日本の政府と電力会社は大切なことを隠し、国民を欺いている――原子力発電について私が疑念を抱き、不信感を深めたのは1988年のことだった。
旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。
三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)
旧ソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故から2年。この年、北海道電力は積丹(しゃこたん)半島の泊(とまり)村に建設した原子力発電所の試運転をめざしていた。
チェルノブイリの原発事故がいかに悲惨なもので、その影響がいかに広く、深刻なものか。それが少しずつ明らかになるにつれて、日本でも「もう原発はいらない」と考える人が増え、反原発運動が急速に盛り上がり始めていた。
当時、私は札幌在勤の新聞記者で原発推進派と反対派の両方を取材していた。その過程で、北海道電力が泊原発の運転開始に備えて、国内の大手損保21社と保険契約を結ぶ交渉を進めていることを知った。
その保険契約は、原発事故で周辺の住民に損害が出た場合に備える賠償保険と、事故によって発電施設に損害が出た場合に備える財産保険の二つだった。前者は住民に対する補償、後者は電力会社がこうむる損害をカバーする保険である。
問題は、この二つの保険によって支払われる金額に大きな隔たりがあることだった。
住民向けの保険は保険料が年間3000万円、事故時に支払われる保険金は最大100億円。一方、電力会社に支払われる財産保険の保険料は年間3億円、支払い金額は900億円で住民向けの保険の9倍もあった。
なぜ、それほど差があるのか。調べていくうちに愕然とした。電力会社向けの保険は「冷却水の喪失事故」も対象にしていた。つまり、原子炉がカラ焚きになり、炉心溶融が起きることも想定していた。このため保険料も高く、補償金額も大きかった。
これに対し、住民向けの保険は「事故の影響が及ぶのはせいぜい発電所の周辺10キロまで」との前提に立っていた。「それ以上深刻な事故など起きない」というもので、明らかに矛盾していた。私は怒りを込めてその事実を書いた(記事参照)。
原発の建設を推進してきた政府と電力会社は、米国のスリーマイル島原発事故(1979年)とチェルノブイリ原発事故(1986年)の後も「日本ではこうした過酷な事故は起きない」と主張し、事故時の住民向けの保険も「この程度で十分」と説明し続けた。なのに、電力会社向けの保険では炉心溶融まで想定した契約を結んでいた。欺瞞と言うほかない。
専門家もその欺瞞を支えた。原子力安全委員会の決定(1980年6月30日)は次のように記していた。
「原子力発電所等において放射性物質の大量放出があるか、又はそのおそれがあるような異常事態が瞬時に生ずることは殆(ほどん)ど考えられないことであり、事前になんらかの先行的な事象の発生及びその検知があると考えられる」
「このような先行的事象は、原子力発電所等の防護設備及び慎重な対応等によって、周辺住民に影響を与えるような事態に至るとは考えられないが、万一そのような事態になったとしても、これに至るまでにはある程度の時間的経過があるものと考えられる」
原発の事故には前兆となるトラブルがある。それを的確に捉えて対処することによって、住民に重大な影響を及ぼすような事態は防ぐことができる、と自信たっぷりに書いていた。
原発事故の際の住民向けの保険金はその後、増額された。だが、政府も電力業界もこうした「安全神話」を振りまくことをやめなかった。
自然はそうした欺瞞と甘えを許さなかった。2011年3月11日、東京電力・福島第一原子力発電所は大津波に「瞬時に」のみ込まれ、すべての電源を失った。やがて炉心が溶融、原子炉建屋(たてや)が相次いで爆発し、大量の放射性物質を大気中に放出した。
事故の後、ある原子力研究者は「この事故で死んだ者は一人もいない」と言い張った。確かに、原発の敷地内で亡くなった人はいない。
こういう人には、原発のすぐ近くにあった双葉病院と老人介護施設で起きたことを告げるだけで十分だろう。436人の患者と入所者はいきなり電気と水のない状況に追い込まれ、すぐには避難もできなかった。混乱の中で50人が命を失った。
