NPO「ブナの森」が主催する第3回最上川縦断カヌー探訪は、2015年7月25日(土)に朝日町雪谷から中山町・長崎大橋までの28キロ、26日(日)は村山市・碁点橋から大石田町まで20キロのコースで開かれました。最上川は、木曜日の激しい雷雨と金曜日の雨で少し増水し、川下りにちょうどいいコンディションでした。1日目は薄曇り、2日目は快晴。2日間の参加者は30人で、2人乗りの艇が6組ありましたので、24艇でのカヌー行でした(2012年の第1回カヌー探訪は24人、2014年の第2回は35人が参加)。
≪参加者≫ 30人+2匹(チワワ、プードル)
山形県内13人、県外17人(宮城3人、福島3人、埼玉3人、栃木2人、群馬2人、東京2人、青森1人、長野1人)
【2日間で48キロを完漕】 18人(エントリー順)
林 和明(東京都足立区)▽菊地 大二郎(山形市)▽菊地 恵里(同)▽崔 鍾八(山形県朝日町)▽清野 由奈(同)▽塚本 雅俊(群馬県前橋市)▽塚本 弘美(同)▽根本 学(福島県郡山市)▽鶴巻 泰(福島県いわき市)▽斉藤 栄司(山形県尾花沢市)▽中沢 崇(長野市)▽和田 勤(栃木県那須塩原市)▽和田 智枝(同)▽市川 秀(東京都中野区)▽岸 浩(福島市)▽佐竹 久(山形県大江町)▽伊藤 敏史(埼玉県本庄市)▽小野 俊博(山形県大江町)=崔・清野艇にコナン<プードル>同乗
【2日間で40キロを完漕】 1人(2日目の昼、村山市・隼の瀬まで)
高田 徹(青森県八戸市)
【1日目、28キロを完漕】 3人
東海林 憲夫(山形県寒河江市)▽小林 悟志(埼玉県川口市)▽小林 忍(同)=小林艇にショコラ<チワワ>同乗
【2日目、20キロを完漕】 8人
細谷 敏行(山形県大江町)▽伊藤 信生(山形県酒田市)▽鈴木 達哉(宮城県柴田町)▽鈴木 未知哉(同)▽池田 丈人(山形県酒田市)▽佐藤 博隆(同)▽三塚 志乃(仙台市太白区)▽渡辺 政幸(山形県大江町)
≪陸上サポートスタッフ≫
安藤 昭雄▽佐久間 淳▽白田 金之助▽鈴木 賢一▽鈴木 智▽長岡 昇▽長岡 典己▽長岡 佳子▽山口 義博
≪出発、通過、到着時刻≫
1日目(7月25日)
10:00 朝日町の雪谷カヌー公園を出発(予定を30分繰り上げ)
10:20 八天の瀬を通過、2艇が沈
10:50 八天橋を通過
11:20 朝日町の川通に到着、根本・鶴巻艇の水漏れを修理
11:30 川通を出発
11:50 最大の難所、タンの瀬を通過
12:20 大江町用(よう)の用橋を通過
13:25?14:30 大江町「おしんの筏下りロケ地」で昼食、休憩
16:10 中山町の長崎大橋に到着
村山市・碁点橋のたもとにカヌーを置き、大石田町に移動
18:30 大石田町・東町公民館での歓迎ビアガーデンに参加(18人)
2日目(7月26日)
8:30 大石田河岸から車で出発、2日目の出発地点、碁点橋へ
9:15 村山市・碁点橋から出発
9:30 竜神の吊橋を通過
10:20 大淀を通過、陸上サポート要員は真下慶治記念美術館から声援
10:50 三ケ瀬橋を通過
11:10 長島橋を通過
11:30?12:45 村山市の隼の瀬眺望公園で昼食、休憩
13:05 隼橋を通過
14:15 大石田河岸に到着
14:40 閉会式
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県西村山郡朝日町宮宿1115 朝日町公所会館)
email:bunanomori.npo@gmail.com
≪主管≫ 最上川縦断カヌー探訪実行委員会(NPO「ブナの森」、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブの3者で構成)
≪後援≫
国土交通省山形河川国道事務所▽山形県▽東北電力(株)山形支店▽朝日町▽大江町▽西川町▽寒河江市▽河北町▽中山町▽村山市▽大石田町▽山形カヌークラブ▽大江カヌー愛好会▽山形県カヌー協会▽美しい山形・最上川フォーラム
