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February 2022 の投稿一覧です。
大昔、東北の地で暮らす人々のことを大和政権側は「えみし」と呼んだ。なぜ、そう呼んでいたのかについては諸説あるが、定説はなく、不明である。

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「蔑称だった」と唱える研究者もいる。だが、違うだろう。7世紀、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我一族に蘇我蝦夷(えみし)がおり、当時はほかにも「えみし」の名を持つ貴族がいた。蔑称を名前にする貴族はいない、と考えるのが自然だからだ。

大和政権が編纂した正史に「えみし」という言葉が初めて登場するのは、『日本書紀』の神武天皇紀である。神武紀の中に大和の軍人たちが戦勝を祝って口にした次のような歌謡が収められている(注)。

  愛瀰詩烏(えみしを)毘攮利(ひたり)
  毛々那比苔(ももなひと)
  比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 
  多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

「えみしは一人で百人を相手にするほど強いと人は言うけれど、俺たちには抵抗もしない」という意味である。古代から、「えみし」の戦闘能力の高さは恐れられていたようだが、「俺たちはそれよりもっと強い」と歌いあげているのだ。

日本書紀は全文、漢文で書かれている。ただ、こうした歌謡については言葉をそのまま借字で収録している。その際、「えみし」を「愛瀰詩」と記したことから見ても、蔑称という見方は的外れであることが分かる。

ただ、時を経るにつれて、「えみし」は「毛人」あるいは「蝦夷」と表記されるようになる。大和政権との軋轢が増し、戦争が続く中で「侮蔑」の意味合いが込められるようになっていったと考えられる。

   ◇     ◇ 

大和政権は7世紀に入ると東北の支配領域を急速に広げ、蝦夷勢力と激しく衝突するようになった。城冊(じょうさく)を築き、守るため各地から多くの移民を送り込む。蝦夷側では抵抗することをあきらめ、帰順して大和政権の下で生きる道を選ぶ者も増えていった。

8世紀の後半になると、大和側の支配は宮城県北部に達した。その最前線に築かれたのが桃生(ものう)城(現在の石巻市)と伊治(これはり)城(栗原市)であり、支配をさらに北へ広げるための前進基地だった(図参照)。

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774年、摩擦は発火点に達し、38年戦争に突入していく。最初に蜂起したのは、宮城県北部から三陸地方に住む「海道(かいどう)蝦夷」だ。桃生城を攻撃して城郭の一部を焼き払った。帰順した蝦夷の一部も造反し、大和側は大混乱に陥る。

蝦夷を戦争へと駆り立てたものは何だったのか。自らの生活圏が侵食されていくことへの焦慮、大和政権の官人による収奪と腐敗、そして侮蔑だったのではないか。

近畿大学の鈴木拓也教授は著書『蝦夷と東北戦争』で、陸奥・出羽両国から天皇に献上されたものとして馬と鷹を挙げている。鷹狩りは当時の天皇家にとって重要な行事の一つである。軍馬の重要性は言うまでもない。

また、交易品として陸奥の砂金や毛皮、昆布を挙げる。熊やアシカ、アザラシの毛皮は都の貴族にことのほか喜ばれた。現地の官人は公式ルートで献上するほか、私的な取引にも精を出していたようだ。『続日本後紀』には、任期を終えて帰京する国司が大量の「私荷」を運んだことが記されているという。

辺境に赴任した官人による収奪や腐敗は、洋の東西を問わない。そして、彼らの住民への横暴と侮蔑もまた、繰り返されてきたことである。

大和政権に帰順し、現地の蝦夷を束ねてきた族長たちは屈折した思いを抱いていたに違いない。官人の横暴にさらされる配下の者たちからは突き上げられ、北方で抵抗し続ける蝦夷からは「裏切者」扱い・・。

そうした蝦夷の族長の一人、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年、ついに反旗をひるがえす。伊治城で陸奥の最高責任者、紀広純らを殺害し、さらに反乱軍を率いて多賀城を略奪、焼き討ちにしたのである。

大和政権にとって、多賀城は陸奥・出羽を支配するための最大の拠点である。武器や兵糧も大量に蓄えられていた。それらをすべて奪われ、城も焼け落ちてしまった。城下の民衆も四散した。