そして、十数万の人々が住み慣れた土地を追われた。彼らが失ったものは金銭で償えるものではない。原発を推進し、今なお推進しようとしている人たちは、そうしたことへの想像力が欠如している。
◇ ◇
南相馬市で生花店を営んでいた上野寛(ひろし)さん(56)も、原発事故で故郷を追われた被災者の一人だ。
震災当日は、いつもより仕事が立て込んでいない日だった。夕方に葬祭会館で通夜が予定されており、生花を届けることになっていたが、その準備も前日までにほぼ終わっていた。一緒に店で働く両親は、昼から海辺にあるパークゴルフ場に行くのを楽しみにしていた。
ところが、通夜のために用意していた生花の名札を従業員が「使用済みの名札」と勘違いして破棄していたことが分かり、妹を含め家族総出で作り直さなければならなくなった。このミスがなければ、両親は海辺のゴルフ場で津波にのまれていたかもしれない。世の中、何が幸いするか分からない。
家族は生花店にいて無事だったが、海寄りの葬祭会館にいた上野さんは津波に襲われた。ずぶ濡れになりながらも、波が引いた時になんとか脱出した。家族と合流できたのは日が暮れてからだった。1日目の夜は、妹の家族を含め一家8人が高台にある神社の境内で車に分乗して過ごした。
2日目の昼前、「原発が危ない」といううわさが流れ始めた。午後3時半、まず1号機が爆発した。上野さん一家をはじめ、多くの住民が北西の飯舘村に逃れた(図1)。なぜこの方向に避難したのか。上野さんによれば、ほかに選択肢はなかった。
「南には原発があるから逃げられない。海沿いに北に行こうとしても、津波で道路がやられているので行けない。飯舘村を経由して福島市をめざすしかなかったのです」
みな、着の身着のままの状態だった。まず、食べ物と水を確保しなければならない。車で移動するためのガソリンも必要だ。誰もが右往左往し、必需品を買うため長い行列に並んだ。
3日目の夜は川俣町の民家で世話になった。4日目の14日、福島県北東部の新地町にある妻の母親と連絡が取れ、母親が暮らすアパートに身を寄せた。電気も水道も通じていた。やっと風呂に入ることができた。
だが、この日、原発では3号機も爆発した。残りの原子炉も危うい。翌15日に合流した妹の夫は涙を浮かべながら「(新地町でも)もう限界。避難しないと危ない」と訴えた。彼は原発関係の下請けの仕事をしていた。
実際、15日には2号機と4号機も破損し、大量の放射性物質が風に乗って北西方面に流れた。避難してきた飯舘村経由のルートが「帯状の高濃度汚染地帯」になったのは、この時の風によると見られている(図2)。
どこに逃げるか。福島市でも危ない。仙台は空港まで津波が来たという。残る選択肢は「山に囲まれ、放射能の心配をそれほどしなくてもいい山形県」だった。同じ理由で被災者の多くが山形をめざした。
幸い、米沢市に住む妹の友人と連絡が取れ、「こっちに来て。住まいも手配しておくから」と言ってくれた。上野さん一行は合流した弟を含め11人になっていた。車4台に分乗して宮城県の七ヶ宿(しちかしゅく)町を通り、雪の峠を越えて16日に米沢にたどり着いた。
妹の友人はアパートの一室を手配してくれていた。布団もそろえ、夕食まで用意してくれていた。その温かい気配りが「米沢に腰を据える決断」につながった。
米沢市の被災者受け入れオペレーションは際立っていた。「体育館での避難生活」を解消するため、市内5カ所にある400戸の雇用促進住宅を提供することを決めた。
役所なら「入居の申し込みは書類で」となるのが普通だが、米沢市は遠方から電話で申し込むこともできるようにし、訪ねてきたその日に鍵を渡し、入居することも認めた。緊急事態に対応した柔軟な措置だった。上野さんの家族も2戸に入居できた。
6月には市役所の危機管理室の下に「避難者支援センターおいで」を新設した。ここに来れば、あらゆる相談に乗ってくれる。福島県や避難元の市町村との連絡調整もしてくれる。
米沢市は「避難者の悩みや苦しみが一番分かるのは避難者」と考え、センターの職員として避難者を積極的に登用した。上野さんもそのスタッフとして採用され、今も働き続けている。
