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*メールマガジン「小白川通信 35」 2015年12月26日

 天皇陛下は今年の82歳の誕生日に先立って皇居で記者会見し、口永良部島の噴火や鬼怒川の洪水、大村智・梶田隆章両氏のノーベル賞受賞に触れた後、戦時中に徴用された船員の犠牲者について次のように述べました。

「将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました」「制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」

 日本殉職船員顕彰会によれば、徴用された船員の死亡率は43%で、陸軍の20%や海軍の16%を上回ります。民間人である船員の方が軍人よりも死亡率がはるかに高い。何という戦争であったことか。船員の犠牲者への言及がこうした事情を踏まえたものであることは言うまでもありません。

 会見の結びは、今年4月のパラオ共和国訪問についてでした。パラオには日本軍守備隊と米海兵隊が死闘を繰り広げたペリリュー島があります。ペリリューの戦いは硫黄島での戦闘の前哨戦とされ、双方の死傷者の多さに加えて、戦闘のあまりの凄惨さに数千人の米軍兵士が精神に異常をきたしたことで知られています。結びの言葉はこうでした。

「パラオ共和国は珊瑚礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでには、まだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います」

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ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官

 70年たっても、「国民統合の象徴」として深く思いを巡らさないではいられない戦争。しかも、公的には「先の戦争」などという曖昧模糊とした言葉でしか語れない戦争。私たちの国は、300万人を超える同胞が命を落とした戦争について、その呼称すらいまだに定められない国なのです。

 新聞や教科書では「太平洋戦争」という呼称が定着していますが、この呼び方が戦争の実相にそぐわないものであり、研究者たちの間で論争が続いていることは今年6月12日に配信した「小白川通信27」で指摘しました。この呼称は、戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が「大東亜戦争」と呼ぶことを禁じた際に代案として、いわば一時しのぎの呼称として出してきたものです。太平洋を主戦場として戦った「米軍」にとってはピタッとくる表現だったのでしょうが、中国大陸やインド洋でも戦った日本にとっても、英国やオランダにとってもふさわしくない呼称です(米国政府すら、当時は「太平洋戦争」と表現しておらず、公式には第2次世界大戦の一部として「対日戦争」と称していたとみられます。調査中です)。

 占領後、GHQは日本の新聞社や出版社を直接統制下に置き、真珠湾攻撃の4周年にあたる1945年(昭和20年)12月8日を期して、全国の新聞に「太平洋戦争史」という長大な連載記事を載せるよう命じました。物資不足で印刷用紙も配給制の時代。この連載を掲載させるために、GHQは新聞各社に印刷用紙を特配しています。全国紙も地方紙も、通常なら2ページ立ての紙面をこの日は4ページ立てにし、紙面の半分を使って連載の前半を一挙に掲載しました。毎日新聞と朝日新聞、山形新聞に目を通した限りでは、残りは12月9日から17日までGHQ提供の章立てに沿って掲載しています。連載記事の冒頭部分は次の通りです(漢字は旧字体を新字体に、仮名遣いも現代風に改めました)。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されて行くことになろう。これによって初めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、また戦争犯罪者達に気兼ねすることもなく詳細に且つ完全に暴露されるであろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱い等であるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは『真実の隠蔽』であろう」

 この文章からうかがえるように、連載では日本軍による捕虜虐待など戦争犯罪を暴露することに力を注いでいますが、それに留まらず、1931年の満州事変から1945年の米戦艦ミズーリ上での降伏文書調印まで、データをちりばめながら戦争の経緯を詳細に叙述しています。大本営発表しか知らなかった国民にとっては衝撃的な記事であり、ある程度内情を知っていた報道関係者にとっても驚くべき内容でした。

