する側はこれを「働き方の多様化」と呼んだが、その実態は企業側に「働かせ方の多様化」をもたらすものだった。
時を経て、それがどのような結果を招いたか。私たちはまざまざと見せつけられている。今や、働く者の4割は派遣や契約社員、パートの非正規労働者である(図1)。不安定な雇用の下、低賃金で働くことを余儀なくされている。
将来を見通せない若者たちは結婚をためらい、子育てを躊躇(ちゅうちょ)する。非婚や晩婚化、少子化は経済と雇用の大きな変化を抜きにして語ることはできない。行政が結婚の斡旋や子育て世代への支援に乗り出す、といった小手先の対応をして解決できるような問題ではなくなっている。
その結果、日本の労働者はどのような状況に追い込まれたか。先進国を中心に38の国でつくるOECD(経済協力開発機構)の統計を見れば、それが如実に分かる。図2は、主要国の平均賃金の推移を示したものである。各国の平均賃金が着実に上がっていく中で、日本人労働者の平均賃金はこの20年、横ばいのままだ。2015年には韓国にも抜かれ、イタリアと最下位を争う状態になっている。
図3を見れば、気分はさらに落ち込む。OECD加盟国の「2020年平均賃金ランキング」によれば、日本人の平均賃金は加盟国平均のかなり下だ。もはや「中進国レベル」と言うしかない。
この間、もちろん企業も苦しんできたが、その痛みは働く者よりはるかに小さい。内部留保を膨らませている企業も少なくない。
パート労働や派遣労働が広がり、働く者が低賃金にあえいでいる現状にメスを入れ、労働環境の大胆な改革に乗り出さない限り、「新しい資本主義」など夢のまた夢だ。経済界の抵抗を押し切り、覚悟をもって取り組まなければ、事態は一歩も動かない。
では、岸田首相にはその覚悟があるのだろうか。改革にかける首相の本気度を測るためには、その言葉より、彼が仕切った人事を見る方がいい。岸田首相は、官房長官とともに政権運営の要となる自民党幹事長に甘利明氏を充てた。都市再生機構(UR)がらみの補償交渉で千葉県の建設会社に肩入れし、口利き料として1200万円もの資金提供や接待を受けた政治家だ(2016年1月、週刊文春の報道で発覚)。
資金を受け取り、接待を受けたのは主に秘書のようだが、甘利氏本人も50万円の札束を2回受け取り、ポケットに入れたことを認めている。「政治資金として受け取った」と釈明したものの、斡旋利得処罰法違反の疑いが濃厚だ。東京地検特捜部が捜査に乗り出し、疑惑が深まるや、甘利氏は「睡眠障害」を理由に入院し、国会にも出て来なくなった。眠れないから入院。ふざけた政治家だ。その後、捜査は尻すぼみになり、事件は闇に葬られた。
その甘利氏が素知らぬ顔で表舞台に舞い戻り、今回の自民党総裁選では「岸田総裁誕生」のために動き、論功で自民党幹事長の要職に就いた。安倍元首相が総裁候補として担いだ高市早苗氏は政務調査会長になった。
新内閣の閣僚の顔ぶれを見ても、岸田首相が「各派閥のバランスを取ってまずは安全運転」と考えていることは明白だ。そのような政治家に「新しい資本主義」を打ち立てるための大胆な改革などできるわけがない。「小さな改革」を小出しにするのが関の山だろう。
◇ ◇
誰が首相になろうと、日本丸の舵取りはきわめて難しい。政府と地方自治体の借金は1100兆円を超える。国内総生産(GDP)の2倍以上だ。それはどのような意味を持つのか。
図4は国際通貨基金(IMF)の経済統計に基づいて、主要国の債務(借金)残高を示したものだ。借金の総額を1年間のGDPで割り、それを百分率で表している。積み重ねた借金が1年分のGDPと同額なら100%となる。日本の債務残高は250%を超え、主要国の中で突出している。2年分のGDPをすべて借金の返済に充てても足りない状態だ。主要国の労働者の平均賃金で最下位を争うイタリアより、ずっとひどい。
経済学者の中には「日本は民間の貯蓄率が際立って高い。政府が保有する資産も膨大だ。イタリアとはまるで違う。これくらいの借金でよろめくことはない」と説く者がいる。「公的な債務は将来に対する投資であり、必ずリターンがある。債務を心配する必要などそもそもない」と主張する学者すらいる。
こういう人たちには「ではなぜ、ほかの国々は債務残高を低く抑えるために必死になっているのか」と問えばいい。ドイツは政府の歳入と歳出をトントンにする、という原則を固く守っている。コロナ禍で国債を発行せざるを得なくなったものの、それを返済する段取りもきちんと国民に示している。
国の財布も個人の財布も、原理は変わらない。収入よりも多く金を使えば、借金をするしかなくなる。そして、借金を重ねていけば、いつか破産する。経済理論をいくらこねくり回しても、この原理を超越することはできないのだ。
あらためて、政府の今年度予算案を眺めてみよう(図5)。国の歳入106兆円の4割は国債を発行してまかなっている。一方で歳出のうち、借金の返済に充てる国債費は2割に過ぎない。つまり、毎年、国の借金は雪ダルマのように膨らみ続ける。
それなのに、日本はインフレにならず、株価の暴落も起きていない。歴代の自民党政権が自転車操業のような手法を編み出し、駆使してきたからだ。
その典型が安倍晋三政権である。国の借金である国債を銀行の元締めの日本銀行に引き受けさせ、どんどん買わせた。紙幣を発行する中央銀行が国債を買い付けることなど、かつては「決してやってはいけない」とされていたが、平気でそれを続けた。
安倍政権は、株価を吊り上げるための手立ても講じた。日本の厚生年金と国民年金の資金は、「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)が運用している。その運用資産は2020年度末で186兆円もあり、世界最大の機関投資家だ。図6に見るように、GPIFは発足時の2006年時点では、主にリスクの小さい国内の債券を買って運用していた。年金制度を支える積立金が目減りしたら大変なことになるからだ。
ところが、安倍政権の下でGPIFはリスクの高い内外の株式や外国債券の割合を大幅に増やしていった。2020年4月の時点では運用先は4分の1ずつ。リスクの高い株式市場に資金をジャブジャブ注ぎ込んだのである。
それは「ギャンブル」のような運用だ。図7が示しているように、2008年のリーマンショックで9兆円もの赤字を出したかと思えば、景気が上向いた2014年には15兆円の黒字になった。何とも危うい運用だ。
年金を管轄する厚生労働省やGPIFは「カナダやノルウェーの年金の株式運用の割合はもっと高い」と説明する。だが、アメリカ最大の公的年金の運用機関である社会保障信託基金(OASDI)が米国債しか買わないことには触れない。ドイツやイギリス、フランスの年金制度は「原則として徴収した資金で年金をまかなう」という堅実なもので、そもそも巨額の積立金を持っていない。それも説明しない。
要するに、年金の積み立てと運用という面でも、日本は極めてリスクの高いことをしている「突出した国家」なのだ。「アベノミクスの3本の矢、成長戦略の一環」などという声に踊らされて株式投資の割合を増やし続け、リスクは極大化した、と言わなければならない。
株価がどう動くかは誰にも予想できない。暴落すれば、年金の支給そのものに影響が出る恐れがある。政府の膨大な債務とともに、年金積立金の運用も大きなリスク要因である。
「新しい資本主義」を唱えるなら、岸田首相はこうした深刻な問題についても率直に語りかけなければならない。が、まったく触れようとしない。問題に手を付けようとするそぶりも見せない。問題の根があまりにも深くかつ重大なので、怖くて触れることすらできないのかもしれない。
◇ ◇
では、政権交代を叫ぶ立憲民主党はどうか。安倍政権は森友学園問題で公文書を改竄(かいざん)し、加計学園問題や「桜を見る会」をめぐってウソとごまかしを重ねた。立憲民主党は、それによって「政治と行政がゆがめられた」と批判し、「透明で信頼できる政府をつくる」と訴える。「原発に依存せず、自然エネルギー立国を目指す」とも唱えている。このへんまでは、すこぶるまっとうだ。
ところが、国の財政や金融の話になると、この政党は途端に突拍子もないことを言い出す。枝野幸男代表はコロナ禍で落ち込んだ消費を回復させるため、「消費税5%への減税が必要だ」と言い放った。年収1000万円程度までは一時的に「所得税をゼロにする」とも口にした。
消費税を半分の5%にすれば、それだけで10兆円の歳入が吹き飛ぶ。所得税ゼロでも兆円単位の歳入減になる。その手当てをどうすると言うのか。「財源は富裕層や大企業への優遇税制の是正で捻出する」と、もっともらしい公約を掲げているが、そうした措置でいくら捻出できるか、試算を示そうともしない。
かつて政権交代を実現した民主党は、掛け声だけは立派だったが、政策を実行する力量も覚悟もなく自滅した。立憲民主党の公約を聞いていると、その姿と二重写しになる。過去の失敗から教訓をくみ取り、今度こそ有権者の信頼を勝ち取らなければならないのに、そういう謙虚さがみじんも感じられない。立憲民主党の面々も、自民党とは異なる意味で有権者を小馬鹿にしている。
国民民主党はどうか。この政党の公約は、立憲民主党の公約が現実的に思えてしまうほど非現実的だ。コロナ禍から立ち上がるため積極財政に転じ、「今後10年間で150兆円の投資をする」のだという。まず、コロナで傷ついた生活と事業を救済するため50兆円の緊急経済対策を講じる。次に、環境やデジタルなど未来への投資に50兆円。さらに、教育と科学技術予算を倍増させ、「人づくり」に50兆円の投資をするのだという。
こんな公約は「私たちはどの党よりも速やかに国家財政を破綻させ、国を破滅に導いてみせます」と言っているに等しい。党の幹部に経済や財政、金融をまともに考えている人間が1人もいないことを示している。論外と言うしかない。
ひたすら税金のバラマキを訴えるという意味では、「0歳から高校3年生まで全員に一律10万円を支給する」と唱える連立与党の公明党も、消費税を廃止すると言う「れいわ新選組」も同列だ。どちらも「責任をもって未来を語ろうとしない」という点で共通している。
各政党の無責任な公約に堪忍袋の緒が切れたのだろう。財務事務次官の矢野康治(こうじ)氏は、月刊『文藝春秋』の11月号に「このままでは国家財政は破綻する」と題した一文を寄せた。
「これでは古代ローマ帝国のパンとサーカスです。誰が一番景気のいいことを言えるか、他の人が思いつかないような大盤振る舞いができるかを競っているかのようでもあり、かの強大な帝国もバラマキで滅亡したのです」
矢野氏は、前述したような日本の財政の危機的状況を具体的に説明しつつ、「あえて今の日本の状況を喩(たと)えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです」と記し、「破滅的な衝突を避けるためには、『不都合な真実』もきちんと直視し、先送りすることなく、最も賢明なやり方で対処していかねばなりません」と訴えている。
森友学園問題で公文書を改竄し、職員を自死にまで追い込みながら誰一人責任を取らなかった財務省のトップがなにを偉そうに、と反発する人もいるかもしれない。
けれども、「国庫の管理をまかされた立場にいる者」として、また「心あるモノ言う犬」として「どんなに叱られても、どんなに搾(しぼ)られても、言うべきことを言わなければならないと思います」と綴った文章には熱を感じる。そして、官僚をここまで追い詰めてしまった日本の政治の貧困を思わないではいられない。
長い文章になってしまった。その他の政党については、寸評するしかない。日本維新の会は主要政党の中では珍しく税金のバラマキを掲げていない。日本社会のどこをどう改革すべきか、現実的な処方箋を示している。が、いかんせん、関西の政党である。ほかの地域の有権者にとってはやはり「遠い存在」だ。
共産党は真面目な政党だが、今さら「共産主義に基づく国家建設」に与(くみ)する気にはなれない。社民党の政策に至っては「大学生の作文か」と言いたくなる。
選択に苦しむ選挙だ。こんなに重苦しい選挙は記憶にない。それでも、私たちは選ばなければならない。「下り坂にさしかかった国」ではあっても、私たちの国にはまだ底力がある。その底力を引き出して、せめてなだらかな坂道にして次の世代に引き継ぎたい。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
≪写真のSource≫
◎岸田文雄首相(HuffPost のサイトから)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6153bcace4b05025422bd5e5
≪参考資料&サイト≫
◎NHKウェブ特集「クローズアップ現代が見つめた17年」
https://www.nhk.or.jp/gendai/special/tokusyu01_figure_section.html
◎「日本人は韓国人より給料が38万円も安い!」(DIAMOND online)
https://diamond.jp/articles/-/278127
◎日医総研リサーチエッセイNo.90 「公的年金の運営状況についての考察(補論)」(石尾勝主任研究員)
https://www.jmari.med.or.jp/research/research/wr_712.html
◎「公的年金積立金運用のあり方について:予備的考察」(國枝繁樹)
https://www.zenginkyo.or.jp/fileadmin/res/news/news270918_14.pdf
昭和の政商、児玉誉士夫は戦前、海軍航空本部の嘱託として上海でコバルトやニッケルなど戦略物資の調達にあたり、莫大な富を手にした。
敗戦直前に隠匿物資とともに引き揚げ、戦後は駐留米軍に協力してその富を温存、保守勢力の黒幕として影響力を行使した。児玉の力の源泉は戦前、戦後を通して「軍」であった。

では、「令和の政商」の異名を取る大樹(たいじゅ)総研グループの代表、矢島義也(よしなり)氏の力の源泉は何か。どうやって原資を蓄えたのか。これまでの報道や関係者の話をもとに探っていくと、どうやら「女」を使って元手を蓄えたのではないか。そう思われる節がある。
矢島氏の名を初めて世に知らしめたのは、スキャンダル暴露雑誌『噂の眞相』である。1999年の8月号に「有名俳優たちの秘密乱交パーティの夜」という記事を掲載し、東京・代々木公園近くのマンションに若手のタレントと妙齢の女性たちを集め、夜ごと乱交パーティーを開いている、と報じた。記事では矢島氏は本名の「矢島義成」として登場する。
このマンションに足しげく通ってきたのはジャニーズ事務所に所属していた堂本光一や長瀬智也、俳優のいしだ壱成、加藤晴彦・・・。当時の売れっ子タレントが続々登場する。彼らの相手をしていた女性たちも突き止め、その証言も生々しく伝えた。
芸能プロの関係者によれば、「矢島はもともと神宮前にあった『ネオ・マスカレード』というバーのオーナー。バーには芸能人やプロ野球選手なんかが頻繁に来ていた。女と有名人には目がない性格で、言ってみれば一種の『芸能ゴロ』みたいなタイプ」なのだという。
このバーにしろ乱交パーティーにしろ、矢島氏とタレントたちを結び付けたのはTBSの宣伝部や編成局の幹部たちのようだ。「TBSに深く食い込み、編成部が主催するゴルフコンペはすべて矢島氏が仕切っている」との証言を伝えている。
この記事を受けて、写真週刊誌『フォーカス』も同年7月21日号で「乱交パーティー『女衒(ぜげん)芸能プロ社長』の正体」と報じた。事情通によれば、「芸能プロ社長の名刺で女の子をナンパ。タレントにしてあげるとか、芸能人に会わせてあげるなどと言って、パーティーに誘っていた」のだという。
同誌は矢島氏の故郷は長野県箕輪(みのわ)町であるとし、地元の人の話として「実家が会社を経営していた資産家の一人息子。地元の高校を中退して、その後も定職につかず、親の金で飲み歩いたり女を引っかけたり。慣れない事業に手を出して失敗、親を破産させてしまった。バカなボンボンというので?バカボン?と呼ばれていました」と伝えている。
◇ ◇
この生い立ちの記はどこまで本当なのか。長野県南部の伊那谷にある故郷を訪ねた。
彼は1961年1月、長野県箕輪町で矢島誠氏の長男として生まれた。この町には、電子部品メーカーとして世界トップクラスの技術を持つ興亜工業という会社がある(後にKOAと社名変更)。創業者は向山(むかいやま)一人氏で、衆院議員や参院議員も務めた。
父親が経営していた矢島電機は興亜の系列会社だった。日本の製造業が世界を席巻していた1980年代には父親の会社も躍進し、町内に豪邸を建てている。「資産家のボンボン」であったことは間違いない。
小中学校時代を知る人は「余裕のある性格で失敗を恐れない。人に頼られるタイプ。器が大きいと感じた。野心は持っていたように思う」と語った。
箕輪中学の卒業文集(1975年度)に寄せた文章(写真)が興味深い。タイトルは「中学卒業バンザイ 後三年で?」。中学校生活の思い出は乏しく、高校生活への期待もあまり感じられない。行数を費やしているのは高校を卒業した後に乗りたい車、とくにポルシェなど外車へのあこがれである。

中学で長く国語の教師を務めた人にこの文章を読んでもらった。この文章から何がうかがえるのか。
「漢字の使い方はちゃんとしている。ただ、部活で活躍したとか達成感を得られた経験がなく、なんとなく過ぎていった中学生活だったのではないか。学校で知識を身につけて社会に出たいと思うタイプではない。さっさと高校を卒業して、楽しいことをしたいと考えていたのではないか」
同級生の記憶によれば、中学卒業後、バレーボールやラグビーの強豪校として知られる岡谷工業高校に入学したものの、中退したようだ。このためか、岡谷工業の同窓会名簿には見当たらない。入学者名簿は保存期間が過ぎたため廃棄されてないという。進学先は確認できなかった。
中退後、矢島氏はゴルフに打ち込んだ。愛好者を集めてコンペを主宰している。シングルプレーヤーで、プロを目指していた節もある。父親に資金を出してもらって、地元にスポーツ用品店を開いたりした。
だが、事業は失敗し、このころ父親の会社の経営も傾き始める。借金も重なり、矢島氏は逃げるように故郷を後にした。神宮前でくだんのバーを開いたのは1989年前後、20代の後半だった。父親の会社は倒産し、1998年に清算された。
会社の土地も豪邸も人手に渡ってしまったが、父親の名義ではなかったからか、生家だけは残った。現在は矢島氏と最初の妻との間にできた娘の名義になっている。父親は10年前に死去したものの、生家には今も「矢島誠」の表札が掲げられている。苦労をかけた父親への償い、なのかもしれない。
東京でバーを経営し、その時の人脈で芸能界とテレビ業界に足場を築いたことは『噂の眞相』や『フォーカス』の記事からうかがえる。だが、「乱交パーティー騒動」の後、矢島氏がどうしていたのかはよく分からない。
中曽根内閣で労働大臣を務めた山口敏夫氏によると、彼はこのころ「銀座でプータローのような生活をしていた」という。彼と知り合ったのも銀座のクラブだ。「だれか貢いでくれる女でもいたのかもしれないね。派手に遊んでいたから」。
その銀座で矢島氏に転機が訪れる。浜松出身の民主党衆院議員、鈴木康友氏と知り合ったのだ。「鈴木氏は落選中だった」というから、郵政民営化をテーマに小泉政権が仕掛けた2005年総選挙以降のことと思われる。
鈴木氏は松下政経塾の1期生で、同期に野田佳彦衆院議員がいた。矢島氏は鈴木―野田のラインをたどって、民主党内に人脈を広げていった。2007年には鈴木氏と矢島氏のイニシャルを冠した政策シンクタンク「S&Y総研」を立ち上げた(後に「大樹総研」と改称)。
鈴木氏はこの年に国政から身を引き、浜松市長に転じたが、矢島氏が政界に人脈を広げるきっかけを作ったという意味で、「政商・矢島義也」の生みの親と言っていい。
◇ ◇
銀座という「地の利」、民主党人脈という「人の和」を得た矢島氏に「天の時」が訪れたのは、2009年である。
時の麻生太郎首相の不人気、自民党の内紛、リーマンショック後の不況といった要素が重なり、この年の総選挙で民主党が圧勝したのだ。鳩山由紀夫政権が誕生し、野田氏は財務副大臣に就任した。
1955年の結党以来、自民党は初めて第2党に転落し、霞が関の官僚たちはうろたえた。大臣になったのはよく知らない政治家ばかり。ツテを求めて、官僚たちの「矢島詣で」が始まる。国会対策を担当していた財務省の福田淳一氏、法務省の黒川弘務氏らとのつながりができたのはこの時である(後に福田氏は事務次官に上り詰めたが、セクハラで失脚。黒川氏は賭け麻雀で検事総長になり損ねた)。
矢島氏は民主党政権時代、野党自民党の国会対策副委員長として苦労していた菅義偉氏に手を差し伸べている。グループの議員が軒並み落選し、派閥解消に追い込まれた二階俊博氏も支援した。このへんが矢島氏の懐の深いところだ。人間、苦しい時に助けてくれた人への恩は忘れない。
自民党が政権を奪回すると、矢島氏は菅―二階のラインで自民党にも人脈を広げ、与野党の双方に太いパイプを持つに至った。官僚や経済人が以前にも増して群がったのは言うまでもない。
矢島氏の人脈のすごさを見せつけたのが、2016年5月に帝国ホテル「富士の間」で開いた「結婚を祝う会」である。銀座で知り合った女性との再婚を祝う会なのだが、主賓は菅義偉・官房長官(当時)、乾杯の音頭は二階俊博・自民党総務会長(同)という豪華版だ。
民進党(旧民主党)からも野田佳彦氏、玄葉光一郎氏、細野豪志氏らが出席、財務省の福田氏ら有力省庁の幹部も漏れなく参じた。菅氏と親しいSBIホールディングスの北尾吉孝社長、サイバーセキュリティ分野で国内第一人者とされる安田浩・東大名誉教授、徳川宗家19代当主の徳川家広氏、インドネシアのゴベル通商大臣ら実に多彩な顔ぶれである。
こういう席にはあまり顔を出さない安倍晋三首相(同)もビデオメッセージを寄せ、それが披露されると、300人余りの出席者の間にざわめきが広がったという。
その人脈を矢島氏はどのように活用しているのか。その内実を、月刊誌『選択』が2018年8月号で詳細に暴いている。
大樹総研の傘下に再生可能エネルギー事業を手がける「JCサービス」という会社がある。この会社が鹿児島県徳之島町で太陽光発電の蓄電池増設事業を計画し、2013年に環境省から補助金を受けた。
ところが、蓄電池は一度も稼働せず、一部は現場に放置されていた。事業のずさんさを知った環境省は、補助金2億9600万円の返還と加算金1億3600万円の支払いを命じた。
問題は、このJCサービスの子会社から細野豪志氏に5000万円の資金が流れていたことだ。この補助事業が検討されていた2012年当時、細野氏は野田政権の環境大臣であり、「便宜供与への謝礼(賄賂)」ではないか、との疑惑が浮上した。
細野氏は「個人的に借りた」と釈明し、贈収賄事件として立件されることはなかったが、細野氏と会社との仲介をしたのは大樹総研グループと見られる。
『選択』は、ソーシャルレンディングをめぐる闇も追及している。ネット上で資金を募り、ネット上で融資の仲介をするベンチャービジネスの一つだが、再生可能エネルギーへの投資を名目に巨額の資金を集めながら、それとは別のことに流用するといったトラブルが頻発している。この分野でも大樹総研傘下の企業群がうごめいているという。
記事で引用している大樹コンサルティングの海老根靖典社長の言葉が興味深い。海老根氏によれば、大樹総研グループは「すべての政党と深く関わりがあり、中央官庁との色々なネットワークも持っていますので、政治的な働きかけができることが大きな強み」なのだという。
彼らはその「強み」をどのように使っているのか。政治家や官僚、企業経営者たちは大樹総研グループとどう関わっているのか。一つひとつ、それを解き明かしていく作業を続けなければなるまい。
*メールマガジン「風切通信 94」 2021年9月28日
*初出:調査報道サイト「HUNTER」
≪写真説明≫
長野県箕輪町にある矢島義也氏の生家
≪参考資料≫
◎矢島義也氏の関係年表
◎父親の会社「矢島電機」が清算されたことを示す法人登記

敗戦直前に隠匿物資とともに引き揚げ、戦後は駐留米軍に協力してその富を温存、保守勢力の黒幕として影響力を行使した。児玉の力の源泉は戦前、戦後を通して「軍」であった。

では、「令和の政商」の異名を取る大樹(たいじゅ)総研グループの代表、矢島義也(よしなり)氏の力の源泉は何か。どうやって原資を蓄えたのか。これまでの報道や関係者の話をもとに探っていくと、どうやら「女」を使って元手を蓄えたのではないか。そう思われる節がある。
矢島氏の名を初めて世に知らしめたのは、スキャンダル暴露雑誌『噂の眞相』である。1999年の8月号に「有名俳優たちの秘密乱交パーティの夜」という記事を掲載し、東京・代々木公園近くのマンションに若手のタレントと妙齢の女性たちを集め、夜ごと乱交パーティーを開いている、と報じた。記事では矢島氏は本名の「矢島義成」として登場する。
このマンションに足しげく通ってきたのはジャニーズ事務所に所属していた堂本光一や長瀬智也、俳優のいしだ壱成、加藤晴彦・・・。当時の売れっ子タレントが続々登場する。彼らの相手をしていた女性たちも突き止め、その証言も生々しく伝えた。
芸能プロの関係者によれば、「矢島はもともと神宮前にあった『ネオ・マスカレード』というバーのオーナー。バーには芸能人やプロ野球選手なんかが頻繁に来ていた。女と有名人には目がない性格で、言ってみれば一種の『芸能ゴロ』みたいなタイプ」なのだという。
このバーにしろ乱交パーティーにしろ、矢島氏とタレントたちを結び付けたのはTBSの宣伝部や編成局の幹部たちのようだ。「TBSに深く食い込み、編成部が主催するゴルフコンペはすべて矢島氏が仕切っている」との証言を伝えている。
この記事を受けて、写真週刊誌『フォーカス』も同年7月21日号で「乱交パーティー『女衒(ぜげん)芸能プロ社長』の正体」と報じた。事情通によれば、「芸能プロ社長の名刺で女の子をナンパ。タレントにしてあげるとか、芸能人に会わせてあげるなどと言って、パーティーに誘っていた」のだという。
同誌は矢島氏の故郷は長野県箕輪(みのわ)町であるとし、地元の人の話として「実家が会社を経営していた資産家の一人息子。地元の高校を中退して、その後も定職につかず、親の金で飲み歩いたり女を引っかけたり。慣れない事業に手を出して失敗、親を破産させてしまった。バカなボンボンというので?バカボン?と呼ばれていました」と伝えている。
◇ ◇
この生い立ちの記はどこまで本当なのか。長野県南部の伊那谷にある故郷を訪ねた。
彼は1961年1月、長野県箕輪町で矢島誠氏の長男として生まれた。この町には、電子部品メーカーとして世界トップクラスの技術を持つ興亜工業という会社がある(後にKOAと社名変更)。創業者は向山(むかいやま)一人氏で、衆院議員や参院議員も務めた。
父親が経営していた矢島電機は興亜の系列会社だった。日本の製造業が世界を席巻していた1980年代には父親の会社も躍進し、町内に豪邸を建てている。「資産家のボンボン」であったことは間違いない。
小中学校時代を知る人は「余裕のある性格で失敗を恐れない。人に頼られるタイプ。器が大きいと感じた。野心は持っていたように思う」と語った。
箕輪中学の卒業文集(1975年度)に寄せた文章(写真)が興味深い。タイトルは「中学卒業バンザイ 後三年で?」。中学校生活の思い出は乏しく、高校生活への期待もあまり感じられない。行数を費やしているのは高校を卒業した後に乗りたい車、とくにポルシェなど外車へのあこがれである。

中学で長く国語の教師を務めた人にこの文章を読んでもらった。この文章から何がうかがえるのか。
「漢字の使い方はちゃんとしている。ただ、部活で活躍したとか達成感を得られた経験がなく、なんとなく過ぎていった中学生活だったのではないか。学校で知識を身につけて社会に出たいと思うタイプではない。さっさと高校を卒業して、楽しいことをしたいと考えていたのではないか」
同級生の記憶によれば、中学卒業後、バレーボールやラグビーの強豪校として知られる岡谷工業高校に入学したものの、中退したようだ。このためか、岡谷工業の同窓会名簿には見当たらない。入学者名簿は保存期間が過ぎたため廃棄されてないという。進学先は確認できなかった。
中退後、矢島氏はゴルフに打ち込んだ。愛好者を集めてコンペを主宰している。シングルプレーヤーで、プロを目指していた節もある。父親に資金を出してもらって、地元にスポーツ用品店を開いたりした。
だが、事業は失敗し、このころ父親の会社の経営も傾き始める。借金も重なり、矢島氏は逃げるように故郷を後にした。神宮前でくだんのバーを開いたのは1989年前後、20代の後半だった。父親の会社は倒産し、1998年に清算された。
会社の土地も豪邸も人手に渡ってしまったが、父親の名義ではなかったからか、生家だけは残った。現在は矢島氏と最初の妻との間にできた娘の名義になっている。父親は10年前に死去したものの、生家には今も「矢島誠」の表札が掲げられている。苦労をかけた父親への償い、なのかもしれない。
東京でバーを経営し、その時の人脈で芸能界とテレビ業界に足場を築いたことは『噂の眞相』や『フォーカス』の記事からうかがえる。だが、「乱交パーティー騒動」の後、矢島氏がどうしていたのかはよく分からない。
中曽根内閣で労働大臣を務めた山口敏夫氏によると、彼はこのころ「銀座でプータローのような生活をしていた」という。彼と知り合ったのも銀座のクラブだ。「だれか貢いでくれる女でもいたのかもしれないね。派手に遊んでいたから」。
その銀座で矢島氏に転機が訪れる。浜松出身の民主党衆院議員、鈴木康友氏と知り合ったのだ。「鈴木氏は落選中だった」というから、郵政民営化をテーマに小泉政権が仕掛けた2005年総選挙以降のことと思われる。
鈴木氏は松下政経塾の1期生で、同期に野田佳彦衆院議員がいた。矢島氏は鈴木―野田のラインをたどって、民主党内に人脈を広げていった。2007年には鈴木氏と矢島氏のイニシャルを冠した政策シンクタンク「S&Y総研」を立ち上げた(後に「大樹総研」と改称)。
鈴木氏はこの年に国政から身を引き、浜松市長に転じたが、矢島氏が政界に人脈を広げるきっかけを作ったという意味で、「政商・矢島義也」の生みの親と言っていい。
◇ ◇
銀座という「地の利」、民主党人脈という「人の和」を得た矢島氏に「天の時」が訪れたのは、2009年である。
時の麻生太郎首相の不人気、自民党の内紛、リーマンショック後の不況といった要素が重なり、この年の総選挙で民主党が圧勝したのだ。鳩山由紀夫政権が誕生し、野田氏は財務副大臣に就任した。
1955年の結党以来、自民党は初めて第2党に転落し、霞が関の官僚たちはうろたえた。大臣になったのはよく知らない政治家ばかり。ツテを求めて、官僚たちの「矢島詣で」が始まる。国会対策を担当していた財務省の福田淳一氏、法務省の黒川弘務氏らとのつながりができたのはこの時である(後に福田氏は事務次官に上り詰めたが、セクハラで失脚。黒川氏は賭け麻雀で検事総長になり損ねた)。
矢島氏は民主党政権時代、野党自民党の国会対策副委員長として苦労していた菅義偉氏に手を差し伸べている。グループの議員が軒並み落選し、派閥解消に追い込まれた二階俊博氏も支援した。このへんが矢島氏の懐の深いところだ。人間、苦しい時に助けてくれた人への恩は忘れない。
自民党が政権を奪回すると、矢島氏は菅―二階のラインで自民党にも人脈を広げ、与野党の双方に太いパイプを持つに至った。官僚や経済人が以前にも増して群がったのは言うまでもない。
矢島氏の人脈のすごさを見せつけたのが、2016年5月に帝国ホテル「富士の間」で開いた「結婚を祝う会」である。銀座で知り合った女性との再婚を祝う会なのだが、主賓は菅義偉・官房長官(当時)、乾杯の音頭は二階俊博・自民党総務会長(同)という豪華版だ。
民進党(旧民主党)からも野田佳彦氏、玄葉光一郎氏、細野豪志氏らが出席、財務省の福田氏ら有力省庁の幹部も漏れなく参じた。菅氏と親しいSBIホールディングスの北尾吉孝社長、サイバーセキュリティ分野で国内第一人者とされる安田浩・東大名誉教授、徳川宗家19代当主の徳川家広氏、インドネシアのゴベル通商大臣ら実に多彩な顔ぶれである。
こういう席にはあまり顔を出さない安倍晋三首相(同)もビデオメッセージを寄せ、それが披露されると、300人余りの出席者の間にざわめきが広がったという。
その人脈を矢島氏はどのように活用しているのか。その内実を、月刊誌『選択』が2018年8月号で詳細に暴いている。
大樹総研の傘下に再生可能エネルギー事業を手がける「JCサービス」という会社がある。この会社が鹿児島県徳之島町で太陽光発電の蓄電池増設事業を計画し、2013年に環境省から補助金を受けた。
ところが、蓄電池は一度も稼働せず、一部は現場に放置されていた。事業のずさんさを知った環境省は、補助金2億9600万円の返還と加算金1億3600万円の支払いを命じた。
問題は、このJCサービスの子会社から細野豪志氏に5000万円の資金が流れていたことだ。この補助事業が検討されていた2012年当時、細野氏は野田政権の環境大臣であり、「便宜供与への謝礼(賄賂)」ではないか、との疑惑が浮上した。
細野氏は「個人的に借りた」と釈明し、贈収賄事件として立件されることはなかったが、細野氏と会社との仲介をしたのは大樹総研グループと見られる。
『選択』は、ソーシャルレンディングをめぐる闇も追及している。ネット上で資金を募り、ネット上で融資の仲介をするベンチャービジネスの一つだが、再生可能エネルギーへの投資を名目に巨額の資金を集めながら、それとは別のことに流用するといったトラブルが頻発している。この分野でも大樹総研傘下の企業群がうごめいているという。
記事で引用している大樹コンサルティングの海老根靖典社長の言葉が興味深い。海老根氏によれば、大樹総研グループは「すべての政党と深く関わりがあり、中央官庁との色々なネットワークも持っていますので、政治的な働きかけができることが大きな強み」なのだという。
彼らはその「強み」をどのように使っているのか。政治家や官僚、企業経営者たちは大樹総研グループとどう関わっているのか。一つひとつ、それを解き明かしていく作業を続けなければなるまい。
*メールマガジン「風切通信 94」 2021年9月28日
*初出:調査報道サイト「HUNTER」
≪写真説明≫
長野県箕輪町にある矢島義也氏の生家
≪参考資料≫
◎矢島義也氏の関係年表
◎父親の会社「矢島電機」が清算されたことを示す法人登記

余命いくばくもなく、訪ねることができるところはあと一つだけ。そう告げられたら、あなたはどこを選ぶだろうか。
私は迷うことなく、「アフガニスタン」と答える。32年前、国際部門に配属されて最初に取材した国であり、その後も新聞記者として心血を注ぎ続けた土地だからだ。

戦争とは何か。その中で生きるとはどういうことか。アフガンの人々と接する中でそれを教えられ、考えさせられた。厳しい取材だったが、日本にいたのでは経験も想像もできないことが多かった。新聞記者として生きてゆく覚悟のようなものを植え付けられた土地だった。
この夏、そのアフガニスタンが再び国際報道の焦点になった。
2001年9月の同時多発テロの後、アメリカはこの国に攻め込んだ。当時、この国を支配していたイスラム勢力のタリバンが、テロの首謀者であるオサマ・ビンラディンらをかくまっていたからだ。
米国は圧倒的な軍事力でタリバン政権を崩壊させ、親米的な政権をつくり、この国を「自由で民主的な国」にしようと試みてきた。だが、20年にわたって戦い、支援してきたにもかかわらず、彼らが望むような国をつくることはできず、撤退に追い込まれた。
全土をほぼ支配下に収め、実権を握ったのは、米軍が一度はたたき潰したはずのタリバンである。
首都カブールの北郊にある空港は逃げ出す外国人であふれ返った。通訳や諜報員として米軍に協力したアフガン人とその家族も、報復を恐れて空港に押し寄せた。離陸する輸送機の機体にしがみつく人々を捉(とら)えた映像は、彼らの恐怖心がどれほどのものかを示している。
なにせタリバンは、アフガン各派の中で最も厳格にイスラム法を適用すると標榜している勢力である。かつて権力を掌握した際には、反対勢力を容赦なく処刑した。
女性には全身をすっぽり覆うブルカの着用を強制し、女子教育も認めなかった。「盗みを働いた者は手を切り落とす」「姦通は石打ちの刑」といった古来の刑罰を復活させ、実行した。バーミヤンの大仏を「偶像崇拝の象徴」として爆破したのもタリバンだ。
「あの恐怖の日々がまたやって来る」。普通の住民がおびえるのは無理もない。
だが、アフガニスタンの政治と社会をずっと追ってきた人間から見ると、「タリバンはかなり変わった」と映る。かつての統治の行き過ぎを認め、より現実的な方向に舵を切ろうとしているのではないか。
米軍撤退の前に米政府と交渉し、「撤退が完了するまではカブール国際空港の管理を米軍にゆだねる」と合意したのは、路線変更の証しと言っていい。かつてのタリバンなら、勢いにまかせて空港も制圧し、殺戮(さつりく)の限りを尽くしたことだろう。
権力掌握後の8月17日に開いた記者会見で、タリバンの報道官は「女性の権利を尊重する。女性は働き、学ぶことができる」「自由で独立した報道を認める」と語った。どちらも「イスラム法が認める範囲内で」という条件付きではあるが、大きな路線転換であることは間違いない。
報道官は、反対勢力の政治家や兵士に「恩赦を与える」と述べ、「外国に脅威を与えることは望まない」と表明した。「アフガンはまた『テロの温床』になってしまうのではないか」との懸念を払拭しようとしたのだろう。
こうしたタリバン側の表明を「国際社会からの批判をかわすための演技」と報じたメディアもある。確かに、額面通りに受けとめるわけにはいかない。タリバンの兵士たちがこうした約束をどれだけ守るかも定かではない。
だが、この国が歩んできた険しい道のりを思えば、「演技」と断じてしまうのは酷だろう。一線の兵士はともかく、少なくともタリバンの指導部は過去の失敗から学び、「現実的な路線を選択しなければ、安定した統治はできない」と悟ったのではないか。
◇ ◇
私が初めてアフガニスタンを訪れたのは1989年の4月である。インドのニューデリーから空路、首都のカブールに向かった。パキスタンの領土を横切り、空からこの国の風景を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。黒褐色の岩山が延々と続いていた。
国境の峰々を越えても、その色は変わらない。砂漠ではなく、岩と土漠(どばく)の世界が広がっていた。緑はほとんどない。雪融け水が流れる川に沿って草木がわずかに茂り、村々がへばり付くように点在していた。
緑に包まれた日本の風景の「ネガフィルム」を見ているような感覚。こんな厳しい土地で人々はどうやって生きてきたのか。なぜ、争いがやまないのか。褐色の大地を食い入るように見つめ続けた。
当時、この国を支配していたのは共産主義政権だった。ソ連はその政権を支えるため軍事介入したが、10年にわたって反政府イスラム武装勢力の激しい抵抗を受け、おびただしい数の犠牲者を出して2カ月前に完全撤退していた。
ソ連軍の撤退前にアメリカや日本の外交官は脱出し、国連の職員も去っていた。長い戦乱ですでにパキスタンとイランに500万人の難民が流出していたが、撤退を機に新たな難民も生まれた。この時の混乱状態は今回の米軍撤退時と重なるものがある。
政府側が支配しているのは首都カブールをはじめとする主要都市だけ。農村部は反政府勢力がおさえ、都市を包囲していた。カブールにも連日のようにロケット弾が撃ち込まれていた。
中心部のホテルは破壊され、報道陣が宿泊できるのは丘の上にあるホテルのみ。ここに世界中からやって来た多くの記者やカメラマンが陣取っていた。
国際電話はほとんど通じない。衛星電話は登場したばかりで、大型のスーツケースほどもあった。高価なうえ記者一人ではとても持ち込めない。商用のテレックス回線を使い、ローマ字で日本語の原稿を送るしかなかった。
戦況を正確に把握するためには、反政府勢力側からも取材しなければならない。何回目かの出張の際、パキスタンの国境地帯からゲリラ部隊に同行して彼らの動きも取材した。
それができたのは、当時のアフガンでは「パシュトゥンの掟」と呼ばれる慣習が強く残っていたからである。その掟は部族によって微妙に異なるが、「尚武(トゥーラ)」「客人歓待(メルマスティア)」「復讐(バダル)」の三つはどこでも固く守られていた。
自立心が強く、家族と財産を守るために命をかけて戦う。一方で、見知らぬ者でも頼ってくれば、できる限りのもてなしをする。客人として記者を受け入れた部隊は、記者を守るためにあらゆる手段を尽くしてくれた。
目にした農村の風景は強烈だった。どの家も高い土壁に囲まれ、一軒一軒が砦(とりで)のような造りになっている。どの家にも男手の数だけ自動小銃があった。男の子は物心がついたころから、銃を分解して組み立てることを仕込まれるのだという。
アメリカは「銃社会」と言われるが、それをはるかに上回る「重武装の社会」である。そして、それはこの国の地勢を考えれば、当然のことだった。
周りの国はすべて陸続きだ。いつ、どこから、武装した人間たちがなだれ込んでくるか分からない。実際、騎乗したモンゴル兵に蹂躙(じゅうりん)され、ペルシャの軍勢に攻め込まれるといった歴史をくぐり抜けてきた。自分の身は自分で守るしかない社会なのだ。
日本は海に囲まれ、外敵に突然攻め込まれる、といった心配をする必要がない。有史以来、外国の大軍に攻撃されたのは、元寇とマッカーサー率いる米軍の2回だけである。
世界でもまれなほど「安全な国」だ。軍事的な観点から見ても、日本とアフガンは「写真のネガとポジ」のような関係にある。日本人の感覚でこの国の政治や社会を考えようとしても、とても捉えきれるものではない。
◇ ◇
ソ連軍撤退の3年後、1992年に共産主義政権は崩壊し、イスラム政権が樹立された。だが、待っていたのはイスラム諸勢力による凄惨な内戦だった。
アフガニスタンの国境が現在のような形になったのは19世紀末のことである。
インドを植民地支配していた大英帝国はその版図を西に広げようとした。一方、北からはロシア帝国が南下を図って攻め込んだ。せめぎ合う二つの帝国は、直接衝突することを避けるため、アフガニスタンを「緩衝地帯」として残すことで合意した。そうして引かれたのが今の国境線である。
その結果、この地域で暮らしていた主要な民族は真っ二つに分断された。ヒンドゥークシ山脈の南麓にいたパシュトゥン人はアフガンと英領インド(現パキスタン)に二分され、山脈の北側にいたタジク人とウズベク人も、半分はロシア領に組み込まれた(図参照)。
アフガンの苦悩は、この国境画定を抜きにして語ることはできない。人口の過半数を占める民族はない。おまけに、どの民族も多くの部族に分かれ、それぞれの利害がぶつかり合う。
一口に反政府イスラム勢力と言っても、私が取材していた頃ですら、15もの組織に分かれていた。共産主義政権という「共通の敵」がいなくなった途端、そうした勢力が入り乱れて戦い始めたのだ。
90年代の半ば、国土が荒れ果て、世界が関心を失う中で台頭したのがタリバンだった。パシュトゥー語で「(神学校の)生徒」を意味する。厳格なイスラム支配を唱える宗教指導者が神学校の生徒たちを糾合して組織した、と喧伝されたが、それは表向きの顔に過ぎない。
戦車をはじめとする武器と弾薬を供給したのはパキスタンの軍部であり、資金的に支えたのは湾岸諸国のイスラム主義勢力だった。パキスタンは隣国を意のままに操ることを目指し、湾岸の同調勢力は「理想のイスラム国家」の建設を夢見た。
だが、尚武の気質を持つ民は「武器と金」をもらっても、意のままにはならなかった。支援する者たちの思惑を超えて、信じられないほど厳格なイスラム支配に乗り出し、米国を「悪の帝国」とみなすアルカイダなど過激な勢力と手を組んだ。
共産主義から厳格なイスラム支配へ。大国と周辺国の思惑に突き動かされ、アフガンは振り子の重しが外れてしまうほど激しく揺れた。そして、9・11テロへと至ったのだった。
アメリカの政治家と軍人たちは「我々には『テロの撲滅』という大義がある。今度こそ、この国を自由で開かれた国にする」と決意していたのではないか。日本や欧州諸国もそれに従って巨額の援助を注ぎ込んだ。
そうした介入と援助は水泡に帰した。なぜか。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「気概と気風」を軽く見ていたのではないか。彼らはよそ者から押し付けられることを何よりも嫌う。自分たちの社会のことは自分たちで決めたいのだ。彼らには彼らの掟と慣習がある。それはイスラムが伝来するはるか以前から育んできたもので、イスラムの教えと溶け合って社会に深く根を下ろしている。変える必要があるとしても、根付いたものに反しないよう変え方も自分たちで決めたいのだ。
「パシュトゥンの掟」の一つに、紛争はジルガ(部族評議会)で決着を付ける、というのがある。部族の代表者が一堂に会し、納得がいくまで話し合って決めるやり方だ。それは自由選挙を基にした代議制民主主義とはまるで異なるものだが、長い歴史の中で培われ、機能してきた制度である。民主主義を採り入れるにしても、こうしたジルガの伝統との折り合いを付けた制度にしない限り、この国でうまく機能することはないだろう。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「苦悩と誇り」にも思いが至らなかった。
アメリカのメディアは、今回の米軍の撤退を1975年の南ベトナムからの撤退になぞらえて報道した。多くの血を流しながら戦争の目的を達することができず、みじめな形で出ていった、という点では確かに似ている。
けれども、アフガンの人たちが思い浮かべたのはベトナムではないだろう。もっと長い時間軸、この100年余りの歴史を振り返っているのではないか。
19世紀から20世紀初頭にかけて、世界で最も強大だったのは大英帝国である。前述のように、大英帝国はインドの植民地を西に広げようとして、何度かアフガンに攻め込んだ。首都のカブールを占領したこともある。だが、繰り返される反乱に手を焼き、撤退した。
そして、20世紀の後半には超大国ソ連の軍隊を追い出し、今回は唯一の超大国アメリカの軍隊を追い払った。「帝国の軍隊」に3回も苦杯をなめさせたのである。
もちろん、そのたびにおびただしい犠牲を払い、語り尽くせぬほどの苦悩を味わった。だが、それも彼らの価値観に照らせば、避けられなかった犠牲であり、決して屈しなかったことを誇りとして胸に抱くことになるのだろう。
◇ ◇
現場の記者として、私がアフガニスタンを担当したのは1989年から95年までの6年間である。その後、東京でアジア担当のデスクとしてこの国の動きをフォーローし、社説を担当する論説委員になってからも足を運び続けた。
戦乱の国の取材なので、政治指導者や軍人に会うことが多かったが、可能な限り農村の様子を見て回った。戦火がどんなに激しくなっても、国土がいかに荒廃しようとも、農村には乾いた大地を耕し、乏しい水を分け合う姿があった。
食べ物を確保し、生き延びる。それだけでも大変な状況なのに、どの村でも人々は子どもたちに教育を授けるためにあらゆる努力を重ねていた。未来はそこからしか開けないことを知っていた。「この国には希望がある」。そう感じさせるものがあった。
忘れられない言葉を聞いたのも、この国の人たちからだった。
難民キャンプでみけんに深い皺を刻んだ老人に会った。戦闘に巻き込まれて孫を亡くしたばかりという。「私のような年寄りが生き残り、幼い孫が死んでいく。耐え難い」。そう嘆き、「いのちは幸運の結晶なのです」とつぶやいた。
いぶかる私の目を見ながら、老人はさとすように語った。
「君のいのちはお父さんとお母さんが出会って生まれた。どちらかが病気やけがで倒れていたら、君はこの世にいなかった。お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんが出会って生まれた。だれかが病気やけがで倒れていたら、二人はこの世にいなかった」
「たくさんの、数えきれないほどたくさんのいのちが幸運にも生き永らえて、君にいのちをつないできた。だから、いのちは一つひとつ『幸運の結晶』なのです」
命がいともたやすく失われていく国で聞く命の意味。いや、いともたやすく失われていくからこそ紡ぎ出された言葉だったのかもしれない。その後、記者として出会い、耳にしたどんな言葉よりも深く心に沈み、忘れられない言葉となった。
アフガニスタンを「失敗国家」と呼ぶ人がいる。「破綻国家」と言う人もいる。けれども、そこに生きる人たちは「失敗人間」でも「破綻した人間」でもない。だれもが「幸運の結晶」としての生を生きている。
再び権力の座に就いたタリバンはこの国をどこへ導くのか。それを見通すうえで大切なのは、自らの価値観だけでなく、彼らの価値観、さらに第三の価値観も携えてこの国に光を当ててみることだ。
それはアフガニスタン問題に限らない。一つの尺度で物事を見る。そんな時代はとうに過ぎ去った。未来は混沌としており、複眼でも見通せない。より良く生きるために、立体的な座標軸が求められる時代なのである。
(長岡 昇)
2021年8月28日
≪写真説明&Source≫
タリバンの兵士たち(AFP、2020年3月2日撮影。BBCのサイトから)
https://www.bbc.com/japanese/51716332
≪参考文献≫
◎『アフガニスタン史』(前田耕作、山根聡)河出書房新社
◎『タリバン』(アハメド・ラシッド)講談社
◎『Afghanistan』(Louis Dupree)Princeton University Press
◎『The Great Game』(Peter Hopkirk) Butler & Tanner Ltd
私は迷うことなく、「アフガニスタン」と答える。32年前、国際部門に配属されて最初に取材した国であり、その後も新聞記者として心血を注ぎ続けた土地だからだ。

戦争とは何か。その中で生きるとはどういうことか。アフガンの人々と接する中でそれを教えられ、考えさせられた。厳しい取材だったが、日本にいたのでは経験も想像もできないことが多かった。新聞記者として生きてゆく覚悟のようなものを植え付けられた土地だった。
この夏、そのアフガニスタンが再び国際報道の焦点になった。
2001年9月の同時多発テロの後、アメリカはこの国に攻め込んだ。当時、この国を支配していたイスラム勢力のタリバンが、テロの首謀者であるオサマ・ビンラディンらをかくまっていたからだ。
米国は圧倒的な軍事力でタリバン政権を崩壊させ、親米的な政権をつくり、この国を「自由で民主的な国」にしようと試みてきた。だが、20年にわたって戦い、支援してきたにもかかわらず、彼らが望むような国をつくることはできず、撤退に追い込まれた。
全土をほぼ支配下に収め、実権を握ったのは、米軍が一度はたたき潰したはずのタリバンである。
首都カブールの北郊にある空港は逃げ出す外国人であふれ返った。通訳や諜報員として米軍に協力したアフガン人とその家族も、報復を恐れて空港に押し寄せた。離陸する輸送機の機体にしがみつく人々を捉(とら)えた映像は、彼らの恐怖心がどれほどのものかを示している。
なにせタリバンは、アフガン各派の中で最も厳格にイスラム法を適用すると標榜している勢力である。かつて権力を掌握した際には、反対勢力を容赦なく処刑した。
女性には全身をすっぽり覆うブルカの着用を強制し、女子教育も認めなかった。「盗みを働いた者は手を切り落とす」「姦通は石打ちの刑」といった古来の刑罰を復活させ、実行した。バーミヤンの大仏を「偶像崇拝の象徴」として爆破したのもタリバンだ。
「あの恐怖の日々がまたやって来る」。普通の住民がおびえるのは無理もない。
だが、アフガニスタンの政治と社会をずっと追ってきた人間から見ると、「タリバンはかなり変わった」と映る。かつての統治の行き過ぎを認め、より現実的な方向に舵を切ろうとしているのではないか。
米軍撤退の前に米政府と交渉し、「撤退が完了するまではカブール国際空港の管理を米軍にゆだねる」と合意したのは、路線変更の証しと言っていい。かつてのタリバンなら、勢いにまかせて空港も制圧し、殺戮(さつりく)の限りを尽くしたことだろう。
権力掌握後の8月17日に開いた記者会見で、タリバンの報道官は「女性の権利を尊重する。女性は働き、学ぶことができる」「自由で独立した報道を認める」と語った。どちらも「イスラム法が認める範囲内で」という条件付きではあるが、大きな路線転換であることは間違いない。
報道官は、反対勢力の政治家や兵士に「恩赦を与える」と述べ、「外国に脅威を与えることは望まない」と表明した。「アフガンはまた『テロの温床』になってしまうのではないか」との懸念を払拭しようとしたのだろう。
こうしたタリバン側の表明を「国際社会からの批判をかわすための演技」と報じたメディアもある。確かに、額面通りに受けとめるわけにはいかない。タリバンの兵士たちがこうした約束をどれだけ守るかも定かではない。
だが、この国が歩んできた険しい道のりを思えば、「演技」と断じてしまうのは酷だろう。一線の兵士はともかく、少なくともタリバンの指導部は過去の失敗から学び、「現実的な路線を選択しなければ、安定した統治はできない」と悟ったのではないか。
◇ ◇
私が初めてアフガニスタンを訪れたのは1989年の4月である。インドのニューデリーから空路、首都のカブールに向かった。パキスタンの領土を横切り、空からこの国の風景を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。黒褐色の岩山が延々と続いていた。
国境の峰々を越えても、その色は変わらない。砂漠ではなく、岩と土漠(どばく)の世界が広がっていた。緑はほとんどない。雪融け水が流れる川に沿って草木がわずかに茂り、村々がへばり付くように点在していた。
緑に包まれた日本の風景の「ネガフィルム」を見ているような感覚。こんな厳しい土地で人々はどうやって生きてきたのか。なぜ、争いがやまないのか。褐色の大地を食い入るように見つめ続けた。
当時、この国を支配していたのは共産主義政権だった。ソ連はその政権を支えるため軍事介入したが、10年にわたって反政府イスラム武装勢力の激しい抵抗を受け、おびただしい数の犠牲者を出して2カ月前に完全撤退していた。
ソ連軍の撤退前にアメリカや日本の外交官は脱出し、国連の職員も去っていた。長い戦乱ですでにパキスタンとイランに500万人の難民が流出していたが、撤退を機に新たな難民も生まれた。この時の混乱状態は今回の米軍撤退時と重なるものがある。
政府側が支配しているのは首都カブールをはじめとする主要都市だけ。農村部は反政府勢力がおさえ、都市を包囲していた。カブールにも連日のようにロケット弾が撃ち込まれていた。
中心部のホテルは破壊され、報道陣が宿泊できるのは丘の上にあるホテルのみ。ここに世界中からやって来た多くの記者やカメラマンが陣取っていた。
国際電話はほとんど通じない。衛星電話は登場したばかりで、大型のスーツケースほどもあった。高価なうえ記者一人ではとても持ち込めない。商用のテレックス回線を使い、ローマ字で日本語の原稿を送るしかなかった。
戦況を正確に把握するためには、反政府勢力側からも取材しなければならない。何回目かの出張の際、パキスタンの国境地帯からゲリラ部隊に同行して彼らの動きも取材した。
それができたのは、当時のアフガンでは「パシュトゥンの掟」と呼ばれる慣習が強く残っていたからである。その掟は部族によって微妙に異なるが、「尚武(トゥーラ)」「客人歓待(メルマスティア)」「復讐(バダル)」の三つはどこでも固く守られていた。
自立心が強く、家族と財産を守るために命をかけて戦う。一方で、見知らぬ者でも頼ってくれば、できる限りのもてなしをする。客人として記者を受け入れた部隊は、記者を守るためにあらゆる手段を尽くしてくれた。
目にした農村の風景は強烈だった。どの家も高い土壁に囲まれ、一軒一軒が砦(とりで)のような造りになっている。どの家にも男手の数だけ自動小銃があった。男の子は物心がついたころから、銃を分解して組み立てることを仕込まれるのだという。
アメリカは「銃社会」と言われるが、それをはるかに上回る「重武装の社会」である。そして、それはこの国の地勢を考えれば、当然のことだった。
周りの国はすべて陸続きだ。いつ、どこから、武装した人間たちがなだれ込んでくるか分からない。実際、騎乗したモンゴル兵に蹂躙(じゅうりん)され、ペルシャの軍勢に攻め込まれるといった歴史をくぐり抜けてきた。自分の身は自分で守るしかない社会なのだ。
日本は海に囲まれ、外敵に突然攻め込まれる、といった心配をする必要がない。有史以来、外国の大軍に攻撃されたのは、元寇とマッカーサー率いる米軍の2回だけである。
世界でもまれなほど「安全な国」だ。軍事的な観点から見ても、日本とアフガンは「写真のネガとポジ」のような関係にある。日本人の感覚でこの国の政治や社会を考えようとしても、とても捉えきれるものではない。
◇ ◇
ソ連軍撤退の3年後、1992年に共産主義政権は崩壊し、イスラム政権が樹立された。だが、待っていたのはイスラム諸勢力による凄惨な内戦だった。
アフガニスタンの国境が現在のような形になったのは19世紀末のことである。
インドを植民地支配していた大英帝国はその版図を西に広げようとした。一方、北からはロシア帝国が南下を図って攻め込んだ。せめぎ合う二つの帝国は、直接衝突することを避けるため、アフガニスタンを「緩衝地帯」として残すことで合意した。そうして引かれたのが今の国境線である。
その結果、この地域で暮らしていた主要な民族は真っ二つに分断された。ヒンドゥークシ山脈の南麓にいたパシュトゥン人はアフガンと英領インド(現パキスタン)に二分され、山脈の北側にいたタジク人とウズベク人も、半分はロシア領に組み込まれた(図参照)。
アフガンの苦悩は、この国境画定を抜きにして語ることはできない。人口の過半数を占める民族はない。おまけに、どの民族も多くの部族に分かれ、それぞれの利害がぶつかり合う。
一口に反政府イスラム勢力と言っても、私が取材していた頃ですら、15もの組織に分かれていた。共産主義政権という「共通の敵」がいなくなった途端、そうした勢力が入り乱れて戦い始めたのだ。
90年代の半ば、国土が荒れ果て、世界が関心を失う中で台頭したのがタリバンだった。パシュトゥー語で「(神学校の)生徒」を意味する。厳格なイスラム支配を唱える宗教指導者が神学校の生徒たちを糾合して組織した、と喧伝されたが、それは表向きの顔に過ぎない。
戦車をはじめとする武器と弾薬を供給したのはパキスタンの軍部であり、資金的に支えたのは湾岸諸国のイスラム主義勢力だった。パキスタンは隣国を意のままに操ることを目指し、湾岸の同調勢力は「理想のイスラム国家」の建設を夢見た。
だが、尚武の気質を持つ民は「武器と金」をもらっても、意のままにはならなかった。支援する者たちの思惑を超えて、信じられないほど厳格なイスラム支配に乗り出し、米国を「悪の帝国」とみなすアルカイダなど過激な勢力と手を組んだ。
共産主義から厳格なイスラム支配へ。大国と周辺国の思惑に突き動かされ、アフガンは振り子の重しが外れてしまうほど激しく揺れた。そして、9・11テロへと至ったのだった。
アメリカの政治家と軍人たちは「我々には『テロの撲滅』という大義がある。今度こそ、この国を自由で開かれた国にする」と決意していたのではないか。日本や欧州諸国もそれに従って巨額の援助を注ぎ込んだ。
そうした介入と援助は水泡に帰した。なぜか。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「気概と気風」を軽く見ていたのではないか。彼らはよそ者から押し付けられることを何よりも嫌う。自分たちの社会のことは自分たちで決めたいのだ。彼らには彼らの掟と慣習がある。それはイスラムが伝来するはるか以前から育んできたもので、イスラムの教えと溶け合って社会に深く根を下ろしている。変える必要があるとしても、根付いたものに反しないよう変え方も自分たちで決めたいのだ。
「パシュトゥンの掟」の一つに、紛争はジルガ(部族評議会)で決着を付ける、というのがある。部族の代表者が一堂に会し、納得がいくまで話し合って決めるやり方だ。それは自由選挙を基にした代議制民主主義とはまるで異なるものだが、長い歴史の中で培われ、機能してきた制度である。民主主義を採り入れるにしても、こうしたジルガの伝統との折り合いを付けた制度にしない限り、この国でうまく機能することはないだろう。
米欧の指導者たちは、アフガン人の「苦悩と誇り」にも思いが至らなかった。
アメリカのメディアは、今回の米軍の撤退を1975年の南ベトナムからの撤退になぞらえて報道した。多くの血を流しながら戦争の目的を達することができず、みじめな形で出ていった、という点では確かに似ている。
けれども、アフガンの人たちが思い浮かべたのはベトナムではないだろう。もっと長い時間軸、この100年余りの歴史を振り返っているのではないか。
19世紀から20世紀初頭にかけて、世界で最も強大だったのは大英帝国である。前述のように、大英帝国はインドの植民地を西に広げようとして、何度かアフガンに攻め込んだ。首都のカブールを占領したこともある。だが、繰り返される反乱に手を焼き、撤退した。
そして、20世紀の後半には超大国ソ連の軍隊を追い出し、今回は唯一の超大国アメリカの軍隊を追い払った。「帝国の軍隊」に3回も苦杯をなめさせたのである。
もちろん、そのたびにおびただしい犠牲を払い、語り尽くせぬほどの苦悩を味わった。だが、それも彼らの価値観に照らせば、避けられなかった犠牲であり、決して屈しなかったことを誇りとして胸に抱くことになるのだろう。
◇ ◇
現場の記者として、私がアフガニスタンを担当したのは1989年から95年までの6年間である。その後、東京でアジア担当のデスクとしてこの国の動きをフォーローし、社説を担当する論説委員になってからも足を運び続けた。
戦乱の国の取材なので、政治指導者や軍人に会うことが多かったが、可能な限り農村の様子を見て回った。戦火がどんなに激しくなっても、国土がいかに荒廃しようとも、農村には乾いた大地を耕し、乏しい水を分け合う姿があった。
食べ物を確保し、生き延びる。それだけでも大変な状況なのに、どの村でも人々は子どもたちに教育を授けるためにあらゆる努力を重ねていた。未来はそこからしか開けないことを知っていた。「この国には希望がある」。そう感じさせるものがあった。
忘れられない言葉を聞いたのも、この国の人たちからだった。
難民キャンプでみけんに深い皺を刻んだ老人に会った。戦闘に巻き込まれて孫を亡くしたばかりという。「私のような年寄りが生き残り、幼い孫が死んでいく。耐え難い」。そう嘆き、「いのちは幸運の結晶なのです」とつぶやいた。
いぶかる私の目を見ながら、老人はさとすように語った。
「君のいのちはお父さんとお母さんが出会って生まれた。どちらかが病気やけがで倒れていたら、君はこの世にいなかった。お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんが出会って生まれた。だれかが病気やけがで倒れていたら、二人はこの世にいなかった」
「たくさんの、数えきれないほどたくさんのいのちが幸運にも生き永らえて、君にいのちをつないできた。だから、いのちは一つひとつ『幸運の結晶』なのです」
命がいともたやすく失われていく国で聞く命の意味。いや、いともたやすく失われていくからこそ紡ぎ出された言葉だったのかもしれない。その後、記者として出会い、耳にしたどんな言葉よりも深く心に沈み、忘れられない言葉となった。
アフガニスタンを「失敗国家」と呼ぶ人がいる。「破綻国家」と言う人もいる。けれども、そこに生きる人たちは「失敗人間」でも「破綻した人間」でもない。だれもが「幸運の結晶」としての生を生きている。
再び権力の座に就いたタリバンはこの国をどこへ導くのか。それを見通すうえで大切なのは、自らの価値観だけでなく、彼らの価値観、さらに第三の価値観も携えてこの国に光を当ててみることだ。
それはアフガニスタン問題に限らない。一つの尺度で物事を見る。そんな時代はとうに過ぎ去った。未来は混沌としており、複眼でも見通せない。より良く生きるために、立体的な座標軸が求められる時代なのである。
(長岡 昇)
2021年8月28日
≪写真説明&Source≫
タリバンの兵士たち(AFP、2020年3月2日撮影。BBCのサイトから)
https://www.bbc.com/japanese/51716332
≪参考文献≫
◎『アフガニスタン史』(前田耕作、山根聡)河出書房新社
◎『タリバン』(アハメド・ラシッド)講談社
◎『Afghanistan』(Louis Dupree)Princeton University Press
◎『The Great Game』(Peter Hopkirk) Butler & Tanner Ltd
2012年の第1回カヌー探訪から足かけ10年。長井市から始まった最上川縦断のカヌー行は2021年夏、ついに酒田市の河口に到達しました。過去最多の49人が参加し、全員が13キロを漕破しました。最年少は高校2年の16歳、最ベテランは83歳。東京五輪が開かれ、新型コロナウイルスの感染が再び広がる中での開催になりました。イベントにご協力いただいた皆様に深く感謝いたします。


