長い間、文字は支配者のものだった。彼らは文字を使ってルールを定め、統治した。その統治の正統性を謳(うた)い、伝えるために記録を残した。
当然のことながら、支配する側が残した史書や記録は公平なものではあり得ない。敵は常に悪逆非道であり、「大義は我らにあり」と記す。戦いに敗れた者たちのことは「必要な範囲」で触れるだけだ。ましてや、隷属する者たちのことなど気にも留めない。かすかな断片のようなものが後世に伝えられるに過ぎない。
部落史の研究者によれば、「エタ」あるいは「穢多」という文字が文献に初めて出てくるのは13世紀、鎌倉時代である。随筆形式の辞典、『塵袋(ちりぶくろ)』という文献(作者不詳)に次のように記されている。
キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(こと)ハソ
根本ハ餌取(エトリ)ト云フヘキ欤(か)
餌ト云フハシヽムラ 鷹等ノ餌ヲ云フナルヘシ 其ヲトル物ト云フ也
エトリヲハヤクイヒテ イヒユカメテエタト云ヘリ
(中略)
天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者(トシャ)也
イキ物ヲ殺テウルエタ躰(てい)ノ悪人也
(片仮名のルビは写本の通り、平仮名のルビは筆者が補足)
現代語訳すれば、「清めの仕事をする者を『エタ』と言うのはなぜか。その語源は『餌取』と言うべきか。餌とは肉のかたまり、タカなどの餌を取る者のことである。『エトリ』を早口で言い、言いゆがめて『エタ』と言った」「インドの言葉で『旃陀羅』と言うのは『屠者』のことで、生き物を殺して売る『エタ』のような悪人のことである」という内容だ。
律令国家の時代から、鷹狩は天皇や貴族のたしなみであり、軍事訓練を兼ねていた。鷹狩を取り仕切り、タカの飼育を担う役職があった。餌取とは、その役人の配下でタカの餌の調達にあたった人々のことを言う。その「エトリ」が転じて「エタ」と呼ばれるようになった、というのが『塵袋』の説明である。
作者も自信がなかったのだろう。「語源は餌取と言うべきか」と留保を付けている。また、「エタ」のところには「非人やカタイ(ハンセン病者)、エタは人と交わらない点で同じようなもの」という説明もある。彼らは蔑まれ、忌避される存在だった。
「エタ」の語源に関する『塵袋』のこれらの記述はさまざまに解釈されてきたが、重要なのはすでに鎌倉時代には「エタ」という言葉が使われていたという点だ。同じ頃に作られた『天狗草紙』という絵巻物には、「穢多童(えたわらわ)」という文字が記され、子どもが鳥を捕まえ、さばいている絵がある。
鎌倉時代にはすでに「エタ」という言葉が使われ、「穢多」という漢字が当てられていたことは疑いようがない。そして、その言葉の由来については当時、辞典を編む知識人ですら「餌取から転じたものか」といった程度のことしか記すことができなくなっていた。
冒頭に記したように、支配層にとって「社会の底辺で生きる人々」のことなど取るに足らない事柄である。「エタ」という言葉が書き留められるまでにはかなりの時が流れ、その由来すらよく分からなくなっていた、と考えるのが自然だろう。
文字には「いったん記されると独り歩きを始める」という性質がある。室町時代の辞典『壒嚢抄(あいのうしょう)』や江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも「エタ」についての説明があり、どちらも「エタの語源は餌取」と記す。ともに『塵袋』を参照したと見られるが、『塵袋』にあった「語源は餌取か」の「か」という留保はなくなり、両方とも断定している。被差別部落の問題を扱う本には、これらの文献を引用して「エタは餌取の転訛」と説明しているものが少なくない。「独り歩き」の好例と言える。
文字や記録を扱う者は、素直すぎてはいけない。「エタ」や「穢多」の語源に関する文献は、一字一句を注意深く、時には疑い深く読む必要があることを教えている。「エタ」の語源については諸説あるが、今となっては「よく分からない」と言うしかない。
◇ ◇
鎌倉時代や室町時代、差別にさらされた人々は穢多、非人のほか河原者、皮多(かわた)、宿(しゅく)の者、坂の者、細工、庭者、鉢たたきなどさまざまな名で呼ばれた。歌舞伎や人形浄瑠璃の役者も「河原者」として扱われ、賤視された。
戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行が相次いだ時代である。人々は疲弊し、社会は揺れ動いた。混乱の中で賤民からのし上がった人々も少なくなかっただろう。とりわけ、室町幕府が形骸化して戦国の世になると、下剋上という言葉に象徴されるように社会階層は激しく流動化した。
このプロセスをどのように見るかは「被差別部落の起源をどう考えるか」に直結する重要な論点となる。「大混乱の中でも多くの賤民は這い上がれなかった」と見るか。「社会階層はバラバラになり、リセットされた」と見るか。
前者の立場なら「今日の被差別部落の起源は江戸時代から中世、さらには古代にまで遡る可能性がある」となる。後者の立場からは「古代や中世の賤民とは断絶がある。豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、支配する側は新たな身分差別制度をつくった」と説くことになる。
どちらの見解がより合理的で説得力があるかの判断はひとまず置き、話を先に進める。
16世紀末に戦国の世を治め、天下を統一したのは豊臣秀吉である。豊臣政権は田畑の検地を実施して年貢の徴収を確実なものにし、農民一揆を抑えるために刀狩をした。部落差別との関係で重要なのは、武家の奉公人が町人や百姓になること及び百姓が商人や職人になることを禁じたことだ。身分が固定され、町人や百姓の下に位置づけられた被差別民は這い上がることができなくなった。
江戸時代になると、身分の固定はさらに強化され、宗門人別改帳によって厳しく管理されるようになる。教科書では江戸期の被差別民は「穢多・非人」と表現されるが、当時の文献を見ると、「穢多」の呼称は東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」や「革多」などと記されることが多い。「非人」もさまざまな名で呼ばれ、記録された。
太平の世が長く続くなるにつれて、差別はきつくなる。部落の人々は通婚の禁止に加え、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」(1683年、長府藩)、「武士や百姓、町人と出会った時は道の片側に寄れ」(紀州藩)といった厳しい規制を受けた。
極め付きは、伊予(愛媛)の大洲藩の触書(1798年)である。「近頃、穢多の分限不相応な振る舞いが目立つ」として、彼らに「五寸四方の毛皮を身に着けて歩くこと。家の戸口にも毛皮を下げること」を命じた。
これらの触書は、商品経済が広まるにつれて被差別民の中にも財を蓄え、裕福な暮らしをする者が増えていったことを示している。江戸幕府の支配は揺らぎ始め、やがて幕末から明治維新へ激動の時代を迎える。
欧米先進国に追いつくため、明治新政府は富国強兵策を推し進め、明治4年(1871年)に穢多・非人などの賤称を廃止する太政官布告(いわゆる解放令)を出した。これによって非人身分の人たちの多くは平民に溶け込んでいったが、穢多と呼ばれた人たちは取り残された。
大正11年(1922年)に全国水平社を結成し、部落差別の克服をめざして立ち上がった人々の多くは「旧穢多」の人たちであり、現在まで差別にさらされている人たちの多くもその末裔である。
◇ ◇
では、穢多のルーツは何か。江戸時代から明治にかけて、さまざまな解釈がなされてきた。