≪協力≫
大石田町・東町区長 矢作(やはぎ)善一▽東町公民館長 細矢裕▽東町公民館の皆様
*7月25日夕、東町公民館でのビアガーデンに参加させていただきました
≪輸送と保険≫
マイクロバス・チャーター 朝日観光バス
旅行保険 あいおいニッセイ同和損保、Bell保険オフィス
≪写真撮影≫
佐久間淳、長岡昇、長岡典己
≪ウェブサイト、ポスター、Tシャツ制作、横断幕≫
ウェブサイト制作 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、原田美穂)
ポスター制作 若月印刷(デザイン・高子あゆみ)
Tシャツデザイン 遠藤大輔
横断幕揮毫 成原千枝
【ウェブアルバム、ユーチューブの動画】 カラー文字のところをクリックしてご覧ください
▽塚本雅俊さん撮影のウェブアルバム
▽中沢崇さん撮影のウェブアルバム(三ヶ瀬、隼の瀬の動画もあります)
▽隼の瀬の動画(Youtube 撮影・長岡昇)
第3回探訪の難所、村山市の隼(はやぶさ)の瀬を行く鶴巻・根本艇
1日目、五百川(いもがわ)峡谷のタンの瀬に入る小林艇(愛犬ショコラ同乗)
カナディアンでタンの瀬を乗り切る中沢艇
≪参加者≫ 30人+2匹(チワワ、プードル)
山形県内13人、県外17人(宮城3人、福島3人、埼玉3人、栃木2人、群馬2人、東京2人、青森1人、長野1人)
【2日間で48キロを完漕】 18人(エントリー順)
林 和明(東京都足立区)▽菊地 大二郎(山形市)▽菊地 恵里(同)▽崔 鍾八(山形県朝日町)▽清野 由奈(同)▽塚本 雅俊(群馬県前橋市)▽塚本 弘美(同)▽根本 学(福島県郡山市)▽鶴巻 泰(福島県いわき市)▽斉藤 栄司(山形県尾花沢市)▽中沢 崇(長野市)▽和田 勤(栃木県那須塩原市)▽和田 智枝(同)▽市川 秀(東京都中野区)▽岸 浩(福島市)▽佐竹 久(山形県大江町)▽伊藤 敏史(埼玉県本庄市)▽小野 俊博(山形県大江町)=崔・清野艇にコナン<プードル>同乗
開会式を終え、さあ出発(山形県朝日町雪谷で)
崔・清野艇の船頭をつとめた愛犬コナン
【2日間で40キロを完漕】 1人(2日目の昼、村山市・隼の瀬まで)
高田 徹(青森県八戸市)
【1日目、28キロを完漕】 3人
東海林 憲夫(山形県寒河江市)▽小林 悟志(埼玉県川口市)▽小林 忍(同)=小林艇にショコラ<チワワ>同乗
【2日目、20キロを完漕】 8人
細谷 敏行(山形県大江町)▽伊藤 信生(山形県酒田市)▽鈴木 達哉(宮城県柴田町)▽鈴木 未知哉(同)▽池田 丈人(山形県酒田市)▽佐藤 博隆(同)▽三塚 志乃(仙台市太白区)▽渡辺 政幸(山形県大江町)
2日目は碁点橋のたもとからスタート
今年も軽やかなパドルさばきを見せた菊地艇
≪陸上サポートスタッフ≫
安藤 昭雄▽佐久間 淳▽白田 金之助▽鈴木 賢一▽鈴木 智▽長岡 昇▽長岡 典己▽長岡 佳子▽山口 義博
≪出発、通過、到着時刻≫
1日目(7月25日)
10:00 朝日町の雪谷カヌー公園を出発(予定を30分繰り上げ)
10:20 八天の瀬を通過、2艇が沈
10:50 八天橋を通過
11:20 朝日町の川通に到着、根本・鶴巻艇の水漏れを修理
11:30 川通を出発
11:50 最大の難所、タンの瀬を通過
12:20 大江町用(よう)の用橋を通過
13:25?14:30 大江町「おしんの筏下りロケ地」で昼食、休憩
16:10 中山町の長崎大橋に到着
村山市・碁点橋のたもとにカヌーを置き、大石田町に移動
18:30 大石田町・東町公民館での歓迎ビアガーデンに参加(18人)
難所、三ケ瀬(みかのせ)の手前にある大淀で横に広がる
同じく大淀で
塚本艇に続く三塚・斉藤艇
2日目(7月26日)
8:30 大石田河岸から車で出発、2日目の出発地点、碁点橋へ
9:15 村山市・碁点橋から出発
9:30 竜神の吊橋を通過
