あの日から、間もなく9年になる。
海が黒い壁となって押し寄せ、あまたの命をのみ込んでいった。目に見えない放射能にさらされ、多くの人が住み慣れた土地を追われた。
先の戦争が終わった8月15日を節目に「戦前」「戦後」と言うように、東日本大震災があった3月11日を境にして「災前」「災後」と呼ぶようになるのではないか。誰かがそんなことを書いていた。あの大震災は、そうなってもおかしくないほど強烈なインパクトを私たちの社会に与えた。
けれども、そうはならなかった。福島の原発事故では原子炉がメルトダウンして放射性物質をまき散らし、首都圏を含む東日本全体が人の住めない土地になる恐れもあった。それを免れることができたのは、いくつかの幸運が重なったからに過ぎない。なのに、政府も電力業界も素知らぬ顔で原発の再稼働を推し進めようとしている。
大震災の前と変わらない日々。災いから教訓を汲(く)み取り、それを活かして新しい道を切り拓く。それがなぜ、できないのか。
津波に目を向ければ、石巻市の大川小学校の悲劇がある。
学校に残っていた78人の子どものうち74人、教職員11人のうち10人が亡くなった。被災地にあったすべての小中学校で教員の統率下にあった子どものうち、命を落としたのは大川小学校以外では南三陸町の1人しかいない。高台に逃げる途中で波にのまれたケースだ。こうした事実は、この小学校で「考えられないような過ち」がいくつも重なったことを示している。
にもかかわらず、石巻市も宮城県も過ちを認めようとせず、言い逃れと責任回避に終始した。子どもを亡くした親たちが裁判に訴え、最高裁判所が昨年10月に石巻市と宮城県に損害賠償を命じるまで「津波の襲来は予見できなかった。過失はなかった」と言い続けた。
責任逃れをしただけではない。当事者がウソをつき、事実を隠蔽した。それが、子どもを失って打ちひしがれた親たちの心をどれほど苛(さいな)んだことか。
数々のウソの中で最もひどいのは、教職員で唯一生き残った遠藤純二・教務主任のウソである。大川小の子どもたちは北上川沿いの高台に向かう途中で津波にのまれたが、列の最後尾にいた遠藤教諭は学校の裏山に登って助かった。
イギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏の著書『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房)によれば、被災から4週間後に開かれた保護者向けの説明会で、遠藤教諭は次のように語った。
「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もう駄目だと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子が助けを求めて叫んでいました。(中略)絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登っていきました」
この証言の中に、いくつものウソがあった。学校の裏山の杉の木は1本も倒れていなかった。遠藤教諭は「波をかぶった」と言ったが、彼が男の子を連れて助けを求めた民家の千葉正彦さんと妻はそろって「服は濡れていなかった」と明言した。
唯一生き残った教員がなぜ、ウソをつかなければならなかったのか。記憶が混濁していただけなのか。彼はその後の裁判でも、「精神を病んでいる」として証言に立つことはなかった。虚偽の事実を並べ立てた理由は、いまだに分からない。
大川小の子どもの中には、学校に迎えに来た親と帰ったため難を逃れた子もいる。そうした子どもの1人は、6年生の男の子が「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」と訴えていたのを覚えていた。
石巻市の教育委員会は被災後、生き残った子どもたちからも事情を聴き、記録した。ところが、公表した記録にはこうした証言が収録されていなかった。それどころか、保護者たちが事情聴取のメモの開示を求めたところ、「メモはすべて廃棄した」と答えた。
学校や教育委員会の過失とみなされるような証拠を隠蔽したのである。メモを廃棄した指導主事は翌年、小学校の校長に昇進した。「組織を守るために力を尽くした」ということなのだろう。
大川小学校の悲劇については、ジャーナリストの池上正樹、加藤順子両氏による『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など優れた本がいくつか出版されているが、取材の広さと深さという点で、リチャード・ロイド・パリー氏の著書は群を抜いている。