江戸後期に百科事典『守貞謾稿』を著した喜田川守貞は「高麗(朝鮮半島)から渡来し、皮なめしを業とした人たちの末裔」と記した(渡来人・帰化人説)。儒学者の帆足万里は『東潜夫論』で「穢多は昔、奥羽に住んでいた夷人の末裔である。田村麻呂が奥羽を平定し、蝦夷をことごとく日本人にした」と説いた(蝦夷起源説)。
ほかにも、仏教の教えが広まり、殺生を忌む風潮が広がる中で屠者がけがれた者として差別されるようになった(宗教起源説)、殺生を行い、血のけがれに関わる仕事に従事する者が差別されるようになった(職業起源説)、と唱える学者もいた。
実にさまざまな起源説があったが、これらを「妄説」と一蹴したのが京都帝大の歴史学の教授、喜田貞吉である。喜田は1919年(大正8年)に月刊『民族と歴史』の特殊部落研究号を出版し、次のように主張した(注1)。
「素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賎民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が日本民族に於いては、決してそんな事実はありません」
「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿(注2)も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
「我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがって、もと違った民族であっても、うまく融和同化して日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賎となる。今日、特殊部落と認められているものは、徳川時代のいわゆる穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかも、その穢多なるものは、もと雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賎民というものではありません」
「同じく日本民族たる同胞が互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賎民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう」
なにせ、京都帝大の歴史学者のご託宣である。その影響力は絶大だった。この特殊部落研究号の出版によって、「部落差別は江戸時代につくられた」という近世政治起源説の原型のようなものが打ち立てられた。
喜田はこの学説を部落差別の解消を願って唱えた。その善意は疑いようもない。学説の基盤にあったのは皇国史観である。「国民は皆、天皇の赤子である。同胞同士で差別し、圧迫を加えてどうする」と訴えたかったのだろう。
そして、それはこの研究号出版の3年後に旗揚げした全国水平社に集う人たちにとっても好ましいものだった。「同じ日本人なのに、いわれなき差別に苦しめられてきた。今こそ立ち上がる時だ」と奮い立ったのである。
水平社の運動は戦時中、翼賛体制にのみ込まれ、消えていく。敗戦後の1946年、部落解放全国委員会として再出発し、1955年に現在の部落解放同盟に改称した。
戦後、部落解放の運動を理論面で支えたのはマルクス主義を信奉する学者たちである。彼らは、喜田貞吉が打ち出した学説をより精緻に練り上げ、近世政治起源説として広め、定説にしていった。
喜田は皇国史観に立って「国民はみな天皇の赤子」と訴えた。戦後のマルクス主義の学者たちは、唯物史観の立場から「労働者も農民も部落民も、みな被搾取階級である。団結して革命を起こす主体となるべきだ」と唱えた。
拠(よ)って立つイデオロギーはまるで異なるが、どちらにとっても「部落差別をつくり出したのは豊臣政権であり、江戸幕府である」という説明は都合が良かった。「差別の根は浅い。権力者が政治的につくり出したものなら、政治的に解決しようではないか」と訴えることができるからだ。
喜田もマルクス主義の学者たちも「歴史をイデオロギーに基づいて解釈する」という点で共通している。事実の持つ厳粛さの前に謙虚になり、異なる学説への敬意を忘れず切磋琢磨していく、という姿勢が欠落していた。
だが、イデオロギーに基づく学説は事実によって掘り崩され、葬り去られていく。中世の史料の発掘が進み、後に続く研究者によって「鎌倉時代や室町時代の賤民と江戸時代の穢多・非人との強いつながり」が次々に明らかにされていった。
そして、研究はさらに「では、中世の賤民と古代の賤民とはどのような関係にあるのか」という課題の解明へと向かっている。そこでは、「天皇制と被差別の関係」に目を向けないわけにはいかない。部落史の研究は「新しい夜明け」を迎え、曇りのない目で歴史を見つめる時代を迎えている。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月28日
≪写真説明≫
◎「天狗草紙」に描かれた穢多童(えたわらわ)=『続日本絵巻大成19』(中央公論社)から複写
◎喜田貞吉(東北大学関係写真データベースから)
≪参考文献≫
◎『塵袋1』(大西晴隆・木村紀子校注、平凡社東洋文庫)
◎『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 続日本絵巻物大成19』(中央公論社)
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落史用語辞典』(小林茂ら編集、柏書房)
◎『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明・黒川みどり、解放出版社)
◎『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』(喜田川守貞、岩波文庫)
◎『近世後期の部落差別政策(上)』(井ケ田良治、同志社法学1969・1・31)
◎『帆足万里』(帆足図南次、吉川弘文館)
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)=『民族と歴史』特殊部落研究号の喜田論文をまとめて復刻
◎『日本歴史の中の被差別民』(奈良人権・部落解放研究所編、新人物往来社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)
*注1 喜田貞吉は『民族と歴史』特殊部落研究号を出版した1919年の時点では京都帝大専任講師。翌1920年に教授に昇格した。
*注2 喜田は「坂上田村麻呂」ではなく「坂上田村麿」と記している。
当然のことながら、支配する側が残した史書や記録は公平なものではあり得ない。敵は常に悪逆非道であり、「大義は我らにあり」と記す。戦いに敗れた者たちのことは「必要な範囲」で触れるだけだ。ましてや、隷属する者たちのことなど気にも留めない。かすかな断片のようなものが後世に伝えられるに過ぎない。
部落史の研究者によれば、「エタ」あるいは「穢多」という文字が文献に初めて出てくるのは13世紀、鎌倉時代である。随筆形式の辞典、『塵袋(ちりぶくろ)』という文献(作者不詳)に次のように記されている。
キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(こと)ハソ
根本ハ餌取(エトリ)ト云フヘキ欤(か)
餌ト云フハシヽムラ 鷹等ノ餌ヲ云フナルヘシ 其ヲトル物ト云フ也
エトリヲハヤクイヒテ イヒユカメテエタト云ヘリ
(中略)
天竺ニ旃陀羅(せんだら)ト云フハ屠者(トシャ)也
イキ物ヲ殺テウルエタ躰(てい)ノ悪人也
(片仮名のルビは写本の通り、平仮名のルビは筆者が補足)