反乱の急報が都に届いたのは6日後である。光仁天皇はただちに征東大使や副使らを任命し、坂東諸国に数万の兵の動員を命じた。それまで、陸奥と出羽の治安は現地の兵力でまかなってきたが、それでは対応できなくなり、蝦夷政策の転換を余儀なくされた。

その翌年、光仁天皇は高齢と病気のため譲位し、桓武天皇が即位した。大和政権と蝦夷勢力が全面対決の状態になるのは、この桓武天皇の治世下である。

軍の動員もけた違いになる。789年の第一次征討で5万、794年の第二次征討では10万、801年の第三次征討でも4万の兵力を投入した。徴兵は坂東にとどまらず東海道の諸国にも及び、兵糧も各地から調達した。

征討の対象は、アテルイ(阿弖流為)が率いる胆沢(いさわ=岩手県南部)の蝦夷である。38年戦争の発端も呰麻呂の反乱もその背後にいたのは胆沢の蝦夷勢力、と大和側は見ていた。

第一次征討が蝦夷勢力の巧みな作戦で惨敗に終わったことはすでに紹介した。北上川を挟んでの戦いで朝廷側は1000人余の溺死者を出し、指揮官まで逃げ出す醜態をさらした。桓武天皇が激怒したのは言うまでもない。

苦い教訓を踏まえて、第二次征討は兵力を倍増し、陣立ても一新した。征東大使に大友弟麻呂、副使には百済王俊哲や坂上田村麻呂ら4人を充て、地方の豪族を指揮官として抜擢した。

ただ、第二次と第三次征討については、これを記録したはずの『日本後紀』が欠落(全40巻のうち10巻のみ現存)しており、詳しいことは分からない。

関連史料によって、第二次征討では朝廷側が勝利したものの胆沢は陥落しなかったこと、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた第三次征討についても、アテルイが500人の蝦夷を連れて投降し、胆沢が陥落したことが分かる程度だ(アテルイは都に連行され、802年に処刑)。38年戦争のもっとも重要な部分は、正史の欠落によって知り得ないのである。

  ◇     ◇

桓武天皇は大規模な軍事遠征で東北の蝦夷勢力を屈服させ、朝廷の支配領域を北へ大きく広げた。裏返せば、東北の蝦夷は再び立ち上がれないほどの打撃を受けた。

しかも、三次にわたる遠征によって多数の蝦夷が囚われの身になり、「俘囚(ふしゅう)」として関東や西日本の各地に移送された。移送は陸奥と出羽を除いた全国64カ国のうちの7割に及ぶ。その総数は万単位と見て、間違いない。

俘囚の一部は、九州の太宰府で防人として生きる道を与えられたりしたが、大多数は集落の外れの狭い土地に収容され、悲惨な境遇に落とされた。当然のことながら、周辺の大和側の住民との軋轢も絶えなかった。

移送先からの逃亡や騒乱も相次いだ。記録に残るだけでも、814年に出雲、848年に上総(かずさ)、875年に下総(しもうさ)と下野(しもつけ)、883年に上総で俘囚の反乱が起きている。下野の反乱では100人以上の俘囚が殺された。

彼らの多くは田を与えられなかった。従って、コメを収める租は課されなかったが、特産品や布を納める調庸の義務はあった。それも容易には納められなかった。

徴収がままならない事情について、798年の太政官符は次のように記している。
「俘囚たちは常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(荒々しい心)を改めようとしません。狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています」(『蝦夷と東北戦争』)

隷属状態に追いやっておきながら、「雲のように浮遊」と責める。俘囚たちの心が静まるわけはなかった。

桓武天皇は「征夷の天皇」であると同時に、「造都の天皇」でもあった。都を平城京から長岡京に移し、さらに平安京に移した。これほどの大事業を二つも遂行したエネルギーのもとは何か。「数奇な運命」が桓武天皇を突き動かしたのかもしれない。

先帝の光仁天皇は、聖武(しょうむ)天皇の娘を皇后に迎えた。皇后には他戸(おさべ)親王という皇太子がいた。ところが、この皇后が「光仁天皇を呪詛した罪」でその地位を追われ、皇太子も廃された。2人は幽閉先で同じ日に謎の死を遂げる(藤原一族による陰謀・暗殺説がある)。