10:20 大淀を通過、陸上サポート要員は真下慶治記念美術館から声援
10:50 三ケ瀬橋を通過
11:10 長島橋を通過
11:30?12:45 村山市の隼の瀬眺望公園で昼食、休憩
13:05 隼橋を通過
14:15 大石田河岸に到着
14:40 閉会式
最大の難所、隼(はやぶさ)の瀬を乗り切る三塚・斉藤艇
隼の瀬を行く林艇。舳先に取り付けてあるのは大江町をPRする旗
アンカーの佐竹艇も隼の瀬を通過
≪主催≫ NPO「ブナの森」(山形県西村山郡朝日町宮宿1115 朝日町公所会館)
email:bunanomori.npo@gmail.com
≪主管≫ 最上川縦断カヌー探訪実行委員会(NPO「ブナの森」、大江カヌー愛好会、山形カヌークラブの3者で構成)
親子で参加した鈴木艇
大石田河岸に最初にゴールした市川艇
≪後援≫
国土交通省山形河川国道事務所▽山形県▽東北電力(株)山形支店▽朝日町▽大江町▽西川町▽寒河江市▽河北町▽中山町▽村山市▽大石田町▽山形カヌークラブ▽大江カヌー愛好会▽山形県カヌー協会▽美しい山形・最上川フォーラム
≪協力≫
大石田町・東町区長 矢作(やはぎ)善一▽東町公民館長 細矢裕▽東町公民館の皆様
*7月25日夕、東町公民館でのビアガーデンに参加させていただきました
≪輸送と保険≫
マイクロバス・チャーター 朝日観光バス
旅行保険 あいおいニッセイ同和損保、Bell保険オフィス
≪写真撮影≫
佐久間淳、長岡昇、長岡典己
≪ウェブサイト、ポスター、Tシャツ制作、横断幕≫
ウェブサイト制作 コミュニティアイ(成田賢司、成田香里、原田美穂)
ポスター制作 若月印刷(デザイン・高子あゆみ)
Tシャツデザイン 遠藤大輔
横断幕揮毫 成原千枝
【ウェブアルバム、ユーチューブの動画】 カラー文字のところをクリックしてご覧ください
▽塚本雅俊さん撮影のウェブアルバム
▽中沢崇さん撮影のウェブアルバム(三ヶ瀬、隼の瀬の動画もあります)
▽隼の瀬の動画(Youtube 撮影・長岡昇)
*メールマガジン「小白川通信 32」 2015年8月27日
この夏、マレーシアのマラヤ大学で開かれたサマーキャンプに参加しました。キャンプの趣旨は「欧州とアジアの交流をさらに拡大する」という高邁なもの。ただ、その割には参加者は私を含めて9人と、いささか寂しかったのですが、講師のラインナップは素晴らしく、参加者との会話も刺激的で、とても実り多いキャンプでした。
マレーシアのナジブ・ラザク首相
折しも、マレーシアではナジブ・ラザク首相の蓄財疑惑が発覚し、巷はその話題でもちきりでした。疑惑は、マレーシア政府が100%出資する投資会社「ワン・マレーシア・ディベロップメント(1MDB)」の関連会社や金融機関から、ナジブ首相の個人口座に7億ドル(約840億円)が不正に振り込まれた疑いがある、というもの。この投資会社はナジブ首相の肝いりで設立されたもので、首相兼財務相のナジブ氏はこれを監督する立場にあります。
「個人的に流用したことはない」とナジブ首相は弁明しています。送金は何回かに分けて行われ、2013年5月の総選挙直前に振り込まれた金もあります。このため、「与党の選挙資金ではないか」との憶測や「マレーシア政界の権力闘争がらみ」といった見方が飛び交っています。この問題を最初に報じたのはウォール・ストリート・ジャーナルで、メディアの追及は厳しく、その後、首相の夫人の蓄財疑惑まで報じられました。
サマーキャンプで一緒だったフィリピンの大学院生は「まるで、マルコス大統領とイメルダ夫人みたいだね。イメルダは豪華な靴を宮殿に残して有名になったけど、ナジブ夫人はお金を何につぎ込んだのかな」と興味津々の様子。中国通の学生が「中国の腐敗に比べたら、マレーシアの腐敗なんてかわいいもんだ」と話に割って入りました。
周永康・前政治局常務委員