現代語訳すれば、「清めの仕事をする者を『エタ』と言うのはなぜか。その語源は『餌取』と言うべきか。餌とは肉のかたまり、タカなどの餌を取る者のことである。『エトリ』を早口で言い、言いゆがめて『エタ』と言った」「インドの言葉で『旃陀羅』と言うのは『屠者』のことで、生き物を殺して売る『エタ』のような悪人のことである」という内容だ。
律令国家の時代から、鷹狩は天皇や貴族のたしなみであり、軍事訓練を兼ねていた。鷹狩を取り仕切り、タカの飼育を担う役職があった。餌取とは、その役人の配下でタカの餌の調達にあたった人々のことを言う。その「エトリ」が転じて「エタ」と呼ばれるようになった、というのが『塵袋』の説明である。
作者も自信がなかったのだろう。「語源は餌取と言うべきか」と留保を付けている。また、「エタ」のところには「非人やカタイ(ハンセン病者)、エタは人と交わらない点で同じようなもの」という説明もある。彼らは蔑まれ、忌避される存在だった。
「エタ」の語源に関する『塵袋』のこれらの記述はさまざまに解釈されてきたが、重要なのはすでに鎌倉時代には「エタ」という言葉が使われていたという点だ。同じ頃に作られた『天狗草紙』という絵巻物には、「穢多童(えたわらわ)」という文字が記され、子どもが鳥を捕まえ、さばいている絵がある。
鎌倉時代にはすでに「エタ」という言葉が使われ、「穢多」という漢字が当てられていたことは疑いようがない。そして、その言葉の由来については当時、辞典を編む知識人ですら「餌取から転じたものか」といった程度のことしか記すことができなくなっていた。
冒頭に記したように、支配層にとって「社会の底辺で生きる人々」のことなど取るに足らない事柄である。「エタ」という言葉が書き留められるまでにはかなりの時が流れ、その由来すらよく分からなくなっていた、と考えるのが自然だろう。
文字には「いったん記されると独り歩きを始める」という性質がある。室町時代の辞典『壒嚢抄(あいのうしょう)』や江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも「エタ」についての説明があり、どちらも「エタの語源は餌取」と記す。ともに『塵袋』を参照したと見られるが、『塵袋』にあった「語源は餌取か」の「か」という留保はなくなり、両方とも断定している。被差別部落の問題を扱う本には、これらの文献を引用して「エタは餌取の転訛」と説明しているものが少なくない。「独り歩き」の好例と言える。
文字や記録を扱う者は、素直すぎてはいけない。「エタ」や「穢多」の語源に関する文献は、一字一句を注意深く、時には疑い深く読む必要があることを教えている。「エタ」の語源については諸説あるが、今となっては「よく分からない」と言うしかない。
◇ ◇
鎌倉時代や室町時代、差別にさらされた人々は穢多、非人のほか河原者、皮多(かわた)、宿(しゅく)の者、坂の者、細工、庭者、鉢たたきなどさまざまな名で呼ばれた。歌舞伎や人形浄瑠璃の役者も「河原者」として扱われ、賤視された。
戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行が相次いだ時代である。人々は疲弊し、社会は揺れ動いた。混乱の中で賤民からのし上がった人々も少なくなかっただろう。とりわけ、室町幕府が形骸化して戦国の世になると、下剋上という言葉に象徴されるように社会階層は激しく流動化した。
このプロセスをどのように見るかは「被差別部落の起源をどう考えるか」に直結する重要な論点となる。「大混乱の中でも多くの賤民は這い上がれなかった」と見るか。「社会階層はバラバラになり、リセットされた」と見るか。
前者の立場なら「今日の被差別部落の起源は江戸時代から中世、さらには古代にまで遡る可能性がある」となる。後者の立場からは「古代や中世の賤民とは断絶がある。豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、支配する側は新たな身分差別制度をつくった」と説くことになる。
どちらの見解がより合理的で説得力があるかの判断はひとまず置き、話を先に進める。
16世紀末に戦国の世を治め、天下を統一したのは豊臣秀吉である。豊臣政権は田畑の検地を実施して年貢の徴収を確実なものにし、農民一揆を抑えるために刀狩をした。部落差別との関係で重要なのは、武家の奉公人が町人や百姓になること及び百姓が商人や職人になることを禁じたことだ。身分が固定され、町人や百姓の下に位置づけられた被差別民は這い上がることができなくなった。
江戸時代になると、身分の固定はさらに強化され、宗門人別改帳によって厳しく管理されるようになる。教科書では江戸期の被差別民は「穢多・非人」と表現されるが、当時の文献を見ると、「穢多」の呼称は東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」や「革多」などと記されることが多い。「非人」もさまざまな名で呼ばれ、記録された。
太平の世が長く続くなるにつれて、差別はきつくなる。部落の人々は通婚の禁止に加え、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」(1683年、長府藩)、「武士や百姓、町人と出会った時は道の片側に寄れ」(紀州藩)といった厳しい規制を受けた。
極め付きは、伊予(愛媛)の大洲藩の触書(1798年)である。「近頃、穢多の分限不相応な振る舞いが目立つ」として、彼らに「五寸四方の毛皮を身に着けて歩くこと。家の戸口にも毛皮を下げること」を命じた。
これらの触書は、商品経済が広まるにつれて被差別民の中にも財を蓄え、裕福な暮らしをする者が増えていったことを示している。江戸幕府の支配は揺らぎ始め、やがて幕末から明治維新へ激動の時代を迎える。
欧米先進国に追いつくため、明治新政府は富国強兵策を推し進め、明治4年(1871年)に穢多・非人などの賤称を廃止する太政官布告(いわゆる解放令)を出した。これによって非人身分の人たちの多くは平民に溶け込んでいったが、穢多と呼ばれた人たちは取り残された。
大正11年(1922年)に全国水平社を結成し、部落差別の克服をめざして立ち上がった人々の多くは「旧穢多」の人たちであり、現在まで差別にさらされている人たちの多くもその末裔である。
◇ ◇
では、穢多のルーツは何か。江戸時代から明治にかけて、さまざまな解釈がなされてきた。
江戸後期に百科事典『守貞謾稿』を著した喜田川守貞は「高麗(朝鮮半島)から渡来し、皮なめしを業とした人たちの末裔」と記した(渡来人・帰化人説)。儒学者の帆足万里は『東潜夫論』で「穢多は昔、奥羽に住んでいた夷人の末裔である。田村麻呂が奥羽を平定し、蝦夷をことごとく日本人にした」と説いた(蝦夷起源説)。
ほかにも、仏教の教えが広まり、殺生を忌む風潮が広がる中で屠者がけがれた者として差別されるようになった(宗教起源説)、殺生を行い、血のけがれに関わる仕事に従事する者が差別されるようになった(職業起源説)、と唱える学者もいた。
実にさまざまな起源説があったが、これらを「妄説」と一蹴したのが京都帝大の歴史学の教授、喜田貞吉である。喜田は1919年(大正8年)に月刊『民族と歴史』の特殊部落研究号を出版し、次のように主張した(注1)。
「素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賎民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が日本民族に於いては、決してそんな事実はありません」
「我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。(中略)有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿(注2)も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷(えぞ)仲間だと思っておりました」