◎真鍋賢一さん撮影の動画(ドローンによる空撮を含む。44分)
≪出発&到着時刻≫
2021年7月31日(土)
午前10時 山形県庄内町の庄内橋の上流、左岸から出発
午前11時20分 酒田市新堀豊森の右岸に上陸、休憩・差し入れ
午後1時?1時40分 酒田市の出羽大橋の下流、右岸に到着


≪参加者&参加艇≫
49人、38艇
≪カヌーイスト=申込順≫
齋藤龍真(村山市)、佐藤博隆(酒田市)、和田 勤(栃木県那須塩原市)、和田基秀(同)、?橋 洋(米沢市)、牧野 格(南陽市)、阿部明美(天童市)、阿部俊裕(同)、佐藤 明(鶴岡市)、安部幸男(宮城県柴田町)、新美武司(尾花沢市)、池田丈人(酒田市)、林 和明(東京都足立区)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、柴田尚宏(山形市)、結城敏宏(米沢市)、小田原紫朗(酒田市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、石井秀明(さいたま市)、岸 浩(福島市)、七海 孝(福島県鏡石町)、門脇和人(酒田市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、石川 毅(村山市)、伊藤信生(酒田市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、斉藤栄司(尾花沢市)、佐竹 久(大江町)、スマイルえりこ(新潟県新発田市)、崔 鍾八(朝日町)、清野千春(同)、清野礼子(仙台市)、清野由奈(朝日町)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、中沢 崇(長野市)、和田智枝(栃木県那須塩原市)、山田耕右(山形市)、菊地大二郎(同)、平 善昭(川西町)、菅原久之(遊佐町)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、矢萩 剛(村山市)、阿部悠子(東根市)、市川 秀(東京都中野区)、安孫子笑美里(東根市)、内藤フィリップ邦夫(天童市)

≪参加者の地域別内訳≫
▽山形県内 28人(酒田市5人、山形市3人、村山市3人、天童市3人、米沢市2人、尾花沢市2人、東根市2人、鶴岡市1人、南陽市1人、朝日町3人、大江町1人、川西町1人、遊佐町1人)
▽山形県外 21人(福島県4人、栃木県4人、群馬県3人、宮城県2人、埼玉県2人、東京都2人、神奈川県2人、新潟県1人、長野県1人)


≪第1回?第9回の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人

≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブ)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、
東北電力(株)山形支店、朝日町、庄内町、酒田市、山形カヌークラブ、
大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
≪第9回カヌー探訪記念のステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一

≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽佐竹恵子▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 長岡典己▽遠藤大輔
≪動画の撮影・編集≫ 真鍋賢一
≪ゴール地点でのサポート≫ 酒田市の遊快倶楽部(佐藤雅之、武田安英、長南平)
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当・飲料の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 安藤昭郎▽佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 庄内みどり観光バス(酒田市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝


◎真鍋賢一さん撮影の動画(ドローンによる空撮を含む。44分)
≪出発&到着時刻≫
2021年7月31日(土)
午前10時 山形県庄内町の庄内橋の上流、左岸から出発
午前11時20分 酒田市新堀豊森の右岸に上陸、休憩・差し入れ
午後1時?1時40分 酒田市の出羽大橋の下流、右岸に到着


≪参加者&参加艇≫
49人、38艇
≪カヌーイスト=申込順≫
齋藤龍真(村山市)、佐藤博隆(酒田市)、和田 勤(栃木県那須塩原市)、和田基秀(同)、?橋 洋(米沢市)、牧野 格(南陽市)、阿部明美(天童市)、阿部俊裕(同)、佐藤 明(鶴岡市)、安部幸男(宮城県柴田町)、新美武司(尾花沢市)、池田丈人(酒田市)、林 和明(東京都足立区)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、柴田尚宏(山形市)、結城敏宏(米沢市)、小田原紫朗(酒田市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、石井秀明(さいたま市)、岸 浩(福島市)、七海 孝(福島県鏡石町)、門脇和人(酒田市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、石川 毅(村山市)、伊藤信生(酒田市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、斉藤栄司(尾花沢市)、佐竹 久(大江町)、スマイルえりこ(新潟県新発田市)、崔 鍾八(朝日町)、清野千春(同)、清野礼子(仙台市)、清野由奈(朝日町)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、中沢 崇(長野市)、和田智枝(栃木県那須塩原市)、山田耕右(山形市)、菊地大二郎(同)、平 善昭(川西町)、菅原久之(遊佐町)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、矢萩 剛(村山市)、阿部悠子(東根市)、市川 秀(東京都中野区)、安孫子笑美里(東根市)、内藤フィリップ邦夫(天童市)

≪参加者の地域別内訳≫
▽山形県内 28人(酒田市5人、山形市3人、村山市3人、天童市3人、米沢市2人、尾花沢市2人、東根市2人、鶴岡市1人、南陽市1人、朝日町3人、大江町1人、川西町1人、遊佐町1人)
▽山形県外 21人(福島県4人、栃木県4人、群馬県3人、宮城県2人、埼玉県2人、東京都2人、神奈川県2人、新潟県1人、長野県1人)


≪第1回?第9回の参加者数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人
第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人
第7回(2019年)35人、第8回(2020年)45人、第9回(2021年)49人

≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブ)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、
東北電力(株)山形支店、朝日町、庄内町、酒田市、山形カヌークラブ、
大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
≪第9回カヌー探訪記念のステッカー制作&提供≫ 真鍋賢一

≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇▽佐竹恵子▽長岡佳子
≪写真撮影≫ 長岡典己▽遠藤大輔
≪動画の撮影・編集≫ 真鍋賢一
≪ゴール地点でのサポート≫ 酒田市の遊快倶楽部(佐藤雅之、武田安英、長南平)
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当・飲料の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 安藤昭郎▽佐竹恵子
≪マイクロバス≫ 庄内みどり観光バス(酒田市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝
新聞業界に「ヨコタテ記者」という自嘲ネタがある。
役所が発表する報道資料は、ほとんどのものが横書きである。その資料に書いてあることをそのまま要約して、縦書きの新聞記事にすることを「ヨコタテ」と言う。横に書いてあるものを縦にするだけ。それで仕事をした気になっている記者を「ヨコタテ記者」と呼んで、さげすんでいるのである。

記者は日々、締め切りに追われて仕事をしている。役所が長い日数をかけてまとめた資料を短時間で読みこなし、その日の締め切りまでに記事にまとめるのは容易なことではない。その意味では、「ヨコタテ」はある程度は避けられないことである。
だが、メディアは役所の下請けではない。新聞記者なら、締め切りをにらみながら独自の視点、異なる角度から資料を読み解き、それも含めて記事に仕立て上げなければならない。それが購読料を払って新聞を読んでくれている読者に対する責任というものではないか。
こんなことを思ったのは、山形県を中心とする「6県合同プロジェクトチーム」が6月21日に「羽越・奥羽新幹線の費用対効果に関する調査報告書」を公表し、それを報じる各紙の記事を読んだからだ。
報告書は、羽越・奥羽の両新幹線をフル規格で建設する場合、それにかかる費用とそれによってもたらされる便益を試算したものだ。報告書の眼目は「フル規格新幹線を単線で整備すれば、費用対効果は1を上回る。整備は妥当」という点にある。
この発表を受けて、翌22日付で山形新聞は1面で「フル規格の妥当性確認」という見出しを付けて報じた。発表内容をダラダラと綴っただけの記事である。河北新報も大差ない。共に「ヨコタテ記者」の面目躍如と言うべきか。
朝日新聞はもっとひどい。発表から10日もたってから山形県版に記事を載せたのだが、その内容が山形新聞や河北新報とさほど変わらなかったからだ。この報告書の内容をチェックし、異なる角度から検討する時間が十分にあったのにそれをせず、要約しただけの記事を載せている。「言葉を失う」とはこういう時に使うのだろう。
6県合同の調査報告書のどこがどう、ひどいのか。
報告書は、これまでのように複線でフル規格の新幹線を整備した場合には費用対効果が0.5程度になり、とても採算が取れないことを認める。そのうえで、単線で盛り土構造にすれば建設費が安くなり、費用対効果が1を上回る、つまり採算が合うという結論を導き出している。従って、「フル規格の羽越・奥羽新幹線の整備には妥当性がある」というわけだ。
役人たちが何を狙っているか、明白である。新聞の見出しに「整備は妥当」という言葉を選ばせ、読者に「フル規格の新幹線整備を目指すのはまっとうなこと」と印象づけたいのだ。
山形新聞も河北新報も朝日新聞も、そろって「妥当」という見出しを付けてくれた。役人の思惑通り。「ヨコタテ記者」のそろい踏み、である。
元新聞記者の一人として、私は恥ずかしい。正直に言えば、駆け出し記者のころ私も似たような記事を書いたことがあるが、それでも恥ずかしい。
これらの記事を書いた記者たちが「素朴な疑問を抱き、そこから考える」という、新聞記者として当然なすべきことをしていないからだ。
素朴な疑問とは何か。それは、高速鉄道を「単線」で建設、整備することなど考えられるのか、という点だ。
国内の新幹線ではもちろん、そのような例はない。海外を見渡しても、時速200キロ以上で走る高速鉄道を単線でつくり、運行している国などどこにあるのか。
運行システムをどんなに優れたものにしても、保線作業をどれほど熱心にやっても、鉄道にはトラブルが付きものである。倒木や土砂崩れで不通になったりもする。そういう時に素早く復旧させるためにも、高速鉄道なら複線にするのが常識であり、当然のことなのだ。
つまり、単線でのフル規格新幹線の整備などというのは考えられないことであり、机上の空論に過ぎない。それをベースに「費用対効果は1を上回る。整備の妥当性が示された」などという報告書が出されたなら、記者は一言、「世界で高速鉄道を単線で運行している国はあるのか」と質問すればいいのだ。
記者会見の席でそうした質問をすることもなく、あるいは記事にするまで何日もあったのに専門家にそうしたことを尋ねることもなく、役人の思惑通り「妥当」という見出しを付けて報じるのは、新聞記者の役割を放棄しているようなものだ。
羽越・奥羽のフル規格新幹線整備を応援している大阪産業大学の波床(はとこ)正敏教授ですら、報告書を評価しつつ、「高速鉄道を単線で整備することを考えなければならないようなケチ臭い国は日本以外にはありません」と、その内容に疑問を呈している。
この6県合同の報告書をとりまとめる中心になったのは、山形県庁の「みらい企画創造部」である。その部長、小林剛也(ごうや)氏は記者会見の前の週、県内の経済人が主催するモーニングセミナーに講師として招かれ、フル規格の羽越・奥羽新幹線構想について「来週、新聞に驚くような記事が出ますよ。お楽しみに」と得意げに語ったという。
確かに、驚くほどお粗末な報告書だった。それを3紙とも、なんの疑問を呈することもなく、「整備は妥当」という見出しを付けて報じたのだから、驚きは倍加する。
小林氏は昨年夏、財務省の文書課長補佐から山形県庁に出向してきた。来年の春には、同じく出向組の大瀧洋・総務部長が総務省に戻るのに合わせて、総務部長に転じると見られている。
こんなお粗末な調査報告書をまとめる人物が県庁の企画部門のトップで、それが来年からは人事と財政をつかさどる総務部長になって号令をかける。悲しい話だ。
◇ ◇
吉村美栄子知事がフル規格の奥羽・羽越新幹線構想を唱え始めたのは東日本大震災の翌年、2012年からである。
大震災で東北の太平洋側の産業インフラがズタズタになるのを目の当たりにした。その復興を支援したくても、日本海側のインフラは脆弱(ぜいじゃく)で十分な支援ができない。そうした経験から「東北の日本海側にも太平洋側に劣らぬインフラを整備する必要がある。フル規格の新幹線が必要だ」との思いを深めたものと思われる。
北陸新幹線が金沢まで、北海道新幹線も青森から函館まで通じる見通しが立ったことで、当時、「次はどこに新幹線をつくるか」が政治課題として浮上しつつあった。それも知事の背中を押したようだ。
無投票で再選された2013年からは、県の重要施策の一つとして推進し始めた。当初は「奥羽・羽越フル規格新幹線の実現を」と呼びかけていた。福島から山形を通り、秋田に至る奥羽新幹線が先で、富山から新潟、山形、秋田を通って青森に至る羽越新幹線は2番目だった。それは、早くから「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備を」と主張していた山形新聞の主張とも重なる。
それが今回の報告書では「羽越・奥羽新幹線」と、順番が入れ替わった。なぜか。
吉村知事はこの構想を推進する理由について、東京で開かれたフォーラムで次のように語っている。「日本海側も太平洋側と同じく大事な国土。隅々まで新幹線ネットワークをつなぐことで、日本全体の力が発揮できる。全国の皆様にも関心を持っていただき、大きな運動のうねりをつくっていきたい」。
「リダンダンシー」という英語もよく使うようになった。太平洋側の交通インフラが災害で被害を受けた場合には日本海側でそれを補う――代替機能を担う、という意味合いだ。「災害時のリダンダンシー機能を確保し、県土の強靭化を図っていきたい」といった風に使っている。
この論理を進めていけば、山形から秋田に至る奥羽新幹線よりも日本海側の各都市を結ぶ羽越新幹線の方を優先しなければならない、ということになる。それが「奥羽・羽越」から「羽越・奥羽」になった理由だろう。
報告書が「6県合同のプロジェクトチーム」によってまとめられた、というのは、羽越新幹線のルートにある富山、新潟、山形、秋田、青森の5県、それに奥羽新幹線にかかわる福島を加えてのことだ。とはいえ、北陸新幹線が開通した富山や上越新幹線がある新潟、東北新幹線のある青森はもとより、ほとんど関心がない。「山形県が熱心だから」とお付き合いをしているに過ぎない。
田中角栄首相が日本列島改造論を唱えていた時代、あるいは高度経済成長を謳歌していた時代ならともかく、経済が右肩下がりになり、医療や社会福祉の負担がますます重くなるこれからの時代。人の往来もあまりない富山―新潟―山形―秋田―青森に1キロ当たり100億円とも試算されるフル規格の新幹線を建設する余裕がこの国にあるのか。
ごく常識的に考えただけでも「そんな余裕はない」という結論になる。
それでも、「50年後、100年後を考えれば、日本海側の産業インフラ整備も重要だ」という主張は成り立つ。が、それは「政治的な課題」というより、「長期の国家ビジョン」あるいは「政治哲学」の範疇に入れるべき議論だろう。山形県の知事がしゃかりきになって取り組み、税金を投じて県民運動を繰り広げるような課題ではあるまい。
振り返れば、このフル規格新幹線の整備を唱え始めたころから、吉村知事の迷走は始まっていたのではないか。「おかしい」と思っても、県庁内でそれを口にする者は誰もいない。
地元の山形新聞は見境もなく、一緒になって旗を振ってきた。山形1区選出の遠藤利明・衆院議員まで、何を思ってかこの空騒ぎに加わった。
吉村知事は「私が山形県を引っ張っている」といった高揚感を感じていたのかもしれない。その挙げ句に「コロナ禍での選挙で40万票を得て4選」である。
3月に県議会で若松正俊・副知事の再任人事案が否決された後、吉村知事は「民意を大切にしてほしいですね」と、鼻息荒く語った。「副知事も含めて信任を得たと思っています」とも述べた。
それは、首長と議会は対等であり地方自治の両輪である、,という大原則すら忘れ果てた、おごりたかぶる政治家の言動だった。
若松正俊・副知事が「公務員」という立場を忘れて、知事に反旗をひるがえした市長たちに「対立候補を応援しないで」「せめて中立を保って」などと働きかけたのも、そうしたおごりの延長線上で起きたことだろう。本人は、「罪を犯している」という意識すらなかったのではないか。
古来、権力の崩壊のタネは権勢のピークに芽吹くという。吉村県政もまたこの至言(しげん)通り、崩壊の道をたどり始めた、ということか。
・・・・・・・・・・・・
若松氏のメール、県は不存在と回答
1月の山形県知事選挙をめぐって、若松正俊・副知事はどのような動きをしていたのか。それを調べるため、筆者は6月17日、県に昨年7月以降の若松氏の公用車の運行記録とメール送受信記録の情報公開を求めた。
これに対し、公用車の運行記録は開示されたが、メールの送受信記録については「作成・保有していない」として「公文書不存在通知書」を受け取った(ともに7月1日付)
「不存在とはどういう意味か」と問いただしたところ、秘書課の課長補佐は「若松は副知事在任中の4年間、公務用にパソコンを貸与されていたが、まったく使っていない。従ってメールの送受信もない」と説明した。信じがたい説明である。
念のため、吉村美栄子知事の1期目の副知事、高橋節(たかし)氏と2期目の副知事、細谷知行(ともゆき)氏に尋ねたところ、2人とも「公務用のパソコンを使い、メールの送受信をしていた。知事からメールで指示を受けたこともある」と認めた。「不存在」は虚偽の疑いがある。
このため、筆者は追加で「吉村知事のメール送受信記録」「大瀧洋・総務部長のメール送受信記録」「若松氏の秘書のパソコン及びタブレット端末にある若松氏関連のメール送受信記録」(それぞれ昨年7月から今年5月まで)の情報公開を請求し、回答を待っている。
知事や公務員が業務でやり取りしたメールは「公文書」であり、その電子データも「公文書」として情報公開の対象になることは判例で確定している。条例で「不開示にできる」と定められているケースを除き、原則として公開しなければならない。
公文書が存在するのに「不存在」と回答するのは、当然のことながら県情報公開条例違反であり、違法である。さらに調べたうえで、対抗措置を検討したい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 92」 2021年7月29日
*初出:月刊『素晴らしい山形』2021年8月号
≪写真説明&Source≫
羽越・奥羽新幹線構想を含め山形県政について語る吉村美栄子知事(ビジネス誌『事業構想』オンライン2019年6月号)
https://www.projectdesign.jp/201906/area-yamagata/006426.php
役所が発表する報道資料は、ほとんどのものが横書きである。その資料に書いてあることをそのまま要約して、縦書きの新聞記事にすることを「ヨコタテ」と言う。横に書いてあるものを縦にするだけ。それで仕事をした気になっている記者を「ヨコタテ記者」と呼んで、さげすんでいるのである。

記者は日々、締め切りに追われて仕事をしている。役所が長い日数をかけてまとめた資料を短時間で読みこなし、その日の締め切りまでに記事にまとめるのは容易なことではない。その意味では、「ヨコタテ」はある程度は避けられないことである。
だが、メディアは役所の下請けではない。新聞記者なら、締め切りをにらみながら独自の視点、異なる角度から資料を読み解き、それも含めて記事に仕立て上げなければならない。それが購読料を払って新聞を読んでくれている読者に対する責任というものではないか。
こんなことを思ったのは、山形県を中心とする「6県合同プロジェクトチーム」が6月21日に「羽越・奥羽新幹線の費用対効果に関する調査報告書」を公表し、それを報じる各紙の記事を読んだからだ。
報告書は、羽越・奥羽の両新幹線をフル規格で建設する場合、それにかかる費用とそれによってもたらされる便益を試算したものだ。報告書の眼目は「フル規格新幹線を単線で整備すれば、費用対効果は1を上回る。整備は妥当」という点にある。
この発表を受けて、翌22日付で山形新聞は1面で「フル規格の妥当性確認」という見出しを付けて報じた。発表内容をダラダラと綴っただけの記事である。河北新報も大差ない。共に「ヨコタテ記者」の面目躍如と言うべきか。
朝日新聞はもっとひどい。発表から10日もたってから山形県版に記事を載せたのだが、その内容が山形新聞や河北新報とさほど変わらなかったからだ。この報告書の内容をチェックし、異なる角度から検討する時間が十分にあったのにそれをせず、要約しただけの記事を載せている。「言葉を失う」とはこういう時に使うのだろう。
6県合同の調査報告書のどこがどう、ひどいのか。
報告書は、これまでのように複線でフル規格の新幹線を整備した場合には費用対効果が0.5程度になり、とても採算が取れないことを認める。そのうえで、単線で盛り土構造にすれば建設費が安くなり、費用対効果が1を上回る、つまり採算が合うという結論を導き出している。従って、「フル規格の羽越・奥羽新幹線の整備には妥当性がある」というわけだ。
役人たちが何を狙っているか、明白である。新聞の見出しに「整備は妥当」という言葉を選ばせ、読者に「フル規格の新幹線整備を目指すのはまっとうなこと」と印象づけたいのだ。
山形新聞も河北新報も朝日新聞も、そろって「妥当」という見出しを付けてくれた。役人の思惑通り。「ヨコタテ記者」のそろい踏み、である。
元新聞記者の一人として、私は恥ずかしい。正直に言えば、駆け出し記者のころ私も似たような記事を書いたことがあるが、それでも恥ずかしい。
これらの記事を書いた記者たちが「素朴な疑問を抱き、そこから考える」という、新聞記者として当然なすべきことをしていないからだ。
素朴な疑問とは何か。それは、高速鉄道を「単線」で建設、整備することなど考えられるのか、という点だ。
国内の新幹線ではもちろん、そのような例はない。海外を見渡しても、時速200キロ以上で走る高速鉄道を単線でつくり、運行している国などどこにあるのか。
運行システムをどんなに優れたものにしても、保線作業をどれほど熱心にやっても、鉄道にはトラブルが付きものである。倒木や土砂崩れで不通になったりもする。そういう時に素早く復旧させるためにも、高速鉄道なら複線にするのが常識であり、当然のことなのだ。
つまり、単線でのフル規格新幹線の整備などというのは考えられないことであり、机上の空論に過ぎない。それをベースに「費用対効果は1を上回る。整備の妥当性が示された」などという報告書が出されたなら、記者は一言、「世界で高速鉄道を単線で運行している国はあるのか」と質問すればいいのだ。
記者会見の席でそうした質問をすることもなく、あるいは記事にするまで何日もあったのに専門家にそうしたことを尋ねることもなく、役人の思惑通り「妥当」という見出しを付けて報じるのは、新聞記者の役割を放棄しているようなものだ。
羽越・奥羽のフル規格新幹線整備を応援している大阪産業大学の波床(はとこ)正敏教授ですら、報告書を評価しつつ、「高速鉄道を単線で整備することを考えなければならないようなケチ臭い国は日本以外にはありません」と、その内容に疑問を呈している。
この6県合同の報告書をとりまとめる中心になったのは、山形県庁の「みらい企画創造部」である。その部長、小林剛也(ごうや)氏は記者会見の前の週、県内の経済人が主催するモーニングセミナーに講師として招かれ、フル規格の羽越・奥羽新幹線構想について「来週、新聞に驚くような記事が出ますよ。お楽しみに」と得意げに語ったという。
確かに、驚くほどお粗末な報告書だった。それを3紙とも、なんの疑問を呈することもなく、「整備は妥当」という見出しを付けて報じたのだから、驚きは倍加する。
小林氏は昨年夏、財務省の文書課長補佐から山形県庁に出向してきた。来年の春には、同じく出向組の大瀧洋・総務部長が総務省に戻るのに合わせて、総務部長に転じると見られている。
こんなお粗末な調査報告書をまとめる人物が県庁の企画部門のトップで、それが来年からは人事と財政をつかさどる総務部長になって号令をかける。悲しい話だ。
◇ ◇
吉村美栄子知事がフル規格の奥羽・羽越新幹線構想を唱え始めたのは東日本大震災の翌年、2012年からである。
大震災で東北の太平洋側の産業インフラがズタズタになるのを目の当たりにした。その復興を支援したくても、日本海側のインフラは脆弱(ぜいじゃく)で十分な支援ができない。そうした経験から「東北の日本海側にも太平洋側に劣らぬインフラを整備する必要がある。フル規格の新幹線が必要だ」との思いを深めたものと思われる。
北陸新幹線が金沢まで、北海道新幹線も青森から函館まで通じる見通しが立ったことで、当時、「次はどこに新幹線をつくるか」が政治課題として浮上しつつあった。それも知事の背中を押したようだ。
無投票で再選された2013年からは、県の重要施策の一つとして推進し始めた。当初は「奥羽・羽越フル規格新幹線の実現を」と呼びかけていた。福島から山形を通り、秋田に至る奥羽新幹線が先で、富山から新潟、山形、秋田を通って青森に至る羽越新幹線は2番目だった。それは、早くから「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備を」と主張していた山形新聞の主張とも重なる。
それが今回の報告書では「羽越・奥羽新幹線」と、順番が入れ替わった。なぜか。
吉村知事はこの構想を推進する理由について、東京で開かれたフォーラムで次のように語っている。「日本海側も太平洋側と同じく大事な国土。隅々まで新幹線ネットワークをつなぐことで、日本全体の力が発揮できる。全国の皆様にも関心を持っていただき、大きな運動のうねりをつくっていきたい」。
「リダンダンシー」という英語もよく使うようになった。太平洋側の交通インフラが災害で被害を受けた場合には日本海側でそれを補う――代替機能を担う、という意味合いだ。「災害時のリダンダンシー機能を確保し、県土の強靭化を図っていきたい」といった風に使っている。
この論理を進めていけば、山形から秋田に至る奥羽新幹線よりも日本海側の各都市を結ぶ羽越新幹線の方を優先しなければならない、ということになる。それが「奥羽・羽越」から「羽越・奥羽」になった理由だろう。
報告書が「6県合同のプロジェクトチーム」によってまとめられた、というのは、羽越新幹線のルートにある富山、新潟、山形、秋田、青森の5県、それに奥羽新幹線にかかわる福島を加えてのことだ。とはいえ、北陸新幹線が開通した富山や上越新幹線がある新潟、東北新幹線のある青森はもとより、ほとんど関心がない。「山形県が熱心だから」とお付き合いをしているに過ぎない。
田中角栄首相が日本列島改造論を唱えていた時代、あるいは高度経済成長を謳歌していた時代ならともかく、経済が右肩下がりになり、医療や社会福祉の負担がますます重くなるこれからの時代。人の往来もあまりない富山―新潟―山形―秋田―青森に1キロ当たり100億円とも試算されるフル規格の新幹線を建設する余裕がこの国にあるのか。
ごく常識的に考えただけでも「そんな余裕はない」という結論になる。
それでも、「50年後、100年後を考えれば、日本海側の産業インフラ整備も重要だ」という主張は成り立つ。が、それは「政治的な課題」というより、「長期の国家ビジョン」あるいは「政治哲学」の範疇に入れるべき議論だろう。山形県の知事がしゃかりきになって取り組み、税金を投じて県民運動を繰り広げるような課題ではあるまい。
振り返れば、このフル規格新幹線の整備を唱え始めたころから、吉村知事の迷走は始まっていたのではないか。「おかしい」と思っても、県庁内でそれを口にする者は誰もいない。
地元の山形新聞は見境もなく、一緒になって旗を振ってきた。山形1区選出の遠藤利明・衆院議員まで、何を思ってかこの空騒ぎに加わった。
吉村知事は「私が山形県を引っ張っている」といった高揚感を感じていたのかもしれない。その挙げ句に「コロナ禍での選挙で40万票を得て4選」である。
3月に県議会で若松正俊・副知事の再任人事案が否決された後、吉村知事は「民意を大切にしてほしいですね」と、鼻息荒く語った。「副知事も含めて信任を得たと思っています」とも述べた。
それは、首長と議会は対等であり地方自治の両輪である、,という大原則すら忘れ果てた、おごりたかぶる政治家の言動だった。
若松正俊・副知事が「公務員」という立場を忘れて、知事に反旗をひるがえした市長たちに「対立候補を応援しないで」「せめて中立を保って」などと働きかけたのも、そうしたおごりの延長線上で起きたことだろう。本人は、「罪を犯している」という意識すらなかったのではないか。
古来、権力の崩壊のタネは権勢のピークに芽吹くという。吉村県政もまたこの至言(しげん)通り、崩壊の道をたどり始めた、ということか。
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若松氏のメール、県は不存在と回答
1月の山形県知事選挙をめぐって、若松正俊・副知事はどのような動きをしていたのか。それを調べるため、筆者は6月17日、県に昨年7月以降の若松氏の公用車の運行記録とメール送受信記録の情報公開を求めた。
これに対し、公用車の運行記録は開示されたが、メールの送受信記録については「作成・保有していない」として「公文書不存在通知書」を受け取った(ともに7月1日付)
「不存在とはどういう意味か」と問いただしたところ、秘書課の課長補佐は「若松は副知事在任中の4年間、公務用にパソコンを貸与されていたが、まったく使っていない。従ってメールの送受信もない」と説明した。信じがたい説明である。
念のため、吉村美栄子知事の1期目の副知事、高橋節(たかし)氏と2期目の副知事、細谷知行(ともゆき)氏に尋ねたところ、2人とも「公務用のパソコンを使い、メールの送受信をしていた。知事からメールで指示を受けたこともある」と認めた。「不存在」は虚偽の疑いがある。
このため、筆者は追加で「吉村知事のメール送受信記録」「大瀧洋・総務部長のメール送受信記録」「若松氏の秘書のパソコン及びタブレット端末にある若松氏関連のメール送受信記録」(それぞれ昨年7月から今年5月まで)の情報公開を請求し、回答を待っている。
知事や公務員が業務でやり取りしたメールは「公文書」であり、その電子データも「公文書」として情報公開の対象になることは判例で確定している。条例で「不開示にできる」と定められているケースを除き、原則として公開しなければならない。
公文書が存在するのに「不存在」と回答するのは、当然のことながら県情報公開条例違反であり、違法である。さらに調べたうえで、対抗措置を検討したい。
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 92」 2021年7月29日
*初出:月刊『素晴らしい山形』2021年8月号
≪写真説明&Source≫
羽越・奥羽新幹線構想を含め山形県政について語る吉村美栄子知事(ビジネス誌『事業構想』オンライン2019年6月号)
https://www.projectdesign.jp/201906/area-yamagata/006426.php
7月31日(土)に第9回最上川縦断カヌー探訪を予定通りに開催します。参加予定者は49人で、過去最多になる見込みです。当日の天候予報は晴れのち曇り、最高気温は32度。
大津波に襲われた福島第一原発で何が起きていたのか。それを追い続ける共同通信原発事故取材班の連載が佳境を迎えている。

「全電源喪失の記憶」の通しタイトルで2014年から続く連載は、7月6日から第5部「1号機爆発」が始まった。地震による激しい揺れ、そして襲ってきた大津波。原発の運転に欠かせない電源がすべて失われた時、原発の中央制御室にいた当直長と運転員たちは何を考え、どう動いたのか。それを当事者たちの証言で綴っている。
第5部の1回目の見出しは「DGトリップ!」」である。原発は、電力の供給が止まった場合、複数の非常用ディーゼル発電機(Diesel Generator, DG)が自動的に動き出し、原子炉を制御できるようになっている。1号機と2号機にはそれぞれ2台の非常用発電機が備えられていた。万が一、2台とも動かなくなっても隣の原子炉用の発電機から電気が供給される仕組みになっていた。
ところが、30分ほどして大津波が襲来し、ディーゼル発電機が水につかってしまった。電源盤も水浸しになったため、別の発電機の電気を回すことも不可能になった。すべての電源が失われた(トリップした)のである。その瞬間、中央制御室にいた運転員が叫んだ言葉が「DGトリップ!」だった。
事故当時、福島第一原発の1、2号機の中央制御室で当直長をしていた伊沢郁夫の証言。「心の中で弱気になったのはあの瞬間だけですね。打つ手がないという状況は人生の中で初めてでしたから」。当事者の生の証言は、政府や東京電力がまとめた事故報告書のいかなる表現よりも、現場の衝撃の大きさを端的に示している。
第5部の2回目(7月7日付)に載っている伊沢の証言も印象的だ。原発の運転員たちは様々な事故に備えてトレーニングを受けていた。その訓練の内容と現実とのギャップを、伊沢はこう語っている。「どんなに厳しい訓練でも常に最後は電源があるわけです。それがないという現実が分かったときのショック。『どうしよう、とにかく考えるんだ』って思いました」。
この証言は、日本政府や電力各社、原発メーカーが振りまいてきた「安全神話」がいかにでたらめなものだったかを示している。電力会社は原発事故に備えて保険に入っていた。その保険は、炉心溶融を含む過酷事故をも含むものだった。
ところが、事故に備えた訓練は「常に電源がある」条件で行われていた。つまり、最も厳しい局面でどう対処するか、については訓練すらしていなかったのである。欺瞞であり、国民に対する背信行為と言うしかない。
連載の3回目にも、政府と電力会社の欺瞞を示す証言が登場する。当直長の1人、遠藤英由の証言。3月11日の夜、すべての電源が失われ、運転員たちは原子炉の水位や温度を示す計器を読むことすらできない絶望的な状況に追い込まれていた。遠藤は述懐する。「スクラム(原子炉緊急停止)から時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」
原発事故に対応する現場では、「炉心溶融は避けられない」と覚悟していた。にもかかわらず、当時の民主党政権と東京電力はそれを認めようとしなかった。新聞に「炉心溶融」の見出しが載ると、政府は「何を根拠に炉心溶融と書くのか」と猛烈な圧力をかけ、その表現を撤回させた。事実を捻じ曲げようと必死になったのである。
そうした中にも救いはあった。4回目の連載記事(9日付)では、原子炉格納容器が爆発するのを防ぐために運転員たちがベントを試みる様子が描かれている。大量被曝を避けられない、危険きわまりない現場に誰が行くか。
当直長の伊沢郁夫は「まず俺が行く」と言った。だが、応援に駆け付けた別の当直長は「君はここに残って仕切ってくれなきゃ駄目だ。俺らが行く」と言い返す。若手の運転員たちも「私も行きます」と次々に手を挙げた。命をかけて、名乗り出たのだった。
福島の原発事故をあの規模で抑え込むことができたのは、さまざまな幸運に恵まれたのに加えて、こうした運転員たちを含む現場の覚悟があったからだ。「行きます」と名乗り出た時の運転員たちの胸のうちを思うと、今でも目頭が熱くなる。
それに引き換え、東京電力の首脳たちはどうだ。2008年の段階で「最悪の場合、高さ15メートルの津波が来ることもあり得る」という報告が内部から上がってきていたのに、「信頼性に疑問がある」などと難癖をつけてその報告を退け、有効な津波対策に乗り出すことを拒んだ。
当時の東京電力の会長、勝俣恒久、社長の清水正孝、副社長の武藤栄・・・。当時の首脳は誰一人、潔く責任を認めようとしない。「万死に値する判断ミス」を犯しておきながら、いまだに責任を逃れようとあがき続けている。
ぶざまな事故対応に終始した、当時の首相、菅直人や経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男ら民主党政権の首脳たちにしても、何が足りなかったのか、どう対応すべきだったのかについて率直に語るのを聞いたことがない。
二流のトップを一流の現場が支える。それが日本社会の伝統なのか。コロナ禍でも同じことが繰り返される、と覚悟しなければなるまい。
(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 91」 2021年7月9日
*このコラムは、山形新聞に掲載された共同通信配信の連載をもとに書いています。共同通信の「全電源喪失の記憶」の初期の連載は、祥伝社から2015年に出版されています。今回の連載も本にまとめ、出版されるかもしれません。朝日新聞や読売新聞は共同通信と国内記事の配信を受ける契約を結んでいないため掲載できず、読者は読むことができません。
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照明が点灯した福島第一原発の中央制御室=2011年3月26日、時事通信社
https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp10647542&d=d4_topics

「全電源喪失の記憶」の通しタイトルで2014年から続く連載は、7月6日から第5部「1号機爆発」が始まった。地震による激しい揺れ、そして襲ってきた大津波。原発の運転に欠かせない電源がすべて失われた時、原発の中央制御室にいた当直長と運転員たちは何を考え、どう動いたのか。それを当事者たちの証言で綴っている。
第5部の1回目の見出しは「DGトリップ!」」である。原発は、電力の供給が止まった場合、複数の非常用ディーゼル発電機(Diesel Generator, DG)が自動的に動き出し、原子炉を制御できるようになっている。1号機と2号機にはそれぞれ2台の非常用発電機が備えられていた。万が一、2台とも動かなくなっても隣の原子炉用の発電機から電気が供給される仕組みになっていた。
ところが、30分ほどして大津波が襲来し、ディーゼル発電機が水につかってしまった。電源盤も水浸しになったため、別の発電機の電気を回すことも不可能になった。すべての電源が失われた(トリップした)のである。その瞬間、中央制御室にいた運転員が叫んだ言葉が「DGトリップ!」だった。
事故当時、福島第一原発の1、2号機の中央制御室で当直長をしていた伊沢郁夫の証言。「心の中で弱気になったのはあの瞬間だけですね。打つ手がないという状況は人生の中で初めてでしたから」。当事者の生の証言は、政府や東京電力がまとめた事故報告書のいかなる表現よりも、現場の衝撃の大きさを端的に示している。
第5部の2回目(7月7日付)に載っている伊沢の証言も印象的だ。原発の運転員たちは様々な事故に備えてトレーニングを受けていた。その訓練の内容と現実とのギャップを、伊沢はこう語っている。「どんなに厳しい訓練でも常に最後は電源があるわけです。それがないという現実が分かったときのショック。『どうしよう、とにかく考えるんだ』って思いました」。
この証言は、日本政府や電力各社、原発メーカーが振りまいてきた「安全神話」がいかにでたらめなものだったかを示している。電力会社は原発事故に備えて保険に入っていた。その保険は、炉心溶融を含む過酷事故をも含むものだった。
ところが、事故に備えた訓練は「常に電源がある」条件で行われていた。つまり、最も厳しい局面でどう対処するか、については訓練すらしていなかったのである。欺瞞であり、国民に対する背信行為と言うしかない。
連載の3回目にも、政府と電力会社の欺瞞を示す証言が登場する。当直長の1人、遠藤英由の証言。3月11日の夜、すべての電源が失われ、運転員たちは原子炉の水位や温度を示す計器を読むことすらできない絶望的な状況に追い込まれていた。遠藤は述懐する。「スクラム(原子炉緊急停止)から時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」
原発事故に対応する現場では、「炉心溶融は避けられない」と覚悟していた。にもかかわらず、当時の民主党政権と東京電力はそれを認めようとしなかった。新聞に「炉心溶融」の見出しが載ると、政府は「何を根拠に炉心溶融と書くのか」と猛烈な圧力をかけ、その表現を撤回させた。事実を捻じ曲げようと必死になったのである。
そうした中にも救いはあった。4回目の連載記事(9日付)では、原子炉格納容器が爆発するのを防ぐために運転員たちがベントを試みる様子が描かれている。大量被曝を避けられない、危険きわまりない現場に誰が行くか。
当直長の伊沢郁夫は「まず俺が行く」と言った。だが、応援に駆け付けた別の当直長は「君はここに残って仕切ってくれなきゃ駄目だ。俺らが行く」と言い返す。若手の運転員たちも「私も行きます」と次々に手を挙げた。命をかけて、名乗り出たのだった。
福島の原発事故をあの規模で抑え込むことができたのは、さまざまな幸運に恵まれたのに加えて、こうした運転員たちを含む現場の覚悟があったからだ。「行きます」と名乗り出た時の運転員たちの胸のうちを思うと、今でも目頭が熱くなる。
それに引き換え、東京電力の首脳たちはどうだ。2008年の段階で「最悪の場合、高さ15メートルの津波が来ることもあり得る」という報告が内部から上がってきていたのに、「信頼性に疑問がある」などと難癖をつけてその報告を退け、有効な津波対策に乗り出すことを拒んだ。
当時の東京電力の会長、勝俣恒久、社長の清水正孝、副社長の武藤栄・・・。当時の首脳は誰一人、潔く責任を認めようとしない。「万死に値する判断ミス」を犯しておきながら、いまだに責任を逃れようとあがき続けている。
ぶざまな事故対応に終始した、当時の首相、菅直人や経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男ら民主党政権の首脳たちにしても、何が足りなかったのか、どう対応すべきだったのかについて率直に語るのを聞いたことがない。
二流のトップを一流の現場が支える。それが日本社会の伝統なのか。コロナ禍でも同じことが繰り返される、と覚悟しなければなるまい。
(敬称略)
長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 91」 2021年7月9日
*このコラムは、山形新聞に掲載された共同通信配信の連載をもとに書いています。共同通信の「全電源喪失の記憶」の初期の連載は、祥伝社から2015年に出版されています。今回の連載も本にまとめ、出版されるかもしれません。朝日新聞や読売新聞は共同通信と国内記事の配信を受ける契約を結んでいないため掲載できず、読者は読むことができません。
≪写真説明&Source≫
照明が点灯した福島第一原発の中央制御室=2011年3月26日、時事通信社
https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp10647542&d=d4_topics
自分が仕える人のために忠勤を尽くすのは悪いことではない。普通なら褒められるべきことである。だが、その行為が法に触れるとなれば、話は別だ。
良かれと思ってしたことでも、その者は被疑者として調べられ、容疑が固まれば起訴され、裁きを受ける。山形県の若松正俊・前副知事は今、そのようなイバラの道に立たされている。容疑は公職選挙法違反、公務員の地位利用である。

話は山形県知事選挙の告示の2週間前にさかのぼる。昨年の12月24日、佐藤孝弘・山形市長や丸山至・酒田市長ら8人の市長は現職の吉村美栄子知事ではなく、自民党が推す大内理加・元県議を推薦すると発表した。「今の県政の反応の鈍さ」や「市との感覚のずれ」を理由に、知事に反旗を翻したのだ。
事前の世論調査では,、すでに「現職の吉村氏が圧倒的に有利」との結果が出ていた。だが、吉村陣営はこうした動きを「好ましくない」と見たのだろう。市長らによれば、この前後に知事の補佐役の若松副知事が「対立候補の大内氏を推さないでほしい」「せめて中立でいてくれないか」と働きかけてきたという。
これだけだったら、まだ罪は軽い。問題は若松氏の働きかけがそれにとどまらなかったことだ。市長らの証言によれば、「向こうに付いたら不利益をこうむりますよ」とほのめかしたのだという。
酒田市に対しては、県と庄内地域の自治体による東北公益文科大学(公設民営)の公立化に向けた協議が「進められなくなる」と述べたという。ローカル鉄道「フラワー長井線」の赤字に苦しむ長井市と南陽市には「県の負担金をこれまでのように出すのは難しい」と、減額する可能性があることを伝えたようだ。
市長らの証言が事実とすれば、これは公職選挙法が禁じている「公務員の地位を利用した選挙運動もしくは事前運動」にあたる。特別職とはいえ、副知事は公務員である。それが選挙で選ばれた市長に圧力をかけたわけで、「信じられないような行為」と言っていい。
公選法の規定に触れるどころではない。「きわめて悪質な地位利用」であり、「2年以下の禁固または30万円以下の罰金」を科せられて当然の犯罪行為である。
関係者の証言によれば、こうした「副知事の地位を利用した脅し」をかけられた市長は7人いる。脅しをかけられなかったのは山形市長だけだったようだ。立場が強い市長は避け、弱い市長を狙ったということだろう。
7人の市長が口裏を合わせて「吉村知事と若松副知事を追い落とそうとしている」という可能性はある。だが、それはあくまでも可能性に過ぎず、「そのような口裏合わせはなかった」と断言していい。
なぜなら、知事選の投開票日の翌日(今年1月25日)、県幹部は酒田市に対して「東北公益文科大学の公立化に向けた準備作業を停止する」と伝えたからだ。県側もそれを認めている。長井市に対しても、「赤字ローカル線への補助金を確保するのは難しい」と通告した。つまり、若松副知事がほのめかしたことを県側は選挙が終わった途端、実行したのだ。
露骨と言うか、無防備と言うか。若松氏にしても彼の意向を伝えた県幹部にしても、それが「公務員の地位を利用した犯罪行為」を実質的に裏付けることになる、ということに思い至らなかったようだ。
知事選で敗北した自民党側はこうした事実を把握していた。それゆえに、吉村知事が県議会に「若松副知事を再任する人事案」を出してきたのに対して県議団は反対し、否決した(3月9日)。若松氏の任期は10日までだったので、山形県は「副知事不在」という異常事態に陥った。
ところが、吉村知事は若松氏を11日付で非常勤特別職にし、新型コロナウイルス対策などの連絡調整にあたる「特命補佐」に任命するという奇策に出た。「副知事」という肩書から「特命補佐」という肩書に変え、事実上続投させたのである。
首長と議会は地方自治の両輪である。議会には首長の施策をチェックするという重要な役割がある。人事案の同意権限もその役割を果たすためにある。「奇策」はそうした機能をあざわらうような暴挙と言わなければならない。
若松氏を議会の同意がいらない「特命補佐」に任命した理由について、知事は「余人をもって代えがたい」と説明した。人を小馬鹿にしたような、陳腐な説明である。
その若松氏に対して、山形県警は公職選挙法違反の疑いで捜査に乗り出した。市長とその周りの人たちから話を聴く証拠固めは終わり、捜査は被疑者本人、若松氏から事情聴取する段階に至っている。
若松氏がその地位を利用して圧力をかけたのが1人だけなら、捜査は難しい。「言った」「言ってない」の水掛け論になるからだ。が、なにせ相手は7人もいる。若松氏が否定しても、起訴して有罪に持ち込むのは難しいことではない。予想されたことだが、若松氏は「そんなことは言っていない」と全面的に否定したようだ。
証拠がそろっているのに被疑者が否認した場合、捜査当局は被疑者の逮捕や事務所、自宅などの家宅捜索をし、強制捜査に踏み切るのが常道だ。だが、県警はまだ着手していない。なぜか。事件はこれからどう展開するのか。
考えられるのは次の四つのシナリオである。
?県警は強制捜査に踏み切らないまま捜査を終えて山形地検に書類送検し、地検は不起訴処分にして事件そのものを握り潰す?強制捜査はしないまま書類送検し、地検が起訴、微罪で済ませる?強制捜査に踏み切って送検し、公職選挙法違反で起訴して断罪する?強制捜査し、公選法違反にとどまらず、若松氏の余罪を追及する。
このうち、?は考えにくい。山形地検の松下裕子(ひろこ)検事正はそのような姑息な対応をする人物とは思えないからだ。東京地検をはじめ首都圏の現場で捜査を担い、法務省での勤務も長い。検察の本流を歩む人で、「将来を嘱望される検察官の一人」という。
検察OBによれば、東京地検特捜部にいた時には被疑者を呼びつけるのではなく、東京拘置所に出向いて取り調べを続けた。拘置所には当時、検事用の女性トイレがなかったが、この取り調べのために新たにつくられた、というエピソードを持つ。検察官としてなすべきことを誠実に実行する人、という。
従って、?から?の展開が予想される。どの展開になるかは、県警がきちんとした証拠をどれだけ固められるかにかかっている。捜査員たちの奮闘次第、と言っていい。この場合、吉村知事がどのように関わっていたかも問われることになる。
◇ ◇
吉村知事は若松氏の副知事再任にこだわるかのような発言を繰り返しているが、これは得意の目くらましだろう。知事はすでに3月下旬の段階で、別の副知事候補の選定作業に着手した形跡がある。
4月以降、県幹部が退職後に天下る外郭団体で異様な人事が進められた。県社会福祉協議会の会長と県産業技術振興機構の理事長はこれまで非常勤の名誉職だったが、それをどちらも常勤にして、それぞれ後任に退職したばかりの玉木康雄・前健康福祉部長と木村和浩・前産業労働部長を充てる人事である。
常勤化に伴い、両団体のトップの給与は年額120万円から500万円台に跳ね上がる。待遇以上に問題になったのは、両団体には常勤のナンバー2(専務理事)がいて実務を取り仕切っているが、新しいトップはどちらも彼らより年次が下であることだ。
前例踏襲と年功序列で生きてきた役人の世界で、こうしたことはかつてなかったことであり、あってはならないことだった。県庁の事務系OBでつくる親睦団体「平成松波会」のメンバーらは「いったい、何事だ」といぶかり、ざわついている。
OBの一人が解説する。「これは若松氏の副知事再任は困難と見て、病院事業管理者の大澤賢史氏か企業管理者の高橋広樹氏のどちらかを副知事に任命する準備ではないか。どちらかが副知事になれば、そのポストを埋めなければならない。どちらでも対応できるように外郭団体に2人の前部長をリザーブとして確保した、ということだろう。9月県議会で新しい副知事の人事案を提出するつもりではないか」
実に明快な解説だ。アップした報酬は税金で補填(ほてん)される。社会福祉や技術振興など二の次。自分たちの都合で外郭団体を自在に操ろうとする姿が透けて見えてくる。醜悪きわまりない。
◇ ◇
国有地を格安で払い下げた森友学園問題が表面化した際、当時の安倍晋三首相は「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」と大見得を切った。その後、昭恵夫人が森友学園の名誉校長を引き受けていたことが分かり、安倍氏も深く関わっていたことが明らかになった。が、安倍氏は首相も国会議員も辞めなかった。
それどころか、加計学園問題でも「桜を見る会」の問題でもウソとごまかしを重ねた。安倍氏の目には、「法と規範を守ること」など単なる建前、と映っているのだろう。「政治は数と力であり、それがすべて」。そう考えているとしか思えない。
森友学園問題では公文書の改竄(かいざん)を命じられた近畿財務局の職員がことの経緯を記した文書を残して自ら命を絶った。その文書「赤木ファイル」が事件から何年もたって、ようやく開示された。こうしたことにも、何の心の痛みも感じないのだろう。

山形県の吉村美栄子氏は非自民系の知事であるにもかかわらず、その安倍氏とのツーショット写真を自慢げに披露する。彼女もまた「政治は数と力」と信じ、ごまかしを重ねて保身を図るタイプの政治家だ。私が県を相手に争った学校法人「東海山形学園」の財務書類の情報不開示訴訟に関しても、平気でウソを言い続けた。
サクランボのかぶり物をしてトップセールスに精を出す。もんぺ姿で農産物の売り込みに走り回る。そうした姿が親しみを感じさせるのか、県民の間での人気は依然として高い。しかし、彼女の言動からは、政治家として一番大切なこと、「政治を通して何を実現しようとしているのか」がまるで見えてこない。
こうした理念なき政治は何をもたらすか。政治学者の宇野重規(しげき)氏は「日本では今、民主主義の基本的な理念の部分が脅かされている」と警鐘を鳴らし、こう語る。
「自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういう諦めの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います」
「私は三つのことを信じたいと思っています。自分たちにとって大切なことは、公開の場で透明性を確保して決定したい。政策決定に参加することで、誰もが当事者意識を持てる社会にしたい。そして社会の責任の一端を自発的に受け止めていきたい」(2021年6月17日付、朝日新聞オピニオン面)
若松前副知事の公職選挙法違反事件は、地方で起きた小さな事件の一つかもしれない。けれども、こうした事件をあいまいなまま終わらせれば、政治に対する諦めの感情はますます深まり、私たちの社会の土台が崩れていく。
それぞれが自分にできることを行い、小さな成果を一つひとつ積み重ねていく。そうすることでしか、社会を前に進めることはできない。
警察と検察には粛々と捜査を進め、事実を解明してほしい。そうすることが、前に進もうとする人たちを勇気づけることになる。
(長岡 昇 NPO「ブナの森」代表)
≪写真説明≫
◎山形県の副知事が不在になって3カ月。吉村知事の隣は空席のまま(6月19日付の産経新聞から)
◎ラフランスを手に首相官邸で安倍晋三氏と写真に納まる吉村美栄子知事(2016年11月28日)。この写真は山形県政記者クラブの加盟各社に送られた
良かれと思ってしたことでも、その者は被疑者として調べられ、容疑が固まれば起訴され、裁きを受ける。山形県の若松正俊・前副知事は今、そのようなイバラの道に立たされている。容疑は公職選挙法違反、公務員の地位利用である。

話は山形県知事選挙の告示の2週間前にさかのぼる。昨年の12月24日、佐藤孝弘・山形市長や丸山至・酒田市長ら8人の市長は現職の吉村美栄子知事ではなく、自民党が推す大内理加・元県議を推薦すると発表した。「今の県政の反応の鈍さ」や「市との感覚のずれ」を理由に、知事に反旗を翻したのだ。
事前の世論調査では,、すでに「現職の吉村氏が圧倒的に有利」との結果が出ていた。だが、吉村陣営はこうした動きを「好ましくない」と見たのだろう。市長らによれば、この前後に知事の補佐役の若松副知事が「対立候補の大内氏を推さないでほしい」「せめて中立でいてくれないか」と働きかけてきたという。
これだけだったら、まだ罪は軽い。問題は若松氏の働きかけがそれにとどまらなかったことだ。市長らの証言によれば、「向こうに付いたら不利益をこうむりますよ」とほのめかしたのだという。
酒田市に対しては、県と庄内地域の自治体による東北公益文科大学(公設民営)の公立化に向けた協議が「進められなくなる」と述べたという。ローカル鉄道「フラワー長井線」の赤字に苦しむ長井市と南陽市には「県の負担金をこれまでのように出すのは難しい」と、減額する可能性があることを伝えたようだ。
市長らの証言が事実とすれば、これは公職選挙法が禁じている「公務員の地位を利用した選挙運動もしくは事前運動」にあたる。特別職とはいえ、副知事は公務員である。それが選挙で選ばれた市長に圧力をかけたわけで、「信じられないような行為」と言っていい。
公選法の規定に触れるどころではない。「きわめて悪質な地位利用」であり、「2年以下の禁固または30万円以下の罰金」を科せられて当然の犯罪行為である。
関係者の証言によれば、こうした「副知事の地位を利用した脅し」をかけられた市長は7人いる。脅しをかけられなかったのは山形市長だけだったようだ。立場が強い市長は避け、弱い市長を狙ったということだろう。
7人の市長が口裏を合わせて「吉村知事と若松副知事を追い落とそうとしている」という可能性はある。だが、それはあくまでも可能性に過ぎず、「そのような口裏合わせはなかった」と断言していい。
なぜなら、知事選の投開票日の翌日(今年1月25日)、県幹部は酒田市に対して「東北公益文科大学の公立化に向けた準備作業を停止する」と伝えたからだ。県側もそれを認めている。長井市に対しても、「赤字ローカル線への補助金を確保するのは難しい」と通告した。つまり、若松副知事がほのめかしたことを県側は選挙が終わった途端、実行したのだ。
露骨と言うか、無防備と言うか。若松氏にしても彼の意向を伝えた県幹部にしても、それが「公務員の地位を利用した犯罪行為」を実質的に裏付けることになる、ということに思い至らなかったようだ。
知事選で敗北した自民党側はこうした事実を把握していた。それゆえに、吉村知事が県議会に「若松副知事を再任する人事案」を出してきたのに対して県議団は反対し、否決した(3月9日)。若松氏の任期は10日までだったので、山形県は「副知事不在」という異常事態に陥った。
ところが、吉村知事は若松氏を11日付で非常勤特別職にし、新型コロナウイルス対策などの連絡調整にあたる「特命補佐」に任命するという奇策に出た。「副知事」という肩書から「特命補佐」という肩書に変え、事実上続投させたのである。
首長と議会は地方自治の両輪である。議会には首長の施策をチェックするという重要な役割がある。人事案の同意権限もその役割を果たすためにある。「奇策」はそうした機能をあざわらうような暴挙と言わなければならない。
若松氏を議会の同意がいらない「特命補佐」に任命した理由について、知事は「余人をもって代えがたい」と説明した。人を小馬鹿にしたような、陳腐な説明である。
その若松氏に対して、山形県警は公職選挙法違反の疑いで捜査に乗り出した。市長とその周りの人たちから話を聴く証拠固めは終わり、捜査は被疑者本人、若松氏から事情聴取する段階に至っている。
若松氏がその地位を利用して圧力をかけたのが1人だけなら、捜査は難しい。「言った」「言ってない」の水掛け論になるからだ。が、なにせ相手は7人もいる。若松氏が否定しても、起訴して有罪に持ち込むのは難しいことではない。予想されたことだが、若松氏は「そんなことは言っていない」と全面的に否定したようだ。
証拠がそろっているのに被疑者が否認した場合、捜査当局は被疑者の逮捕や事務所、自宅などの家宅捜索をし、強制捜査に踏み切るのが常道だ。だが、県警はまだ着手していない。なぜか。事件はこれからどう展開するのか。
考えられるのは次の四つのシナリオである。
?県警は強制捜査に踏み切らないまま捜査を終えて山形地検に書類送検し、地検は不起訴処分にして事件そのものを握り潰す?強制捜査はしないまま書類送検し、地検が起訴、微罪で済ませる?強制捜査に踏み切って送検し、公職選挙法違反で起訴して断罪する?強制捜査し、公選法違反にとどまらず、若松氏の余罪を追及する。
このうち、?は考えにくい。山形地検の松下裕子(ひろこ)検事正はそのような姑息な対応をする人物とは思えないからだ。東京地検をはじめ首都圏の現場で捜査を担い、法務省での勤務も長い。検察の本流を歩む人で、「将来を嘱望される検察官の一人」という。
検察OBによれば、東京地検特捜部にいた時には被疑者を呼びつけるのではなく、東京拘置所に出向いて取り調べを続けた。拘置所には当時、検事用の女性トイレがなかったが、この取り調べのために新たにつくられた、というエピソードを持つ。検察官としてなすべきことを誠実に実行する人、という。
従って、?から?の展開が予想される。どの展開になるかは、県警がきちんとした証拠をどれだけ固められるかにかかっている。捜査員たちの奮闘次第、と言っていい。この場合、吉村知事がどのように関わっていたかも問われることになる。
◇ ◇
吉村知事は若松氏の副知事再任にこだわるかのような発言を繰り返しているが、これは得意の目くらましだろう。知事はすでに3月下旬の段階で、別の副知事候補の選定作業に着手した形跡がある。
4月以降、県幹部が退職後に天下る外郭団体で異様な人事が進められた。県社会福祉協議会の会長と県産業技術振興機構の理事長はこれまで非常勤の名誉職だったが、それをどちらも常勤にして、それぞれ後任に退職したばかりの玉木康雄・前健康福祉部長と木村和浩・前産業労働部長を充てる人事である。
常勤化に伴い、両団体のトップの給与は年額120万円から500万円台に跳ね上がる。待遇以上に問題になったのは、両団体には常勤のナンバー2(専務理事)がいて実務を取り仕切っているが、新しいトップはどちらも彼らより年次が下であることだ。
前例踏襲と年功序列で生きてきた役人の世界で、こうしたことはかつてなかったことであり、あってはならないことだった。県庁の事務系OBでつくる親睦団体「平成松波会」のメンバーらは「いったい、何事だ」といぶかり、ざわついている。
OBの一人が解説する。「これは若松氏の副知事再任は困難と見て、病院事業管理者の大澤賢史氏か企業管理者の高橋広樹氏のどちらかを副知事に任命する準備ではないか。どちらかが副知事になれば、そのポストを埋めなければならない。どちらでも対応できるように外郭団体に2人の前部長をリザーブとして確保した、ということだろう。9月県議会で新しい副知事の人事案を提出するつもりではないか」
実に明快な解説だ。アップした報酬は税金で補填(ほてん)される。社会福祉や技術振興など二の次。自分たちの都合で外郭団体を自在に操ろうとする姿が透けて見えてくる。醜悪きわまりない。
◇ ◇
国有地を格安で払い下げた森友学園問題が表面化した際、当時の安倍晋三首相は「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」と大見得を切った。その後、昭恵夫人が森友学園の名誉校長を引き受けていたことが分かり、安倍氏も深く関わっていたことが明らかになった。が、安倍氏は首相も国会議員も辞めなかった。
それどころか、加計学園問題でも「桜を見る会」の問題でもウソとごまかしを重ねた。安倍氏の目には、「法と規範を守ること」など単なる建前、と映っているのだろう。「政治は数と力であり、それがすべて」。そう考えているとしか思えない。
森友学園問題では公文書の改竄(かいざん)を命じられた近畿財務局の職員がことの経緯を記した文書を残して自ら命を絶った。その文書「赤木ファイル」が事件から何年もたって、ようやく開示された。こうしたことにも、何の心の痛みも感じないのだろう。