それによって、光仁天皇と百済系渡来人一族の女性との間に生まれた山部親王が急遽、皇太子になり、後に桓武天皇として即位することになるのである。天皇の生母は皇族か貴族の出という慣例がある中では異例の即位だった。

2002年の日韓共催サッカーワールドカップを前に、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言し、話題になったが、それはこのことを指している。

二つの偉業を成し遂げることで「異例の即位」という陰口を吹き飛ばす。そんな思いがあったのかもしれない。

とはいえ、二つの大事業の負担は民衆に重くのしかかった。それは朝廷の屋台骨を揺るがしかねないほどだった。さすがの桓武天皇も第四次の征討はあきらめざるを得なかった。

811年の嵯峨天皇による征夷は、現地の陸奥・出羽の兵力だけで行われ、38年に及ぶ東北の戦火はようやく鎮まったのである。


(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表)


*注 日本書紀では「毘攮利」の部分の1文字目は「田へんに比」、2文字目は「手へん」ではなく「人べん」ですが、このブログでは転換できないため、それぞれこの文字で代用しました。「多牟伽毘」の4文字目も「田へんに比」です。

*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月25日
https://news-hunter.org/?p=11044

≪写真、図の説明&Source≫
(写真) 京都の清水寺にあるアテルイと盟友モレの碑。1994年、平安遷都1200年を記念して有志が建立した
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm
(図) 海道蝦夷と山道蝦夷の居住範囲(『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』から複写
                                            
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)』(高橋崇、中公新書)
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『日本書紀?』((坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)
◎『校本日本書紀 一 神代巻』(國學院大學日本文化研究所編、角川書店)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)







ロシア軍がウクライナとの国境を越え、新しい戦争を始めた。ロシア側はまずウクライナの戦闘指揮所やレーダー施設を破壊し、航空優勢を確保したうえで、戦車などの地上部隊を大規模に展開しようとしている。

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ロシアはこれまで、ウクライナ東部のロシア系住民が多い地域の武装勢力を支援してきた。今回の侵攻によって、ロシアはこの武装勢力が支配する地域を独立させて「友好的な地域」にしたうえで、ウクライナのほかの地域を「緩衝地帯」にすることを狙っているようだ。

アメリカのバイデン大統領は「この攻撃がもたらす死と破壊はロシアだけに責任がある」と非難した。岸田文雄首相はこれに同調し、「国際社会と連携して迅速に対処していく」と述べた。武力で自分の言い分を押し通そうとするロシアの行動は非難されて当然である。だが、バイデン大統領が言うように、この戦争の責任は「ロシアだけにある」のだろうか。

今回のロシア・ウクライナ戦争を考えるうえでのキーワードは「NATOの東方拡大」である。NATO(北大西洋条約機構)は、第2次世界大戦後にアメリカとイギリスがソ連と対峙するため西欧諸国を糾合して結成した「共産圏包囲軍事同盟」である。ソ連はワルシャワ条約機構を結成して、これに対抗した。

1989年に米ソの冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊したのだから、本来ならNATOは「新しい軍事同盟」に改編されるべきだった。だが、アメリカはその後もその基本的な構造を維持したまま、共産圏にあった東欧諸国を一つ、また一つとNATOに組み込んでいった。

ソ連崩壊後、ロシアは政治的にも経済的にも混乱状態に陥り、NATOの東方拡大に対処する余裕がなかった。NATOの東縁はじわじわとロシアに迫り、ついにロシアと直接、国境を接するウクライナに到達しようとしている。

経済を立て直し、国力を回復したロシアのプーチン大統領が「NATOのウクライナへの拡大」に強い危機感を抱いたのは、理解できないことではない。2008年のNATO加盟国との首脳会談で、プーチン大統領は「ウクライナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナと戦争をする用意がある」と発言している。

旧共産圏の東欧諸国や旧ソ連の構成国であるウクライナがNATOに加盟するということは、単に軍事同盟の組み合わせが変わる、ということだけにとどまらない。戦闘機や戦車といった武器体系がロシア製から米英製に切り替わることを意味する。そのビジネス上の損得は極めて大きい。