 執筆したのはマッカーサー司令部の下にあった戦史室のスタッフ、陣容は歴史学者や米軍幹部ら約100人とされています。英文の記事を共同通信が翻訳して新聞各社に配信しました。戦史室の責任者は「小白川通信15(2014年7月18日)」でも紹介したメリーランド大学のゴードン・プランゲ教授です(当時はGHQの文官)。歴史学者が統率しただけあって、その内容は後の研究者の検証にも堪え得るものでした。

 例えば、1937年の日本軍による南京虐殺事件について。この事件の記録をユネスコの記憶遺産に登録申請した中国政府は、犠牲者を30万人以上と主張して研究者たちをあきれさせていますが、GHQのこの連載では「証人達の述ぶるところによれば、このとき実に2万人からの男女、子供達が殺戮されたことが確証されている」と記されています。南京事件については、長い研究の末に「犠牲者は数万人規模」という見方に収斂しつつあり、70年前に書かれたこの記事の質の高さを示しています。

 日本軍の戦死者212万人(1964年の厚生省調査)のうち、地域別では最も多い49万人もの犠牲者を出したフィリピンでの戦闘についても、実にバランス良く、正確に書いています。この戦いで日本軍は情勢を十分に把握できないまま敗北を重ね、将兵の多くを餓死や病死に追いやる結果になりました。GHQの記事は「9ヶ月間の戦闘において日本軍の損害は42万6070、捕虜1758及び莫大なる鹵獲(ろかく)品を得た」と実態に極めて近い叙述をしているのです。

 内容が正確で衝撃的だったうえに新聞各紙が一斉にこの連載記事を載せたこともあって、戦後、「太平洋戦争」という呼称は日本国内に広まり、定着していきました。出版社も一部を除いて「太平洋戦争」を使い続けています。一方、政府は「大東亜戦争」という呼称を禁じられてからは、法律や公文書で「先の戦争」あるいは「今次の大戦」などと表現するようになり、今日に至っています。

 「太平洋戦争」という呼称の生い立ちを知り、政府の対応に批判的な論客の中には「戦争中に使った大東亜戦争がもっともふさわしい呼び方だ」と主張する人もいます。しかし、大東亜共栄圏という侵略のバックボーンになった言葉を冠した呼称は、アジア諸国だけでなく国際社会でも到底受け入れられないでしょう。地理的概念としても、太平洋では狭すぎるのと同じく、大東亜でも戦争全体をカバーしきれません。現状では、妥協案として編み出された「アジア太平洋戦争」という呼称を使うしかない、というのが私の立場です。

 歴史研究者の間では、この呼称がかなり使われるようになってきましたが、「太平洋戦争」という呼び方を広める役割を果たした新聞は当然のように同じ呼称を使い続けています。当時は占領下で拒絶する余地などなかったという事情があるにせよ、70年間もそのまま使い続けていていいのか。中学や高校の歴史教科書の出版社の多くが「太平洋戦争」という表現を変えないのも、新聞各社の動向と無縁ではないでしょう。日本のメディアと出版社は、いまだにGHQの呪縛から抜け出せないでいる、と言うしかありません。

 あの戦争からどのような教訓を汲み出し、それを未来にどう活かしていくのか。真摯に考えるなら、漫然と「太平洋戦争」などと書き続けることはできないのではないか。新聞記者として自らも漫然と書いてきた者の一人として、自戒しつつそう思うのです。
(長岡 昇)

 
*「太平洋戦争」という呼称についてはさらに調べて、続編を書く予定です。

≪参考文献・資料≫
・『太平洋戦争史』(高山書院、1946年刊=GHQ提供の新聞連載記事をまとめたもの)
・1945年12月の毎日新聞、朝日新聞、山形新聞

≪参考サイト≫
天皇誕生日の記者会見全文(宮内庁公式ホームページ)
日本殉職船員顕彰会のウェブサイト

≪写真のSource≫
ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官
http://wadainotansu.com/wp/1707.html
*メールマガジン「小白川通信 34」 2015年12月11日