パリー氏が初めて日本を訪れたのは高校生の時である。クイズ番組で優勝し、そのご褒美が日本旅行だった。オックスフォード大学で学んだ後、イギリスの新聞の東京特派員になった。震災の時点で在日16年。日本の内情についても、地震についても熟知していた。
この本を書くために、彼は6年の歳月を費やした。インタビューするたびに遺族は涙を流した。「どうしてこの人たちを泣かせなければならないのか」と苦しんだという。それでも、意を決して彼らの声に耳を傾け続けた。
子どもをすべて奪われた親がいた。子どもだけでなく、家族全員が亡くなった人もいる。遺体がすぐに見つかった親もいれば、いつまでたっても見つからない親もいた。遺体を見つけるために重機の免許を取って探し続けた母親もいる。命の数だけ深い悲しみと苦悩があった。
遺族の中には石巻市と教育委員会の対応に納得できず、「一生かげで、死んだがきどもの敵(かだぎ)とってやっからな」と怒りをぶつける者もいた。裁判で責任を追及しようとする親もいれば、それに反発する親たちもいた。
苦悩に打ちのめされた親の中には、死んだ者の霊を自分の身体に乗り移らせて、その言葉を語る「口寄せ」の女性に頼る人も出てきた。日本のジャーナリストはまず、こういう話を取材しようとしない。だが、パリー氏はそこにも分け入っていく。それが大川小学校の周りで起きたことの一つだからだ。
被災地では「幽霊を見た」という話がささやかれるようになった。そうした中で、津波が到達せず、まったく被害を受けなかった家族が10日後、車で山を越えて被災地を見に行った。その晩から、男性の様子がおかしくなった。
彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団をなめ、獣のように身をよじらせて叫んだ。「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」。奇行は何日も続き、妻は知り合いの住職に除霊を依頼した。
般若心経を唱えて霊を取り除いた住職は次のように語った。
「彼は被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません」「自分の行動に対して、ある種の罰を受けたんです。何かがあなたに取り憑(つ)いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう」
こうしたことも、被災地で起きたことの一つとして書き留めた。
避難所での経験にも触れている。取材するパリー氏に対して、避難した人たちはしばしば食べ物を分け与えようとした。「次の数日、あるいは次の数時間のための食べ物しか持たないはずの避難者たちが、私に食べ物を渡そうとした。つい最近、家を失ったばかりの人々が、おもてなしが不充分であることを心からすまなそうに謝った」
「これこそが日本の最高の姿ではないかと感じた。このような広大無辺な慈悲の心こそ、私がこの国についてもっとも愛し、賞賛することの一つだった。日本の共同体の強さは、現実的で、自然発生的で、揺るぎないものだった」
そして同時に、東北の哀しみについても書く。
「東北地方の住人たちは、とりわけ我慢強いことで有名だった。だからこそ、彼らは何世紀にもわたって寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えることができた。歴史的に中央政府が損な役回りを彼らに押しつけてきたのも、その我慢強さゆえのことかもしれない。東北地方では、娘たちを身売りし、息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出すのが珍しいことではなかった」
「人々は文句も言わずに黙々と働いた。そうやって黙り込むことがなにより大切だった。(中略)住人たちは変化することを拒み、変化するための努力を拒んだ。理想的な村社会とは、対立が不道徳とみなされる世界だった」
震災の後、被災地でも私たちが暮らす山形でも「がんばろう東北」という標語をよく目にした。その言葉に共感しながらも、私はどこか引っかかるものを覚えていた。それが何なのか、自分でも理解できなかったが、パリー氏の著書を読んで、腑に落ちた。
そうなのだ。我慢することは大切だ。黙り込むことも時には必要だ。けれども、それをやめなければならない時、というのがあるのではないか。
黙り込むことによって、この山形では、地元の新聞とその企業グループがすべてを支配し、逆らう者を許さないという状態が何十年も続いた。逆らえば暮らしていけない、という状況を生み出し、それを多くの県民が黙認した。