山形県の吉村美栄子氏は非自民系の知事であるにもかかわらず、その安倍氏とのツーショット写真を自慢げに披露する。彼女もまた「政治は数と力」と信じ、ごまかしを重ねて保身を図るタイプの政治家だ。私が県を相手に争った学校法人「東海山形学園」の財務書類の情報不開示訴訟に関しても、平気でウソを言い続けた。
サクランボのかぶり物をしてトップセールスに精を出す。もんぺ姿で農産物の売り込みに走り回る。そうした姿が親しみを感じさせるのか、県民の間での人気は依然として高い。しかし、彼女の言動からは、政治家として一番大切なこと、「政治を通して何を実現しようとしているのか」がまるで見えてこない。
こうした理念なき政治は何をもたらすか。政治学者の宇野重規(しげき)氏は「日本では今、民主主義の基本的な理念の部分が脅かされている」と警鐘を鳴らし、こう語る。
「自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういう諦めの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います」
「私は三つのことを信じたいと思っています。自分たちにとって大切なことは、公開の場で透明性を確保して決定したい。政策決定に参加することで、誰もが当事者意識を持てる社会にしたい。そして社会の責任の一端を自発的に受け止めていきたい」(2021年6月17日付、朝日新聞オピニオン面)
若松前副知事の公職選挙法違反事件は、地方で起きた小さな事件の一つかもしれない。けれども、こうした事件をあいまいなまま終わらせれば、政治に対する諦めの感情はますます深まり、私たちの社会の土台が崩れていく。
それぞれが自分にできることを行い、小さな成果を一つひとつ積み重ねていく。そうすることでしか、社会を前に進めることはできない。
警察と検察には粛々と捜査を進め、事実を解明してほしい。そうすることが、前に進もうとする人たちを勇気づけることになる。
(長岡 昇 NPO「ブナの森」代表)
≪写真説明≫
◎山形県の副知事が不在になって3カ月。吉村知事の隣は空席のまま(6月19日付の産経新聞から)
◎ラフランスを手に首相官邸で安倍晋三氏と写真に納まる吉村美栄子知事(2016年11月28日)。この写真は山形県政記者クラブの加盟各社に送られた
苦労して財を成した人が次に欲しがるものは、地位と名誉である。
「令和の政商」の異名を取る大樹(たいじゅ)総研グループの代表、矢島義也(よしなり)氏は2016年秋と2017年春の園遊会に「各界功績者」の一人として招待された。招待者名簿には本名の「矢島義成」と記されている。天皇と皇后が主催する赤坂御苑での催しに出席できたのだから、名誉欲は十分に満たされたことだろう。

矢島氏は2016年5月に帝国ホテルで「結婚を祝う会」を開いた。彼は若いころに離婚しているので、これは再婚の披露宴である。祝う会の主賓は菅義偉・官房長官(当時)、乾杯の音頭は二階俊博・自民党総務会長(同)が取った。政財官界の要人300人余りが勢ぞろいした盛大な会だった。
園遊会には配偶者も招かれるが、内縁の妻は招かれない。矢島氏がこのタイミングで披露宴を開いたのは、夫婦そろって秋の園遊会に出席するためだったのかもしれない。配偶者にとっても、園遊会はこれ以上ない晴れ舞台だったはずだ。
これに先立って、矢島氏は「地位の確保」に向けても動き始めていた。狙いを定めたのは最高学府、東京大学である。
2014年ごろ、東大の大学院情報学環に寄付講座の申し入れがあった。名古屋市のベンチャー企業「ディー・ディー・エス(DDS)」の三吉野健滋社長が「サイバーセキュリティの共同研究のために3億円を提供したい」と申し入れてきた。
DDSは、指紋などによる生体認証のソフト開発と機器販売を目的に1995年に設立された。これが普及すれば、IDやパスワードを打ち込んで本人確認をする必要はなくなる。サイバーセキュリティの分野で注目を集めている技術の一つだ。
ただ、企業としての実績は乏しかった。DDSは東証マザーズに上場していたものの、株価は長く100円前後で低迷していた。寄付金は「三吉野社長がストックオプションで持っている株の売買益を充てる」との提案で、東大の関係者は「やや不安ではあった」と打ち明ける。
寄付講座新設の決め手になったのは、仲介者がサイバーセキュリティ分野の国内第一人者、安田浩・東大名誉教授(後に東京電機大学学長)だったからだ。「重鎮の安田先生の口添えで、しかもDDSにはほかの大学への寄付の実績もあった。学内の審査もすんなり通りました」と関係者は証言する。
この寄付を基に、東大は2015年に「情報学環セキュア情報化社会研究」という寄付講座を立ち上げ、「SISOC-TOKYO」というプロジェクトをスタートさせた。報道向けの資料によれば、その目的は「サイバーセキュリティの研究にとどまらず、国際的な視野に立った情報発信や政策提言を行う」と格調高かった。
プロジェクトを推進するため、東大は学内に加え外部からも研究者を招いた。東京電機大学や名古屋工業大学の教授を特任教授にし、元財務官僚や日本経済新聞の編集委員を客員教授として迎え入れた。
実はこの時、寄付者の三吉野社長と安田名誉教授は「大樹総研の矢島義也会長も客員教授として迎えてほしい」と打診していた。東大側は困惑し、「研究実績かそれに準ずるものがなければ、教授会で了承が得られません」と、これだけは押し返したのだという。
それでも、大樹総研はあきらめなかった。寄付講座が発足した後、今度は「東大情報学環と大樹総研で共同研究をまとめ、それを本にして出版したい」と提案してきた。東大のお墨付きで矢島氏の著書を世に出そうと考えたようだ。東大側はこれも断った。「大樹総研が示した論文のレベルが低過ぎて、とても出版に堪えられるような内容ではなかったから」という。
こうした一連の動きは、この寄付講座の真のスポンサーが誰かを明瞭に示している。寄付者として名乗り出たのはDDSだが、資金は大樹総研グループから出た、と見るのが自然だろう。
業を煮やしたのか、大樹総研の矢島氏は「東京大学 大学院情報学環 SiSOC TOKYO 最高顧問 矢島義也」という名刺を勝手に作り、配り始めた。東大のロゴと住所、寄付講座事務局の連絡先入りだ。もちろん、「最高顧問」などというポストは存在しない。「地位」も勝手に印刷してしまうところが政商らしい、と言うべきか。
これに気づいて東大側は抗議したが、受け流されたという。こうしたトラブルに加え、分割して振り込まれるはずの寄付金がしばしば滞ったこともあって、5年の計画で始まった寄付講座と共同研究は4年で打ち切られた。
この間、東証マザーズではDDSの株をめぐって不思議なことが起きていた。乱高下していたDDS株が2014年に入って急騰し、6月13日にはついに1株1,899円の高値を付けた。ほどなく株価は急落して「ナイアガラ状態」になり、元の200円台まで下がった
だが、DDS株の乱高下はその後も続き、「100万株の成り行き売り注文」「20万株の指し値買い注文がすぐさま取り消し」といったことが繰り返された。1株1,000円で100万株なら10億円の取引になる。株価の掲示板には「プロであれば、こんなことをやると業界から追放される。絶対にやらない。いったい誰だ」といった怒りの声が寄せられたりした。
こうした動きは、DDSの株価を操作して莫大な利益を得ようとした者がいたことを示している。東大大学院の寄付講座の新設も株価操作に利用された可能性が大きい。東大側はこうしたことを全く知らなかったようだ。筆者から指摘され、あわてて調べ始めている。
大樹総研グループがDDSの株価操作に関与したことを示す証拠は今のところない。だが、証券取引等監視委員会あるいは金融庁、検察、国税当局が本気になって調べれば、裏で何が起きていたのか、容易に分かるはずだ。
実際、金融庁は2011年にDDSの財務調査を行い、「システム開発や機器販売をめぐって架空取引があった」として「有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金の納付命令」を出している(10月3日付)。課徴金は3,330万円だった。
DDSの年間売上高は10億円から20億円ほどで、収支が赤字になることもしばしばだった。こうした業績から見ても、「社長のポケットマネーから東大に3億円を寄付する」といった単純な図式だったとは到底考えられない。
寄付には「善意の寄付」もある。が、同時に「寄付することでそれ以上の利益を上げることをもくろむ」という「悪意の寄付」もある。研究一筋で生きてきた人たちには、想像すらできないことだろう。
寄付講座の申し入れに関する東大のガイドラインはどうなっているのか。審査はどのように行われているのか。DDSと大樹総研の関係をどこまで把握していたのか。東大の本部に目下、問い合わせている。回答があれば、次の報告でお伝えしたい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 89」 2021年6月14日
*追記:東京大学本部の広報課から回答がありました。「寄付金額は平成27年から平成30年までに年間6,000万円、総額2億4,000万円」「名刺については把握しており、安田浩氏(当時の特任教授)を通じて利用をやめるよう申し入れました。誠に遺憾であると考えています」とのこと。寄付の申し出は3億円でしたが、寄付講座を4年で打ち切ったため最後の1年分の寄付は受け取らなかったようです。寄付講座の新設についてのガイドラインはなく、ディー・ディー・エスが金融庁の課徴金納付命令を受けたことや同社と大樹総研グループとの関係は「把握しておりませんでした」と回答してきました(回答は2021年6月17日付)。
*初出:調査報道サイト「HUNTER」
https://news-hunter.org/?p=7252
≪写真説明≫
◎矢島義也氏が配っていた「東京大学 最高顧問」の名刺
*東大大学院寄付講座のプロジェクト名は「SISOC-TOKYO」だが、矢島義也氏の名刺では「SiSOC TOKYO」と、一部小文字になっている。
≪参考記事・資料&サイト≫
◎「令和の政商」矢島義也氏の正体(ウェブコラム「情報屋台」2020年11月7日)
http://www.johoyatai.com/3291
◎菅首相を抱き込む「令和の政商」(週刊新潮 2020年10月15日号)
◎政官界に浸透する「大樹総研」(月刊『選択』2018年8月号、9月号)
◎2017年春の園遊会招待者(2017年4月6日付、朝日新聞長野県版)
◎2016年秋の園遊会招待者(2016年10月21日付、朝日新聞長野県版)
◎矢島義也氏の「結婚を祝う会」の席次表(2016年5月29日、帝国ホテル)
◎有名俳優たちの秘密乱交パーティの夜(月刊『噂の眞相』1999年8月号)
◎東京大学大学院の寄付講座「情報学環セキュア情報化社会研究」に関する記者会見開催のお知らせ(2015年7月27日)
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400040786.pdf
◎株式会社ディー・ディー・エス(DDS)の公式サイト
https://www.dds.co.jp/ja/company/
◎東証マザーズにおけるDDSの株価の推移(Kabutan)
https://kabutan.jp/stock/chart?code=3782
◎マザーズが急落、変調を引き起こした犯人は誰だ?(会社四季報オンライン)
https://shikiho.jp/news/0/163888
◎最高顧問の矢島義也氏(YAHOO ファイナンス ディー・ディー・エス 掲示板)
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1003782/3782/107/395
◎株式会社ディー・ディー・エスに係る有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金納付命令の決定について(2011年10月3日、金融庁の公式サイト)
https://www.fsa.go.jp/news/23/syouken/20111003-1.html
「令和の政商」の異名を取る大樹(たいじゅ)総研グループの代表、矢島義也(よしなり)氏は2016年秋と2017年春の園遊会に「各界功績者」の一人として招待された。招待者名簿には本名の「矢島義成」と記されている。天皇と皇后が主催する赤坂御苑での催しに出席できたのだから、名誉欲は十分に満たされたことだろう。

矢島氏は2016年5月に帝国ホテルで「結婚を祝う会」を開いた。彼は若いころに離婚しているので、これは再婚の披露宴である。祝う会の主賓は菅義偉・官房長官(当時)、乾杯の音頭は二階俊博・自民党総務会長(同)が取った。政財官界の要人300人余りが勢ぞろいした盛大な会だった。
園遊会には配偶者も招かれるが、内縁の妻は招かれない。矢島氏がこのタイミングで披露宴を開いたのは、夫婦そろって秋の園遊会に出席するためだったのかもしれない。配偶者にとっても、園遊会はこれ以上ない晴れ舞台だったはずだ。
これに先立って、矢島氏は「地位の確保」に向けても動き始めていた。狙いを定めたのは最高学府、東京大学である。
2014年ごろ、東大の大学院情報学環に寄付講座の申し入れがあった。名古屋市のベンチャー企業「ディー・ディー・エス(DDS)」の三吉野健滋社長が「サイバーセキュリティの共同研究のために3億円を提供したい」と申し入れてきた。
DDSは、指紋などによる生体認証のソフト開発と機器販売を目的に1995年に設立された。これが普及すれば、IDやパスワードを打ち込んで本人確認をする必要はなくなる。サイバーセキュリティの分野で注目を集めている技術の一つだ。
ただ、企業としての実績は乏しかった。DDSは東証マザーズに上場していたものの、株価は長く100円前後で低迷していた。寄付金は「三吉野社長がストックオプションで持っている株の売買益を充てる」との提案で、東大の関係者は「やや不安ではあった」と打ち明ける。
寄付講座新設の決め手になったのは、仲介者がサイバーセキュリティ分野の国内第一人者、安田浩・東大名誉教授(後に東京電機大学学長)だったからだ。「重鎮の安田先生の口添えで、しかもDDSにはほかの大学への寄付の実績もあった。学内の審査もすんなり通りました」と関係者は証言する。
この寄付を基に、東大は2015年に「情報学環セキュア情報化社会研究」という寄付講座を立ち上げ、「SISOC-TOKYO」というプロジェクトをスタートさせた。報道向けの資料によれば、その目的は「サイバーセキュリティの研究にとどまらず、国際的な視野に立った情報発信や政策提言を行う」と格調高かった。
プロジェクトを推進するため、東大は学内に加え外部からも研究者を招いた。東京電機大学や名古屋工業大学の教授を特任教授にし、元財務官僚や日本経済新聞の編集委員を客員教授として迎え入れた。
実はこの時、寄付者の三吉野社長と安田名誉教授は「大樹総研の矢島義也会長も客員教授として迎えてほしい」と打診していた。東大側は困惑し、「研究実績かそれに準ずるものがなければ、教授会で了承が得られません」と、これだけは押し返したのだという。
それでも、大樹総研はあきらめなかった。寄付講座が発足した後、今度は「東大情報学環と大樹総研で共同研究をまとめ、それを本にして出版したい」と提案してきた。東大のお墨付きで矢島氏の著書を世に出そうと考えたようだ。東大側はこれも断った。「大樹総研が示した論文のレベルが低過ぎて、とても出版に堪えられるような内容ではなかったから」という。
こうした一連の動きは、この寄付講座の真のスポンサーが誰かを明瞭に示している。寄付者として名乗り出たのはDDSだが、資金は大樹総研グループから出た、と見るのが自然だろう。
業を煮やしたのか、大樹総研の矢島氏は「東京大学 大学院情報学環 SiSOC TOKYO 最高顧問 矢島義也」という名刺を勝手に作り、配り始めた。東大のロゴと住所、寄付講座事務局の連絡先入りだ。もちろん、「最高顧問」などというポストは存在しない。「地位」も勝手に印刷してしまうところが政商らしい、と言うべきか。
これに気づいて東大側は抗議したが、受け流されたという。こうしたトラブルに加え、分割して振り込まれるはずの寄付金がしばしば滞ったこともあって、5年の計画で始まった寄付講座と共同研究は4年で打ち切られた。
この間、東証マザーズではDDSの株をめぐって不思議なことが起きていた。乱高下していたDDS株が2014年に入って急騰し、6月13日にはついに1株1,899円の高値を付けた。ほどなく株価は急落して「ナイアガラ状態」になり、元の200円台まで下がった
だが、DDS株の乱高下はその後も続き、「100万株の成り行き売り注文」「20万株の指し値買い注文がすぐさま取り消し」といったことが繰り返された。1株1,000円で100万株なら10億円の取引になる。株価の掲示板には「プロであれば、こんなことをやると業界から追放される。絶対にやらない。いったい誰だ」といった怒りの声が寄せられたりした。
こうした動きは、DDSの株価を操作して莫大な利益を得ようとした者がいたことを示している。東大大学院の寄付講座の新設も株価操作に利用された可能性が大きい。東大側はこうしたことを全く知らなかったようだ。筆者から指摘され、あわてて調べ始めている。
大樹総研グループがDDSの株価操作に関与したことを示す証拠は今のところない。だが、証券取引等監視委員会あるいは金融庁、検察、国税当局が本気になって調べれば、裏で何が起きていたのか、容易に分かるはずだ。
実際、金融庁は2011年にDDSの財務調査を行い、「システム開発や機器販売をめぐって架空取引があった」として「有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金の納付命令」を出している(10月3日付)。課徴金は3,330万円だった。
DDSの年間売上高は10億円から20億円ほどで、収支が赤字になることもしばしばだった。こうした業績から見ても、「社長のポケットマネーから東大に3億円を寄付する」といった単純な図式だったとは到底考えられない。
寄付には「善意の寄付」もある。が、同時に「寄付することでそれ以上の利益を上げることをもくろむ」という「悪意の寄付」もある。研究一筋で生きてきた人たちには、想像すらできないことだろう。
寄付講座の申し入れに関する東大のガイドラインはどうなっているのか。審査はどのように行われているのか。DDSと大樹総研の関係をどこまで把握していたのか。東大の本部に目下、問い合わせている。回答があれば、次の報告でお伝えしたい。
長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)
*メールマガジン「風切通信 89」 2021年6月14日
*追記:東京大学本部の広報課から回答がありました。「寄付金額は平成27年から平成30年までに年間6,000万円、総額2億4,000万円」「名刺については把握しており、安田浩氏(当時の特任教授)を通じて利用をやめるよう申し入れました。誠に遺憾であると考えています」とのこと。寄付の申し出は3億円でしたが、寄付講座を4年で打ち切ったため最後の1年分の寄付は受け取らなかったようです。寄付講座の新設についてのガイドラインはなく、ディー・ディー・エスが金融庁の課徴金納付命令を受けたことや同社と大樹総研グループとの関係は「把握しておりませんでした」と回答してきました(回答は2021年6月17日付)。
*初出:調査報道サイト「HUNTER」
https://news-hunter.org/?p=7252
≪写真説明≫
◎矢島義也氏が配っていた「東京大学 最高顧問」の名刺
*東大大学院寄付講座のプロジェクト名は「SISOC-TOKYO」だが、矢島義也氏の名刺では「SiSOC TOKYO」と、一部小文字になっている。
≪参考記事・資料&サイト≫
◎「令和の政商」矢島義也氏の正体(ウェブコラム「情報屋台」2020年11月7日)
http://www.johoyatai.com/3291
◎菅首相を抱き込む「令和の政商」(週刊新潮 2020年10月15日号)
◎政官界に浸透する「大樹総研」(月刊『選択』2018年8月号、9月号)
◎2017年春の園遊会招待者(2017年4月6日付、朝日新聞長野県版)
◎2016年秋の園遊会招待者(2016年10月21日付、朝日新聞長野県版)
◎矢島義也氏の「結婚を祝う会」の席次表(2016年5月29日、帝国ホテル)
◎有名俳優たちの秘密乱交パーティの夜(月刊『噂の眞相』1999年8月号)
◎東京大学大学院の寄付講座「情報学環セキュア情報化社会研究」に関する記者会見開催のお知らせ(2015年7月27日)
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400040786.pdf
◎株式会社ディー・ディー・エス(DDS)の公式サイト
https://www.dds.co.jp/ja/company/
◎東証マザーズにおけるDDSの株価の推移(Kabutan)
https://kabutan.jp/stock/chart?code=3782
◎マザーズが急落、変調を引き起こした犯人は誰だ?(会社四季報オンライン)
https://shikiho.jp/news/0/163888
◎最高顧問の矢島義也氏(YAHOO ファイナンス ディー・ディー・エス 掲示板)
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1003782/3782/107/395
◎株式会社ディー・ディー・エスに係る有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金納付命令の決定について(2011年10月3日、金融庁の公式サイト)
https://www.fsa.go.jp/news/23/syouken/20111003-1.html
2021年の第9回最上川縦断カヌー探訪の開催要項とコース図をアップしました。
参加申込の受け付けは6月21日からです。よろしくお願いいたします。
参加申込の受け付けは6月21日からです。よろしくお願いいたします。
東北の北部と北海道南部にある縄文時代の遺跡群がユネスコの世界遺産に登録される見通しになった。青森市の三内丸山遺跡や秋田県鹿角(かづの)市の大湯環状列石など17の遺跡が対象で、7月中旬に開かれる世界遺産委員会で正式に決定される。

三内丸山遺跡では、クリの巨木を使った六本柱の建造物や長さ32メートルもの大型竪穴式住居が見つかり、「狩猟採集で細々と暮らしていた」というそれまでの縄文のイメージを覆した。大湯の環状列石も最大径が50メートルを超し、その大規模さが際立つ。
さらに、青森県外ヶ浜町の大平(おおだい)山元遺跡からは、1万6000年前のものと推定される土器片が見つかっている。これはエジプトやメソポタミアで発見された土器より古く、「世界最古の土器」の一つと見られている。世界遺産にふさわしい遺跡群であり、むしろ登録が遅すぎたくらいである。
縄文時代については、まだ決着のつかない問題が多い。そもそも、縄文時代はいつ始まり、いつごろ農耕を伴う弥生時代に移行したと考えるべきか。それすら論争が続いており、定まっていない。
この時代の遺跡はなぜ北海道や東北に多く、西日本には少ないのか。これも大きな謎の一つだ。国立民族学博物館の小山修三・名誉教授は、発見された遺跡などをベースに「縄文時代の人口」を推計し、「4000年前の人口は26万人。西日本の人口は東日本の10分の1以下だった」との説を発表している(『縄文学への道』)。
その偏りの理由は何か。クリやクルミ、ドングリなど縄文人の生活を支えた堅果類が東日本の方に多かったから、といった説もあるが、腑に落ちない。
私がもっとも説得力があると考えるのは「超巨大噴火説」である。火山学や地質学の研究によって、今から7300年前に九州南部でとてつもない巨大噴火が起きたことが分かっている。
薩摩半島の南50キロにある「鬼界(きかい)カルデラ」である。噴火によってできた巨大なカルデラは海底にあって見えないが、噴煙は3万メートル上空に達し、噴き出した火砕流は屋久島や種子島をのみ込み、海を越えて鹿児島南部に達したとされる。
『歴史を変えた火山噴火』(石弘之)によれば、この時の火砕流の規模は、私たちの記憶に残る雲仙普賢岳の火砕流(1991年)の数十万倍という。火山灰は九州全土に厚く積もり、西日本全体にも降り注いだ。この噴火によって、西日本の縄文遺跡の多くは火山灰の下に埋もれ、人間が暮らすこともかなりの期間困難になった、というのが「超巨大噴火説」である。
この説によれば、縄文時代に西日本に人がいなかったわけではなく、集落は厚い火山灰の下に埋もれてしまった、ということになる。これなら、西日本で発見される縄文遺跡が少なく、それをベースにした人口推計も小さくなる理由が説明できる。
その影響は東日本にも及んだはずである。小山修三氏の推計では、縄文時代の人口は早期から増え続け、中期にピークに達し、その後、全体として激減したとされる。そうした人口の推移も九州で超巨大噴火があったと考えれば、整合性をもって説明できる。
九州南部には鬼界カルデラのほかにも、薩摩半島と大隅半島の間にある阿多(あた)カルデラ、桜島周辺の姶良(あいら)カルデラ、阿蘇カルデラなど超巨大噴火でできたものがあり、それらが帯状に連なる。

もちろん、九州だけではない。北海道の屈斜路湖や支笏湖、青森・秋田県境にある十和田湖も超巨大噴火でできたカルデラに水がたまってできたものだ。これらの噴火のエネルギーは、富士山の宝永噴火(1707年)や浅間山の天明噴火(1783年)、会津磐梯山の噴火(1888年)とは比べものにならないほど巨大なものだ。
世界に目を向ければ、アメリカ西部のイエローストーン国立公園やインドネシア・スマトラ島のトバ湖は、遠い昔に起きた超巨大噴火によってできたものだ。いずれも、地球全体の気候に影響を及ぼすほどの噴火だったとされる。
ただし、イエローストーンの最後の噴火は64万年前、トバ湖の噴火は7万4000年前で、地質調査などから分かるだけだ。歴史的な記録は何もない。その点では、鬼界カルデラの噴火と変わらない。こうした噴火の周期は数万年あるいは数十万年と推定されている。
東日本大震災と福島の原発事故の後、日本では「1000年前の貞観地震にも目を向けるべきだった」といった反省がなされたが、超巨大噴火はそれよりはるかに長いスパンで考えなければならない。科学や政治の舞台で正面から扱うのは難しい面がある。
けれども、危機管理の要諦が「最悪の事態も想定しておく」ということであれば、「頭の片隅に置いておかなければならないシナリオの一つ」であることは間違いない。46億年の地球の歴史から見れば、数万年など「誤差の範囲」とも言えるからだ。
神戸大学大学院の巽(たつみ)好幸教授と鈴木桂子准教授は2014年10月、日本で起きた超巨大噴火を詳しく調べ、「日本で今後100年間に超巨大噴火が起きる確率は1%」と発表した。その確率をどう受け止めるかは難しい問題だ。
「勇気ある提言」と見るか、「荒唐無稽な研究」と見るか。私は「無視できない確率」と見る。
*メールマガジン「風切通信 88」 2021年5月30日
≪参考文献・記事&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎「縄文遺跡群、世界遺産へ」(朝日新聞2021年5月27日付)
◎土器(ウィキペディア)
◎『縄文学への道』(小山修三、NHKブックス)
◎「縄文人口シミュレーション」(小山修三、杉藤重信)
file:///C:/Users/nagao/Downloads/KH_009_1_001%20(1).pdf
◎『歴史を変えた火山噴火』(石弘之、刀水書房)
◎『クラカトアの大噴火』(サイモン・ウィンチェスター、早川書房)
◎「巨大カルデラ噴火のメカニズムとリスク」(神戸大学の公式サイト)
https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/research/2014_10_22_01.html
≪写真説明&Source≫
◎2018年12月24日のクラカトア火山の噴火。この時の噴火は超巨大噴火ではなかった(インドネシア語の発音は「クラカタウ」)
https://www.huffingtonpost.jp/2018/12/25/what-anak-krakatau_a_23626685/
◎九州南部の巨大カルデラ(『歴史を変えた火山噴火』p47から複写)

三内丸山遺跡では、クリの巨木を使った六本柱の建造物や長さ32メートルもの大型竪穴式住居が見つかり、「狩猟採集で細々と暮らしていた」というそれまでの縄文のイメージを覆した。大湯の環状列石も最大径が50メートルを超し、その大規模さが際立つ。
さらに、青森県外ヶ浜町の大平(おおだい)山元遺跡からは、1万6000年前のものと推定される土器片が見つかっている。これはエジプトやメソポタミアで発見された土器より古く、「世界最古の土器」の一つと見られている。世界遺産にふさわしい遺跡群であり、むしろ登録が遅すぎたくらいである。
縄文時代については、まだ決着のつかない問題が多い。そもそも、縄文時代はいつ始まり、いつごろ農耕を伴う弥生時代に移行したと考えるべきか。それすら論争が続いており、定まっていない。
この時代の遺跡はなぜ北海道や東北に多く、西日本には少ないのか。これも大きな謎の一つだ。国立民族学博物館の小山修三・名誉教授は、発見された遺跡などをベースに「縄文時代の人口」を推計し、「4000年前の人口は26万人。西日本の人口は東日本の10分の1以下だった」との説を発表している(『縄文学への道』)。
その偏りの理由は何か。クリやクルミ、ドングリなど縄文人の生活を支えた堅果類が東日本の方に多かったから、といった説もあるが、腑に落ちない。
私がもっとも説得力があると考えるのは「超巨大噴火説」である。火山学や地質学の研究によって、今から7300年前に九州南部でとてつもない巨大噴火が起きたことが分かっている。
薩摩半島の南50キロにある「鬼界(きかい)カルデラ」である。噴火によってできた巨大なカルデラは海底にあって見えないが、噴煙は3万メートル上空に達し、噴き出した火砕流は屋久島や種子島をのみ込み、海を越えて鹿児島南部に達したとされる。
『歴史を変えた火山噴火』(石弘之)によれば、この時の火砕流の規模は、私たちの記憶に残る雲仙普賢岳の火砕流(1991年)の数十万倍という。火山灰は九州全土に厚く積もり、西日本全体にも降り注いだ。この噴火によって、西日本の縄文遺跡の多くは火山灰の下に埋もれ、人間が暮らすこともかなりの期間困難になった、というのが「超巨大噴火説」である。
この説によれば、縄文時代に西日本に人がいなかったわけではなく、集落は厚い火山灰の下に埋もれてしまった、ということになる。これなら、西日本で発見される縄文遺跡が少なく、それをベースにした人口推計も小さくなる理由が説明できる。
その影響は東日本にも及んだはずである。小山修三氏の推計では、縄文時代の人口は早期から増え続け、中期にピークに達し、その後、全体として激減したとされる。そうした人口の推移も九州で超巨大噴火があったと考えれば、整合性をもって説明できる。
九州南部には鬼界カルデラのほかにも、薩摩半島と大隅半島の間にある阿多(あた)カルデラ、桜島周辺の姶良(あいら)カルデラ、阿蘇カルデラなど超巨大噴火でできたものがあり、それらが帯状に連なる。

もちろん、九州だけではない。北海道の屈斜路湖や支笏湖、青森・秋田県境にある十和田湖も超巨大噴火でできたカルデラに水がたまってできたものだ。これらの噴火のエネルギーは、富士山の宝永噴火(1707年)や浅間山の天明噴火(1783年)、会津磐梯山の噴火(1888年)とは比べものにならないほど巨大なものだ。
世界に目を向ければ、アメリカ西部のイエローストーン国立公園やインドネシア・スマトラ島のトバ湖は、遠い昔に起きた超巨大噴火によってできたものだ。いずれも、地球全体の気候に影響を及ぼすほどの噴火だったとされる。
ただし、イエローストーンの最後の噴火は64万年前、トバ湖の噴火は7万4000年前で、地質調査などから分かるだけだ。歴史的な記録は何もない。その点では、鬼界カルデラの噴火と変わらない。こうした噴火の周期は数万年あるいは数十万年と推定されている。
東日本大震災と福島の原発事故の後、日本では「1000年前の貞観地震にも目を向けるべきだった」といった反省がなされたが、超巨大噴火はそれよりはるかに長いスパンで考えなければならない。科学や政治の舞台で正面から扱うのは難しい面がある。
けれども、危機管理の要諦が「最悪の事態も想定しておく」ということであれば、「頭の片隅に置いておかなければならないシナリオの一つ」であることは間違いない。46億年の地球の歴史から見れば、数万年など「誤差の範囲」とも言えるからだ。
神戸大学大学院の巽(たつみ)好幸教授と鈴木桂子准教授は2014年10月、日本で起きた超巨大噴火を詳しく調べ、「日本で今後100年間に超巨大噴火が起きる確率は1%」と発表した。その確率をどう受け止めるかは難しい問題だ。
「勇気ある提言」と見るか、「荒唐無稽な研究」と見るか。私は「無視できない確率」と見る。
*メールマガジン「風切通信 88」 2021年5月30日
≪参考文献・記事&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎「縄文遺跡群、世界遺産へ」(朝日新聞2021年5月27日付)
◎土器(ウィキペディア)
◎『縄文学への道』(小山修三、NHKブックス)
◎「縄文人口シミュレーション」(小山修三、杉藤重信)
file:///C:/Users/nagao/Downloads/KH_009_1_001%20(1).pdf
◎『歴史を変えた火山噴火』(石弘之、刀水書房)
◎『クラカトアの大噴火』(サイモン・ウィンチェスター、早川書房)
◎「巨大カルデラ噴火のメカニズムとリスク」(神戸大学の公式サイト)
https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/research/2014_10_22_01.html
≪写真説明&Source≫
◎2018年12月24日のクラカトア火山の噴火。この時の噴火は超巨大噴火ではなかった(インドネシア語の発音は「クラカタウ」)
https://www.huffingtonpost.jp/2018/12/25/what-anak-krakatau_a_23626685/
◎九州南部の巨大カルデラ(『歴史を変えた火山噴火』p47から複写)
繊維状の鉱物であるアスベスト(石綿)には、長い歴史がある。古代エジプトではミイラを包む布として使われ、ギリシャではランプの芯として利用された。中国では「火浣布(かかんぷ)」と呼ばれ、貢ぎ物として珍重された。石綿でつくった布を火に投じると、汚れだけ燃えてまたきれいになるからだ。

そのアスベストが社会で広く使われるようになったのは20世紀に入ってからである。日本では戦後、大量に輸入され、建設現場や工場で断熱材や絶縁材として使用された。産業界では「奇跡の鉱物」と呼ばれたりした。
だが、「きれいなバラにはトゲがある」の例え通り、アスベストにも「トゲ」があった。微細な繊維を吸い込むと、やがて肺がんや中皮腫を引き起こす。一部の研究者は早くからその危険性を指摘していた。長い歳月を経て発病することから「静かな時限爆弾」と呼ぶ人もいた。
にもかかわらず、政府も業界もそうした声に耳を傾けなかった。建物の防火材や断熱材にとどまらず、化学プラントの配管接続材など用途は広く、「経済発展に欠かせない」と考えたからだ。その構図は、有機水銀が水俣病の原因と指摘されても政府や企業が否定し続けた歴史と重なる。
アスベストが原因で命と健康を奪われた人たちが起こした裁判にようやく決着がついた。最高裁判所は5月17日、政府と建材メーカーの賠償責任を認める判決を出した。政府が吹き付けアスベストの使用を禁止した1975年から46年、大阪・泉南アスベスト訴訟の提訴(2006年)から15年。この国では、まっとうな結論に至るまで、何事も長い年月を要する。
最高裁が被害者救済の根拠にしたのは、労働安全衛生法という法律である。この法律は1972年、労働基準法にあった労災防止関係の規定を分離・独立させ、より充実させて制定したものだ。
労働基準法が、雇用する側に労働時間の制限や差別的取り扱いの禁止など「最低限守るべきこと」を定めているのに対して、労働安全衛生法は雇用側に「快適な職場環境」をつくることを義務づけている。
つまり、雇用する側に対して、制限を超える長時間労働や国籍・性別などによる差別的取り扱いが許されないのは当然のことであり、さらに一歩進めて「働く者が安全で健康な状態で働けるような職場環境をつくりなさい」と求めているのである。
何とまっとうな法律であることか。アスベスト訴訟はこの法律にあらためて光を当て、世に広く知らしめることになった。愛する者を失った悲しみと病による苦しみを乗り越え、長い裁判を闘ってきた人たちの大きな功績と言わなければならない。
昔に比べれば大きく前進したとはいえ、働く者の立場は依然として著しく弱い。「安全で健康な職場環境」とは程遠い状態で働いている人が何と多いことか。差別やパワハラがまかり通っているのが現実だ。
私が暮らしている山形県でも最近、陰湿なパワハラ事件が発覚した。その舞台となったのは山形県総合文化芸術館(やまぎん県民ホール)である。山形県はこの新しい県民ホールを2019年秋に完成させ、その指定管理者にサントリーパブリシティサービスを中心とする共同企業体を選んだ。その会社の幹部がパワハラを繰り返していた。
この会社によるホールの運営は、当初から摩擦が絶えなかった。地元スタッフの退職が相次ぎ、幹部による特定の女性社員に対するパワハラが常態化していた。彼女は「睡眠障害と適応障害の疑い」と診断され、山形労働基準監督署に労災申請をして認定された。彼女を支援してきた労働組合が今年の4月末に記者会見して明らかにした。
本人から事前に詳しく話を聞く機会があった。上司が日々、信じられないような言動を繰り返していた。極め付きは「あなたは生きていることが恥ずかしいですか?」という発言だ。
2019年9月17日、本社から社長らが来訪して山形市内で懇親会が開かれた。その席で、県民ホールの支配人が場を盛り上げようとして「皆さん、今まで恥ずかしかったエピソードを披露していきましょう」と水を向けた。その時、副支配人が彼女にささやいたのだという。
その席には複数の地元スタッフがおり、近くにいた人にも聞こえた。サントリー側も否定することはできず、こうした発言も労災認定の決め手になったと思われる。
アスベスト被害でも、このパワハラでも、その根底にあるのは「働く者の安全と健康より利益追求を優先する姿勢」である。法律で「それは許されないことですよ」と規定しても、それに思いをいたすことなく、平気で違法なことをする人たちがいる。
企業の経営者や雇用主は、労働安全衛生法が何を求めているのか、あらためて読み返さなければなるまい。そして、働く者の憲章とも言うべき「労働基準法」の文言もかみしめてほしい。労働基準法は、その第1条(労働条件の原則)で次のように規定している。
「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」
労働基準法の制定は1947年、戦後間もなくだった。その頃、国民は敗戦の焼け跡の中で食うや食わずの生活をし、巷には失業者があふれていた。多くの人にとって「人たるに値する生活」など夢物語のような状況だった。
それでも、法律をつくった人たちは、日々の糧を得ることの先を見据えて、この言葉を盛り込まないではいられなかったのだろう。未来を信じ、その実現を後に続く人たちに託したのである。
人たるに値する生活。重い言葉であり、はるかなる道である。
*メールマガジン「風切通信 87」 2021年5月21日
*山形県総合文化芸術館の指定管理者については、山形県当局がきわめて不明朗な選定手続きをしており、2019年3月29日の風切通信55でその内実をお伝えしました。ご参照ください。
≪参考サイト&記事≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎石綿(ウィキペディア)
◎中皮腫について(独立行政法人環境再生保全機構のサイト)
https://www.erca.go.jp/asbestos/mesothelioma/what/what_about.html
◎「国・石綿建材業者に賠償責任 最高裁、初の統一判断」(2021年5月18日付、朝日新聞)
◎「建設石綿、国と企業の責任認める 最高裁が統一判断」(2021年5月17日、日本経済新聞電子版)
◎大阪・泉南アスベスト国家賠償請求訴訟(ウィキペディア)
◎労働安全衛生法(ウィキペディア)、労働基準法(同)
◎労働安全衛生法律とは? 経営者がやるべきことをわかりやすく解説
https://squareup.com/jp/ja/townsquare/what-is-industrial-safety-and-health-act
≪写真説明&Source≫
◎アスベスト訴訟で勝訴し、垂れ幕を掲げる原告団(日経新聞電子版2021年5月17日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE14BXJ0U1A510C2000000/

そのアスベストが社会で広く使われるようになったのは20世紀に入ってからである。日本では戦後、大量に輸入され、建設現場や工場で断熱材や絶縁材として使用された。産業界では「奇跡の鉱物」と呼ばれたりした。
だが、「きれいなバラにはトゲがある」の例え通り、アスベストにも「トゲ」があった。微細な繊維を吸い込むと、やがて肺がんや中皮腫を引き起こす。一部の研究者は早くからその危険性を指摘していた。長い歳月を経て発病することから「静かな時限爆弾」と呼ぶ人もいた。
にもかかわらず、政府も業界もそうした声に耳を傾けなかった。建物の防火材や断熱材にとどまらず、化学プラントの配管接続材など用途は広く、「経済発展に欠かせない」と考えたからだ。その構図は、有機水銀が水俣病の原因と指摘されても政府や企業が否定し続けた歴史と重なる。
アスベストが原因で命と健康を奪われた人たちが起こした裁判にようやく決着がついた。最高裁判所は5月17日、政府と建材メーカーの賠償責任を認める判決を出した。政府が吹き付けアスベストの使用を禁止した1975年から46年、大阪・泉南アスベスト訴訟の提訴(2006年)から15年。この国では、まっとうな結論に至るまで、何事も長い年月を要する。
最高裁が被害者救済の根拠にしたのは、労働安全衛生法という法律である。この法律は1972年、労働基準法にあった労災防止関係の規定を分離・独立させ、より充実させて制定したものだ。
労働基準法が、雇用する側に労働時間の制限や差別的取り扱いの禁止など「最低限守るべきこと」を定めているのに対して、労働安全衛生法は雇用側に「快適な職場環境」をつくることを義務づけている。
つまり、雇用する側に対して、制限を超える長時間労働や国籍・性別などによる差別的取り扱いが許されないのは当然のことであり、さらに一歩進めて「働く者が安全で健康な状態で働けるような職場環境をつくりなさい」と求めているのである。
何とまっとうな法律であることか。アスベスト訴訟はこの法律にあらためて光を当て、世に広く知らしめることになった。愛する者を失った悲しみと病による苦しみを乗り越え、長い裁判を闘ってきた人たちの大きな功績と言わなければならない。
昔に比べれば大きく前進したとはいえ、働く者の立場は依然として著しく弱い。「安全で健康な職場環境」とは程遠い状態で働いている人が何と多いことか。差別やパワハラがまかり通っているのが現実だ。
私が暮らしている山形県でも最近、陰湿なパワハラ事件が発覚した。その舞台となったのは山形県総合文化芸術館(やまぎん県民ホール)である。山形県はこの新しい県民ホールを2019年秋に完成させ、その指定管理者にサントリーパブリシティサービスを中心とする共同企業体を選んだ。その会社の幹部がパワハラを繰り返していた。
この会社によるホールの運営は、当初から摩擦が絶えなかった。地元スタッフの退職が相次ぎ、幹部による特定の女性社員に対するパワハラが常態化していた。彼女は「睡眠障害と適応障害の疑い」と診断され、山形労働基準監督署に労災申請をして認定された。彼女を支援してきた労働組合が今年の4月末に記者会見して明らかにした。
本人から事前に詳しく話を聞く機会があった。上司が日々、信じられないような言動を繰り返していた。極め付きは「あなたは生きていることが恥ずかしいですか?」という発言だ。
2019年9月17日、本社から社長らが来訪して山形市内で懇親会が開かれた。その席で、県民ホールの支配人が場を盛り上げようとして「皆さん、今まで恥ずかしかったエピソードを披露していきましょう」と水を向けた。その時、副支配人が彼女にささやいたのだという。
その席には複数の地元スタッフがおり、近くにいた人にも聞こえた。サントリー側も否定することはできず、こうした発言も労災認定の決め手になったと思われる。
アスベスト被害でも、このパワハラでも、その根底にあるのは「働く者の安全と健康より利益追求を優先する姿勢」である。法律で「それは許されないことですよ」と規定しても、それに思いをいたすことなく、平気で違法なことをする人たちがいる。
企業の経営者や雇用主は、労働安全衛生法が何を求めているのか、あらためて読み返さなければなるまい。そして、働く者の憲章とも言うべき「労働基準法」の文言もかみしめてほしい。労働基準法は、その第1条(労働条件の原則)で次のように規定している。
「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」
労働基準法の制定は1947年、戦後間もなくだった。その頃、国民は敗戦の焼け跡の中で食うや食わずの生活をし、巷には失業者があふれていた。多くの人にとって「人たるに値する生活」など夢物語のような状況だった。
それでも、法律をつくった人たちは、日々の糧を得ることの先を見据えて、この言葉を盛り込まないではいられなかったのだろう。未来を信じ、その実現を後に続く人たちに託したのである。
人たるに値する生活。重い言葉であり、はるかなる道である。
*メールマガジン「風切通信 87」 2021年5月21日
*山形県総合文化芸術館の指定管理者については、山形県当局がきわめて不明朗な選定手続きをしており、2019年3月29日の風切通信55でその内実をお伝えしました。ご参照ください。
≪参考サイト&記事≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎石綿(ウィキペディア)
◎中皮腫について(独立行政法人環境再生保全機構のサイト)
https://www.erca.go.jp/asbestos/mesothelioma/what/what_about.html
◎「国・石綿建材業者に賠償責任 最高裁、初の統一判断」(2021年5月18日付、朝日新聞)
◎「建設石綿、国と企業の責任認める 最高裁が統一判断」(2021年5月17日、日本経済新聞電子版)
◎大阪・泉南アスベスト国家賠償請求訴訟(ウィキペディア)
◎労働安全衛生法(ウィキペディア)、労働基準法(同)
◎労働安全衛生法律とは? 経営者がやるべきことをわかりやすく解説
https://squareup.com/jp/ja/townsquare/what-is-industrial-safety-and-health-act
≪写真説明&Source≫
◎アスベスト訴訟で勝訴し、垂れ幕を掲げる原告団(日経新聞電子版2021年5月17日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE14BXJ0U1A510C2000000/
日本のメディアでは昔から、「朝日のトドメ」「ピリオドのNHK」と言われてきた。どんな流行もブームも「朝日新聞の紙面に載り、NHKが放送したらもうオシマイ」という意味だ。

その朝日新聞が4月22日付のオピニオン面で、Adoが歌う「うっせぇわ」の特集を組んで報じた。特集では、歌手の泉谷しげるが「怒れ 世の中に向けて叫べ」と唱え、漫画家の松本千秋が「遊んだっていいじゃない」と語った。読み応えのある特集だった。
NHKが扱ったかどうかは知らないが、その4日前にはTBSがAdoのリモートインタビューを流した。インタビューアーはタレントの林修。最近の民放はNHKに似てきたので、この大ヒット曲も賞味期限切れ、ということだろう。
それでも、私の中ではまだ終わっていない。その強烈な歌唱力と抜群のリズム、時代を切り裂くような歌詞がなかなか消えない。謎めいたところが多く、調べてみたくなる。
クソだりぃな
酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
と来て、一呼吸置いて「はぁ うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」と勢いよく弾き飛ばす。コロナ禍でふさぎ込む社会にナイフを突き立てるようなフレーズだ。
これを18歳の女子高生Adoが歌って去年の10月にリリースし、3月にはユーチューブでの再生回数が1億回を超えた。けれども、肝心のAdoのプロフィールはまるで分からない。先のインタビューでも、林は動画配信のイラストの顔に向かって聞いていた。
本人の公式サイトによれば、小学生のころの夢は漫画家かイラストレーターになること。「地味で内気で根暗で、クラスの端っこで絵を描いているような人間だった」という。小学校の国語の授業で狂言『柿山伏』を教わり、シテ(主役)とアド(脇役)という言葉を知った。「アド」という言葉の響きに惹かれ、それを名乗ることを決めたという。
彼女にとって、音楽への扉を開いてくれたのはレコードでもCDでもなく、ニコニコ動画だった。ほどなく、ヤマハの音声合成ソフト「ボーカロイド」に出合い、中学2年から音楽活動を始める。自宅のクローゼットに防音をしてパソコンで録音、動画サイトに投稿する形でデビューしたが、名前も素顔も明らかにしていない。
彼女のように「ボーカロイド」で楽曲を作り、投稿する音楽家を「ボーカロイド・プロデューサー」、略して「ボカロP(ピー)」と呼ぶことも初めて知った。演歌やポップスのように、「ボーカロイド」というのが、今や音楽のジャンルの一つになっている。
とはいえ、高校生に「うっせぇわ」の作詞はできない。想像力がいくら豊かでも「不文律最低限のマナー」には思い至るまい。2番目の不思議、誰が作詞作曲をしたのか。それを調べていったら、またもやアルファベットの人物「syudou (しゅどう)」にたどり着いた。
彼も「ボーカロイド」で育ち、動画で楽曲を発表してきた音楽家の一人だ。同じように名前もプロフィールも明らかにしていないが、大学を卒業した後、会社勤めをしたことがあるという。
最新の流行は当然の把握
経済の動向も通勤時チェック
純情な精神で入社しワーク
社会人じゃ当然のルールです
という歌詞を紡げるだけの経験を重ねたようだ。
3番目の疑問。こうした「ボカロP」の収入源はどうなっているのか。昔のレコードやCDの売り上げとは収益構造がまるで異なる。ネットから音楽をダウンロードして楽しむ「ストリーミング」からの収入に加え、動画配信のユーチューブからの広告収入が大きいようだ。
ユーチューブのビジネスモデルを紹介しているサイトによれば、ユーチューバーの国内トップ100人の平均年収は3000万円を超えるのだとか。投稿した動画を1人クリックするたびに、動画に表示される広告の収入が0.1円程度、投稿者に支払われる。1億回再生されれば、単純計算で投稿者には1000万円が支払われる。動画をチャンネル登録した人数に応じた支払いなどもあるので、それも別途、手に入る。
映像活用提案会社「サムシングファン」によれば、動画のチャンネル登録者数が1万人なら20万円、3万人なら50万円ほどの登録料が毎月、ユーチューブから支払われるので、十分に暮らしていける。もちろん、動画をクリックすることで企業などから支払われる広告収入の取り分は、運営会社のユーチューブの方が多数の投稿者の総収入よりはるかに大きい。
ユーチューブは2005年にカリフォルニア州で設立され、翌2006年に16億5000万ドル(当時のレートで約2000億円)でGoogleに買収された。発足当初、この会社は動画の共有サービスに徹しており、売り上げはほとんどなかった。その会社にGoogleは巨費を投じた。
「投資に見合う収益を上げられるわけがない」との見方もあったが、Googleは提供する動画に広告をリンクすることで、この会社を「打ち出の小槌」に変えた。恐るべし経営戦略である。
話がそれた。「うっせぇわ」の七不思議の残り。ユーチューブにアップされたこの曲のミュージックビデオのイラストも切れ味鋭い。作者は誰かと調べたら、またWOOMAという名前が出てきた。分かったのは、ロングヘア―の女性だということだけ。皆さん、プライバシーを大切にしているようだ。
「この曲にダンスの振り付けをして踊ってみました」という動画も観た。これまた、すごい。高校ダンス界の強豪、大阪府立登美丘高校の振付師、akane(宮崎朱音)が振り付けたことまでは分かったが、踊り手がこの高校の生徒なのか、どこを舞台にしたのかはついに分からなかった。
残りの不思議は「この曲を一段と魅力的にしているドラムの演奏者は誰か」と「歌い手のAdoと作詞作曲のsyudouを支えて曲を世に送り出した音楽会社Virgin Music で全体を統括したのは誰か」の二つ。2人とも、並々ならぬ才能の持ち主だろう。
Adoは自らのサイトで「今は私の曲を聴いてくださる方々の代わりに戦える存在に、誰かの人生の脇役になれたらと思っています」と綴っている。そう、世の中はますます生きにくくなってきた。そんな時代だからこそ、刃のような音楽を聴きたい。 (敬称略)
*メールマガジン「風切通信 86」 2021年4月25日
≪写真のSource & 説明≫
◎高嶺ヒナの「うっせぇわ」コスプレ
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2102/18/news096.html
≪参考サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎「うっせぇわ」特設ページ Ado
https://www.universal-music.co.jp/ado/usseewa/
◎ウィキペディア「Ado」「syudou」「VOCALOID」「akane(振付師)」
◎ユーチューバーの収入は?徹底解説
https://richka.co/times/28437/#:~:text=YouTube%E3%81%AE%E5%8D%98%E4%BE%A1%E3%81%AF%E3%80%811,%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
◎Youtubeで稼げる金額はいくら?(株式会社サムシングファン)
https://www.somethingfun.co.jp/video_tips/youtube_income
◎ユーチューバーの収入の仕組みや平均年収は?
https://career-picks.com/average-salary/youtuber-syuunyuu/
◎「うっせぇわのMV制作のWOOMAがテレビ初出演」
https://news.mynavi.jp/article/20210412-1868725/

その朝日新聞が4月22日付のオピニオン面で、Adoが歌う「うっせぇわ」の特集を組んで報じた。特集では、歌手の泉谷しげるが「怒れ 世の中に向けて叫べ」と唱え、漫画家の松本千秋が「遊んだっていいじゃない」と語った。読み応えのある特集だった。
NHKが扱ったかどうかは知らないが、その4日前にはTBSがAdoのリモートインタビューを流した。インタビューアーはタレントの林修。最近の民放はNHKに似てきたので、この大ヒット曲も賞味期限切れ、ということだろう。
それでも、私の中ではまだ終わっていない。その強烈な歌唱力と抜群のリズム、時代を切り裂くような歌詞がなかなか消えない。謎めいたところが多く、調べてみたくなる。
クソだりぃな
酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
と来て、一呼吸置いて「はぁ うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」と勢いよく弾き飛ばす。コロナ禍でふさぎ込む社会にナイフを突き立てるようなフレーズだ。
これを18歳の女子高生Adoが歌って去年の10月にリリースし、3月にはユーチューブでの再生回数が1億回を超えた。けれども、肝心のAdoのプロフィールはまるで分からない。先のインタビューでも、林は動画配信のイラストの顔に向かって聞いていた。
本人の公式サイトによれば、小学生のころの夢は漫画家かイラストレーターになること。「地味で内気で根暗で、クラスの端っこで絵を描いているような人間だった」という。小学校の国語の授業で狂言『柿山伏』を教わり、シテ(主役)とアド(脇役)という言葉を知った。「アド」という言葉の響きに惹かれ、それを名乗ることを決めたという。
彼女にとって、音楽への扉を開いてくれたのはレコードでもCDでもなく、ニコニコ動画だった。ほどなく、ヤマハの音声合成ソフト「ボーカロイド」に出合い、中学2年から音楽活動を始める。自宅のクローゼットに防音をしてパソコンで録音、動画サイトに投稿する形でデビューしたが、名前も素顔も明らかにしていない。
彼女のように「ボーカロイド」で楽曲を作り、投稿する音楽家を「ボーカロイド・プロデューサー」、略して「ボカロP(ピー)」と呼ぶことも初めて知った。演歌やポップスのように、「ボーカロイド」というのが、今や音楽のジャンルの一つになっている。
とはいえ、高校生に「うっせぇわ」の作詞はできない。想像力がいくら豊かでも「不文律最低限のマナー」には思い至るまい。2番目の不思議、誰が作詞作曲をしたのか。それを調べていったら、またもやアルファベットの人物「syudou (しゅどう)」にたどり着いた。
彼も「ボーカロイド」で育ち、動画で楽曲を発表してきた音楽家の一人だ。同じように名前もプロフィールも明らかにしていないが、大学を卒業した後、会社勤めをしたことがあるという。
最新の流行は当然の把握
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という歌詞を紡げるだけの経験を重ねたようだ。
3番目の疑問。こうした「ボカロP」の収入源はどうなっているのか。昔のレコードやCDの売り上げとは収益構造がまるで異なる。ネットから音楽をダウンロードして楽しむ「ストリーミング」からの収入に加え、動画配信のユーチューブからの広告収入が大きいようだ。
ユーチューブのビジネスモデルを紹介しているサイトによれば、ユーチューバーの国内トップ100人の平均年収は3000万円を超えるのだとか。投稿した動画を1人クリックするたびに、動画に表示される広告の収入が0.1円程度、投稿者に支払われる。1億回再生されれば、単純計算で投稿者には1000万円が支払われる。動画をチャンネル登録した人数に応じた支払いなどもあるので、それも別途、手に入る。
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ユーチューブは2005年にカリフォルニア州で設立され、翌2006年に16億5000万ドル(当時のレートで約2000億円)でGoogleに買収された。発足当初、この会社は動画の共有サービスに徹しており、売り上げはほとんどなかった。その会社にGoogleは巨費を投じた。
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残りの不思議は「この曲を一段と魅力的にしているドラムの演奏者は誰か」と「歌い手のAdoと作詞作曲のsyudouを支えて曲を世に送り出した音楽会社Virgin Music で全体を統括したのは誰か」の二つ。2人とも、並々ならぬ才能の持ち主だろう。
Adoは自らのサイトで「今は私の曲を聴いてくださる方々の代わりに戦える存在に、誰かの人生の脇役になれたらと思っています」と綴っている。そう、世の中はますます生きにくくなってきた。そんな時代だからこそ、刃のような音楽を聴きたい。 (敬称略)
*メールマガジン「風切通信 86」 2021年4月25日
≪写真のSource & 説明≫
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https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2102/18/news096.html
≪参考サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎「うっせぇわ」特設ページ Ado
https://www.universal-music.co.jp/ado/usseewa/
◎ウィキペディア「Ado」「syudou」「VOCALOID」「akane(振付師)」
◎ユーチューバーの収入は?徹底解説
https://richka.co/times/28437/#:~:text=YouTube%E3%81%AE%E5%8D%98%E4%BE%A1%E3%81%AF%E3%80%811,%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
◎Youtubeで稼げる金額はいくら?(株式会社サムシングファン)
https://www.somethingfun.co.jp/video_tips/youtube_income
◎ユーチューバーの収入の仕組みや平均年収は?
https://career-picks.com/average-salary/youtuber-syuunyuu/
◎「うっせぇわのMV制作のWOOMAがテレビ初出演」
https://news.mynavi.jp/article/20210412-1868725/
日本の政府と電力会社は大切なことを隠し、国民を欺いている――原子力発電について私が疑念を抱き、不信感を深めたのは1988年のことだった。

旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。

三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)

旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。

三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)
コロナ禍と大雪の中で争われた山形県の知事選挙は、現職の吉村美栄子氏が圧勝し、四選を果たした。挑戦した元県議の大内理加氏は、頼みとする自民党と公明党の支持者すら十分に取り込めず、惨敗した。

吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。

2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」

吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。

2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」
人生とは何か。自分は何のために生まれてきたのかーー人は誰しも十代の半ばから、そうしたことを考え、思いわずらうようになる。性の目覚めも重なり、悩みは一層深まる。