 長く一緒に暮らしているうちに夫婦は似てくる、と言います。本当にその通りだと思います。毒舌をふるう私と30年余りも暮らしたせいで、かみさんはしばしば、どぎつい表現を口にするようになってしまいました。「こんな女じゃなかったのに」と、不憫に思うこの頃です。

 私は6年前に朝日新聞を早期退職して、夫婦で故郷の山形に戻りました(かみさんも山形出身)。同じ頃、新聞社や通信社を定年前に退職して郷里で暮らし始めた記者仲間が何人かいました。転勤生活の末に、ようやく東京で落ち着いた暮らしができるようになったと喜んでいたかみさんは憤懣やるかたなく、「男どもはみんな、ホッチャレか」と毒づきました。ホッチャレは北海道の方言で、生まれ育った川に戻って産卵や放精を終え、ヨレヨレになった鮭のことを言います。「なるほど、うまい例えだなぁ」と思う半面、「ホッチャレはほどなく死んでしまう。俺たちも似たようなものと言うのか」と、いささかムッとした覚えがあります。

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馬毛島で草をはむニホンジカの固有亜種「マゲシカ」。遠景は種子島

 私の「ホッチャレ仲間」に、鹿児島県・種子島出身の八板俊輔(やいた・しゅんすけ)さんがいます。駆け出し記者時代、初任地の静岡で一緒に警察回りをした仲です。彼も朝日新聞を早期退職して、生まれ故郷の種子島に戻りました。種子島は鉄砲伝来の地として有名ですが、伝来した鉄砲の複製を試みた刀鍛冶、八板金兵衛とも遠くつながる家系とか。その縁もあって、鉄砲伝来から450年になる1993年にはポルトガルに出張して特集記事を書いています。

 故郷・種子島への思いは深く、その西に浮かぶ小さな島、馬毛島(まげしま)にも忘れがたいものがあったのでしょう。このたび、この小島のことをうたった短歌や写真、島の歴史を織り込んだ著書『馬毛島漂流』(石風社)を出版しました。江戸時代、種子島が飢饉に襲われるたびに、人々の命を救ったのは馬毛島に自生するソテツの実だったといいます。島で暮らすのは、トビウオ漁などをする一握りの漁民だけ。戦後は復員対策も兼ねて開拓農民が入植した時期もあったようですが、経済成長期に入ると、大規模レジャー施設計画や石油備蓄基地構想が持ち上がって土地が買収され、住民はいなくなってしまいました。

 しかし、レジャー施設計画や石油備蓄構想はいずれも頓挫。その後も、自衛隊のレーダー基地や使用済み核燃料の貯蔵施設計画、米空母艦載機の離着陸訓練の候補地といった話が次々に浮上したものの、いずれも実を結ぶことはありませんでした。中央の政治と経済に振り回され、漂い続けて今日に至っています。帰郷した後、八板さんはこの島に何度も足を運び、打ち捨てられた島への思いを綴り、その風景を詠んできました。

 漂流したのは島だけではありません。最後には八板さん自身も海を漂います。種子島から小船に乗り、沖合からカヤックを漕いで馬毛島に上陸したものの、携帯電話をなくして迎えの船を頼むことができなくなりました。食料も水もほぼ尽き、カヤックを漕いで自力で戻るしかない状況。強い潮に流されながら、パドルを漕ぐこと8時間余り。体力が尽きる寸前にようやく種子島の海岸に辿り着きました。最後の章でその顚末をルポ風に書いていますが、大学ボード部での経験がなければ遭難していただろう、と思わせる内容です。

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馬毛島に自生するソテツ。飢饉の時、種子島の人たちの命を救った

 短歌も島の写真も、遭難寸前の漂流記もそれぞれ印象的ですが、私がもっとも惹かれたのは「7300年前の大噴火の話」でした。この本では、九州薩摩半島の南で起きた大噴火は「東西22キロ、南北19キロの巨大なカルデラを残しました」(p121)とサラリと触れているだけですが、私はこの噴火のことを調べずにはいられなくなりました。大学の講義で「縄文時代の遺跡と人口」を取り上げ、「縄文時代の遺跡が北海道と東北に多く、人口も東日本が圧倒的に多いと推定されているのはなぜか」という問題に触れたことがあったからです。