それ以上に深刻なのは、旧共産圏諸国が持っていた暗号解読を含む軍事機密情報が米英の手に渡ることだ。軍事情報が戦争で果たす役割は、IT革命の進展に伴ってますます大きくなってきている。かつての同盟国の寝返りは死活に直結する、と言っていい。

モンゴル帝国の来襲からナポレオンのモスクワ遠征、ナチスドイツの侵攻と、ロシア・ソ連は幾度も、陸続きの大国から攻め込まれ、そのたびに甚大な被害をこうむってきた。海に囲まれ、この1000年余で外敵に攻め込まれたのは元寇とマッカーサー率いる米軍だけ、という日本とは危機意識がまるで異なる、ということに思いを致すべきだろう。

岸田首相は「国際社会との連携」と「在留邦人の安全確保」をオウムのように繰り返している。官僚が作った文章を棒読みしているだけだ。今の国際情勢をどう捉えているのか。世界はどこへ向かおうとしているのか。自らの歴史認識や政治哲学がうかがえるような発言は皆無である。

一方のメディアはどうか。25日付朝日新聞のコラム「天声人語」は「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いた。歯切れはいいが、説得力はまるでない。追い詰められて牙をむいたロシアにも言い分はある。一方で、アメリカが振りかざす正義にはしばしば大きなごまかしがある。そうしたことを丁寧に、冷徹に報じるのがメディアの役割ではないか。

アメリカが唯一の超大国と呼ばれたポスト冷戦の第一段階は終わり、世界は第二段階に入りつつある。ロシア・ウクライナ戦争の帰趨は、それがどのような世界になるかを示すことになるだろう。


長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)


*メールマガジン「風切通信 104」 2022年2月25日

【追記 2022年2月26日】 私の自宅(山形県朝日町)に配られた25日付朝日新聞朝刊(13版S)の「天声人語」には「ロシアの暴挙には一片の正当性もない」と書いてありましたが、同日付の次の版(14版S)では「ロシアの暴挙には、正当性のかけらもない」と手直しされていました。
 


≪写真説明&Source≫
◎ロシア軍の侵攻が迫る中、演習をするウクライナ軍の戦車。2月18日にUkrainian Joint Forces Operation Press Serviceが提供(2022年 ロイター)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/02/post-98115.php



気象庁が首都圏に「大雪注意報」を出したのを受けて、10日昼のNHKのトップニュースは「東京23区など大雪のおそれ」だった。リポーターが東京都調布市の街頭に立って、みぞれがちらつく様子を伝え、雪への警戒を呼び掛けていた。

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これだけでは「さすがにつらい」と報道する側も思ったのか、次の映像は箱根の芦ノ湖畔の雪景色だった。記者が地面に手を差し込んで「こんなに積もっています」とのたもうた。確かに5センチほど積もっている。「すごい雪でしょ」と言いたげだった。

なんて報道だ、と思う。東京に数センチの雪が降り積もれば、かなり大変なことだとは分かる。が、それを気象庁が「大雪」と表現し、報道機関が「大雪」と報じるのは、日本語の使い方としておかしいのではないか。「積雪注意報」「東京で積雪」で十分ではないか。

雪国で暮らす人たちがこういう報道をどういう思いで見ているか、まるで考えていない。東京の報道機関が「東京ローカル」のニュースを、さも重大なニュースであるかのように報じるのに辟易(へきえき)しているのは、私だけだろうか。

私が暮らす山形県で9日夜、屋根に降り積もった雪で家がつぶれ、1人暮らしの男性(64歳)が亡くなる事故があった。県内でも豪雪地帯として知られる新庄市の住宅街での出来事である。NHKはこれを「ローカルニュース」として報じた。

雪下ろし中に屋根から転落して死亡したり、除雪機に挟まれて亡くなったりする事故は、雪国ではしばしば起きる。従って、そうしたニュースを地方ニュースとして扱うのは分かる。だが、積雪で家が潰れ、それで住民が亡くなる事故など、雪国でも滅多にあるものではない。それを「ありふれたニュース」のように扱うのはおかしい。