そして、それがようやく終わったと思ったら、今度は吉村美栄子知事の権勢を背に、吉村一族の企業グループがのさばり始めた。政治家も経済人もメディアも、それに異を唱えようとしない。
何をしなければならないのか。その答えも、パリー氏の著書に見出すことができる。彼は「日本人の受容の精神にはもううんざりだ」としたため、次のように語りかけている。
「日本にいま必要なのは、(石巻市の責任を追及した)紫桃(しとう)さん夫妻、只野(ただの)さん親子、鈴木さん夫妻のような人たちだ。怒りに満ち、批判的で、決然とした人々。死の真相を追い求める闘いが負け戦になろうとも、自らの地位や立場に関係なく立ち上がって闘う人々なのだ」
*メールマガジン「風切通信 71」 2020年2月28日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年3月号に寄稿した文章を転載したものです。
≪写真説明&Source≫
◎震災から5年後の大川小学校
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/160326/lif16032609230004-p1.html
海が黒い壁となって押し寄せ、あまたの命をのみ込んでいった。目に見えない放射能にさらされ、多くの人が住み慣れた土地を追われた。
先の戦争が終わった8月15日を節目に「戦前」「戦後」と言うように、東日本大震災があった3月11日を境にして「災前」「災後」と呼ぶようになるのではないか。誰かがそんなことを書いていた。あの大震災は、そうなってもおかしくないほど強烈なインパクトを私たちの社会に与えた。
けれども、そうはならなかった。福島の原発事故では原子炉がメルトダウンして放射性物質をまき散らし、首都圏を含む東日本全体が人の住めない土地になる恐れもあった。それを免れることができたのは、いくつかの幸運が重なったからに過ぎない。なのに、政府も電力業界も素知らぬ顔で原発の再稼働を推し進めようとしている。
大震災の前と変わらない日々。災いから教訓を汲(く)み取り、それを活かして新しい道を切り拓く。それがなぜ、できないのか。
津波に目を向ければ、石巻市の大川小学校の悲劇がある。
学校に残っていた78人の子どものうち74人、教職員11人のうち10人が亡くなった。被災地にあったすべての小中学校で教員の統率下にあった子どものうち、命を落としたのは大川小学校以外では南三陸町の1人しかいない。高台に逃げる途中で波にのまれたケースだ。こうした事実は、この小学校で「考えられないような過ち」がいくつも重なったことを示している。
にもかかわらず、石巻市も宮城県も過ちを認めようとせず、言い逃れと責任回避に終始した。子どもを亡くした親たちが裁判に訴え、最高裁判所が昨年10月に石巻市と宮城県に損害賠償を命じるまで「津波の襲来は予見できなかった。過失はなかった」と言い続けた。
責任逃れをしただけではない。当事者がウソをつき、事実を隠蔽した。それが、子どもを失って打ちひしがれた親たちの心をどれほど苛(さいな)んだことか。
数々のウソの中で最もひどいのは、教職員で唯一生き残った遠藤純二・教務主任のウソである。大川小の子どもたちは北上川沿いの高台に向かう途中で津波にのまれたが、列の最後尾にいた遠藤教諭は学校の裏山に登って助かった。
イギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏の著書『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房)によれば、被災から4週間後に開かれた保護者向けの説明会で、遠藤教諭は次のように語った。
「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もう駄目だと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子が助けを求めて叫んでいました。(中略)絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登っていきました」
この証言の中に、いくつものウソがあった。学校の裏山の杉の木は1本も倒れていなかった。遠藤教諭は「波をかぶった」と言ったが、彼が男の子を連れて助けを求めた民家の千葉正彦さんと妻はそろって「服は濡れていなかった」と明言した。
唯一生き残った教員がなぜ、ウソをつかなければならなかったのか。記憶が混濁していただけなのか。彼はその後の裁判でも、「精神を病んでいる」として証言に立つことはなかった。虚偽の事実を並べ立てた理由は、いまだに分からない。