今年の6月に終身刑が言い渡された中国共産党の前政治局常務委員、周永康は「本人と一族が蓄え、当局に押収された資産は900億元」と報じられました。円に換算すれば1兆円以上です。中国の石油ガス業界のドンで、党中央の序列9位まで上り詰めた人物だけに、蓄財もけた違いです。この学生によれば、数百億円程度の不正蓄財なら「中国にはゴロゴロある」のだそうです。
別の学生は「蓄財より、こっちの方が驚きだ」と切り返しました。スマートフォンで中国メディアの記事を検索しながら、「140人以上もの愛人を囲っていた党幹部がいる。江蘇省建設庁のトップ、徐其耀という男だ。愛人の数では、今のところ彼が一番」と言う。自ら手を付ける。賄賂として女性を差し出させる。徐は権力と金にものをいわせて女漁りにふけりました。2000年10月に逮捕され、翌年、執行猶予2年の死刑判決(事実上の終身刑)を受けています。愛人数ナンバーツーは湖北省天門市の共産党市委員会書記、張二江で、囲った愛人107人。歴史小説『水滸伝』で梁山泊に立てこもった豪傑108人になぞらえ、本妻を含めて108人の女豪傑を相手にした男として「時の人」になったとか。こちらは懲役18年。
江蘇省の幹部、徐其耀
知名度という点で、この2人を上回るのが重慶市の党幹部、雷政富だそうな。雷は賄賂として建設会社から送り込まれた18歳の少女とトラブルになり、彼女がこっそり撮影したビデオをネット上で公開されてしまいました。そのセックスビデオの中で、雷は13秒で果ててしまったため「雷十三」と名付けられ、ビデオの公開から63時間後に失脚したため「雷六三」とも呼ばれて、一躍有名になったのだそうです。判決も懲役13年。
日本で暮らす私たちから見れば、800億円の蓄財も140人の愛人汚職も「けた違いの腐敗」です。そして、共通しているのは、どちらの国でも権力が一つに集中していることです。中国もマレーシアも建前としては権力の分立をうたっていますが、その実態はそれぞれ、中国共産党とマレーシア国民戦線という政党の一党独裁です。権力を握る者の暴走を食い止める仕組みがないか、なきに等しい。だから、腐敗もとめどなく広がり、深まるのです。
中国経済の先行きを懸念して、このところ世界各地で株価が乱高下しています。つい最近まで「中国は世界の工場」とか「世界経済の成長を牽引する中国」とかもてはやしていたのが嘘のようです。腐敗や暴走をチェックし、行き過ぎをコントロールする仕組みがない社会がどうなるのか。私たちはこれから、その危うさを目撃することになるでしょう。
同時に、この混乱すら「大もうけのチャンス」とみなして、欧米や日本のハゲタカファンドは牙を研いでいるはずです。先進国や産油国の「ダブついた金」もまた、歯止めなきゲームの重要なプレーヤーであり、私たちにとっても決して他人事ではありません。世界は漂い、乱れ始めています。
(長岡 昇)
《参考サイト》
▽マレーシア・ナジブ首相の蓄財疑惑(フランスの通信社AFP)
▽徐其耀と張二江のスキャンダル(日経ビジネスONLINE)
▽雷政富のスキャンダル(ニューズウィーク日本語版)
《写真のSource》
▽ナジブ・ラザク首相(2015年7月、AFP)
http://www.afpbb.com/articles/-/3053735?ref=jbpress
▽周永康(2007年10月、ロイター)
http://jp.reuters.com/article/2015/06/11/china-corruption-idJPKBN0OR1B520150611?feedType=RSS&feedName=worldNews
▽徐其耀
http://news.sina.com.cn/c/239519.html
*メールマガジン「小白川通信 31」 2015年8月17日