「世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世、階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります」
「我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがって、もと違った民族であっても、うまく融和同化して日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賎となる。今日、特殊部落と認められているものは、徳川時代のいわゆる穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかも、その穢多なるものは、もと雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賎民というものではありません」
「同じく日本民族たる同胞が互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賎民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう」
なにせ、京都帝大の歴史学者のご託宣である。その影響力は絶大だった。この特殊部落研究号の出版によって、「部落差別は江戸時代につくられた」という近世政治起源説の原型のようなものが打ち立てられた。
喜田はこの学説を部落差別の解消を願って唱えた。その善意は疑いようもない。学説の基盤にあったのは皇国史観である。「国民は皆、天皇の赤子である。同胞同士で差別し、圧迫を加えてどうする」と訴えたかったのだろう。
そして、それはこの研究号出版の3年後に旗揚げした全国水平社に集う人たちにとっても好ましいものだった。「同じ日本人なのに、いわれなき差別に苦しめられてきた。今こそ立ち上がる時だ」と奮い立ったのである。
水平社の運動は戦時中、翼賛体制にのみ込まれ、消えていく。敗戦後の1946年、部落解放全国委員会として再出発し、1955年に現在の部落解放同盟に改称した。
戦後、部落解放の運動を理論面で支えたのはマルクス主義を信奉する学者たちである。彼らは、喜田貞吉が打ち出した学説をより精緻に練り上げ、近世政治起源説として広め、定説にしていった。
喜田は皇国史観に立って「国民はみな天皇の赤子」と訴えた。戦後のマルクス主義の学者たちは、唯物史観の立場から「労働者も農民も部落民も、みな被搾取階級である。団結して革命を起こす主体となるべきだ」と唱えた。
拠(よ)って立つイデオロギーはまるで異なるが、どちらにとっても「部落差別をつくり出したのは豊臣政権であり、江戸幕府である」という説明は都合が良かった。「差別の根は浅い。権力者が政治的につくり出したものなら、政治的に解決しようではないか」と訴えることができるからだ。
喜田もマルクス主義の学者たちも「歴史をイデオロギーに基づいて解釈する」という点で共通している。事実の持つ厳粛さの前に謙虚になり、異なる学説への敬意を忘れず切磋琢磨していく、という姿勢が欠落していた。
だが、イデオロギーに基づく学説は事実によって掘り崩され、葬り去られていく。中世の史料の発掘が進み、後に続く研究者によって「鎌倉時代や室町時代の賤民と江戸時代の穢多・非人との強いつながり」が次々に明らかにされていった。
そして、研究はさらに「では、中世の賤民と古代の賤民とはどのような関係にあるのか」という課題の解明へと向かっている。そこでは、「天皇制と被差別の関係」に目を向けないわけにはいかない。部落史の研究は「新しい夜明け」を迎え、曇りのない目で歴史を見つめる時代を迎えている。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月28日
≪写真説明≫
◎「天狗草紙」に描かれた穢多童(えたわらわ)=『続日本絵巻大成19』(中央公論社)から複写
◎喜田貞吉(東北大学関係写真データベースから)
≪参考文献≫
◎『塵袋1』(大西晴隆・木村紀子校注、平凡社東洋文庫)
◎『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞 続日本絵巻物大成19』(中央公論社)
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落史用語辞典』(小林茂ら編集、柏書房)
◎『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明・黒川みどり、解放出版社)
◎『近世風俗志(守貞謾稿)(一)』(喜田川守貞、岩波文庫)
◎『近世後期の部落差別政策(上)』(井ケ田良治、同志社法学1969・1・31)
◎『帆足万里』(帆足図南次、吉川弘文館)
◎『被差別部落とは何か』(喜田貞吉、河出文庫)=『民族と歴史』特殊部落研究号の喜田論文をまとめて復刻
◎『日本歴史の中の被差別民』(奈良人権・部落解放研究所編、新人物往来社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)
*注1 喜田貞吉は『民族と歴史』特殊部落研究号を出版した1919年の時点では京都帝大専任講師。翌1920年に教授に昇格した。
*注2 喜田は「坂上田村麻呂」ではなく「坂上田村麿」と記している。
なんて国だろう、と思う。
森友学園問題で公文書の改竄を指示した財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)を相手に損害賠償を求めた裁判の判決があった。公文書の改竄を命じられて自死した近畿財務局の職員、赤木俊夫氏の妻が訴えていたものだが、大阪地裁は25日、佐川氏の賠償責任を認めず、請求を棄却した。
公務員が故意または過失によって他人に損害を与えた時は、国または自治体が賠償する、と国家賠償法は定めている。今回のケースでは、政府は損害賠償の責任があることをすでに認めている。従って、「佐川氏には損害を賠償する責任はない」というわけだ。
理屈は通っている。「政府または地方自治体が賠償責任を負う場合、公務員個人の責任を問うことはできない」との最高裁判所の判例(1955年4月19日)を踏襲したものだという。しかし、前代未聞の公文書改竄の「下手人」をそんな大昔の判例をそのままなぞって裁いていいのか。
2017年2月に森友学園問題が表面化し、国有地が8億円も値引きされて森友側に払い下げられ、しかも一連の公文書が改竄されていたことが発覚した際、佐川氏は国会の証人喚問で「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否した。
ところが、大阪地検特捜部は「虚偽有印公文書作成罪などにはあたらない」として不起訴処分にした。検察は国有地の8億円値引きについて「それが不適切であると認定するのは困難」と説明した。端(はな)から、認定する気がなかったのだろう。
佐川氏は「刑事訴追の恐れがある」という理由で国会での証言を拒否したのに国税庁長官に栄転し、結局、訴追されずに逃げ切った。すべて安倍晋三政権下での出来事であり、安倍首相を守るための所業だった。栄転はその恩賞である。
どんなに卑劣なことをしても、それが権力を握る者のためであるならば許される。許すために政府も検察も裁判所も足並みをそろえて動く――なんて国だ、と思う。