原発事故によって避難した人は、2012年5月の時点で16万4千人に達した。内訳は福島県内での避難が6割、県外への避難が4割だった。その数は昨年7月の時点で3万7千人に減少したが、原発事故はいまだに終息していない。
放射能にさらされた大地の除染は終わっていない。原発の施設内では汚染水が増え続けている。融け落ちた核燃料の回収はめどすら立っていない。
そもそも、使用済みの核燃料やそれらを処理した後に残る高レベル放射性廃棄物をどうするのか。半世紀以上も前から検討しているのに候補地すら決まっていない。
それでも、政府や電力業界は「原子力発電を続ける」と言う。未来を見ようとしない。目をそむけたまま、次の世代にツケを回そうとしている。
不誠実で無責任な人たちが「日本」という私たちが乗る船の舵(かじ)取りを続けている。それを許してきたのは、ほかならぬ私たち自身だ。
そろそろ本気になって、信頼できる人たちに舵取りを託すためにはどうすればいいのか、考えなければならない。
◇ ◇
宮城県気仙沼市の畠山重篤(しげあつ)さん(77)は、唐桑(からくわ)半島の付け根にある西舞根(もうね)でカキとホタテの養殖をして生計を立ててきた。親の代からの漁師だ。
三陸海岸の豊かな海に異変が生じたのは、日本が経済成長に沸き立っていた1970年ごろだった。しばしば赤潮プランクトンが大発生し、白いはずのカキの身が赤くなった。「血ガキ」と呼ばれ、売り物にならない。ホタテ貝も死んでしまう。
養殖いかだが並ぶ気仙沼湾には工場排水や農薬、化学肥料、生活雑排水などあらゆるものが流れ込み、カキやホタテが育つ環境を損ねていた。
そのうえ、湾に注ぐ大川にダムの建設計画まで持ち上がった。このままでは生きていけない。山の人たちと共にダム建設の反対運動に取り組み、建設断念に追い込んだ。この時、地元の歌人、熊谷龍子さんはこう詠んだ。
森は海を海は森を恋いながら
悠久よりの愛紡ぎゆく
それは、漁師たちの思いと響き合うものだった。沖に出れば、漁師たちは山々を見て船の位置を確認する。良い漁場がどこにあるかも山を目印にして胸に刻んできた。高い山にかかる雲や雪が舞い上がる様子で天候の急変を察知し、難を逃れてきた。「山測り」と呼ばれ、その大切さは今も変わらない。
山と森、里と海はすべてつながっている。唐桑半島の漁師たちはそう信じ、1989年から上流の荒れた山々に木を植える運動を始めた。一番の目印である室根山(むろねさん)に大漁旗を掲げ、ブナやナラの苗木を植えていった。
その運動を「森は海の恋人」と名付けた。
畠山さんがただ者でないのは、この後の行動力である。では、森と海をつなぐものは何か。その探求に乗り出したのだ。
ある日、海の岩が白くなり、海藻が生えなくなる「磯焼け」の問題をNHKが特集で報じていた。その中で、北海道大学水産学部の松永勝彦教授が「森の木を伐(き)ってしまったことが原因です」と解説していた。
海藻が育つためには鉄分が欠かせない。その鉄分は森林から供給される。その森が荒れ、鉄分が海に流れて来なくなったため海藻が育たず、磯が焼けてしまった――そう説いていた。
畠山さんはすぐ、松永教授に連絡し、翌日、仲間と函館市にある研究室を訪ねた。そして、なぜ森の鉄分が海藻にとって必要不可欠なのか、そのメカニズムを詳しく解説してもらった。
森の腐葉土は「フルボ酸」というものをつくり出す。それが土中の鉄分とくっついて「フルボ酸鉄」になり、海に流れ込む。これが植物プランクトンや海藻が光合成をするのに欠かせないのだという。森と海をつなぐ大切なもの。それは鉄だった。
漁師と科学者の共同作業が始まる。1993年、松永教授は学生たちを伴って気仙沼湾を訪れ、湾内に流れ込む鉄や窒素、リンなどの分析に乗り出した。そして、川が運んでくる鉄分が植物プランクトンの生長を促し、海を豊かにしてくれていることをデータで立証した。
畠山さんの探求は、日本の海から世界の海へと広がる。
世界には「肥沃な海」とそうでない海があること。その謎を解くカギは海水に含まれる微量金属、とりわけ鉄が握っていること。困難な微量金属の分析方法を編み出したのはアメリカの海洋化学者、ジョン・マーチン博士であることを知った。