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類いでしょうか。戦後70年の節目の夏に安倍晋三首相が発表した談話について、首相の政治信条に批判的な朝日新聞は「いったい何のための、誰のための談話なのか」「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と、いささか感情的とも言える社説を掲げました(8月15日付)。
確かに、安倍首相の談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」と、歴代政権が反省し、わびてきたことを確認しただけで、自らの言葉で謝罪することはありませんでした。「侵略」という言葉も一回だけ、「事変、侵略、戦争」と並べて使っただけです。まるで「侵略という言葉も入れたよ」と、アリバイを主張するような言及の仕方でした。
21世紀構想懇談会の初会合(2015年2月25日)
あの戦争をどう受けとめるのか。命を落とした、すべての人々に何を語りかけたかったのか。政治家としての真摯さを感じさせるものではありませんでした。ですが、戦後50年の村山談話や戦後60年の小泉談話に比べると、「優れている」と評価できる内容も含まれていました。それは、日中戦争やアジア太平洋戦争を、長い歴史の文脈の中で捉え、語っている点です。
今回の首相談話は、戦争への道を「100年以上前の世界」から説き起こしています。20世紀の初め、アジアや中東、アフリカで「われわれは独立国だ」と胸を張って言える国はほんの一握りしかありませんでした。日本、タイ、ネパール、アフガニスタン、トルコ、エチオピア、リベリアくらいではないでしょうか。ほかの地域は大部分、欧米の植民地あるいは保護領として過酷な収奪にさらされ、列強の縄張り争いの場となっていました。
小国、日本はその中で独立をまっとうしようとして必死に生きたのであり、ロシアとの戦争にかろうじて勝利を収めたのです。1905年の日露戦争の勝利がアジアや中東、アフリカで植民地支配にあえぐ人々に「勇気と希望」を与えたのは、まぎれもない歴史的事実です。その後、日本は時代の流れを見誤り、増長して戦争への道に踏み込んでいきましたが、その戦争は「侵略」という一つの言葉で語り尽くせるような、生易しいものではありません。どういう時代状況の中で日本が戦争に突き進んでいったのか。それは極めて重要なことであり、村山談話でも小泉談話でもきちんと語らなければならないことでした。
97歳の中曽根康弘元首相は毎日新聞への寄稿(8月10日付)で、日本軍が中国や東南アジアで行ったことは「まぎれもない侵略行為である」と認めつつ、「第二次大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは、複合的で、対米英、対中国、対アジアそれぞれが違った、一面的解釈を許さぬ、複雑な要素を持つ」と記しました。「あの戦争は侵略戦争だったのか、それとも自存自衛の戦争だったのか」といった、一面的な設問と論争はもう終わりにしなければなりません。「侵略や植民地支配、反省とおわび」のキーワードを使ったのかどうか、といった表層的な見方にも終止符を打ちたいのです。そのためには、1930年代と40年代の戦争だけを切り取って語るような狭量さから抜け出さなければならない、と思うのです。
「そうは言っても、歴史的な叙述のところは安倍首相の本音ではないはずだ。首相の私的懇談会(21世紀構想懇談会)の受け売りではないか」とあげつらう向きもあるでしょう。その通りかもしれません。けれども、戦後70年の首相談話のような重要な演説は、だれが下書きを書いたのかとか、だれの助言が反映されたのかといったことを乗り越えて記録され、人々の記憶になっていくのです。時がたてば、読み上げた首相の名前すら忘れ去られ、独り歩きしていく歴史的な文書なのです。