そういう時期に「天地がひっくり返るような価値観の転換」を経験すると、人はどうなるのか。それを綴った文章に最近、出くわした。
その一文は『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』という本に収録されている。昭和5年から6年にかけて生まれ、先の戦争が終わる直前に旧制の山形二中に入学、敗戦を経験した人たちの同窓会誌である。
「昭和二十年の冬頃から、二中の生徒は一斉に不良化の道を進むことになる。誰れ彼れなしに全員が打ち揃っての不良化である。ケンカ、タバコ、マージャン、中には女郎屋から登下校する先輩もいた。女郎屋で先生とバッタリ顔を合わせてしまい『オッス』と言ったら、『オッ』と答えた先生がいたそうだ。その話が学校中に聞こえて、馬鹿が先生に確認したら、革スリッパの底に鋲の出ているヤツでいきなり殴られた」
「先ごろまでは鬼畜米英、一人必殺、竹槍持っても敗けはしない、畳の上で死ぬと思うなと教えられ、その気になっていたのに、たった一年でこの有り様。自由奔放、天真爛漫、腹だけはいつも空いていたっけ」
「戦争だってオレ達の大切な青春だったけど、暗室から一気にオモテに出てみたら、世の中ゼンゼン別なのだ。先生も生徒も一緒になって、遅れて来た自由にガッツいた。何という明るさだったろうか。見慣れた景色が突然に輝いて色がついた感じ。インフレ、食糧、疎開と明るい話はなかったが、そんなことはヘノカッパ。滅茶苦茶な中からすべてが育まれていった」
多感な時期に敗戦を経験した若者たちの苦悩と希望を描いて、余すところがない。筆者は千歳倉庫グループの代表、千歳貞治郎氏(89)である。父親はガダルカナルで戦死した。遺骨どころか、遺品すら届かなかった。
戦中派の彼らの同窓会は「何年卒」と名乗ることができない。戦後の学制改革で旧制山形二中は途中で山形南高校に改編された。旧制中学の5年相当で卒業した者もいるし、新制高校に進んだ者もいる。卒業年次がバラバラなのだ。ゆえに入学年の「昭和十九年組」と称する。
厳しい時代を共に生き抜いたからだろう。彼らの結束は固い。壮年になってからは、毎年ではなく毎月、19日に同窓会を開いてきた。
その結束力は仕事でも選挙でも、遺憾なく発揮される。千歳貞治郎氏は、自民党から新進党、民主党に転じた鹿野道彦代議士の後援会「愛山会」の統括として、鹿野氏の選挙を支え続けた。余り語られることはないが、吉村美栄子氏が当選した2009年1月の知事選でも、極めて重要な役割を果たした。
現職の斎藤弘知事の評判はすこぶる悪かった。自治労や県職労は対立候補の擁立に向けて動き出す。その中で浮上してきたのが吉村美栄子氏だった。
2008年3月に山形県で知的障害者のスペシャルオリンピックス冬季日本大会が開かれた。この時に接遇役を務めた美栄子氏を細川護熙(もりひろ)元首相の佳代子夫人らが高く評価した。佳代子夫人らの勧めを受けて、連合山形の安達忠一会長(当時)や岡田新一事務局長(同)らが自宅に足を運び、何度も出馬を要請した。
だが、美栄子氏の義父で吉村家の当主である敏夫氏は頑として応じなかった。敏夫氏は県教育長や出納長をつとめた県庁OBだ。現職の知事がいかに強いか、骨身に染みて知っていた。「労組や野党が束になっても勝ち目はない」と見ていたのだろう。
それを知り、元知事の高橋和雄氏(90)や千歳貞治郎氏が動いた。「自民党を真っ二つに割れば、勝負になる」と判断し、分断工作に乗り出したのだ。2005年の知事選でも、自民党は新人の斎藤氏を担いだ加藤紘一代議士派と当時現職だった高橋氏を支持する反加藤派に割れ、そのわだかまりが残っていた。
高橋元知事が語る。
「ある日の夕方、参議院議員(自民党)の岸(宏一)さんが自宅に来た。その車に同乗して、二人で吉村家を訪ねた。敏夫さんと美栄子さんが応対したが、途中で敏夫さんは『自分で決めなさい』と席を外した。一人になった美栄子さんは『考えてみます』と答えた」
2008年秋のことだ。この日から、斎藤県政打倒に向けた動きが本格的に始まった。
ただ、大きな問題が残っていた。1億円を超えるとされる知事選の資金をどうするか。担ぎ出した連合山形には、もとよりそんな大金はない。関係者の話を総合すると、連合山形や自治労などが負担した金は全体の5分の1ほどに過ぎない。残りは県内の有力経済人と民主党が賄ったのだという。吉村一族はほとんど負担していない。
選挙資金のめどが立ち、吉村美栄子氏が正式に出馬を表明したのは11月28日のことだ。知事選の告示まで40日しかなかった。
それでも、吉村陣営は「冷(つ)ったい県政から温かい県政に」をスローガンに現職の斎藤知事を猛追し、終盤で抜き去った。
吉村知事の誕生に尽力した二人は、3期12年の県政をどう見ているのか。高橋和雄元知事は「3期やれば十分でしょう。それ以上やれば害の方が大きくなる」と言い切った。
千歳貞治郎氏は何も語らなかった。今回の知事選で吉村後援会の顧問を引き受けたのも「祭り上げられただけ」と言う。知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業と学校法人をめぐる様々な問題については、やや顔を曇らせながらも「あいつはいい奴だ」とかばう。「商売は下手だけどな」と付け加えて。
千歳氏は月刊『素晴らしい山形』の発行人、相澤嘉久治(かくじ)氏についても「あいつはいい奴だ」と言う。毎号、「政治資金で私腹を肥やした」と書かれているのに拘泥しない。千歳氏は山形二中で相澤氏の兄と同学年だった。どちらも父親は山辺町出身である。人との縁を大切にして生きてきたからだろう。
◇ ◇
庄内で吉村知事の誕生に力を尽くした人物となると、平田牧場グループの新田(にった)嘉一会長(87)を真っ先に挙げなければなるまい。
2009年の知事選で新田氏は当初、現職の斎藤知事寄りだったが、終盤になって吉村氏支持に転じた。庄内での吉村氏の得票は鶴岡市を除いて、すべての市町で斎藤氏を上回った。とりわけ、酒田市で大勝した。「新田氏の方針転換が大きく影響した」とされる。
独立不羈(ふき)の人である。何ものにもとらわれず、自分の考えを貫いて生きてきた。
米どころ庄内の南平田村(のち平田町、現酒田市)で農家の長男として生まれた。12町歩の田畑を持つ地主だったが、先の戦争で父親が召集された際、ほとんどの土地を小作人に託して出征した。
働き手を失い、小作の収入も思うように入らず、一家は困窮した。その様子を自伝『平田牧場「三元豚」の奇跡』に記している。
「父が復員するまでの間は、ただただ、ひもじかった記憶しか残っていない。水を飲んで腹を膨らませ、山から雑草を抜いてきては煮て食べていた。(中略)腹ペコの子どもたちに何か食べさせたかったのだろう。母は毎日のように実家から持ってきた着物と食糧とを交換しに出かけた」
「空腹もあるラインを超えると、暗くなっても眠れなくなるのだと初めて知った。まったく眠くならないのだ。その代わり、いろいろな妄想が頭の中に渦巻いてくる。思い描くのは食べ物のことばかりであった」
敗戦は、新田氏にも強烈な刻印を残した。
「世の中ががらりと変わってしまうことも十分にあると身をもって知った。昨日まで威張っていた大人が、途端に態度を豹変させるのも目(ま)の当たりにした。アメリカ兵が大挙して進駐してきても、大人の誰一人として反発する者はいなかった」
「私の家にも米兵が勝手に入り込んでは、家の中のものを随分と持ち出していた。それに対して怒るでもなく、『戦争に負けたのだからしょうがないよ』の一言でおしまいである」
戦後、父親が復員して暮らしは落ち着いた。ただ、父親は政治好きで選挙のたびに飛び回っていたという。
すこぶる頑固だった。「農業に学問はいらない」が持論で、息子が大学に進むことを許さなかった。新田氏は庄内農業高校を卒業して跡を継いだ。
新田氏も父親に劣らず、頑固だった。「十年一日のごとく米を作り、選挙のたびに飛び歩いて一生を終えたくはなかった」という。「遠くない将来、日本でも動物性タンパク質が食の中心になる時代が必ずやってくる」という大学教授の講演に心を動かされ、養豚に取り組むことを決意した。
「養豚業に手を出すなら勘当(かんどう)する」と激怒する父親を説き伏せ、メスの子豚2頭で新しい道に踏み出す。新田氏の悪戦苦闘の日々の始まりだった。
今でこそ、新田氏が率いる平田牧場の豚肉と肉製品は市場での評価も高く、押しも押されもせぬ企業グループへと成長したが、そこに至る道は「養豚業で行き詰まり、資金繰りに窮して自殺した同業者と私との間には、ほんの少しの違いしかなかった」という苛烈(かれつ)な道だった。
流通大手ダイエーへの納入が増え、業績も順調だったのに、ひたすら買いたたこうとするダイエー側のやり方に「震えるほどの怒り」を感じ、取引をやめた。
売り上げは急減した。救いの手を差し伸べてくれた生活クラブ生協との取引でも、無添加ウインナーが輸送時のトラブルもあって腐り、全量廃棄の憂き目にあっている。
「良い豚肉を作り続ければ、いつか必ず消費者に受け入れてもらえる」という信念を曲げずに貫いて、今日に至った。
地元へのこだわりと貢献という点でも、新田氏はユニークな経営者である。ビジネスで得た収益を惜しみなく、酒田市と庄内のために注ぎ続けている。
庄内の経済を活性化するためには「東京との距離」を縮めなければならない。そのためには「どうしても空港がいる」と、庄内空港実現のため汗を流し、身銭を切った。
酒田港を「東方水上シルクロード航路」の拠点にする構想を掲げ、自ら中国東北部に飛び、畜産の技術指導に取り組んだ。そうした労苦の甲斐(かい)あって、黒竜江省からロシアのアムール川経由で酒田港に飼料用トウモロコシを輸入する航路が開かれた。
ビジネスにとどまらず、文化にも力を注ぐ。酒田市美術館の創設に奔走し、ついには県と庄内の自治体を動かして東北公益文科大学の開学に漕ぎつけた。2009年から大学を運営する学校法人の理事長を引き受けている。
理事長としての新田氏のあいさつが興味深い。公益について、次のように語っている。
「公益とは『自立して生きること』です。自立した人間つまり社会に役立つ人間とは、『税金を納める人間』であって、『税金を使う側の人間』ではありません。公益、自立した人間とは、地域で業を起こし、地域へ税金を納める人間になることです」
権力にすり寄り、公金がらみの甘い汁を吸うことばかり考えている人間に聞かせてやりたい言葉である。
その新田氏は3期12年の吉村県政をどう評価しているのか。旧平田町にある自宅を訪ね、その思いを聞いた。
吉村知事は県議会や記者会見で「次の知事選に出るのか」と何度質問されても、新型コロナウイルスの感染拡大の防止や経済の回復、7月豪雨の被害の復旧といった「県政の課題に全力でまい進する」などと、はぐらかし続けた。正式に出馬を表明したのは2020年の10月下旬だった。
ところが、同年7月9日、吉村知事は元県議を伴って酒田市にある平田牧場のゲストハウス「寄暢(きちょう)亭」(写真)で新田氏に会い、「やり残した仕事があります。よろしくお願いします」と、出馬の意向を明確に伝えたという。

新田氏は「何を残しているのか」と尋ねた。答えは曖昧模糊(あいまいもこ)としたもので、納得のいくものではなかったという。
今回の知事選で、新田氏は現職の吉村知事を支持せず、対立候補の大内理加元県議を応援する立場を明確にしている。「どういうところが納得いかないのですか」と尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「恩を受けたら、その恩を返すのが人としての道。それができていない。人間として失格だ」
具体的には何も語らなかった。推し量るしかないが、事情通は「庄内のことを真剣になって考えようとする姿勢がまるで見えないことが我慢ならないのではないか」という。
例えば、東北公益文科大学のことがある。この大学は2001年に山形県が55%、庄内の自治体が45%の出資をして設立した公設民営の私立大学である。
現在は経営も順調だが、将来を考えれば、公立大学への移行が望ましく、新田氏をはじめとする庄内の関係者はかなり前から県庁に働きかけてきた。だが、吉村知事はまったく動こうとしなかった。
知事が2期目から力を入れ始めた「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備促進」も、今ある山形新幹線を新庄から庄内に延ばす構想を放棄するもので、庄内切り捨ての政策と映っているのかもしれない。
◇ ◇
最初の知事選で吉村美栄子氏を推した千歳貞治郎氏と新田嘉一氏という二人の「戦中派」は12年の歳月を経て、正反対の立場に身を置くことになった。それは、「温かい県政」を期待して一票を投じた人たちの間に深い亀裂が生じていることを意味する。
メディアはその亀裂の様相に光を当て、その意味を伝えなければならない。
それは容易なことではない。それでも、「政治や選挙の報道のあり方を大きく変えなければならないのではないか」と訴えないではいられない。
二人の候補者の動きを「同じ行数で同じように伝える」といった形式的な公平さに囚われすぎているのではないか。報道全体を通してバランスを取り、公平に扱えばいいのであって、もっとメリハリの利いた報道を望みたい。
公けの席で語られたことや正式に発表されたことを報じることも大切だが、ひそかに囁(ささや)かれていることに耳を傾け、報道資料の裏側に隠れていることをえぐり出すことも、それに劣らず重要なことだ。
2021年1月7日告示、24日投開票という知事選の日程が明らかになった頃から、吉村陣営も大内陣営もそれぞれ、調査機関を使って世論調査を実施している。具体的な支持率も漏れ伝わってくる。なぜ、それを1行も書かないのか。「選挙報道とはそういうもの」と思い込み、抜けきれなくなっているのではないか。
一線の記者以上に、編集幹部にそうした報道を変えていく覚悟があるかどうかが問われている。
◇ ◇
冒頭で「天地がひっくり返るような価値観の転換」と書いた。それは先の戦争の敗戦のことであり、8月15日という明確な日付のある転変だった。
私たちは今、それに匹敵するような「価値観の大転換」の時代をくぐり抜けつつある。1989年の冷戦終結の頃から世界の政治と経済はがらりと変わり始め、人々はグローバル化という大竜巻にのみ込まれていった。
情報技術(IT)革命がその変化を加速し、新自由主義というイデオロギーが竜巻に勢いを与える。加えて、コロナ禍が暮らしと生活を強引に変えていく。
ただ、その変化には「8月15日」のような明確な転換点がない。時間軸は長く、ゆっくりしていて気づきにくい。だが、気づいた時には、まるで異なる風景が広がっていることだろう。
政治と報道に携わる者はその風を捉え、その流れに敏感でなければならない。この国にはそういう人間が少なすぎる。知事選に立候補する二人からも、そうしたことを見据えたメッセージが伝わって来ない。
前途は厳しい。あの敗戦の時のように、私たちはまた「滅茶苦茶な中」から立ち上がり、新しいものを創っていくしかないのかもしれない。
*メールマガジン「風切通信 83」 2020年12月24日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年1月号に寄稿した文章を若干てなおししたものです。
≪写真説明≫
◎山形南高昭和十九年組の同窓会旅行(1998年、羽黒山にて)。前列左端が千歳貞治郎氏(『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』から)
≪参考文献&記事≫
◎『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』(2008年発行、非売品)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)
◎AERA2017年5月1日?5月8日合併号「現代の肖像 吉村美栄子山形県知事」
◎2009年1月26日付の新聞各紙
◎『平田牧場「三元豚」の奇跡』(新田嘉一、潮出版社)
◎『商港都市酒田物語 新田嘉一の夢と情熱』(粕谷昭二、荘内日報社)
◎東北公益文科大学の公式サイト「理事長あいさつ」

そういう時期に「天地がひっくり返るような価値観の転換」を経験すると、人はどうなるのか。それを綴った文章に最近、出くわした。
その一文は『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』という本に収録されている。昭和5年から6年にかけて生まれ、先の戦争が終わる直前に旧制の山形二中に入学、敗戦を経験した人たちの同窓会誌である。
「昭和二十年の冬頃から、二中の生徒は一斉に不良化の道を進むことになる。誰れ彼れなしに全員が打ち揃っての不良化である。ケンカ、タバコ、マージャン、中には女郎屋から登下校する先輩もいた。女郎屋で先生とバッタリ顔を合わせてしまい『オッス』と言ったら、『オッ』と答えた先生がいたそうだ。その話が学校中に聞こえて、馬鹿が先生に確認したら、革スリッパの底に鋲の出ているヤツでいきなり殴られた」
「先ごろまでは鬼畜米英、一人必殺、竹槍持っても敗けはしない、畳の上で死ぬと思うなと教えられ、その気になっていたのに、たった一年でこの有り様。自由奔放、天真爛漫、腹だけはいつも空いていたっけ」
「戦争だってオレ達の大切な青春だったけど、暗室から一気にオモテに出てみたら、世の中ゼンゼン別なのだ。先生も生徒も一緒になって、遅れて来た自由にガッツいた。何という明るさだったろうか。見慣れた景色が突然に輝いて色がついた感じ。インフレ、食糧、疎開と明るい話はなかったが、そんなことはヘノカッパ。滅茶苦茶な中からすべてが育まれていった」
多感な時期に敗戦を経験した若者たちの苦悩と希望を描いて、余すところがない。筆者は千歳倉庫グループの代表、千歳貞治郎氏(89)である。父親はガダルカナルで戦死した。遺骨どころか、遺品すら届かなかった。
戦中派の彼らの同窓会は「何年卒」と名乗ることができない。戦後の学制改革で旧制山形二中は途中で山形南高校に改編された。旧制中学の5年相当で卒業した者もいるし、新制高校に進んだ者もいる。卒業年次がバラバラなのだ。ゆえに入学年の「昭和十九年組」と称する。
厳しい時代を共に生き抜いたからだろう。彼らの結束は固い。壮年になってからは、毎年ではなく毎月、19日に同窓会を開いてきた。
その結束力は仕事でも選挙でも、遺憾なく発揮される。千歳貞治郎氏は、自民党から新進党、民主党に転じた鹿野道彦代議士の後援会「愛山会」の統括として、鹿野氏の選挙を支え続けた。余り語られることはないが、吉村美栄子氏が当選した2009年1月の知事選でも、極めて重要な役割を果たした。
現職の斎藤弘知事の評判はすこぶる悪かった。自治労や県職労は対立候補の擁立に向けて動き出す。その中で浮上してきたのが吉村美栄子氏だった。
2008年3月に山形県で知的障害者のスペシャルオリンピックス冬季日本大会が開かれた。この時に接遇役を務めた美栄子氏を細川護熙(もりひろ)元首相の佳代子夫人らが高く評価した。佳代子夫人らの勧めを受けて、連合山形の安達忠一会長(当時)や岡田新一事務局長(同)らが自宅に足を運び、何度も出馬を要請した。
だが、美栄子氏の義父で吉村家の当主である敏夫氏は頑として応じなかった。敏夫氏は県教育長や出納長をつとめた県庁OBだ。現職の知事がいかに強いか、骨身に染みて知っていた。「労組や野党が束になっても勝ち目はない」と見ていたのだろう。
それを知り、元知事の高橋和雄氏(90)や千歳貞治郎氏が動いた。「自民党を真っ二つに割れば、勝負になる」と判断し、分断工作に乗り出したのだ。2005年の知事選でも、自民党は新人の斎藤氏を担いだ加藤紘一代議士派と当時現職だった高橋氏を支持する反加藤派に割れ、そのわだかまりが残っていた。
高橋元知事が語る。
「ある日の夕方、参議院議員(自民党)の岸(宏一)さんが自宅に来た。その車に同乗して、二人で吉村家を訪ねた。敏夫さんと美栄子さんが応対したが、途中で敏夫さんは『自分で決めなさい』と席を外した。一人になった美栄子さんは『考えてみます』と答えた」
2008年秋のことだ。この日から、斎藤県政打倒に向けた動きが本格的に始まった。
ただ、大きな問題が残っていた。1億円を超えるとされる知事選の資金をどうするか。担ぎ出した連合山形には、もとよりそんな大金はない。関係者の話を総合すると、連合山形や自治労などが負担した金は全体の5分の1ほどに過ぎない。残りは県内の有力経済人と民主党が賄ったのだという。吉村一族はほとんど負担していない。
選挙資金のめどが立ち、吉村美栄子氏が正式に出馬を表明したのは11月28日のことだ。知事選の告示まで40日しかなかった。
それでも、吉村陣営は「冷(つ)ったい県政から温かい県政に」をスローガンに現職の斎藤知事を猛追し、終盤で抜き去った。
吉村知事の誕生に尽力した二人は、3期12年の県政をどう見ているのか。高橋和雄元知事は「3期やれば十分でしょう。それ以上やれば害の方が大きくなる」と言い切った。
千歳貞治郎氏は何も語らなかった。今回の知事選で吉村後援会の顧問を引き受けたのも「祭り上げられただけ」と言う。知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業と学校法人をめぐる様々な問題については、やや顔を曇らせながらも「あいつはいい奴だ」とかばう。「商売は下手だけどな」と付け加えて。
千歳氏は月刊『素晴らしい山形』の発行人、相澤嘉久治(かくじ)氏についても「あいつはいい奴だ」と言う。毎号、「政治資金で私腹を肥やした」と書かれているのに拘泥しない。千歳氏は山形二中で相澤氏の兄と同学年だった。どちらも父親は山辺町出身である。人との縁を大切にして生きてきたからだろう。
◇ ◇
庄内で吉村知事の誕生に力を尽くした人物となると、平田牧場グループの新田(にった)嘉一会長(87)を真っ先に挙げなければなるまい。
2009年の知事選で新田氏は当初、現職の斎藤知事寄りだったが、終盤になって吉村氏支持に転じた。庄内での吉村氏の得票は鶴岡市を除いて、すべての市町で斎藤氏を上回った。とりわけ、酒田市で大勝した。「新田氏の方針転換が大きく影響した」とされる。
独立不羈(ふき)の人である。何ものにもとらわれず、自分の考えを貫いて生きてきた。
米どころ庄内の南平田村(のち平田町、現酒田市)で農家の長男として生まれた。12町歩の田畑を持つ地主だったが、先の戦争で父親が召集された際、ほとんどの土地を小作人に託して出征した。
働き手を失い、小作の収入も思うように入らず、一家は困窮した。その様子を自伝『平田牧場「三元豚」の奇跡』に記している。
「父が復員するまでの間は、ただただ、ひもじかった記憶しか残っていない。水を飲んで腹を膨らませ、山から雑草を抜いてきては煮て食べていた。(中略)腹ペコの子どもたちに何か食べさせたかったのだろう。母は毎日のように実家から持ってきた着物と食糧とを交換しに出かけた」
「空腹もあるラインを超えると、暗くなっても眠れなくなるのだと初めて知った。まったく眠くならないのだ。その代わり、いろいろな妄想が頭の中に渦巻いてくる。思い描くのは食べ物のことばかりであった」
敗戦は、新田氏にも強烈な刻印を残した。
「世の中ががらりと変わってしまうことも十分にあると身をもって知った。昨日まで威張っていた大人が、途端に態度を豹変させるのも目(ま)の当たりにした。アメリカ兵が大挙して進駐してきても、大人の誰一人として反発する者はいなかった」
「私の家にも米兵が勝手に入り込んでは、家の中のものを随分と持ち出していた。それに対して怒るでもなく、『戦争に負けたのだからしょうがないよ』の一言でおしまいである」
戦後、父親が復員して暮らしは落ち着いた。ただ、父親は政治好きで選挙のたびに飛び回っていたという。
すこぶる頑固だった。「農業に学問はいらない」が持論で、息子が大学に進むことを許さなかった。新田氏は庄内農業高校を卒業して跡を継いだ。
新田氏も父親に劣らず、頑固だった。「十年一日のごとく米を作り、選挙のたびに飛び歩いて一生を終えたくはなかった」という。「遠くない将来、日本でも動物性タンパク質が食の中心になる時代が必ずやってくる」という大学教授の講演に心を動かされ、養豚に取り組むことを決意した。
「養豚業に手を出すなら勘当(かんどう)する」と激怒する父親を説き伏せ、メスの子豚2頭で新しい道に踏み出す。新田氏の悪戦苦闘の日々の始まりだった。
今でこそ、新田氏が率いる平田牧場の豚肉と肉製品は市場での評価も高く、押しも押されもせぬ企業グループへと成長したが、そこに至る道は「養豚業で行き詰まり、資金繰りに窮して自殺した同業者と私との間には、ほんの少しの違いしかなかった」という苛烈(かれつ)な道だった。
流通大手ダイエーへの納入が増え、業績も順調だったのに、ひたすら買いたたこうとするダイエー側のやり方に「震えるほどの怒り」を感じ、取引をやめた。
売り上げは急減した。救いの手を差し伸べてくれた生活クラブ生協との取引でも、無添加ウインナーが輸送時のトラブルもあって腐り、全量廃棄の憂き目にあっている。
「良い豚肉を作り続ければ、いつか必ず消費者に受け入れてもらえる」という信念を曲げずに貫いて、今日に至った。
地元へのこだわりと貢献という点でも、新田氏はユニークな経営者である。ビジネスで得た収益を惜しみなく、酒田市と庄内のために注ぎ続けている。
庄内の経済を活性化するためには「東京との距離」を縮めなければならない。そのためには「どうしても空港がいる」と、庄内空港実現のため汗を流し、身銭を切った。
酒田港を「東方水上シルクロード航路」の拠点にする構想を掲げ、自ら中国東北部に飛び、畜産の技術指導に取り組んだ。そうした労苦の甲斐(かい)あって、黒竜江省からロシアのアムール川経由で酒田港に飼料用トウモロコシを輸入する航路が開かれた。
ビジネスにとどまらず、文化にも力を注ぐ。酒田市美術館の創設に奔走し、ついには県と庄内の自治体を動かして東北公益文科大学の開学に漕ぎつけた。2009年から大学を運営する学校法人の理事長を引き受けている。
理事長としての新田氏のあいさつが興味深い。公益について、次のように語っている。
「公益とは『自立して生きること』です。自立した人間つまり社会に役立つ人間とは、『税金を納める人間』であって、『税金を使う側の人間』ではありません。公益、自立した人間とは、地域で業を起こし、地域へ税金を納める人間になることです」
権力にすり寄り、公金がらみの甘い汁を吸うことばかり考えている人間に聞かせてやりたい言葉である。
その新田氏は3期12年の吉村県政をどう評価しているのか。旧平田町にある自宅を訪ね、その思いを聞いた。
吉村知事は県議会や記者会見で「次の知事選に出るのか」と何度質問されても、新型コロナウイルスの感染拡大の防止や経済の回復、7月豪雨の被害の復旧といった「県政の課題に全力でまい進する」などと、はぐらかし続けた。正式に出馬を表明したのは2020年の10月下旬だった。
ところが、同年7月9日、吉村知事は元県議を伴って酒田市にある平田牧場のゲストハウス「寄暢(きちょう)亭」(写真)で新田氏に会い、「やり残した仕事があります。よろしくお願いします」と、出馬の意向を明確に伝えたという。

新田氏は「何を残しているのか」と尋ねた。答えは曖昧模糊(あいまいもこ)としたもので、納得のいくものではなかったという。
今回の知事選で、新田氏は現職の吉村知事を支持せず、対立候補の大内理加元県議を応援する立場を明確にしている。「どういうところが納得いかないのですか」と尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「恩を受けたら、その恩を返すのが人としての道。それができていない。人間として失格だ」
具体的には何も語らなかった。推し量るしかないが、事情通は「庄内のことを真剣になって考えようとする姿勢がまるで見えないことが我慢ならないのではないか」という。
例えば、東北公益文科大学のことがある。この大学は2001年に山形県が55%、庄内の自治体が45%の出資をして設立した公設民営の私立大学である。
現在は経営も順調だが、将来を考えれば、公立大学への移行が望ましく、新田氏をはじめとする庄内の関係者はかなり前から県庁に働きかけてきた。だが、吉村知事はまったく動こうとしなかった。
知事が2期目から力を入れ始めた「フル規格の奥羽・羽越新幹線の整備促進」も、今ある山形新幹線を新庄から庄内に延ばす構想を放棄するもので、庄内切り捨ての政策と映っているのかもしれない。
◇ ◇
最初の知事選で吉村美栄子氏を推した千歳貞治郎氏と新田嘉一氏という二人の「戦中派」は12年の歳月を経て、正反対の立場に身を置くことになった。それは、「温かい県政」を期待して一票を投じた人たちの間に深い亀裂が生じていることを意味する。
メディアはその亀裂の様相に光を当て、その意味を伝えなければならない。
それは容易なことではない。それでも、「政治や選挙の報道のあり方を大きく変えなければならないのではないか」と訴えないではいられない。
二人の候補者の動きを「同じ行数で同じように伝える」といった形式的な公平さに囚われすぎているのではないか。報道全体を通してバランスを取り、公平に扱えばいいのであって、もっとメリハリの利いた報道を望みたい。
公けの席で語られたことや正式に発表されたことを報じることも大切だが、ひそかに囁(ささや)かれていることに耳を傾け、報道資料の裏側に隠れていることをえぐり出すことも、それに劣らず重要なことだ。
2021年1月7日告示、24日投開票という知事選の日程が明らかになった頃から、吉村陣営も大内陣営もそれぞれ、調査機関を使って世論調査を実施している。具体的な支持率も漏れ伝わってくる。なぜ、それを1行も書かないのか。「選挙報道とはそういうもの」と思い込み、抜けきれなくなっているのではないか。
一線の記者以上に、編集幹部にそうした報道を変えていく覚悟があるかどうかが問われている。
◇ ◇
冒頭で「天地がひっくり返るような価値観の転換」と書いた。それは先の戦争の敗戦のことであり、8月15日という明確な日付のある転変だった。
私たちは今、それに匹敵するような「価値観の大転換」の時代をくぐり抜けつつある。1989年の冷戦終結の頃から世界の政治と経済はがらりと変わり始め、人々はグローバル化という大竜巻にのみ込まれていった。
情報技術(IT)革命がその変化を加速し、新自由主義というイデオロギーが竜巻に勢いを与える。加えて、コロナ禍が暮らしと生活を強引に変えていく。
ただ、その変化には「8月15日」のような明確な転換点がない。時間軸は長く、ゆっくりしていて気づきにくい。だが、気づいた時には、まるで異なる風景が広がっていることだろう。
政治と報道に携わる者はその風を捉え、その流れに敏感でなければならない。この国にはそういう人間が少なすぎる。知事選に立候補する二人からも、そうしたことを見据えたメッセージが伝わって来ない。
前途は厳しい。あの敗戦の時のように、私たちはまた「滅茶苦茶な中」から立ち上がり、新しいものを創っていくしかないのかもしれない。
*メールマガジン「風切通信 83」 2020年12月24日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年1月号に寄稿した文章を若干てなおししたものです。
≪写真説明≫
◎山形南高昭和十九年組の同窓会旅行(1998年、羽黒山にて)。前列左端が千歳貞治郎氏(『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』から)
≪参考文献&記事≫
◎『山形南高昭和十九年組 喜寿記念誌』(2008年発行、非売品)
◎『定本 ガダルカナル戦詩集』(吉田嘉七、創樹社)
◎AERA2017年5月1日?5月8日合併号「現代の肖像 吉村美栄子山形県知事」
◎2009年1月26日付の新聞各紙
◎『平田牧場「三元豚」の奇跡』(新田嘉一、潮出版社)
◎『商港都市酒田物語 新田嘉一の夢と情熱』(粕谷昭二、荘内日報社)
◎東北公益文科大学の公式サイト「理事長あいさつ」
吉村美栄子知事の義理のいとこ、吉村和文氏が社長をつとめる「ケーブルテレビ山形」は、2016年1月に「ダイバーシティメディア」と社名を変更した。

吉村県政が誕生した後、会社の売上高は急増したが、2011年3月期をピークに減少に転じた。とくに、主力のケーブルテレビ事業の収入が減り続けている(図1)。その落ち込みを補うためには経営を多角化するしかない。社名の変更は、その決意を示したものだろう。
この会社が学校法人、東海山形学園から3000万円の融資を受けたのは、社名変更から2カ月後のことだ。かなりの金額である。その融資が何のためだったのか、経営のかじ取りをする社長が記憶していないはずがない。
融資の目的について、和文氏は山形新聞の取材に対して次のように答えている。
「ダイバー社のハイビジョン化の設備投資を目的に、複数金融機関の融資承認がそろうまでの間の短期貸付だった」(2017年7月4日付の記事)
先細り気味とはいえ、ケーブルテレビ事業は売り上げの7割を占める。その部門への設備投資を怠るわけにはいかない。けれども、メインバンクの山形銀行をはじめとする金融機関はなかなか金を貸してくれない。それで自分が理事長をしている学校法人から借りた――というわけだ。
その3000万円をダイバー社は2カ月後に返済している。融資の審査が終わって銀行が貸してくれたのか、といった疑問は残るものの、それなりに筋の通った説明だった。
ところが、和文氏は最近になって「設備投資のための融資説」を撤回し、あれは「学校法人の資産運用だった」と言い始めた。今年の10月15日付で報道各社に配布した「東海山形学園の貸付についての経緯説明」という文書で次のように記している。少し長いが、冒頭部分をそのまま引用する。
「東日本大震災後の2013年当時は、国や県から校舎の耐震強化についての指導があり、本学園においても、生徒と教職員の命に関わる大事業に取り組むにあたり、いかにして自己資金を増やし経営を安定させるかが大きな課題でありました」
「このことについて理事会では何度も議論を重ね、学園の資金を増やし、耐久年数が心配される校舎の改築費用に充て、私立学校の高額な授業料を減額する目的で、文部科学省の『学校法人における資産運用について』を参考に『運用の安全性』を考慮し、元本が保証され資産が毀損(きそん)しない相手として、2013年に私個人に5000万円、2016年にダイバーシティメディアに3000万円の貸付を行いました」
このコラム(2020年9月30日)でお伝えしたように、和文氏個人にもダイバー社にもこの時期、担保として提供できる資産はほとんどなく、金融機関は融資を渋っていた。それを「元本の返済が保証される相手」と記す感覚には驚いてしまう。貸付に伴うリスクをまるで考えていない。
文書はA4判で2ページ分ある。2ページ目には、この資金運用について学校法人の理事会でどのような手続きをしたか、私学助成を担当する山形県学事文書課からどのような指摘を受けたかについて詳細につづっている。
とりわけ、和文氏が学校法人の理事長と会社の社長を兼ねていることから、金銭の貸付が利益相反行為になることについては「所轄庁である県に(特別代理人の選任を)申請しなければなりませんでしたが、その認識がなく、それを行っていませんでした。(中略)当学園の責任であり、心よりお詫び申し上げます」と陳謝している。
利益相反行為について「その認識がなかった」と書いている部分は正直とも言えるが、「会社の金も学校の金も自分のもの」と考えていたことを“自白”したようなものだ。学校法人の理事長としての資質を問われかねない重大事だが、そうした意識もないのだろう。
文書では、最初から最後まで「資産の運用だった」という主張を貫いている。「設備投資のための融資」という表現はまったく出てこない。してみると、先の山形新聞の取材に対しては「口から出まかせのウソ」を言った、ということだろう。河北新報にも当時、「資金は設備投資に充てた」と答えている(写真)。これもデタラメだったことになる。
報道機関に対してウソをつくのは許しがたいことである。ウソをつかれたと分かったなら、記者は猛烈に怒らなければならない。読者や視聴者はそれを事実と受けとめるからだ。少なくとも、報道する者にはその矛盾をきちんと追及し、フォーローする責任がある。黙って見過ごしてはいけない。
では、今回の釈明は信用できるのか。
文書によれば、最初に問題になった2016年の3000万円融資については、2カ月後に年利2・5%の利息13万円余りを付けて返済したという。そして、この秋に発覚した2013年の5000万円については「8日後」に同じ年利で2万7397円の利息を付けて返した、と記している。
資産の運用は通常、株式や債券などを購入して行う。リスクはあるが、見返りも大きい。リスクが心配なら、国債を買ったり、金融機関に定期で預けたりするのが常道だ。「8日間、金を貸して利子を得る」のを資産運用と言い張るのは和文氏くらいだろう。
金を貸して利子を取るのは「貸金業」という。もし、東海山形学園がこうしたことを繰り返せば、今度は貸金業法に触れるおそれがある。文部科学省も山形県も、学校法人が「資産運用のため」貸金業を営むのを認めることはあるまい。
いずれにせよ、利益相反行為の場合に必要な「特別代理人の選任」を怠ったので、東海山形学園は理事会でこれを追認する手続きを踏まなければならなかった。2016年の3000万円の貸付は、その年の9月の理事会で追認した。一方、2013年の5000万円については今年10月の理事会で追認したという。
なんと、7年もたってからの追認だ。異様と言うしかない。しかも、こんな重要なことを県には「口頭で報告」したのだとか。それで了承した学事文書課もどうかしている。議事録を添えて文書で報告させ、議事の内容をきちんと確認するのが当然ではないか。東海山形学園も県当局も常軌を逸している。
報道各社あてのこの文書は、10月27日に山形県私学会館で開かれた県内の学校法人の理事長・校長会でも日付だけ手直しして配布され、和文氏が釈明にあたった。出席者によれば、この会合でも「8日間の資産運用というのは短すぎるのではないか」という質問が出た。これに対し、和文氏は「試しに運用してみた」などと説明して煙に巻いたという。
質問はこれだけだった。出席者の一人は「少子化で生徒が減り、どこの高校も経営が厳しい。銀行から金を借りるのならともかく、貸すことなど考えられません」と述べ、こう言葉を継いだ。「ただ、私立学校にはそれぞれの立場があります。よその学校のことについて、あれこれ言うわけにはいきません」
誰も納得していない。和文氏はなぜ設備投資のための融資説を撤回したのか。これで資産の運用と言えるのか。和文氏に手紙をしたためて問い合わせたが、返事はない。説明を求めようと会社に電話をかけても、彼は出てこなかった。
本当は何に使ったのか。この5000万円については「プロレスに投資したのではないか」との憶測が消えない。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木といったスター選手がリングを降りてから、プロレス業界は四分五裂の状態に陥った。5000万円の貸付があった2013年当時も、人気プロレスラーの秋山準ら5人の選手がそれまで属していた団体から離れ、全日本プロレスに移籍する騒動があった。
事情通によると、この時、秋山選手らを支えたのがケーブルテレビ山形の吉村和文氏とジャイアント馬場の元子夫人だった。元子夫人は横浜市青葉区にあるプロレスの道場と合宿所を提供し、資金はケーブルテレビ山形が負担する段取りになったようだ。興行権の確保や新会社の設立準備などのため数千万円の資金を必要としたはず、という。
翌2014年の夏、和文氏は「全日本プロレス・イノベーション」(本社・山形市)という持ち株会社と運営会社の「オールジャパン・プロレスリング」(本社・横浜市)を立ち上げ、両方の会社の取締役会長に就任した。社長は秋山選手である。
ケーブルテレビが生き残るためには、NHKや民放が放送しない、あるいは放送できない番組を提供しなければならない。プロレスはそのための有力なコンテンツの一つ、と考えて進出を決めたようだ。
和文氏はかなり前から、プロレスに関心を寄せていた。彼のブログ「約束の地へ」で「プロレス」と打ち込んで検索すると、この10年間で122件もヒットする。
ブログの主なものに目を通してみた。2013年ごろ、山形南高校応援団の後輩でプロレスのプロモーターをしていた高橋英樹氏や「平成のミスタープロレス」と呼ばれた武藤敬司氏、馬場元子夫人らが相次いで山形を訪れていた。和文氏に会うためで、彼は「プロレスのタニマチ」のように振る舞っている。新しいビジネスへの進出に意欲を燃やしていた。
ただ、この業界は昔から「売り上げの分配」をめぐる争いが絶えない。それぞれの選手にいくらギャラを払うのか。興行主の取り分をどうするのか。関連グッズの売り上げは・・・。新たにスタートした全日本プロレスも例外ではなかった。
別冊宝島のプロレス特集(2016年2月28日)によれば、立ち上げから1年で、新生全日本プロレスは5000万円の赤字になってしまった(図2)。「始める前は気分が高揚して期待を持ってしまうのだけれども、見通しが甘すぎるのと、現場の選手たちは誰も親会社に恩義など感じていないので、結果としてこうなってしまう」のだという。和文氏が会長をつとめる持ち株会社の最近3年間の決算を見ても、ずっと赤字続きだ。
秋山選手はすでに社長を退き、別のプロレス団体のコーチをしている。新会社の立ち上げ時に何があったのか。事実関係を問いただそうとしたが、ついに接触できなかった。
5000万円は何に使われたのか。いまだ闇の中である。
◇ ◇
3年前、東海山形学園からダイバーシティメディアへの3000万円融資問題が表面化した際、吉村美栄子知事は記者会見でどう思うか問われ、「(学校法人が)適切に運営されているのであれば、よろしいのではないかというふうに思っております。(中略)そのことについて問題ないようだというふうに担当のほうから聞いております」と涼しい顔で答えた。
その後、東海山形学園が私立学校法に定められた「特別代理人の選任申請」をしていなかったことが明らかになった。3000万円融資の事実は県に提出された貸借対照表に記載されており、担当者はそれが利益相反行為に該当することを知り得たのに、漫然と見過ごしていたことも判明した。
学校法人は、ちっとも「適切に運営」されていなかったし、「担当のほう」もまるで頼りにならない仕事ぶりだった。さらに、5000万円の貸付について担当者はその後、気づいたのに、市民オンブズマンが発表するまで隠していた。知事の涼しい顔は、次第に苦々しい顔に変わっていった。
とはいえ、吉村知事は4期目をめざして、来年1月の知事選に出馬することを表明した。「いつまでも、こんなことに構っていられない。知事選に全力を注ぐだけ」という心境だろう。
出馬表明の記者会見では、新型コロナウイルスへの対応と経済対策との両立を図る考えを示し、最初の知事選の時の初心に帰って「正々堂々と政策を掲げて戦いたい」と述べた。県政と吉村一族企業との問題など小さな争点にすらならない、という風情だ。
だが、一族企業と学校法人の問題はそんなに根の浅いものではない。実は、吉村和文氏は毎年のように利益相反行為を繰り返している疑いがあるのだ。
和文氏はダイバーシティメディアの社長であり、学園の理事長であると同時に、映画館運営会社「ムービーオン」の社長も兼ねている。
東海大山形高校の教職員や生徒、保護者の証言によれば、学園は毎年、生徒全員分の映画チケットを購入し、タダで配っているという。映画チケットは各映画館共通のチケットではない(そのようなものはない)。生徒に配られたのは「ムービーオン」という特定の映画館のチケットである。
筆者の取材によれば、少なくとも2014年まで遡ることができる。関係者が多数いるので、確認するのも難しいことではない。
東海大山形高校の生徒数は図3の通りである。ここ7年間の平均だと、800人ほどだ。高校生の団体割引の映画チケットは1枚800円なので、生徒数を掛けると年間64万円、7年で448万円になる。
それほど大きな金額ではないが、問題はそれらの映画チケットの購入が「東海山形学園 吉村和文理事長」の名前で行われることにある。この学校法人を代表して購入契約を結ぶ権限があるのは理事長ただ一人だけだ。
つまり、東海山形学園は毎年、理事長が社長を兼ねる映画館会社のチケットを大量に購入して売り上げ増に貢献しているが、それらのチケット購入はすべて「利益相反行為」になる、ということだ。
利益が相反する以上、そうしたことは理事長の権限で行うことはできない。私立学校法に基づいて、学園は毎年、所轄庁の山形県に「特別代理人の選任」を申請し、利害関係のない第三者に取引が公正かどうかチェックしてもらう義務があった。
さらに、今春施行の法改正によって特別代理人の選任は不要になったが、利益相反行為であることに変わりはないので、今後も理事会で厳正にチェックする必要がある。一族企業と学校法人の間で、資金の融通や物品の購入を勝手気ままに行うことは、いかなる場合でも許されないのだ。
ことは、東海山形学園とダイバーシティメディア、ムービーオンだけの関係にとどまらない。学園が一族企業と交わすすべての契約について「利益相反行為」の疑いが生じ、チェックする必要が出てくる。
多数の企業を経営する人物が学校法人の理事長を兼ねれば、常にこういう問題が起き、公平さを疑われる事態を招くことになる。
だからこそ、文部科学省は「理事長についてはできる限り常勤化や兼職の制限を行うことが期待される」との事務次官通知(2004年7月23日付)を出し、さらに「理事長は責任に見合った勤務形態を取り、対内的にも対外的にも責任を果たしていくことが重要と考える。兼職は避けることが望ましい」との見解(高等教育局私学行政課)を出しているのだ。
普通なら、都道府県の職員は中央官庁の通知に沿って、粛々と実務を進めていく。だが、問題の学校法人の理事長は知事の縁者で、知事室にわがもの顔で出入りしている人物だ。誰もその権限を適切に使い、職責をまっとうしようとしない。
それどころか、県内周遊促進事業の業務委託問題で見たように、和文氏にすり寄り、便宜を図った者がトントンと出世していく。それを周りの幹部や職員は見ている。県庁の空気はよどみ、活力が失われていく。
中堅幹部の言葉が忘れられない。彼は次のように嘆いた。
「県職員として一番やりがいを感じたのは、係長や主査のころでした。新しい事業を立ち上げるため、みんなでアイデアを出し合い、『これがいい』『こんな方法もある』と、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をして練っていきました。それを課長補佐や課長に上げて通し、予算化していくのが実に楽しかった」
「吉村知事は2期目の頃から、何でも自分で決めないと済まないようなスタイルになっていった。下から積み上げていっても、気に入らなければ歯牙にもかけない。一方で、上から突然、ドスンと新しい事業を下ろしてくる。フル規格の新幹線整備事業のように。これでは、若い職員はたまらない。振り回されるばかりで、意欲がなえていくのです」
吉村知事は政治や社会の小さな動きには敏感だが、歴史の大きな流れには鈍感だ。情報技術(IT)革命のインパクトのすさまじさがまるで分っていない。それゆえに、県庁ではいまだに「紙とハンコ」を使って仕事をしている。
菅政権が「デジタル庁の創設」を言い始めた途端、「県の業務のデジタル化」などと言い始めたが、この12年、いったい何をしていたのか。
「道半ば」と知事は言う。その道はどこに通じているのか。何を信じて歩んでいるのか。
*メールマガジン「風切通信 82」 2020年11月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』2020年12月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。写真は12月号の表紙のイラスト
*図1、2、3をクリックすると、内容が表示されます

吉村県政が誕生した後、会社の売上高は急増したが、2011年3月期をピークに減少に転じた。とくに、主力のケーブルテレビ事業の収入が減り続けている(図1)。その落ち込みを補うためには経営を多角化するしかない。社名の変更は、その決意を示したものだろう。
この会社が学校法人、東海山形学園から3000万円の融資を受けたのは、社名変更から2カ月後のことだ。かなりの金額である。その融資が何のためだったのか、経営のかじ取りをする社長が記憶していないはずがない。
融資の目的について、和文氏は山形新聞の取材に対して次のように答えている。
「ダイバー社のハイビジョン化の設備投資を目的に、複数金融機関の融資承認がそろうまでの間の短期貸付だった」(2017年7月4日付の記事)
先細り気味とはいえ、ケーブルテレビ事業は売り上げの7割を占める。その部門への設備投資を怠るわけにはいかない。けれども、メインバンクの山形銀行をはじめとする金融機関はなかなか金を貸してくれない。それで自分が理事長をしている学校法人から借りた――というわけだ。
その3000万円をダイバー社は2カ月後に返済している。融資の審査が終わって銀行が貸してくれたのか、といった疑問は残るものの、それなりに筋の通った説明だった。
ところが、和文氏は最近になって「設備投資のための融資説」を撤回し、あれは「学校法人の資産運用だった」と言い始めた。今年の10月15日付で報道各社に配布した「東海山形学園の貸付についての経緯説明」という文書で次のように記している。少し長いが、冒頭部分をそのまま引用する。
「東日本大震災後の2013年当時は、国や県から校舎の耐震強化についての指導があり、本学園においても、生徒と教職員の命に関わる大事業に取り組むにあたり、いかにして自己資金を増やし経営を安定させるかが大きな課題でありました」
「このことについて理事会では何度も議論を重ね、学園の資金を増やし、耐久年数が心配される校舎の改築費用に充て、私立学校の高額な授業料を減額する目的で、文部科学省の『学校法人における資産運用について』を参考に『運用の安全性』を考慮し、元本が保証され資産が毀損(きそん)しない相手として、2013年に私個人に5000万円、2016年にダイバーシティメディアに3000万円の貸付を行いました」
このコラム(2020年9月30日)でお伝えしたように、和文氏個人にもダイバー社にもこの時期、担保として提供できる資産はほとんどなく、金融機関は融資を渋っていた。それを「元本の返済が保証される相手」と記す感覚には驚いてしまう。貸付に伴うリスクをまるで考えていない。
文書はA4判で2ページ分ある。2ページ目には、この資金運用について学校法人の理事会でどのような手続きをしたか、私学助成を担当する山形県学事文書課からどのような指摘を受けたかについて詳細につづっている。
とりわけ、和文氏が学校法人の理事長と会社の社長を兼ねていることから、金銭の貸付が利益相反行為になることについては「所轄庁である県に(特別代理人の選任を)申請しなければなりませんでしたが、その認識がなく、それを行っていませんでした。(中略)当学園の責任であり、心よりお詫び申し上げます」と陳謝している。
利益相反行為について「その認識がなかった」と書いている部分は正直とも言えるが、「会社の金も学校の金も自分のもの」と考えていたことを“自白”したようなものだ。学校法人の理事長としての資質を問われかねない重大事だが、そうした意識もないのだろう。
文書では、最初から最後まで「資産の運用だった」という主張を貫いている。「設備投資のための融資」という表現はまったく出てこない。してみると、先の山形新聞の取材に対しては「口から出まかせのウソ」を言った、ということだろう。河北新報にも当時、「資金は設備投資に充てた」と答えている(写真)。これもデタラメだったことになる。
報道機関に対してウソをつくのは許しがたいことである。ウソをつかれたと分かったなら、記者は猛烈に怒らなければならない。読者や視聴者はそれを事実と受けとめるからだ。少なくとも、報道する者にはその矛盾をきちんと追及し、フォーローする責任がある。黙って見過ごしてはいけない。
では、今回の釈明は信用できるのか。
文書によれば、最初に問題になった2016年の3000万円融資については、2カ月後に年利2・5%の利息13万円余りを付けて返済したという。そして、この秋に発覚した2013年の5000万円については「8日後」に同じ年利で2万7397円の利息を付けて返した、と記している。
資産の運用は通常、株式や債券などを購入して行う。リスクはあるが、見返りも大きい。リスクが心配なら、国債を買ったり、金融機関に定期で預けたりするのが常道だ。「8日間、金を貸して利子を得る」のを資産運用と言い張るのは和文氏くらいだろう。
金を貸して利子を取るのは「貸金業」という。もし、東海山形学園がこうしたことを繰り返せば、今度は貸金業法に触れるおそれがある。文部科学省も山形県も、学校法人が「資産運用のため」貸金業を営むのを認めることはあるまい。
いずれにせよ、利益相反行為の場合に必要な「特別代理人の選任」を怠ったので、東海山形学園は理事会でこれを追認する手続きを踏まなければならなかった。2016年の3000万円の貸付は、その年の9月の理事会で追認した。一方、2013年の5000万円については今年10月の理事会で追認したという。
なんと、7年もたってからの追認だ。異様と言うしかない。しかも、こんな重要なことを県には「口頭で報告」したのだとか。それで了承した学事文書課もどうかしている。議事録を添えて文書で報告させ、議事の内容をきちんと確認するのが当然ではないか。東海山形学園も県当局も常軌を逸している。
報道各社あてのこの文書は、10月27日に山形県私学会館で開かれた県内の学校法人の理事長・校長会でも日付だけ手直しして配布され、和文氏が釈明にあたった。出席者によれば、この会合でも「8日間の資産運用というのは短すぎるのではないか」という質問が出た。これに対し、和文氏は「試しに運用してみた」などと説明して煙に巻いたという。
質問はこれだけだった。出席者の一人は「少子化で生徒が減り、どこの高校も経営が厳しい。銀行から金を借りるのならともかく、貸すことなど考えられません」と述べ、こう言葉を継いだ。「ただ、私立学校にはそれぞれの立場があります。よその学校のことについて、あれこれ言うわけにはいきません」
誰も納得していない。和文氏はなぜ設備投資のための融資説を撤回したのか。これで資産の運用と言えるのか。和文氏に手紙をしたためて問い合わせたが、返事はない。説明を求めようと会社に電話をかけても、彼は出てこなかった。
本当は何に使ったのか。この5000万円については「プロレスに投資したのではないか」との憶測が消えない。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木といったスター選手がリングを降りてから、プロレス業界は四分五裂の状態に陥った。5000万円の貸付があった2013年当時も、人気プロレスラーの秋山準ら5人の選手がそれまで属していた団体から離れ、全日本プロレスに移籍する騒動があった。
事情通によると、この時、秋山選手らを支えたのがケーブルテレビ山形の吉村和文氏とジャイアント馬場の元子夫人だった。元子夫人は横浜市青葉区にあるプロレスの道場と合宿所を提供し、資金はケーブルテレビ山形が負担する段取りになったようだ。興行権の確保や新会社の設立準備などのため数千万円の資金を必要としたはず、という。
翌2014年の夏、和文氏は「全日本プロレス・イノベーション」(本社・山形市)という持ち株会社と運営会社の「オールジャパン・プロレスリング」(本社・横浜市)を立ち上げ、両方の会社の取締役会長に就任した。社長は秋山選手である。
ケーブルテレビが生き残るためには、NHKや民放が放送しない、あるいは放送できない番組を提供しなければならない。プロレスはそのための有力なコンテンツの一つ、と考えて進出を決めたようだ。
和文氏はかなり前から、プロレスに関心を寄せていた。彼のブログ「約束の地へ」で「プロレス」と打ち込んで検索すると、この10年間で122件もヒットする。
ブログの主なものに目を通してみた。2013年ごろ、山形南高校応援団の後輩でプロレスのプロモーターをしていた高橋英樹氏や「平成のミスタープロレス」と呼ばれた武藤敬司氏、馬場元子夫人らが相次いで山形を訪れていた。和文氏に会うためで、彼は「プロレスのタニマチ」のように振る舞っている。新しいビジネスへの進出に意欲を燃やしていた。
ただ、この業界は昔から「売り上げの分配」をめぐる争いが絶えない。それぞれの選手にいくらギャラを払うのか。興行主の取り分をどうするのか。関連グッズの売り上げは・・・。新たにスタートした全日本プロレスも例外ではなかった。
別冊宝島のプロレス特集(2016年2月28日)によれば、立ち上げから1年で、新生全日本プロレスは5000万円の赤字になってしまった(図2)。「始める前は気分が高揚して期待を持ってしまうのだけれども、見通しが甘すぎるのと、現場の選手たちは誰も親会社に恩義など感じていないので、結果としてこうなってしまう」のだという。和文氏が会長をつとめる持ち株会社の最近3年間の決算を見ても、ずっと赤字続きだ。
秋山選手はすでに社長を退き、別のプロレス団体のコーチをしている。新会社の立ち上げ時に何があったのか。事実関係を問いただそうとしたが、ついに接触できなかった。
5000万円は何に使われたのか。いまだ闇の中である。
◇ ◇
3年前、東海山形学園からダイバーシティメディアへの3000万円融資問題が表面化した際、吉村美栄子知事は記者会見でどう思うか問われ、「(学校法人が)適切に運営されているのであれば、よろしいのではないかというふうに思っております。(中略)そのことについて問題ないようだというふうに担当のほうから聞いております」と涼しい顔で答えた。
その後、東海山形学園が私立学校法に定められた「特別代理人の選任申請」をしていなかったことが明らかになった。3000万円融資の事実は県に提出された貸借対照表に記載されており、担当者はそれが利益相反行為に該当することを知り得たのに、漫然と見過ごしていたことも判明した。
学校法人は、ちっとも「適切に運営」されていなかったし、「担当のほう」もまるで頼りにならない仕事ぶりだった。さらに、5000万円の貸付について担当者はその後、気づいたのに、市民オンブズマンが発表するまで隠していた。知事の涼しい顔は、次第に苦々しい顔に変わっていった。
とはいえ、吉村知事は4期目をめざして、来年1月の知事選に出馬することを表明した。「いつまでも、こんなことに構っていられない。知事選に全力を注ぐだけ」という心境だろう。
出馬表明の記者会見では、新型コロナウイルスへの対応と経済対策との両立を図る考えを示し、最初の知事選の時の初心に帰って「正々堂々と政策を掲げて戦いたい」と述べた。県政と吉村一族企業との問題など小さな争点にすらならない、という風情だ。
だが、一族企業と学校法人の問題はそんなに根の浅いものではない。実は、吉村和文氏は毎年のように利益相反行為を繰り返している疑いがあるのだ。
和文氏はダイバーシティメディアの社長であり、学園の理事長であると同時に、映画館運営会社「ムービーオン」の社長も兼ねている。
東海大山形高校の教職員や生徒、保護者の証言によれば、学園は毎年、生徒全員分の映画チケットを購入し、タダで配っているという。映画チケットは各映画館共通のチケットではない(そのようなものはない)。生徒に配られたのは「ムービーオン」という特定の映画館のチケットである。
筆者の取材によれば、少なくとも2014年まで遡ることができる。関係者が多数いるので、確認するのも難しいことではない。
東海大山形高校の生徒数は図3の通りである。ここ7年間の平均だと、800人ほどだ。高校生の団体割引の映画チケットは1枚800円なので、生徒数を掛けると年間64万円、7年で448万円になる。
それほど大きな金額ではないが、問題はそれらの映画チケットの購入が「東海山形学園 吉村和文理事長」の名前で行われることにある。この学校法人を代表して購入契約を結ぶ権限があるのは理事長ただ一人だけだ。
つまり、東海山形学園は毎年、理事長が社長を兼ねる映画館会社のチケットを大量に購入して売り上げ増に貢献しているが、それらのチケット購入はすべて「利益相反行為」になる、ということだ。
利益が相反する以上、そうしたことは理事長の権限で行うことはできない。私立学校法に基づいて、学園は毎年、所轄庁の山形県に「特別代理人の選任」を申請し、利害関係のない第三者に取引が公正かどうかチェックしてもらう義務があった。
さらに、今春施行の法改正によって特別代理人の選任は不要になったが、利益相反行為であることに変わりはないので、今後も理事会で厳正にチェックする必要がある。一族企業と学校法人の間で、資金の融通や物品の購入を勝手気ままに行うことは、いかなる場合でも許されないのだ。
ことは、東海山形学園とダイバーシティメディア、ムービーオンだけの関係にとどまらない。学園が一族企業と交わすすべての契約について「利益相反行為」の疑いが生じ、チェックする必要が出てくる。
多数の企業を経営する人物が学校法人の理事長を兼ねれば、常にこういう問題が起き、公平さを疑われる事態を招くことになる。
だからこそ、文部科学省は「理事長についてはできる限り常勤化や兼職の制限を行うことが期待される」との事務次官通知(2004年7月23日付)を出し、さらに「理事長は責任に見合った勤務形態を取り、対内的にも対外的にも責任を果たしていくことが重要と考える。兼職は避けることが望ましい」との見解(高等教育局私学行政課)を出しているのだ。
普通なら、都道府県の職員は中央官庁の通知に沿って、粛々と実務を進めていく。だが、問題の学校法人の理事長は知事の縁者で、知事室にわがもの顔で出入りしている人物だ。誰もその権限を適切に使い、職責をまっとうしようとしない。
それどころか、県内周遊促進事業の業務委託問題で見たように、和文氏にすり寄り、便宜を図った者がトントンと出世していく。それを周りの幹部や職員は見ている。県庁の空気はよどみ、活力が失われていく。
中堅幹部の言葉が忘れられない。彼は次のように嘆いた。
「県職員として一番やりがいを感じたのは、係長や主査のころでした。新しい事業を立ち上げるため、みんなでアイデアを出し合い、『これがいい』『こんな方法もある』と、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をして練っていきました。それを課長補佐や課長に上げて通し、予算化していくのが実に楽しかった」
「吉村知事は2期目の頃から、何でも自分で決めないと済まないようなスタイルになっていった。下から積み上げていっても、気に入らなければ歯牙にもかけない。一方で、上から突然、ドスンと新しい事業を下ろしてくる。フル規格の新幹線整備事業のように。これでは、若い職員はたまらない。振り回されるばかりで、意欲がなえていくのです」
吉村知事は政治や社会の小さな動きには敏感だが、歴史の大きな流れには鈍感だ。情報技術(IT)革命のインパクトのすさまじさがまるで分っていない。それゆえに、県庁ではいまだに「紙とハンコ」を使って仕事をしている。
菅政権が「デジタル庁の創設」を言い始めた途端、「県の業務のデジタル化」などと言い始めたが、この12年、いったい何をしていたのか。
「道半ば」と知事は言う。その道はどこに通じているのか。何を信じて歩んでいるのか。
*メールマガジン「風切通信 82」 2020年11月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』2020年12月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。写真は12月号の表紙のイラスト
*図1、2、3をクリックすると、内容が表示されます
類は友を呼ぶ、という。似た者同士は自然と寄り集まる。それを裏返せば、友達をよく見れば、その人の性格や考え方も分かる、ということだ。