 その理由については、縄文時代には北海道と東北の方が食糧を手に入れやすく、冬を越すのに適した環境だったから、という見方が有力のようです。北方には栗やクルミ、栃の木など貯蔵に適した木の実を付ける落葉広葉樹が多く、秋には鮭、春にはサクラマスが大量に遡上して来るので飢えをしのぐことができた、というわけです。ただ、異論もあり、その一つが「西日本で巨大噴火があったために生活できなくなり、遺跡の多くも埋もれてしまった」という説です。講義では「異論の一つ」として紹介しただけでしたが、もっと詳しく調べざるを得なくなりました。

 巨大噴火と言えば、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間にあるクラカトア火山の大噴火がよく知られています(地元の発音はクラカタウ)。1883年(明治16年)に山体が吹き飛ぶ大爆発を起こし、海に崩れ落ちた山が大津波を引き起こして3万人以上が亡くなった、とされる噴火です。被害は東南アジアに留まりませんでした。天高く舞い上がった火山灰や微粒子は太陽光を遮り、北半球全体の気温を引き下げたとされています。この大噴火を叙事詩のように描いたのが英国の作家サイモン・ウィンチェスターの名著『クラカトアの大噴火』(早川書房)です。読むと恐ろしくなる本です。

 ところが、火山学や地質学の知見を基にした噴火についての本を読むと、過去にはクラカトアの大噴火をはるかにしのぐ超巨大噴火が何度も起きており、日本は「そのリスクが極めて高い国の一つ」であることが分かります。九州だけでも、種子島と馬毛島の西にある「鬼界(きかい)カルデラ」(これが7300年前に噴火した)、薩摩半島と大隅半島にまたがる「阿多(あた)カルデラ」、桜島から霧島にかけての「姶良(あいら)カルデラ」、その北に「加久藤(かくとう)カルデラ」、「阿蘇カルデラ」と連なっています。それぞれ、大昔に超巨大噴火を起こしており、その噴火エネルギーは東日本大震災を引き起こした地震のエネルギーをはるかに上回る、とされています。

 問題は「それがいつ起きるか」です。数万年あるいは数十万年に一度であれば、それほど心配する必要はないのかもしれません。が、46億年という地球の歴史から見れば、数万年も数十万年も「刹那のようなもの」であり、私たちなど「刹那の刹那を生きているだけ」なのかもしれません。明日も1万年後も「刹那のうち」だとすれば、「いつ起きてもおかしくない」と言うこともできます。

 そういう前提に立って書かれた小説が『死都日本』(石黒耀、講談社)です。九州南部で超巨大噴火(破局噴火)が起きて、日本という国家そのものが破滅してしまう物語で、2002年に発売されてベストセラーになりました。この小説では、火山学者が前兆現象を捉え、政府は的確な危機管理をし、九州電力は噴火の前に川内原発から核燃料を取り出す措置を取ります。ですが、その9年後に起きた大震災で、私たちは地震学者が何の警告も発することができず、政府の危機管理もお粗末極まりなく、東京電力も炉心溶融を防ぐことができなかったことを知りました。

 あの大震災のエネルギーをはるかにしのぐような大噴火が起きた時、この国は、そしてこの星はどうなるのか。私たちにできるのは、ただ祈ることだけなのかもしれません。
(長岡 昇)

≪参考文献≫
・『馬毛島漂流』(八板俊輔、石風社)
・『クラカトアの大噴火』(サイモン・ウィンチェスター、早川書房)
・『歴史を変えた火山噴火』(石弘之、刀水書房)
・『死都日本』(石黒耀、講談社)

*写真はいずれも八板俊輔さん撮影