日本近くの北太平洋の海が豊かなのは、中国大陸からジェット気流に乗って飛来する黄砂のおかげであることを明らかにしたのもマーチン博士だ。あの厄介な黄砂が北洋海域に鉄分をもたらし、植物プランクトンの生育を促していたのだ。
探求の旅は、植物の光合成から人間の血液へと続く。人間は血液中の赤血球を通して酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を吐き出すが、その運び役をしているのは赤血球のヘモグロビンに含まれる鉄だ。鉄なしでは、人間もまた生きていけないのだった。
「森は海の恋人」運動から始まった探求は国境を越え、学問の垣根を越えて広がり、命の連鎖の中で鉄が果たしている役割の大きさを浮かび上がらせていった。畠山さんはその成果を次々に本にまとめ、出版した。
その運動に注目したのが京都大学だった。京大は学問が細分化され、タコ壷化していることを危ぶみ、2003年に林学と水産学、農学を統合した「森里海連環学」という新しい学問を立ち上げ、研究センターを新設した。そして、畠山さんにシンポジウムの基調講演を依頼した。新しい学問の意義を語る人間としてふさわしい、と考えたからにほかならない。
それ以降、唐桑半島の海は京都大学の森里海連環学の研究拠点の一つになり、毎年、研究者や学生が訪れるようになった。小さな漁村は「時代の先端」を走っていた。
だが、10年前のあの日、大津波は唐桑の海にも容赦なく押し寄せ、漁船と養殖いかだをすべて押し流していった。高台にある畠山さんの自宅は無事だったものの、海辺の住宅は壊滅、体の不自由な住民4人が逃げ遅れて亡くなった。家族と離れ、市街地の福祉施設に入っていた畠山さんの母親も帰らぬ人となった。
恵みの海による、あまりにも残酷な仕打ち。それでも、漁民は海に生きるしかない。唐桑の人たちはすぐさま、カキの養殖再開へと動き出した。
国内はもちろん、フランスからも養殖いかだなどの支援物資が届いた。かつて、フランスでカキの病気が蔓延し、養殖が危機に陥った際、カキの稚貝を送って救ったのは三陸の漁民たちだった。彼らはそれを忘れていなかった。
海の復元力の強さにも助けられた。住宅や港の復旧を上回るスピードで、海の生き物たちは戻ってきた。畠山さんは「直後は『海は死んだ』とうなだれた。けれども、しばらく経つと、小さなエビや魚が湧き出すような勢いで増えていった」と言う。
森と川は、海の生き物たちが必要とするものを送り続けていた。西舞根のカキの出荷は、震災の翌年には震災前を上回るまで回復した。
震災の経験から何をくみ取るべきか。畠山さんはこう語る。
「日本は森におおわれ、海に囲まれた国です。本来、生きていくのに困ることのない国です。なのに、川という川にダムを造り、護岸をコンクリートで固め、傷めつけてきた。森と川と海の関係を元の自然な状態に戻しなさい、と言われているのではないでしょうか」
豊かさと便利さを追い求める中で、私たちは断ち切ってはならないものまで断ち切ってしまったのではないか。命のつながりにかかわる大切なもの。それに思いを致す時ではないか。 (連載終了)
*メールマガジン「風切通信85」 2021年2月28日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年3月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明&Source≫
◎福島第一原発3号機の爆発(福島中央テレビの映像=サイエンスジャーナルのサイトから)
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/5685129.html
◎畠山重篤さん(佐々木惠里さんのブログから)
https://ameblo.jp/amesatin/entry-12286195283.html
≪参考記事・文献&サイト≫
◎「泊原発 保険は1千億円 核暴走事故も含む」(1988年6月24日付 朝日新聞北海道版)
◎「遅れた避難 50人の死 救えなかったか」(2021年2月17日付 朝日新聞社会面)
◎『あの日から今まで そしてこれから』(上野寛さんのお話を聞く会編)
◎「震災 原発事故9年6カ月」(2020年9月13日、福島民報電子版)
◎『森は海の恋人』(畠山重篤、文春文庫)