週刊新潮が10月15日号で、菅義偉首相の友達特集を載せていた。最初に、共同通信の論説副委員長から首相補佐官に転じた柿崎明二(めいじ)氏が登場する。そして、この柿崎氏と菅首相をつないだ人物として、政治系シンクタンク「大樹(たいじゅ)グループ」の矢島義也氏(59歳)を取り上げていた。「令和の政商」なのだという。
謎多き人物だ。週刊新潮は「長野県出身」と報じたが、「静岡県浜松市生まれ」とするメディアもあり、はっきりしない。高校を卒業した後、実業界に身を投じ、のし上がっていった人物のようだ。「矢島義成」と名乗っていた時期もある。
「政商」としての矢島氏の力を示したのは、2016年5月に開かれた彼の「結婚を祝う会」だった。週刊新潮によれば、主賓は当時官房長官だった菅義偉氏。二階俊博・自民党政務会長(当時)が乾杯の音頭を取り、安倍晋三首相もビデオメッセージを寄せた。
現職閣僚の林幹雄、遠藤利明、加藤勝信の各氏も出席し、さらに野党からも野田佳彦・元首相や安住淳、細野豪志、山尾志桜里の各氏が顔をそろえた。福田淳一・財務事務次官や黒川弘務・法務省官房長ら、後にセクハラや定年延長問題で世を騒がせた高官も並んだ。永田町や霞が関の事情通をうならせる顔ぶれだった。
では、これだけの人々を呼ぶことができる矢島氏とは、いかなる人物なのか。彼が率いる「大樹グループ」の公式サイトには、持ち株会社の大樹ホールディングスや大樹総研、大樹コンサルティング、大樹リスクマネジメントといったグループ企業と社長名が列記してある。所在地はすべて「中央区銀座7丁目2-22」だ。
業務内容は「戦略コンサルティング」「フェロー派遣サービス」「地方自治体向けサービス」「政策研究・提言」と記してあるが、サイトはわずか2ページしかない。説明文を読んでも、具体的なイメージがまるで湧いてこない。
その内実を探るべく、資料をあさっているうちに、月刊誌『選択』の2018年8月号と9月号にたどり着いた。
それによれば、このグループは政界と官界に人脈を張り巡らし、「口利き商売と補助金ビジネスを売り物にしている」のだという。「補助金という名の血税を巧みに吸い込み、濾過するビジネス」を得意とするグループだ、と断じている。
例えば、グループのエネルギー開発会社「JCサービス」は2013年に鹿児島県で太陽光発電の蓄電池を活用するモデル事業を計画し、環境省から補助金を得た。だが、ろくに事業も進めず、2018年に補助金2億9600万円の返還と加算金1億3600万円の支払いを命じられた。
別のグループ企業「グリーンインフラレンディング」は、再生可能エネルギー事業を進めると称して投資家から巨額の資金を集めたものの、資金の一部が不正に流用されたとして、資金の募集停止に追い込まれている。
『選択』によれば、このグループの謎を解くキーワードは「浜松」「松下政経塾」「自然エネルギー」の三つだという。矢島氏は、浜松を拠点とする熊谷弘・元官房長官(羽田内閣)や鈴木康友・浜松市長と昵懇の間柄にあり、これを足場に政界と官界の人脈を広げていった。
鈴木康友氏は松下政経塾の1期生であり、同じ1期生の野田佳彦・元首相を矢島氏につないだ。その人脈は民主党政権時代に細野豪志、安住淳の各氏や官界へと広がっていく。同時に、野党の代議士として不遇をかこっていた菅義偉氏や二階俊博氏との知遇も得た。
このグループのしたたかさは、民主党政権から自民党・安倍政権になってからも、「再生可能エネルギー関連のビジネス」をテコとして、さらに政官財とのパイプを太くしていった点だ。いわば、「自民党の不得意分野」で活路を切り開いていったのである。
見過ごしにできないのは、その手法だ。週刊新潮は、写真誌『FOCUS』の1999年7月21日号を引用して、矢島氏が<乱交パーティー「女衒芸能プロ社長」の正体>と報じられた過去があることを紹介している。東京のマンションの一室で週に1回ほど乱交パーティーを開き、有名な俳優や人気アイドルを集めていたのだという。
「金と色」で人脈を広げ、その人脈を使って影響力をさらに強めていく。「再生可能エネルギー」という衣をまとっているところが「平成流」と言うべきか。時の首相の友人として、いかがなものかと思う。
週刊新潮は11月5日号で、「菅首相のタニマチが公有地の払い下げを受け、ぼろ儲けした」と続報を放った。こちらは別の人物が主役で、地元の神奈川県を舞台にした疑惑である。安倍政権の「森友学園問題」より、はるかに露骨な利益誘導ぶりを伝えている。
地縁血縁のない横浜で政治家を志し、有力なスポンサーも見つけられない中で権力の中枢へと駆け上がっていっただけに、菅首相の周りには有象無象がうごめいている。何が起きているのか。メディアは臆することなく、その闇に分け入っていかなければならない。
*メールマガジン「風切通信 81」 2020年11月7日
≪写真説明≫
◎大樹グループの総帥、矢島義也氏

週刊新潮が10月15日号で、菅義偉首相の友達特集を載せていた。最初に、共同通信の論説副委員長から首相補佐官に転じた柿崎明二(めいじ)氏が登場する。そして、この柿崎氏と菅首相をつないだ人物として、政治系シンクタンク「大樹(たいじゅ)グループ」の矢島義也氏(59歳)を取り上げていた。「令和の政商」なのだという。
謎多き人物だ。週刊新潮は「長野県出身」と報じたが、「静岡県浜松市生まれ」とするメディアもあり、はっきりしない。高校を卒業した後、実業界に身を投じ、のし上がっていった人物のようだ。「矢島義成」と名乗っていた時期もある。
「政商」としての矢島氏の力を示したのは、2016年5月に開かれた彼の「結婚を祝う会」だった。週刊新潮によれば、主賓は当時官房長官だった菅義偉氏。二階俊博・自民党政務会長(当時)が乾杯の音頭を取り、安倍晋三首相もビデオメッセージを寄せた。
現職閣僚の林幹雄、遠藤利明、加藤勝信の各氏も出席し、さらに野党からも野田佳彦・元首相や安住淳、細野豪志、山尾志桜里の各氏が顔をそろえた。福田淳一・財務事務次官や黒川弘務・法務省官房長ら、後にセクハラや定年延長問題で世を騒がせた高官も並んだ。永田町や霞が関の事情通をうならせる顔ぶれだった。
では、これだけの人々を呼ぶことができる矢島氏とは、いかなる人物なのか。彼が率いる「大樹グループ」の公式サイトには、持ち株会社の大樹ホールディングスや大樹総研、大樹コンサルティング、大樹リスクマネジメントといったグループ企業と社長名が列記してある。所在地はすべて「中央区銀座7丁目2-22」だ。
業務内容は「戦略コンサルティング」「フェロー派遣サービス」「地方自治体向けサービス」「政策研究・提言」と記してあるが、サイトはわずか2ページしかない。説明文を読んでも、具体的なイメージがまるで湧いてこない。
その内実を探るべく、資料をあさっているうちに、月刊誌『選択』の2018年8月号と9月号にたどり着いた。
それによれば、このグループは政界と官界に人脈を張り巡らし、「口利き商売と補助金ビジネスを売り物にしている」のだという。「補助金という名の血税を巧みに吸い込み、濾過するビジネス」を得意とするグループだ、と断じている。
例えば、グループのエネルギー開発会社「JCサービス」は2013年に鹿児島県で太陽光発電の蓄電池を活用するモデル事業を計画し、環境省から補助金を得た。だが、ろくに事業も進めず、2018年に補助金2億9600万円の返還と加算金1億3600万円の支払いを命じられた。
別のグループ企業「グリーンインフラレンディング」は、再生可能エネルギー事業を進めると称して投資家から巨額の資金を集めたものの、資金の一部が不正に流用されたとして、資金の募集停止に追い込まれている。
『選択』によれば、このグループの謎を解くキーワードは「浜松」「松下政経塾」「自然エネルギー」の三つだという。矢島氏は、浜松を拠点とする熊谷弘・元官房長官(羽田内閣)や鈴木康友・浜松市長と昵懇の間柄にあり、これを足場に政界と官界の人脈を広げていった。
鈴木康友氏は松下政経塾の1期生であり、同じ1期生の野田佳彦・元首相を矢島氏につないだ。その人脈は民主党政権時代に細野豪志、安住淳の各氏や官界へと広がっていく。同時に、野党の代議士として不遇をかこっていた菅義偉氏や二階俊博氏との知遇も得た。
このグループのしたたかさは、民主党政権から自民党・安倍政権になってからも、「再生可能エネルギー関連のビジネス」をテコとして、さらに政官財とのパイプを太くしていった点だ。いわば、「自民党の不得意分野」で活路を切り開いていったのである。
見過ごしにできないのは、その手法だ。週刊新潮は、写真誌『FOCUS』の1999年7月21日号を引用して、矢島氏が<乱交パーティー「女衒芸能プロ社長」の正体>と報じられた過去があることを紹介している。東京のマンションの一室で週に1回ほど乱交パーティーを開き、有名な俳優や人気アイドルを集めていたのだという。
「金と色」で人脈を広げ、その人脈を使って影響力をさらに強めていく。「再生可能エネルギー」という衣をまとっているところが「平成流」と言うべきか。時の首相の友人として、いかがなものかと思う。
週刊新潮は11月5日号で、「菅首相のタニマチが公有地の払い下げを受け、ぼろ儲けした」と続報を放った。こちらは別の人物が主役で、地元の神奈川県を舞台にした疑惑である。安倍政権の「森友学園問題」より、はるかに露骨な利益誘導ぶりを伝えている。
地縁血縁のない横浜で政治家を志し、有力なスポンサーも見つけられない中で権力の中枢へと駆け上がっていっただけに、菅首相の周りには有象無象がうごめいている。何が起きているのか。メディアは臆することなく、その闇に分け入っていかなければならない。
*メールマガジン「風切通信 81」 2020年11月7日
≪写真説明≫
◎大樹グループの総帥、矢島義也氏
私たちが暮らす山形県という地域は、どういうところなのか。その政治風土や県民性を考える時に忘れてならないのは、「蔵王県境移動事件」である。

半世紀以上も前に起きた事件だが、山形県の政治や経済、社会の特質をこれほど雄弁に物語るものはほかにない。地元の支配的企業グループに便宜を図るため、秋田営林局と山形営林署は山形、宮城の県境を勝手に移動させた。そして、山形県当局もグルになってそれを押し通そうとした。信じがたいような出来事だ。
事件が起きたのは1963年である。
蔵王連峰を横断する道路「蔵王エコーライン」が前年に開通したのを機に、山形市の観光バス会社「北都開発」が蔵王の「お釜」(写真)に通じるリフトの建設を計画した。建設予定地は山形営林署が管轄する国有林内だった。そこで、北都開発は営林署に用地の貸付申請をし、山形県にはリフト建設の届け出をした。
すると、山形営林署長は同じように観光リフトの建設を計画していた山形交通にその内容を伝え、北都開発の貸付申請書を受理しないなど様々な妨害工作を始めた。山形県も「お釜には道路を造って行けるようにする計画だ」と、リフトの建設に反対した。
その一方で、山形交通は宮城県内の土地にお釜に通じる観光リフトの建設を決め、営林当局の支援を受けて着々と工事を進めていった。
都開発はあきらめず、妨害を跳ねのけて手続きを進めた。すると、秋田営林局と山形営林署は「山形と宮城の県境はもっと西寄りである。北都開発のリフト建設予定地は宮城県側だ。白石営林署で手続きせよ」と言い始めた。勝手に県境を変え、山形県の土地の一部を宮城県に譲り渡してしまったのである。
観光リフトの建設問題は県境紛争となり、国会議員や県知事、中央官庁も巻き込んだ大騒動に発展した。
この渦中で絶大な力を発揮したのが山形新聞の服部敬雄(よしお)社長である。グループ企業の山形交通の権益を守るため、政治家や経済人を動かし、傘下の新聞とテレビを動員して世論操作を図った。権力を監視すべきメディアが権力そのものと化していたのだ。
汚職の臭いをかぎ取り、山形地方検察庁が動き始める。警察は地元のしがらみにからめとられて、当てにできない。検察だけで捜査を進め、翌64年年に山形営林署長や山形交通の課長ら12人を逮捕し、65年に営林署長を公務員職権濫用罪で起訴した。
この刑事裁判で事実関係が明らかにされ、営林署長に有罪の判決が下っていれば、その後の展開はまるで異なるものになっていたはずだ。
ところが、一審の山形地裁でも控訴審でも営林署長は無罪になり、70年に確定した。致命的だったのは、検察側が「山形県と宮城県の本当の県境はどこか」を立証できなかったことである。
山形新聞・山形交通グループと営林当局、山形県はあらゆる手段を使って、勝手に移動させた県境こそ「本来の県境である」と主張し続けた。江戸時代の絵図を持ち出し、地図作成を担当する国土地理院の専門家まで引っ張り出して、被告に有利な証言をさせた。
裁判所は「ごまかしと嘘の洪水」にのみ込まれ、県境の画定をあきらめざるを得なかった。「県境の移動」が立証されなければ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則にのっとり、無罪を言い渡すしかなかった。
この間、北都開発の佐藤要作(ようさく)社長は妨害を乗り越えてリフトを完成させたが、嫌がらせはその後も続いた。万が一の噴火に備えて観光客用の避難所を建設した。すると、山形県は「お釜の景観を損ねる」と別の場所への建て替えを命じ、さらにその建て替えた避難所を新たな理由を持ち出して強制的に取り壊した。
意を決して、佐藤要作社長は「営林当局による県境の移動は不法行為である。これによって生じた損害を賠償せよ」と国を相手に民事訴訟を起こした。だが、弁護士が次々に辞めるなどして訴訟は停滞した。
転機は1980年に訪れた。
この年、大阪で仕事をしていた佐藤欣哉(きんや)弁護士が山形市に移り、事務所を開いた。1946年、山形県余目(あまるめ)町(現庄内町)生まれ。鶴岡南高校、一橋大学卒。34歳の闘志あふれる弁護士がこの事件を引き受けた。弁護団に加わった三浦元(はじめ)、外塚功両弁護士も30歳前後の若さだ。彼らは刑事訴訟の分も含め、膨大な証拠と記録の洗い直しを進め、止まっていた裁判を動かしていった。
しかし、87年、一審の山形地裁ではまたしても敗れた。「営林当局が県境を勝手に移動させた」ということを立証できなかったのである。刑事訴訟を含め、三連敗。それでも、控訴して闘い続けた。みな「県境は勝手に移動された」と確信していた。
救いの神は、意外なところから現れた。地図の専門家が「山形地裁の判決は間違っている」と明言した、という情報が佐藤欣哉弁護士のもとに寄せられたのだ。会ってみると、彼はその理由を明快に語ってくれた。
山形と宮城の県境を記した蔵王周辺の地形図を最初に作成したのは明治44年(1911年)、陸軍参謀本部の陸地測量部である。それ以来、その5万分の1の地図がずっと使われてきたが、問題のお釜周辺の境界線は特殊な線で描かれていた。
彼はその線の意味を旧陸軍の内規に基づいて詳しく説明し、「この線は『登山道が県境である』という北都開発の当初からの主張が正しいことを示している」と語った。決定的な証言だった。「地図屋の良心」がごまかしを許さなかったのである。
1995年、仙台高裁は旧陸軍の内規に基づく弁護団の主張を採用し、原告逆転勝訴の判決を言い渡した。事件から、実に32年後のことだった。
「山交は県内陸部最大のバス会社であったほか、同県の政財界に多大な影響力を有していた山形新聞、山形放送とグループを形成して密接な連携を保っていた」
「山形営林署長らは姑息な理由で(北都開発の)申請の受理を拒否ないし遷延(せんえん)し、他方で山交リフトの建設に対しては陰に陽に支援・協力していた」
「(山形営林署長らの)一連の貸付権限の行使は、故意による権限の濫用つまり包括的な不法行為に該当するというべきである」
高裁判決は、山形新聞・山形交通グループの策動を暴き、営林当局者の職権濫用を厳しく断罪した。先の刑事裁判の判断を覆し、事実上の「有罪判決」を下したのである。
長い闘いの記録は、佐藤欣哉氏によって『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』という本にまとめられ、出版された。
蔵王県境事件の弁護士たちはこの年、公金の使い方を監視する「市民オンブズマン山形県会議」を立ち上げ、山形県発注の土木建設工事をめぐる談合事件や山形市議、山形県議の政務調査費(のち政務活動費)の不適切な支出の追及に乗り出した。不正を次々に暴き、貴重な血税を取り戻すのに多大な貢献をした。
その先頭に立ってきた佐藤欣哉弁護士が10月17日、闘病の末、74歳で亡くなった。不正を許さず、闘い続けた人生だった。
◇ ◇
メディアを核に支配を広げ、「天皇」と称された山形新聞の服部敬雄氏は1991年に死去し、山新・山交(現ヤマコー)グループの結束は著しく弱まった。服部氏の番頭のような存在だった県知事も代替わりし、2009年には吉村美栄子氏が東北初の女性知事になった。
それによって、山形県の政治風土と県民性は変わったのだろうか。私たちはどれだけ前に進むことができたのだろうか。
この2年、このコラムで報じてきた通り、吉村知事が誕生して以来、知事の義理のいとこの吉村和文氏が率いる企業・法人グループは「わが世の春」を謳歌してきた。吉村県政誕生以来の10年間で、このグループに支出された公金は40億円を上回る。2019年度以降、さらに上積みされていることは言うまでもない。
吉村一族企業の所業は、山新・山交グループの振る舞いとそっくりではないか。
その実態を解明するため、筆者が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したところ、県は詳しい内容を白塗りにして隠し、不開示にした(2017年5月)。
「白塗り」は「黒塗り」より悪質である。「黒塗り」なら貸借対照表の備考欄に融資などの利益相反行為があることをうかがわせる痕跡が残るが、「白塗り」だと、そうしたものがあるかどうかも分からないからだ。
私学助成を担当する山形県学事文書課は「あるかどうかも分からなくする」のが得意だ。東海山形学園から和文氏の率いるダイバーシティメディアへの3000万円融資に関する「特別代理人の選任文書」について、私が情報公開を求めると、「存否(そんぴ)応答拒否」(文書があるかどうかも答えない)という決定をした(2018年10月)。その理由は「学校法人の利益を害するおそれがある」という理不尽なものだった。
私立学校法は「利益相反行為がある場合、所轄庁(山形県)は特別代理人を選んでチェックさせなさい」と規定していた。私は「その法律に基づいて選んだのですか」と問いただしたに過ぎない。「利益を害する」ことなどあり得ないのだ。知事の義理のいとこが理事長をつとめる学校法人の不始末を隠そうとした、としか考えられない対応だった。
財務書類の不開示をめぐる裁判は、仙台高裁で「山形県の対応は違法。すべて開示しなさい」との判決が出され、県の上告が退けられて確定した。この判決に基づいて全面開示された財務書類を点検したところ、2016年の3000万円とは別に、2013年にも学校法人から和文氏個人に5000万円の融資が行われていたことが明らかになった。
県学事文書課は全面開示の直前に、この5000万円融資の事実に気づいたことを認めている。だが、筆者が記者会見をして明らかにするまで口をつぐんでいた。
蔵王県境事件の際の秋田営林局や山形営林署の対応と何と似ていることか。県知事も県職員も「学校法人と一蓮托生」とでも思っているのだろうか。
3000万円の融資でも5000万円の融資でも、県は「特別代理人」を選ばず、私立学校法に定められた責務を果たしていなかった。
その点を追及されると、吉村知事は記者会見や県議会で「県としては(融資という利益相反行為を)知り得なかったのです」と答え、そこに逃げ込もうとしている。
確かに、学校法人とグループ企業の間での融資という利益相反行為を事前に知るのは難しい。だが、私学助成を受けている学校法人は次年度の6月までにはすべての財務書類を県に提出する。丁寧に目を通せば、その時点で気づくはずだ。「知り得ない」という答えは、論理的にも日本語としても間違っている。
10月13日の定例記者会見で知事が答えに窮すると、大滝洋・総務部長は助け舟を出し、こう述べた。「(貸借対照表などの)財務諸表は参考資料なんです。その注記部分はチェックすべき対象になっていない」
暴言と言うしかない。私立学校振興助成法によって、学校法人は所轄庁(山形県)に財務書類を提出することを義務づけられている。学校法人の財務状況を示す重要な書類だからだ。それを「参考資料でチェック不要」と言ってのける度胸に驚く。
大滝部長が果たしている役割は、蔵王県境事件の刑事裁判で被告側の証人になった国土地理院の専門家に似ている。訳知り顔で不正確な情報をばらまき、混乱させて真相の解明を妨げる役回りだ。
当事者である東海山形学園の吉村和文理事長はメディアに対して様々な釈明をしている。いずれも説得力がなく、信ずるに足りない。紙幅が尽きてきた。どこがどのように信用できないのか、次号で詳しく分析したい。
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年11月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
≪写真説明≫
1995年1月23日、仙台高裁で逆転勝訴した原告と弁護団(『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』から複写)
≪参考文献&資料≫
◎蔵王県境事件の国家損害賠償請求に対する仙台高裁の判決(1995年1月23日)
◎『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』(佐藤欣哉著、やまがた散歩社)
◎『小説 蔵王県境事件』(須貝和輔著、東北出版企画)
◎『山形の政治 戦後40年・ある地方政界・』(朝日新聞山形支局、未来社)
◎1963年8月29日から1995年1月29日の朝日新聞山形県版の関係記事

半世紀以上も前に起きた事件だが、山形県の政治や経済、社会の特質をこれほど雄弁に物語るものはほかにない。地元の支配的企業グループに便宜を図るため、秋田営林局と山形営林署は山形、宮城の県境を勝手に移動させた。そして、山形県当局もグルになってそれを押し通そうとした。信じがたいような出来事だ。
事件が起きたのは1963年である。
蔵王連峰を横断する道路「蔵王エコーライン」が前年に開通したのを機に、山形市の観光バス会社「北都開発」が蔵王の「お釜」(写真)に通じるリフトの建設を計画した。建設予定地は山形営林署が管轄する国有林内だった。そこで、北都開発は営林署に用地の貸付申請をし、山形県にはリフト建設の届け出をした。
すると、山形営林署長は同じように観光リフトの建設を計画していた山形交通にその内容を伝え、北都開発の貸付申請書を受理しないなど様々な妨害工作を始めた。山形県も「お釜には道路を造って行けるようにする計画だ」と、リフトの建設に反対した。
その一方で、山形交通は宮城県内の土地にお釜に通じる観光リフトの建設を決め、営林当局の支援を受けて着々と工事を進めていった。
都開発はあきらめず、妨害を跳ねのけて手続きを進めた。すると、秋田営林局と山形営林署は「山形と宮城の県境はもっと西寄りである。北都開発のリフト建設予定地は宮城県側だ。白石営林署で手続きせよ」と言い始めた。勝手に県境を変え、山形県の土地の一部を宮城県に譲り渡してしまったのである。
観光リフトの建設問題は県境紛争となり、国会議員や県知事、中央官庁も巻き込んだ大騒動に発展した。
この渦中で絶大な力を発揮したのが山形新聞の服部敬雄(よしお)社長である。グループ企業の山形交通の権益を守るため、政治家や経済人を動かし、傘下の新聞とテレビを動員して世論操作を図った。権力を監視すべきメディアが権力そのものと化していたのだ。
汚職の臭いをかぎ取り、山形地方検察庁が動き始める。警察は地元のしがらみにからめとられて、当てにできない。検察だけで捜査を進め、翌64年年に山形営林署長や山形交通の課長ら12人を逮捕し、65年に営林署長を公務員職権濫用罪で起訴した。
この刑事裁判で事実関係が明らかにされ、営林署長に有罪の判決が下っていれば、その後の展開はまるで異なるものになっていたはずだ。
ところが、一審の山形地裁でも控訴審でも営林署長は無罪になり、70年に確定した。致命的だったのは、検察側が「山形県と宮城県の本当の県境はどこか」を立証できなかったことである。
山形新聞・山形交通グループと営林当局、山形県はあらゆる手段を使って、勝手に移動させた県境こそ「本来の県境である」と主張し続けた。江戸時代の絵図を持ち出し、地図作成を担当する国土地理院の専門家まで引っ張り出して、被告に有利な証言をさせた。
裁判所は「ごまかしと嘘の洪水」にのみ込まれ、県境の画定をあきらめざるを得なかった。「県境の移動」が立証されなければ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則にのっとり、無罪を言い渡すしかなかった。
この間、北都開発の佐藤要作(ようさく)社長は妨害を乗り越えてリフトを完成させたが、嫌がらせはその後も続いた。万が一の噴火に備えて観光客用の避難所を建設した。すると、山形県は「お釜の景観を損ねる」と別の場所への建て替えを命じ、さらにその建て替えた避難所を新たな理由を持ち出して強制的に取り壊した。
意を決して、佐藤要作社長は「営林当局による県境の移動は不法行為である。これによって生じた損害を賠償せよ」と国を相手に民事訴訟を起こした。だが、弁護士が次々に辞めるなどして訴訟は停滞した。
転機は1980年に訪れた。
この年、大阪で仕事をしていた佐藤欣哉(きんや)弁護士が山形市に移り、事務所を開いた。1946年、山形県余目(あまるめ)町(現庄内町)生まれ。鶴岡南高校、一橋大学卒。34歳の闘志あふれる弁護士がこの事件を引き受けた。弁護団に加わった三浦元(はじめ)、外塚功両弁護士も30歳前後の若さだ。彼らは刑事訴訟の分も含め、膨大な証拠と記録の洗い直しを進め、止まっていた裁判を動かしていった。
しかし、87年、一審の山形地裁ではまたしても敗れた。「営林当局が県境を勝手に移動させた」ということを立証できなかったのである。刑事訴訟を含め、三連敗。それでも、控訴して闘い続けた。みな「県境は勝手に移動された」と確信していた。
救いの神は、意外なところから現れた。地図の専門家が「山形地裁の判決は間違っている」と明言した、という情報が佐藤欣哉弁護士のもとに寄せられたのだ。会ってみると、彼はその理由を明快に語ってくれた。
山形と宮城の県境を記した蔵王周辺の地形図を最初に作成したのは明治44年(1911年)、陸軍参謀本部の陸地測量部である。それ以来、その5万分の1の地図がずっと使われてきたが、問題のお釜周辺の境界線は特殊な線で描かれていた。
彼はその線の意味を旧陸軍の内規に基づいて詳しく説明し、「この線は『登山道が県境である』という北都開発の当初からの主張が正しいことを示している」と語った。決定的な証言だった。「地図屋の良心」がごまかしを許さなかったのである。
1995年、仙台高裁は旧陸軍の内規に基づく弁護団の主張を採用し、原告逆転勝訴の判決を言い渡した。事件から、実に32年後のことだった。
「山交は県内陸部最大のバス会社であったほか、同県の政財界に多大な影響力を有していた山形新聞、山形放送とグループを形成して密接な連携を保っていた」
「山形営林署長らは姑息な理由で(北都開発の)申請の受理を拒否ないし遷延(せんえん)し、他方で山交リフトの建設に対しては陰に陽に支援・協力していた」
「(山形営林署長らの)一連の貸付権限の行使は、故意による権限の濫用つまり包括的な不法行為に該当するというべきである」
高裁判決は、山形新聞・山形交通グループの策動を暴き、営林当局者の職権濫用を厳しく断罪した。先の刑事裁判の判断を覆し、事実上の「有罪判決」を下したのである。
長い闘いの記録は、佐藤欣哉氏によって『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』という本にまとめられ、出版された。
蔵王県境事件の弁護士たちはこの年、公金の使い方を監視する「市民オンブズマン山形県会議」を立ち上げ、山形県発注の土木建設工事をめぐる談合事件や山形市議、山形県議の政務調査費(のち政務活動費)の不適切な支出の追及に乗り出した。不正を次々に暴き、貴重な血税を取り戻すのに多大な貢献をした。
その先頭に立ってきた佐藤欣哉弁護士が10月17日、闘病の末、74歳で亡くなった。不正を許さず、闘い続けた人生だった。
◇ ◇
メディアを核に支配を広げ、「天皇」と称された山形新聞の服部敬雄氏は1991年に死去し、山新・山交(現ヤマコー)グループの結束は著しく弱まった。服部氏の番頭のような存在だった県知事も代替わりし、2009年には吉村美栄子氏が東北初の女性知事になった。
それによって、山形県の政治風土と県民性は変わったのだろうか。私たちはどれだけ前に進むことができたのだろうか。
この2年、このコラムで報じてきた通り、吉村知事が誕生して以来、知事の義理のいとこの吉村和文氏が率いる企業・法人グループは「わが世の春」を謳歌してきた。吉村県政誕生以来の10年間で、このグループに支出された公金は40億円を上回る。2019年度以降、さらに上積みされていることは言うまでもない。
吉村一族企業の所業は、山新・山交グループの振る舞いとそっくりではないか。
その実態を解明するため、筆者が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したところ、県は詳しい内容を白塗りにして隠し、不開示にした(2017年5月)。
「白塗り」は「黒塗り」より悪質である。「黒塗り」なら貸借対照表の備考欄に融資などの利益相反行為があることをうかがわせる痕跡が残るが、「白塗り」だと、そうしたものがあるかどうかも分からないからだ。
私学助成を担当する山形県学事文書課は「あるかどうかも分からなくする」のが得意だ。東海山形学園から和文氏の率いるダイバーシティメディアへの3000万円融資に関する「特別代理人の選任文書」について、私が情報公開を求めると、「存否(そんぴ)応答拒否」(文書があるかどうかも答えない)という決定をした(2018年10月)。その理由は「学校法人の利益を害するおそれがある」という理不尽なものだった。
私立学校法は「利益相反行為がある場合、所轄庁(山形県)は特別代理人を選んでチェックさせなさい」と規定していた。私は「その法律に基づいて選んだのですか」と問いただしたに過ぎない。「利益を害する」ことなどあり得ないのだ。知事の義理のいとこが理事長をつとめる学校法人の不始末を隠そうとした、としか考えられない対応だった。
財務書類の不開示をめぐる裁判は、仙台高裁で「山形県の対応は違法。すべて開示しなさい」との判決が出され、県の上告が退けられて確定した。この判決に基づいて全面開示された財務書類を点検したところ、2016年の3000万円とは別に、2013年にも学校法人から和文氏個人に5000万円の融資が行われていたことが明らかになった。
県学事文書課は全面開示の直前に、この5000万円融資の事実に気づいたことを認めている。だが、筆者が記者会見をして明らかにするまで口をつぐんでいた。
蔵王県境事件の際の秋田営林局や山形営林署の対応と何と似ていることか。県知事も県職員も「学校法人と一蓮托生」とでも思っているのだろうか。
3000万円の融資でも5000万円の融資でも、県は「特別代理人」を選ばず、私立学校法に定められた責務を果たしていなかった。
その点を追及されると、吉村知事は記者会見や県議会で「県としては(融資という利益相反行為を)知り得なかったのです」と答え、そこに逃げ込もうとしている。
確かに、学校法人とグループ企業の間での融資という利益相反行為を事前に知るのは難しい。だが、私学助成を受けている学校法人は次年度の6月までにはすべての財務書類を県に提出する。丁寧に目を通せば、その時点で気づくはずだ。「知り得ない」という答えは、論理的にも日本語としても間違っている。
10月13日の定例記者会見で知事が答えに窮すると、大滝洋・総務部長は助け舟を出し、こう述べた。「(貸借対照表などの)財務諸表は参考資料なんです。その注記部分はチェックすべき対象になっていない」
暴言と言うしかない。私立学校振興助成法によって、学校法人は所轄庁(山形県)に財務書類を提出することを義務づけられている。学校法人の財務状況を示す重要な書類だからだ。それを「参考資料でチェック不要」と言ってのける度胸に驚く。
大滝部長が果たしている役割は、蔵王県境事件の刑事裁判で被告側の証人になった国土地理院の専門家に似ている。訳知り顔で不正確な情報をばらまき、混乱させて真相の解明を妨げる役回りだ。
当事者である東海山形学園の吉村和文理事長はメディアに対して様々な釈明をしている。いずれも説得力がなく、信ずるに足りない。紙幅が尽きてきた。どこがどのように信用できないのか、次号で詳しく分析したい。
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年11月号に寄稿した文章を若干手直しして転載したものです。
≪写真説明≫
1995年1月23日、仙台高裁で逆転勝訴した原告と弁護団(『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』から複写)
≪参考文献&資料≫
◎蔵王県境事件の国家損害賠償請求に対する仙台高裁の判決(1995年1月23日)
◎『蔵王県境が動く 官財癒着の真相』(佐藤欣哉著、やまがた散歩社)
◎『小説 蔵王県境事件』(須貝和輔著、東北出版企画)
◎『山形の政治 戦後40年・ある地方政界・』(朝日新聞山形支局、未来社)
◎1963年8月29日から1995年1月29日の朝日新聞山形県版の関係記事
市民オンブズマンとして、山形市の学校法人がグループ企業に3000万円融資した問題を調べてきましたが、この学校法人がさらに理事長個人に5000万円の融資をしていたことが9月24日、新たに判明しました。

この学校法人の理事長と企業の社長は同一人物で、吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこの吉村和文氏です。いずれも「利益相反(そうはん)行為」に当たりますが、県も学校法人も私立学校法に定められた手続きを踏んでいませんでした。
吉村和文氏が理事長をしている学校法人は「東海山形学園」で、東海大山形高校を運営しています。3000万円の融資は2015年度に東海山形学園がダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に対して行ったものですが、この学校法人は2013年度にも吉村理事長個人に対して5000万円を貸し付けていたことが分かりました。私学助成を担当する山形県学事文書課は「事実関係を調査中」と表明しています。
3000万円の融資に関しては、私が山形県にこの学校法人の財務書類の情報公開を求めたところ、県側は文書の詳細な部分を白塗りにして隠し、不開示にしたため、情報公開を求めて裁判に訴えました。この間の経緯はすでに、風切通信でお伝えした通りです。一審の山形地裁では敗れたものの、控訴審の仙台高裁で逆転勝訴し、高裁は山形県に財務書類の全面開示を命じました。県側は最高裁に上告しましたが一蹴され、判決が確定しました。5000万円の融資はこの判決に基づいて開示された財務書類を精査して判明したものです。
山形県は裁判になった財務書類の不開示決定のほかにも、別の情報公開請求に対して「存否応答拒否」の決定をするなど不可解な対応をしてきました。「なぜ、そこまで無茶苦茶なことをするのか」といぶかしく思ってきましたが、今にして思えば、この5000万円融資のことも隠したかったのかもしれません。
5000万円の融資はグループ企業に対してではなく、グループを率いる吉村和文氏個人に対する貸付で、学校法人の理事会で検討され、追認の手続きが取られたかどうかも今のところ分かっていません。
吉村一族の企業・法人グループについては、山形県の入札や業務委託をめぐってさまざまな疑惑が表面化しており、なお追及中です。県知事の吉村美栄子氏は3000万円の融資について「学校法人が適切に運営されているのであれば、よろしいのではないか」などと釈明してきましたが、「適切な運営」という前提は崩れ去ったと言うしかありません。
吉村知事と一族企業グループの問題について、当地の月刊誌『素晴らしい山形』の10月号に20回目の寄稿をしました。5000万円の融資が判明する直前に書いたものです。問題の経緯と背景を詳しく説明していますので、長い文章ですが、ご一読ください。
◇ ◇
知事12年でも「道半ば」? あと何年居座るつもりか
権力の座に長く居続けると、人はこんな風になってしまうものなのだろうか。
山形県の吉村美栄子知事の言動を見ていると、普通の人の普通の感覚が分からなくなり、自分に都合のいい見方しかできなくなった人間の悲哀を感じる。
学校法人の東海山形学園が民間企業のダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資をした問題は、ごく普通に考えれば、「おかしなことだ」とすぐに分かる。金を貸すのは学校の仕事ではない。資金が必要なら、銀行に頼めばいい。
そのうえ、この融資では学校法人の理事長と会社の社長は同一人物、吉村知事の義理のいとこの吉村和文氏である。「グループの中で学校の金を使い回している」と見るのが当然ではないか。「そんなことが許されるのか」と疑問を抱くのが普通だろう。
火のないところに煙は立たない。腐敗のないところから腐臭は漂ってこない。
4年前、この融資のことを月刊『素晴らしい山形』の記事で知った時、私は強烈な腐臭を感じた。元新聞記者として「これをきちんと調べていけば、臭いの元にたどり着ける」と直感した。
取材は素朴な疑問を解くところから始まる。最初の疑問は「なぜ、銀行に金を貸してくれるよう頼まなかったのか」ということだ。「銀行に頼めない事情があったから」と推測した。
その推測を立証するのは、それほど難しいことではない。吉村和文氏の自宅や彼が率いる会社の土地・建物の登記簿を調べればいい。山形地方法務局に行って手数料を払えば、誰でも登記を見ることができる。
山形市小白川町にある吉村和文氏の自宅の登記簿は、土地も建物も抵当権が何重にも設定されていた(図1)。映画館を運営する「ムービーオン」が山形銀行や荘内銀行から億単位の資金を借りた際、社長として自宅の土地と建物を担保に提供したからだ。これだけ抵当権が設定されてしまえば、自宅の土地や建物にはすでに担保価値はない。
吉村一族の企業グループの中核、ダイバーシティメディアはどうか。図2のように、その登記簿も真っ黒だった。4階建ての本社ビルからケーブルテレビの放送施設やテレビカメラまで、一切合切まとめて銀行の抵当に入っていた。こちらも、これ以上抵当権を設定するのは無理だと分かる。
多額の借金を抱える「ムービーオン」の登記簿は調べるまでもない。要するに、吉村一族の企業グループにはこの時期、担保として提供できるものがなかったのである。担保のないところに、銀行は金を貸したりしない。そこで、資金が潤沢な学校法人から回したのだ。
こうしたことが分かった段階で、東海大山形高校を運営する東海山形学園の財務調査を始めた。貸した側からも「3000万円融資」の事実を確認したかったからだ。
学校法人は政府や都道府県から私学助成を受けており、資金収支計算書や貸借対照表などの財務書類をすべて監督官庁に提出している。そこで、情報公開制度を使って、山形県に財務書類を開示するよう請求した。
それに対して、山形県は詳しい項目と金額を白塗りにして隠し、開示しなかった。不開示の理由は「開示すると、その学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」というものだった。「財務書類を公開すると正当な利益が害される」などということは、あるわけがない。
一部上場企業の場合、そうした財務書類を公表することが法律で義務づけられている。それによって、ライバル企業に秘密やノウハウが漏れて損をしたなどということは聞いたこともない。ましてや、公的な助成を受けている学校法人でそうしたことが起きるなどとは到底、考えられない。
山形県の不開示決定は違法と考え、裁判所に訴えた。一審の山形地裁では敗れたが、仙台高裁ではこちらの主張が全面的に認められた。詳しい経緯は今年の本誌5月号でお伝えした。県側は上告したが、最高裁に一蹴され、9月10日に渋々、書類をすべて開示した(図3)。
この裁判と並行して、「利益相反行為」についても県に情報公開を求めた。同じ人物が代表をつとめる会社と学校法人の間で金の貸し借りをすれば、どちらかが得をして片方が損をする可能性がある。この3000万円の融資は、典型的な利益相反行為に当たる。
こういう場合、民間企業なら取締役会や株主総会で承認を得れば済むが、公金が注ぎ込まれている学校法人の場合はそれほど簡単ではない。私立学校法に特別の規定があり、「所轄庁(山形県)は特別代理人を選んで、学校法人の利益が害されないようにせよ」と定めていた。
山形県はその責任を果たしたのか。それを確認するため、「特別代理人の選任に関する文書」の開示を求めた。すると、県は「存否(そんぴ)応答拒否」という、とんでもない決定をした。「文書があるかどうかも明らかにできない」というのだ。理由はまたしても「学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」。懲りない人たちだ。
今度は裁判ではなく、県の諮問機関である情報公開・個人情報保護審査会に異議を申し立てた。審査会の専門家もあきれたのだろう。「そもそも決定にあたり、慎重かつ十分な検討が尽くされたのか」と苦言を呈したうえで、存否応答拒否を取り消す答申を出した。
この答申を受けて、県は同じ9月10日に「文書はありませんでした」と認めた。私立学校法に定められた「特別代理人の選任」という責務を果たしていなかったのである。
吉村知事は9月15日の記者会見で、この問題について問われ、こう答えた。
「特別代理人の選任については、利害関係人である学校法人(東海山形学園)から県に選任の請求がありませんでした」
そんなことは分かっている。ポイントは、学校法人から請求がない場合、「所轄庁は職権で選任しなければならない」と私立学校法で定められていることだ。つまり、どんな場合でも、県は特別代理人を選任して学校法人の利益が害されないようにしなければならないのだ。
この点については「学校法人の財務書類等からは、選任の必要性を判断することは非常に困難であります。県としては知り得なかったわけであります」と釈明した。驚くべき発言だ。知事みずから、「担当職員の目は節穴なんです」と認めたようなものである。
思い起こしていただきたい。この3000万円の融資問題は、月刊『素晴らしい山形』の発行人である相澤嘉久治(かくじ)氏がダイバーシティメディアの貸借対照表を見て気づいたことから発覚した。
相澤氏は会計の専門家でもなんでもない。素人である。そういう人が見つけられるものを、仕事でチェックしている県職員が見つけられなくてどうするのか。
知事は「当該取引(3000万円融資)について県で法人に確認をいたしましたが、理事会で追認を行い、適切に対応されていたということでありました」とも述べた。「借りた金は返したし、後日、理事会で追認されたのだから何も問題はない」と言いたいのだろう。
利益相反行為をした当人(吉村和文氏)と同じ理屈、同じ説明をしている。行政は公平、中立の立場で物事を考え、対処するところであるということを忘れているようだ。
毎年、億単位の血税を助成している学校法人で起きたことなのだ。県には監督官庁として「なぜ融資が必要だったのか。貸し倒れに備えて、担保や保証人は確保していたのか」といったことをきちんとチェックする責任がある。「追認されたから問題ない」というような簡単な問題ではない。
東海山形学園の理事会のメンバーを見てみよ。理事長の吉村和文氏に抜擢された元校長や和文氏と昵懇(じっこん)の間柄の市川昭男・前山形市長ら、和文氏のお友達がずらりと並んでいる。理事会での追認の内実も想像がつこうというものだ。
記者会見で、吉村知事は東海山形学園の融資問題についてしつこく追及された。あまりのしつこさに、知事は「なぜそこまで問題にされたのかな、ということもちょっと思います」と、愚痴までこぼしている。
「甘ったれるんじゃない」と言いたい。3000万円を借りたダイバーシティメディアには設立されて間もなく、山形県が1200万円の出資をしている。山形市や天童市、上山市なども出資した。いわゆる「第三セクター会社」で、今でもそれぞれ株を保有している(図4)。そういう会社が、人件費など経常経費の半分を税金で賄っている学校法人から3000万円も借りたのである。
しかも、知事当選後の2009年の資産公開で、吉村知事はこの会社の株主であることが明らかになっている。翌年以降の資産公開では、ケーブルテレビ山形(当時)の株は保有資産一覧には登場しない。
「さすがに好ましくないので手放したのか」と思って調べてみたら、何のことはない。長男に譲っただけだった。株主名簿を見ると、「吉村美栄子」と記してあったところに、長男の展彦(のぶひこ)氏の名前が載っている。資産公開の対象から外すためと見られ、一種の脱法行為をしているのである。情けない政治家だ。
学校法人をめぐっては、これまで様々な不正や不祥事が表面化した。学校法人を代表する理事長が関与しているケースも少なくない。
文部科学省はこうした事態を重く見て、2004年に「理事長についてはできる限り常勤化を図り、兼職の制限を行うことが期待される」との事務次官通知を出した。それを受けて、高等教育局私学行政課は「理事長については責任に見合った勤務形態を取り、対内的にも対外的にも責任を果たしていくことが重要と考える」との文書を発出した。
吉村和文氏のように「数多くの会社を経営して学校法人の理事長も兼ね、学校には滅多に顔を出さない」というようなことは好ましくない、とはっきり言っているのだ。
だが、山形県の学事文書課はこうした文書を漫然と各学校法人に流しただけで、具体的な指導は何もしていない。知事に至っては、こうした通知すら知らないのではないか。
どんな社会でも、教育はその社会の礎(いしずえ)であり、教育が揺らげば、社会そのものが揺らぐ。教育の営みは、文字通り「未来づくり」である。そういうところで、3000万円もの怪しげな融資が行われた。そして、監督する立場にある知事が「学校法人の運営が適切に行われているなら、問題ないのではないか」と平気でうそぶく。それがまかり通ろうとしている。
教育関係者はこの問題をどう見ているのか。高校を運営する学校法人の理事の一人はこう語った。
「私どもは授業料にしても私学助成にしても、教育のためにいただいています。その資金は教育活動のために使うのが当然と考えています。資金を運用するにしても、公正さと透明さが求められるのではないでしょうか」
救われる思いがした。
吉村知事は来年1月の知事選に立候補するかどうか、まだ態度を明らかにしていない。だが、鶴岡市内で開かれた農林水産関係者との会合で出馬を促され、「エールをいただいた。まだ、道半ばという思いもある」と応じた。意欲満々のようだ。
3期12年もつとめて「道半ば」とは恐れ入る。あと何年つとめるつもりなのか。いったい、何がしたいのか。
*「◇ ◇」以下は、月刊『素晴らしい山形』2020年10月号の連載(20)を転載
*メールマガジン「風切通信 79」 2020年9月30日
≪写真≫
月刊『素晴らしい山形』2020年10月号の表紙イラスト

この学校法人の理事長と企業の社長は同一人物で、吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこの吉村和文氏です。いずれも「利益相反(そうはん)行為」に当たりますが、県も学校法人も私立学校法に定められた手続きを踏んでいませんでした。
吉村和文氏が理事長をしている学校法人は「東海山形学園」で、東海大山形高校を運営しています。3000万円の融資は2015年度に東海山形学園がダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に対して行ったものですが、この学校法人は2013年度にも吉村理事長個人に対して5000万円を貸し付けていたことが分かりました。私学助成を担当する山形県学事文書課は「事実関係を調査中」と表明しています。
3000万円の融資に関しては、私が山形県にこの学校法人の財務書類の情報公開を求めたところ、県側は文書の詳細な部分を白塗りにして隠し、不開示にしたため、情報公開を求めて裁判に訴えました。この間の経緯はすでに、風切通信でお伝えした通りです。一審の山形地裁では敗れたものの、控訴審の仙台高裁で逆転勝訴し、高裁は山形県に財務書類の全面開示を命じました。県側は最高裁に上告しましたが一蹴され、判決が確定しました。5000万円の融資はこの判決に基づいて開示された財務書類を精査して判明したものです。
山形県は裁判になった財務書類の不開示決定のほかにも、別の情報公開請求に対して「存否応答拒否」の決定をするなど不可解な対応をしてきました。「なぜ、そこまで無茶苦茶なことをするのか」といぶかしく思ってきましたが、今にして思えば、この5000万円融資のことも隠したかったのかもしれません。
5000万円の融資はグループ企業に対してではなく、グループを率いる吉村和文氏個人に対する貸付で、学校法人の理事会で検討され、追認の手続きが取られたかどうかも今のところ分かっていません。
吉村一族の企業・法人グループについては、山形県の入札や業務委託をめぐってさまざまな疑惑が表面化しており、なお追及中です。県知事の吉村美栄子氏は3000万円の融資について「学校法人が適切に運営されているのであれば、よろしいのではないか」などと釈明してきましたが、「適切な運営」という前提は崩れ去ったと言うしかありません。
吉村知事と一族企業グループの問題について、当地の月刊誌『素晴らしい山形』の10月号に20回目の寄稿をしました。5000万円の融資が判明する直前に書いたものです。問題の経緯と背景を詳しく説明していますので、長い文章ですが、ご一読ください。
◇ ◇
知事12年でも「道半ば」? あと何年居座るつもりか
権力の座に長く居続けると、人はこんな風になってしまうものなのだろうか。
山形県の吉村美栄子知事の言動を見ていると、普通の人の普通の感覚が分からなくなり、自分に都合のいい見方しかできなくなった人間の悲哀を感じる。
学校法人の東海山形学園が民間企業のダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資をした問題は、ごく普通に考えれば、「おかしなことだ」とすぐに分かる。金を貸すのは学校の仕事ではない。資金が必要なら、銀行に頼めばいい。
そのうえ、この融資では学校法人の理事長と会社の社長は同一人物、吉村知事の義理のいとこの吉村和文氏である。「グループの中で学校の金を使い回している」と見るのが当然ではないか。「そんなことが許されるのか」と疑問を抱くのが普通だろう。
火のないところに煙は立たない。腐敗のないところから腐臭は漂ってこない。
4年前、この融資のことを月刊『素晴らしい山形』の記事で知った時、私は強烈な腐臭を感じた。元新聞記者として「これをきちんと調べていけば、臭いの元にたどり着ける」と直感した。
取材は素朴な疑問を解くところから始まる。最初の疑問は「なぜ、銀行に金を貸してくれるよう頼まなかったのか」ということだ。「銀行に頼めない事情があったから」と推測した。
その推測を立証するのは、それほど難しいことではない。吉村和文氏の自宅や彼が率いる会社の土地・建物の登記簿を調べればいい。山形地方法務局に行って手数料を払えば、誰でも登記を見ることができる。
山形市小白川町にある吉村和文氏の自宅の登記簿は、土地も建物も抵当権が何重にも設定されていた(図1)。映画館を運営する「ムービーオン」が山形銀行や荘内銀行から億単位の資金を借りた際、社長として自宅の土地と建物を担保に提供したからだ。これだけ抵当権が設定されてしまえば、自宅の土地や建物にはすでに担保価値はない。
吉村一族の企業グループの中核、ダイバーシティメディアはどうか。図2のように、その登記簿も真っ黒だった。4階建ての本社ビルからケーブルテレビの放送施設やテレビカメラまで、一切合切まとめて銀行の抵当に入っていた。こちらも、これ以上抵当権を設定するのは無理だと分かる。
多額の借金を抱える「ムービーオン」の登記簿は調べるまでもない。要するに、吉村一族の企業グループにはこの時期、担保として提供できるものがなかったのである。担保のないところに、銀行は金を貸したりしない。そこで、資金が潤沢な学校法人から回したのだ。
こうしたことが分かった段階で、東海大山形高校を運営する東海山形学園の財務調査を始めた。貸した側からも「3000万円融資」の事実を確認したかったからだ。
学校法人は政府や都道府県から私学助成を受けており、資金収支計算書や貸借対照表などの財務書類をすべて監督官庁に提出している。そこで、情報公開制度を使って、山形県に財務書類を開示するよう請求した。
それに対して、山形県は詳しい項目と金額を白塗りにして隠し、開示しなかった。不開示の理由は「開示すると、その学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」というものだった。「財務書類を公開すると正当な利益が害される」などということは、あるわけがない。
一部上場企業の場合、そうした財務書類を公表することが法律で義務づけられている。それによって、ライバル企業に秘密やノウハウが漏れて損をしたなどということは聞いたこともない。ましてや、公的な助成を受けている学校法人でそうしたことが起きるなどとは到底、考えられない。
山形県の不開示決定は違法と考え、裁判所に訴えた。一審の山形地裁では敗れたが、仙台高裁ではこちらの主張が全面的に認められた。詳しい経緯は今年の本誌5月号でお伝えした。県側は上告したが、最高裁に一蹴され、9月10日に渋々、書類をすべて開示した(図3)。
この裁判と並行して、「利益相反行為」についても県に情報公開を求めた。同じ人物が代表をつとめる会社と学校法人の間で金の貸し借りをすれば、どちらかが得をして片方が損をする可能性がある。この3000万円の融資は、典型的な利益相反行為に当たる。
こういう場合、民間企業なら取締役会や株主総会で承認を得れば済むが、公金が注ぎ込まれている学校法人の場合はそれほど簡単ではない。私立学校法に特別の規定があり、「所轄庁(山形県)は特別代理人を選んで、学校法人の利益が害されないようにせよ」と定めていた。
山形県はその責任を果たしたのか。それを確認するため、「特別代理人の選任に関する文書」の開示を求めた。すると、県は「存否(そんぴ)応答拒否」という、とんでもない決定をした。「文書があるかどうかも明らかにできない」というのだ。理由はまたしても「学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」。懲りない人たちだ。
今度は裁判ではなく、県の諮問機関である情報公開・個人情報保護審査会に異議を申し立てた。審査会の専門家もあきれたのだろう。「そもそも決定にあたり、慎重かつ十分な検討が尽くされたのか」と苦言を呈したうえで、存否応答拒否を取り消す答申を出した。
この答申を受けて、県は同じ9月10日に「文書はありませんでした」と認めた。私立学校法に定められた「特別代理人の選任」という責務を果たしていなかったのである。
吉村知事は9月15日の記者会見で、この問題について問われ、こう答えた。
「特別代理人の選任については、利害関係人である学校法人(東海山形学園)から県に選任の請求がありませんでした」
そんなことは分かっている。ポイントは、学校法人から請求がない場合、「所轄庁は職権で選任しなければならない」と私立学校法で定められていることだ。つまり、どんな場合でも、県は特別代理人を選任して学校法人の利益が害されないようにしなければならないのだ。
この点については「学校法人の財務書類等からは、選任の必要性を判断することは非常に困難であります。県としては知り得なかったわけであります」と釈明した。驚くべき発言だ。知事みずから、「担当職員の目は節穴なんです」と認めたようなものである。
思い起こしていただきたい。この3000万円の融資問題は、月刊『素晴らしい山形』の発行人である相澤嘉久治(かくじ)氏がダイバーシティメディアの貸借対照表を見て気づいたことから発覚した。
相澤氏は会計の専門家でもなんでもない。素人である。そういう人が見つけられるものを、仕事でチェックしている県職員が見つけられなくてどうするのか。
知事は「当該取引(3000万円融資)について県で法人に確認をいたしましたが、理事会で追認を行い、適切に対応されていたということでありました」とも述べた。「借りた金は返したし、後日、理事会で追認されたのだから何も問題はない」と言いたいのだろう。
利益相反行為をした当人(吉村和文氏)と同じ理屈、同じ説明をしている。行政は公平、中立の立場で物事を考え、対処するところであるということを忘れているようだ。
毎年、億単位の血税を助成している学校法人で起きたことなのだ。県には監督官庁として「なぜ融資が必要だったのか。貸し倒れに備えて、担保や保証人は確保していたのか」といったことをきちんとチェックする責任がある。「追認されたから問題ない」というような簡単な問題ではない。
東海山形学園の理事会のメンバーを見てみよ。理事長の吉村和文氏に抜擢された元校長や和文氏と昵懇(じっこん)の間柄の市川昭男・前山形市長ら、和文氏のお友達がずらりと並んでいる。理事会での追認の内実も想像がつこうというものだ。
記者会見で、吉村知事は東海山形学園の融資問題についてしつこく追及された。あまりのしつこさに、知事は「なぜそこまで問題にされたのかな、ということもちょっと思います」と、愚痴までこぼしている。
「甘ったれるんじゃない」と言いたい。3000万円を借りたダイバーシティメディアには設立されて間もなく、山形県が1200万円の出資をしている。山形市や天童市、上山市なども出資した。いわゆる「第三セクター会社」で、今でもそれぞれ株を保有している(図4)。そういう会社が、人件費など経常経費の半分を税金で賄っている学校法人から3000万円も借りたのである。
しかも、知事当選後の2009年の資産公開で、吉村知事はこの会社の株主であることが明らかになっている。翌年以降の資産公開では、ケーブルテレビ山形(当時)の株は保有資産一覧には登場しない。
「さすがに好ましくないので手放したのか」と思って調べてみたら、何のことはない。長男に譲っただけだった。株主名簿を見ると、「吉村美栄子」と記してあったところに、長男の展彦(のぶひこ)氏の名前が載っている。資産公開の対象から外すためと見られ、一種の脱法行為をしているのである。情けない政治家だ。
学校法人をめぐっては、これまで様々な不正や不祥事が表面化した。学校法人を代表する理事長が関与しているケースも少なくない。
文部科学省はこうした事態を重く見て、2004年に「理事長についてはできる限り常勤化を図り、兼職の制限を行うことが期待される」との事務次官通知を出した。それを受けて、高等教育局私学行政課は「理事長については責任に見合った勤務形態を取り、対内的にも対外的にも責任を果たしていくことが重要と考える」との文書を発出した。
吉村和文氏のように「数多くの会社を経営して学校法人の理事長も兼ね、学校には滅多に顔を出さない」というようなことは好ましくない、とはっきり言っているのだ。
だが、山形県の学事文書課はこうした文書を漫然と各学校法人に流しただけで、具体的な指導は何もしていない。知事に至っては、こうした通知すら知らないのではないか。
どんな社会でも、教育はその社会の礎(いしずえ)であり、教育が揺らげば、社会そのものが揺らぐ。教育の営みは、文字通り「未来づくり」である。そういうところで、3000万円もの怪しげな融資が行われた。そして、監督する立場にある知事が「学校法人の運営が適切に行われているなら、問題ないのではないか」と平気でうそぶく。それがまかり通ろうとしている。
教育関係者はこの問題をどう見ているのか。高校を運営する学校法人の理事の一人はこう語った。
「私どもは授業料にしても私学助成にしても、教育のためにいただいています。その資金は教育活動のために使うのが当然と考えています。資金を運用するにしても、公正さと透明さが求められるのではないでしょうか」
救われる思いがした。
吉村知事は来年1月の知事選に立候補するかどうか、まだ態度を明らかにしていない。だが、鶴岡市内で開かれた農林水産関係者との会合で出馬を促され、「エールをいただいた。まだ、道半ばという思いもある」と応じた。意欲満々のようだ。
3期12年もつとめて「道半ば」とは恐れ入る。あと何年つとめるつもりなのか。いったい、何がしたいのか。
*「◇ ◇」以下は、月刊『素晴らしい山形』2020年10月号の連載(20)を転載
*メールマガジン「風切通信 79」 2020年9月30日
≪写真≫
月刊『素晴らしい山形』2020年10月号の表紙イラスト
権力を握った人たちは、その権力をどんな風に使って私腹を肥やそうとするのか。山形県の吉村美栄子知事とその一族企業グループの実態を調べ、2018年末から地元の月刊誌『素晴らしい山形』に連載記事を寄稿してきた。
私は30年余り新聞記者として働き、その間、いくつか調査報道も手がけたが、記者としての技量が足りなかったこともあって、いずれも中途半端な結果に終わり、きちんとした成果を上げることはできなかった。
その意味で、生まれ育った山形の政治の実態を調べて暴く今回の取材は、「在職中に成し得なかったことに再挑戦する試み」となっている。情報公開制度をフルに使って公文書の開示を求めることで、どこまで実態に迫れるか。そのケース・スタディでもある。
すでに67歳。体力も気力も現役の時とは比べものにならないほど衰えた。けれども、この調査報道によって、地方で何が起きているのか、それが中央の政治や行政とどのように連動しているのか、いくつか見えてきたことがある。
その一つが「利権の構造は、かつてとはまるで異なるものになってしまった」ということである。私が現役の新聞記者だった頃は、政治がらみのスキャンダルと言えば、土木建設の公共事業をめぐる汚職がメインだった。
だが、今の「主戦場」は土木建設事業ではない。情報技術(IT)をめぐる利権である。
日本の政治と行政のIT化は信じられないほど悲惨な状況にある。それを私たちは安倍政権の新型コロナウイルス対応で、目の当たりにすることになった。持続化給付金をめぐる経済産業省のスキャンダルはその典型だ。
コロナ禍で打撃を受けた中小企業や事業者を支援するこの事業では、膨大な数の企業と事業者にすみやかに資金を提供しなければならない。だが、お粗末なシステムしかない経産省にはその能力がない。結局、電通やパソナなどに事業を丸投げするしかなかった。
民間企業にとって、「ITを使いこなせない政治と行政」は「甘い汁を吸う絶好の場」となる。電通やパソナ、そして多くのIT企業はその機会を大いに活用したに過ぎない。
コロナ対策の要とも言えるPCR検査でも、厚生労働省のIT無能ぶりがあぶり出された。厚労省は傘下の国立感染症研究所と都道府県の衛生研究所・保健所を使ってPCR検査を進める態勢を作った。
ところが、一連の情報を統括するシステムがない。このため、検査の対象者とその結果について、彼らは「ファクスと電話」でやり取りするしかなかった。非能率と混乱の中でPCR検査が「目詰まり」を起こしたのは、当然の帰結だった。
PCR検査の遅れを「都道府県のシステムがバラバラで統一した運用ができなかったから」と弁明する者がいる。笑止千万の言い草だ。中央省庁のITシステムこそ「バラバラ」だからだ。一つの省庁の中ですら異なるシステムを使っており、全体を統括するシステムがないのだ。
都道府県の一番大きな仕事は「中央省庁からの補助金の分配作業」である。中央省庁がバラバラなシステムを使っているから、その補助金を配る都道府県も、それに合わせてバラバラなシステムを場当たり的に構築していくしかなかったのだ。
地方は、「中央省庁の信じられないほど悲惨なIT環境」に付き従って順次、システムを構築していった。その結果、都道府県のITシステムも「信じられないほど悲惨な状況」に陥ってしまったのである。
山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏はそういう状況を熟知し、それを実に巧みに使って自らの企業グループの業績拡大に活かしてきた。ある意味、見事なほどである。
月刊『素晴らしい山形』への私の寄稿は、8月までに19回を重ねた。同誌は9月号でこれまでの主な記事を一挙に掲載したが、ここでは、その一つ、2020年2月号の抜粋を再掲したい。「『棚からボタ餅』3連発、吉村一族企業の太り方」という記事である。
山形県知事の義理のいとこが率いる企業グループは「中央省庁と地方のIT無能ぶり」にどのようにして付け込み、どのような利益を得てきたのか。それは、私たちの納める税金がいかに浪費されてきたかを示すものでもある。
◇ ◇
吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏は1992年に「ケーブルテレビ山形」を設立して、政商としての第一歩を踏み出した。
ケーブルテレビ事業は、当時の郵政省(のち総務省)が国策として推し進めたものだ。全国各地に自治体が出資する「第三セクター会社」を設立させ、ケーブル敷設費の半分を補助金として支給して広めた。普通の民間企業に対して、そのような高率の補助が与えられることはない。
ケーブルテレビ山形の場合も、県内企業に出資を募って設立した後、山形県や山形市など六つの自治体が計2900万円を出資して「第三セクター」としての体裁を整え、そこに億単位の補助金が流し込まれた。
時代の波に乗って、当初、ケーブルテレビ事業は順調に伸びていった。だが、IT革命の進展に伴ってビジネスは暗転する。一般家庭でもインターネットが気軽に利用できるようになるにつれ、「ケーブルを敷設して家庭につなげ、多様なテレビ放送を楽しむ」というビジネスモデルが優位性を失っていったからだ。
今や、若い世代は映画やテレビドラマを、主にアマゾンプライムやネットフリックス、Hulu(フールー)といったインターネットサービスを利用して見る。家でテレビにかじりつく必要はない。端末があれば、ダウンロードして都合のいい時に楽しむことができる。おまけに料金が安く、作品の質と量が勝っているのだから、当然の流れと言える。
(中略)
ケーブルテレビ各社は、敷設したケーブルを通してインターネットサービスを提供するなど生き残りを模索しているが、前途は容易ではない。ケーブルテレビ山形も2016年に「ダイバーシティメディア」と社名を変え、経営の多角化を図って難局を乗り切ろうとしている。
吉村和文氏が2番目に作ったのも「補助金頼りの会社」である。
2001年に経済産業省が「IT装備都市研究事業」という構想を打ち上げ、全国21カ所のモデル地区で実証実験を始めた。山形市もモデル地区に選ばれ、その事業の一翼を担うために設立したのが「バーチャルシティやまがた」という会社だ。ちなみに、当時の山形市長は和文氏の父親で県議から転じた吉村和夫氏である。
この事業は、国がIC(集積回路)を内蔵する多機能カードを作って市民に無料で配布し、市役所や公民館に設置された端末機器で住民票や印鑑証明書の発行を受けられるようにする、という大盤振る舞いの事業だった。登録した商店で買い物をすればポイントがたまるメリットもあるとの触れ込みで、「バーチャルシティやまがた」はこの部分を担うために作られた。
山形市は5万枚の市民カードを希望者に配布したが、利用は広がらなかった。おまけに総務省が翌2002年から住民基本台帳ネットワークを稼働させ、住基カードの発行を始めた。経産省と総務省が何の連携もなく、別々に似たような機能を持つカードを発行したのだ。「省あって国なし」を地で行く愚挙と言わなければならない。
全国で172億円を投じた経産省の実証実験はさしたる成果もなく頓挫し、総務省の住基カードも、その後、マイナンバーカードが導入されて無用の長物と化した。こちらの無駄遣いは、政府と自治体を合わせて1兆円近いとの試算がある。
国民がどんなに勤勉に働いても、こんな税金の使い方をしていたら、国の屋台骨が揺らぎかねない。だが、官僚たちはどこ吹く風。責任を取る者は誰もいない。政商は肥え太り、次の蜜を探して動き回る。
吉村和文氏は多数の企業を率いるかたわら、学校法人東海山形学園の理事長をしている。多忙で、学校法人が運営する東海大山形高校に顔を出すことは少ないが、それでも入学式や卒業式には出席して生徒に語りかける。
彼のブログ「約束の地へ」によれば、2014年4月の入学式では「自分と向かい合うこと、主体的に行動すること」を訴え、さらに「棚ボタとは、棚の下まで行かなければ、ボタ餅は受け取れない。だから、前向きの状態でいること」と述べた。
いささか珍妙な講話だが、彼が歩んできた道を思えば、意味深長ではある。
彼にとっては、郵政省のケーブルテレビ事業が第1のボタ餅、経済産業省のIT装備都市構想が第2のボタ餅なのかもしれない。そして、3番目が2007年頃から推し進められたユビキタス事業である。
ユビキタスとは、アメリカの研究者が考え出した言葉で、「あらゆる場所であらゆるものがコンピューターのネットワークにつながる社会」を意味する。衣服にコンピューターを取り付け、体温を測定して空調を自動調節する。ゴミになるものにコンピューターを取り付け、焼却施設のコンピューターと交信して処理方法を決める。そんな未来社会を思い描いていた。
日本では、坂村健・東大教授が提唱し、総務省がすぐに飛び付いた。2009年にユビキタス構想の推進を決定し、経済危機関連対策と称して195億円の補正予算を組み、全国に予算をばら撒いた。補助金の対象はまたもや「自治体と第三セクター」である。
山形県では鶴岡市や最上町とともにケーブルテレビ山形が補助の対象になり、「新山形ブランドの発信による地域・観光振興事業」に5898万円の補助金が交付された。その補助金で和文氏は「東北サプライズ商店街」なるサイトを立ち上げ、加盟した飲食店や商店の情報発信を始めた。そのサイトによってどの程度、成果が上がり、現在、どのように機能しているのかは窺い知れない。
だが、ITの技術革新は研究者や官僚たちの想定をはるかに超えて急激に進み、「ユビキタス」という言葉そのものが、すでにITの世界では「死語」と化した。スマートフォンが普及し、「あらゆる場所で誰もがネットワークにつながる社会」が到来してしまったからだ。
日本の政府や自治体がIT分野でやっていることは、IT企業の取り組みの「周回遅れ」と言われて久しい。周回遅れのランナーが訳知り顔で旗を振り、実験やら構想やらを唱えるのは滑稽である。その滑稽さを自覚していないところがいっそう悲しい。
この国はどうなってしまうのだろうか。「世の中、なんとかなる」といつも気楽に構えている私のような人間ですら、時々、本当に心配になってくる。
*メールマガジン「風切通信 78」 2020年8月30日
私は30年余り新聞記者として働き、その間、いくつか調査報道も手がけたが、記者としての技量が足りなかったこともあって、いずれも中途半端な結果に終わり、きちんとした成果を上げることはできなかった。
その意味で、生まれ育った山形の政治の実態を調べて暴く今回の取材は、「在職中に成し得なかったことに再挑戦する試み」となっている。情報公開制度をフルに使って公文書の開示を求めることで、どこまで実態に迫れるか。そのケース・スタディでもある。
すでに67歳。体力も気力も現役の時とは比べものにならないほど衰えた。けれども、この調査報道によって、地方で何が起きているのか、それが中央の政治や行政とどのように連動しているのか、いくつか見えてきたことがある。
その一つが「利権の構造は、かつてとはまるで異なるものになってしまった」ということである。私が現役の新聞記者だった頃は、政治がらみのスキャンダルと言えば、土木建設の公共事業をめぐる汚職がメインだった。
だが、今の「主戦場」は土木建設事業ではない。情報技術(IT)をめぐる利権である。
日本の政治と行政のIT化は信じられないほど悲惨な状況にある。それを私たちは安倍政権の新型コロナウイルス対応で、目の当たりにすることになった。持続化給付金をめぐる経済産業省のスキャンダルはその典型だ。
コロナ禍で打撃を受けた中小企業や事業者を支援するこの事業では、膨大な数の企業と事業者にすみやかに資金を提供しなければならない。だが、お粗末なシステムしかない経産省にはその能力がない。結局、電通やパソナなどに事業を丸投げするしかなかった。
民間企業にとって、「ITを使いこなせない政治と行政」は「甘い汁を吸う絶好の場」となる。電通やパソナ、そして多くのIT企業はその機会を大いに活用したに過ぎない。
コロナ対策の要とも言えるPCR検査でも、厚生労働省のIT無能ぶりがあぶり出された。厚労省は傘下の国立感染症研究所と都道府県の衛生研究所・保健所を使ってPCR検査を進める態勢を作った。
ところが、一連の情報を統括するシステムがない。このため、検査の対象者とその結果について、彼らは「ファクスと電話」でやり取りするしかなかった。非能率と混乱の中でPCR検査が「目詰まり」を起こしたのは、当然の帰結だった。
PCR検査の遅れを「都道府県のシステムがバラバラで統一した運用ができなかったから」と弁明する者がいる。笑止千万の言い草だ。中央省庁のITシステムこそ「バラバラ」だからだ。一つの省庁の中ですら異なるシステムを使っており、全体を統括するシステムがないのだ。
都道府県の一番大きな仕事は「中央省庁からの補助金の分配作業」である。中央省庁がバラバラなシステムを使っているから、その補助金を配る都道府県も、それに合わせてバラバラなシステムを場当たり的に構築していくしかなかったのだ。
地方は、「中央省庁の信じられないほど悲惨なIT環境」に付き従って順次、システムを構築していった。その結果、都道府県のITシステムも「信じられないほど悲惨な状況」に陥ってしまったのである。
山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏はそういう状況を熟知し、それを実に巧みに使って自らの企業グループの業績拡大に活かしてきた。ある意味、見事なほどである。
月刊『素晴らしい山形』への私の寄稿は、8月までに19回を重ねた。同誌は9月号でこれまでの主な記事を一挙に掲載したが、ここでは、その一つ、2020年2月号の抜粋を再掲したい。「『棚からボタ餅』3連発、吉村一族企業の太り方」という記事である。
山形県知事の義理のいとこが率いる企業グループは「中央省庁と地方のIT無能ぶり」にどのようにして付け込み、どのような利益を得てきたのか。それは、私たちの納める税金がいかに浪費されてきたかを示すものでもある。
◇ ◇
吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏は1992年に「ケーブルテレビ山形」を設立して、政商としての第一歩を踏み出した。
ケーブルテレビ事業は、当時の郵政省(のち総務省)が国策として推し進めたものだ。全国各地に自治体が出資する「第三セクター会社」を設立させ、ケーブル敷設費の半分を補助金として支給して広めた。普通の民間企業に対して、そのような高率の補助が与えられることはない。
ケーブルテレビ山形の場合も、県内企業に出資を募って設立した後、山形県や山形市など六つの自治体が計2900万円を出資して「第三セクター」としての体裁を整え、そこに億単位の補助金が流し込まれた。
時代の波に乗って、当初、ケーブルテレビ事業は順調に伸びていった。だが、IT革命の進展に伴ってビジネスは暗転する。一般家庭でもインターネットが気軽に利用できるようになるにつれ、「ケーブルを敷設して家庭につなげ、多様なテレビ放送を楽しむ」というビジネスモデルが優位性を失っていったからだ。
今や、若い世代は映画やテレビドラマを、主にアマゾンプライムやネットフリックス、Hulu(フールー)といったインターネットサービスを利用して見る。家でテレビにかじりつく必要はない。端末があれば、ダウンロードして都合のいい時に楽しむことができる。おまけに料金が安く、作品の質と量が勝っているのだから、当然の流れと言える。
(中略)
ケーブルテレビ各社は、敷設したケーブルを通してインターネットサービスを提供するなど生き残りを模索しているが、前途は容易ではない。ケーブルテレビ山形も2016年に「ダイバーシティメディア」と社名を変え、経営の多角化を図って難局を乗り切ろうとしている。
吉村和文氏が2番目に作ったのも「補助金頼りの会社」である。
2001年に経済産業省が「IT装備都市研究事業」という構想を打ち上げ、全国21カ所のモデル地区で実証実験を始めた。山形市もモデル地区に選ばれ、その事業の一翼を担うために設立したのが「バーチャルシティやまがた」という会社だ。ちなみに、当時の山形市長は和文氏の父親で県議から転じた吉村和夫氏である。
この事業は、国がIC(集積回路)を内蔵する多機能カードを作って市民に無料で配布し、市役所や公民館に設置された端末機器で住民票や印鑑証明書の発行を受けられるようにする、という大盤振る舞いの事業だった。登録した商店で買い物をすればポイントがたまるメリットもあるとの触れ込みで、「バーチャルシティやまがた」はこの部分を担うために作られた。
山形市は5万枚の市民カードを希望者に配布したが、利用は広がらなかった。おまけに総務省が翌2002年から住民基本台帳ネットワークを稼働させ、住基カードの発行を始めた。経産省と総務省が何の連携もなく、別々に似たような機能を持つカードを発行したのだ。「省あって国なし」を地で行く愚挙と言わなければならない。
全国で172億円を投じた経産省の実証実験はさしたる成果もなく頓挫し、総務省の住基カードも、その後、マイナンバーカードが導入されて無用の長物と化した。こちらの無駄遣いは、政府と自治体を合わせて1兆円近いとの試算がある。
国民がどんなに勤勉に働いても、こんな税金の使い方をしていたら、国の屋台骨が揺らぎかねない。だが、官僚たちはどこ吹く風。責任を取る者は誰もいない。政商は肥え太り、次の蜜を探して動き回る。
吉村和文氏は多数の企業を率いるかたわら、学校法人東海山形学園の理事長をしている。多忙で、学校法人が運営する東海大山形高校に顔を出すことは少ないが、それでも入学式や卒業式には出席して生徒に語りかける。
彼のブログ「約束の地へ」によれば、2014年4月の入学式では「自分と向かい合うこと、主体的に行動すること」を訴え、さらに「棚ボタとは、棚の下まで行かなければ、ボタ餅は受け取れない。だから、前向きの状態でいること」と述べた。
いささか珍妙な講話だが、彼が歩んできた道を思えば、意味深長ではある。
彼にとっては、郵政省のケーブルテレビ事業が第1のボタ餅、経済産業省のIT装備都市構想が第2のボタ餅なのかもしれない。そして、3番目が2007年頃から推し進められたユビキタス事業である。
ユビキタスとは、アメリカの研究者が考え出した言葉で、「あらゆる場所であらゆるものがコンピューターのネットワークにつながる社会」を意味する。衣服にコンピューターを取り付け、体温を測定して空調を自動調節する。ゴミになるものにコンピューターを取り付け、焼却施設のコンピューターと交信して処理方法を決める。そんな未来社会を思い描いていた。
日本では、坂村健・東大教授が提唱し、総務省がすぐに飛び付いた。2009年にユビキタス構想の推進を決定し、経済危機関連対策と称して195億円の補正予算を組み、全国に予算をばら撒いた。補助金の対象はまたもや「自治体と第三セクター」である。
山形県では鶴岡市や最上町とともにケーブルテレビ山形が補助の対象になり、「新山形ブランドの発信による地域・観光振興事業」に5898万円の補助金が交付された。その補助金で和文氏は「東北サプライズ商店街」なるサイトを立ち上げ、加盟した飲食店や商店の情報発信を始めた。そのサイトによってどの程度、成果が上がり、現在、どのように機能しているのかは窺い知れない。
だが、ITの技術革新は研究者や官僚たちの想定をはるかに超えて急激に進み、「ユビキタス」という言葉そのものが、すでにITの世界では「死語」と化した。スマートフォンが普及し、「あらゆる場所で誰もがネットワークにつながる社会」が到来してしまったからだ。
日本の政府や自治体がIT分野でやっていることは、IT企業の取り組みの「周回遅れ」と言われて久しい。周回遅れのランナーが訳知り顔で旗を振り、実験やら構想やらを唱えるのは滑稽である。その滑稽さを自覚していないところがいっそう悲しい。
この国はどうなってしまうのだろうか。「世の中、なんとかなる」といつも気楽に構えている私のような人間ですら、時々、本当に心配になってくる。
*メールマガジン「風切通信 78」 2020年8月30日
新型コロナウイルスの感染再拡大で開催が危ぶまれる中、第8回最上川縦断カヌー探訪は7月25日(土)、3密回避を心がけつつ、何とか開催に漕ぎ着けました。参加者は、小学2年生の山本明莉<あかり>さん(7歳)から大ベテランの清水孝治さん(79歳)まで45人。これまでで最多のカヌー行になりました。