大川小の子どもの中には、学校に迎えに来た親と帰ったため難を逃れた子もいる。そうした子どもの1人は、6年生の男の子が「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」と訴えていたのを覚えていた。
石巻市の教育委員会は被災後、生き残った子どもたちからも事情を聴き、記録した。ところが、公表した記録にはこうした証言が収録されていなかった。それどころか、保護者たちが事情聴取のメモの開示を求めたところ、「メモはすべて廃棄した」と答えた。
学校や教育委員会の過失とみなされるような証拠を隠蔽したのである。メモを廃棄した指導主事は翌年、小学校の校長に昇進した。「組織を守るために力を尽くした」ということなのだろう。
大川小学校の悲劇については、ジャーナリストの池上正樹、加藤順子両氏による『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など優れた本がいくつか出版されているが、取材の広さと深さという点で、リチャード・ロイド・パリー氏の著書は群を抜いている。
パリー氏が初めて日本を訪れたのは高校生の時である。クイズ番組で優勝し、そのご褒美が日本旅行だった。オックスフォード大学で学んだ後、イギリスの新聞の東京特派員になった。震災の時点で在日16年。日本の内情についても、地震についても熟知していた。
この本を書くために、彼は6年の歳月を費やした。インタビューするたびに遺族は涙を流した。「どうしてこの人たちを泣かせなければならないのか」と苦しんだという。それでも、意を決して彼らの声に耳を傾け続けた。
子どもをすべて奪われた親がいた。子どもだけでなく、家族全員が亡くなった人もいる。遺体がすぐに見つかった親もいれば、いつまでたっても見つからない親もいた。遺体を見つけるために重機の免許を取って探し続けた母親もいる。命の数だけ深い悲しみと苦悩があった。
遺族の中には石巻市と教育委員会の対応に納得できず、「一生かげで、死んだがきどもの敵(かだぎ)とってやっからな」と怒りをぶつける者もいた。裁判で責任を追及しようとする親もいれば、それに反発する親たちもいた。
苦悩に打ちのめされた親の中には、死んだ者の霊を自分の身体に乗り移らせて、その言葉を語る「口寄せ」の女性に頼る人も出てきた。日本のジャーナリストはまず、こういう話を取材しようとしない。だが、パリー氏はそこにも分け入っていく。それが大川小学校の周りで起きたことの一つだからだ。
被災地では「幽霊を見た」という話がささやかれるようになった。そうした中で、津波が到達せず、まったく被害を受けなかった家族が10日後、車で山を越えて被災地を見に行った。その晩から、男性の様子がおかしくなった。
彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団をなめ、獣のように身をよじらせて叫んだ。「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」。奇行は何日も続き、妻は知り合いの住職に除霊を依頼した。
般若心経を唱えて霊を取り除いた住職は次のように語った。
「彼は被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません」「自分の行動に対して、ある種の罰を受けたんです。何かがあなたに取り憑(つ)いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう」
こうしたことも、被災地で起きたことの一つとして書き留めた。
避難所での経験にも触れている。取材するパリー氏に対して、避難した人たちはしばしば食べ物を分け与えようとした。「次の数日、あるいは次の数時間のための食べ物しか持たないはずの避難者たちが、私に食べ物を渡そうとした。つい最近、家を失ったばかりの人々が、おもてなしが不充分であることを心からすまなそうに謝った」
「これこそが日本の最高の姿ではないかと感じた。このような広大無辺な慈悲の心こそ、私がこの国についてもっとも愛し、賞賛することの一つだった。日本の共同体の強さは、現実的で、自然発生的で、揺るぎないものだった」
そして同時に、東北の哀しみについても書く。
「東北地方の住人たちは、とりわけ我慢強いことで有名だった。だからこそ、彼らは何世紀にもわたって寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えることができた。歴史的に中央政府が損な役回りを彼らに押しつけてきたのも、その我慢強さゆえのことかもしれない。東北地方では、娘たちを身売りし、息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出すのが珍しいことではなかった」