法律はもともと「2周遅れて時代に付いていく」ものだ。時代の変化に付いていけない。法改正には年月がかかり、改正した頃にはまた時代が変わっていたりする。従って、時代の要請に応えるためには、法律を柔軟に大胆に解釈するしかない。問題は、当事者たちに「時代の要請」に応えようとする意志と勇気があるかどうかだ。
森友問題をめぐる一連の動きは、この国の政治家にも官僚にも、また検察官にも裁判官にもその「意志と勇気」がないことを示している。
国家賠償法は、公務員が故意または重大な過失によって他人に損害を与え、政府が賠償した場合、政府はその公務員に求償権を有する、と規定している。つまり、政府はその公務員に「あなたの違法行為によって損害が生じ、賠償しなければならなくなった。ついてはその賠償額を返してほしい」と要求する権利があるのだ。
ならば、政府が手間暇かけて求償するより、被害者(今回のケースでは赤木氏の妻)が直接、その公務員に損害賠償を求め、政府の手間を省いてあげることも認める、と解釈する余地もあるはずだ。時代の要請に応えるべく、判例を変え、新しい判例を積み上げていく。それこそ、司法に求められていることではないか。
「そんなことを認めたら、公務員個人を相手にした損害賠償請求訴訟が続発してしまう」と心配する向きもある。が、公務員個人を訴えることができるのは「故意または重大な過失があった場合のみ」である。しかも、訴える側は「故意または重大な過失があったこと」を立証しなければならない。おいそれと起こせる訴訟ではあるまい。
森友学園問題をめぐる公文書の改竄が佐川氏の「故意」によって行われたことは明白だ。しかも、改竄を迫られた職員が自死するという事態まで招いた。このような事件について、刑事でも民事でも責任を問えないとしたら、司法は何のためにあるのか。
今の日本では、どんな嘘もごまかしも、権力者と取り巻きにとっては自由自在。責任を問われることもない――森友学園問題はそれを満天下に示すことになった。佐川氏の罪はきわめて重い。それをかばい切ることに手を貸した者たちの罪はさらに重い。未来への希望を打ち砕いたからである。
(長岡 昇:元朝日新聞記者)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2022年11月26日
≪写真説明&Souce≫
◎森友学園の小学校建設現場(大阪市豊中市)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/486
≪参考サイト≫
◎裁判所が公務員である教員個人の損害賠償責任を認めないのはなぜか
森友学園問題で公文書の改竄を指示した財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)を相手に損害賠償を求めた裁判の判決があった。公文書の改竄を命じられて自死した近畿財務局の職員、赤木俊夫氏の妻が訴えていたものだが、大阪地裁は25日、佐川氏の賠償責任を認めず、請求を棄却した。
公務員が故意または過失によって他人に損害を与えた時は、国または自治体が賠償する、と国家賠償法は定めている。今回のケースでは、政府は損害賠償の責任があることをすでに認めている。従って、「佐川氏には損害を賠償する責任はない」というわけだ。
理屈は通っている。「政府または地方自治体が賠償責任を負う場合、公務員個人の責任を問うことはできない」との最高裁判所の判例(1955年4月19日)を踏襲したものだという。しかし、前代未聞の公文書改竄の「下手人」をそんな大昔の判例をそのままなぞって裁いていいのか。
2017年2月に森友学園問題が表面化し、国有地が8億円も値引きされて森友側に払い下げられ、しかも一連の公文書が改竄されていたことが発覚した際、佐川氏は国会の証人喚問で「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否した。
ところが、大阪地検特捜部は「虚偽有印公文書作成罪などにはあたらない」として不起訴処分にした。検察は国有地の8億円値引きについて「それが不適切であると認定するのは困難」と説明した。端(はな)から、認定する気がなかったのだろう。
佐川氏は「刑事訴追の恐れがある」という理由で国会での証言を拒否したのに国税庁長官に栄転し、結局、訴追されずに逃げ切った。すべて安倍晋三政権下での出来事であり、安倍首相を守るための所業だった。栄転はその恩賞である。
どんなに卑劣なことをしても、それが権力を握る者のためであるならば許される。許すために政府も検察も裁判所も足並みをそろえて動く――なんて国だ、と思う。
法律はもともと「2周遅れて時代に付いていく」ものだ。時代の変化に付いていけない。法改正には年月がかかり、改正した頃にはまた時代が変わっていたりする。従って、時代の要請に応えるためには、法律を柔軟に大胆に解釈するしかない。問題は、当事者たちに「時代の要請」に応えようとする意志と勇気があるかどうかだ。
森友問題をめぐる一連の動きは、この国の政治家にも官僚にも、また検察官にも裁判官にもその「意志と勇気」がないことを示している。
国家賠償法は、公務員が故意または重大な過失によって他人に損害を与え、政府が賠償した場合、政府はその公務員に求償権を有する、と規定している。つまり、政府はその公務員に「あなたの違法行為によって損害が生じ、賠償しなければならなくなった。ついてはその賠償額を返してほしい」と要求する権利があるのだ。
ならば、政府が手間暇かけて求償するより、被害者(今回のケースでは赤木氏の妻)が直接、その公務員に損害賠償を求め、政府の手間を省いてあげることも認める、と解釈する余地もあるはずだ。時代の要請に応えるべく、判例を変え、新しい判例を積み上げていく。それこそ、司法に求められていることではないか。
「そんなことを認めたら、公務員個人を相手にした損害賠償請求訴訟が続発してしまう」と心配する向きもある。が、公務員個人を訴えることができるのは「故意または重大な過失があった場合のみ」である。しかも、訴える側は「故意または重大な過失があったこと」を立証しなければならない。おいそれと起こせる訴訟ではあるまい。
森友学園問題をめぐる公文書の改竄が佐川氏の「故意」によって行われたことは明白だ。しかも、改竄を迫られた職員が自死するという事態まで招いた。このような事件について、刑事でも民事でも責任を問えないとしたら、司法は何のためにあるのか。
今の日本では、どんな嘘もごまかしも、権力者と取り巻きにとっては自由自在。責任を問われることもない――森友学園問題はそれを満天下に示すことになった。佐川氏の罪はきわめて重い。それをかばい切ることに手を貸した者たちの罪はさらに重い。未来への希望を打ち砕いたからである。
(長岡 昇:元朝日新聞記者)
*初出:ウェブコラム「情報屋台」 2022年11月26日
≪写真説明&Souce≫
◎森友学園の小学校建設現場(大阪市豊中市)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/486
≪参考サイト≫
◎裁判所が公務員である教員個人の損害賠償責任を認めないのはなぜか
新聞記事にも著作権はある。記者が取材して執筆し、編集者が見出しを付けて紙面に組むのには手間暇がかかる。それを無断で利用すれば、著作権法に触れることは言うまでもない。
一方で、新聞には「社会の公器」としての役割もある。報道したことを広く知ってもらうことは報道機関にとって好ましいことでもある。インターネットが普及し、スマホで気軽にアクセスできる時代に、新聞社や通信社がネット上に転載された記事について「著作権法上の権利」をどこまで主張し、貫くかは悩ましいところだ。
ところが、世の中にはそうした「悩ましさ」など気にかけず、著作権を振りかざして「削除と謝罪」を求める新聞社がある。山形新聞である。11月2日付の社会面トップ記事で「国会議員、県議ら70人、本紙無断転載」と報じた。