山形県戸沢村の最上峡芭蕉ライン観光の船着き場から出発、最上川の取水堰「さみだれ大堰」の舟通し水路を通り、酒田市砂越<さごし>の庄内大橋まで20キロを漕ぎ下りました。



≪出発&到着時刻≫
▽7月25日(土) 小雨模様、出発時には雨も上がり曇天
10:00 最上峡芭蕉ライン観光の船着き場(下船場)を出発
10:30 最上川の取水堰「さみだれ大堰」に到着、2グループに分かれて舟通し水路へ
* 舟通し水路の上流側の水門を開けて艇を入れ、下流側の水門を開けて艇を通す
様子は次の写真をご参照ください。
11:05 第2グループが「さみだれ大堰」を通過
11:40 庄内町狩川の最上川河川敷(左岸)に到着、風車を眺めながら河原で昼食
12:40 河川敷を出発
14:40 酒田市砂越<さごし>の庄内大橋のたもと(右岸)にゴール
◎第8回最上川縦断カヌー探訪の動画(ユーチューブ=真鍋賢一撮影)








≪参加者&参加艇≫
45人、38艇
山形県内 25人(山形市7、天童市4、酒田市3、米沢市3、村山市2、鶴岡市1、東根市1、尾花沢市1、大江町1、朝日町1、遊佐町1)
山形県外 20人(福島県4、宮城県3、群馬県3、埼玉県3、神奈川県3、岩手県2、栃木県1、東京都1)




≪カヌーイスト=申込順≫
安部幸男(宮城県柴田町)、阿部俊裕(山形県天童市)、阿部明美(同)、佐竹久(山形県大江町)、結城敏宏(山形県米沢市)、岸浩(福島市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、柴田尚宏(山形市)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、渡辺不二雄(山形市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、黒田美喜男(山形市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、小川治男(山形市)、古川結香子(横浜市戸塚区)、鈴木紳(山形市)、小田原紫朗(山形県酒田市)、石井秀明(さいたま市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、肥後智成(東京都八王子市)、崔鍾八(山形県朝日町)、永嶋英明(山形県鶴岡市)、前川真喜子(岩手県滝沢市)、寒河江洋光(岩手県北上市)、七海孝(福島県鏡石町)、高橋洋(山形県米沢市)、高橋啓子(同)、山田耕右(山形市)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、池田丈人(山形県酒田市)、伊藤信生(同)、国塚則昭(埼玉県毛呂山町)、山本剛生(山形県天童市)、山本明莉(同)、阿部悠子(山形県東根市)、矢萩剛(山形県村山市)、菅原久之(山形県遊佐町)、菊池怜隼(宮城県利府町)、吉田英世(仙台市)、齋藤龍真(山形県村山市)、菊地大二郎(山形市)



≪これまでの参加人数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人、第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人、第7回(2019年)35人


≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体のNPO
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会で構成)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省新庄河川事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、東北電力(株)山形支店、朝日町、戸沢村、酒田市、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
*最上川さみだれ大堰の舟通し水路の通過にあたっては、酒田河川国道事務所飽海<あくみ>
出張所の方々のご協力を得ました。深く感謝いたします。
≪協力≫ 最上峡芭蕉ライン観光(株)
≪第8回カヌー探訪記念のステッカー制作&寄付≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇
≪写真撮影≫ 遠藤大輔▽長岡典己▽長岡佳子
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 佐竹恵子
≪マイクロバスの配車≫ トランスオーシャンバス(山形県新庄市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(山形県大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝

山形県戸沢村の最上峡芭蕉ライン観光の船着き場から出発、最上川の取水堰「さみだれ大堰」の舟通し水路を通り、酒田市砂越<さごし>の庄内大橋まで20キロを漕ぎ下りました。



≪出発&到着時刻≫
▽7月25日(土) 小雨模様、出発時には雨も上がり曇天
10:00 最上峡芭蕉ライン観光の船着き場(下船場)を出発
10:30 最上川の取水堰「さみだれ大堰」に到着、2グループに分かれて舟通し水路へ
* 舟通し水路の上流側の水門を開けて艇を入れ、下流側の水門を開けて艇を通す
様子は次の写真をご参照ください。
11:05 第2グループが「さみだれ大堰」を通過
11:40 庄内町狩川の最上川河川敷(左岸)に到着、風車を眺めながら河原で昼食
12:40 河川敷を出発
14:40 酒田市砂越<さごし>の庄内大橋のたもと(右岸)にゴール
◎第8回最上川縦断カヌー探訪の動画(ユーチューブ=真鍋賢一撮影)








≪参加者&参加艇≫
45人、38艇
山形県内 25人(山形市7、天童市4、酒田市3、米沢市3、村山市2、鶴岡市1、東根市1、尾花沢市1、大江町1、朝日町1、遊佐町1)
山形県外 20人(福島県4、宮城県3、群馬県3、埼玉県3、神奈川県3、岩手県2、栃木県1、東京都1)




≪カヌーイスト=申込順≫
安部幸男(宮城県柴田町)、阿部俊裕(山形県天童市)、阿部明美(同)、佐竹久(山形県大江町)、結城敏宏(山形県米沢市)、岸浩(福島市)、柳沼幸男(福島県泉崎村)、柳沼美由紀(同)、柴田尚宏(山形市)、池田信一郎(埼玉県狭山市)、渡辺不二雄(山形市)、齋藤健司(神奈川県海老名市)、黒田美喜男(山形市)、清水孝治(神奈川県厚木市)、小川治男(山形市)、古川結香子(横浜市戸塚区)、鈴木紳(山形市)、小田原紫朗(山形県酒田市)、石井秀明(さいたま市)、真鍋賢一(栃木県那須烏山市)、肥後智成(東京都八王子市)、崔鍾八(山形県朝日町)、永嶋英明(山形県鶴岡市)、前川真喜子(岩手県滝沢市)、寒河江洋光(岩手県北上市)、七海孝(福島県鏡石町)、高橋洋(山形県米沢市)、高橋啓子(同)、山田耕右(山形市)、斉藤栄司(山形県尾花沢市)、黒澤里司(群馬県藤岡市)、二上哲也(群馬県伊勢崎市)、二上未散(同)、池田丈人(山形県酒田市)、伊藤信生(同)、国塚則昭(埼玉県毛呂山町)、山本剛生(山形県天童市)、山本明莉(同)、阿部悠子(山形県東根市)、矢萩剛(山形県村山市)、菅原久之(山形県遊佐町)、菊池怜隼(宮城県利府町)、吉田英世(仙台市)、齋藤龍真(山形県村山市)、菊地大二郎(山形市)



≪これまでの参加人数≫
第1回(2012年)24人、第2回(2014年)35人、第3回(2015年)30人、第4回(2016年)31人、第5回(2017年)13人、第6回(2018年)26人、第7回(2019年)35人


≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県朝日町) *NPO法人ではなく任意団体のNPO
≪主管≫ カヌー探訪実行委員会(ブナの森、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会で構成)
≪後援≫ 国土交通省山形河川国道事務所、国土交通省新庄河川事務所、国土交通省酒田河川国道事務所、山形県、東北電力(株)山形支店、朝日町、戸沢村、酒田市、山形カヌークラブ、大江カヌー愛好会、山形県カヌー協会、美しい山形・最上川フォーラム
*最上川さみだれ大堰の舟通し水路の通過にあたっては、酒田河川国道事務所飽海<あくみ>
出張所の方々のご協力を得ました。深く感謝いたします。
≪協力≫ 最上峡芭蕉ライン観光(株)
≪第8回カヌー探訪記念のステッカー制作&寄付≫ 真鍋賢一
≪陸上サポート≫ 安藤昭郎▽遠藤大輔▽白田金之助▽長岡典己▽長岡昇
≪写真撮影≫ 遠藤大輔▽長岡典己▽長岡佳子
≪受付設営・交通案内設置≫ 白田金之助
≪弁当の手配・搬送≫ 安藤昭郎▽白田金之助
≪仕出し弁当≫ みずほ(山形県庄内町)
≪漬物提供≫ 佐竹恵子
≪マイクロバスの配車≫ トランスオーシャンバス(山形県新庄市)
≪仮設トイレの設置≫ ライフライン(山形県大江町)
≪ポスター制作≫ ネコノテ・デザインワークス(遠藤大輔)
≪ウェブサイト更新≫ コミュニティアイ(成田賢司、成田香里)
≪横断幕揮毫≫ 成原千枝
山形県の吉村美栄子知事が下した情報不開示決定について、また新たな動きがあった。吉村知事は「開かれた県政」「県政の見える化」などと綺麗ごとを口にするが、実際の行動は真逆だ。自分や取り巻きとって都合の悪い情報は、平気で隠そうとする。

義理のいとこ、吉村和文氏が理事長を務める学校法人東海山形学園から、同じく和文氏が社長をしているダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われた問題をめぐる対応は、その典型である。
学校法人が民間企業から金を借りたのなら、まだ分かる。が、その反対だ。国や県から毎年3億円もの私学助成を受け取っている学校法人が、2016年3月にグループ企業にその1割に相当する金を貸してあげた、というからあきれる。
この融資については、ダイバーシティメディアの公式サイトに決算公告がアップされており、その貸借対照表に明記してある。いわば「周知の事実」なのだが、念のため、学校法人の財務書類でも確認したいと考え、私は山形県が保有する財務書類を情報公開するよう求めた。すんなり出てくる、と思っていた。
ところが、県は財務書類の詳細な部分を白く塗りつぶして開示してきた(一部不開示)。理由は「法人の内部管理に関する情報であって、開示することにより法人の正当な利益を害するおそれがあるため」(県情報公開条例第6条)というものだった。
県の言い分をもう少し丁寧に紹介する。学校法人の財務書類が全面的に明らかにされれば、学校経営の秘密やノウハウが他の高校の関係者の知るところとなり、その学校の競争力を損ね、利益を大きく害することも十分に考えられる、というものだ。
貸借対照表などの財務書類がどういうものか、まるで理解していない空理空論である。一部上場企業は、そうした財務書類を公開することが法的に義務付けられている。それによって「ライバル企業から秘密やノウハウを盗まれ、損をした」などという話は聞いたこともない。財務書類とはそもそも、そうしたことが生じるようなものではないからだ。
「こんな理屈は通るはずがない」と思ったが、それが甘かった。裁判に訴え、「情報不開示処分の取り消し」を求めたところ、山形地方裁判所の裁判官は県の言い分を認めてしまった。「世の中には浮世離れした人もいる」ということを忘れていた。
脇を固めて論理を練り直し、仙台高等裁判所に控訴した。その顚末(てんまつ)はこのサイトの2020年5月1日付のコラムで詳しく紹介したので省くが、仙台高裁の裁判官は今年の3月、県側の主張を一蹴し、財務書類を全面的に開示するよう命じた。
財務書類とはどういうものか。公共性の高い学校法人はどのような説明責任を果たすべきか。情報公開制度はどのような意義を持っているのか。こちらの主張を全面的に認める逆転判決だった。
けれども、吉村知事はそれでへこたれるような政治家ではない。仙台高裁のまっとうな判決に背を向け、すぐさま最高裁判所に上告した。未来に向けて、情報公開制度をどうやって充実したものにしていくのか、といったことにはまるで関心がないようだ。
もう一つの情報不開示は、もっとひどい。
同じ人物が代表を務める会社と法人の間で金の貸し借りをするのは「利益相反行為」になる。一方が得をすれば、もう一方は損をする関係にあるからだ。私立学校法はこうした場合、不正が起きないよう、所轄庁(山形県)は利害関係のない第三者を特別代理人に選んでチェックさせなさい、と規定していた。
そこで、山形県は法律で義務付けられていることを実際に行ったのか、それを知るために特別代理人の選任に関する公文書の開示を請求した。すると、「そういう文書があるかどうかも言えない」と回答してきた(2018年10月23日付)。
「存否(そんぴ)応答拒否」という対応だ。文書を白塗りにして隠すより、もっとこずるい情報隠しだ。理由は、前回と同じく「法人の正当な利益を害するおそれがあるから」である。
確かに、山形県情報公開条例には存否応答拒否もできる、と書いてある。けれども、それは「個人の措置入院に関する文書」や「生活保護の申請書類」「特定企業の開発・投資計画」などが情報公開請求の対象になった場合だ。
こうしたケースでは、それに関する公文書があることを明らかにしただけで、個人や企業の権利を侵害するおそれがある。誰もが納得できる事例だ。その例外的な規定を「法律で義務付けられている行政行為をしたかどうか」を記した公文書の開示請求に対して適用したのである。
「苦し紛れの支離滅裂な不開示処分」と言わざるを得ない。そうせざるを得ない、何か特別な事情があるのだろう。
裁判を二つも起こすのは大変だ。そこで、知事の諮問機関である県情報公開・個人情報保護審査会に「存否応答拒否は不当なので取り消しを求める」と審査を申し立てた。1年8カ月経って、その答申が7月17日にようやく出された。
審査会は法律の専門家で構成されている。審査したメンバーも県の処分にあきれたのだろう。「県の存否応答拒否の決定を取り消す」と記したうえで、次のように苦言を呈した。
「本事案について示された、存否を明らかにしないで開示をしない旨を決定した理由は、甚だ不十分であると言わざるを得ず、(中略)そもそも不開示決定にあたり、慎重かつ十分な検討が尽くされたのか疑問が残る」
審査会のメンバーは県が選ぶ。内規には「答申を尊重して対応する」とある。吉村知事は答申に沿って、そもそもそういう文書があるかどうかまず明らかにしたうえで、どのように対処するか決めるべきである。
とはいえ、吉村知事はそんな潔い政治家ではない。記者会見で対応を問われると、「(これから)裁決に向けた手続きを進めていくので、この段階で所感を申し上げることは差し控えたい」と逃げた。「答申を尊重する」という言葉はついに出なかった。
山形県の公式サイトの「知事室」というコーナーに、記者会見の様子を撮影した動画がアップされている。役人が用意した文章を棒読みし、想定外の質問が出るとオロオロする様子が映っている。
山形県の知事は、情報公開という重要な問題について自分の頭で考え、自分の言葉で語ることができない。悲しい政治家だ。
*メールマガジン「風切通信 77」 2020年8月20日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年8月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪山形県情報公開・個人情報保護審査会の答申全文 2020年7月17日≫
≪写真説明≫
地域月刊誌『素晴らしい山形』2020年8月号の表紙のイラスト
人物は山形県の吉村美栄子知事と義理のいとこ吉村和文氏

義理のいとこ、吉村和文氏が理事長を務める学校法人東海山形学園から、同じく和文氏が社長をしているダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われた問題をめぐる対応は、その典型である。
学校法人が民間企業から金を借りたのなら、まだ分かる。が、その反対だ。国や県から毎年3億円もの私学助成を受け取っている学校法人が、2016年3月にグループ企業にその1割に相当する金を貸してあげた、というからあきれる。
この融資については、ダイバーシティメディアの公式サイトに決算公告がアップされており、その貸借対照表に明記してある。いわば「周知の事実」なのだが、念のため、学校法人の財務書類でも確認したいと考え、私は山形県が保有する財務書類を情報公開するよう求めた。すんなり出てくる、と思っていた。
ところが、県は財務書類の詳細な部分を白く塗りつぶして開示してきた(一部不開示)。理由は「法人の内部管理に関する情報であって、開示することにより法人の正当な利益を害するおそれがあるため」(県情報公開条例第6条)というものだった。
県の言い分をもう少し丁寧に紹介する。学校法人の財務書類が全面的に明らかにされれば、学校経営の秘密やノウハウが他の高校の関係者の知るところとなり、その学校の競争力を損ね、利益を大きく害することも十分に考えられる、というものだ。
貸借対照表などの財務書類がどういうものか、まるで理解していない空理空論である。一部上場企業は、そうした財務書類を公開することが法的に義務付けられている。それによって「ライバル企業から秘密やノウハウを盗まれ、損をした」などという話は聞いたこともない。財務書類とはそもそも、そうしたことが生じるようなものではないからだ。
「こんな理屈は通るはずがない」と思ったが、それが甘かった。裁判に訴え、「情報不開示処分の取り消し」を求めたところ、山形地方裁判所の裁判官は県の言い分を認めてしまった。「世の中には浮世離れした人もいる」ということを忘れていた。
脇を固めて論理を練り直し、仙台高等裁判所に控訴した。その顚末(てんまつ)はこのサイトの2020年5月1日付のコラムで詳しく紹介したので省くが、仙台高裁の裁判官は今年の3月、県側の主張を一蹴し、財務書類を全面的に開示するよう命じた。
財務書類とはどういうものか。公共性の高い学校法人はどのような説明責任を果たすべきか。情報公開制度はどのような意義を持っているのか。こちらの主張を全面的に認める逆転判決だった。
けれども、吉村知事はそれでへこたれるような政治家ではない。仙台高裁のまっとうな判決に背を向け、すぐさま最高裁判所に上告した。未来に向けて、情報公開制度をどうやって充実したものにしていくのか、といったことにはまるで関心がないようだ。
もう一つの情報不開示は、もっとひどい。
同じ人物が代表を務める会社と法人の間で金の貸し借りをするのは「利益相反行為」になる。一方が得をすれば、もう一方は損をする関係にあるからだ。私立学校法はこうした場合、不正が起きないよう、所轄庁(山形県)は利害関係のない第三者を特別代理人に選んでチェックさせなさい、と規定していた。
そこで、山形県は法律で義務付けられていることを実際に行ったのか、それを知るために特別代理人の選任に関する公文書の開示を請求した。すると、「そういう文書があるかどうかも言えない」と回答してきた(2018年10月23日付)。
「存否(そんぴ)応答拒否」という対応だ。文書を白塗りにして隠すより、もっとこずるい情報隠しだ。理由は、前回と同じく「法人の正当な利益を害するおそれがあるから」である。
確かに、山形県情報公開条例には存否応答拒否もできる、と書いてある。けれども、それは「個人の措置入院に関する文書」や「生活保護の申請書類」「特定企業の開発・投資計画」などが情報公開請求の対象になった場合だ。
こうしたケースでは、それに関する公文書があることを明らかにしただけで、個人や企業の権利を侵害するおそれがある。誰もが納得できる事例だ。その例外的な規定を「法律で義務付けられている行政行為をしたかどうか」を記した公文書の開示請求に対して適用したのである。
「苦し紛れの支離滅裂な不開示処分」と言わざるを得ない。そうせざるを得ない、何か特別な事情があるのだろう。
裁判を二つも起こすのは大変だ。そこで、知事の諮問機関である県情報公開・個人情報保護審査会に「存否応答拒否は不当なので取り消しを求める」と審査を申し立てた。1年8カ月経って、その答申が7月17日にようやく出された。
審査会は法律の専門家で構成されている。審査したメンバーも県の処分にあきれたのだろう。「県の存否応答拒否の決定を取り消す」と記したうえで、次のように苦言を呈した。
「本事案について示された、存否を明らかにしないで開示をしない旨を決定した理由は、甚だ不十分であると言わざるを得ず、(中略)そもそも不開示決定にあたり、慎重かつ十分な検討が尽くされたのか疑問が残る」
審査会のメンバーは県が選ぶ。内規には「答申を尊重して対応する」とある。吉村知事は答申に沿って、そもそもそういう文書があるかどうかまず明らかにしたうえで、どのように対処するか決めるべきである。
とはいえ、吉村知事はそんな潔い政治家ではない。記者会見で対応を問われると、「(これから)裁決に向けた手続きを進めていくので、この段階で所感を申し上げることは差し控えたい」と逃げた。「答申を尊重する」という言葉はついに出なかった。
山形県の公式サイトの「知事室」というコーナーに、記者会見の様子を撮影した動画がアップされている。役人が用意した文章を棒読みし、想定外の質問が出るとオロオロする様子が映っている。
山形県の知事は、情報公開という重要な問題について自分の頭で考え、自分の言葉で語ることができない。悲しい政治家だ。
*メールマガジン「風切通信 77」 2020年8月20日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年8月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪山形県情報公開・個人情報保護審査会の答申全文 2020年7月17日≫
≪写真説明≫
地域月刊誌『素晴らしい山形』2020年8月号の表紙のイラスト
人物は山形県の吉村美栄子知事と義理のいとこ吉村和文氏
私は1978年に朝日新聞社に入り、最初の10年余りを静岡と横浜、東京、札幌の4カ所で記者として過ごした。この時期、日本の経済は活力に満ちていた。

鉄鋼業と造船業は世界のトップクラスになり、トヨタや本田は自動車の本場、アメリカで米国製を上回る人気を得つつあった。当時、「産業のコメ」と呼ばれた半導体の生産でも、日本は先頭を走っていた。
ニューヨークのマンハッタン中心部にあるロックフェラー・センタービルを三菱地所が1200億円で買収、松下電器はハリウッドのユニバーサル・スタジオを7800億円で手に入れた。日本経済の絶頂期だった。
なぜ、アメリカは凋落したのか。日本が成功したのはなぜか。
ハーバード大学のエズラ・ヴォ―ゲル教授(社会学)は、日本の政治と経済、社会の構造をつぶさに分析し、『ジャパン アズ ナンバーワン』という本を世に送り出した。副題は「アメリカへの教訓」。1979年のことである。
ヴォ―ゲル氏はこの著書で、日本人の組織運営の巧みさや知識欲の旺盛さ、教育水準の高さなどに加えて、日本独特の高級官僚制度を詳しく紹介し、エリート官僚集団が果たした役割を極めて高く評価している。
「日本で政治的決断を下すグループは二つある。一つは総理大臣をはじめ各大臣を含む政治家グループ。もう一つは高級官僚のグループである。各省庁の重要な実務は政治家ではなく、官僚自身の手によってなされる」
「彼らの給料は年功序列に基づいて上がっていくが、民間企業の同輩に比べると額は少ない。オフィスも質素だし、特別手当の額も少ないが、彼らは自分たちが重要な問題を扱っていることを十分に意識しているし、それをうまく処理することに大きな誇りを感じている」
「彼らは献身的であり、集団としての使命感が彼らを結び付けている」とも記している。経済政策や貿易交渉で高級官僚が果たした役割は確かに大きかった。日本の企業を取りまとめ、牽引し、世界の市場を切り拓いていった。
ヴォ―ゲル氏は、日本企業の組織運営や官僚制度、教育や福祉のあり方から教訓を引き出し、「アメリカの再生に活かさなければならない」と説いた。
そうした日本の優れた制度が壁に突き当たり、むしろ裏目に出始めたのはいつからか。私は「1989年が分岐点だった」と考えている。日本中がバブル景気に沸き立っていた頃だ。
この年の秋、東欧の国々で人々が自由を求めて動き始め、社会主義体制が次々に倒れていった。11月には東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊、12月にはソ連のゴルバチョフ書記長とブッシュ米大統領がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。2年後にはソ連そのものが瓦解した。
この1989年の初めに、私は国際報道部門に異動になり、激流に投げ込まれるような経験を重ねた。日本がバブルに浮かれている間に、世界の構造はがらりと変わってしまった。
情報技術(IT)の世界でも、この前後に大変革が起きた。ITの巨人IBMが主役の座から滑り落ち、マイクロソフトが取って代わったのだ。
パソコンの性能が向上し、これに合わせてマイクロソフトはウィンドウズという使い勝手の良いソフトを開発して大々的に売り出した。大型コンピューターを中心にして端末をピラミッド状に配置する大規模集中処理システムから、パソコンを連結して対応する個別分散処理システムへ。ITの世界でも、パラダイム(基本的な枠組み)シフトが起きた。
1990年代、日本はバブルが弾け、銀行や証券会社の倒産が相次いで金融危機の始末に追われた。国内のゴタゴタに振り回されて世界の激変に対応するのが遅れ、時は虚しく流れた。識者は「失われた10年」と言う。
それが巡り巡って、どんな悲惨な結果をもたらすか。私たちは、今回の新型コロナウイルス禍でまざまざと見ることになった。
厚生労働省は豪華クルーズ船、ダイヤモンドプリンセス号での感染を封じ込めることに失敗した。加えて、自らの傘下にある国立感染症研究所と地方の衛生研究所を使ってPCR検査を実施することにこだわり、いつまで経っても検査体制を拡充することができなかった。海外の最新検査機器を導入して国民のために活用するより、自分たちの権益を守ることに固執したからだ。
安倍晋三首相は窮屈そうなマスクを着け、それを国民に配ることにこだわり続けた。感染の勢いが収まり、マスクが店頭に並ぶ頃にやっと届く始末。
外出や営業の自粛で苦しむ人々への支援策を盛り込んだ補正予算の執行は、もっとひどかった。第一次補正予算が25兆6914億円、第二次補正予算が31兆9114億円。首相は「空前絶後、世界最大規模」と胸を張ったが、財源はすべて借金だ。
官僚たちにはそれをきちんと配る力がない。中央省庁のIT環境は民間に比べ、ひどく遅れている。膨大なデータを処理するシステムもノウハウもない。結果、民間に丸投げした。
丸投げしても、その手続きが適正で税金がちゃんと国民の手元に届くのならまだ我慢できる。だが、持続化給付金をめぐる経済産業省の仕事のでたらめぶりはすさまじいものだった。
コロナ禍で打撃を受けた中小企業や個人事業主に最大200万円を給付するこの事業を受注したのは「サービスデザイン推進協議会」という一般社団法人だ。
この法人の実態を最初に暴いたのは週刊文春である。記者が東京・築地にあるこの法人の事務所を訪ね、「入り口にカギがかかっている。連絡先の電話番号もない。法律で義務付けられている決算公告を一度も出していない。幽霊法人だ」と報じた(6月4日号)。
2016年にこの法人を作ったのは広告最大手の電通と人材派遣のパソナ、IT業務の外注を請け負うトランスコスモスである。政府の事業を直接受注し、公金を電通の口座から振り込むのは案配が悪い。そこで、トンネル法人を経由させる手法を編み出したようだ。
法人の初代代表理事、赤池学氏(評論家)も、次の代表理事の笠原英一氏(立教大学客員教授)もメディアの取材に「私はお飾り。実務のことは分かりません」と答えている。正直ではあるが、無責任な人たちだ。
この法人が持続化給付金の事業を769億円で受注、そこから20億円を中抜きして電通に749億円で再委託、さらに電通の子会社やパソナなどに再々委託していた(図1参照)。法人の事務所がある築地は、電通の本社がある汐留から歩いて数分だ。
要するに、仕事のできない経済産業省に代わって民間企業が請け負い、たっぷりと甘い汁を吸っているのである。どんな汁を吸ってきたのか。朝日新聞が6月2日付で一覧表を載せている。図2に見るように、最初は「おもてなし規格認証事業」なるものから始め、IT絡みの事業を次々に受注してきた。
コロナ禍は「格好のビジネスチャンス」となった。電通グループは持続化給付金に続いて、経済産業省が主導する「Go To キャンペーン」も取るつもりだったようだ。「コロナが収まったら観光や外食に行きましょう。政府がその費用を補助します」という事業だ。
こちらは事業規模1兆6794億円、委託費は3095億円と、持続化給付金よりはるかにおいしい。
経済産業省はこの事業の説明会を6月1日に行い、8日に公募を締め切る段取りだった。本誌の昨年2月号で山形県が観光キャンペーンを企画し、吉村美栄子知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いるケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)に業務委託した経緯をお伝えしたが、それと同じ手口だ。
公平さを装って募集はするものの、委託する業者はあらかじめ決めている。募集期間を短くして競争相手が対応できないようにしてしまうのだ(山形県の場合はさらに業務の仕様にも細工を施した)。なりふり構わず突き進む役人のやり口は、国も県も変わらない。
その実態がメディアで暴露されるに至り、さすがに「Go To キャンペーン」の公募は仕切り直しになった。
持続化給付金にしろ、このキャンペーンにしろ、経済産業省の官僚たちの仕事ぶりは、ヴォ―ゲル教授が描いた官僚の姿からはかけ離れている。「国家の将来を見据えて考え、行動する」といった誇りはかけらも感じられない。見えてくるのは「税金の使い方は俺たちが好きなように決める」という思い上がりだけだ。
そうした官僚の典型が経済産業省の中小企業庁長官、前田泰宏氏である。アメリカのテキサスで開かれる大規模な見本市のたびに、シェアハウスを借りて「前田ハウス」と称し、民間企業の幹部たちと親しく交わっていた。
その中に、「サービスデザイン推進協議会」の設立で中心的な役割を果たした元電通幹部の平川健司氏もいた。「前田ハウス」問題は、経済産業省と電通の癒着の象徴と言える。日本では目立つことはできないが、「遠いテキサスなら平気だろう」と考えたようだ。その実態を写真付きで詳細に暴いたのも週刊文春の記者たちである(6月18日号)。
奥歯に物が挟まったような書き方ではなく、核心にズバリと切り込み、実名で赤裸々に書いていく。ここ数年の週刊文春の報道は秀逸だ。新聞各紙も「週刊文春によると」と書いて引用するようになった。かつては「一部報道によると」といった表現しか使おうとしなかったが、彼我の取材力の差を認めざるを得なくなったのだろう。
週刊新潮にも、たまに興味深い記事が載る。6月25日号に「Go To キャンペーンも食い物にする『パソナ』の政治家饗宴リスト」という記事があった。
コロナ対策の補正予算事業を電通と一緒になって貪(むさぼ)る人材派遣のパソナは、東京・元麻布の高級住宅街に「仁風林(にんぷうりん)」なるゲストハウスを構えている。ここに政治家や経済産業省の幹部、有名人らを招いて夜な夜なパーティーを繰り広げ、もてなしているのだとか。
接待するのはパソナの南部靖之代表の「美人秘書軍団」。歌手のASKAが覚醒剤取締法違反で逮捕された際、一緒に逮捕された愛人もこの秘書軍団の一人で、ここでのパーティーで知り合ったという。
招待された政治家のリストも興味深かったが、そのパソナの現在の会長は小泉政権で経済財政担当相を務めた竹中平蔵氏である、という記述に私は目をむいた。担当大臣として派遣労働を製造業にまで拡大した、その張本人が人材派遣会社の会長に収まっていたとは・・・・。
これまで本誌で、吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏の政商ぶりを報じてきたが、そうした構図を何百倍、何千倍にしたスケールで政府の公金を貪る政商が東京にはゴロゴロいる。電通やパソナは「政商たちの巣窟(そうくつ)」であり、安倍政権はとてつもなく気前のいいスポンサーと言うべきか。
世界の流れに乗り遅れ、日本の政治と行政のシステム、産業構造は根元から揺らぎ始めている。救いは、私たちの国には自分の仕事に誇りを持ち、自らの務めを誠実に果たそうとする人がまだたくさんいることだ。
新型コロナウイルスの感染が広がり、政府が右往左往しても、亡くなった人を現在のレベルで抑えられているのは、そういう人たちが医療や介護などそれぞれの現場で踏ん張ってくれているからだろう。
「失われた10年」を取り戻すことはできない。けれども、そういう人たちがいる限り、苦難を乗り越え、新しい道を切り拓くことはできる。私たちの社会にはまだその力がある、と信じたい。
*メールマガジン「風切通信 76」 2020年6月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年7月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎電通との関係について国会で答弁する前田泰宏・中小企業庁長官
https://gogotamu2019.blog.fc2.com/blog-entry-11668.html