2015年、戦後70年という節目に、日本という社会は先の戦争をどう総括し、未来をどのように切り拓こうとしていたのか。それを物語る記録なのです。その意味で、戦争の意味合いを曖昧にし、謝罪も不十分だったことは残念ですが、あの戦争が一面的な解釈を許さない、苛烈な戦争であったことを長い歴史の文脈の中で語ったことは、後に続く世代のためにも有益なことでした。
そして、追悼の対象を「300万余の日本人戦没者」にとどめるのではなく、戦争で斃れたすべての人々に思いを致さねばならないこと、戦後の日本に温かい手を差し伸べてくれた中国やアジア諸国、戦勝国の人々に感謝する心を忘れてはならないと述べたこと、戦後の平和国家としての歩みを「静かな誇りを抱きながら」貫くと宣言したことも、意義深いことでした。そうした点も評価しなければ、公平とは言えないでしょう。
私には、安倍首相の政治信条は理解できません。首相にふさわしい器とも思いません。けれども、私たちの社会が今、首相として担いでいるのは安倍晋三という政治家であり、それ以外に持ち得なかったのも事実です。戦後70年談話という重要な政治声明も、彼の口を通して語られるしかなかったのです。切ないことですが、それも認めざるを得ません。なのに、その談話を「出すべきではなかった」などとバッサリ切り捨て、そこには何の意味もないかのように論じるのでは、あまりにもさもしい。
非は非として厳しく追及し、認めるべきことは率直に認める。そのうえで、未来を生きるために何をしなければならないのかを論じる。メディアには、政治家の器量を超えて物事を捉え、未来を照らすような、懐の広さと深い洞察力が求められていると思うのです。
首相が談話を読み上げた後の会見のあり方も変えてほしい。記者クラブの幹事が質問し、その後の質問は政権側の司会進行役が指名するような方法をいつまで続けるつもりなのか。朝日、読売、毎日の3大紙とNHKの記者がだれも質問しないような首相会見を視聴者がどう受けとめるかも考えてほしい。誰が質問するかはメディアの側がくじ引きで決める。そのうえで、自由にガンガンと質問する。そういう方法に変えるべく力を尽くすべきではないか。
安倍政権の提灯持ちのようなメディアと、遠吠えのような批判を繰り返すメディア。これも、私たちの社会が戦後70年で辿り着いた現実の一つですが、変えようとする強い意志があれば、変えられる現実ではないか。
(長岡 昇)
≪参考資料≫
▽戦後70年の安倍首相談話(首相官邸公式サイト)
▽20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の報告書
≪写真のSource≫
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201502/25_21c_koso.html
*メールマガジン「小白川通信 30」 2015年8月8日
しなければならないことをせず、ほかの人に大きな迷惑をかけたならば、その人は責任を取らなければなりません。これは小学生でも分かる論理です。ところが、この当たり前のことが検察官の間では通用しないようです。原発事故の被災者が東京電力の幹部や政府関係者を告訴・告発したのに、東京地方検察庁は2度にわたって「裁判で刑事責任を問うことはできない」として不起訴処分にしました。
検察の言い分は「あのような大きな津波が発生することを確実に予測することはできなかった。従って、東京電力の備えが不十分だったとは言えない」というものです。確かに、東京電力はそう主張しています。規制官庁の原子力安全・保安院も右へならえです。しかし、本当にそうだったのでしょうか。大津波を予測し、警告した人はいなかったのか。東電と保安院はなすべきことをきちんとしてきたのか。
事故から1年後の福島第一原子力発電所(2012年2月)