11月8日には「紙面の無断転載巡り議員6人に通告書」と追い打ちをかけ、県議2人と市議4人の実名を挙げて「著作権を侵害したとの通告書を出した」と伝えた。議員らは自らのフェイスブックやツイッター、ブログに山形新聞の記事を無断で転載していたことを認め、謝罪したという。
これに先立って、同紙は7月に共産党の県議、10月には無所属の鶴岡市議の無断転載を報じていた。これをきっかけに「県内の政治家の無断転載」を総ざらいした結果、著作権侵害のケースが多数あることが分かり、今回の報道になったようだ。
「新聞社の権益を守る」という観点に立てば、一連の報道を英断と評する人もいるかもしれない。だが、議員の実名まで挙げて報道し、転載した記事を削除させたうえ、「今後は無断で転載しません」との誓約書まで提出させるのは「報道機関の暴走」と言えないか。
この新聞が日頃、公平で誠実な報道に徹しているのなら、私も「暴走」などという表現は使わない。だが、その実態は「公平」や「誠実」とはかけ離れている。
山形新聞は部数減対策として、2016年から「教育に新聞を」「1学級に1新聞を」というキャンペーンを始めた。すると、山形県の吉村美栄子知事はこれに呼応する形で2017年度予算に2,794万円を計上し、新聞を購読する小中学校に補助金を出すことを決めた。
同紙はこれを「全国で初」と1面トップで報じた。「全国初」なのは当たり前である。このIT化の時代に学級ごとに新聞を購読させ、それに補助金や助成金を出す都道府県などほかにあるわけがない。要するに「部数減を食い止めたい。県も税金を投入して協力して」と知事に泣きついたのである。
建前として、どの新聞を取るかは市町村の教育委員会と各学校に委ねられていたが、山形県の交付要項には「郷土愛を育むことを目指す」とうたわれていた。郷土のニュースがふんだんに盛り込まれている新聞、つまりは山形新聞の購読を促す内容だった。実際、学校が購読した新聞のほとんどは山形新聞で、この事業は翌年度以降も続けられた。
吉村知事と山形新聞は「持ちつ持たれつ」の関係にある。2021年1月知事選の前年の秋、山形県は山形新聞に「コロナを克服し、大雨災害からの復旧に取り組む」との全面広告を何度か出した。
広告には吉村知事のポーズ写真とメッセージも添えられた。選挙の事前運動とも受け取られかねない内容で、「選挙前には現職知事の写真などを付した広告を掲載しない」との新聞の広告倫理に触れかねない内容だった。が、吉村知事は気にせず、気前良く税金を投じて広告を出した。
知事との関係にせよ、今回の無断転載の追及にせよ、これを仕切っているのは山形新聞の寒河江浩二(さがえ・ひろじ)社長である。編集局長を経て、2012年から社長をつとめ、主筆を兼ねる。75歳。細かい記事にまで口を出すことで知られ、今では社内で自由に意見を言える人はいないという。「山新のプーチン」と陰口をたたかれるゆえんである。
山形新聞は、民放テレビ局や観光会社、1T企業、広告会社をグループに抱える山形県のミニ財閥の中核企業だ。寒河江社長は山形県経営者協会の会長でもある。「政治は知事、経済は私」といった気分なのだろう。
なにせ、山形新聞にはかつて「山形県の政治も経済も牛耳った」という?前科?がある。服部敬雄(よしお)社長の全盛期には国会議員も知事も山形市長もひれ伏し、頭が上がらなかった。地元の人たちは「服部天皇」と呼んだ。
服部社長が1991年に亡くなり、山新グループの勢いはだいぶ衰えた。が、寒河江社長は在任が10年に及び、鼻息はいよいよ荒い。「第二の服部になりかねない」と懸念する声がある。
かつて、山新グループのトップには「天皇」という肩書が付けられた。今は「プーチン」と呼ばれる。昔も今も、面と向かって道理を説く人が周りにいない。県民の一人として切なく、情けない。
長岡 昇(元朝日新聞記者)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月15日
≪参考記事&サイト≫
◎無断転用を報じた山形新聞の記事(2022年7月8日付、10月21日付、11月2日付、11月8日付)
◎日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権」に関する見解
◎新聞著作権協議会の「新聞記事・写真の著作権と複製」に関する見解
◎小中学校での新聞購読に山形県が助成金を出すことを報じた山形新聞の記事(2017年3月16日付)
◎2021年1月の知事選の前に山形新聞に掲載された山形県の全面広告(2020年9月9日付、11月20日付)
◎「服部天皇」による山形県支配の内実を伝えるコラム(ウエブコラム情報屋台)
一方で、新聞には「社会の公器」としての役割もある。報道したことを広く知ってもらうことは報道機関にとって好ましいことでもある。インターネットが普及し、スマホで気軽にアクセスできる時代に、新聞社や通信社がネット上に転載された記事について「著作権法上の権利」をどこまで主張し、貫くかは悩ましいところだ。
ところが、世の中にはそうした「悩ましさ」など気にかけず、著作権を振りかざして「削除と謝罪」を求める新聞社がある。山形新聞である。11月2日付の社会面トップ記事で「国会議員、県議ら70人、本紙無断転載」と報じた。
11月8日には「紙面の無断転載巡り議員6人に通告書」と追い打ちをかけ、県議2人と市議4人の実名を挙げて「著作権を侵害したとの通告書を出した」と伝えた。議員らは自らのフェイスブックやツイッター、ブログに山形新聞の記事を無断で転載していたことを認め、謝罪したという。
これに先立って、同紙は7月に共産党の県議、10月には無所属の鶴岡市議の無断転載を報じていた。これをきっかけに「県内の政治家の無断転載」を総ざらいした結果、著作権侵害のケースが多数あることが分かり、今回の報道になったようだ。
「新聞社の権益を守る」という観点に立てば、一連の報道を英断と評する人もいるかもしれない。だが、議員の実名まで挙げて報道し、転載した記事を削除させたうえ、「今後は無断で転載しません」との誓約書まで提出させるのは「報道機関の暴走」と言えないか。
この新聞が日頃、公平で誠実な報道に徹しているのなら、私も「暴走」などという表現は使わない。だが、その実態は「公平」や「誠実」とはかけ離れている。
山形新聞は部数減対策として、2016年から「教育に新聞を」「1学級に1新聞を」というキャンペーンを始めた。すると、山形県の吉村美栄子知事はこれに呼応する形で2017年度予算に2,794万円を計上し、新聞を購読する小中学校に補助金を出すことを決めた。
同紙はこれを「全国で初」と1面トップで報じた。「全国初」なのは当たり前である。このIT化の時代に学級ごとに新聞を購読させ、それに補助金や助成金を出す都道府県などほかにあるわけがない。要するに「部数減を食い止めたい。県も税金を投入して協力して」と知事に泣きついたのである。
建前として、どの新聞を取るかは市町村の教育委員会と各学校に委ねられていたが、山形県の交付要項には「郷土愛を育むことを目指す」とうたわれていた。郷土のニュースがふんだんに盛り込まれている新聞、つまりは山形新聞の購読を促す内容だった。実際、学校が購読した新聞のほとんどは山形新聞で、この事業は翌年度以降も続けられた。
吉村知事と山形新聞は「持ちつ持たれつ」の関係にある。2021年1月知事選の前年の秋、山形県は山形新聞に「コロナを克服し、大雨災害からの復旧に取り組む」との全面広告を何度か出した。
広告には吉村知事のポーズ写真とメッセージも添えられた。選挙の事前運動とも受け取られかねない内容で、「選挙前には現職知事の写真などを付した広告を掲載しない」との新聞の広告倫理に触れかねない内容だった。が、吉村知事は気にせず、気前良く税金を投じて広告を出した。