◎『鉄は魔法使い』(畠山重篤、小学館)
コロナ禍と大雪の中で争われた山形県の知事選挙は、現職の吉村美栄子氏が圧勝し、四選を果たした。挑戦した元県議の大内理加氏は、頼みとする自民党と公明党の支持者すら十分に取り込めず、惨敗した。
吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。
2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」
吉村氏が獲得した票は40万票、大内氏は16万9千票余り。吉村氏は新庄市では大内氏のほぼ4倍、米沢市と寒河江(さがえ)市、長井市では3倍の票を獲得した。県内35市町村のうち、大内氏がダブルスコアを免れたのは、自分の選挙地盤である山形市と山辺町だけだった。前回2009年の知事選の結果と比べてみても、その圧勝ぶりは際立っている。
選挙結果が示すものは明白である。有権者は県政の刷新ではなく、継続を望んだ。現職の知事の下で新型コロナウイルスの感染拡大に対処し、その痛手から経済を再生させる道を選んだのである。
コロナで始まり、コロナで終わった選挙だった。現職は「コロナ対策に邁進する姿」を見せればいい。挑戦者には代案を示す余地もない。もとより「現職優位」の状況にあり、菅義偉(よしひで)政権のコロナ対策の不手際もあって、国政与党に支えられた挑戦者には厳しい選挙だった。
それでも、12年ぶりに知事選があった意味は大きい。この2年余り、本誌で吉村県政の澱(よど)みと一族企業・法人グループをめぐる様々な問題を報じてきたが、大内陣営はこうした問題を取り上げ、追及した。選挙を通して、吉村県政が抱える負の部分を初めて知った有権者も多かったのではないか。
山形県の現状と課題も浮かび上がった。
遊説で吉村氏は内閣府の統計を引用して「山形県の1人当たりの県民所得はずっと30位台でした。それが平成29年には26位に上がりました」とアピールした。生産農業所得についても「私が知事になった年には東北で5位でしたが、平成29年には倍増し、東北で2位になりました」と声を張り上げた。
一方の大内氏は「若い女性の県外流出率は全国一。住みたい都道府県ランキングでは46位です。県民から、そして日本中から選ばれる山形県にしましょう」と山形の現状を憂い、県政の刷新を訴えた。
どのデータもそれなりに根拠のあるものだ。それぞれ、山形県の明るい面と課題を指し示している。それらのデータのうち、現職が前向きのデータを引用し、挑戦者がマイナスのデータを使うのも自然なことだが、有権者には「心地良い数字」の方が心に響いたことだろう。
データの使い方は対照的だったが、両者に共通していることがある。それは視野が東北、あるいは日本という狭い範囲にとどまっていること、そして「大きな時代の流れ」に対する意識が希薄な点である。
目の前にあるコロナ禍への対処はもちろん大切だが、ワクチンが開発され、間もなく日本でも接種が始まる。いずれ治療方法も定まり、経済も暮らしも徐々に元に戻っていく。何年かたてば、「あの時は大変だったね」と語れるようになるだろう。
だからこそ、政治家ならコロナ対策にとどまらず、もっと長い時間軸で考え、未来を見据えた言葉を紡ぎ出してほしかった。今、私たちはどういう時代を生きているのか。世界はこれからどうなるのか。生き抜くために、私たちは何をしなければならないのか。信じるところを自らの言葉でもっと語ってほしかった。
◇ ◇
私は個人的な事情で12年前に新聞社を早期退職し、故郷の朝日町に戻って暮らし始めた。朝日連峰の南麓にある町で、実家のある村は積雪が1メートルを超える。
ここからさらに奥まったところに立木(たてき)という集落がある。当然のことながら、雪はもっと深い。60人余りが暮らす小さな村だ。
愛知県出身の牧野広大(こうだい)さん(34)がこの村に通い始めたのは2007年、東北芸術工科大学の4年生の時からである。朝日町は閉校した立木小学校を芸術家や造形作家にアトリエとして貸し出し、創作活動の場として提供していた。彼らに誘われ、その仲間に加わった。