福島の原発事故を考える際に、つい見落としてしまいがちなことがあります。それは、2011年3月11日に東北の沖合で巨大地震が発生し、大津波に襲われたのは福島第一原発だけではない、ということです。大津波は宮城県にある女川原発にも福島第二原発にも押し寄せました。なのになぜ、福島第一原発だけがこの悲惨な事故を引き起こしたのか。しかも、福島第一に6基ある原子炉のうち、なぜ1?4号機だけが全電源の喪失、原子炉の制御不能、炉心溶融と放射性物質の大量放出という大惨事を招いてしまったのか。それには、しかるべき理由と原因があるはずです。
その点をとことん突き詰めた本があります。昨年の11月に出版された添田孝史氏の『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)です。添田氏は朝日新聞の科学記者でしたが、2011年5月に退社してこの問題の追及に専念し、本にまとめました。実に優れた報告です。とりわけ、女川原発と福島第一原発の設置時の津波想定を比較している序章が秀逸です。
原発の設置申請は福島第一の1号機が1966年、女川原発の1号機が1971年でした。まだ地震の研究が十分に進んでいない時期で、津波の研究はさらに立ち遅れていました。そうした中で、東京電力が福島第一原発の設置申請をする際に想定した津波は、1960年のチリ地震の津波でした。この時、福島第一原発に近い小名浜港で記録された津波の高さは3.122メートル。これに安全性の余裕を見て5メートルほどの津波を想定し、海面から30メートルあった敷地を10メートルまで削っで原発を建設したのです。当時はこれで十分、と判断したのでしょう。
これに対して、女川原発では明治29年と昭和8年の三陸大津波に加えて、869年の貞観(じょうがん)地震による大津波をも念頭に置いて津波対策を施し、原発の敷地を14.8メートルに設定しました。東電が調べたのはわずか10数年分の津波データ。それに対し、平安時代まで遡って津波を考えた東北電力。その結果が海面からの敷地の高さが10メートルの福島第一と14.8メートルの女川という差となって現れたのです。この4.8メートルの差が決定的でした。
添田氏は、女川原発の建設にあたって、東北電力がなぜそのように慎重に津波の想定をしたのかを詳しく調べています。そのうえで、同社の副社長だった平井弥之助氏の存在が大きかった、と結論づけています。宮城県岩沼市出身の平井氏は、三陸大津波の記録に加えて、地元に伝わる貞観大津波のことを知っていたのです。そして、部下たちに「自然に対する畏れを忘れず、技術者としての結果責任を果たさなければならない」と力説していました。(前掲書p12)。平井氏の思いは部下に伝わり、女川原発を津波から守った、と言うべきでしょう。
東京電力の大甘の津波想定がその後もそのまま通用するはずがありません。地震と津波の研究が進むにつれて、東京電力は「津波対策を強化すべきだ」という圧力にされされ続けます。1993年の北海道南西沖地震では、奥尻島に8メートルを超える津波が押し寄せ、最大遡上高は30メートルに達しました。これを受けて、国土庁や建設省、消防庁など7省庁が「津波防災対策の手引き」をまとめ、「これまでの津波想定にとらわれることなく、想定しうる最大規模の地震津波も検討すべきである」と打ち出しました。
1995年の阪神大震災の後には、政府の地震調査研究本部が「宮城沖や福島沖、茨城沖でも大津波が起きる危険性がある」と警告を発しました。2004年のインド洋大津波の後にも、津波対策を急がなければならないと問題提起した専門家は何人もいたのです。
インド洋大津波でスマトラ島アチェの海岸に打ち上げられたタグボート
それらに、東京電力はどう対処したのか。2008年には社内からも「15メートルを超える津波が押し寄せる可能性がある」という報告が上がってきていたのに、上層部が握りつぶし、ほとんど何の対策も取らなかったのです。それどころか、意のままになる地震学者を動員して、警告を発する専門家や研究者の動きを封じて回った疑いが濃厚です。東電はこの間、度重なる原発の事故隠しスキャンダルで逆風にさらされ、中越地震で損壊した柏崎刈羽原発の補修工事にも追われて赤字に陥り、経営的にも厳しい状況にありました。巨額の費用がかかる津波対策を先送りにせざるを得ない状況に追い込まれていたのですが、そうした事情を割り引いても、許しがたい対応と言わなければなりません。