知事との関係にせよ、今回の無断転載の追及にせよ、これを仕切っているのは山形新聞の寒河江浩二(さがえ・ひろじ)社長である。編集局長を経て、2012年から社長をつとめ、主筆を兼ねる。75歳。細かい記事にまで口を出すことで知られ、今では社内で自由に意見を言える人はいないという。「山新のプーチン」と陰口をたたかれるゆえんである。
山形新聞は、民放テレビ局や観光会社、1T企業、広告会社をグループに抱える山形県のミニ財閥の中核企業だ。寒河江社長は山形県経営者協会の会長でもある。「政治は知事、経済は私」といった気分なのだろう。
なにせ、山形新聞にはかつて「山形県の政治も経済も牛耳った」という?前科?がある。服部敬雄(よしお)社長の全盛期には国会議員も知事も山形市長もひれ伏し、頭が上がらなかった。地元の人たちは「服部天皇」と呼んだ。
服部社長が1991年に亡くなり、山新グループの勢いはだいぶ衰えた。が、寒河江社長は在任が10年に及び、鼻息はいよいよ荒い。「第二の服部になりかねない」と懸念する声がある。
かつて、山新グループのトップには「天皇」という肩書が付けられた。今は「プーチン」と呼ばれる。昔も今も、面と向かって道理を説く人が周りにいない。県民の一人として切なく、情けない。
長岡 昇(元朝日新聞記者)
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年11月15日
≪参考記事&サイト≫
◎無断転用を報じた山形新聞の記事(2022年7月8日付、10月21日付、11月2日付、11月8日付)
◎日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権」に関する見解
◎新聞著作権協議会の「新聞記事・写真の著作権と複製」に関する見解
◎小中学校での新聞購読に山形県が助成金を出すことを報じた山形新聞の記事(2017年3月16日付)
◎2021年1月の知事選の前に山形新聞に掲載された山形県の全面広告(2020年9月9日付、11月20日付)
◎「服部天皇」による山形県支配の内実を伝えるコラム(ウエブコラム情報屋台)
被差別部落とは何か。部落の人たちはなぜ厳しい差別にさらされ続けるのか。それを解明するためには事実を一つひとつ積み重ね、それを基にして考えていかなければならない。
だが、部落問題に関しては、事実を積み重ねるというそのこと自体が難しい。被差別部落はどこにどのくらいあるのか。部落の人口はどのくらいか。そういう基礎的な事実すら曖昧模糊としている。
1993年の総務庁の調査によれば、全国には4,442の同和地区があり、その人口は約89万人となっている。これは、政府が被差別部落の生活向上と環境改善のために進めた同和対策事業の対象になった地区と人口の合計である。事業の対象にならなかった地区、あるいは対象となることを望まなかった地区は含まれていないので、被差別部落の人口はこれよりかなり多いと推定される。
部落解放同盟は「全国には6,000の被差別部落があり、300万の同胞がいる」という。これは、総務庁の調査結果をベースに同和対策事業の対象外の地区やその人口を推計して積み上げた概数と思われる。実態にかなり近いと考えられるが、疑問も残る。
というのは、被差別部落の解放を目指して全国水平社が設立された大正時代から、すでに「部落の数は6,000、人口は300万人」と唱えられていたからだ。こんなに長い間、部落の数も人口も変わらない、ということがあり得るだろうか。
もっと具体的で都道府県別の内訳も分かるような統計はないのか。そう思って資料を探したが、戦後のものは見当たらない。昭和10年の統計があるようだが、入手できていない。網羅的で信頼性の高い統計は、なんと大正時代まで遡らなければならなかった。
水平社運動の闘士、高橋貞樹が1924年(大正13年)に出版した『特殊部落一千年史』に、1921年(大正10年)の内務省統計が掲載されている。この統計によって、道府県別の部落の数と人口を知ることができる(高橋の著書は戦後、『被差別部落一千年史』と改題され、復刻出版された)。
図1は、この内務省統計を基に被差別部落の人口の多い道府県を五つに分類したものである(東京は当時、東京府)。1位から10位までの府県とその人口を記すと、次のようになる(11位以下は添付の資料参照)。
1.兵庫県 107,608人 2.福岡県 69,345人
3.大阪府 47,909人 4.愛媛県 46,015人
5.岡山県 42,895人 6.京都府 42,179人
7.広島県 40,133人 8.三重県 38,383人
9.和歌山県 36,072人 10.高知県 33,353人
この分布図から読み取れるのは以下の3点である。(1)被差別部落は関西と中国・四国、九州北部に集中している(2)東日本では埼玉、群馬、長野、静岡、栃木にやや多いものの、全体として少ない(3)東北にはほとんどなく、北海道と沖縄にはない。
兵庫や福岡、大阪のように人口が多い府県では部落の人口も多くなる。従って、「被差別部落の人口密度」を見るためには「府県全体の人口との比率」を調べなければならない。この内務省統計の前年、大正9年には第1回の国勢調査が実施されており、この時の府県の人口を分母にすれば、部落の人口の百分率が得られる。
図2は、部落の人口比率を道府県別に5分類したものである。部落の人口比率が3%を超えるのは次の12府県だ(道府県すべての人口と比率は添付の資料を参照)。
1. 奈良県 5.79% 2.高知県 4.97%
3. 和歌山県 4.81% 4.兵庫県 4.67%
5. 愛媛県 4.40% 6.鳥取県 4.18%
7. 滋賀県 3.97% 8.三重県 3.59%
9・岡山県 3.52% 10.徳島県 3.33%
11.京都府 3.28% 12.福岡県 3.17%
この人口比率のデータは、図1の人口分布で示された傾向をより鮮明な形で浮かび上がらせる。ここから読み取れるのは、(1)部落の人口の比率が最も高いのは奈良であり、比率の高い地域は畿内からほぼ同心円状に広がっている(2)北関東と埼玉、長野を除けば、東日本の人口比率は低い(3)とりわけ東京と千葉の比率は低く、東北はさらに低い、ということだ。奈良の被差別部落の人口比率は山形0.10%の58倍、青森0.02%の290倍になる。これらは何を意味するのだろうか。
被差別部落の起源については、戦後長い間、「部落は豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、封建的な身分制度が固まる中で民衆を分断統治するために政治的につくられた」と唱えられてきた。いわゆる「被差別部落=近世政治起源説」である。
しかし、この二つの分布図を見れば、近世政治起源説に大きな疑問を抱かないではいられない。江戸幕府が置かれた東京とその隣の千葉に、なぜこれほど部落が少ないのか。豊臣政権や江戸幕府の支配が及んでいた東北にほとんど部落がないのはなぜか。近世政治起源説では、どちらも全く説明がつかない。
二つの分布図は、被差別部落の起源について、豊臣や徳川の武家政権より、むしろ畿内を拠点とした天皇制との関連が強いことを示唆している、と言えるのではないか。
部落の歴史についての研究が進み、中世の文献の掘り起こしが進むにつれて、近世政治起源説を唱える研究者は少なくなり、今では「部落の起源は中世あるいは古代と考えられる」という研究者が大勢を占めるようになった。部落と天皇制との関連にも、あらためて光が当てられるようになってきた。
けれども、部落問題の素人である私には「中世の文献などを調べるまでもなく、こうした人口や比率の地域的な偏りを見るだけでも、近世政治起源説がおかしいことは明白ではないか」と思える。なぜ、そのような説得力のない学説が生まれ、長い間、幅を利かせたのか。