「人々は文句も言わずに黙々と働いた。そうやって黙り込むことがなにより大切だった。(中略)住人たちは変化することを拒み、変化するための努力を拒んだ。理想的な村社会とは、対立が不道徳とみなされる世界だった」
震災の後、被災地でも私たちが暮らす山形でも「がんばろう東北」という標語をよく目にした。その言葉に共感しながらも、私はどこか引っかかるものを覚えていた。それが何なのか、自分でも理解できなかったが、パリー氏の著書を読んで、腑に落ちた。
そうなのだ。我慢することは大切だ。黙り込むことも時には必要だ。けれども、それをやめなければならない時、というのがあるのではないか。
黙り込むことによって、この山形では、地元の新聞とその企業グループがすべてを支配し、逆らう者を許さないという状態が何十年も続いた。逆らえば暮らしていけない、という状況を生み出し、それを多くの県民が黙認した。
そして、それがようやく終わったと思ったら、今度は吉村美栄子知事の権勢を背に、吉村一族の企業グループがのさばり始めた。政治家も経済人もメディアも、それに異を唱えようとしない。
何をしなければならないのか。その答えも、パリー氏の著書に見出すことができる。彼は「日本人の受容の精神にはもううんざりだ」としたため、次のように語りかけている。
「日本にいま必要なのは、(石巻市の責任を追及した)紫桃(しとう)さん夫妻、只野(ただの)さん親子、鈴木さん夫妻のような人たちだ。怒りに満ち、批判的で、決然とした人々。死の真相を追い求める闘いが負け戦になろうとも、自らの地位や立場に関係なく立ち上がって闘う人々なのだ」
*メールマガジン「風切通信 71」 2020年2月28日
*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年3月号に寄稿した文章を転載したものです。
≪写真説明&Source≫
◎震災から5年後の大川小学校
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/160326/lif16032609230004-p1.html
「憧れの対象」だった豪華クルーズ船は昨今、「浮かぶ隔離病棟」のような目で見られるようになってしまった。横浜港に停泊中のダイヤモンド・プリンセス号の乗客から、また新型コロナウイルスの感染者が見つかり、患者が61人になったという。日本国内で確認された感染者は計86人なので、なんと7割がこの豪華客船に乗っていた人ということになる。
客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html
客船という外界から隔絶された空間は、「ウイルスが効率よく拡散する空間」でもあることを図らずも立証する形になった。乗り合わせた人たちは不運とあきらめ、潜伏期間が過ぎ去るのを待つしかない。
私も隔離病棟に収容されたことがある。1989年の春、ソ連軍撤退後のアフガニスタンを取材するため、首都カブールで過ごし、その後、パキスタンのペシャワル周辺で難民の取材をした。この時に赤痢にかかったようで、帰国の航空機内で発症した。
成田空港で症状を申告し、検体を提出したところ、数日後に保健所からお迎えが来た。お漏らしをしても大丈夫なようにだろう。車の座席にはビニールシートが張られ、そのまま東京都内の隔離病棟に入院となった。残された家族は、私の衣類の焼却やら食器の消毒やら大変だったという。
帰国してすぐに抗生物質を飲んでいたので、私は症状も軽くなり、いたって元気だった。それでも体内にはまだ赤痢菌が残っており、完全になくなるまで10日間ほど強制隔離された。当時はまだ伝染病予防法という法律があり、赤痢も法定伝染病の一つだった。治療にあたった医師は「赤痢なんて、今じゃ怖い病気じゃないんだけどね」と気の毒がってくれた。
隔離病棟は木造の古い建物で、入院しているのは私一人。貸切だった。入院時にはいていたパンツなどの下着は没収されて焼却。代わりに「お上のパンツ」を支給された。お風呂も変わった作りだった。煙突のようなものが天井から吊り下げられ、浴槽に差し込んである。上から高温の水蒸気を送り込み、水の中でブクブクと泡立てて沸かすようになっていた。使ったお湯も滅菌する、と聞いた。