現場の映像を見ると、屋根に降り積もった雪は1.5メートルほどある。冬の初めに降った雪は圧縮され、一部は氷になっている。そこに次の雪が降り積もり、さらに新雪が加わる。屋根に加わる重量は相当なもので、古い住宅の場合には文字通り潰れてしまう。

倒壊を防ぐため、屋根の雪下ろしは欠かせない。私は山形と新潟の県境に近い村で暮らしている。積雪は今回の事故が起きた新庄市と同じくらいだ。ただ、山村なら空き地が十分にあるので気軽に屋根の雪下ろしができるが、市街地だとそれもままならない。屋根から下ろした雪の始末に困るからだ。

新庄市の住民に聞くと、雪下ろしの手間賃は1人当たり1日2万円前後(危険手当込み)。さらに、下ろした雪を運んだり、除雪したりする費用も必要なので、雪下ろしを数人に頼めば、1回で10万円は覚悟しなければならない。

それで雪下ろしをためらっているうちに、雪の重みで家が潰れてしまったようだ。痛ましい事故であり、雪国で暮らすことの切なさを象徴するような出来事だ。それをなぜ、全国的なニュースとして報じないのか。

調布の街頭に降るみぞれを伝える時間があるなら、せめて数秒でもいいから、1.5メートルの雪で潰れてしまった家の映像を伝えられなかったのか。「大雪」という日本語の使い方と併せて、何がニュースなのかについても、報道する人たちにはもっと神経をとがらせてほしい。


長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)


初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年2月11日
https://news-hunter.org/?p=10949


≪写真・映像の説明&Source≫
◎豪雪地帯の雪下ろし風景
https://sumairu-doctor.com/360/

◎山形県新庄市で起きた「積雪で家屋倒壊、住民死亡」を報じるNHK山形のニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220210/amp/k10013477011000.html





大金を盗んだ泥棒が犯行発覚の後、「悪かった。金は返す」と言えば許されるのか。他人の金をだまし取った詐欺師がばれた後、「反省している。全額返す」と言えば許されるのか。

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そんなことは法律の専門家に聞くまでもない。どちらのケースも許されるはずがない。「謝って済むなら警察は要らない」のであり、そんなことは「お天道様が許さない」からである。

だが、山形県議会の坂本貴美雄議長も吉村美栄子知事も、ものの道理など気にならないようだ。野川政文・元県議による政務活動費の不正受給について、坂本議長は「告発しない」と何度も言明し、吉村知事も記者会見で「すでに議員を辞職し、社会的制裁を受けている。全額返還する意思も示している。こういったことを総合的に判断して告訴しない」と述べた。

あきれる。2人とも、ごく普通の県民がこの事件にどのくらい怒っているか、まるで理解していない。理解しようともしていない。普通の人が毎月8万円の収入を得ようとすれば、どのくらい働かなければならないか、考えたこともないのだろう。

野川元県議は何をしたのか。あらためて確認したい。県議には月額77万8000円の議員報酬のほかに1人当たり月に28万円の政務活動費が支給される。これは報酬(給与)ではなく、県政に関する調査研究や事務所の維持、事務職員の給与などに充てるための費用である。余ったら県に返すことになっている。

政治に金がかかることは誰もが理解している。従って、政務活動費の趣旨に沿ってきちんと支出し、残余を返却している分には誰も文句は言わない。

だが、野川氏は事務職員を雇ったように装い、勤務の実態がないのに毎月8万円の領収書に署名捺印させ、政務活動費として計上していた。つまり、毎月8万円の人件費をごまかし、懐に入れていたのである。この事務職員には毎月1万円を払っていたというが、勤務実態がないのだから、これも含めてだまし取っていたことに変わりはない。

虚偽の領収書を使っての詐欺行為は、2008年度から2020年度まで13年間に及んだ。総額1248万円に達する。刑法第246条2項の詐欺罪(人をだまして不法の利益を得る)に当たることは明白だ。

許しがたいのは、こうした詐欺行為を13年にわたって続けていたことだけではない。この間、2014年には兵庫県議会で「号泣県議」こと野々村竜太郎県議の架空出張問題が明るみに出て、そのでたらめさ加減に世間があきれる事件があった。野川氏はその前後も詐欺行為を続けていた。