そうした疑問を抱いて、被差別部落をめぐる研究や運動の経過をたどっていくと、イデオロギーに囚われた者たちが学問と文化をいかにゆがめ、政治や行政をどのように捻じ曲げていったのかが見えてくる。近世政治起源説の流布は「日本社会がずっと抱えてきた知的脆弱さの表れ」と言えるのではないか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」(2022年10月31日)
https://news-hunter.org/?p=14868
≪添付資料≫
◎被差別部落の道府県別の人口
◎被差別部落の道府県別の人口比率
≪参考文献≫
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『はじめての部落問題』(角岡伸彦、文春新書)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
◎『国勢調査以後 日本人口統計集成 第1巻』(内閣統計局、東洋書林)
◎『部落問題入門 部落差別解消推進法対応』(全国部落解放協議会、示現舎)
◎『天皇制と部落差別』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)
だが、部落問題に関しては、事実を積み重ねるというそのこと自体が難しい。被差別部落はどこにどのくらいあるのか。部落の人口はどのくらいか。そういう基礎的な事実すら曖昧模糊としている。
1993年の総務庁の調査によれば、全国には4,442の同和地区があり、その人口は約89万人となっている。これは、政府が被差別部落の生活向上と環境改善のために進めた同和対策事業の対象になった地区と人口の合計である。事業の対象にならなかった地区、あるいは対象となることを望まなかった地区は含まれていないので、被差別部落の人口はこれよりかなり多いと推定される。
部落解放同盟は「全国には6,000の被差別部落があり、300万の同胞がいる」という。これは、総務庁の調査結果をベースに同和対策事業の対象外の地区やその人口を推計して積み上げた概数と思われる。実態にかなり近いと考えられるが、疑問も残る。
というのは、被差別部落の解放を目指して全国水平社が設立された大正時代から、すでに「部落の数は6,000、人口は300万人」と唱えられていたからだ。こんなに長い間、部落の数も人口も変わらない、ということがあり得るだろうか。
もっと具体的で都道府県別の内訳も分かるような統計はないのか。そう思って資料を探したが、戦後のものは見当たらない。昭和10年の統計があるようだが、入手できていない。網羅的で信頼性の高い統計は、なんと大正時代まで遡らなければならなかった。
水平社運動の闘士、高橋貞樹が1924年(大正13年)に出版した『特殊部落一千年史』に、1921年(大正10年)の内務省統計が掲載されている。この統計によって、道府県別の部落の数と人口を知ることができる(高橋の著書は戦後、『被差別部落一千年史』と改題され、復刻出版された)。
図1は、この内務省統計を基に被差別部落の人口の多い道府県を五つに分類したものである(東京は当時、東京府)。1位から10位までの府県とその人口を記すと、次のようになる(11位以下は添付の資料参照)。
1.兵庫県 107,608人 2.福岡県 69,345人
3.大阪府 47,909人 4.愛媛県 46,015人
5.岡山県 42,895人 6.京都府 42,179人
7.広島県 40,133人 8.三重県 38,383人
9.和歌山県 36,072人 10.高知県 33,353人
この分布図から読み取れるのは以下の3点である。(1)被差別部落は関西と中国・四国、九州北部に集中している(2)東日本では埼玉、群馬、長野、静岡、栃木にやや多いものの、全体として少ない(3)東北にはほとんどなく、北海道と沖縄にはない。
兵庫や福岡、大阪のように人口が多い府県では部落の人口も多くなる。従って、「被差別部落の人口密度」を見るためには「府県全体の人口との比率」を調べなければならない。この内務省統計の前年、大正9年には第1回の国勢調査が実施されており、この時の府県の人口を分母にすれば、部落の人口の百分率が得られる。
図2は、部落の人口比率を道府県別に5分類したものである。部落の人口比率が3%を超えるのは次の12府県だ(道府県すべての人口と比率は添付の資料を参照)。
1. 奈良県 5.79% 2.高知県 4.97%
3. 和歌山県 4.81% 4.兵庫県 4.67%
5. 愛媛県 4.40% 6.鳥取県 4.18%
7. 滋賀県 3.97% 8.三重県 3.59%
9・岡山県 3.52% 10.徳島県 3.33%
11.京都府 3.28% 12.福岡県 3.17%
この人口比率のデータは、図1の人口分布で示された傾向をより鮮明な形で浮かび上がらせる。ここから読み取れるのは、(1)部落の人口の比率が最も高いのは奈良であり、比率の高い地域は畿内からほぼ同心円状に広がっている(2)北関東と埼玉、長野を除けば、東日本の人口比率は低い(3)とりわけ東京と千葉の比率は低く、東北はさらに低い、ということだ。奈良の被差別部落の人口比率は山形0.10%の58倍、青森0.02%の290倍になる。これらは何を意味するのだろうか。
被差別部落の起源については、戦後長い間、「部落は豊臣政権の時代から江戸時代にかけて、封建的な身分制度が固まる中で民衆を分断統治するために政治的につくられた」と唱えられてきた。いわゆる「被差別部落=近世政治起源説」である。
しかし、この二つの分布図を見れば、近世政治起源説に大きな疑問を抱かないではいられない。江戸幕府が置かれた東京とその隣の千葉に、なぜこれほど部落が少ないのか。豊臣政権や江戸幕府の支配が及んでいた東北にほとんど部落がないのはなぜか。近世政治起源説では、どちらも全く説明がつかない。
二つの分布図は、被差別部落の起源について、豊臣や徳川の武家政権より、むしろ畿内を拠点とした天皇制との関連が強いことを示唆している、と言えるのではないか。
部落の歴史についての研究が進み、中世の文献の掘り起こしが進むにつれて、近世政治起源説を唱える研究者は少なくなり、今では「部落の起源は中世あるいは古代と考えられる」という研究者が大勢を占めるようになった。部落と天皇制との関連にも、あらためて光が当てられるようになってきた。
けれども、部落問題の素人である私には「中世の文献などを調べるまでもなく、こうした人口や比率の地域的な偏りを見るだけでも、近世政治起源説がおかしいことは明白ではないか」と思える。なぜ、そのような説得力のない学説が生まれ、長い間、幅を利かせたのか。
そうした疑問を抱いて、被差別部落をめぐる研究や運動の経過をたどっていくと、イデオロギーに囚われた者たちが学問と文化をいかにゆがめ、政治や行政をどのように捻じ曲げていったのかが見えてくる。近世政治起源説の流布は「日本社会がずっと抱えてきた知的脆弱さの表れ」と言えるのではないか。
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」(2022年10月31日)
https://news-hunter.org/?p=14868
≪添付資料≫
◎被差別部落の道府県別の人口
◎被差別部落の道府県別の人口比率
≪参考文献≫
◎『これでわかった!部落の歴史』(上杉聰、解放出版社)
◎『はじめての部落問題』(角岡伸彦、文春新書)
◎『被差別部落一千年史』(高橋貞樹、岩波文庫)
◎『国勢調査以後 日本人口統計集成 第1巻』(内閣統計局、東洋書林)
◎『部落問題入門 部落差別解消推進法対応』(全国部落解放協議会、示現舎)
◎『天皇制と部落差別』(上杉聰、解放出版社)
◎『部落・差別の歴史』(藤沢靖介、解放出版社)