入院したのは5月末から6月初めで、世界は天安門事件で大騒ぎになっていた。入院患者はひまである。出張の整理をしながら、看護師に頼んで売店から新聞を買ってきてもらい、各紙を熟読した。朝日新聞の報道が一番、冴えなかった。退院後、出社して報道に加わり、その理由が分かった。
当時の朝日新聞北京支局の特派員は2人とも書斎派で、銃弾飛び交う天安門広場に行こうとしない。最新の衛星電話を装備していた社もあったが、朝日新聞にはそれもなかった。「現場に行って、見たことをそのまま書く」という基本ができていないのだから、いい紙面を作れるはずもなかった。
では、どうしたのか。東京編集局の外報部にいる記者を総動員して、足りないところを補ったのである。当時は、東京から国際電話をかけて北京市民の話を聞く、といったことはできなかった。やむなく、ロイターやAFP、AP通信が北京から報じる内容や香港情報を拾い集めてしのいだのである。冴えない紙面になるはずだ。
この経験が「国際報道であっても、新聞記者の基本は国内と何も変わらない。現場に足を運んで自分の目で見たこと、感じたことをきちんと書くしかない」と肝に銘じるきっかけになった。
1992年にニューデリー駐在になり、インド亜大陸を一人でカバーした(今は複数の記者がいる)。3年目にインドでペストが蔓延する事件があった。中世にペスト禍を経験している欧州各国は即座に定期便の運航をやめた。外国人の多くが国外に逃げ出した。
記事を送りながら、すぐに「ペストはどのくらい怖いのか」を調べ始めた。その結果、肺ペストの場合、感染力はインフルエンザと同じ程度でマスクをしても完全には防げないこと、ただし、今ではテトラサイクリン系の特効薬があるため、服用すれば死亡するリスクはほとんどないことが分かった。家族とスタッフ用に特効薬を確保した。
事件の現場に肉薄するのが取材の基本だ。インドでペストが最初に発生したのは北西部のスーラットという街である。ダイヤモンド加工が盛んで、出稼ぎ労働者がたくさんいた。彼らが逃げ出して帰郷したため、あっという間にインド全土にペストが広まってしまったのだった。
感染の拡大を抑えるため、世界保健機関(WHO)の専門家がインドに乗り込んできた。小型機でスーラットに向かうというので同乗させてもらい、現地に行った。ペスト患者の隔離病棟を視察して驚いた。患者は個室ではなく、大部屋のベッドで寝ていた。
それを見て回ったのだから、マスクはしていても、WHOの幹部も私を含む報道陣も感染した可能性が高い。特効薬を持参しているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。急いで東京に原稿を吹き込み、薬をゴクンと飲み込んだ。幸い、何の症状も出なかった。
今回の新型コロナウイルスが怖いのは、特効薬もワクチンもまだないからだ。患者総数に対する死者の割合、いわゆる致死率も2%前後と小さくはない。みんながマスクと消毒用アルコールの買いだめに走るのも無理はない。
疫病の歴史を振り返れば、さまざまな手段を講じても疫病を完全に封じ込めることはできない、ということが分かる。人間にできるのは、広がるスピードを抑えることだけだ。
中世のペスト禍では、人々は田園に逃げた。都市の雑踏が怖かったからだ。新型コロナウイルスでも、最良の方法はとりあえず田舎に避難することかもしれない。少なくとも、豪華客船よりは、ずっと安全だ。
*メールマガジン「風切通信 70」 2020年2月8日
≪写真説明&Source≫
多くの感染者が出たダイヤモンド・プリンセス号
http://www.at-s.com/event/article/kids/570843.html
2月に入ったのに、里山にも田畑にも雪がない。私が暮らしている村は山形・新潟県境の豪雪地帯にあり、例年ならこの時期、1メートルを超える雪に埋もれる。「そろそろ、屋根の雪下ろしをしないといけないね」と心配する時期だ。なのに、積雪ゼロ。
村の古老に聞けば、口をそろえて「こだな冬は初めでだ」と言う。朝晩、寒さを覚えることはあるが、「凍りつくような寒さ」はまだ一度もない。雪かきをしなくても済むので、それは嬉しいのだが、なんだか落ち着かない。
スキー場は雪不足に苦しみ、雪祭りの関係者はあせっている。ついには「雪乞い」の神事を執り行うところまで出てきた。1月末から2月初めに「やまがた雪フェスティバル」を開催した寒河江(さがえ)市の実行委員会である。
雪像をつくるための雪は、月山の麓から運んでなんとか確保したが、肝心の会場にまったく雪がない。これでは、予定していた雪掘り競争もソリ遊びもできない。困り果てて、祭りの2週間前に地元の寒河江八幡宮に「雪乞い」を依頼した。