「高校の時から雪国に行こうと思っていました」と牧野さんは言う。生まれ育った愛知県では「季節の巡り」がはっきりしない。北国なら雪が一気に景色を変える。長い冬が来て、それから嬉しい春がやって来る。「自分にはそういう季節の巡りと負荷のかかる環境が必要だと思っていました」。何でもある環境ではモノを渇望する気持ちが湧いてこない。牧野さんにとって、立木は「創作にふさわしい場所」だった。
大学院の修士課程を終えた後、空き家を探してこの村に住みついた。
学生の時から「金属工芸の道で生きていこう」と決めていた。どうせなら、誰も挑んだことのない道がいい。アルミニウムを自然の素材で染める「草木染金属工芸作家」として歩み始めた。
アルミの板を金槌でたたいて成型し、それを酸化処理すると、表面にごく小さい隙間ができる。それに草木の染料をしみ込ませる。そして、熱水で処理して色を封じ込め、食器や花器に仕上げる。そういう工芸家は、日本には牧野さんしかいない。もしかしたら、世界にもいないのではないか。
草木染の作業には広いアトリエと沢水がいる。水道水は使えないからだ。旧立木小学校の作業場が手狭になったため、昨年秋からはアトリエとして別に古民家を借りた。蛇口をひねれば、沢水がほとばしり出る。
2011年、石川県の中谷宇吉郎雪の科学館が主催した国際コンペで銀賞獲得。2015年、山形県総合美術展に「冬の引力」を出品、山形放送賞を受賞。
東京の日本橋高島屋や大丸東京店、大阪の阪急梅田本店で企画展を開き、ホテルや旅館からの注文も入るようになってきた。
結婚して、2人の子と家族4人で雪深い村に生きる。村に溶け込み、地元の消防団にも入った。「できればもっと仕事を広げて、1人でもいいから雇用を生み出したい」という。
実用品を制作して販売する一方で、将来は海外の美術展への出品を目指す。誰も挑んだことのない独創的な作品。彼らはそれをどう評価するだろうか。
実は、朝日町にはすでに世界を相手にビジネスを展開している企業がある。朝日相扶(そうふ)製作所という会社だ。
1970年、「冬の出稼ぎをなくしたい」という地元の切実な声に応えるために設立された。出稼ぎ先の一つだったオフィス家具大手の岡村製作所(現オカムラ)の支援を得て、この会社の椅子の縫製下請けとしてスタートした。相扶という社名は「相互扶助」の意味だ。
従業員23人で発足した会社はほどなく、オイルショックで経営危機に陥る。倒産の危機を救ったのは従業員たちである。「2、3カ月給料がなくても頑張る。会社をなくさないでくれ」と声を上げたのだった。
親会社に頼り切りでは次の危機を乗り越えられない。経営を多角化するため、朝日相扶は独自に家具作りにも乗り出した。県工業技術センターの指導を受け、職人の技を磨いた。
だが、独自ブランドの製造と販売を試みたものの、挫折。販売経費のかかる自社ブランドはあきらめ、家具の相手先ブランドでの製造(OEM)に切り換えて生き延びてきた。
転機は2008年に訪れた。デンマークの家具大手「ワン・コレクション社」からの受注に成功し、「あの会社の製造を手がけているなら」と国内の家具メーカーからの受注も増えていった。「全社全員ものづくり職人に徹する」という社訓を貫いた結果だった。
2012年にはワン・コレクション社が国連信託統治理事会の会議場の椅子を受注し、その製造を朝日相扶に任せた。260脚の椅子をニューヨークの会議場に届けた。
創業者の孫で4代目の阿部佳孝社長は「コロナ禍で国内向けの受注は減りましたが、ヨーロッパ向けは少し伸びました。富裕層は『旅行に行けなくなったから家具を買う』という選択をするのです」と語った。「インテリアを見れば、その人の暮らしぶりが分かる」という価値観の現れという。
経営の理念と方針という点でも、朝日相扶はユニークな会社である。年功序列の考え方をしない。完全な実力主義で「上司が年下」というのをいとわない。改善提案を奨励し、その報償も「工程を1分短縮する提案なら30・75円。作業スペースを1平方メートル空ける提案なら年間8600円」と明示する。いわば、完全ガラス張りの経営だ。
小さな下請け会社は今や従業員138人、売上高13億円の中堅企業に成長し、日々、世界の動きをにらんで挑戦し続けている。
自分の故郷の自慢をしたいわけではない。朝日町は住民6500人余りの小さな町である。そんな町にも世界を相手にビジネスを展開する会社があり、世界をにらんで作品づくりを続ける工芸作家がいる。私たちはそういう時代に生きている、ということを言いたいのだ。