添田氏は地震の研究者や原子力規制の担当官、電力会社の幹部らに取材して、その経過と実態を白日の下にさらそうとしています。経済産業省や保安院が東電をかばって資料を見せようとしないのに対しては、情報公開制度を駆使して文書を開示させています。彼の本はそのタイトル通り、津波に対する警告を葬った人々に対する弾劾の書です。
日本の検察は「有罪にできる自信がない限り、起訴しない」というのを鉄則にしています。いったん起訴されれば、被告の負担は大きく、たとえ無罪になったとしても取り返しのつかない打撃を受けるおそれがあるからです。それはそれで立派な原則ですが、それを権力を握り(地域独占企業である東京電力は限りなく「権力機関」に近い)、中央省庁を巻き込んで都合の悪いことを隠そうとする組織の幹部にまで同じように適用しようとするから、おかしなことになるのです。
11人の市民からなる東京第五検察審査会が東京地検の不起訴処分を覆して、東電の勝俣恒久・元会長と武黒一郎・元副社長、武藤栄・元副社長の3人を業務上過失致死傷の罪で強制起訴する、と決めたのは極めて健全な判断と言うべきです。検察は「大津波を確実に予測することはできなかった」と主張しているようですが、そもそも数千年、数万年、数十万年というスパンで動く地球の動きを地震学者が「確実に予測する」ことなど、昔からできなかったし、今でもできはしないのです。できることは「自然に対する畏れを忘れず、謙虚に研究を積み重ね、できる限りの対策を施す」ということに尽きます。東北電力はそれを愚直に守り、東京電力は「小さな世界」に閉じこもって姑息な手段を弄し、大自然の鉄槌を浴びる結果を招いたのです。
「小さな世界に閉じこもる」という点では、検察も同じです。日本で現在のような法体系ができたのは明治維新以降で、まだ1世紀半しか経っていません。そういう小さな枠組みで、東日本大震災という未曽有の事態に対処しようとするから、おかしなことになるのです。突き詰めれば、法の淵源は一人ひとりの良心と良識、その総和にほかなりません。そういう大きな枠組みに立ち、未来を見据えて、東電の幹部は司法の場で裁かれるべきかどうか判断すべきでした。有罪か無罪かはその先の問題であり、最終的な判断は裁判所に託すべきだったのです。
検察審査会が東電の旧経営陣3人の強制起訴を決めたことに関する新聞各紙の報道(8月1日付)も興味深いものでした。原発政策の推進を説く読売新聞が冷ややかに報じたのは理解できますが、朝日新聞まで1面に「検察と市民 割れた判断」と題した解説記事を掲載したのには首をかしげざるを得ませんでした。中立的と言えば聞こえはいいのですが、それは検察の言い分をたっぷり盛り込んだ、他人事のような記事でした。
中央省庁や電力会社の人間に取り囲まれ、その言い分に染まり、既得権益の海に沈んだ検察。その検察の取り巻きのようになって、一緒に沈んでいく司法クラブの記者たち。朝日、毎日、読売の3紙を読み比べた範囲では、「予見・回避できた」という検察審査会の主張を1面の大見出しでうたった毎日新聞が一番まともだ、と感じました。「法と正義はどうあるべきか」を決めるのは検察ではありません。三権のひとつ、司法の担い手である裁判所であり、最終的には主権者である私たち、国民です。その意味で、検察審査会のメンバーは立派にその職責を果たした、と言うべきです。
(長岡 昇)
《写真のSource》
▽福島第一原子力発電所(2012年2月)
http://www.imart.co.jp/houshasen-level-jyouhou-old24.3.19.html
▽スマトラ島アチェのタグボート(2005年1月29日、長岡昇撮影)