さらに、山形県でも2016年9月に阿部賢一県議による政務活動費の不正受給が発覚した(発覚後、阿部氏は議員を辞職)。野川氏はこの時、県議会の議長をしており、白々しくも「県議会としてけじめが必要だ」「刑事告発を検討する」と述べた(刑事告発は民進、社民系の県政クラブが反対したため見送られた)。

加えて、野川氏はこの時、全国都道府県議会議長会の会長の座にあり、議員の範たるべき立場にあった。にもかかわらず、平気で詐欺行為を続けていたのである。何と破廉恥な政治家であることか。

彼はこの詐欺行為を恥じて「自白」したわけでもない。信頼できる筋によれば、山形県警は去年の9月ごろには野川氏のこうした不正行為を把握し、政務活動費の収支報告書や人件費の領収書などを任意で提出させていたという。県警がなぜ、このような明白な詐欺事件を立件しなかったのかは不明である。何らかの力が働いて「立件見送り」の判断をしたようだ。

事件は警察の捜査ではなく、報道によって明るみに出た。NHK山形放送局が11月4日朝のニュースで特ダネとして報じ、新聞と民放各社が追いかけて広く知られるに至った。各社入り乱れての報道合戦が繰り広げられ、人件費以外の不正行為も明らかになった。野川氏は自宅の一部を事務所として使っており、自宅の光熱費の2分の1を政務活動費として計上していた。

だが、県議会が自ら定めた「政務活動費の手引」(2017年2月改訂版)によれば、事務所は県政に関する調査や研究だけでなく、選挙や後援会活動でも使うのが常であり、こうしたケースでは原則として自宅の光熱費の4分の1を政務活動費として計上するルールになっている。つまり、事務所費や事務費でも長期にわたって経費の4分の1を不正に得ていたのである。

こちらは「詐欺」と言えるかどうか微妙だが、不正であることに変わりはない。議長まで経験した議員が「知らなかった」あるいは「勘違いした」と言い訳して済む問題ではない。

悪事が露見してからの野川氏の行動は素早かった。第一報の2日後には坂本議長に議員辞職願を出し、11月15日には山形市内のレンタル会議場で記者会見を開いた。その釈明は最初から最後まで支離滅裂だった。

架空の事務職員には毎月1万円を渡し、残りの7万円は「政治資金として提供してもらった」と述べた。だが、政治資金報告書には何の記載もない。だまし取った金を「私的に流用したことはない」と言い張ったが、何に使ったかの領収書などは何もない。こんな説明では、まるで説得力がない。

「説得力がない」という点では、県議会の坂本貴美雄議長の言い分も吉村美栄子知事の主張も同じだ。

坂本議長は報道陣に対して、何度も「議会としての告発は法制度上、できない」と述べた。ウソである。議会が構成メンバーである議員を告発することは法的に可能だからだ。現に、先に述べた野々村・元兵庫県議の不正事件では、兵庫県議会が各会派代表の連名で虚偽公文書作成・同行使罪で県警に告発している。野々村氏は起訴され、2016年7月に神戸地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けた。

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坂本議長はなぜ、このようなウソを繰り返したのか。県議会事務局が入れ知恵したのだろうと推測して問いただしたら、その通りだった。県議会事務局が「議会としての告発はできない」という主張の根拠にしたのは、株式会社「地方議会総合研究所」の代表取締役、廣瀬和彦氏が書いた『100条調査ハンドブック』(ぎょうせい)という本にある次の一節だ。

「議会は地方公共団体の一機関であり、法人格を有しないため、一般に告発する権利を有しない」

この本は地方自治法の第100条に基づく議会による不祥事などの調査についての解説本で、いわゆる「百条調査委員会」が作られた場合のみ、議会は告発することができ、「それ以外では告発する権利がない」と解説している。

つまり、県議会事務局は株式社会の社長の見解をうのみにし、それを坂本議長に伝え、議長もそれを頼りに発言しているに過ぎない。

刑事訴訟法は第239条で「何人(なんぴと)でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる」と規定しており、その「何人」には法人格のない団体も含まれると考える解釈の方が有力なのだ。