目を凝らせば、山形県の各地で、さらに全国各地でそうした企業や人がそれぞれの分野で新しいことに挑戦している姿が見えてくる。東京や大阪といった大都市に依存しなくても世界とつながり、活路を見出せる時代になってきている。
悲しいことに、日本の政治と行政はそうした流れを捉えられず、置き去りにされつつある。その象徴が情報技術(IT)政策の立ち遅れだ。
山形県庁に公文書の情報公開を求めたら、ハンコを押す欄が40もある文書が出てきた。すべての欄にハンコが押されているわけではないが、ある文書には印影が14もあった。信じられない思いでその文書を眺めた。
民間企業の多くは、ずっと前から電子決裁に踏み切っている。文書を回覧し、ハンコを押す時間はロスそのもので、累積すれば大きな損失になるからだ。山形県庁では日々、税金が失われていく。そのことに声を上げる職員もいない。
吉村美栄子知事は選挙中に「県民幸せデジタル化」なる標語を掲げ、「誰ひとり取り残さない」と声を張り上げた。それを聞いて力が抜けた。「知事とその下で働く県職員こそ、すでに取り残されているのに」と。
3期12年の間、山形県庁のIT政策は迷走を続け、ほとんど進まなかった。文書の電子決裁化はロードマップすらない。県立3病院の医療情報システムの更新がぶざまな経過をたどったことは、本誌の2019年12月号でお伝えした通りである。
陣頭指揮を執るべき知事がIT革命のインパクトのすさまじさをまるで理解していない。熱を込めてそれを説くブレーンや幹部もいない。同じくIT音痴の菅首相が「デジタル庁の創設」を唱え出したので、調子を合わせて「幸せデジタル化」などという標語を唱えているに過ぎない。
ITの世界の主役は遠くない将来に、現在の電子を利用するコンピューターから量子コンピューターに交代する。量子力学を応用するコンピューターはすでに一部、実用化されており、今のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分で解くという。
それは通信技術の革新と相まって、ITの世界を再び劇的に変えるだろう。普通の人がごく普通に量子コンピューターを使う時代がやがてやって来る。私たちは、次の時代を担う子どもたちにその準備をする機会を与えることができているだろうか。
◇ ◇
もちろん、ITがすべてを決めるわけではない。人工知能(AI)で何でもできるわけでもない。大地に種をまき、それを育てて収穫し、食べる、という生きる基本は変わりようがない。むしろ、より重要になっていくだろう。この分野でITやAIが果たす役割は限られている。愚直に土と向き合い、海に漕ぎ出すことを続けなければならない。
その意味では、農林水産業の担い手が減り続けていることこそ、私たちの社会が抱える最大の問題の一つかもしれない。政府も地方自治体も、第一次産業の担い手を確保するため、様々な施策を展開しているが、流れが変わる気配はない。何が問題なのか。
理容・美容店の経営からリンゴ農家に転じた浅野勇太さん(44)に話を聞いた。
2011年3月の東日本大震災まで、浅野さんは妻の実家がある福島県の浪江町を拠点に南相馬市や仙台市で五つの理美容店を経営していた。それが大震災と原発事故で一変した。
震災から3日目、浅野さん一家は浪江町の山間部に避難し、車中泊をしていた。日本テレビの人気番組「DASH村」の舞台になったところだ。東京電力の福島第一原発で何が起きているのか。カーラジオを除けば、ほかに情報を得るすべはなかった。
そこに山形県白鷹町で暮らす専門学校時代の友人から携帯に電話がかかってきた。原発が爆発したことを初めて知った。友人は「こっちに逃げてこい」と勧めてくれた。
両親を含め一家7人で車3台に分乗し、山形に向かったが、2台は福島市内でガソリンがなくなり、道端に捨てた。「同じように乗り捨てられた車がたくさんあった」という。
自ら会社を経営していただけあって、決断が早い。白鷹町の友人宅に避難して間もなく、近くの空き家を借りて住み始めた。