鉄鋼業と造船業は世界のトップクラスになり、トヨタや本田は自動車の本場、アメリカで米国製を上回る人気を得つつあった。当時、「産業のコメ」と呼ばれた半導体の生産でも、日本は先頭を走っていた。
ニューヨークのマンハッタン中心部にあるロックフェラー・センタービルを三菱地所が1200億円で買収、松下電器はハリウッドのユニバーサル・スタジオを7800億円で手に入れた。日本経済の絶頂期だった。
なぜ、アメリカは凋落したのか。日本が成功したのはなぜか。
ハーバード大学のエズラ・ヴォ―ゲル教授(社会学)は、日本の政治と経済、社会の構造をつぶさに分析し、『ジャパン アズ ナンバーワン』という本を世に送り出した。副題は「アメリカへの教訓」。1979年のことである。
ヴォ―ゲル氏はこの著書で、日本人の組織運営の巧みさや知識欲の旺盛さ、教育水準の高さなどに加えて、日本独特の高級官僚制度を詳しく紹介し、エリート官僚集団が果たした役割を極めて高く評価している。
「日本で政治的決断を下すグループは二つある。一つは総理大臣をはじめ各大臣を含む政治家グループ。もう一つは高級官僚のグループである。各省庁の重要な実務は政治家ではなく、官僚自身の手によってなされる」
「彼らの給料は年功序列に基づいて上がっていくが、民間企業の同輩に比べると額は少ない。オフィスも質素だし、特別手当の額も少ないが、彼らは自分たちが重要な問題を扱っていることを十分に意識しているし、それをうまく処理することに大きな誇りを感じている」
「彼らは献身的であり、集団としての使命感が彼らを結び付けている」とも記している。経済政策や貿易交渉で高級官僚が果たした役割は確かに大きかった。日本の企業を取りまとめ、牽引し、世界の市場を切り拓いていった。
ヴォ―ゲル氏は、日本企業の組織運営や官僚制度、教育や福祉のあり方から教訓を引き出し、「アメリカの再生に活かさなければならない」と説いた。
そうした日本の優れた制度が壁に突き当たり、むしろ裏目に出始めたのはいつからか。私は「1989年が分岐点だった」と考えている。日本中がバブル景気に沸き立っていた頃だ。
この年の秋、東欧の国々で人々が自由を求めて動き始め、社会主義体制が次々に倒れていった。11月には東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊、12月にはソ連のゴルバチョフ書記長とブッシュ米大統領がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。2年後にはソ連そのものが瓦解した。
この1989年の初めに、私は国際報道部門に異動になり、激流に投げ込まれるような経験を重ねた。日本がバブルに浮かれている間に、世界の構造はがらりと変わってしまった。
情報技術(IT)の世界でも、この前後に大変革が起きた。ITの巨人IBMが主役の座から滑り落ち、マイクロソフトが取って代わったのだ。
パソコンの性能が向上し、これに合わせてマイクロソフトはウィンドウズという使い勝手の良いソフトを開発して大々的に売り出した。大型コンピューターを中心にして端末をピラミッド状に配置する大規模集中処理システムから、パソコンを連結して対応する個別分散処理システムへ。ITの世界でも、パラダイム(基本的な枠組み)シフトが起きた。
1990年代、日本はバブルが弾け、銀行や証券会社の倒産が相次いで金融危機の始末に追われた。国内のゴタゴタに振り回されて世界の激変に対応するのが遅れ、時は虚しく流れた。識者は「失われた10年」と言う。
それが巡り巡って、どんな悲惨な結果をもたらすか。私たちは、今回の新型コロナウイルス禍でまざまざと見ることになった。
厚生労働省は豪華クルーズ船、ダイヤモンドプリンセス号での感染を封じ込めることに失敗した。加えて、自らの傘下にある国立感染症研究所と地方の衛生研究所を使ってPCR検査を実施することにこだわり、いつまで経っても検査体制を拡充することができなかった。海外の最新検査機器を導入して国民のために活用するより、自分たちの権益を守ることに固執したからだ。
安倍晋三首相は窮屈そうなマスクを着け、それを国民に配ることにこだわり続けた。感染の勢いが収まり、マスクが店頭に並ぶ頃にやっと届く始末。
外出や営業の自粛で苦しむ人々への支援策を盛り込んだ補正予算の執行は、もっとひどかった。第一次補正予算が25兆6914億円、第二次補正予算が31兆9114億円。首相は「空前絶後、世界最大規模」と胸を張ったが、財源はすべて借金だ。
官僚たちにはそれをきちんと配る力がない。中央省庁のIT環境は民間に比べ、ひどく遅れている。膨大なデータを処理するシステムもノウハウもない。結果、民間に丸投げした。
丸投げしても、その手続きが適正で税金がちゃんと国民の手元に届くのならまだ我慢できる。だが、持続化給付金をめぐる経済産業省の仕事のでたらめぶりはすさまじいものだった。
コロナ禍で打撃を受けた中小企業や個人事業主に最大200万円を給付するこの事業を受注したのは「サービスデザイン推進協議会」という一般社団法人だ。
この法人の実態を最初に暴いたのは週刊文春である。記者が東京・築地にあるこの法人の事務所を訪ね、「入り口にカギがかかっている。連絡先の電話番号もない。法律で義務付けられている決算公告を一度も出していない。幽霊法人だ」と報じた(6月4日号)。
2016年にこの法人を作ったのは広告最大手の電通と人材派遣のパソナ、IT業務の外注を請け負うトランスコスモスである。政府の事業を直接受注し、公金を電通の口座から振り込むのは案配が悪い。そこで、トンネル法人を経由させる手法を編み出したようだ。
法人の初代代表理事、赤池学氏(評論家)も、次の代表理事の笠原英一氏(立教大学客員教授)もメディアの取材に「私はお飾り。実務のことは分かりません」と答えている。正直ではあるが、無責任な人たちだ。
この法人が持続化給付金の事業を769億円で受注、そこから20億円を中抜きして電通に749億円で再委託、さらに電通の子会社やパソナなどに再々委託していた(図1参照)。法人の事務所がある築地は、電通の本社がある汐留から歩いて数分だ。
要するに、仕事のできない経済産業省に代わって民間企業が請け負い、たっぷりと甘い汁を吸っているのである。どんな汁を吸ってきたのか。朝日新聞が6月2日付で一覧表を載せている。図2に見るように、最初は「おもてなし規格認証事業」なるものから始め、IT絡みの事業を次々に受注してきた。
コロナ禍は「格好のビジネスチャンス」となった。電通グループは持続化給付金に続いて、経済産業省が主導する「Go To キャンペーン」も取るつもりだったようだ。「コロナが収まったら観光や外食に行きましょう。政府がその費用を補助します」という事業だ。
こちらは事業規模1兆6794億円、委託費は3095億円と、持続化給付金よりはるかにおいしい。
経済産業省はこの事業の説明会を6月1日に行い、8日に公募を締め切る段取りだった。本誌の昨年2月号で山形県が観光キャンペーンを企画し、吉村美栄子知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いるケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)に業務委託した経緯をお伝えしたが、それと同じ手口だ。
公平さを装って募集はするものの、委託する業者はあらかじめ決めている。募集期間を短くして競争相手が対応できないようにしてしまうのだ(山形県の場合はさらに業務の仕様にも細工を施した)。なりふり構わず突き進む役人のやり口は、国も県も変わらない。
その実態がメディアで暴露されるに至り、さすがに「Go To キャンペーン」の公募は仕切り直しになった。
持続化給付金にしろ、このキャンペーンにしろ、経済産業省の官僚たちの仕事ぶりは、ヴォ―ゲル教授が描いた官僚の姿からはかけ離れている。「国家の将来を見据えて考え、行動する」といった誇りはかけらも感じられない。見えてくるのは「税金の使い方は俺たちが好きなように決める」という思い上がりだけだ。
そうした官僚の典型が経済産業省の中小企業庁長官、前田泰宏氏である。アメリカのテキサスで開かれる大規模な見本市のたびに、シェアハウスを借りて「前田ハウス」と称し、民間企業の幹部たちと親しく交わっていた。
その中に、「サービスデザイン推進協議会」の設立で中心的な役割を果たした元電通幹部の平川健司氏もいた。「前田ハウス」問題は、経済産業省と電通の癒着の象徴と言える。日本では目立つことはできないが、「遠いテキサスなら平気だろう」と考えたようだ。その実態を写真付きで詳細に暴いたのも週刊文春の記者たちである(6月18日号)。
奥歯に物が挟まったような書き方ではなく、核心にズバリと切り込み、実名で赤裸々に書いていく。ここ数年の週刊文春の報道は秀逸だ。新聞各紙も「週刊文春によると」と書いて引用するようになった。かつては「一部報道によると」といった表現しか使おうとしなかったが、彼我の取材力の差を認めざるを得なくなったのだろう。
週刊新潮にも、たまに興味深い記事が載る。6月25日号に「Go To キャンペーンも食い物にする『パソナ』の政治家饗宴リスト」という記事があった。
コロナ対策の補正予算事業を電通と一緒になって貪(むさぼ)る人材派遣のパソナは、東京・元麻布の高級住宅街に「仁風林(にんぷうりん)」なるゲストハウスを構えている。ここに政治家や経済産業省の幹部、有名人らを招いて夜な夜なパーティーを繰り広げ、もてなしているのだとか。
接待するのはパソナの南部靖之代表の「美人秘書軍団」。歌手のASKAが覚醒剤取締法違反で逮捕された際、一緒に逮捕された愛人もこの秘書軍団の一人で、ここでのパーティーで知り合ったという。
招待された政治家のリストも興味深かったが、そのパソナの現在の会長は小泉政権で経済財政担当相を務めた竹中平蔵氏である、という記述に私は目をむいた。担当大臣として派遣労働を製造業にまで拡大した、その張本人が人材派遣会社の会長に収まっていたとは・・・・。
これまで本誌で、吉村美栄子・山形県知事の義理のいとこ、吉村和文氏の政商ぶりを報じてきたが、そうした構図を何百倍、何千倍にしたスケールで政府の公金を貪る政商が東京にはゴロゴロいる。電通やパソナは「政商たちの巣窟(そうくつ)」であり、安倍政権はとてつもなく気前のいいスポンサーと言うべきか。
世界の流れに乗り遅れ、日本の政治と行政のシステム、産業構造は根元から揺らぎ始めている。救いは、私たちの国には自分の仕事に誇りを持ち、自らの務めを誠実に果たそうとする人がまだたくさんいることだ。
新型コロナウイルスの感染が広がり、政府が右往左往しても、亡くなった人を現在のレベルで抑えられているのは、そういう人たちが医療や介護などそれぞれの現場で踏ん張ってくれているからだろう。
「失われた10年」を取り戻すことはできない。けれども、そういう人たちがいる限り、苦難を乗り越え、新しい道を切り拓くことはできる。私たちの社会にはまだその力がある、と信じたい。
*メールマガジン「風切通信 76」 2020年6月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年7月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎電通との関係について国会で答弁する前田泰宏・中小企業庁長官
https://gogotamu2019.blog.fc2.com/blog-entry-11668.html
第8回最上川縦断カヌー探訪を7月25日(土)に予定通り開催します。
東京や大阪で新型コロナウイルスの感染がまた広がり始め、心配される状況ですが、「3密」の状況を作らないように十分に気を付け、川下りを楽しむ予定です。出発前に参加予定者の検温を実施し、マイクロバスでの移動の際にはマスクの着用をお願いします。
参加予定者は46人です。山形県内が26人、県外が20人。最年少は7歳、最ベテランは79歳です。
東京や大阪で新型コロナウイルスの感染がまた広がり始め、心配される状況ですが、「3密」の状況を作らないように十分に気を付け、川下りを楽しむ予定です。出発前に参加予定者の検温を実施し、マイクロバスでの移動の際にはマスクの着用をお願いします。
参加予定者は46人です。山形県内が26人、県外が20人。最年少は7歳、最ベテランは79歳です。
大きなニュースがあれば、小さなニュースは吹き飛ばされてしまう。切ないけれども、それは避けられないことだ。
新聞の紙面には限りがある。テレビニュースにも時間の枠がある。新型コロナウイルスのような大きなニュースがあれば、ほかのことが入り込む余地は極端に少なくなる。取材する記者も「コロナ関連の話題」を追って走り回る。
そのあおりで影が薄くなってしまった県内ニュースの一つに、自民党の「次期知事選挙の候補者選び」がある。
山形県の吉村美栄子知事は2009年に自民党が支援する現職を破って初当選した。その後は無投票で再選、さらに三選された。政権党にとって、とりわけ保守基盤が厚い山形の自民党にとってつらいことである。このままズルズルと四選を許すのか。県民の関心は高い。
昨年9月、自民党県連の会長に就任した加藤鮎子衆院議員は「(3度目の)不戦敗はあり得ない」と述べ、2021年1月の知事選では独自候補を擁立する方針を明らかにした。「候補者は公募で決める」と宣言し、今年の2月末締め切りで候補者を募った。
山形市選出の大内理加(りか)県議がまず、名乗りを上げた。続いて、山形市出身で国土交通省から復興庁に転じた官僚の伊藤洋(よう)氏も意欲を示した。この頃までは、メディアも2人の経歴などを丁寧に報じていた。
ところが、3月末に山形県内でも新型コロナの感染者が確認されるや、報道は「コロナ一色」に染まっていった。公募に応じた2人による討論会を開くこともできない。暮らしや経済への影響が大きく、外出自粛が続く中ではやむを得ないことだった。
この間、実は深刻なことが進行していた。事情通によれば、知事選の公募に応じた2人について自民党本部が「身体検査」を実施したところ、片方は「候補者として不適格」という判定が下されていたのだ。
自民党の「身体検査」の主な判定基準は二つ、金と色、である。政治資金や資産についてはどちらも問題はなかったが、伊藤氏は2番目のハードルをクリアできなかったという。さまざまな噂が飛び交っているものの、確たることは分からない。
いずれにしても、3月下旬には「伊藤氏は降りる」という方向が固まっていた。山形新聞が「伊藤氏、公募申請を取り下げ」と短く報じたのは4月11日。本人が自民党県連の加藤鮎子会長あてに「一身上の都合で辞退する」と届け出た、という内容だった。
取材した記者は舞台裏で飛び交った話をたくさん聞いているはずなのに、1行も書いていない。「裏付ける証拠がないから」と言い訳するのだろうが、こんな書き方しかしないから「新聞離れ」が進むのではないか。
少なくとも、自民党本部の調査によって伊藤氏に「一身上の都合」が生じたこと、その結果、公募申請の取り下げに追い込まれたことが分かるように書くべきだろう。
伊藤氏が辞退したため、自民党は身内の大内理加氏を知事候補にかついで戦うしかなくなった。「選挙にめっぽう強い女性県議」ではあるが、それは選挙区の山形市内でのこと。米沢や鶴岡、酒田には何の足場もない。
「吉村知事の人気は高く、支持基盤も厚い。四選出馬を決めれば、大内氏に勝ち目はない」という観測がもっぱらだ。先読みが得意な人は「彼女の狙いは次の参院選ではないか。たとえ知事選で敗れても、有力候補として名乗り出ることができる」と見る。確かに、自民党県連は「次の参院選の候補者」のめどが立たず、窮している。
肝心の吉村知事はまだ、去就を明らかにしていない。山形新聞が「四選出馬についてどう考えているか」と水を向けても、「期待する声が大きくなってきている。大変ありがたいことだと思う。しかし、今はしっかりと県政にまい進することが私の最大の役割で使命」と受け流している(2月3日付の記事)。余裕しゃくしゃく、である。
山形県の自民党にとって、知事選はずっと「紛糾の種」になってきた。
2005年の知事選では、自民党県議の多くが現職で四選を目指す高橋和雄知事を推したのに、高橋氏とそりが合わない加藤紘一衆院議員は日銀出身の斎藤弘氏を担ぎ出して争った。
分裂選挙の結果は、4千票余りの僅差で斎藤氏の勝利。現職の高橋氏が74歳と高齢だったこと、それに「笹かまぼこ事件」が響いたとされる。高橋氏が不在の折にゼネコン大手の幹部が2000万円の現金入りの笹かまぼこを知事室に置いていった事件である。高橋氏はすぐに返したが、「金権体質の現れ」と攻撃され、打撃を受けた。
この時の遺恨(いこん)が2009年の知事選に影を落とした。民主党や社民党が担いだ吉村美栄子氏を高橋陣営や岸宏一参院議員、一部の自民党県議が応援したのだ。自民党は再び分裂状態に陥り、吉村美栄子氏は1万票余りの差で現職の斎藤氏を破り、知事の座を射止めた。
加藤紘一氏は2005年の知事選では「産婆役」として、2009年には「墓掘り人」としての役割を果たした。そしてさらに、吉村知事の無投票再選に終わった2013年の知事選でもキーマンになった。
その前年、2012年に加藤氏は健康を害し、歩くのも困難な状態のまま12月の総選挙に臨み、同じ自民党系の阿部寿一氏(元酒田市長)に敗れた。自らの選挙区で保守分裂の選挙を繰り広げたうえ、高齢のため比例東北ブロックでの重複立候補も認められず、比例復活で議席を確保することもできなかった。
かつて、自民党の名門派閥「宏池会」のプリンスと呼ばれ、一時は有力な首相候補でもあった加藤氏の惨めな敗戦に、自民党県連は混乱状態に陥る。年明けにあった知事選には候補者を立てることもできず、吉村美栄子氏に再選を許す結果になった。
意地の悪い見方をすれば、加藤紘一氏こそ「吉村知事誕生の伏線を張った功労者」であり、「2013年の無投票再選の立役者」と言える。
自民党県連の元会長、遠藤利明衆院議員も「吉村県政への貢献度」では、加藤氏に引けを取らない。
2016年夏の参院選で、遠藤氏はJA全農山形出身の月野薫氏を自民党の候補者として担ぎ出した。当時の最大の争点はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に反対か否か。対立候補の元参院議員、舟山康江氏は強硬な反対論者で農民の支持を集めていた。
遠藤氏は「全農出身の候補者を立てれば農協票は割れ、それに頼る舟山陣営を切り崩すことができる」と踏んで、月野氏を擁立したようだが、肝心の候補者本人に魅力が乏しかった。結果は12万票の大差での敗北。遠藤氏はその敗戦処理に追われ、翌2017年の知事選対策どころではなくなった。
結局、吉村知事に挑戦する者は現れず、無投票での三選を許した。遠藤氏の選挙下手のおかげ、と言うべきだろう。ちなみに、今回、知事候補の公募に応じた伊藤洋氏を引っ張ってきたのも遠藤氏という。つくづく「人を見る目」がない。
遠藤氏は「フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設」を唱えている。地元の山形新聞がキャンペーンを張り、吉村知事が力を入れている政策だ。これに後追いで乗っかった。フル規格の両新幹線建設構想が時代錯誤の政策で、実現の可能性がおよそないことは、すでに何度も書いた。「時代の流れを読む力もない」と言うべきだろう。
そもそも、山形県の自民党は本気で吉村県政を倒す気があるのだろうか。
吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループにはこの10年で40億円もの公金が流れ込んでいる(表再掲)。その詳細はこれまで、月刊『素晴らしい山形』で報じてきた通りだ。
もっとも多額の公金が支出されているのは、和文氏が理事長を務める学校法人、東海山形学園である。毎年3億円前後、多い年には10億円を超える私学助成が支給されている。なのに、その学校法人からグループの中核企業、ダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われたりしている。学校法人の監督権限を持つ山形県はその内容を調べようともしない。
当方が独自に調べるため、学校法人の財務書類の情報公開を求めても、「当該法人の利益を害するおそれがある」との理由で肝心な部分を開示しない。「非開示は不当」と裁判に訴え、仙台高裁で開示を命じる判決が出ても、最高裁に上告して開示を引き延ばす。
吉村知事が観光キャンペーンを始めれば、県幹部が露骨な方法でグループ企業に業務委託をして潤わせる。その幹部が抜擢され、出世していく。知事が奥羽、羽越新幹線の建設を唱え始めれば、その関連業務もまたグループ企業に委託するーー。
中国の故事「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」に反するどころではない。吉村一族企業は、瓜(うり)畑にずかずかと入り込み、スモモの木の下にブルーシートを張って幹を揺さぶり、収穫して恥じるところがない。
次の知事選に本気で取り組もうとするなら、自民党はこうした問題を一つひとつ追及し、吉村知事の下で何が起きているのか、明らかにする必要がある。
長期県政による澱(よど)みを許さないように、知事の多選を制限する条例を制定することも考えられる。
2003年に東京都の杉並区が多選自粛条例を制定して以来、神奈川県が2007年に「知事は連続3期12年まで」との条例を作るなど、すでに先行例が多数ある。いったん制定した条例を廃止した自治体もあり、難しい面もあるが、山形県のように同じ人物が権力を握り続け、専横と腐敗を招いた歴史がある土地では試みる価値が十分にある。
県議会で過半数を握る自民党がその気になれば、すぐにでも制定できる条例だ。その条例を突き付けて、吉村知事の四選出馬を牽制することも考えられる。
要は、自分たちが住む土地をより良いものにするために、次の世代により良いものを残すために、何かを為す気概があるかどうかだ。その気概があるからこそ、政治を志したのではないのか。
吉村県政の1期目は新鮮だった。前任の斎藤知事の冷たい政策に凍えていた県民の心を包み込むような温かさも感じた。けれども、2期目以降、高い人気を背にして「おごり」が見え始めた。知事に当選した際のキャッチフレーズ「温かい県政」は、いつしか「身内と取り巻きに温かい県政」に転じていった。
救いがたいのは「時代の流れ」にあまりにも鈍感なことだ。情報技術(IT)革命が進み、変化のスピードが増しているのに、まったく対応できていない。山形県庁はいまだに「紙とハンコ」で仕事をしている。行政事務の電子決裁化はロードマップすらない。
トップに「このままでは時代に取り残されてしまう」という思いがないからだろう。フル規格の新幹線建設などという「20世紀の夢」を追い続ける人物に、次の4年を託すのは耐えがたい。私たちに続く世代は、21世紀の後半を生きなければならないのだから。
*メールマガジン「風切通信 75」 2020年5月31日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年6月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
*加藤紘一氏は2016年、岸宏一氏は2017年に死去。
新聞の紙面には限りがある。テレビニュースにも時間の枠がある。新型コロナウイルスのような大きなニュースがあれば、ほかのことが入り込む余地は極端に少なくなる。取材する記者も「コロナ関連の話題」を追って走り回る。
そのあおりで影が薄くなってしまった県内ニュースの一つに、自民党の「次期知事選挙の候補者選び」がある。
山形県の吉村美栄子知事は2009年に自民党が支援する現職を破って初当選した。その後は無投票で再選、さらに三選された。政権党にとって、とりわけ保守基盤が厚い山形の自民党にとってつらいことである。このままズルズルと四選を許すのか。県民の関心は高い。
昨年9月、自民党県連の会長に就任した加藤鮎子衆院議員は「(3度目の)不戦敗はあり得ない」と述べ、2021年1月の知事選では独自候補を擁立する方針を明らかにした。「候補者は公募で決める」と宣言し、今年の2月末締め切りで候補者を募った。
山形市選出の大内理加(りか)県議がまず、名乗りを上げた。続いて、山形市出身で国土交通省から復興庁に転じた官僚の伊藤洋(よう)氏も意欲を示した。この頃までは、メディアも2人の経歴などを丁寧に報じていた。
ところが、3月末に山形県内でも新型コロナの感染者が確認されるや、報道は「コロナ一色」に染まっていった。公募に応じた2人による討論会を開くこともできない。暮らしや経済への影響が大きく、外出自粛が続く中ではやむを得ないことだった。
この間、実は深刻なことが進行していた。事情通によれば、知事選の公募に応じた2人について自民党本部が「身体検査」を実施したところ、片方は「候補者として不適格」という判定が下されていたのだ。
自民党の「身体検査」の主な判定基準は二つ、金と色、である。政治資金や資産についてはどちらも問題はなかったが、伊藤氏は2番目のハードルをクリアできなかったという。さまざまな噂が飛び交っているものの、確たることは分からない。
いずれにしても、3月下旬には「伊藤氏は降りる」という方向が固まっていた。山形新聞が「伊藤氏、公募申請を取り下げ」と短く報じたのは4月11日。本人が自民党県連の加藤鮎子会長あてに「一身上の都合で辞退する」と届け出た、という内容だった。
取材した記者は舞台裏で飛び交った話をたくさん聞いているはずなのに、1行も書いていない。「裏付ける証拠がないから」と言い訳するのだろうが、こんな書き方しかしないから「新聞離れ」が進むのではないか。
少なくとも、自民党本部の調査によって伊藤氏に「一身上の都合」が生じたこと、その結果、公募申請の取り下げに追い込まれたことが分かるように書くべきだろう。
伊藤氏が辞退したため、自民党は身内の大内理加氏を知事候補にかついで戦うしかなくなった。「選挙にめっぽう強い女性県議」ではあるが、それは選挙区の山形市内でのこと。米沢や鶴岡、酒田には何の足場もない。
「吉村知事の人気は高く、支持基盤も厚い。四選出馬を決めれば、大内氏に勝ち目はない」という観測がもっぱらだ。先読みが得意な人は「彼女の狙いは次の参院選ではないか。たとえ知事選で敗れても、有力候補として名乗り出ることができる」と見る。確かに、自民党県連は「次の参院選の候補者」のめどが立たず、窮している。
肝心の吉村知事はまだ、去就を明らかにしていない。山形新聞が「四選出馬についてどう考えているか」と水を向けても、「期待する声が大きくなってきている。大変ありがたいことだと思う。しかし、今はしっかりと県政にまい進することが私の最大の役割で使命」と受け流している(2月3日付の記事)。余裕しゃくしゃく、である。
山形県の自民党にとって、知事選はずっと「紛糾の種」になってきた。
2005年の知事選では、自民党県議の多くが現職で四選を目指す高橋和雄知事を推したのに、高橋氏とそりが合わない加藤紘一衆院議員は日銀出身の斎藤弘氏を担ぎ出して争った。
分裂選挙の結果は、4千票余りの僅差で斎藤氏の勝利。現職の高橋氏が74歳と高齢だったこと、それに「笹かまぼこ事件」が響いたとされる。高橋氏が不在の折にゼネコン大手の幹部が2000万円の現金入りの笹かまぼこを知事室に置いていった事件である。高橋氏はすぐに返したが、「金権体質の現れ」と攻撃され、打撃を受けた。
この時の遺恨(いこん)が2009年の知事選に影を落とした。民主党や社民党が担いだ吉村美栄子氏を高橋陣営や岸宏一参院議員、一部の自民党県議が応援したのだ。自民党は再び分裂状態に陥り、吉村美栄子氏は1万票余りの差で現職の斎藤氏を破り、知事の座を射止めた。
加藤紘一氏は2005年の知事選では「産婆役」として、2009年には「墓掘り人」としての役割を果たした。そしてさらに、吉村知事の無投票再選に終わった2013年の知事選でもキーマンになった。
その前年、2012年に加藤氏は健康を害し、歩くのも困難な状態のまま12月の総選挙に臨み、同じ自民党系の阿部寿一氏(元酒田市長)に敗れた。自らの選挙区で保守分裂の選挙を繰り広げたうえ、高齢のため比例東北ブロックでの重複立候補も認められず、比例復活で議席を確保することもできなかった。
かつて、自民党の名門派閥「宏池会」のプリンスと呼ばれ、一時は有力な首相候補でもあった加藤氏の惨めな敗戦に、自民党県連は混乱状態に陥る。年明けにあった知事選には候補者を立てることもできず、吉村美栄子氏に再選を許す結果になった。
意地の悪い見方をすれば、加藤紘一氏こそ「吉村知事誕生の伏線を張った功労者」であり、「2013年の無投票再選の立役者」と言える。
自民党県連の元会長、遠藤利明衆院議員も「吉村県政への貢献度」では、加藤氏に引けを取らない。
2016年夏の参院選で、遠藤氏はJA全農山形出身の月野薫氏を自民党の候補者として担ぎ出した。当時の最大の争点はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に反対か否か。対立候補の元参院議員、舟山康江氏は強硬な反対論者で農民の支持を集めていた。
遠藤氏は「全農出身の候補者を立てれば農協票は割れ、それに頼る舟山陣営を切り崩すことができる」と踏んで、月野氏を擁立したようだが、肝心の候補者本人に魅力が乏しかった。結果は12万票の大差での敗北。遠藤氏はその敗戦処理に追われ、翌2017年の知事選対策どころではなくなった。
結局、吉村知事に挑戦する者は現れず、無投票での三選を許した。遠藤氏の選挙下手のおかげ、と言うべきだろう。ちなみに、今回、知事候補の公募に応じた伊藤洋氏を引っ張ってきたのも遠藤氏という。つくづく「人を見る目」がない。
遠藤氏は「フル規格の奥羽、羽越新幹線の建設」を唱えている。地元の山形新聞がキャンペーンを張り、吉村知事が力を入れている政策だ。これに後追いで乗っかった。フル規格の両新幹線建設構想が時代錯誤の政策で、実現の可能性がおよそないことは、すでに何度も書いた。「時代の流れを読む力もない」と言うべきだろう。
そもそも、山形県の自民党は本気で吉村県政を倒す気があるのだろうか。
吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループにはこの10年で40億円もの公金が流れ込んでいる(表再掲)。その詳細はこれまで、月刊『素晴らしい山形』で報じてきた通りだ。
もっとも多額の公金が支出されているのは、和文氏が理事長を務める学校法人、東海山形学園である。毎年3億円前後、多い年には10億円を超える私学助成が支給されている。なのに、その学校法人からグループの中核企業、ダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)に3000万円の融資が行われたりしている。学校法人の監督権限を持つ山形県はその内容を調べようともしない。
当方が独自に調べるため、学校法人の財務書類の情報公開を求めても、「当該法人の利益を害するおそれがある」との理由で肝心な部分を開示しない。「非開示は不当」と裁判に訴え、仙台高裁で開示を命じる判決が出ても、最高裁に上告して開示を引き延ばす。
吉村知事が観光キャンペーンを始めれば、県幹部が露骨な方法でグループ企業に業務委託をして潤わせる。その幹部が抜擢され、出世していく。知事が奥羽、羽越新幹線の建設を唱え始めれば、その関連業務もまたグループ企業に委託するーー。
中国の故事「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」に反するどころではない。吉村一族企業は、瓜(うり)畑にずかずかと入り込み、スモモの木の下にブルーシートを張って幹を揺さぶり、収穫して恥じるところがない。
次の知事選に本気で取り組もうとするなら、自民党はこうした問題を一つひとつ追及し、吉村知事の下で何が起きているのか、明らかにする必要がある。
長期県政による澱(よど)みを許さないように、知事の多選を制限する条例を制定することも考えられる。
2003年に東京都の杉並区が多選自粛条例を制定して以来、神奈川県が2007年に「知事は連続3期12年まで」との条例を作るなど、すでに先行例が多数ある。いったん制定した条例を廃止した自治体もあり、難しい面もあるが、山形県のように同じ人物が権力を握り続け、専横と腐敗を招いた歴史がある土地では試みる価値が十分にある。
県議会で過半数を握る自民党がその気になれば、すぐにでも制定できる条例だ。その条例を突き付けて、吉村知事の四選出馬を牽制することも考えられる。
要は、自分たちが住む土地をより良いものにするために、次の世代により良いものを残すために、何かを為す気概があるかどうかだ。その気概があるからこそ、政治を志したのではないのか。
吉村県政の1期目は新鮮だった。前任の斎藤知事の冷たい政策に凍えていた県民の心を包み込むような温かさも感じた。けれども、2期目以降、高い人気を背にして「おごり」が見え始めた。知事に当選した際のキャッチフレーズ「温かい県政」は、いつしか「身内と取り巻きに温かい県政」に転じていった。
救いがたいのは「時代の流れ」にあまりにも鈍感なことだ。情報技術(IT)革命が進み、変化のスピードが増しているのに、まったく対応できていない。山形県庁はいまだに「紙とハンコ」で仕事をしている。行政事務の電子決裁化はロードマップすらない。
トップに「このままでは時代に取り残されてしまう」という思いがないからだろう。フル規格の新幹線建設などという「20世紀の夢」を追い続ける人物に、次の4年を託すのは耐えがたい。私たちに続く世代は、21世紀の後半を生きなければならないのだから。
*メールマガジン「風切通信 75」 2020年5月31日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年6月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
*加藤紘一氏は2016年、岸宏一氏は2017年に死去。
日本の新型コロナウイルス対策の失敗は、マスクとPCR検査に見て取れる。安倍晋三首相は「全国民にマスクを配る」と大見得を切って巨費を投じたが、アベノマスクは髪の毛が入っていたり、汚れていたりでトラブル続きだ。いつ届くのか見当もつかない。

そもそも、国家の一大事に首相が「マスクの配布」に躍起になること自体がおかしい。マスクの確保も確かに大切だが、全体を見渡して、もっと優先しなければならないことがいくつもある。感染しているかどうかを確認するためのPCR検査の拡充もその一つである。
新型コロナウイルスの感染がどのくらい広がっているのか。それを可能な限り正確に把握することは、すべての対策の基本だからだ。人口10万人当たりの検査実施数を見れば、最初から現在まで、日本のPCR検査は主要先進国の中で最低レベルにある。
なぜ、日本のPCR検査の実施数はこんなに少ないのか。メディアはさまざまな分析を試みているが、ズバリと核心をつく報道が少なすぎる。この問題の核心にあるのは、感染症対策の中心になるべき厚生労働省が自らの権益と縄張りにこだわり、政治家も思い切った決断ができなかったことにあるのではないか。
日経新聞の関連グループサイト「日経バイオテク」が2月20日に報じた「新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情」は、問題の核心に迫った優れた報道の一つだ。PCR検査とはそもそもどのような検査なのか。それを詳しく解説したうえで、厚生労働省が「自前の検査」にこだわった経過を丁寧に報じている。
厚生労働省は国立感染症研究所(感染研)を中心にして、都道府県や政令市の衛生研究所が検査を担う、というこれまでの感染症対策を踏襲した。中国が1月中旬に公表した新型コロナウイルスの遺伝子配列を基にして、感染研は自前の検査方法を開発し、各地の衛生研究所に検査のやり方を伝授した。そのうえで、検査受け付けの窓口を都道府県の保健所に一本化した。
これが「PCR検査の目詰まり」を引き起こし、検査の拡充を阻害する結果を招いた。
世界規模の感染症対策において、PCR検査技術の先頭を走っているのはメガファーマと呼ばれる巨大製薬会社だ。アメリカのファイザー、スイスのノバルティスとロシュがトップスリー。日本の製薬会社はトップテンに1社もなく、武田薬品工業がかろうじて16位に入っているのが現実だ(2015年時点)。
新しい感染症が見つかれば、これらの巨大製薬会社はただちにPCR検査方法の確立と検査キットの開発に走り出す。中でもスイスのロシュが強い。世界保健機関(WHO)がスイスにあり、ロシュはWHOと緊密に連携しながら感染症対策にあたっている。情報の入手も早く、開発に巨費を投じることもできる。
今回も、ロシュはいち早く検査の試薬を開発し、1月末には効率のいい検査装置を製造して売り出した。その後、24時間で4000人分の検体を全自動で解析できる最新式の装置も市場に投入した。欧州各国は速やかにこれらの装置を購入して検査に使い、感染症対策に活かしている。
ところが、前述したように厚生労働省は自前の開発にこだわり、国立感染症研究所に検査手法を開発させ、これを全国に広めようとした。「何でもかんでも外国に依存するわけにはいかない。自前で開発する技術とノウハウを維持し、磨く必要がある」という言い分も理解できないではない。
けれども、それは平時の論理だ。未曾有の事態には「前例にとらわれない決断」をしなければならない。マンパワーの面でも資金面でも、感染研が世界の大手製薬会社に太刀打ちできないのは自明のことだ。自力での検査手法とキットの開発にこだわった結果が「先進国で最低レベルのPCR検査状況」となって現れた、と見るべきだろう。
検査の窓口を都道府県や政令市の保健所一本に絞ったことも、PCR検査の拡充を阻むことになった。これも「前例踏襲」の結果だ。非常時には「前例のない対応」を決断しなければならない。前例や縄張りにこだわらず、大学の医学部、民間の検査会社などあらゆる力を総動員しなければならない。なのに、厚労省はその決断ができず、前例を踏襲した。安倍政権もその壁を突き破ることができなかった。
感染研のスタッフも都道府県の衛生研究所も保健所も、持てる力を最大限に発揮しようとしていることは疑いない。その人たちを責めることはできない。問題は「一生懸命に働いたかどうか」ではない。「世界を見渡して、最善の策は何か」という発想で対処できない、日本の政治家と官僚たちの度量の狭さにある。
感染症対策のように、検査技術や情報技術(IT)の最先端の知見を縦横に活用する必要がある分野で、日本はすでに「二流のレベル」にあるのではないか。そうした自省と自覚がないから、出だしでつまずき、混乱が続いているのだ。
山梨大学の島田真路学長は日本の感染症対策を批判し、「未曾有の事態の今だからこそ、権威にひるまず、権力に盲従しない、真実一路の姿勢がすべての医療者に求められている」と語った(朝日新聞5月6日付)。あまりの惨状に、医学の専門家として黙っていられなくなったのだろう。
こうした批判に対して、頑迷な厚労省官僚や彼らに追随する専門家は「新型コロナウイルスによる死者数を見れば、人口当たりで日本はもっとも少ない国の一つだ。対策は全体としてうまくいっている」と反論するのかもしれない。
確かに、公式に発表された死者だけを基にすれば、日本の感染症対策はうまく行っているようにも見える。が、それは日本の医療の水準の高さと医療関係者の献身的な努力に支えられている面が多いのではないか。
さらに言えば、「新型コロナウイルスによる死者」として公表されているデータそのものについても、今後、精密な解析をしなければならない。PCR検査が進まないせいで、日本では新型コロナウイルスの感染者を正確に把握できていない。「新型コロナが原因なのに無関係」とされた死者がどのくらいいるのか。それを検証しなければ、「死者は少ない」ということも簡単には言えないだろう。
非常事態の日々から日常の暮らしへと徐々に戻っていくためにも、PCR検査の拡充は欠かせない。感染状況と「ぶり返し」の兆候を見極めながら、経済活動の規制を緩め、普通の暮らしへと段階的に戻っていかなければならないからだ。
救いは、大阪府の吉村洋文知事のように政府の指針を待つことなく、独自に自粛の解除に向けた基準を打ち出す動きが出てきたことだ。政府や厚労省が権益や縄張りの壁を乗り越えられないでいるなら、自分たちでその壁を乗り越えるしかない。
それは政府と地方の役割を根本から見直し、新しい形を創り出していくことにつながるだろう。
*メールマガジン「風切通信 74」 2020年5月7日
≪写真説明とSource≫
PCR検査のための検体採取
https://www.recordchina.co.jp/b784821-s0-c10-d0135.html
≪参考サイト&記事≫
◎新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情(日経バイオテク2020年2月20日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/20/02/28/06625/
◎製薬業界の世界ランキング(ビジネスIT 2015年4月21日)
https://www.sbbit.jp/article/cont1/29564
◎新型肺炎「日本の対応」は不備だらけの大問題(上昌広・医療ガバナンス研究所理事長、東洋経済オンライン2020年2月6日)
https://toyokeizai.net/articles/-/329046
◎PCR検査体制、地方から異議(朝日新聞2020年5月6日付)

そもそも、国家の一大事に首相が「マスクの配布」に躍起になること自体がおかしい。マスクの確保も確かに大切だが、全体を見渡して、もっと優先しなければならないことがいくつもある。感染しているかどうかを確認するためのPCR検査の拡充もその一つである。
新型コロナウイルスの感染がどのくらい広がっているのか。それを可能な限り正確に把握することは、すべての対策の基本だからだ。人口10万人当たりの検査実施数を見れば、最初から現在まで、日本のPCR検査は主要先進国の中で最低レベルにある。
なぜ、日本のPCR検査の実施数はこんなに少ないのか。メディアはさまざまな分析を試みているが、ズバリと核心をつく報道が少なすぎる。この問題の核心にあるのは、感染症対策の中心になるべき厚生労働省が自らの権益と縄張りにこだわり、政治家も思い切った決断ができなかったことにあるのではないか。
日経新聞の関連グループサイト「日経バイオテク」が2月20日に報じた「新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情」は、問題の核心に迫った優れた報道の一つだ。PCR検査とはそもそもどのような検査なのか。それを詳しく解説したうえで、厚生労働省が「自前の検査」にこだわった経過を丁寧に報じている。
厚生労働省は国立感染症研究所(感染研)を中心にして、都道府県や政令市の衛生研究所が検査を担う、というこれまでの感染症対策を踏襲した。中国が1月中旬に公表した新型コロナウイルスの遺伝子配列を基にして、感染研は自前の検査方法を開発し、各地の衛生研究所に検査のやり方を伝授した。そのうえで、検査受け付けの窓口を都道府県の保健所に一本化した。
これが「PCR検査の目詰まり」を引き起こし、検査の拡充を阻害する結果を招いた。
世界規模の感染症対策において、PCR検査技術の先頭を走っているのはメガファーマと呼ばれる巨大製薬会社だ。アメリカのファイザー、スイスのノバルティスとロシュがトップスリー。日本の製薬会社はトップテンに1社もなく、武田薬品工業がかろうじて16位に入っているのが現実だ(2015年時点)。
新しい感染症が見つかれば、これらの巨大製薬会社はただちにPCR検査方法の確立と検査キットの開発に走り出す。中でもスイスのロシュが強い。世界保健機関(WHO)がスイスにあり、ロシュはWHOと緊密に連携しながら感染症対策にあたっている。情報の入手も早く、開発に巨費を投じることもできる。
今回も、ロシュはいち早く検査の試薬を開発し、1月末には効率のいい検査装置を製造して売り出した。その後、24時間で4000人分の検体を全自動で解析できる最新式の装置も市場に投入した。欧州各国は速やかにこれらの装置を購入して検査に使い、感染症対策に活かしている。
ところが、前述したように厚生労働省は自前の開発にこだわり、国立感染症研究所に検査手法を開発させ、これを全国に広めようとした。「何でもかんでも外国に依存するわけにはいかない。自前で開発する技術とノウハウを維持し、磨く必要がある」という言い分も理解できないではない。
けれども、それは平時の論理だ。未曾有の事態には「前例にとらわれない決断」をしなければならない。マンパワーの面でも資金面でも、感染研が世界の大手製薬会社に太刀打ちできないのは自明のことだ。自力での検査手法とキットの開発にこだわった結果が「先進国で最低レベルのPCR検査状況」となって現れた、と見るべきだろう。
検査の窓口を都道府県や政令市の保健所一本に絞ったことも、PCR検査の拡充を阻むことになった。これも「前例踏襲」の結果だ。非常時には「前例のない対応」を決断しなければならない。前例や縄張りにこだわらず、大学の医学部、民間の検査会社などあらゆる力を総動員しなければならない。なのに、厚労省はその決断ができず、前例を踏襲した。安倍政権もその壁を突き破ることができなかった。
感染研のスタッフも都道府県の衛生研究所も保健所も、持てる力を最大限に発揮しようとしていることは疑いない。その人たちを責めることはできない。問題は「一生懸命に働いたかどうか」ではない。「世界を見渡して、最善の策は何か」という発想で対処できない、日本の政治家と官僚たちの度量の狭さにある。
感染症対策のように、検査技術や情報技術(IT)の最先端の知見を縦横に活用する必要がある分野で、日本はすでに「二流のレベル」にあるのではないか。そうした自省と自覚がないから、出だしでつまずき、混乱が続いているのだ。
山梨大学の島田真路学長は日本の感染症対策を批判し、「未曾有の事態の今だからこそ、権威にひるまず、権力に盲従しない、真実一路の姿勢がすべての医療者に求められている」と語った(朝日新聞5月6日付)。あまりの惨状に、医学の専門家として黙っていられなくなったのだろう。
こうした批判に対して、頑迷な厚労省官僚や彼らに追随する専門家は「新型コロナウイルスによる死者数を見れば、人口当たりで日本はもっとも少ない国の一つだ。対策は全体としてうまくいっている」と反論するのかもしれない。
確かに、公式に発表された死者だけを基にすれば、日本の感染症対策はうまく行っているようにも見える。が、それは日本の医療の水準の高さと医療関係者の献身的な努力に支えられている面が多いのではないか。
さらに言えば、「新型コロナウイルスによる死者」として公表されているデータそのものについても、今後、精密な解析をしなければならない。PCR検査が進まないせいで、日本では新型コロナウイルスの感染者を正確に把握できていない。「新型コロナが原因なのに無関係」とされた死者がどのくらいいるのか。それを検証しなければ、「死者は少ない」ということも簡単には言えないだろう。
非常事態の日々から日常の暮らしへと徐々に戻っていくためにも、PCR検査の拡充は欠かせない。感染状況と「ぶり返し」の兆候を見極めながら、経済活動の規制を緩め、普通の暮らしへと段階的に戻っていかなければならないからだ。
救いは、大阪府の吉村洋文知事のように政府の指針を待つことなく、独自に自粛の解除に向けた基準を打ち出す動きが出てきたことだ。政府や厚労省が権益や縄張りの壁を乗り越えられないでいるなら、自分たちでその壁を乗り越えるしかない。
それは政府と地方の役割を根本から見直し、新しい形を創り出していくことにつながるだろう。
*メールマガジン「風切通信 74」 2020年5月7日
≪写真説明とSource≫
PCR検査のための検体採取
https://www.recordchina.co.jp/b784821-s0-c10-d0135.html
≪参考サイト&記事≫
◎新型コロナウイルス、検査体制の拡充が後手に回った裏事情(日経バイオテク2020年2月20日)
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/20/02/28/06625/
◎製薬業界の世界ランキング(ビジネスIT 2015年4月21日)
https://www.sbbit.jp/article/cont1/29564
◎新型肺炎「日本の対応」は不備だらけの大問題(上昌広・医療ガバナンス研究所理事長、東洋経済オンライン2020年2月6日)
https://toyokeizai.net/articles/-/329046
◎PCR検査体制、地方から異議(朝日新聞2020年5月6日付)
新型コロナウイルスの感染が広がってから、「ウイルスに打ち勝つ」という言葉をしばしば耳にするようになった。この言葉を口にする人たちは、それがどんなにおこがましいことか分かっているのだろうか。

ウイルスが誕生したのは数十億年前とされる。地球ではその後、何度も生物の大絶滅が起きた。大規模な地殻変動や隕石の衝突によって、命あるものの多くが滅びた。恐竜もその一つだ。ウイルスはそうした大絶滅を何度もくぐり抜けてきた。
私たち人間はどうか。先祖が登場したのは数百万年前、地球の長い歴史から見れば、つい最近のことだ。戦争や疫病で多くの人が命を失ったことはあるが、大絶滅の危機を経験したことはまだ一度もない。
ウイルスにしてみれば、「ぽっと出の若造が何をほざく」と笑い飛ばしたいところだろう。「打ち勝つ」ことができるような相手ではない。私たちにできるのは、手を尽くして被害を最小限に食い止めること、そして、治療薬やワクチンを開発して共に生きる道を切り拓くことくらいだ。
感染防止策も生活と経済の維持も、そういう前提に立って進めることが大切だろう。どこかの大統領のように「これは戦争だ」などと意気がってみても、何の意味もない。
わが山形県の吉村美栄子知事も、あまり意味のないことに力を注いでいる。県境で検査をして「ウイルスの侵入を食い止める」と提唱したものの、「道路を走っている車を停めることはできない」と言われ、パーキングエリアでドライバーのおでこに検温計を向けることくらいしかできなかった。
そんなことに人員と資金を注ぐより、医療や介護の現場で奮闘している人たちを支えるために全力を尽くすべきだ。仕事を失い、暮らしが立ち行かなくなっている人たちに一刻も早く手を差し伸べるために何をすべきか。それも急がなければならない。
物事に優先順位をつけ、それに応じて力の注ぎ具合を考える。吉村知事はそれが苦手のようだ。農産物の売り込みや観光客の誘致といった「分かりやすいこと」には一生懸命になるが、情報技術(IT)を行政や医療にどう活かしていくか、といった重要かつ複雑な問題になると、途端に「専門家や部下にお任せ」となる。人の話に耳を傾け、自分で深く考え、そのうえで判断する。それができないのだろう。
未来に向かって開かれた社会をつくっていくうえで、情報公開制度をどうやってより充実したものにしていくか。それも、間違いなく優先しなければならないことの一つだが、吉村知事には「後回しにしてもいいこと」と映っているようだ。
そうでなければ、私が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したのに対して、詳細な部分を白塗りにして開示する(表1再掲)というようなことも起きなかったはずだ。
この白塗り文書が出てくるまでの経緯は表2の通りである。
4年前の秋、月刊『素晴らしい山形』が吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏の率いるダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)と学校法人、東海山形学園の間で不可解な取引があった、と報じた。
会社の貸借対照表によると、学校法人から会社に3000万円の融資が行われていたのだ。学校法人が会社から金を借りたのではない。その逆だ。しかも、和文氏は会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている。お互いの利益がぶつかる「利益相反行為」に該当する。
この学校法人は東海大山形高校を運営しており、政府と山形県から毎年、3億円前後の私学助成を受けている。その助成額の1割に相当する金がグループ企業に貸し付けられていたことになる。そんなことが許されるのか。法に触れないのか。
会社の貸借対照表に3000万円の融資が記載されているなら、学校法人の貸借対照表にも記載されているはずだ。私は、それを確認するため山形県に情報公開請求を行った。私学助成を受ける学校法人は監督官庁の山形県に財務書類を提出している。県にはすべての書類がそろっているからだ。
政府や自治体が持っている情報は国民のものであり、原則として公開しなければならない。私は、すんなり出てくるものと思っていた。ところが、詳しい部分が白く塗られて出てきたのだ。
県学事文書課の担当者から「非開示の理由」を聞かされて驚いた。「会計文書の詳しい内容を明らかにすると、学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」(県情報公開条例第6条に該当)というものだった。
納得できず、2017年7月に非開示処分の取り消しを求めて山形地方裁判所に提訴した。一審の経過と結末は本誌2019年6月号で詳しく書いた。山形地裁は「財務関係書類の詳細な部分が明らかになれば、学校法人の経営上の秘密やノウハウが判明して他の高校の知るところとなり、学校法人の競争力を損ね、利益を大きく害することになることも考えられる」という県側の主張をほぼそのまま認め、私の請求を棄却した。
当方が唖然(あぜん)するような、およそ現実離れした空理空論に基づく判決だった。すぐさま、仙台高等裁判所に控訴した。
ただ、敗訴したのは「こちらの主張に甘いところがあったからかもしれない」と反省した。そもそも、財務書類とは歴史的にどのようにして成立したのか。経済的、社会的にどのような役割を果たしてきたのか。日本では今、学校法人の財務書類の公開がどこまで進んでいるのか。そうしたことを丁寧に記した控訴理由書を出して、高裁の判断を仰いだ。
幸いなことに、仙台高裁の裁判官は私立学校の現状にきちんと目を向け、情報公開制度の意義も深く理解している人たちだった。3月26日に一審判決を取り消し、山形県に東海山形学園の財務書類をすべて開示するよう命じる判決を下した(表3の骨子参照)。
私立学校は手厚い私学助成を受けており、文部科学省も積極的に財務情報を公開するよう促してきた。これを受けて、大学を運営する学校法人だけでなく、高校を設置する学校法人についても自発的に財務書類を一般に公表している事例は少なくない。
高裁の判決はそうした現実を踏まえ、「財務書類の詳細な内容を開示すれば、学校法人の正当な利益を害するおそれがある」という山形県側の主張を一蹴した。
判決には、文部科学相の諮問機関である「大学設置・学校法人審議会」の小委員会の検討結果を引用する形で、「情報公開は社会全体の流れであり、学校法人が説明責任を果たすという観点からも、財務情報を公開することが求められている。それによって、社会から評価を受け、質の向上が図られていく」という表現も盛り込まれた。
情報公開制度がこれからどういう役割を果たしていくのか。どれほど重要な制度であるか。そうしたことを見据えて、開かれた社会を築こうとする人たちの背中を押す判決だった。
学校法人の財務書類に関しては昨年5月、地裁判決の直後に私立学校法が改正され、文部科学省が所管する学校法人(大学や短大を運営)については財務書類の公開が法的に義務づけられるに至った。
高校などを運営する都道府県所管の学校法人については「公開の義務づけ」が見送られたものの、文科省は「それぞれの実情に応じて積極的に公表するよう期待する」との通知を出した。この法改正も高裁の判断に大きな影響を及ぼしたとみられる。
吉村美栄子知事はこの判決を不服として、最高裁判所に上告した。仙台高裁の論理は明快で説得力があり、覆ることはないと信じているが、知事は上告することによって社会に二つのメッセージを発することになった。
一つは、情報公開の重要性について鈍感な政治家である、ということ。もう一つは、山形地裁と仙台高裁の判決の質的な違いについて理解できず、周りにもその違いについて解説してくれる人が誰もいない、ということだ。
質的な違いとは「時代が求めていること、社会を前に進めるために為すべきこと」を強烈に意識しているかどうか、という点である。判決文からそれが読み取れないとしたら、政治家として悲しすぎる。
東海山形学園からダイバーシティメディアへの3000万円融資問題については、財務書類の非開示問題に加えて、もう一つ、大きな問題がある。本文の途中でも触れた「利益相反行為」という問題だ。
同じ人物が会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている状態で双方が取引をするのは、典型的な「利益相反行為」になる。一方の利益になることは他方の不利益になるからだ。
このような場合、株式会社なら株主総会もしくは取締役会の承認を得れば済むが、学校法人の場合はそうはいかない。私立学校法に特別の規定があり、監督官庁(山形県)は特別代理人を選んでその取引に問題がないかチェックさせなければならないことになっている。
そこで、私は県に対して「この取引にかかわる特別代理人の選任に関する文書」の情報公開を求めた。すると、県は「存否(そんぴ)応答拒否」という暴挙に出た。そういう文書があるかどうかも明らかにしないまま、情報公開を拒否したのである(2018年10月23日付)。
理由はまたしても、県情報公開条例の第6条「(法人の内部管理に関する情報であって)その存否を明らかにすることにより、法人の正当な利益を害するおそれがあるため」だった。都合が悪い情報は、この条項を使えば出さなくても済む、と考えているようだ。
冗談ではない。法律に定められた手続きを踏んだのかどうか、それを記した文書が「法人の正当な利益を害する」などということはあるわけがない。もし、文書の中に「法人の内部管理に関する情報」が含まれているなら、その部分を伏せて開示すれば済む話だ。文書があるかどうかすら答えたくない、何か特別な事情があるのだろう。
今度は裁判ではなく、県情報公開・個人情報保護審査会に異議を申し立てた。外部の有識者5人で構成される県の諮問機関だ(表4)。すでに実質的な審査は終わっており、結果を待っている段階だ。こちらも「県の存否応答拒否は不当」との裁決が出るものと期待している。
この3000万円融資問題は、知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループの「アキレス腱」である。
これに目を凝らせば、吉村知事の権勢を背に巨額の公金を手にしてきた企業グループの中で何が起きているのか、何のために学校法人の3000万円を必要としたのか、少し見えてくるかもしれない。
*メールマガジン「風切通信 73」 2020年5月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年5月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。見出しも異なります。
◎仙台高裁の判決全文
≪写真説明&Source≫
山形県境でドライバーに検温計を向ける県職員
https://ameblo.jp/event-x/entry-12590606440.html

ウイルスが誕生したのは数十億年前とされる。地球ではその後、何度も生物の大絶滅が起きた。大規模な地殻変動や隕石の衝突によって、命あるものの多くが滅びた。恐竜もその一つだ。ウイルスはそうした大絶滅を何度もくぐり抜けてきた。
私たち人間はどうか。先祖が登場したのは数百万年前、地球の長い歴史から見れば、つい最近のことだ。戦争や疫病で多くの人が命を失ったことはあるが、大絶滅の危機を経験したことはまだ一度もない。
ウイルスにしてみれば、「ぽっと出の若造が何をほざく」と笑い飛ばしたいところだろう。「打ち勝つ」ことができるような相手ではない。私たちにできるのは、手を尽くして被害を最小限に食い止めること、そして、治療薬やワクチンを開発して共に生きる道を切り拓くことくらいだ。
感染防止策も生活と経済の維持も、そういう前提に立って進めることが大切だろう。どこかの大統領のように「これは戦争だ」などと意気がってみても、何の意味もない。
わが山形県の吉村美栄子知事も、あまり意味のないことに力を注いでいる。県境で検査をして「ウイルスの侵入を食い止める」と提唱したものの、「道路を走っている車を停めることはできない」と言われ、パーキングエリアでドライバーのおでこに検温計を向けることくらいしかできなかった。
そんなことに人員と資金を注ぐより、医療や介護の現場で奮闘している人たちを支えるために全力を尽くすべきだ。仕事を失い、暮らしが立ち行かなくなっている人たちに一刻も早く手を差し伸べるために何をすべきか。それも急がなければならない。
物事に優先順位をつけ、それに応じて力の注ぎ具合を考える。吉村知事はそれが苦手のようだ。農産物の売り込みや観光客の誘致といった「分かりやすいこと」には一生懸命になるが、情報技術(IT)を行政や医療にどう活かしていくか、といった重要かつ複雑な問題になると、途端に「専門家や部下にお任せ」となる。人の話に耳を傾け、自分で深く考え、そのうえで判断する。それができないのだろう。
未来に向かって開かれた社会をつくっていくうえで、情報公開制度をどうやってより充実したものにしていくか。それも、間違いなく優先しなければならないことの一つだが、吉村知事には「後回しにしてもいいこと」と映っているようだ。
そうでなければ、私が学校法人東海山形学園の財務書類の情報公開を請求したのに対して、詳細な部分を白塗りにして開示する(表1再掲)というようなことも起きなかったはずだ。
この白塗り文書が出てくるまでの経緯は表2の通りである。
4年前の秋、月刊『素晴らしい山形』が吉村知事の義理のいとこ、吉村和文氏の率いるダイバーシティメディア(旧ケーブルテレビ山形)と学校法人、東海山形学園の間で不可解な取引があった、と報じた。
会社の貸借対照表によると、学校法人から会社に3000万円の融資が行われていたのだ。学校法人が会社から金を借りたのではない。その逆だ。しかも、和文氏は会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている。お互いの利益がぶつかる「利益相反行為」に該当する。
この学校法人は東海大山形高校を運営しており、政府と山形県から毎年、3億円前後の私学助成を受けている。その助成額の1割に相当する金がグループ企業に貸し付けられていたことになる。そんなことが許されるのか。法に触れないのか。
会社の貸借対照表に3000万円の融資が記載されているなら、学校法人の貸借対照表にも記載されているはずだ。私は、それを確認するため山形県に情報公開請求を行った。私学助成を受ける学校法人は監督官庁の山形県に財務書類を提出している。県にはすべての書類がそろっているからだ。
政府や自治体が持っている情報は国民のものであり、原則として公開しなければならない。私は、すんなり出てくるものと思っていた。ところが、詳しい部分が白く塗られて出てきたのだ。
県学事文書課の担当者から「非開示の理由」を聞かされて驚いた。「会計文書の詳しい内容を明らかにすると、学校法人の正当な利益を害するおそれがあるから」(県情報公開条例第6条に該当)というものだった。
納得できず、2017年7月に非開示処分の取り消しを求めて山形地方裁判所に提訴した。一審の経過と結末は本誌2019年6月号で詳しく書いた。山形地裁は「財務関係書類の詳細な部分が明らかになれば、学校法人の経営上の秘密やノウハウが判明して他の高校の知るところとなり、学校法人の競争力を損ね、利益を大きく害することになることも考えられる」という県側の主張をほぼそのまま認め、私の請求を棄却した。
当方が唖然(あぜん)するような、およそ現実離れした空理空論に基づく判決だった。すぐさま、仙台高等裁判所に控訴した。
ただ、敗訴したのは「こちらの主張に甘いところがあったからかもしれない」と反省した。そもそも、財務書類とは歴史的にどのようにして成立したのか。経済的、社会的にどのような役割を果たしてきたのか。日本では今、学校法人の財務書類の公開がどこまで進んでいるのか。そうしたことを丁寧に記した控訴理由書を出して、高裁の判断を仰いだ。
幸いなことに、仙台高裁の裁判官は私立学校の現状にきちんと目を向け、情報公開制度の意義も深く理解している人たちだった。3月26日に一審判決を取り消し、山形県に東海山形学園の財務書類をすべて開示するよう命じる判決を下した(表3の骨子参照)。
私立学校は手厚い私学助成を受けており、文部科学省も積極的に財務情報を公開するよう促してきた。これを受けて、大学を運営する学校法人だけでなく、高校を設置する学校法人についても自発的に財務書類を一般に公表している事例は少なくない。
高裁の判決はそうした現実を踏まえ、「財務書類の詳細な内容を開示すれば、学校法人の正当な利益を害するおそれがある」という山形県側の主張を一蹴した。
判決には、文部科学相の諮問機関である「大学設置・学校法人審議会」の小委員会の検討結果を引用する形で、「情報公開は社会全体の流れであり、学校法人が説明責任を果たすという観点からも、財務情報を公開することが求められている。それによって、社会から評価を受け、質の向上が図られていく」という表現も盛り込まれた。
情報公開制度がこれからどういう役割を果たしていくのか。どれほど重要な制度であるか。そうしたことを見据えて、開かれた社会を築こうとする人たちの背中を押す判決だった。
学校法人の財務書類に関しては昨年5月、地裁判決の直後に私立学校法が改正され、文部科学省が所管する学校法人(大学や短大を運営)については財務書類の公開が法的に義務づけられるに至った。
高校などを運営する都道府県所管の学校法人については「公開の義務づけ」が見送られたものの、文科省は「それぞれの実情に応じて積極的に公表するよう期待する」との通知を出した。この法改正も高裁の判断に大きな影響を及ぼしたとみられる。
吉村美栄子知事はこの判決を不服として、最高裁判所に上告した。仙台高裁の論理は明快で説得力があり、覆ることはないと信じているが、知事は上告することによって社会に二つのメッセージを発することになった。
一つは、情報公開の重要性について鈍感な政治家である、ということ。もう一つは、山形地裁と仙台高裁の判決の質的な違いについて理解できず、周りにもその違いについて解説してくれる人が誰もいない、ということだ。
質的な違いとは「時代が求めていること、社会を前に進めるために為すべきこと」を強烈に意識しているかどうか、という点である。判決文からそれが読み取れないとしたら、政治家として悲しすぎる。
東海山形学園からダイバーシティメディアへの3000万円融資問題については、財務書類の非開示問題に加えて、もう一つ、大きな問題がある。本文の途中でも触れた「利益相反行為」という問題だ。
同じ人物が会社の社長と学校法人の理事長を兼ねている状態で双方が取引をするのは、典型的な「利益相反行為」になる。一方の利益になることは他方の不利益になるからだ。
このような場合、株式会社なら株主総会もしくは取締役会の承認を得れば済むが、学校法人の場合はそうはいかない。私立学校法に特別の規定があり、監督官庁(山形県)は特別代理人を選んでその取引に問題がないかチェックさせなければならないことになっている。
そこで、私は県に対して「この取引にかかわる特別代理人の選任に関する文書」の情報公開を求めた。すると、県は「存否(そんぴ)応答拒否」という暴挙に出た。そういう文書があるかどうかも明らかにしないまま、情報公開を拒否したのである(2018年10月23日付)。
理由はまたしても、県情報公開条例の第6条「(法人の内部管理に関する情報であって)その存否を明らかにすることにより、法人の正当な利益を害するおそれがあるため」だった。都合が悪い情報は、この条項を使えば出さなくても済む、と考えているようだ。
冗談ではない。法律に定められた手続きを踏んだのかどうか、それを記した文書が「法人の正当な利益を害する」などということはあるわけがない。もし、文書の中に「法人の内部管理に関する情報」が含まれているなら、その部分を伏せて開示すれば済む話だ。文書があるかどうかすら答えたくない、何か特別な事情があるのだろう。
今度は裁判ではなく、県情報公開・個人情報保護審査会に異議を申し立てた。外部の有識者5人で構成される県の諮問機関だ(表4)。すでに実質的な審査は終わっており、結果を待っている段階だ。こちらも「県の存否応答拒否は不当」との裁決が出るものと期待している。
この3000万円融資問題は、知事の義理のいとこ、吉村和文氏が率いる企業・法人グループの「アキレス腱」である。
これに目を凝らせば、吉村知事の権勢を背に巨額の公金を手にしてきた企業グループの中で何が起きているのか、何のために学校法人の3000万円を必要としたのか、少し見えてくるかもしれない。
*メールマガジン「風切通信 73」 2020年5月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2020年5月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。見出しも異なります。
◎仙台高裁の判決全文
≪写真説明&Source≫
山形県境でドライバーに検温計を向ける県職員
https://ameblo.jp/event-x/entry-12590606440.html
そもそも、生物とは何か。現代の科学では「細胞とそれを包む細胞膜を持つもの」と定義されている。
あらゆる生物は、細胞の形態や構造によって「細菌」と「古細菌」、「真核生物」の三つに分類される。動物も植物も真核生物の一種である。ウイルスはそのどれにも含まれない。細胞も細胞膜もないからだ。遺伝情報を含む核酸とそれを取り囲むタンパク質で構成される「微小な粒子」なのだという。

「ちょっと待て」と言いたくなる。新型コロナウイルスの猛威にさらされ、右往左往している人間から見れば、ウイルスはどう見ても「生きている」。生きて我々に取り付き、ものすごい勢いで増殖しているではないか、と。
それでも、生物学者の多くは「ウイルスは生物である」とは認めない。ネット上の百科事典「ウィキペディア」のウイルスの項には「生物と非生物、両方の特性を持つ」と書いてある。理解不能である。
ウイルスは「生命とは何か」というテーマにも関わる、深い謎を秘めた存在のようだ。世界はいまだ多くの謎に満ちている、と言うしかない。
その謎の一つが中国の武漢で突然変異を起こし、中国から日本を含む周辺国、そして世界に広がった。人々をおののかせ、政治家を悩ませ、世界経済の屋台骨を揺さぶるに至った。
新型コロナウイルスの感染拡大に、それぞれの国はどう対処したのか。それを追っていくと、その国の光と影が炙(あぶ)り出され、見えてくる。
このウイルスの存在に最初に気付いたのは武漢の李文亮(リーウェンリアン)医師たちだった。昨年末、「新しいタイプのコロナウイルスの感染が確認された」として、同僚の医師らにSNS(交流サイト)で患者の症状や肺のCT検査データを伝え、注意を喚起した。
ところが、それがネットで広がると、武漢市の公安局(警察)は「デマを流した」として李医師らを訓戒処分にし、国内メディアも「悪質なデマ」と報じた。処分を受けた後も、彼は患者の治療にあたっていたが、自らもウイルスに感染し、身重の妻を残して33歳で死去した。
亡くなる前、李医師はインタビューに応え、「健全な社会には一つだけでなく、様々な声があるべきだ」と語った。穏やかな表現の中に「自由がない国」への痛烈な批判を読み取ることができる。こうした初期の硬直した対応が中国での感染爆発を引き起こした。
もっとも、初期の失態に気付いた後の中国共産党の対応は「断固たるもの」だった。武漢市全体を封鎖し、全国から医師や看護師を動員して送り込んだ。さらに、軍隊を使って仮設の隔離病棟をたちまち完成させた。
中国には「土地の所有権」というものはない。土地はすべて国家のものであり、個人や企業には利用権が与えられているだけだ。このため、必要になれば、すぐに土地を収用できる。仮設の隔離病棟を短期間で建設できたのも、簡単な手続きで必要な土地を確保できるからだ。
この土地収用の簡便さは「腐敗の温床」の一つになっている。改革開放路線が始まってから、企業が次々に設立され、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになったが、その過程で「金もうけに目がくらんだ共産党幹部と起業家」が農民や住民を追い出し、土地を強奪する事件が頻発している。中国にはその不正を告発し、正す自由がない。
腐敗はとめどなく広がり、暴動や流血事件となって噴き出している。その実態を赤裸々に描いたのが『中国の闇 マフィア化する政治』(何清漣、扶桑社)という本だ。著者は米国に逃れ、「共産党幹部が黒社会を束ね、あるいは黒社会の幹部が要職に就いて暴虐の限りを尽くしている」と、実名を挙げて告発している。
その中国での感染拡大はピークを越え、パンデミック(世界的大流行)の震源は欧米に移った。その中でも深刻なのがイタリアである。
新型コロナによるイタリアの死者は3月中旬には中国を上回った。最初の死者が確認されてから3週間余りで3000人を超えており、初期の段階で事態を甘く見て警戒を怠ったことがうかがえる。
医師や看護師が身に付けるマスクや防護服が足りない。肺炎を発症した患者を救うために必要な人工呼吸器も集中治療の設備も不足しているという。初期対応の失敗に加えて、こうした医療体制の脆弱さが事態を悪化させている。
欧州連合(EU)の創設メンバーでありながら、イタリアはずっと「財政の劣等生」として扱われてきた。豊かな北部と貧しい南部、競争力のある一握りの大企業と膨大な数の零細企業、恵まれた公務員と不安定な雇用に甘んじなければならない民衆・・・。イタリアはそうした様々な「二重構造」を抱えながら、政府が借金を重ねてしのいできた。
昨年の6月、欧州委員会は「イタリアの財政状況はEUの基準から逸脱している」として、「制裁手続きに入ることが正当化される」との報告書を公表した。「政府は支出を抑え、増税に踏み切れ」と圧力をかけたのである。それに応えるため、イタリアでは医療や福祉の予算が削られ、医師の国外への流出も起きていた。
新型コロナは、そんな悶え苦しむイタリアを襲った。防護服が足りない病院では透明なゴミ袋を加工して使い、長時間勤務で疲れ切った看護師は机につっぷしたまま寝込んでしまう。そうした映像がネットで流れ、「医療崩壊寸前」と報じられている。
外出を控えて自宅にとどまるよう求められた住民たちは、フェイスブックなどのSNSで「治療に取り組む人たちを励まそう」と呼びかけ始めた。ベランダに一人、また一人と姿を現し、声を合わせて歌い出す様子がテレビで流れた。さすが「芸術と文化の国」である。
人様のことはこれくらいにして、わが国の光と影を考えてみたい。
新型コロナの侵入を水際で食い止めることを目指した初期対応は無残なものだった。横浜港の桟橋に係留された豪華クルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号は「巨大なウイルス培養器」と化してしまった。
厚生労働省が対策の中心になったからである。感染を防止するため、客船には厚労省の職員や災害派遣医療チーム、自衛隊の隊員らが送り込まれたが、指揮系統がバラバラで、厚労省にはそれを統率する力がなく、対応も不適切だった。
薬害エイズの経緯を振り返ってみれば明らかなように、この役所は医療や製薬の権益がからむことには必死で取り組む。けれども、「国民の命と健康を守るために何を為すべきか」を真剣に考える人が少なすぎる。ゆえに、危機に対応する能力がない。
クルーズ船の惨状を見て、安倍晋三首相も腹をくくったのだろう。その後は、厚労省の幹部ではなく、感染症の専門家の意見に耳を傾けるようになった。その専門家の一人、川崎市健康安全研究所長の岡部信彦氏は朝日新聞(3月18日付)のインタビューに応えて、こう語っている。
「私は医療がある程度保たれていれば、致死率はそんなに高くならないのではと思っています。重症になる人ができるだけきちんとした医療を受けられるようにしておくことが大事で、それができれば日本での致死率は1%前後で収まるのではないでしょうか」
「データに基づいて、最終的には一つの方向性を出していかなければならないと考えています。無症状の人からうつったという論文も出てきているので、パーフェクトな『封じ込め』は不可能です。それでも社会活動を止めて『封じ込め』を追求するのか、ある程度の流行を前提に重症者・死亡者数の減少、最小の社会的被害に抑える方向にかじを切るのか」
説得力のある考え方である。新型コロナと普通のインフルエンザの大きな違いは、前者には特効薬がなく、予防のためのワクチンもないことだ。そのため、不安が広がっているが、手立てを講じて感染の爆発を防ぎ、医療体制を維持し続ければ、なんとか乗り切ることができるはずだ。
幸いなことに、私たちの国には献身的な医師や看護師、医療従事者がたくさんいる。介護や福祉の現場も踏ん張っている。彼らを支えつつ、社会的なダメージや経済的な損失をできるだけ小さくするために何を為すべきか。指導者も私たち一人ひとりも、これからそれを問われることになる。
新型コロナで炙り出された「日本の闇」は何か。私は「マスク不足」にそれを感じる。安倍政権は「マスクの増産をお願いしている」「増産する企業には財政的な支援をする」と何度も表明したが、マスクはいまだに不足している。
しかも、政治家は「マスクの増産」は口にするが、「マスクの供給がどうなっているか」については語らない。語れないのだろう。日本の政府にはマスクの供給状況についての信頼できるデータがないのではないか、と疑っている。
日本政府の情報技術(IT)対応は、信じられないほど遅れている。各省庁がバラバラに情報機器とソフトを導入した。それどころか、一つの省庁の中でも部局によってシステムが異なる。情報を共有したくてもできない状況にある。貴重なデータを連携して活用するすべもない。
政府からの補助金に頼って仕事をしてきた都道府県も右ならえ、である。私は「山形県の知事部局のシステム」について情報公開を求めた。その結果、出てきた文書を見て仰天した。78ものシステムがただ羅列してあったからだ。どのシステムを基幹にして、どのような態勢を築くのか。基本構想がまるで分からない。そもそも、構想がないのだろう。
日本と対照的なのが台湾だ。4年前に発足した蔡英文(ツァイインウェン)政権は、「台湾IT十傑」の一人とされる唐鳳(タンフォン)氏をデジタル担当相に抜擢した。当時、35歳。歴代最年少での入閣だった。
この人物が今回の新型コロナ対策で縦横無尽の活躍を見せた。1月末からマスクの管理に乗り出し、どのように流通しているかネットで公開した。民間のアプリを使えば、自分の地域のどの薬局にマスクがあるか、スマホで誰でも見られるようになった。
マスクを配給制にし、住民はICチップ入りの健康保険カードを示せば、確実にマスクを手にすることができる。3月末からは、スマホで予約すればコンビニで受け取れるシステムも動き出す。世界最先端の取り組みと言っていい。
唐鳳氏は「中国と台湾は距離的に近くても価値観は正反対だ」と言う。中国は民衆を監視し、管理するためにITを利用する。これに対し、台湾は政府を監視し、開かれた社会をつくるために活用するのだ、と。「徹底的な透明性」を唱え、理念でも最先端を行く。
わが日本のIT担当相は誰か。大阪選出の竹本直一(なおかず)代議士である。「入閣待望組」の一人で、昨年9月の内閣改造の際、78歳で初めて閣僚になった。最高齢での初入閣だった。
おまけにこの時、竹本氏の公式サイトは「ロックされて閲覧不能」になっていた。記者会見でその理由を問われ、竹本氏は「なぜロックされているのかよく分からない」と答え、失笑を買った。
日本と台湾のIT担当相の、この絶望的なまでの格差。それはそのまま、日本の政治と行政のIT化がいかに絶望的な状況にあるかを示している。次の世代のことを考えると、私にはこちらの方が新型コロナウイルスより、はるかに恐ろしい。
*メールマガジン「風切通信 72」 2020年3月30日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年4月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎新型コロナウイルス(テレビ朝日のサイト)
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000178040.html
≪参考文献・記事&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎ウィキペディアの「細菌」「古細菌」「真核生物」「ウイルス」
◎コロナウイルスの基礎知識(国立感染症研究所)
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/9303-coronavirus.html
◎ウィキペディアの「李文亮」
◎李文亮の名言「今週の防災格言634」
https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-795
◎『中国の闇 マフィア化する政治』(何清漣、扶桑社)
◎「イタリア制裁手続き入り『正当化』」(日本経済新聞2019年6月5日)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45727360V00C19A6FF2000/
◎「イタリア財政危機の構造と制度改革」(経済企画庁経済研究所)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/bun/bun094/bun94a.pdf
◎「新型コロナ 緊急事態宣言は必要か」(朝日新聞2020年3月18日付)
◎ウィキペディアの「唐鳳」「竹本直一」
◎Wikipedia 「Audrey Tang」
https://en.wikipedia.org/wiki/Audrey_Tang
◎「台湾のコロナ政策 奏功」(朝日新聞2020年3月7日付)
◎「パンデミック 世界はいま」(朝日新聞2020年3月21日付)
◎月刊『選択』2020年3月号の新型コロナ関連記事
あらゆる生物は、細胞の形態や構造によって「細菌」と「古細菌」、「真核生物」の三つに分類される。動物も植物も真核生物の一種である。ウイルスはそのどれにも含まれない。細胞も細胞膜もないからだ。遺伝情報を含む核酸とそれを取り囲むタンパク質で構成される「微小な粒子」なのだという。