だからこそ、法人格のない市民オンブズマン山形県会議でも野川氏を告発することができるのであり、必要なら私が主宰する地域おこしの小さなNPO「ブナの森」として告発することも可能なのだ。

「議会が法制度上、告発できるかどうか」は刑事訴訟法の解釈の問題であり、『100条調査ハンドブック』は「できない」という一つの解釈を示しているに過ぎない。坂本議長にも県議会事務局にも「もっとしっかり調べてから発言すべきだ」と言いたい。

百歩譲って、『ハンドブック』の解釈が正しいとしても、先に書いたように議会には「各会派の代表者の連名で告発する」という方法もある。議長が議会各派の了承を得て議長個人として告発する道もある。「法制度上、できない」という表現は誤りであり、報道陣を惑わすものだ。要するに「告発したくないんです」と言っているに過ぎない。

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吉村知事の対応もお粗末きわまりない。政務活動費の問題は「一義的には議会の問題」と主張して逃げ切ろうとしている。「議会の問題」であることは間違いないが、その議会がきちんと対応しないなら、公金をだまし取られたのだから納税者の代表として知事が告訴するのは当然のことではないか。

それを「すでに社会的制裁を受けている」とか「過去に遡って全額返還する意思も示している」などと言って逃げようとするのはおかしい。1月12日の記者会見では、報道陣の追及にたまりかねたのか「さらに一歩進めて、息の根を止めるようなところまでやるのかというようなことも、ちょっと私としてはそこまでは・・」と口走った。

驚くべき発言である。法律に基づいて知事として為すべきことを「息の根を止める行為」と表現するとは。情報公開の不開示訴訟で知事を相手に争った際にも感じたことだが、この人は「法の支配の重要さ」あるいは「政治倫理の向上」といった問題についてまるで無頓着だ。知事としての適性を疑いたくなる発言である。

ともあれ、知事も県議会議長も当然為すべきことをしないのであれば、市民オンブズマン山形県会議としては「市民としての義務」を粛々と果たすしかない。みんなボランティアとして無報酬で働いており、もっと建設的なことをしたいのは山々だが、そうも言っていられない。やむなく、1月14日に山形地方検察庁に告発状を提出した。告発状は、市民オンブズマン県会議という団体として提出し、さらにメンバー4人も個人として名を連ねた。

告発するには「動かぬ証拠」が必要である。野川氏が作成して県議会議長に提出した政務活動費の収支報告関係文書のうち、保存期間が過ぎたものはすでに廃棄されていて無い。従って、関係文書が残っている2015年度以降の人件費の不正に絞って告発した。

詐欺罪の公訴時効は7年であり、それ以前の罪を問うことはできない。また、事務所費や事務費についても不正があることは明白だが、どのような罪に当たるかは難しいところだ。ゆえに、告発状ではそうしたことについては検察側に判断をゆだねた。

あとは、山形地検が県警と連携しながら適切な捜査を積み重ね、きちんと起訴するのを待つしかない。万が一、このような悪質、破廉恥な詐欺行為について、検察が「不起訴」あるいは「起訴猶予」などという不真面目な決定をしたならば、オンブズマンとして今度は検察を相手に法的な手段に訴えて闘わざるを得なくなる。

検察庁は「我々は、その重責を深く自覚し、常に公正誠実に、熱意を持って職務に取り組まなければならない」との理念を掲げている。そういう人たちがよもや、自分たちの理念に反するようなことはすまい、と信じたい。


長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)



*初出:月刊『素晴らしい山形』2022年2月号


≪写真説明&Source≫
◎2017年1月の全国都道府県議会議長会の総会で挨拶する野川政文氏(同議長会のサイトから)
http://www.gichokai.gr.jp/topics/2016/170120-2/index.html

◎2021年11月、報道陣の質問に答える坂本貴美雄議長(NHKのサイトから)
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/71511.html

◎山形の名産品ラ・フランスを手に首相官邸で安倍晋三氏と写真に納まる吉村美栄子知事(2016年11月28日)。この写真は山形県政記者クラブの加盟各社に配布された