頼まれた八幡宮も困った。「雨乞い」ならともかく、「雪乞い」など聞いたこともない。宮司代務者の鬼海(きかい)智美さんは、そもそも「雪乞い」をすることに躊躇を覚えた。「雪が少なくて、助かっている人も多い。産土(うぶすな)の神に『あまねく雪を降らせたまえ』とはお願いできないのです」と言う。
そこで「雪祭りの成功を願い、雪像をつくる人たちの安全を祈願する」ということで引き受けた。雪については「必要なところに降らせたまえ」と控えめにお願いするにとどめた。地元の人たちの暮らしに目配りした、心優しい祈願だった。
にもかかわらず、その後も雪はほとんど降らない。住民の多くは「雪がなくて助かるねぇ」と喜んでいるが、あまり声高には言わない。リンゴやサクランボを栽培している農家がこの異変に気をもんでいる。それを知っているからだ。
「寒さをグッとこらえ、それをバネにして果樹は甘い実を付ける。こんな冬だと、甘味が足りなくなるのではないか」「春先、早く芽を出して、霜にやられたりしないだろうか」。果樹農家の不安は尽きない。
雪祭りにとどまらず、冬の観光全体にも影響が出ている。樹氷で知られる蔵王温泉は、やはり例年より客が少ないという。スキーを楽しむことはできるのだが、シンボルの樹氷がやせ細って元気がない。そこに、中国発の新型コロナウイルスによる肺炎が重なった。老舗旅館の女将は「蔵王は台湾からのお客様が多いんです。旅行を控える動きが広がっているようで、キャンセルが出始めました。ダブルパンチです」と嘆く。
やはり、冬は冬らしく、銀世界が広がってほしい。雪かきはしんどいけれども、降り積もる雪は少しずつ解けて、春から夏まで大地を潤す。北国にとっては恵みでもある。「雪乞い」をしなければならないような冬はつらい。
*メールマガジン「風切通信 69」 2020年2月3日
≪写真説明&Source≫
◎やまがた雪フェスティバルの会場で行われた「雪乞い」
https://www.fnn.jp/posts/7392SAY
村の古老に聞けば、口をそろえて「こだな冬は初めでだ」と言う。朝晩、寒さを覚えることはあるが、「凍りつくような寒さ」はまだ一度もない。雪かきをしなくても済むので、それは嬉しいのだが、なんだか落ち着かない。
スキー場は雪不足に苦しみ、雪祭りの関係者はあせっている。ついには「雪乞い」の神事を執り行うところまで出てきた。1月末から2月初めに「やまがた雪フェスティバル」を開催した寒河江(さがえ)市の実行委員会である。
雪像をつくるための雪は、月山の麓から運んでなんとか確保したが、肝心の会場にまったく雪がない。これでは、予定していた雪掘り競争もソリ遊びもできない。困り果てて、祭りの2週間前に地元の寒河江八幡宮に「雪乞い」を依頼した。
頼まれた八幡宮も困った。「雨乞い」ならともかく、「雪乞い」など聞いたこともない。宮司代務者の鬼海(きかい)智美さんは、そもそも「雪乞い」をすることに躊躇を覚えた。「雪が少なくて、助かっている人も多い。産土(うぶすな)の神に『あまねく雪を降らせたまえ』とはお願いできないのです」と言う。
そこで「雪祭りの成功を願い、雪像をつくる人たちの安全を祈願する」ということで引き受けた。雪については「必要なところに降らせたまえ」と控えめにお願いするにとどめた。地元の人たちの暮らしに目配りした、心優しい祈願だった。
にもかかわらず、その後も雪はほとんど降らない。住民の多くは「雪がなくて助かるねぇ」と喜んでいるが、あまり声高には言わない。リンゴやサクランボを栽培している農家がこの異変に気をもんでいる。それを知っているからだ。
「寒さをグッとこらえ、それをバネにして果樹は甘い実を付ける。こんな冬だと、甘味が足りなくなるのではないか」「春先、早く芽を出して、霜にやられたりしないだろうか」。果樹農家の不安は尽きない。
雪祭りにとどまらず、冬の観光全体にも影響が出ている。樹氷で知られる蔵王温泉は、やはり例年より客が少ないという。スキーを楽しむことはできるのだが、シンボルの樹氷がやせ細って元気がない。そこに、中国発の新型コロナウイルスによる肺炎が重なった。老舗旅館の女将は「蔵王は台湾からのお客様が多いんです。旅行を控える動きが広がっているようで、キャンセルが出始めました。ダブルパンチです」と嘆く。
やはり、冬は冬らしく、銀世界が広がってほしい。雪かきはしんどいけれども、降り積もる雪は少しずつ解けて、春から夏まで大地を潤す。北国にとっては恵みでもある。「雪乞い」をしなければならないような冬はつらい。
*メールマガジン「風切通信 69」 2020年2月3日
≪写真説明&Source≫
◎やまがた雪フェスティバルの会場で行われた「雪乞い」
https://www.fnn.jp/posts/7392SAY