動きも早い。横浜で建設業をしている弟が津波の被災地でがれきの撤去作業を始め、その手伝いを頼まれると、4月から気仙沼や石巻で働き始めた。会社を経営している間に重機の特殊免許を取っていたのが役に立った。
仙台の宿から被災地に通い、がれきの撤去作業を黙々と続けた。しばしば、がれきの間から遺体が見つかった。ホーンを鳴らし、周りにいる自衛隊員に合図して収容してもらう。厳しい日々だった。
被災地から家族が暮らす白鷹町に戻る時、いつも朝日町を経由した。その度に最上川の河岸段丘に広がるリンゴ畑を目にした。心に染みる風景だった。もともと農業にも興味があった。震災の翌年、リンゴ栽培に取り組むことを決意した。
新規就農者を支援する制度は、それなりに整っている。まず2年間は研修生として受け入れ、農業のベテランが支える。研修を終えれば、5年間は政府から年150万円の給付がある。地方自治体による支援の上積みや農機具をそろえるための補助金制度もある。
浅野さんはそうした制度に支えられ、リンゴ農家としての道を歩み始めた。生活の拠点は避難してきた白鷹町のまま、隣の朝日町で借りた畑に夫婦で通って農業を営む。リンゴのほか、ラフランスやサクランボの栽培も手がけ、栽培面積も3ヘクタールまで広げた。
新規就農者として支えられているだけではない。リンゴを収穫しやすいように樹高を低くするための新しい栽培方法を考案し、その研修会の講師まで務める。師匠の阿部為吉(ためよし)さん(66)も「既存農家も大いに刺激を受けている。本当に力がある」と認める。
とはいえ、浅野さんは「ごくまれなケース」ではある。会社を経営した経験があり、事業のセンスが抜群なこと。原発事故で戻るべき故郷が失われ、就農への決意が固かったこと。事故の避難者として東京電力から受ける補償が下支えになったこと。そうしたことがリンゴ農家としての自立につながった。
実は、新規就農者の大半は農家出身で親の跡を継ぐ若者というのが現実だ。「親元(おやもと)就農」と呼ばれる彼らの定着率は高いが、「異業種からの新規就農者」の多くは夢破れて去っていく。
どんな仕事でも「5年の支援で自立する」というのは極めて難しい。農業も同じだ。栽培のノウハウを習得するのは容易なことではない。トラクターなどの農機具を確保するための初期投資にも数百万円は必要だ。政府の「新規就農者には5年間、資金を給付」という政策は中途半端なのだ。浅野さんのように特別な技能と固い決意がなければ、多くの者が挫折するのも当然と言っていい。
農林水産業の後継者の育成と確保は、今の日本では少子高齢化と並ぶ重要な課題である。だとするなら、もっと思い切った就農支援に踏み切ることを決断すべきではないか。
若い人に新しく農林業や水産業に取り組む決意を固めてもらうためには、5年の支援では短すぎる。結婚して子育てが一段落するまで、20年は公的に支える。それくらい大胆な政策に転じる必要がある。かなりの予算が必要になるが、バランスの取れた社会を取り戻そうとするなら、それだけの負担をする価値は十分にある。
決意をもって未来を語る。そのための政策を打ち出す。それこそ、政治家の仕事ではないか。
*メールマガジン「風切通信84」 2021年2月1日
*このコラムは、月刊『素晴らしい山形』の2021年2月号に寄稿した文章を若干手直ししたものです。
≪写真説明≫
◎牧野広大さんと妻曜さん、長男(筆者撮影)
◎浅野勇太さん(オネストのサイトから)
≪参考資料&サイト≫
◎都道府県別の1人当たり県民所得(内閣府経済社会総合研究所の平成29年度県民経済計算)
◎都道府県別の生産農業所得(農林水産省統計)
◎「若い女性流出、悩む地方」(2019年9月6日付 日経新聞夕刊)
◎住みたい都道府県ランキング2020(ブランド総合研究所)
◎「自然と暮らしに光彩を放つ、草木染金属工芸作家」(グローカルミッションタイムズ)
https://www.glocaltimes.jp/
◎『株式会社朝日相扶製作所 20周年記念誌 大樹』
◎『地域発イノベーションV 東北から世界への挑戦』(南北社)
◎農業技術のコンサルタント「オネスト」のサイト「『りんごに恋した』農家」
https://honest.yamagata.jp/archives/farmers/630
◎広報あさひまち2013年9月号の特集「わたし、就農しました」