「ちょっと待て」と言いたくなる。新型コロナウイルスの猛威にさらされ、右往左往している人間から見れば、ウイルスはどう見ても「生きている」。生きて我々に取り付き、ものすごい勢いで増殖しているではないか、と。
それでも、生物学者の多くは「ウイルスは生物である」とは認めない。ネット上の百科事典「ウィキペディア」のウイルスの項には「生物と非生物、両方の特性を持つ」と書いてある。理解不能である。
ウイルスは「生命とは何か」というテーマにも関わる、深い謎を秘めた存在のようだ。世界はいまだ多くの謎に満ちている、と言うしかない。
その謎の一つが中国の武漢で突然変異を起こし、中国から日本を含む周辺国、そして世界に広がった。人々をおののかせ、政治家を悩ませ、世界経済の屋台骨を揺さぶるに至った。
新型コロナウイルスの感染拡大に、それぞれの国はどう対処したのか。それを追っていくと、その国の光と影が炙(あぶ)り出され、見えてくる。
このウイルスの存在に最初に気付いたのは武漢の李文亮(リーウェンリアン)医師たちだった。昨年末、「新しいタイプのコロナウイルスの感染が確認された」として、同僚の医師らにSNS(交流サイト)で患者の症状や肺のCT検査データを伝え、注意を喚起した。
ところが、それがネットで広がると、武漢市の公安局(警察)は「デマを流した」として李医師らを訓戒処分にし、国内メディアも「悪質なデマ」と報じた。処分を受けた後も、彼は患者の治療にあたっていたが、自らもウイルスに感染し、身重の妻を残して33歳で死去した。
亡くなる前、李医師はインタビューに応え、「健全な社会には一つだけでなく、様々な声があるべきだ」と語った。穏やかな表現の中に「自由がない国」への痛烈な批判を読み取ることができる。こうした初期の硬直した対応が中国での感染爆発を引き起こした。
もっとも、初期の失態に気付いた後の中国共産党の対応は「断固たるもの」だった。武漢市全体を封鎖し、全国から医師や看護師を動員して送り込んだ。さらに、軍隊を使って仮設の隔離病棟をたちまち完成させた。
中国には「土地の所有権」というものはない。土地はすべて国家のものであり、個人や企業には利用権が与えられているだけだ。このため、必要になれば、すぐに土地を収用できる。仮設の隔離病棟を短期間で建設できたのも、簡単な手続きで必要な土地を確保できるからだ。
この土地収用の簡便さは「腐敗の温床」の一つになっている。改革開放路線が始まってから、企業が次々に設立され、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになったが、その過程で「金もうけに目がくらんだ共産党幹部と起業家」が農民や住民を追い出し、土地を強奪する事件が頻発している。中国にはその不正を告発し、正す自由がない。
腐敗はとめどなく広がり、暴動や流血事件となって噴き出している。その実態を赤裸々に描いたのが『中国の闇 マフィア化する政治』(何清漣、扶桑社)という本だ。著者は米国に逃れ、「共産党幹部が黒社会を束ね、あるいは黒社会の幹部が要職に就いて暴虐の限りを尽くしている」と、実名を挙げて告発している。
その中国での感染拡大はピークを越え、パンデミック(世界的大流行)の震源は欧米に移った。その中でも深刻なのがイタリアである。
新型コロナによるイタリアの死者は3月中旬には中国を上回った。最初の死者が確認されてから3週間余りで3000人を超えており、初期の段階で事態を甘く見て警戒を怠ったことがうかがえる。
医師や看護師が身に付けるマスクや防護服が足りない。肺炎を発症した患者を救うために必要な人工呼吸器も集中治療の設備も不足しているという。初期対応の失敗に加えて、こうした医療体制の脆弱さが事態を悪化させている。
欧州連合(EU)の創設メンバーでありながら、イタリアはずっと「財政の劣等生」として扱われてきた。豊かな北部と貧しい南部、競争力のある一握りの大企業と膨大な数の零細企業、恵まれた公務員と不安定な雇用に甘んじなければならない民衆・・・。イタリアはそうした様々な「二重構造」を抱えながら、政府が借金を重ねてしのいできた。
昨年の6月、欧州委員会は「イタリアの財政状況はEUの基準から逸脱している」として、「制裁手続きに入ることが正当化される」との報告書を公表した。「政府は支出を抑え、増税に踏み切れ」と圧力をかけたのである。それに応えるため、イタリアでは医療や福祉の予算が削られ、医師の国外への流出も起きていた。
新型コロナは、そんな悶え苦しむイタリアを襲った。防護服が足りない病院では透明なゴミ袋を加工して使い、長時間勤務で疲れ切った看護師は机につっぷしたまま寝込んでしまう。そうした映像がネットで流れ、「医療崩壊寸前」と報じられている。
外出を控えて自宅にとどまるよう求められた住民たちは、フェイスブックなどのSNSで「治療に取り組む人たちを励まそう」と呼びかけ始めた。ベランダに一人、また一人と姿を現し、声を合わせて歌い出す様子がテレビで流れた。さすが「芸術と文化の国」である。
人様のことはこれくらいにして、わが国の光と影を考えてみたい。
新型コロナの侵入を水際で食い止めることを目指した初期対応は無残なものだった。横浜港の桟橋に係留された豪華クルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号は「巨大なウイルス培養器」と化してしまった。
厚生労働省が対策の中心になったからである。感染を防止するため、客船には厚労省の職員や災害派遣医療チーム、自衛隊の隊員らが送り込まれたが、指揮系統がバラバラで、厚労省にはそれを統率する力がなく、対応も不適切だった。
薬害エイズの経緯を振り返ってみれば明らかなように、この役所は医療や製薬の権益がからむことには必死で取り組む。けれども、「国民の命と健康を守るために何を為すべきか」を真剣に考える人が少なすぎる。ゆえに、危機に対応する能力がない。
クルーズ船の惨状を見て、安倍晋三首相も腹をくくったのだろう。その後は、厚労省の幹部ではなく、感染症の専門家の意見に耳を傾けるようになった。その専門家の一人、川崎市健康安全研究所長の岡部信彦氏は朝日新聞(3月18日付)のインタビューに応えて、こう語っている。
「私は医療がある程度保たれていれば、致死率はそんなに高くならないのではと思っています。重症になる人ができるだけきちんとした医療を受けられるようにしておくことが大事で、それができれば日本での致死率は1%前後で収まるのではないでしょうか」
「データに基づいて、最終的には一つの方向性を出していかなければならないと考えています。無症状の人からうつったという論文も出てきているので、パーフェクトな『封じ込め』は不可能です。それでも社会活動を止めて『封じ込め』を追求するのか、ある程度の流行を前提に重症者・死亡者数の減少、最小の社会的被害に抑える方向にかじを切るのか」
説得力のある考え方である。新型コロナと普通のインフルエンザの大きな違いは、前者には特効薬がなく、予防のためのワクチンもないことだ。そのため、不安が広がっているが、手立てを講じて感染の爆発を防ぎ、医療体制を維持し続ければ、なんとか乗り切ることができるはずだ。
幸いなことに、私たちの国には献身的な医師や看護師、医療従事者がたくさんいる。介護や福祉の現場も踏ん張っている。彼らを支えつつ、社会的なダメージや経済的な損失をできるだけ小さくするために何を為すべきか。指導者も私たち一人ひとりも、これからそれを問われることになる。
新型コロナで炙り出された「日本の闇」は何か。私は「マスク不足」にそれを感じる。安倍政権は「マスクの増産をお願いしている」「増産する企業には財政的な支援をする」と何度も表明したが、マスクはいまだに不足している。
しかも、政治家は「マスクの増産」は口にするが、「マスクの供給がどうなっているか」については語らない。語れないのだろう。日本の政府にはマスクの供給状況についての信頼できるデータがないのではないか、と疑っている。
日本政府の情報技術(IT)対応は、信じられないほど遅れている。各省庁がバラバラに情報機器とソフトを導入した。それどころか、一つの省庁の中でも部局によってシステムが異なる。情報を共有したくてもできない状況にある。貴重なデータを連携して活用するすべもない。
政府からの補助金に頼って仕事をしてきた都道府県も右ならえ、である。私は「山形県の知事部局のシステム」について情報公開を求めた。その結果、出てきた文書を見て仰天した。78ものシステムがただ羅列してあったからだ。どのシステムを基幹にして、どのような態勢を築くのか。基本構想がまるで分からない。そもそも、構想がないのだろう。
日本と対照的なのが台湾だ。4年前に発足した蔡英文(ツァイインウェン)政権は、「台湾IT十傑」の一人とされる唐鳳(タンフォン)氏をデジタル担当相に抜擢した。当時、35歳。歴代最年少での入閣だった。
この人物が今回の新型コロナ対策で縦横無尽の活躍を見せた。1月末からマスクの管理に乗り出し、どのように流通しているかネットで公開した。民間のアプリを使えば、自分の地域のどの薬局にマスクがあるか、スマホで誰でも見られるようになった。
マスクを配給制にし、住民はICチップ入りの健康保険カードを示せば、確実にマスクを手にすることができる。3月末からは、スマホで予約すればコンビニで受け取れるシステムも動き出す。世界最先端の取り組みと言っていい。
唐鳳氏は「中国と台湾は距離的に近くても価値観は正反対だ」と言う。中国は民衆を監視し、管理するためにITを利用する。これに対し、台湾は政府を監視し、開かれた社会をつくるために活用するのだ、と。「徹底的な透明性」を唱え、理念でも最先端を行く。
わが日本のIT担当相は誰か。大阪選出の竹本直一(なおかず)代議士である。「入閣待望組」の一人で、昨年9月の内閣改造の際、78歳で初めて閣僚になった。最高齢での初入閣だった。
おまけにこの時、竹本氏の公式サイトは「ロックされて閲覧不能」になっていた。記者会見でその理由を問われ、竹本氏は「なぜロックされているのかよく分からない」と答え、失笑を買った。
日本と台湾のIT担当相の、この絶望的なまでの格差。それはそのまま、日本の政治と行政のIT化がいかに絶望的な状況にあるかを示している。次の世代のことを考えると、私にはこちらの方が新型コロナウイルスより、はるかに恐ろしい。
*メールマガジン「風切通信 72」 2020年3月30日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年4月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎新型コロナウイルス(テレビ朝日のサイト)
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000178040.html
≪参考文献・記事&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎ウィキペディアの「細菌」「古細菌」「真核生物」「ウイルス」
◎コロナウイルスの基礎知識(国立感染症研究所)
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/9303-coronavirus.html
◎ウィキペディアの「李文亮」
◎李文亮の名言「今週の防災格言634」
https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-795
◎『中国の闇 マフィア化する政治』(何清漣、扶桑社)
◎「イタリア制裁手続き入り『正当化』」(日本経済新聞2019年6月5日)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45727360V00C19A6FF2000/
◎「イタリア財政危機の構造と制度改革」(経済企画庁経済研究所)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/bun/bun094/bun94a.pdf
◎「新型コロナ 緊急事態宣言は必要か」(朝日新聞2020年3月18日付)
◎ウィキペディアの「唐鳳」「竹本直一」
◎Wikipedia 「Audrey Tang」
https://en.wikipedia.org/wiki/Audrey_Tang
◎「台湾のコロナ政策 奏功」(朝日新聞2020年3月7日付)
◎「パンデミック 世界はいま」(朝日新聞2020年3月21日付)
◎月刊『選択』2020年3月号の新型コロナ関連記事
あの日から、間もなく9年になる。
海が黒い壁となって押し寄せ、あまたの命をのみ込んでいった。目に見えない放射能にさらされ、多くの人が住み慣れた土地を追われた。

先の戦争が終わった8月15日を節目に「戦前」「戦後」と言うように、東日本大震災があった3月11日を境にして「災前」「災後」と呼ぶようになるのではないか。誰かがそんなことを書いていた。あの大震災は、そうなってもおかしくないほど強烈なインパクトを私たちの社会に与えた。
けれども、そうはならなかった。福島の原発事故では原子炉がメルトダウンして放射性物質をまき散らし、首都圏を含む東日本全体が人の住めない土地になる恐れもあった。それを免れることができたのは、いくつかの幸運が重なったからに過ぎない。なのに、政府も電力業界も素知らぬ顔で原発の再稼働を推し進めようとしている。
大震災の前と変わらない日々。災いから教訓を汲(く)み取り、それを活かして新しい道を切り拓く。それがなぜ、できないのか。
津波に目を向ければ、石巻市の大川小学校の悲劇がある。
学校に残っていた78人の子どものうち74人、教職員11人のうち10人が亡くなった。被災地にあったすべての小中学校で教員の統率下にあった子どものうち、命を落としたのは大川小学校以外では南三陸町の1人しかいない。高台に逃げる途中で波にのまれたケースだ。こうした事実は、この小学校で「考えられないような過ち」がいくつも重なったことを示している。
にもかかわらず、石巻市も宮城県も過ちを認めようとせず、言い逃れと責任回避に終始した。子どもを亡くした親たちが裁判に訴え、最高裁判所が昨年10月に石巻市と宮城県に損害賠償を命じるまで「津波の襲来は予見できなかった。過失はなかった」と言い続けた。
責任逃れをしただけではない。当事者がウソをつき、事実を隠蔽した。それが、子どもを失って打ちひしがれた親たちの心をどれほど苛(さいな)んだことか。
数々のウソの中で最もひどいのは、教職員で唯一生き残った遠藤純二・教務主任のウソである。大川小の子どもたちは北上川沿いの高台に向かう途中で津波にのまれたが、列の最後尾にいた遠藤教諭は学校の裏山に登って助かった。
イギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏の著書『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房)によれば、被災から4週間後に開かれた保護者向けの説明会で、遠藤教諭は次のように語った。
「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もう駄目だと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子が助けを求めて叫んでいました。(中略)絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登っていきました」
この証言の中に、いくつものウソがあった。学校の裏山の杉の木は1本も倒れていなかった。遠藤教諭は「波をかぶった」と言ったが、彼が男の子を連れて助けを求めた民家の千葉正彦さんと妻はそろって「服は濡れていなかった」と明言した。
唯一生き残った教員がなぜ、ウソをつかなければならなかったのか。記憶が混濁していただけなのか。彼はその後の裁判でも、「精神を病んでいる」として証言に立つことはなかった。虚偽の事実を並べ立てた理由は、いまだに分からない。
大川小の子どもの中には、学校に迎えに来た親と帰ったため難を逃れた子もいる。そうした子どもの1人は、6年生の男の子が「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」と訴えていたのを覚えていた。
石巻市の教育委員会は被災後、生き残った子どもたちからも事情を聴き、記録した。ところが、公表した記録にはこうした証言が収録されていなかった。それどころか、保護者たちが事情聴取のメモの開示を求めたところ、「メモはすべて廃棄した」と答えた。
学校や教育委員会の過失とみなされるような証拠を隠蔽したのである。メモを廃棄した指導主事は翌年、小学校の校長に昇進した。「組織を守るために力を尽くした」ということなのだろう。
大川小学校の悲劇については、ジャーナリストの池上正樹、加藤順子両氏による『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など優れた本がいくつか出版されているが、取材の広さと深さという点で、リチャード・ロイド・パリー氏の著書は群を抜いている。
パリー氏が初めて日本を訪れたのは高校生の時である。クイズ番組で優勝し、そのご褒美が日本旅行だった。オックスフォード大学で学んだ後、イギリスの新聞の東京特派員になった。震災の時点で在日16年。日本の内情についても、地震についても熟知していた。
この本を書くために、彼は6年の歳月を費やした。インタビューするたびに遺族は涙を流した。「どうしてこの人たちを泣かせなければならないのか」と苦しんだという。それでも、意を決して彼らの声に耳を傾け続けた。
子どもをすべて奪われた親がいた。子どもだけでなく、家族全員が亡くなった人もいる。遺体がすぐに見つかった親もいれば、いつまでたっても見つからない親もいた。遺体を見つけるために重機の免許を取って探し続けた母親もいる。命の数だけ深い悲しみと苦悩があった。
遺族の中には石巻市と教育委員会の対応に納得できず、「一生かげで、死んだがきどもの敵(かだぎ)とってやっからな」と怒りをぶつける者もいた。裁判で責任を追及しようとする親もいれば、それに反発する親たちもいた。
苦悩に打ちのめされた親の中には、死んだ者の霊を自分の身体に乗り移らせて、その言葉を語る「口寄せ」の女性に頼る人も出てきた。日本のジャーナリストはまず、こういう話を取材しようとしない。だが、パリー氏はそこにも分け入っていく。それが大川小学校の周りで起きたことの一つだからだ。
被災地では「幽霊を見た」という話がささやかれるようになった。そうした中で、津波が到達せず、まったく被害を受けなかった家族が10日後、車で山を越えて被災地を見に行った。その晩から、男性の様子がおかしくなった。
彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団をなめ、獣のように身をよじらせて叫んだ。「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」。奇行は何日も続き、妻は知り合いの住職に除霊を依頼した。
般若心経を唱えて霊を取り除いた住職は次のように語った。
「彼は被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません」「自分の行動に対して、ある種の罰を受けたんです。何かがあなたに取り憑(つ)いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう」
こうしたことも、被災地で起きたことの一つとして書き留めた。
避難所での経験にも触れている。取材するパリー氏に対して、避難した人たちはしばしば食べ物を分け与えようとした。「次の数日、あるいは次の数時間のための食べ物しか持たないはずの避難者たちが、私に食べ物を渡そうとした。つい最近、家を失ったばかりの人々が、おもてなしが不充分であることを心からすまなそうに謝った」
「これこそが日本の最高の姿ではないかと感じた。このような広大無辺な慈悲の心こそ、私がこの国についてもっとも愛し、賞賛することの一つだった。日本の共同体の強さは、現実的で、自然発生的で、揺るぎないものだった」
そして同時に、東北の哀しみについても書く。
「東北地方の住人たちは、とりわけ我慢強いことで有名だった。だからこそ、彼らは何世紀にもわたって寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えることができた。歴史的に中央政府が損な役回りを彼らに押しつけてきたのも、その我慢強さゆえのことかもしれない。東北地方では、娘たちを身売りし、息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出すのが珍しいことではなかった」
「人々は文句も言わずに黙々と働いた。そうやって黙り込むことがなにより大切だった。(中略)住人たちは変化することを拒み、変化するための努力を拒んだ。理想的な村社会とは、対立が不道徳とみなされる世界だった」
震災の後、被災地でも私たちが暮らす山形でも「がんばろう東北」という標語をよく目にした。その言葉に共感しながらも、私はどこか引っかかるものを覚えていた。それが何なのか、自分でも理解できなかったが、パリー氏の著書を読んで、腑に落ちた。
そうなのだ。我慢することは大切だ。黙り込むことも時には必要だ。けれども、それをやめなければならない時、というのがあるのではないか。
黙り込むことによって、この山形では、地元の新聞とその企業グループがすべてを支配し、逆らう者を許さないという状態が何十年も続いた。逆らえば暮らしていけない、という状況を生み出し、それを多くの県民が黙認した。
そして、それがようやく終わったと思ったら、今度は吉村美栄子知事の権勢を背に、吉村一族の企業グループがのさばり始めた。政治家も経済人もメディアも、それに異を唱えようとしない。
何をしなければならないのか。その答えも、パリー氏の著書に見出すことができる。彼は「日本人の受容の精神にはもううんざりだ」としたため、次のように語りかけている。
「日本にいま必要なのは、(石巻市の責任を追及した)紫桃(しとう)さん夫妻、只野(ただの)さん親子、鈴木さん夫妻のような人たちだ。怒りに満ち、批判的で、決然とした人々。死の真相を追い求める闘いが負け戦になろうとも、自らの地位や立場に関係なく立ち上がって闘う人々なのだ」
*メールマガジン「風切通信 71」 2020年2月28日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年3月号に寄稿した文章を転載したものです。
≪写真説明&Source≫
◎震災から5年後の大川小学校
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/160326/lif16032609230004-p1.html
海が黒い壁となって押し寄せ、あまたの命をのみ込んでいった。目に見えない放射能にさらされ、多くの人が住み慣れた土地を追われた。

先の戦争が終わった8月15日を節目に「戦前」「戦後」と言うように、東日本大震災があった3月11日を境にして「災前」「災後」と呼ぶようになるのではないか。誰かがそんなことを書いていた。あの大震災は、そうなってもおかしくないほど強烈なインパクトを私たちの社会に与えた。
けれども、そうはならなかった。福島の原発事故では原子炉がメルトダウンして放射性物質をまき散らし、首都圏を含む東日本全体が人の住めない土地になる恐れもあった。それを免れることができたのは、いくつかの幸運が重なったからに過ぎない。なのに、政府も電力業界も素知らぬ顔で原発の再稼働を推し進めようとしている。
大震災の前と変わらない日々。災いから教訓を汲(く)み取り、それを活かして新しい道を切り拓く。それがなぜ、できないのか。
津波に目を向ければ、石巻市の大川小学校の悲劇がある。
学校に残っていた78人の子どものうち74人、教職員11人のうち10人が亡くなった。被災地にあったすべての小中学校で教員の統率下にあった子どものうち、命を落としたのは大川小学校以外では南三陸町の1人しかいない。高台に逃げる途中で波にのまれたケースだ。こうした事実は、この小学校で「考えられないような過ち」がいくつも重なったことを示している。
にもかかわらず、石巻市も宮城県も過ちを認めようとせず、言い逃れと責任回避に終始した。子どもを亡くした親たちが裁判に訴え、最高裁判所が昨年10月に石巻市と宮城県に損害賠償を命じるまで「津波の襲来は予見できなかった。過失はなかった」と言い続けた。
責任逃れをしただけではない。当事者がウソをつき、事実を隠蔽した。それが、子どもを失って打ちひしがれた親たちの心をどれほど苛(さいな)んだことか。
数々のウソの中で最もひどいのは、教職員で唯一生き残った遠藤純二・教務主任のウソである。大川小の子どもたちは北上川沿いの高台に向かう途中で津波にのまれたが、列の最後尾にいた遠藤教諭は学校の裏山に登って助かった。
イギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏の著書『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房)によれば、被災から4週間後に開かれた保護者向けの説明会で、遠藤教諭は次のように語った。
「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もう駄目だと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子が助けを求めて叫んでいました。(中略)絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登っていきました」
この証言の中に、いくつものウソがあった。学校の裏山の杉の木は1本も倒れていなかった。遠藤教諭は「波をかぶった」と言ったが、彼が男の子を連れて助けを求めた民家の千葉正彦さんと妻はそろって「服は濡れていなかった」と明言した。
唯一生き残った教員がなぜ、ウソをつかなければならなかったのか。記憶が混濁していただけなのか。彼はその後の裁判でも、「精神を病んでいる」として証言に立つことはなかった。虚偽の事実を並べ立てた理由は、いまだに分からない。
大川小の子どもの中には、学校に迎えに来た親と帰ったため難を逃れた子もいる。そうした子どもの1人は、6年生の男の子が「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」と訴えていたのを覚えていた。
石巻市の教育委員会は被災後、生き残った子どもたちからも事情を聴き、記録した。ところが、公表した記録にはこうした証言が収録されていなかった。それどころか、保護者たちが事情聴取のメモの開示を求めたところ、「メモはすべて廃棄した」と答えた。
学校や教育委員会の過失とみなされるような証拠を隠蔽したのである。メモを廃棄した指導主事は翌年、小学校の校長に昇進した。「組織を守るために力を尽くした」ということなのだろう。
大川小学校の悲劇については、ジャーナリストの池上正樹、加藤順子両氏による『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など優れた本がいくつか出版されているが、取材の広さと深さという点で、リチャード・ロイド・パリー氏の著書は群を抜いている。
パリー氏が初めて日本を訪れたのは高校生の時である。クイズ番組で優勝し、そのご褒美が日本旅行だった。オックスフォード大学で学んだ後、イギリスの新聞の東京特派員になった。震災の時点で在日16年。日本の内情についても、地震についても熟知していた。
この本を書くために、彼は6年の歳月を費やした。インタビューするたびに遺族は涙を流した。「どうしてこの人たちを泣かせなければならないのか」と苦しんだという。それでも、意を決して彼らの声に耳を傾け続けた。
子どもをすべて奪われた親がいた。子どもだけでなく、家族全員が亡くなった人もいる。遺体がすぐに見つかった親もいれば、いつまでたっても見つからない親もいた。遺体を見つけるために重機の免許を取って探し続けた母親もいる。命の数だけ深い悲しみと苦悩があった。
遺族の中には石巻市と教育委員会の対応に納得できず、「一生かげで、死んだがきどもの敵(かだぎ)とってやっからな」と怒りをぶつける者もいた。裁判で責任を追及しようとする親もいれば、それに反発する親たちもいた。
苦悩に打ちのめされた親の中には、死んだ者の霊を自分の身体に乗り移らせて、その言葉を語る「口寄せ」の女性に頼る人も出てきた。日本のジャーナリストはまず、こういう話を取材しようとしない。だが、パリー氏はそこにも分け入っていく。それが大川小学校の周りで起きたことの一つだからだ。
被災地では「幽霊を見た」という話がささやかれるようになった。そうした中で、津波が到達せず、まったく被害を受けなかった家族が10日後、車で山を越えて被災地を見に行った。その晩から、男性の様子がおかしくなった。
彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団をなめ、獣のように身をよじらせて叫んだ。「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」。奇行は何日も続き、妻は知り合いの住職に除霊を依頼した。
般若心経を唱えて霊を取り除いた住職は次のように語った。
「彼は被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません」「自分の行動に対して、ある種の罰を受けたんです。何かがあなたに取り憑(つ)いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう」
こうしたことも、被災地で起きたことの一つとして書き留めた。
避難所での経験にも触れている。取材するパリー氏に対して、避難した人たちはしばしば食べ物を分け与えようとした。「次の数日、あるいは次の数時間のための食べ物しか持たないはずの避難者たちが、私に食べ物を渡そうとした。つい最近、家を失ったばかりの人々が、おもてなしが不充分であることを心からすまなそうに謝った」
「これこそが日本の最高の姿ではないかと感じた。このような広大無辺な慈悲の心こそ、私がこの国についてもっとも愛し、賞賛することの一つだった。日本の共同体の強さは、現実的で、自然発生的で、揺るぎないものだった」
そして同時に、東北の哀しみについても書く。
「東北地方の住人たちは、とりわけ我慢強いことで有名だった。だからこそ、彼らは何世紀にもわたって寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えることができた。歴史的に中央政府が損な役回りを彼らに押しつけてきたのも、その我慢強さゆえのことかもしれない。東北地方では、娘たちを身売りし、息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出すのが珍しいことではなかった」
「人々は文句も言わずに黙々と働いた。そうやって黙り込むことがなにより大切だった。(中略)住人たちは変化することを拒み、変化するための努力を拒んだ。理想的な村社会とは、対立が不道徳とみなされる世界だった」
震災の後、被災地でも私たちが暮らす山形でも「がんばろう東北」という標語をよく目にした。その言葉に共感しながらも、私はどこか引っかかるものを覚えていた。それが何なのか、自分でも理解できなかったが、パリー氏の著書を読んで、腑に落ちた。
そうなのだ。我慢することは大切だ。黙り込むことも時には必要だ。けれども、それをやめなければならない時、というのがあるのではないか。
黙り込むことによって、この山形では、地元の新聞とその企業グループがすべてを支配し、逆らう者を許さないという状態が何十年も続いた。逆らえば暮らしていけない、という状況を生み出し、それを多くの県民が黙認した。
そして、それがようやく終わったと思ったら、今度は吉村美栄子知事の権勢を背に、吉村一族の企業グループがのさばり始めた。政治家も経済人もメディアも、それに異を唱えようとしない。
何をしなければならないのか。その答えも、パリー氏の著書に見出すことができる。彼は「日本人の受容の精神にはもううんざりだ」としたため、次のように語りかけている。
「日本にいま必要なのは、(石巻市の責任を追及した)紫桃(しとう)さん夫妻、只野(ただの)さん親子、鈴木さん夫妻のような人たちだ。怒りに満ち、批判的で、決然とした人々。死の真相を追い求める闘いが負け戦になろうとも、自らの地位や立場に関係なく立ち上がって闘う人々なのだ」
*メールマガジン「風切通信 71」 2020年2月28日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年3月号に寄稿した文章を転載したものです。
≪写真説明&Source≫
◎震災から5年後の大川小学校
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/160326/lif16032609230004-p1.html
「憧れの対象」だった豪華クルーズ船は昨今、「浮かぶ隔離病棟」のような目で見られるようになってしまった。横浜港に停泊中のダイヤモンド・プリンセス号の乗客から、また新型コロナウイルスの感染者が見つかり、患者が61人になったという。日本国内で確認された感染者は計86人なので、なんと7割がこの豪華客船に乗っていた人ということになる。

客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html

客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html
2月に入ったのに、里山にも田畑にも雪がない。私が暮らしている村は山形・新潟県境の豪雪地帯にあり、例年ならこの時期、1メートルを超える雪に埋もれる。「そろそろ、屋根の雪下ろしをしないといけないね」と心配する時期だ。なのに、積雪ゼロ。

村の古老に聞けば、口をそろえて「こだな冬は初めでだ」と言う。朝晩、寒さを覚えることはあるが、「凍りつくような寒さ」はまだ一度もない。雪かきをしなくても済むので、それは嬉しいのだが、なんだか落ち着かない。
スキー場は雪不足に苦しみ、雪祭りの関係者はあせっている。ついには「雪乞い」の神事を執り行うところまで出てきた。1月末から2月初めに「やまがた雪フェスティバル」を開催した寒河江(さがえ)市の実行委員会である。
雪像をつくるための雪は、月山の麓から運んでなんとか確保したが、肝心の会場にまったく雪がない。これでは、予定していた雪掘り競争もソリ遊びもできない。困り果てて、祭りの2週間前に地元の寒河江八幡宮に「雪乞い」を依頼した。
頼まれた八幡宮も困った。「雨乞い」ならともかく、「雪乞い」など聞いたこともない。宮司代務者の鬼海(きかい)智美さんは、そもそも「雪乞い」をすることに躊躇を覚えた。「雪が少なくて、助かっている人も多い。産土(うぶすな)の神に『あまねく雪を降らせたまえ』とはお願いできないのです」と言う。
そこで「雪祭りの成功を願い、雪像をつくる人たちの安全を祈願する」ということで引き受けた。雪については「必要なところに降らせたまえ」と控えめにお願いするにとどめた。地元の人たちの暮らしに目配りした、心優しい祈願だった。
にもかかわらず、その後も雪はほとんど降らない。住民の多くは「雪がなくて助かるねぇ」と喜んでいるが、あまり声高には言わない。リンゴやサクランボを栽培している農家がこの異変に気をもんでいる。それを知っているからだ。
「寒さをグッとこらえ、それをバネにして果樹は甘い実を付ける。こんな冬だと、甘味が足りなくなるのではないか」「春先、早く芽を出して、霜にやられたりしないだろうか」。果樹農家の不安は尽きない。
雪祭りにとどまらず、冬の観光全体にも影響が出ている。樹氷で知られる蔵王温泉は、やはり例年より客が少ないという。スキーを楽しむことはできるのだが、シンボルの樹氷がやせ細って元気がない。そこに、中国発の新型コロナウイルスによる肺炎が重なった。老舗旅館の女将は「蔵王は台湾からのお客様が多いんです。旅行を控える動きが広がっているようで、キャンセルが出始めました。ダブルパンチです」と嘆く。
やはり、冬は冬らしく、銀世界が広がってほしい。雪かきはしんどいけれども、降り積もる雪は少しずつ解けて、春から夏まで大地を潤す。北国にとっては恵みでもある。「雪乞い」をしなければならないような冬はつらい。
*メールマガジン「風切通信 69」 2020年2月3日
≪写真説明&Source≫
◎やまがた雪フェスティバルの会場で行われた「雪乞い」
https://www.fnn.jp/posts/7392SAY

村の古老に聞けば、口をそろえて「こだな冬は初めでだ」と言う。朝晩、寒さを覚えることはあるが、「凍りつくような寒さ」はまだ一度もない。雪かきをしなくても済むので、それは嬉しいのだが、なんだか落ち着かない。
スキー場は雪不足に苦しみ、雪祭りの関係者はあせっている。ついには「雪乞い」の神事を執り行うところまで出てきた。1月末から2月初めに「やまがた雪フェスティバル」を開催した寒河江(さがえ)市の実行委員会である。
雪像をつくるための雪は、月山の麓から運んでなんとか確保したが、肝心の会場にまったく雪がない。これでは、予定していた雪掘り競争もソリ遊びもできない。困り果てて、祭りの2週間前に地元の寒河江八幡宮に「雪乞い」を依頼した。
頼まれた八幡宮も困った。「雨乞い」ならともかく、「雪乞い」など聞いたこともない。宮司代務者の鬼海(きかい)智美さんは、そもそも「雪乞い」をすることに躊躇を覚えた。「雪が少なくて、助かっている人も多い。産土(うぶすな)の神に『あまねく雪を降らせたまえ』とはお願いできないのです」と言う。
そこで「雪祭りの成功を願い、雪像をつくる人たちの安全を祈願する」ということで引き受けた。雪については「必要なところに降らせたまえ」と控えめにお願いするにとどめた。地元の人たちの暮らしに目配りした、心優しい祈願だった。
にもかかわらず、その後も雪はほとんど降らない。住民の多くは「雪がなくて助かるねぇ」と喜んでいるが、あまり声高には言わない。リンゴやサクランボを栽培している農家がこの異変に気をもんでいる。それを知っているからだ。
「寒さをグッとこらえ、それをバネにして果樹は甘い実を付ける。こんな冬だと、甘味が足りなくなるのではないか」「春先、早く芽を出して、霜にやられたりしないだろうか」。果樹農家の不安は尽きない。
雪祭りにとどまらず、冬の観光全体にも影響が出ている。樹氷で知られる蔵王温泉は、やはり例年より客が少ないという。スキーを楽しむことはできるのだが、シンボルの樹氷がやせ細って元気がない。そこに、中国発の新型コロナウイルスによる肺炎が重なった。老舗旅館の女将は「蔵王は台湾からのお客様が多いんです。旅行を控える動きが広がっているようで、キャンセルが出始めました。ダブルパンチです」と嘆く。
やはり、冬は冬らしく、銀世界が広がってほしい。雪かきはしんどいけれども、降り積もる雪は少しずつ解けて、春から夏まで大地を潤す。北国にとっては恵みでもある。「雪乞い」をしなければならないような冬はつらい。
*メールマガジン「風切通信 69」 2020年2月3日
≪写真説明&Source≫
◎やまがた雪フェスティバルの会場で行われた「雪乞い」
https://www.fnn.jp/posts/7392SAY
政治家や官僚と癒着して利益をむさぼる商人のことを世間では「政商」と呼ぶ。この言葉を聞いて私が思い浮かべるのは、児玉誉士夫(よしお)と小佐野賢治の2人である。ともに、田中角栄元首相がロッキード社の航空機の売り込みにからんで、首相在任中に5億円の賄賂を受け取ったとして逮捕、起訴された「ロッキード疑獄」で名を馳せた。

児玉は福島県、小佐野は山梨県の生まれである。2人とも極貧の家に生まれた。子どものころ、児玉は父親と掘っ立て小屋で暮らし、小佐野に至っては家すらなく、村の寺の軒先で夜露をしのいだと伝わる。その生い立ちを抜きにして、2人の壮絶な人生は語れない。
児玉は戦前、右翼の活動家になり、笹川良一の紹介で海軍航空本部の嘱託(佐官待遇)になる。上海を拠点に航空機の生産に欠かせないタングステンやニッケルなど戦略物資の調達にあたった。アヘンの密売に手を染め、その収益と軍費で物資を買い集めたという。
敗戦の直前、児玉はそうした戦略物資や貴金属を大量に抱えて引き揚げた。戦後はその資産を元手に影響力を行使し、岸信介首相らを陰で支えた。
ロッキード社の幹部の証言によれば、同社は航空機を日本に売り込むため、児玉に700万ドル(当時のレートで21億円)のコンサルタント料を支払った。首相への5億円の賄賂はその一部と見られるが、彼は病気を理由に国会でも法廷でも証言に立たず、世を去った。
小佐野は戦前、自ら設立した自動車部品販売会社を足場に軍需省の仕事をし、戦後は駐留米軍を相手にした中古車販売や観光事業で財を成した。ホテル経営にも乗り出し、帝国ホテルも傘下に収めた。ロッキード事件では、国会で証人喚問に応じたものの「記憶にございません」という言葉を連発し、その年の流行語になった。
2人に共通しているのは「常に時の権力にすり寄る」という点である。それは戦前には軍部であり、戦後はアメリカだった。権力の周りには「甘い蜜」がふんだんにあることを知っていたからにほかならない。
安土桃山時代の大盗賊で釜茹での刑にされた石川五右衛門の歌舞伎のせりふを借りるなら、「浜の真砂(まさご)は尽きるとも世に政商の種は尽きまじ」と言うべきか。時と所は変わっても、政商は常に存在する。
わが故郷の山形県では、地元紙山形新聞の服部敬雄(よしお)社長が長く政商として君臨し、県政と山形市政を壟断(ろうだん)した。当時の板垣清一郎知事と金澤忠雄市長をあごで使い、巷では「服部天皇、板垣総務部長、金澤庶務課長」と揶揄された。
その服部氏が1991年に亡くなるや登場したのが吉村和文氏で、吉村美栄子知事の義理のいとこにあたる。彼は1992年にケーブルテレビ山形を設立して、政商としての第一歩を踏み出した。服部氏の後を継ぐかのように。
この会社の設立について、和文氏は朝日新聞の東北各県版に掲載されたインタビュー記事「私の転機」(2013年10月24日)で、次のように語っている。
「政治家になりたい、と思っていました。小学生の頃、朝起きると、いつも色んな人が茶の間に集まっていました。議員秘書だった父に、陳情に来ていたんです。(中略)その後、県議になった父をずっと見ていて、次第に政治家は困っている人を助ける仕事なんだと、志すようになりました」
「転機は1990年の山形市長選です。父は2度目の挑戦でしたが、7期目を目指す現職に僅差で敗れました。2回もサラリーマンを辞めて父の秘書をした私にとって、失意のどん底でした。(中略)ただ、山形を変えたいとの思いは強く、政治からメディアにツールを変えたんです」
「30代の仲間と準備を進め、92年に起業しました。500社を訪問して、50社から200万円ずつ出資を得て、資本金1億円を集めました」
事実関係に誤りはない。ただ、重要な要素が抜けている。この記事だけを読めば、「情報技術(IT)の世界に活路を見出そうとした実業家」のようなイメージを受けるが、この会社の設立は「起業」と呼べるようなものではなかった、という点である。
以前、このコラムで詳述したように、ケーブルテレビ事業は当時の郵政省(のち総務省)が国策として推し進めたものだ。全国各地に自治体が出資する「第三セクター会社」を設立させ、ケーブル敷設費の半分を補助金として支給して広めた。普通の民間企業に対して、そのような高率の補助が与えられることはない。
ケーブルテレビ山形の場合も、設立後に山形県や山形市など六つの自治体が計2900万円を出資して「第三セクター」としての体裁を整え、そこに億単位の補助金が流し込まれた。最初に出資した企業も、そうした仕組みが分かっているから安心して協力したのだ。
時代の波に乗って、当初、ケーブルテレビ事業は順調に伸びていった。だが、IT革命の進展に伴ってビジネスは暗転する。一般家庭でもインターネットが気軽に利用できるようになるにつれ、「ケーブルを敷設して家庭につなげ、多様なテレビ放送を楽しむ」というビジネスモデルが優位性を失っていったからだ。
今や、若い世代は映画やテレビドラマを、主にアマゾンプライムやネットフリックス、Hulu(フールー)といったIT企業のインターネットサービスを利用して見る。家でテレビにかじりつく必要はない。端末があれば、ダウンロードして都合のいい時に楽しむことができる。おまけに料金が安く、作品の質と量が勝っているのだから、当然の流れと言える。
日本のケーブルテレビ各社は、そうした新しいビジネスと生き残りをかけた競争を強いられている。小さい会社は次々に吸収合併されて消えていった。図1は、日本政策投資銀行がまとめた『ケーブルテレビ事業の現状』(2016年度決算版)に掲載された業界の略図である。
最大手のジュピターテレコムは、KDDIと住友商事が出資して作ったケーブルテレビ事業の統括会社だ。傘下に東京や大阪、九州のケーブルテレビ会社を擁し、サービス契約は2127万世帯。次が関西電力系のケイ・オプティコム(昨年、オプテージと社名変更)である。
各社とも、ケーブルを通してインターネットサービスを提供するなど生き残りを模索しているが、前途は容易ではない。ケーブルテレビ山形も4年前に「ダイバーシティメディア」と社名を変え、経営の多角化を図って難局を乗り切ろうとしている。
吉村和文氏が2番目に作ったのも「補助金頼りの会社」である。
2001年に経済産業省が「IT装備都市研究事業」という構想を打ち上げ、全国21カ所のモデル地区で実証実験を始めた。山形市もモデル地区に選ばれ、その事業の一翼を担うために設立したのが「バーチャルシティやまがた」という会社だ。ちなみに、当時の山形市長は和文氏の父親で県議から転じた吉村和夫氏である。
この事業は、国がIC(集積回路)を内蔵する多機能カードを作って市民に無料で配布し、市役所や公民館に設置された端末機器で住民票や印鑑証明書の発行を受けられるようにする、という大盤振る舞いの事業だった。登録した商店で買い物をすればポイントがたまるメリットもあるとの触れ込みで、「バーチャルシティやまがた」はこの部分を担うために作られた。
山形市は5万枚の市民カードを希望者に配布したが、利用は広がらなかった。おまけに総務省が翌2002年から住民基本台帳ネットワークを稼働させ、住基カードの発行を始めた。経産省と総務省が何の連携もなく、別々に似たような機能を持つカードを発行したのだ。「省あって国なし」を地で行く愚挙と言わなければならない。
全国で172億円を投じた経産省の実証実験はさしたる成果もなく頓挫し、総務省の住基カードも、その後、マイナンバーカードが導入されて無用の長物と化した。こちらの無駄遣いは、政府と自治体を合わせて1兆円近いとの試算がある(注参照)。
国民がどんなに勤勉に働いても、こんな税金の使い方をしていたら、国の屋台骨が揺らぎかねない。だが、官僚たちはどこ吹く風。責任を取る者は誰もいない。政商は肥え太り、次の蜜を探して動き回る。
吉村和文氏は多数の企業を率いるかたわら、学校法人東海山形学園の理事長をしている。多忙で、学校法人が運営する東海大山形高校に顔を出すことは少ないが、それでも入学式や卒業式には出席して生徒に語りかける。
彼のブログ「約束の地へ」によれば、2014年4月の入学式では「自分と向かい合うこと、主体的に行動すること」を訴え、さらに「棚ボタとは、棚の下まで行かなければ、ボタ餅は受け取れない。だから、前向きの状態でいること」と述べた。
いささか珍妙な講話だが、彼が歩んできた道を思えば、意味深長ではある。彼にとっては、郵政省のケーブルテレビ事業が第1のボタ餅、経済産業省のIT装備都市構想が第2のボタ餅なのかもしれない。そして、3番目が2007年頃から推し進められたユビキタス事業である。
ユビキタスとは、アメリカの研究者が考え出した言葉で、「あらゆる場所であらゆるものがコンピューターのネットワークにつながる社会」を意味する。衣服にコンピューターを取り付け、体温を測定して空調を自動調節する。ゴミになるものにコンピューターを取り付け、焼却施設のコンピューターと交信して処理方法を決める。そんな未来社会を思い描いていた。
日本では、坂村健・東大教授が提唱し、総務省がすぐに飛び付いた。2009年にユビキタス構想の推進を決定し、経済危機関連対策と称して195億円の補正予算を組み、全国に予算をばら撒いた。補助金の対象はまたもや「自治体と第三セクター」である。
山形県では鶴岡市や最上町とともにケーブルテレビ山形が補助の対象になり、「新山形ブランドの発信による地域・観光振興事業」に5898万円の補助金が交付された。その補助金で和文氏は「東北サプライズ商店街」なるサイトを立ち上げ、加盟した飲食店や商店の情報発信を始めた。そのサイトによってどの程度、成果が上がり、現在、どのように機能しているのかは窺い知れない。
だが、ITの技術革新は研究者や官僚たちの想定をはるかに超えて急激に進み、「ユビキタス」という言葉そのものが、すでにITの世界では「死語」と化した。スマートフォンが普及し、「あらゆる場所で誰もがネットワークにつながる社会」が到来してしまったからだ。
日本の政府や自治体がIT分野でやっていることは、IT企業の取り組みの「周回遅れ」と言われて久しい。周回遅れのランナーが訳知り顔で旗を振り、実験やら構想やらを唱えるのは滑稽である。その滑稽さを自覚していないところがいっそう悲しい。
この国はどうなってしまうのだろうか。「世の中、なんとかなる」といつも気楽に構えている私のような人間ですら、時々、本当に心配になってくる。
*注 週刊現代2016年1月31日号は、総務官僚の証言として次のように報じている。「住基ネットに費やされた税金は、システム構築の初期費用と運営維持費で2100億円ほど(13年間の合算)とされているが、全国の自治体でもシステム構築費と維持費がかかっており、それらを合計すれば全体で1兆円近い」
*メールマガジン「風切通信 68」 2020年1月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』2020年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎ロッキード事件で国会の証人喚問に応じた小佐野賢治
https://picpanzee.com/tag/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%B3%A2%E6%B2%BB
≪参考文献&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎最後の「フィクサー」児玉誉士夫とは何者だったのか(週刊現代2016年12月10月号)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50389
◎稀代の政商「小佐野賢治」国際興業社長(週刊新潮3000号記念別冊「黄金の昭和」)
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/08211100/
◎『政商 小佐野賢治』(佐木隆三、徳間文庫)
◎石川五右衛門(ウィキペディア)
◎『ケーブルテレビ事業の現状』(2016年度決算版)日本政策投資銀行
◎ジュピター・テレコム(ウィキペディア)
◎オプテージ(同)
◎『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』(ジーナ・キーティング、新潮社)
◎ICカードの普及等によるIT装備都市研究事業(電子自治体情報)
http://www.jjseisakuken.jp/elocalgov/contents/c108.html
◎血税1兆円をドブに捨てた「住基ネット」(週刊現代2016年1月31日号)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47571
◎ユビキタスタウン構想実現を支援(総務省報道資料、2009年12月22日)
https://www.soumu.go.jp/soutsu/tohoku/hodo/h2110-12/1222b1001.html

児玉は福島県、小佐野は山梨県の生まれである。2人とも極貧の家に生まれた。子どものころ、児玉は父親と掘っ立て小屋で暮らし、小佐野に至っては家すらなく、村の寺の軒先で夜露をしのいだと伝わる。その生い立ちを抜きにして、2人の壮絶な人生は語れない。
児玉は戦前、右翼の活動家になり、笹川良一の紹介で海軍航空本部の嘱託(佐官待遇)になる。上海を拠点に航空機の生産に欠かせないタングステンやニッケルなど戦略物資の調達にあたった。アヘンの密売に手を染め、その収益と軍費で物資を買い集めたという。
敗戦の直前、児玉はそうした戦略物資や貴金属を大量に抱えて引き揚げた。戦後はその資産を元手に影響力を行使し、岸信介首相らを陰で支えた。
ロッキード社の幹部の証言によれば、同社は航空機を日本に売り込むため、児玉に700万ドル(当時のレートで21億円)のコンサルタント料を支払った。首相への5億円の賄賂はその一部と見られるが、彼は病気を理由に国会でも法廷でも証言に立たず、世を去った。
小佐野は戦前、自ら設立した自動車部品販売会社を足場に軍需省の仕事をし、戦後は駐留米軍を相手にした中古車販売や観光事業で財を成した。ホテル経営にも乗り出し、帝国ホテルも傘下に収めた。ロッキード事件では、国会で証人喚問に応じたものの「記憶にございません」という言葉を連発し、その年の流行語になった。
2人に共通しているのは「常に時の権力にすり寄る」という点である。それは戦前には軍部であり、戦後はアメリカだった。権力の周りには「甘い蜜」がふんだんにあることを知っていたからにほかならない。
安土桃山時代の大盗賊で釜茹での刑にされた石川五右衛門の歌舞伎のせりふを借りるなら、「浜の真砂(まさご)は尽きるとも世に政商の種は尽きまじ」と言うべきか。時と所は変わっても、政商は常に存在する。
わが故郷の山形県では、地元紙山形新聞の服部敬雄(よしお)社長が長く政商として君臨し、県政と山形市政を壟断(ろうだん)した。当時の板垣清一郎知事と金澤忠雄市長をあごで使い、巷では「服部天皇、板垣総務部長、金澤庶務課長」と揶揄された。
その服部氏が1991年に亡くなるや登場したのが吉村和文氏で、吉村美栄子知事の義理のいとこにあたる。彼は1992年にケーブルテレビ山形を設立して、政商としての第一歩を踏み出した。服部氏の後を継ぐかのように。
この会社の設立について、和文氏は朝日新聞の東北各県版に掲載されたインタビュー記事「私の転機」(2013年10月24日)で、次のように語っている。
「政治家になりたい、と思っていました。小学生の頃、朝起きると、いつも色んな人が茶の間に集まっていました。議員秘書だった父に、陳情に来ていたんです。(中略)その後、県議になった父をずっと見ていて、次第に政治家は困っている人を助ける仕事なんだと、志すようになりました」
「転機は1990年の山形市長選です。父は2度目の挑戦でしたが、7期目を目指す現職に僅差で敗れました。2回もサラリーマンを辞めて父の秘書をした私にとって、失意のどん底でした。(中略)ただ、山形を変えたいとの思いは強く、政治からメディアにツールを変えたんです」
「30代の仲間と準備を進め、92年に起業しました。500社を訪問して、50社から200万円ずつ出資を得て、資本金1億円を集めました」
事実関係に誤りはない。ただ、重要な要素が抜けている。この記事だけを読めば、「情報技術(IT)の世界に活路を見出そうとした実業家」のようなイメージを受けるが、この会社の設立は「起業」と呼べるようなものではなかった、という点である。
以前、このコラムで詳述したように、ケーブルテレビ事業は当時の郵政省(のち総務省)が国策として推し進めたものだ。全国各地に自治体が出資する「第三セクター会社」を設立させ、ケーブル敷設費の半分を補助金として支給して広めた。普通の民間企業に対して、そのような高率の補助が与えられることはない。
ケーブルテレビ山形の場合も、設立後に山形県や山形市など六つの自治体が計2900万円を出資して「第三セクター」としての体裁を整え、そこに億単位の補助金が流し込まれた。最初に出資した企業も、そうした仕組みが分かっているから安心して協力したのだ。
時代の波に乗って、当初、ケーブルテレビ事業は順調に伸びていった。だが、IT革命の進展に伴ってビジネスは暗転する。一般家庭でもインターネットが気軽に利用できるようになるにつれ、「ケーブルを敷設して家庭につなげ、多様なテレビ放送を楽しむ」というビジネスモデルが優位性を失っていったからだ。
今や、若い世代は映画やテレビドラマを、主にアマゾンプライムやネットフリックス、Hulu(フールー)といったIT企業のインターネットサービスを利用して見る。家でテレビにかじりつく必要はない。端末があれば、ダウンロードして都合のいい時に楽しむことができる。おまけに料金が安く、作品の質と量が勝っているのだから、当然の流れと言える。
日本のケーブルテレビ各社は、そうした新しいビジネスと生き残りをかけた競争を強いられている。小さい会社は次々に吸収合併されて消えていった。図1は、日本政策投資銀行がまとめた『ケーブルテレビ事業の現状』(2016年度決算版)に掲載された業界の略図である。
最大手のジュピターテレコムは、KDDIと住友商事が出資して作ったケーブルテレビ事業の統括会社だ。傘下に東京や大阪、九州のケーブルテレビ会社を擁し、サービス契約は2127万世帯。次が関西電力系のケイ・オプティコム(昨年、オプテージと社名変更)である。
各社とも、ケーブルを通してインターネットサービスを提供するなど生き残りを模索しているが、前途は容易ではない。ケーブルテレビ山形も4年前に「ダイバーシティメディア」と社名を変え、経営の多角化を図って難局を乗り切ろうとしている。
吉村和文氏が2番目に作ったのも「補助金頼りの会社」である。
2001年に経済産業省が「IT装備都市研究事業」という構想を打ち上げ、全国21カ所のモデル地区で実証実験を始めた。山形市もモデル地区に選ばれ、その事業の一翼を担うために設立したのが「バーチャルシティやまがた」という会社だ。ちなみに、当時の山形市長は和文氏の父親で県議から転じた吉村和夫氏である。
この事業は、国がIC(集積回路)を内蔵する多機能カードを作って市民に無料で配布し、市役所や公民館に設置された端末機器で住民票や印鑑証明書の発行を受けられるようにする、という大盤振る舞いの事業だった。登録した商店で買い物をすればポイントがたまるメリットもあるとの触れ込みで、「バーチャルシティやまがた」はこの部分を担うために作られた。
山形市は5万枚の市民カードを希望者に配布したが、利用は広がらなかった。おまけに総務省が翌2002年から住民基本台帳ネットワークを稼働させ、住基カードの発行を始めた。経産省と総務省が何の連携もなく、別々に似たような機能を持つカードを発行したのだ。「省あって国なし」を地で行く愚挙と言わなければならない。
全国で172億円を投じた経産省の実証実験はさしたる成果もなく頓挫し、総務省の住基カードも、その後、マイナンバーカードが導入されて無用の長物と化した。こちらの無駄遣いは、政府と自治体を合わせて1兆円近いとの試算がある(注参照)。
国民がどんなに勤勉に働いても、こんな税金の使い方をしていたら、国の屋台骨が揺らぎかねない。だが、官僚たちはどこ吹く風。責任を取る者は誰もいない。政商は肥え太り、次の蜜を探して動き回る。
吉村和文氏は多数の企業を率いるかたわら、学校法人東海山形学園の理事長をしている。多忙で、学校法人が運営する東海大山形高校に顔を出すことは少ないが、それでも入学式や卒業式には出席して生徒に語りかける。
彼のブログ「約束の地へ」によれば、2014年4月の入学式では「自分と向かい合うこと、主体的に行動すること」を訴え、さらに「棚ボタとは、棚の下まで行かなければ、ボタ餅は受け取れない。だから、前向きの状態でいること」と述べた。
いささか珍妙な講話だが、彼が歩んできた道を思えば、意味深長ではある。彼にとっては、郵政省のケーブルテレビ事業が第1のボタ餅、経済産業省のIT装備都市構想が第2のボタ餅なのかもしれない。そして、3番目が2007年頃から推し進められたユビキタス事業である。
ユビキタスとは、アメリカの研究者が考え出した言葉で、「あらゆる場所であらゆるものがコンピューターのネットワークにつながる社会」を意味する。衣服にコンピューターを取り付け、体温を測定して空調を自動調節する。ゴミになるものにコンピューターを取り付け、焼却施設のコンピューターと交信して処理方法を決める。そんな未来社会を思い描いていた。
日本では、坂村健・東大教授が提唱し、総務省がすぐに飛び付いた。2009年にユビキタス構想の推進を決定し、経済危機関連対策と称して195億円の補正予算を組み、全国に予算をばら撒いた。補助金の対象はまたもや「自治体と第三セクター」である。
山形県では鶴岡市や最上町とともにケーブルテレビ山形が補助の対象になり、「新山形ブランドの発信による地域・観光振興事業」に5898万円の補助金が交付された。その補助金で和文氏は「東北サプライズ商店街」なるサイトを立ち上げ、加盟した飲食店や商店の情報発信を始めた。そのサイトによってどの程度、成果が上がり、現在、どのように機能しているのかは窺い知れない。
だが、ITの技術革新は研究者や官僚たちの想定をはるかに超えて急激に進み、「ユビキタス」という言葉そのものが、すでにITの世界では「死語」と化した。スマートフォンが普及し、「あらゆる場所で誰もがネットワークにつながる社会」が到来してしまったからだ。
日本の政府や自治体がIT分野でやっていることは、IT企業の取り組みの「周回遅れ」と言われて久しい。周回遅れのランナーが訳知り顔で旗を振り、実験やら構想やらを唱えるのは滑稽である。その滑稽さを自覚していないところがいっそう悲しい。
この国はどうなってしまうのだろうか。「世の中、なんとかなる」といつも気楽に構えている私のような人間ですら、時々、本当に心配になってくる。
*注 週刊現代2016年1月31日号は、総務官僚の証言として次のように報じている。「住基ネットに費やされた税金は、システム構築の初期費用と運営維持費で2100億円ほど(13年間の合算)とされているが、全国の自治体でもシステム構築費と維持費がかかっており、それらを合計すれば全体で1兆円近い」
*メールマガジン「風切通信 68」 2020年1月29日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』2020年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎ロッキード事件で国会の証人喚問に応じた小佐野賢治
https://picpanzee.com/tag/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%B3%A2%E6%B2%BB
≪参考文献&サイト≫ *ウィキペディアのURLは省略
◎最後の「フィクサー」児玉誉士夫とは何者だったのか(週刊現代2016年12月10月号)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50389
◎稀代の政商「小佐野賢治」国際興業社長(週刊新潮3000号記念別冊「黄金の昭和」)
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/08211100/
◎『政商 小佐野賢治』(佐木隆三、徳間文庫)
◎石川五右衛門(ウィキペディア)
◎『ケーブルテレビ事業の現状』(2016年度決算版)日本政策投資銀行
◎ジュピター・テレコム(ウィキペディア)
◎オプテージ(同)
◎『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』(ジーナ・キーティング、新潮社)
◎ICカードの普及等によるIT装備都市研究事業(電子自治体情報)
http://www.jjseisakuken.jp/elocalgov/contents/c108.html
◎血税1兆円をドブに捨てた「住基ネット」(週刊現代2016年1月31日号)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47571
◎ユビキタスタウン構想実現を支援(総務省報道資料、2009年12月22日)
https://www.soumu.go.jp/soutsu/tohoku/hodo/h2110-12/1222b1001.html
2003年1月20日付 朝日新聞 社説
ただひたすら土を集める。造形作家の栗田宏一さん(40)が修行僧のような仕事を始めてから、もう10年以上がたつ。
車で全国を回る。持ち帰る土は、いつも一握りだけ。「もっと欲しいと思いだしたら、際限がなくなるから」という。山梨県石和(いさわ)町の自宅で、その土を乾かし、ふるいにかけてサラサラにする。淡い桃色の土、青みを帯びた土、灰白色の土。同じものはひとつとしてない。
少しずつ色合いの異なる土を細いガラス管に詰めて並べると、長い虹ができる。そうして生まれた作品が「虹色の土」だ。京都の法然院では、庫裏に小さな土盛りを多数配して曼陀羅をつくった。ふだん気にもとめない土が放つ色彩の豊かさに、訪れた人は息をのんだ。
古い土器のかけらを手にしたり、石ころを集めたりするのが好きな子どもだった。宝石加工の専門学校を出た後、アジアやアフリカを旅した。宿代を含め1日千円で暮らす日々。触れ合う人々は貧しかったが、大地を踏みしめて生きていた。その国々の土をテープではがきにはり付けて、日本の自分の住所に送った。
